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川柳的逍遥 人の世の一家言
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四隅から四角四角となじられる  酒井かがり

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           三献の茶

「三献の茶」は、江戸時代に入ってからの記録で、

三成という人物を語る上での、創作(つかみ)なのだろう。

いわゆる、14歳にして三成がいかに、聡明で、

「計算の出来る人物」であったか。

それを如実に語っているエピソードなのだ。


すみません藁がお邪魔をしています  松山和代

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「石田三成」

武断派(尾張衆)と文治派(近江衆)。

戦国時代の諸将には、二つのタイプがある。

豊臣秀吉の家臣団の場合、

前者の代表は加藤清正、福島正則

後者の代表といえば石田三成になる。

合理性を重んじ、管理能力に優れ、ときには冷徹非情な官僚。

三成には、そんなイメージがつきまとう。 

蟲一匹殺さぬような顔をして  武曽晴美

 

秀吉が、長浜城の城主となったころから小姓として仕え、

秀吉の台頭とともに、側近として、三成も頭角を現していった。

秀吉軍が強かったのは、

彼が背後で兵站(へいたん)を担ったからといわれ、

世に名高い「太閤検地」も、三成が実質的な推進者であった。 

風除けに辞書がいっぱい積んである  足立玲子

 

秀吉の死後、側室・淀殿、その子・秀頼をかつぎ、

徳川家康に対抗したが、

関が原の戦いに敗れ、

大坂や堺を罪人として、引き回されたあげく、

家康の命により、

京都の六条河原で斬首された。

しあわせをつかみ損ねた木綿糸  森中惠美子

捕らえられたときに、

「なぜ自害しなかったのか」

と問われ、 

「何としても生き延び、家康を討ち滅ぼし、

  秀吉の大恩にむくいるため」

 

と答えたという。

最後まで、秀吉の忠義に生きたのが、

三成という人物だった。 

枯葉舞う古武士の骨の音をして  岩根彰子

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「三成がなぜ嫌われたか?」

秀吉死後、五大老が、相談をした上で、

まず決めたのが「朝鮮からの撤兵」であった。

この差配を見事にやってのけたのは、三成であった。

三成のいつもながらの綿密な計画なくては、

多くの武将たちも、

無事に帰ることが帰ることが出来なかっただろう。

いわば、三成は命の恩人のはずなのだ。 

喋らなければメッキだなんてわからない  八田灯子

 

しかし朝鮮から、

命からがら逃げ帰ってきた武断派の大名たちは、

それまで、軍監として厳しい勤務評定をし、

また、いささか尊大な態度で諸将を迎えた三成に、 

良い感情を持たなかった。

また彼らには、自分たち武断派の活躍があってこそ、

「秀吉は天下をとれた」のだという自負があった。

三成は、戦場での功名という点では二流・三流である。

それなのに三成は、

重用されすぎてきたという屈折した思いが、

 

武断派にはあったのだ。 

おおかたは水分愛も憎しみも  嶋澤喜八郎

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博多の港で、加藤清正を迎えたとき、三成は、 

「ご上洛なされましたら、茶会でも開き、

  おのおのがたをご招待しようと思っております」

 

と言ったところ、 

「われらは長年朝鮮に在陣して苦労し、

  兵糧一粒とて無く、
内地でぬくぬくしておったそこもととは違い、

  茶など持たぬゆえに、
冷え粥ででももてなそうか」

 

といい放った。

人格を計る目盛が酒にある  長野峰明

三成は,朝鮮遠征について、

現地の武将の中でハト派の、小西行長宗義智と近く、

タカ派の清正らとは、意見の違いがあった。 

≪いわば、現代に置き換えてみると、

 三成は会社の総務部長のような立場の人で、

 外交側の立場の人は、営業でひたすら歩き汗水流して、

 仕事をこなしているのに拘らず、

 総務側の立場から、業務のチェックやら、交際費の使いすぎや、

 業務計画をうるさく、こまかく、言われてはたまったものじゃないのだ。

 どうしても、嫌われる仕事をしているのが、総務部長・石田三成なのだ≫

 

