忍者ブログ
川柳的逍遥 人の世の一家言
[858] [857] [856] [855] [854] [853] [852] [851] [850] [849] [848]

海老蔵の名黒々とある招き  吉川幸子

 ã€Œï¼˜ä»£ç›®ãƒ»å¸‚川団十郎」の画像検索結果八代目団十郎

「詠史川柳」 団十郎7・8代

”親玉の山も神武の7代目”
七代目はよく親玉と呼ばれ、それを富士山に譬えた句である。
富士山は神武から数えて第7代の孝霊天皇の御代に噴火した。
その故事になぞらえ、おらが親玉も日本一だと自慢している。
江戸の市民たちが、七代目をどんなに愛し、渇仰していたか、
庶民の声
ともいうべき詠み人知れない沢山の川柳に、何より
もよく表れている。
この親玉が天保3年(1832)3月、42歳の時、引退を表明
して
八代目を長男に譲り、自らは海老蔵となった。
長男が、自分が団十郎を継いだと同じ十歳になったし、当時は
一般に
40前後が老境とされ、引退の潮時だったからだろう。

無理ですよ昨日はやって来ないから  太下和子

ところで詠み人知らぬ秀句にこそ、大衆のこころの反映があるとも
いえるので、ついでに団十郎を詠んだ句をいくつか拾ってみると。

だいだいのゆずりは江戸の飾海老
江戸の花冬も盛りの福牡丹
筋隈の唐まどとどく江戸の花
海老蔵を誰だとはたたたわけ者

上の句を見てもわかるように、化政時代から天保時代にかけて、
海老蔵こと七代目団十郎にとって、我が世の春であった。
だが河原崎座で『勧進帳』創演の二年後の天保13年(1842)
天保の改革の奢侈禁令に背き、身分をわきまえぬ振る舞いのかどで、
江戸を追放される。
この裁断を下した奉行が背中の桜吹雪で有名な遠山の金さんこと、
遠山左衛門尉景元であった。
それから七年間の地方巡りの末、徳川家斉七回忌法要特赦で、
江戸来参がかなったときは59歳の老境に入っていた。
その4年後、頼みに思う長男八代目の自殺を見る・・・という
思いもかけない波瀾と不幸の晩年が、忍び寄っていた。

五線譜のところどころが欠けて冬  都司 豊

その年は徳川家慶の死やペリーの黒船来航などあって不安の色濃く、
芝居もしばしば差し止められているが、そんな世情をよそに七代目
は安政5年(1858)3月まで5年間を、上方にいた。
巡業先は大坂・京都はじめ宮島や名古屋など。
八代目の自害に遭うのは、その2年目安政元年8月6日の大坂中の
芝居の初日の朝だった。
演目には、8代目が江戸で大当たりをとった『切られ与三郎』
『児雷也豪傑物語』を出すことになっていた。
そこで手代・忠七が朝寝坊の八代目を起こしにいって、蚊帳をはぐ
ろうとしたところ、その手にべっとり血がついた。
蚊帳の中で八代目が蒲団に正座し、脇差しで喉元を突いてこと切れ
ていた。
白の襦袢に博多帯をしめ、丹後三筋縞の袴という姿で、乱れぬよう
に膝を縛ってあったという。
枕元には
飲みさしの茶碗がひとつ、遺書はなかった。

線の通り歩くと三途の川がある  田中博造

その時、八代目32歳、花の盛りだっただけに、どんなにその死が
惜しまれたかは言うまでもない。声もよく透き通って弁舌さわやか
だったが、評判をいっそう高めたのは、美男なのに親に似ず浮いた
噂もなく、独身で通し、潔癖で生真面目で親孝行だったという。
親孝行といえば、幼少より柔和で両親にそむかず芸道に精進し、
父が江戸追放後は苦しい中から送金もし、病気と聞いたら水あびし
成田不動へ平癒祈願をし、父の無事帰還を祈ったという。
この善行に対し北町奉行所は10貫文の褒美と表彰を与えている。
また親子の仲は決して悪いものではなかった。
ではなぜその八代目が、父と久々の共演というのに、
しかも初日の朝、死なねばならなかったのか。
諸説いろいろ囁かれるが、永遠の謎である。

