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川柳的逍遥 人の世の一家言
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一冊の落書き帳であるこの世  新家完司





   明智軍記


「麒麟がくる」 信長に接近する光秀







『明智軍記』によれば、明智光秀は弘治3年(1557)29歳の時に
諸国遍歴の旅に立ち、永禄5年に帰還したとある。どこからどこへ越前
・朝倉義景のもとを出発し、そこに戻るという形になっている。だが、
5年間の遍歴にもかかわらず、どういう経路で、どこを遍歴したかは、
何一つ記されていない。義景は、朝廷を大事にする当代随一の武将だ。
義景が資金を出して、光秀に「諸国の事情を視察」するよう命じた可
能性もある。


千切れ雲はてなマークをもったまま みつ木もも花


明智軍記には、「弘治3年から永禄5年」とあるから、その間の主要な
出来事を書き出すと。
永禄3年 毛利元就 長門を平定。
元禄元年 木下藤吉郎(秀吉)信長に仕える。
永禄2年 織田信長 入京し将軍義輝に謁す。
     上杉謙信 入京し将軍義輝に謁す。
     宣教師ヴィレイラ京都で布教。
永禄3年 今川義元を倒す。(桶狭間の戦)
永禄4年 信長、斉藤義光を美濃に攻める。
永禄5年 徳川家康、信長と同盟を結ぶ。
永禄6年 ルイスフロイス、日本での活動が始る。


ひょっこりと障子の穴から旅に出る  通利一辺


このような時代に光秀が諸国遍歴をしたとしたら、いかなるコースを辿
るだろうか。越前を発ってまずは山城国・京都へ。都の現状と荒廃ぶり
を確認したあと摂津国・大坂へ商都の現状を視察。そこから海路安芸国
へ向かい厳島神社を参拝したのち、毛利元就の治世を観察し、日本海側
に出て出雲大社を参拝したのち海路越後へ行き、上杉謙信の治世を視察。
そこから陸路南下し、信州の善光寺を詣でたのち、甲斐国に入って武田
信玄の治世を視察する。と想像をめぐらしてみた。


わけあってスマホは持たず巡礼に  雨森茂樹




永禄8年三好三人衆の花押
下野入道(三好宗渭)、主税助(岩成友通)、日向守(三好長逸)
よる花押の連署。


永禄8年(1565)乱世はいよいよ極まる。
三好義継、松永久秀らが、将軍・義輝を暗殺したのである。その瞬間に
将軍不在、足利幕府が消滅したのも同然になった。ときの帝正親町天皇
が、ひとり乱世にさらされたのである。後醍醐天皇の遺言を借りれば、
「いまこそ、賢才忠臣が謀りごとをめぐらし」…「天下を平定」しなけ
ればならない時である。諸国遍歴の道中において、湯屋の主に求められ
「太平記』について語った光秀、その胸中に去来する思いを一言でいえ
、「賢才忠臣いずこにありや」ということだろう。
明智光秀という武将が歴史に登場するのは、このときからである。光秀
38歳であった。そして、彼が最初に期待を抱いたのは織田信長だった。
信長32歳である。


口よりも確かなことを目が語る  ふじのひろし


「光秀、歴史の1ページに」
細川藤孝のところでも少し触れたが、明智光秀の存在が確認できるのは、
室町幕府13代将軍・足利義輝と弟・15代将軍義昭に仕えていた武士
たちの名を記した『光源院殿御代当参衆並足軽以下衆覚』と、題された
史料で、義昭の「足軽衆」に見える「明智」が、光秀を指すと考えられ
ている。この史料は義輝が死去した後の、永禄10年頃の状況を記した
ものとされ、細川藤孝は「お供衆」という数段上の身分であった。光秀
がいつ頃から、義昭に仕えるようになったのかは不明だが、近年に発見
された史料によれば、永禄8年頃の光秀は、近江国高島田中城(滋賀県
高島町)に籠城していたらしい。(針薬方)