おたふくを数える役がぼくの役  井上一筒            

戦いが終わったら、

総務部長は、戦場で臆病だったり、軍規に反した者を処罰し、

功があった者には報いねばならない。

良い報告をしてもらった者は、当然と受け止め、

悪く言われた者は、深い恨みとなる。

しかも、「朝鮮の役」では、

新たに獲得した領土はなかったので、

軍監に悪く報告された者の領土を削って、

功があった者に、配分することになる。 

≪このときの軍監は三成に近い、福原長尭(ながたか)らであった≫

 

内ばかり守り外から攻められる  百々寿子

つまるところ、秀吉が自分の死後にも引き続き、

政権の屋台骨を担がせようとした三成に、

こんな「汚れ役」を兼ねさせたのが、間違いだった。

また、家康が目指した国家像と、

三成が考えていた国の将来像にも、

かなりの違いがあったことも、

確認しておかねばならない。 

相槌をうつたび敵を作ってる  立蔵信子

 

家康は、この「豊臣家臣同士の対立」を利用して、

一気に権力を握ろうと画策し、

武断派大名を懐柔しはじめた。

こうして文治派、武断派の抗争は、

三成VS家康の構図へと変化していく。

 
(歴史が繰り返す、滅びの道の身内同士の対立。見たまえ民主党)

音を聞く音に引っ張られる体  山口ろっぱ

 

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大河ドラマ・お江-第33回‐「徳川の嫁」  あらすじ

慶長4年(1599)を迎えると、ようやく秀吉の死が公にされた。

また、淀(宮沢りえ)秀頼(武田勝斗)が、

「大坂城に移った」という話も伝わってくる。

かなりお腹が目立ってきた江(上野樹里)だが、

相変わらず気がかりなのは、

「上方で何が起きているのか」 ということ。

本多正信(草刈正雄)と話す秀忠(向井理)が、 

「また三成が動いている」

 

と漏らしたのを耳にして、思わず、 

「それはどういうこと?」
 
と割って入る。
 

やすやすと屈服しない貝柱  清水すみれ
 
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口を挟む彼女を少しうるさく感じた秀忠が、 

「なぜ、いちいち首をつっこむのだ」

 

と聞くと、江は迷うことなく答えた。       

「私は、世の中で何が起こっているのかを、
 
  正しく知りたいのです」

どんなにつらい現実も、

まっすぐに見つめてきた彼女の信念だった。

その思いを受け、秀忠は、

三成(萩原聖人)は、父・家康(北大路欣也)が、 

  いずれ豊臣から天下を奪うつもりだと考え、

  対決姿勢を強めているのだ」

 

と、江に上方の状況を解説する。 

妻と私の流れがごめんやすになった  奥山晴生

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それを聞いた江は驚き、不安を募らせた。

義父は、本当に天下を奪おうなどと考えているのか。

もしそうなれば、淀や完はどうなるのか・・・。

だが、しばらくして耳に入ってきた話は、

彼女をさらに混乱させる。

家康が、同僚たちに恨まれて命を狙われた三成を、

窮地から救ったというのだ。 

倒れないようにわたしも揺れている  河村啓子

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その上方の方では、

大老筆頭として豊臣政権の運営にあたる家康が、

ほかの大名家との婚姻を、積極的に進めていた。

それは

「天下取りを見据えた行動」
とも取れる掟破りの行為だ。

かねて、家康を警戒していた三成は、

当然、その行為に激怒。

証拠の書状を突きつけて、家康を弾劾するが、

大老の前田利家(大出俊)になだめられ、

また、家康があっさり頭を下げたことで、

その場は引き下がるしかなかった。

影法師ふらつく足にふらつくよ  時実新子

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怒りの収まらない三成は、

秀吉の懐刀と言われた官兵衛(柴俊夫)に、 

「力を合わせて家康を失脚させよう」
 
と持ちかける。

だが、官兵衛はその話には乗らず、

逆に、三成が人の心の動きに疎いことを、

やんわりたしなめるのだ。 

一コマを掴みそこねて倦む座敷  富山やよい

 

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