百均の聖書は途中から白紙 くんじろう
『茲三題噺集会(ここにさんだいばなしのよりぞめ)』 一恵斎芳幾
「三題噺」とは提出された三つの題を、即座にまとめて“オチ”をつける
話芸のこと。張り出された紙に、参加者それぞれに与えられた三つの題
が書かれている。この絵を描いた一恵斎芳幾(いっけいさい・よしいく)
も「粋狂連」という三題噺の会のメンバーだった。
捕まえた陽射しと午後のお茶にする 吉川幸子
「坊野寿山」 鹿連会
「鹿連会」は、噺家が参加する川柳会の嚆矢である。
「あなた達は、俳句をひねったりするのに、どうして川柳をやらないの
ですか」昭和の初め、4,5年頃。当時まだ30を越すか越さないかの
若さだったが、花柳界を題材にした「花柳吟」の第一人者として知られ
ていた川柳家・坊野寿山が、親交のある4代目・柳家小さん、5代目・
三遊亭圓生の2人へ、盛んに川柳の句作を勧めた。小さんは俳句につい
て造詣が深く、句作にも自信があった。
「俳句が詠めるんだから、川柳だって」とすぐにその気になった。
「寿山先生が教えてくれるというなら、他の仲間にも声を掛けましょう」
と、圓生も乗り気になった。
朗報は春の小川になりました 美馬りゅうこ
4代目・小さん 五代目・圓生
小さん・圓生2人の師匠の肝煎りで、そうそうたる顔ぶれが集まった。
8代目・桂文楽、7代目・三笑亭可楽、柳家甚五郎(5代目・志ん生)、
5代目・蝶花楼馬楽(8代目林家正蔵から彦六)、6代目・橘家圓蔵
(後の6代目三遊亭圓生)、蝶花楼馬の助(後の8代目金原亭馬生)
、橘家圓晃(圓生の異父弟)、初代・林家正楽、桂文都(後の9代目・
土橋亭里う馬)、8代目柳家小三治(後に落語協会事務長)、春風亭
柳楽(後の8代目・可楽)これに小さん、圓生、坊野寿山が加わって
15人の発足メンバーとなった。
これだけの顔が揃ったからには、それなりの名前が必要だ。小さんと
寿山が頭をひねり、考え出したのが「鹿連会」である。いつもは叱ら
れることのない大師匠連も、この川柳会では素人だから(選者)に
「叱られる」という洒落であった。
とろとろ歩けばチコちゃんに叱られる 靏田寿子
それにしても弱冠30歳の寿山が、大半が自分より年上の、一癖も二癖
もある噺家連中を向こうに回して、川柳指導をする。「よくもまあ、こ
んな会を仕切ったものだ」と感心するばかりだが、後に「句を直すとす
ぐに文句を言われるし、大変だった」と回想しているものの、実際のと
ころ、寿山師匠の「力量」はなかなかのものだったようだ。
子どもの頃からの寄席通い、落語に詳しいだけでなく、十代の頃から噺
家を何人も従えて、料亭や吉原へ繰り出しという、いわゆる「旦那」で
あったし、大河ドラマ「いだてん」でお馴染みの甚五郎時代の5代目・
古今亭志ん生ら、貧乏な噺家たちの面倒をみた。いわゆるスポンサーの
言うことを聞かぬ噺家などいない、というのが本質だったかもしれない。
切り口がシャープ有無を言わせない 柳田かおる
メンバーの1人である文楽は、後に寿山が小唄の発表会に出演したとき、
子連れで応援に行った。客席で声をかけているうちはよかったが、その
うち大声で「先生が唄うんだから、とにかく拍手するんですよっ!」と
わが子に指示を出したので、周囲は大笑い。高座の寿山に冷や汗をかか
せたという。とにもかくにも、寿山という若き川柳家は、噺家蓮にとっ
てしくじってはならぬ大事な「若旦那」だった。
とりあえずうなずいておく偉い人 山口ろっぱ
かくして昭和5年、根岸の寿山邸で第一回「鹿連会」が第一歩を踏み出
した。その会で最高点をとったのは、のちに8代目・馬生となった「ゲ
ロ万」こと馬の助である。この日は、馬之助の母親が付いてきていて、
上野黒門町の「うさぎやの最中」を差し入れに持参し「万ちゃんは頭が
悪いから面倒をみてやってください」と頼みこんだ。母親の応対にでた
小さんが「それじゃ幼稚園だよ」と言った泣いて笑える逸話が残る。
そのときの馬之助の最高点を作品が、
手伝いは鴨南蛮の味を知り
この最高点の句を師匠連に大いにほめられ、味をしめた馬之助の次の句
が問題であった。
大掃除鴨南蛮の味を知り
と、来た。
生涯をかけて悟ったこと一つ 瀬川瑞紀
何が問題化というと、以後、しばらく、鹿連会でどんな題を出されても、
馬之助の句には、必ず「鴨南蛮」が入った。
また馬之助は数の勘定が苦手だった。大抵は両手の指を総動員して勘定
をする。ところが、川柳は五七五の17音。両手の指10本では足らな
いではないか、馬之助はやむなく、句作をするときは、寿山の算盤を借
りることにした。新しい題のたびに、パチパチパチとにぎやかに算盤を
はじく馬之助に、たまりかねた柳楽(後の可楽)が顔をしかめて言った。
「万ちゃん、君の川柳はうるさいねえー」
言い訳は無用尻尾は巻いている 上田 仁
「ゲロ万」の呼び名の謂れがある。
馬之助は無類の酒好きだが、飲むとすぐに吐くので、本名の小西万之助
の万と吐くゲロにちなんで「ゲロ万」という珍名をいただいた。ただ、
ゲロ万の吐き方は、名人芸だった。いつもけっして、周りが汚れること
がないように吐くのである。ある時、小さんが、東京駅で下車した途端
に気持ちが悪くなり、その場で吐いてホームを汚してしまった。一緒に
いた先代の鈴々亭馬風があそれを見ていった。
「師匠も噺はうまいけど、ゲロを吐くのは馬之助にかなわない」
名人小さんに比べられ、ゲロ万はぼんのくぼに手をおいて恐縮していた。
あっさりがいいね小言も称賛も 新家完司
かくも華々しい?スタートを切った鹿連会だが、結局、回数にして5,
6回、つごう2年ほどしか続かなかった。長続きしなかった理由とおぼ
しきことを寿山が自著に書いている。
「句を直すと怒るし、ご機嫌を損じると来なくなるしで、こちらが叱ら
れている会みたいなところがあった」と。
法螺ばかり吹いて達磨を怒らせる 笠嶋恵美子
当会で詠まれた句の一部を紹介。
押入れの枕が落ちる探しもの 小さん
姐芸者こんな香水けなしてる 圓生
また聞きは本当らしい嘘になり 可楽
拳を打つ男同士へ花が散り 文楽
鼻歌で寝酒も寂し酔い心地 甚五郎
縁起物お召しのドテラ使われる 馬之助
新所帯雑誌を読んで眠くなる 柳楽
言い訳の顔は煙草の煙の中 正楽
三階で見ればダンスは足ばかり 文都
誘惑の眼すんなりと美麗な手 小三治
疲れたら大阪弁で弾くピアノ 中村幸彦
[3回]
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