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川柳的逍遥 人の世の一家言
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コーヒーがないと一日始まらぬ  石橋直子

詠史川柳を読んで驚かされることは、中国の古典から古事記、日本書紀
飛鳥、奈良、平安、鎌倉、江戸時代に至るまで、歴史の出来事(時事)
に於ける川柳子の知識の広さである。そこに元禄時代に始まる文字文化
の普及があることをを、見逃すことはできない。


   寺 子 屋

「詠史川柳」 日本人の識字率

江戸は政治の中心ではあったが、文化の伝統がなかったので、元禄時代
までの江戸の文化は、上方中心のそれには及ばなかった。
宝暦(1751~)の頃を境にして、上方中心の文芸はその勢力を江戸
に譲ることになる。いわゆる文運東漸であるが、この時期には、黄表紙、
洒落本、狂歌、川柳等々、遊戯的、享楽的気分の濃厚な軽文芸が新たに
登場してきて、江戸文芸は、にわかに活況を呈する。
元禄文化の開花である。徳川家康が幕府を江戸に置いて80年。
「読むこと、書くこと、考えること」こうした庶民の教育熱の高まりに
より、文字文化は広く社会に普及・定着していく。

ぱらぱらと愛をまぶしえ丸め込む  森乃 鈴

三河国の豪農が執筆した農書『百姓伝記』には「分限相応に手習をいた
させ、そろばんを習わせて」と、農民の分限に応じて、読み書きと筆算
を習得させることが記されている。農家や町の子らに、文字を習わせる
というのは、士族を除き、『聖賢の書』を読むためではなく、農村や町
方のこどもが、奉公したときに帳付けができるように願ってのことであ
った。無学なら舟に乗っても船頭にはなれず、商家につとめても手代番
頭にはなれず、大工に弟子入りしても棟梁になれない。教育は当面、庶
民が生きていくために必要な知識を身につけることだった。

タンポポの綿毛好きです始発駅 ふじのひろし

また、同じく元禄時代に大坂で活躍した井原西鶴『浮世草子』には、
村々で手習の需要があったこと、農民や庄屋などの教育水準が高かった
こと、さらに、「昔は皆うとく、訴訟や示談を行い言説巧みに自分の利
益を得る人はいなかったが、最近は愚かな人がいなくなり字を書けない
人もなく、何事も他人の知恵を借りず、自分で処理できるようになった」
との記述がある。

山や谷越えた図太さ今がある  堀冨美子

民間の教育機関である私塾は、寛政期以降、急速に数を増やし、確認さ
れるだけで、1500以上あったといわれる。
私塾では、優秀な人材を育てるための高等な教育機関で、全国から多く
の学生が集まったという。
文政年間の『筆道師家人名録』をひもとくと、寛政改革以降増加し続け
ていた手習塾(寺子屋)が、文政3年末には496にも達したとある。
この手習宿の規模は、子弟数人から数百人までさまざまであるけれど、
一つの平均収容子弟を30名とすると、実に1万5千人の学童がいた計
算になる。当時の日本の諸事情を調査していたアメリカ人のラナルド・
マターナルドの日記には次のようなことが記してある。
「日本のすべての人ー最上層から最下層まであらゆる階
級の男、女、子供―は、紙と筆ペンと墨インク(矢立)
を携帯しているか、肌身離さず持っている」と。

決心はダイヤモンドの堅さほど  髙田美代子

ついでに江戸後期、日本を訪れた外国人が見た日本の教育事情について
記した言葉を紹介する。
黒船を率いて米国からやって来たマシュー・ペリー提督の旅日記には、
「読み書きが普及していて、見聞を得る事に熱心である。また日本の田
舎にまでも本屋があり、日本人の本好きと、識字率の高さに驚いた」
さらに
「下田でも函館でも、印刷所をみかけなかったが、書物は店頭で見受け
られた。それらの書物は一般に初歩的性質の安価なものか通俗的
の物語
本又は小説本で、明かに大いに需要されるものであった」
と記し、
「下級階層の人びとさえも書く習慣があり、手紙による意思伝達は、わ
が国におけるよりも広く行われている
『日本絶賛語録』

