川柳的逍遥 人の世の一家言
『エピソード―山内容堂』 土佐藩主、山内容堂の本名は山内豊重と言い、 「容堂とは号」であるが、それを号とする前には、 「忍堂」のほうが、自分に似合っていると考えていた。 それには、次のような知られざる理由があった。 さすっちゃずれる整形なんです鼻 山口ろっぱ 「大政奉還」は、山内容堂が最後の出番を得て、 徳川家は、これをもって政権を返上したのである。 容堂が差し出した”建白書”は、達筆で時勢の移り変わりが諄々として、 説かれていた。 この文字は、龍馬の幼なじみで、 精魂かけて書き上げたものであった。 「建白書」には、龍馬が起草したという『船中八策』の内容が、そのまま記されていた。 龍馬が土佐藩船・「夕顔」で瀬戸内海を航海中、 「ふっと頭をよぎった八つの草案がその原案になった」 と、いわれている。 文面には、欧米に通じた”政治制度のあり方”とか、 ”法制度”、”貿易や外国為替”にも触れて、かなりの知識が織り込まれているが、 このあたりは、現にアメリカへ渡航し、 議会や社会事情を見聞きしてきた、勝海舟の影響があったのだろう。 長岡の具体的な助言もあった。 船中八策について、容堂が最後の将軍に、 どう噛み砕いて、説明したかは分らないが、 「時局は腹の立つことばかり」 といっている。 短気な容堂であったから、意に添わないことも多かった。 自分の性格を悟ってか、容堂は「忍に一字」という言葉が大好きで、 容堂を名乗る前の第一候補として、 『忍堂を号としたい』 と考えていたそうである。 ラニーニャを口説いたらしい油蝉 森田律子 かくして、「山内忍堂」は、幻の名前となってしまったが、 本人によれば、 「今は忍耐よりも寛容の心のほうが大事であるから、容堂とした」 とのことである。 建白書の趣旨説明も、 「自ら寛容になれ」 と、言い聞かせて、その場に臨んだのだろう。 悩んでる時はたいらになっている ひとり静 PR |
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