筆順はどうあれ薔薇は愛である 森田律子
八幡太郎義家(月岡芳年)
義家は、「清和源氏」に発する「河内源氏」の嫡流として、
7歳の時、岩清水八幡宮で元服、
よって八幡太郎と号す。
「前九年の役」・「後三年の役」で、
卓抜した武勇をあらわした公の代に、
源氏の武威の最盛期を迎えた。
"鷲の棲む深山には、概ての鳥は棲むものか、
同じき源氏と申せども、八幡太郎は恐ろしや"
後白河法皇・『梁塵秘抄』
有名になりたいですか はい少し 笠原道子
【源氏系図】
50.桓武天皇 ┬ 万多親王──桓武平氏
├ 葛原親王──桓武平氏
51.平城天皇
52.嵯峨天皇┬54.仁明天皇 ┬ 55.文徳天皇 ────┐
53.淳和天皇 ├本康親王─仁明平氏
├嵯峨源氏
├仁明源氏
┌────────────────┘
└┬56.清和天皇─┬ 57.陽成天皇
─陽成源氏
├貞純親王─清和源氏
百匹の蟻を数えたことがない 前中知栄
源為朝
「源氏のルーツ」
源氏は、光仁5年(814)、
嵯峨天皇が,諸皇子を臣籍に降下させ、
「源」の姓を賜ったことに始まる。
以後、仁明・文徳・清和・陽成・光孝・宇多・醍醐・村上・
花山・三条ら、各天皇も皇子たちに「源の姓」を与えたので、
多くの源氏が生まれることになった。
≪平安時代、天皇家の血筋を絶やさないように、
皇子が多く設けた事が、朝廷の財政を圧迫したため、
皇位を継ぐ可能性が無くなった皇子を、
皇籍を離れさせ、臣籍に下すということが行われた。
この際に「源朝臣」や「平朝臣」の氏姓を賜った≫
生まれ変わるつもりなのか綿埃り 酒井かがり
これらを区別するために、
それぞれ天皇名を冠して呼称しているが、
源氏諸流のうち、貴族社会でもっとも興隆したのは、
平安前期の「嵯峨源氏」と、
平安後期の「村上源氏」といえる。
これに対して、
「清和源氏」は、貴族社会での栄達よりも、
「武士」として、発展する道を選んだ。
つぎの世へ転がしてゆく青林檎 大西泰世
源為義
「清和源氏」
源頼朝や木曾義仲な血筋である「清和源氏」は、
清和天皇の孫で、
「平将門の乱」や「藤原純友の乱」で活躍した
経基王(つねもとおう)「源経基」に始まる。
その子・満仲や孫の頼光は摂津を、
頼信は河内を拠点として、
それぞれ「摂津源氏」・「河内源氏」の祖となった。
転居届け壁と呼ばれた男から くんじろう
源氏と東国とのかかわりは、頼信の時代に始まる。
11世紀初頭に関東で起きた「平忠常の乱」を、
短期間で鎮圧して武名をあげ、
源氏の関東進出の土壌をつくった。
その子・頼義は、「前九年の役」を平定、
頼義の子・義家は,「後三年の役」を主導したが、
この過程で東国の武士団の多くが、
頼義・義家と、主従関係を結んだといわれる。
≪ 頼朝が伊豆で旗揚げし、瞬く間に関東を席巻する素地は、
この時代に育まれた≫
骨拾う箸がことさら手に馴染む 桑原伸吉
河内源氏を中心に「清和源氏」が繁栄する一方で、
「伊勢平氏」は、維衡の子や孫の代になると、
勢いがなくなり、上流貴族に仕える、
侍や、中央官庁の三等官程度の地位に低迷していた。
≪この時代の侍は、高級貴族に仕える「六位クラス」の官人をいう≫
五位以上の位階をもつ人が、「貴族」だから、
一般庶民よりも、少し身分が高い程度だ。
平氏にとっては、まさに雌状の時代といえる。
酸欠の青大将であった頃 井上一筒
源氏と平氏の地位を逆転させたのが、
清盛の祖父・正盛であった。
源義家の嫡子・義親が出雲で反乱を起こすと、
隣国因幡守として、義親の追討をみごとに果たし、
一躍武門のトップに踊り出たのである。
一方、源氏の惣領は義親の子・為義が継いだが、
粗暴なふるまいが多かったため、
受領にすらなれず、義朝が棟梁になったときには、
すでに平氏との差は、
抜きがたいものになっていた。
理想って追わねば目減りするらしい 南出トシ
『余談-①』
平氏には、桓武平氏・仁明平氏・光孝平氏・文徳平氏の
4流があり、桓武平氏の他、仁明平氏から、
公卿を輩出している。
また、桓武天皇以外の三者からは、
「源」も賜与されている。
平姓は、平安遷都を行った桓武天皇以降、
四代にのみに見られるので、「平」という字は、
平安京に由来しているともいわれている。
終着駅四角い顔の人ばかり 原 洋志
源義朝
『余談ー②』
源義朝は、東国の鎌倉を基盤に勢力を固めてきたが、
嫡子の義平に後事を託して、京都に戻ってきている。
保元の乱では、父・為義や弟たちが崇徳院について、
処刑されてしまったために、
義朝が「河内源氏」の嫡流の位置を占めた。
ひょうたんから馬が飛び出す量子論 藤本秋声
[5回]
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