追憶のかなたに流す紙の舟  清水すみれ

照るところ降るところあり夏の富士
枯れし野に一筋青し隅田川
冬木立鳥居の赤き入日かな
安政二年には、四男・猿蔵も病没した。
七代目はすでに65歳。
相変わらず上方で出演を続けているが、相次ぐ実子の死と老境の為、
気力体力ともに衰えたようで、『弁慶』・『助六』のほかは老役が
目立ってきていた。
そして安政6年1月、中村座で『草摺引』の五郎を演じた。
このとき、七代目は、
「万端はからずといえども、音声至って低くして、昔に替わりし
老年の
さま憐れむべし」と評されるなか、この舞台中に発病した。
病はついに回復せず、安政6年3月、69歳で帰らぬ人となる。

七代目は、七男五女にめぐまれた子福者であったが、男子を記すと、
次男十兵衛は後行方知れず、三男白猿は明治七年没、六男孝蔵は、
手を悪くして廃業、七男海老蔵も芽の出ぬまま明治19年に没した。

挽歌流れてオリオン父を引いてゆく 太田のりこ

かくして団十郎家は、河原崎家の養子となり、長十郎から権十郎と
すすんだ五男の堀越秀(ひでし)が、明治に入り九代目を襲名する
ことによって継がれる。

「中大兄皇子」の画像検索結果

「詠史川柳」

≪中大兄皇子≫

曽我氏三代の横暴を苦々しく思う中大兄皇子中臣鎌足と共謀し、
極秘裡に入鹿(いるか)の暗殺を画策するが、二人の周辺には、
護衛がうようよしていて禄に話もできず、そこで蹴鞠の会を利用する
ことにした。そして当日、二人は互いの木靴の中に手紙を忍ばせ、
あたかも沓が脱げてしまったかのように見せ、沓を交換して交信する
ことにした。

一足を二人で履くケチな靴

645年,飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)大殿の儀式中に入鹿を惨殺、
翌日父の蝦夷(えみし)も襲い曽我氏を滅ぼすことに成功した。
クーデターに成功した二人は、孝徳天皇を擁して新政権を樹立し、
聖徳太子の理想を引き継ぎ「税制の統一」「地方行政権の朝廷への
集中化」など、矢継ぎ早に政策を実行をした。
世にいう『大化の改新』である。

恋猫の雨の滴を拭いてやる  合田瑠美子

≪中臣鎌足≫

中大兄皇子は即位して天智天皇になると、中臣鎌足の功績を称えて
「藤原」の姓を贈り、又自分の愛人の鏡大君車持(くるまもち)
夫人を与えた。車持夫人は、その時すでに妊娠していたので、天皇は
男が生れたらソチの子、女だったら朕の子」の条件を付けた。
そして生まれたのが男の子だったので鎌足の子となり、その子が
後の「大
宝律令」を作った藤原不比等である。
不比等は「不人」で、自分の子でないの意味で名付けたとか・・・。
天智天皇のいとこ軽皇子(孝謙天皇)も愛人の阿部野姫を鎌足に贈っ
ている。鎌足は上司からいろいろなプレゼントもらう人だったようだ。

鎌足に素っ裸で暇乞い

鎌足が伊勢に旅行したおり、満月という土地の海女と親しくなったが。
鎌足は都に戻らねばならず、泣き泣き別れねばならない理由があった。

宝石箱を満たす足りないものは何 前岡由美子

拍手[3回]

PR


Copyright (C) 2005-2006 SAMURAI-FACTORY ALL RIGHTS RESERVED.
忍者ブログ [PR]
カウンター



1日1回、応援のクリックをお願いします♪





プロフィール
HN:
茶助
性別:
非公開