思い当たる節に包帯を巻いておく  谷口 義


この時、義昭は兄の義輝三好三人衆らに殺害され、若狭の武田義統
(よしむね)の元に逃れていたが、のちに朝倉義景を頼って越前へ移
っている。おそらく光秀は、流浪中の義昭に接近して気に入られ、足
軽衆として抜擢されたのだろう。その前後に義昭は藤孝を取次として
尾張の織田信長との間で、京都復帰に向けた交渉を進めていく。義昭
の直参となった光秀も、この頃から藤孝の下で、信長との交渉を担う
ようになった。そして永禄11年7月、義昭は信長を頼って美濃へ移
り、藤孝・光秀もそれに従った。同年8月に信長が藤孝に宛てた書状
には、「詳細は明智に申し含めました。義昭様にによろしくお伝えく
ださい」とあり、光秀が使者として信長の元を訪れ、義昭への伝言を
頼まれていたことがわかる。この時、信長との接触が、のちに光秀が
躍進するきっかけとなった。


カリスマの自負がどうにも止まらない  徳山泰子




  
  ルイスフロイス       日本史

「ルイスフロイスが語るー光秀と信長の人となり」
光秀について信長の宮廷に惟任日向守殿(これとうひゅうがのかみ)
別名十兵衛明智殿と称する人物がいた。彼はもとより高貴の出ではなく、
信長の治世の初期には、公方様の邸の一貴人兵部大輔と称する奉仕して
いたのであるが、その才略、思慮、狡猾さにより、信長の寵愛を受ける
こととなり、主君とその恩恵を利することをわきまえていた。殿内にあ
って彼はよそ者であり、ほとんどの者から快く思われていなかったが、
寵愛を保持し、増大するための不思議な器用さを身に備えていた。


袖すり合っただけなのに舌の先  赤松蛍子


信長についてー
美濃の国、またその政庁で見たすべてのものの中で、もっとも私を驚嘆
せしめましたのは、この国主(信長)が、いかに異常な仕方、また驚く
べき用意をもって、家臣に奉仕され畏敬されているかという点でありま
した。すなわち、彼が手でちょっと合図をするだけでも、彼らはきわめ
て凶暴な獅子の前から逃れるように、重なり合うようにして、ただちに
消え去りました。そして彼が内から一人を呼んだだけでも、外で百名が
きわめて抑揚のある声で、返事しました。彼の一報告を伝達する者は、
それが徒歩によるものであれ、馬であれ、飛ぶか火花が散るかのように
行かねばならぬと言って差し支えがありません。


鶴の一声猫も杓子も動き出す  前中一晃


【余禄】 太平記について
永禄8年5月、将軍足利義輝三好義継、松永久秀らによって暗殺され
たという報に接したとき、明智光秀は加賀国山城にいた。そこで光秀は、
湯屋の主人の求めに応じて『太平記』を語ってきかせたという。
たった一人の湯屋の主人に『太平記」を聞かせたというのは、明智軍記
の作文ぽいが、大事なことは光秀が『太平記』のことを思い浮かべたと
いうことである。戦国未明から慶長・元和まで、戦乱を生き抜いた武将
たちにとって『太平記』は治世と兵法の指南書でもあった。
(その後、軍楽的な評論が発達し、それを修正した『太平記評判秘伝理
尽抄』を台本とする講釈が、諸藩で盛行している)


悟りを開く半眼の目玉焼き  蟹口和枝


(『明智軍記』に「永禄8年5月中旬、光秀は小瘦を煩い加賀国山城へ
湯治に赴き。途中、三国湊を遊覧し吉崎より船にて山代に到着。10日
ばかりで平癒する」とある)
同19日 そこで越前の飛脚から義輝殺害に報を受ける。この夜、湯屋の
主人の所望により『太平記』を物語し、翌日越前一乗谷へ出立する。
『太平記』はあの「建武の中興」を実現した後醍醐天皇の波乱に満ちた
生涯を中心にした歴史物語。将軍暗殺の報に接して、光秀自身が『太平
記』のことを語りたくなったのではないか。


袋とじに籠る野暮の顛末  山口ろっぱ

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