耕した心に春の花咲かす 穐山常男

万延元年(1860)に日本との間に通商条約を結ぶ為に来日したプロ
イセン海軍のエルベ号艦長・ラインホルト・ヴェルナーの、航海記には、
「子供の就学年齢は、おそく7歳あるいは8歳だが、彼らはそれだけ益々
迅速に学習する。民衆の学校教育は、支那よりも普及している。
支那では民衆の中で殆んどの場合、男子だけが就学しているのと違い、
日本では確かに学校といっても支那同様私立校しかないものの、女子も
学んでいる」と記し、
エルベ号艦長幕末記には、
「日本では、召使い女が、互いに親しい友達に手紙を書くために余暇を
利用し、ボロをまとった肉体労働者でも、読み書きができる事で我々を
驚かす。民衆教育について我々が観察したところによれば、読み書きが
全然できない文盲は、全体の1%に過ぎない。
世界の他のどこの国が、自国についてこのような事を主張できようか」
と記す。

信念を曲げぬ万年筆の艷  辻内次根

文久元年(1861)に函館のロシア領事館付主任司祭として来日した
ロシア正教会の宣教師・ニコライは、8年間日本に滞在。その帰国後に、
ロシアの雑誌『ロシア報知』に次のような日本の印象を紹介している。
「国民の全階層にほとんど同程度にむらなく教育がゆきわたっている。
この国では孔子が、学問知識のアルファかオメガであるという事になっ
ている。だが、その孔子は、学問のある日本人は一字一句まで暗記して
いるものなのであり、最も身分の低い庶民でさえ、かなりよく知ってい
るのである。ー中略ー どんな辺鄙な寒村へ行っても、頼朝、義経、楠
正成、等々の歴史上の人物を知らなかったり、江戸や都、その他の主だ
った土地が、自分の村の北の方角にあるのか西の方角にあるのか知らな
いような、それほどの無知な者に出会う事はない。ー略―
『ニコライの見た幕末日本』

太鼓打つごとに一コマ進む夢  井上一筒

まだまだある。
「日本の国民教育については、全体として一国民を他国民と比較すれば、
日本人は天下を通じて最も教育の進んだ国民である。日本には読み書き
出来ない人間や、祖国の法律を知らない人間は一人もいない」
ロシア海軍の軍人で函館に幽閉されたゴロウニン

「子供たちが男女を問わず、またすべての階層を通じて必ず初等学校に
送られ、そこで読み書きを学び、また、自国の歴史に関するいくらかの
知識を与えられる」
英国外交官・エルギンの秘書・R・オリファント

考える形で影が離れない  早泉早人

彼らがこのように驚くのも無理はない。嘉永年間(1850~)の江戸
の就学率は70~86%で、裏長屋に住む子供でも手習いへ行かない子供は、
男女とも殆んどいなかったという。また日本橋、赤坂、本郷などの地域
では、男子よりも女子の修学者数の方が多かったという記録もある。
結果、当時の識字率は、武士階級は、ほぼ100%、町人ら庶民層も男子で
49~54%、女子では19~21%と推定され、江戸の中心部に限定すれば約
90%が読み書きができたという。『「奇跡」の日本史』

 これに対し1837年当時の英国の大工業都市での就学率は、僅か20~25
%だった。19世紀中頃の英国最盛期のヴィクトリア時代でさえ、ロンドン
の下層階級の識字率は10%程度だったという。
 フランスでは1794年に初等教育の授業料が無料となったが、10~16歳
の就学率は、わずか1.4%に過ぎなかった。
『大江戸ボランティア事情』

斜め三十度口笛吹く男  嶋澤喜八郎

 

「詠史川柳」



≪浦島太郎≫

浦島太郎は伝説上の人物。『日本書紀』を始め『御伽草子』や昔話など、
さまざまな伝承がある。一般によく知られているのは、助けた亀に連れ
られて竜宮城へ行き、乙姫さまの大歓待を受けて、故郷へ帰ってくると
340年も経ってしまっている。「開けるな」と言われた玉手箱を開け
ると、白い煙が出て白髪の爺さんになるという話である。

浦島の帰朝女房はどなた様

女房が生きているはずもないのだが、生きていたとしたら
「どなた?」と言うだろうと、川柳子は思うのである。

浦島は歯茎を噛んでくやしがり

伝説では、浦島は白髪になったとしか書かれていないが、
歯も抜けて、歯茎を噛んだのではないかと。

亀曰く浦島はなあ若死にだ

千年生きる亀にとって、300年とは、若死にだったねー。
 実はこの亀、竜宮城に着くと化して美女となる。
浦島太郎は此の女とともに蓬莱に暮らし、340余年を経て淳和帝の御宇
天長に日本に帰るという話になっている。こうした伝説を川柳子はしっか
りと自分の知識とし、川柳にしているのである。

青い空どんな夢でも描けそうだ 河村啓子

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