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川柳的逍遥 人の世の一家言
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アオリイカという大前提を越え  井上一筒

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     延暦寺

≪比叡山には、延暦寺という名の建物はなく、

   比叡山そのものが、「延暦寺」を表わしている≫

「賀茂川の水 双六の賽 山法師 是ぞわが心にかなわぬもの」

白河法皇は嘆いた。

山法師とは、「比叡山の衆徒」を指し、

事あるごとに日吉山王の神輿を担ぎ出し、

その権威を借りて院に「強訴」に及び、

乱暴狼藉を働く者どもであった。 

S字に触れて無色の溜息がにじむ  きゅういち

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  山法師強訴図屏風

そして、後白河院清盛の政治対立をまで生む、

『強訴』とは、どのようなものだったのだろうか。

強訴とは、各寺院の権益を守るために、

武装した僧侶たちが、朝廷・院におしかける行動である。

彼らは武装してはいるものの、合戦をするわけではなく、

延暦寺は、「日枝神社の神輿、興福寺は春日社の神木」

といった宗教的権威を前面に押し立てて、

院や朝廷に、圧力を加えるという行動であった。 

雪虫は信号無視の素振りする  岩根彰子

 

その要求の大半は、寺領の荘園にかかわるもので、

" 受領に没収された荘園の返還 "、

あるいは、荘民を死傷させられたとして、

" 受領の処罰を求める " というもので、

不法な荘園に関する理不尽な要求も、少なくなかった。

このため、当初、朝廷は厳しい対応を示した。 

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強訴が政治問題となった嘉保2年(1095)、

源義綱義家の弟)が、

延暦寺の不法な荘園を、朝廷の命で没収した際、

流れ矢が原因で、僧侶に死者が出た。

このため、延暦寺の悪僧たちは、

日枝神社の神輿を先頭に、義綱の配流を

要求する強訴をおこなった。 

蒼天割れて十戒ごっこ教えあう  兵頭全郎

 

これに激怒した時の関白・藤原師道は、

武士を動員して強訴を撃退したが、

その師道は、何と4年後に急死してしまう。

この急死が、" 神輿の祟り " と喧伝されたことから、

強訴はいっそう激化し、逆に朝廷は、

すっかり弱腰になってしまった。 

ぐにゃぐにゃのジャングルジムがぽっと点く 井上しのぶ

 

その後は、防御に動員された武士も、

原則として、手出しすることを禁じられ、

延暦寺なら賀茂川、興福寺なら宇治川に、

防御線を設けて、侵入を防ぐことになる。

合戦ではないとないえ、

防御には、多くの武士が必要であったことから、

北面をはじめとして、

武士が増大する一因ともなった。 

まだ虹を喪うまえの物語  中野六助

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    強訴図屏風

清盛が生まれた同じ年、

元永元年(1118)5月の「延暦寺強訴」に対し、

白河院は北面以下、千人もの武士を派遣している。

伊勢平氏と強訴は、いろいろと因縁がある。

正盛・忠盛は、たびたび、強訴の防御に動員されているが、

その忠盛と清盛も「祇園社の闘乱事件」が原因となって、

延暦寺から配流を要求され、

あわや強訴という危機に直面している。 

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後白河院政期には、

延暦寺が、
院近臣の配流を要求する強訴を惹起し、

大きな政治問題となった。

清盛や平氏一門の多くは、

防御に消極的で、
後白河との対立を招くことになる。

そして、安元3年の強訴をめぐる院と清盛との対立が、

ついに、院や院近臣たちによる「平氏打倒」の謀議を生み、

「鹿ケ谷事件」を引き起こすことになるのである。

結末は口をそろえてそら豆の  酒井かがり

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