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川柳的逍遥 人の世の一家言
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なんとなく非常階段になっている  河村啓子



御開港横浜之全図 (五雲亭貞秀画)
安政6年6月2日に開港した、浜全域を描いた3枚続きの錦絵。


「渋沢栄一」 横浜焼き討ち計画


安政5年(1858)12月。18歳の栄一は、学問の師匠、尾高惇忠
の妹と結婚した。栄一より一歳下の千代である。尾高家と栄一の関係は、
さらに強固になった。
半年後の安政6年6月、横浜港が正式に開港し、貿易が始まる。以後、
武士たちの間で「尊王討幕運動」が急速に激化した。
開港にともなう輸出の激増で、国内物資が品薄になり物価が高騰、下級
武士の生活を直撃し、その恨みが外国人と開港を許した幕府へ向かった
のだ。


カタカナ語お湯で戻してから喋る  森田律子



海保漁村自画像
上総出身の儒学者。江戸で太田錦城に学び天保元年(1830)に塾を開いた。


栄一は、藍玉の商略や作物の改良に、強いやりがいを感じながらも「木
っ端役人にも軽蔑される農民や商人はつまらぬ」という気持ちも抱いて
いた。つまらなさの源が、幕府が作った世にあるとするなら、栄一も、
また「憂世の情」を抱く当時の若者の一人であった。そんな栄一に江戸
から友人連れで憂世の情を運んできては、さかんに談論を繰り広げる人
物があった。尊王攘夷派の惇忠の弟で、妻・千代の兄、栄一より2歳年
上の尾高長七郎である。体格と撃剣の才に恵まれた長七郎は、以前より
江戸に出て、儒学者・海保漁村の塾と伊庭秀業の道場に在籍。討幕派の
長州や水戸、宇都宮藩の志士とも親交があった。


はにかんだホタルは出番模索する  山口ろっぱ



千葉周作
千葉周作は栄一が通った千葉道場・玄武館の創始者。栄一が通ったころ
は周作の三男・道三郎が道場主だった。
 
 
長七郎から刺激を受けた栄一は、江戸への思いを募らせる。強く反対す
る父を「ならば農閑期の2カ月だけ」と説得し、出郷を果したのは開港
から2年後の文久元年(1861)3月。桜田門外の変の翌年のことだ。
江戸での栄一は、海保の塾に籍を置き、北辰一刀流の千葉道場に通った。
 自伝『雨夜譚』では「書物を十分に読もう、また剣術を上達しようと
いう目的でない。ただ天下の有志に交際して、才能・芸術のあるものを
己れの味方に引き入れようという考えで…中略…抜群の人を撰んで、つ
いに己れの友達にして、ソウシテ何か事ある時にその用にあてるために、
今日から用意して置く」ためだと語っている。


あと一枚めくればきっと喜望峰  宮井元信
 
 
5月に帰郷した栄一は、家業に戻る。が、以前のようには身が入らなか
った。父は気を揉んだが、どうしようもない。文久3年(1863)8月、長
女が誕生。この月、栄一は妻子を郷里に置いたまま、ふたたび江戸に向
かう。2年前に世話になった海保の塾に身を寄せ、千葉道場に再入門し、
今回は郷里と行ったり来たりしながらの、4ヵ月ばかりの在府だった。
 
 
雲はいつもかならず話しかけてくる  田中博造
 
 
その間に栄一は、従兄の惇忠や、同じく従兄の渋沢喜作と密談し、大規
模テロを企てる。幕府には攘夷を行う気も力もないようなので、自分た
ちで幕府が倒れるくらいの大騒動を起こそう。まずは血洗島から遠から
ぬ高崎城を襲い、武器を奪って軍容を整え、高崎からは鎌倉街道を経て
横浜へ入り、市街に火を放ち、外国人を片っ端から斬り殺す。
そんな荒唐無稽な「横浜焼き討ち計画」を書を読み、剣も学び、算盤や
農作の経験もある青年たちは、大真面目に決行しようとした。
 
 
大ぼらを吹いて地球を裏返す  靏田寿子



高崎城古写真



遠からず、腐敗する幕府は滅亡する。農民であっても一個の国民であり、
日本が滅亡するのを座して見ているわけにはいかない。攘夷を断行する
には先ず軍備を整えねばならない。そのためには手近で調達するほかあ
るまい。白羽の矢が立ったのが血洗島からほど近い高崎城であった。
高崎城は烏川に沿って築城された平城、周囲は土塁で囲まれているだけ
だった。攻め落とすのは、さほど難しいとも思えなかった。
 
 
一波乱起きそうな絵手紙のドリアン  笠嶋恵美子
 
 
刀は惇忠が六十腰、栄一が四十腰、あちらこちらで買っては、そこここ
の蔵に隠した。防具や提灯の類いも揃えた。同志は海保の塾や千葉道場、
郷里の一族郎党などから70人ばかり集め、資金は藍玉商売から横領し
た。その額は百五、六十両。今なら6、70万円くらい、呆れた行動力
である。決行は冬至の11月23日と決めた。もとより、命があるとは
思っていない。9月、栄一は郷里の父に「国事に身を委ねたい」と告げ、
言外に勘当を求めた。実家に累が及ぶことを怖れたのである。
 
 
逃げるなら空一枚とすべり台  郷田みや
 
 
10月、かねてより京に行っていた惇忠の弟・長七郎が、栄一の手紙を
読み大慌てで戻ってきた。暴挙を止めるためだ。惇忠の家では、夜を徹
して激論が交わされた。
「烏合の兵などすぐ討滅されるぞ」と、長七郎が言えば、「それを見た
天下の同志が立てば本望」と栄一が返し「なに、百姓一揆と見做されて
仕舞だ」と長七郎が抑える。栄一は、長七郎を刺してでも阻止すると言
って退かない。ならばと栄一が、少し退いてよくよく考えてみたところ、
なるほど長七郎の言い分が道理だと気がついた。少し退けるところが栄
一の栄一たるところである。集めた同志には手当を渡し中止を告げた。
 
 
踏み切りは開かずマスクが捨ててある  桑原伸吉
 
 

欧州視察旅行帰りのスーツが似合っている渋沢喜作35歳。
喜作は25歳のとき、栄一とともに京に出、戊辰戦争では彰義隊の隊長
となり、後に振武軍を組織するも敗北。五稜郭でも敗北。新政府に捕縛
されるが特赦されて大蔵省に入る。海外視察は外国の生糸事情を調べる
ため、イタリア、スイス、フランスを巡歴した。
 
 
だが、この後、話が捕吏の耳に入らぬとも限らない。栄一喜作と共に、
しばらく身を隠すことにした。11月8日、2人は、故郷を後にする。
栄一23歳。目指すは京であった。


季は巡りあの日の正義裏返る  渡辺信也

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