川柳的逍遥 人の世の一家言
清盛自筆・「平家の納経」 「ライバル平家盛」
延暦寺の強訴が解決し、清盛の生活も、 意外なところから、清盛の地位を脅かす存在が現れる。 異母弟の家盛の朝廷における活動が、 活発化し始めたのである。 どの種も大きく育つ夢を持つ 早泉早人 清盛には、家盛、経盛、教盛、頼盛、忠度という、 5人の弟がいる。 清盛の母は、清盛が生まれてまもなく亡くなっており、 弟たちすべて異母弟である。 家盛・頼盛の母は、忠盛の正室・藤原宗子で、
六波羅の池殿に住み、 年齢的にも、そしておそらく器量ののうえでも、 清盛が忠盛の後継者であることは、 衆目の一致するところであったと思われるが、 この時代、長男が家督を継ぐとは限らない。 母の出自、正室か側室かという 夫人としての立場が重要であり、
その意味で家盛は、 杏仁豆腐にも盲点があった 井上一筒
祇園社乱闘事件から5ヶ月後の、
"介"は国司の次官であるが、 親王が名目的に国守の地位にあるため、 介は、実質的な長官(守)である。 その直後には、賀茂臨時祭で舞人を務め、 翌年・正月に従四位下右馬頭に任じられた。 シュレッダーの刃に横顔がひっかかる くんじろう
"右馬頭"は、御所の馬や、 軍事的にも重要な部署で、 武士にとっては名誉な役職であった。 さらに、久安5年2月の鳥羽法皇の熊野詣では、 病でありながら、父・忠盛、実弟・頼盛とともに、 法皇の御幸に従っているところにも、 家盛の存在感の大きさがうかがわれる。 その行幸に清盛の姿はなかった。 祇園社乱闘事件で、政治的な挫折を味わった直後だけに、 清盛にとって家盛の台頭は、 心穏やかにはおれなかっただろう。 しかし、長途の旅が病身にこたえたものか、 この参詣の途中、家盛の病状は、急速に悪化し、 同年3月、京に間近い宇治川の辺りで帰らぬ人となる。 平家伝説杜は音なく雪となる 奥山晴生 訃報を聞いて、かけつけた乳父・平維綱は、 悲しみのあまりその場で出家した。 忠盛もその翌月、自らが造営した延勝寺の供養を、 家盛の死を理由に欠席し、一周忌には、 家盛愛用の剣を奈良の正倉院に寄進している。 将来を嘱望されていた家盛の立場と、 周囲の人々の、悲しみの深さが知られる。 家盛の急死によって、清盛の家督としての立場は、 不動のものになった。 それは、この直後から清盛の活動が、 活発になったことにもうかがえる。
家盛急死の2ヵ月後、 忠盛が新しい大塔の造営を命じられると、 2ヵ月後、清盛が父の代官として、高野山にのぼった。 同年11月に行なわれた法皇の天王寺詣にも、 左大臣・藤原頼長ら公卿とともに随行している。 闇市で拾った首が私です 谷垣郁郎
仁平元年(1151)2月、 大国の受領に任じられたのもさることながら、 清盛の安芸守就任は、その後の平家にとって 重要な意味を持つこととなった。 後年、清盛が安芸の厳島神社を熱烈に信仰したことは、 よく知られているが、 平家と厳島との関係は、この頃に始まっているのである。 忠盛が命じられた高野山大塔の造営事業は、 忠盛の死後(仁平3年)は、清盛に引き継がれ、 保元元年(1156)に竣工した。 厳島との関係が生まれたのは、この間のことである。 鎌倉初期に生まれた説話集・『古事談』によると、 清盛が高野山の大塔を造営していたとき、 自ら材木を運んでいると、 弘法大師の化身である僧が現れて、 厳島に奉仕するよう勧めたという。 四つ目のまだら模様が透き通る 合田瑠美子 厳島神社に奉納した「平家の納経」の「願文」にも、 「夢感誤り無く、早く子弟の栄華を験す」 (夢のお告げどおり一門に栄華がもたらされた) と述べられていることから、 何らかの神がかり的な宗教体験が、 あったのは確かなようだ。 保元・平治の乱を契機に清盛は、 出世街道を突き進んでいくが、
破格の昇進をとげるたびに、 ≪こののち厳島は、六波羅や西八条の平家の邸宅にも祀られ、 平家の氏神として、一門からあつい尊崇をあつめている≫ ファの音が出ない弟のラッパ 本多洋子 PR |
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