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川柳的逍遥 人の世の一家言
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加齢以外目立つキズなどありません  美馬りゅうこ

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9代目団十郎

「詠史川柳」 団十郎9・10・11代
九代目・団十郎は、河原崎座の若太夫として幼時から厳しく育てられ、
舞踊・絃歌・書画・茶花などの諸芸を身につけさせられた。
特に安政元年の八代目の没後は、市川家の血統として将来を嘱望され、
大役につくようになったが、健康に優れず「青瓢箪」と呼ばれたり、
「権ちやんナマナマ」などと悪口されるほどであった。
しかし、養父が非業の死を遂げ明治期に入ると、大器晩成型の彼は、
ようやく実力を発揮しはじめる。
その一つとして彼独自の新演出をあみ出し、登場人物の性格や心理を、
所作によらず内向的な手法により表現する「肚芸」と呼ぶ演技術や、
時代考証を踏まえた史実に忠実な舞台演出など演劇改良運動を推進した。

擂鉢の底で粘っている思案  荻野浩子
これらは九代目の改良癖・高尚癖として批判も浴びたが、
後代の歌舞伎に多大な影響を与え「九代目の型」として尊重される多くの
演出を世に残している。
風姿、音調、弁舌に優れ、立役・敵役・女方もこなす万能の役者であった。
また、父親の歌舞伎十八番にならって「新歌舞伎十八番」を制定し、
明治後半には古典歌舞伎も盛んに演じた。
かくて九代目は、明治歌舞伎の頂点にあって「劇聖」とまで謳われ、
その存在はそれ自体が歌舞伎を体現するほど神格化されたものだった。

しかし、自らの後継者となると最後まで恵まれなかった。
男子だけでも5男を儲けた父・七代目とは対照的に、九代目が授かったのは
二女のみだった。
そこで門人ながら早くから「天才」と呼ばれてその資質を見せていた五代目
市川新蔵を養子とし、これを手塩にかけて育成して成田屋のお家芸を伝えた。
新蔵もその期待に応えて芸を伸ばし、自然周囲から「いずれは十代目団十郎」
と期待されるようになっていった。

シャッターを切るたび君は咲いてゆく  野村辰秋
九代目が二人の娘に結婚を急がさず、むしろ梨園の外の知識人と自由な
恋愛を推奨するという、当時としては進歩的な考え方を持っていたのも、
この新蔵が控えていてくれたからに他ならなかった。
ところが、その新蔵が37歳で急死するという痛恨事に見舞われる。
1897年(明治30)のことである。
眼病で片目を失明、眼帯をかけながら舞台を務めていたが、
病状は快方に向かうことなく力尽きてしまったのである。
九代目の落胆ぶりは、並大抵ではなかった。

持逃げされた向日葵の首一つ  井上一筒

 
それでも宗家を守らねばならない立場から、9代目は長女の恋人市川翠扇
を後継者にしようと考えた。
歌舞伎・芸能とは、まるで無縁の日本通商銀行に勤める稲延福三郎という
サラリーマンである。
日本橋の商家に生れ、慶應義塾に学びエリートだったが、父は地元の名士で
陽性な性格で育ちの良さが感じられた。
しかもなかなかの勉強家で書画の素養もあり、話題に豊富な文化人だった。
そしてなによりも、長女の伴侶としては、文句の付けようがない夫だった。
やがて稲延福三郎が堀越福三郎として市川宗家に婿養子に入った。
しかしその2年後、九代目は継者の件についてはなんら手を打つことなく、
静かにこの世を去ってしまう。

大きくはないが手応えある器  磯部義雄
その後、市川一門の猛反対を押し切って29歳にして彼は役者を志し、
上方や旅芝居で修行。初代・中村鴈治郎に弟子入りし林長平と名乗り、
大歌舞伎の舞台にも立つようになる。
1917年(大正6)11月、五代目・市川三升を襲名。
かりそめにも市川宗家を継ぐ者である。
それ相応の重みがある名跡が求められたが、
「累代相伝の由緒ある名跡を、にわか仕立ての素人役者に襲名させる」
のもどうかということで、過去にこの「三升」を俳号に用いたことのある
四人の団十郎に、初代から四代目を振って、当代は五代目ということに
したのである。

新しい家族の箸を選っている  杉本克子



  10代目団十郎
銀行員から転職して歌舞伎役者となった経緯から、口跡が特異で芸も堅く、
大向うからは「銀行員!」と掛け声がかかるほどで、大成はしなかった。
だが、その演目や舞台上の役者としての評価とはまた別に、勉強家で社会
経験も積んできた三升の人間性はよく、なおかつ書画・骨董・俳句・音曲
古典など、幅広く深い教養を持つ当時の歌舞伎界では、有数のインテリで
あり、歌舞伎の枠を超えて、様々な文化人や政財界人との交友関係を持つ
人物でもあり、粋人として、役者仲間内でも一目置かれる存在になった。
また団十郎不在の市川宗家にあって、その代つなぎとしての自覚は強く、
その半生を意欲的な舞台活動と研究に費やし、同時に市川宗家の家格を
守り抜くことに努力した。

この様な形で三升が江戸歌舞伎の世界に残した功績は大きいものだった。
たとえば、江戸歌舞伎の伝統を支え守り続けることが出来たのも、
江戸歌舞伎とは対照的に、関西歌舞伎が確たる後ろ盾も得られないまま
内部崩壊して長きにわたる凋落に陥ったことを考えれば、
十代目の努力と残した功績が見えてくる。

苦労したことを語らぬ太い指  鈴木栄子



8代目・13代目 団十郎「助六」対決

九代目の死から59年後の昭和37年、七代目・松本幸四郎の長男で
市川宗家に養子に入っていた九代目・海老蔵十一代目・団十郎を襲名。
ここに団十郎の大名跡が復活する。
が、十一代目は襲名後わずか3年で癌に倒れてしまう。
その長男・十代目・海老蔵十二代目・市川団十郎を襲名したのは、
それからさらに20年を経た昭和60年のことだった。 

そこから28年、十二代目は2013年2月3日に66歳で病没。
そして7年の空白期間を経て、平成の幕に合わせるように2020年5月
十一代目・海老蔵十三代目を継ぎ、市川団十郎の名跡をつないでゆく。
よろこびも哀しみも持つ黒い服  ふじのひろし
「詠史川柳」


   吉備真備
≪吉備真備≫

大勢でいじめる上へ蜘蛛が下り
吉備真備が遣唐使として唐に渡ると、唐人たちが「野馬台の詩」という
難解な詩から「これが読めるか」と問題をだされ苛められた逸話がある。
真備は全く読めず、住吉大明神、長谷寺観音に祈ると、天上から蜘蛛が
下りてきて、蜘蛛が糸を引きながら歩く通りに読むと、見事に読めた。
東海と言うと大王ぎょっとする
真備が「東海…」と詠み始めると、大王は「えつ、読めるの」と驚いた。
それにしても、蜘蛛が下りてきた時、これが神仏のお蔭だとすぐに分か
ってよかった。蜘蛛が嫌いでなくてよかった。
おれならば蜘蛛をつまんで捨てるとこ
蜘蛛嫌いならばさっぱり読めぬなり

おみそれをしましたと天丼の海老  谷口 義


≪玄昉≫

遣唐使節として帰国した吉備真備玄昉は、すぐに高官にとりたてられた。
そこで二人は権勢を誇っている藤原不比等の子・藤原四兄弟(武智麻呂、
房先、宇合、麻呂)の反対派の橘諸兄(もろえ)に加担した。
2人の助力を得た諸兄は急速に勢力を拡大し、いよいよ武力で決着かと
思われた時に、四兄弟が天然痘で相次いで死んだため、無傷で政権を獲得。
腰元に母屋取られし飛鳥川
橘諸兄の母は命婦(腰元・女官)の橘三千代
三千代は天武天皇から六代に仕えた腰元で、はじめ美努王に嫁して諸兄を
生み、のちに不比等の第四夫人になり光明皇后を生んだ。
こうした後ろ盾もあり真備と玄昉は、諸兄の側近として威をほしいままに。
特に宮廷僧の玄昉は絶大な権勢をふるった。
当時の宮廷僧は医者も兼ね、玄昉は更年期障害で苦しむ宮子皇太夫人
聖武天皇の生母)と光明皇后を究極の秘術を駆使して治した。
皇后はご褒美として玄昉を愛人の座に据えた。
それをいいことに玄昉はますます増長。彼の思うままに操られた皇后は、
玄昉の頼みなら何でも二つ返事で、奈良の大仏も玄昉に頼まれたものという。
大仏ももと色ごとで出来拾う
気の多い皇后が次にハンサムな藤原仲麻呂を愛人にする。
仲麻呂が勢力を持つと、玄昉は筑紫に左遷され、まもなく死去する。
その5年後の752年に「大仏開眼供養式」が行われた。
 
軽口にちょっと流れた目玉焼き  合田瑠美子

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