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川柳的逍遥 人の世の一家言
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剥離する隙も与えぬ膝小僧  酒井かがり

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   龍馬、怒りの交渉

勢いというものは、多少の荒波を乗り越えていくものだ。

ふって湧いたような”船舶衝突事件”が起こる。

海援隊側の蒸気船・『いろは丸』と、

紀州藩の『明光丸』とが、航路不注意により衝突、

武器弾薬を積んでいた”いろは丸”が、沈没したという事件である。

沖に船あれどラッキョに義理はなく  筒井祥文

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   ”鞆の浦沖”の六島

当時の船舶規則により、

西欧型蒸気船は、右舷に青灯、左舷に赤灯を点滅させ、

海上を航行していた。

”いろは丸”は前方に”明光丸”の青灯を見ていたが、

突然、赤灯に変化したのを確認した。

すなわち、

「明光丸が、急旋回してきたために、間に合わず衝突した」

と主張した。

それが証拠に、衝突の際、明光丸の甲板には、人っ子ひとり見えなかった。

「これは海上前方を見張るべき艦員が不在であり、

 ”万国公法”に照らし、明光丸側の過失は明らか」

だが、船舶を所有する紀州藩は、海援隊に対して

「責任を負え」

と迫ったのである。

ほなどないしたらええのこんな時  有田晴子

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     談判の場面

龍馬ら海援隊の勢いを恐れてか、

まずいことに紀州藩の上部は、幕府を通じて、事件のもみ消しを図ったのである。

これが海援隊にバレた。

「ひきょうもん、やるか」

と龍馬は怒りまくった。

すでに薩長同盟は成っている。

それを斡旋した自信もあった。

「こん際、紀州藩にシロクロのけじめをつけちゃる」

と龍馬をはじめ海援隊の一行は、

長崎・丸山の料亭・「花月」にどっと繰り込んだ。

蟷螂の競り合い確と受けとめる  岩根彰子

そこで龍馬は、”前祝い”だと言って宴を開き、三味線片手に大騒ぎをした。

そのとき、即興で作った唄が、

”船を沈めたその償いは、金を取らずに 国をとる・・・”

というものであった。

この自作自演の即興歌は、大受けで、芸妓は踊りだすし、

隊員は気勢を上げるで、宴は朝まで続いた。

噂撒くやつは案外側にいる  松本あや子

やがてこの唄は、花街から流れて流行歌までなり、

判官びいきもあって、海援隊の人気は、うなぎ登りとなる。

今度は、海援隊の大人気が、紀州藩に伝わり、

世論の圧力に、押し潰されそうになった。

やむを得ず重い腰を上げた紀州藩の幹部は、事後処理の席につく。

情報集団でもある海援隊は、世論操作に成功したのである。

そして龍馬は、事実審理に万国公法の立場から臨み、

徹底的に理詰めで事件を追求し、

紀州藩が海援隊に、”賠償金-8万3千両”を支払うことで決着した。

したたかに生命保険かけつづけ  森中惠美子

この事件の最中にも、龍馬は、一つの心配りをみせている。

「紀州藩は徳川御三家の一つじゃ。

 薩長同盟にかかわった海援隊として、この泥仕合に負けるわけにいかんかった。

 しかし、こんワシには一つ悩みがあった。

 それは小次郎(陸奥宗光)のことじゃ。

 あやつは紀州藩の出じゃきに、気をもんでおってのう。

 もともと (けんかいー堅物)な性格じゃきに、海援隊の中で評判が悪うて、

 その上にあの事件じゃろう・・肩身の狭い思いをさせてしもうたぜよ。

 しかし小次郎には、『幕府を倒すための策、オンシが気を病むことはないぜよ』、

 と言っておいた」

というものである。

龍馬が、陸奥にみせた優しさである。

枯れぬようテーマに水はやっている  壷内半酔

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「坂本は近世史上の一大傑物にして、其の融通変化の才に富める、

 其の議論識見の高き、

 其の人を、誘説感得するの能に富める、

 同時(代)の人、能く彼の右に出るものあらざりき」

めったに人を誉めることのない、陸奥宗光が、

言葉の限り、隊長を回顧して畏敬の念を捧げた。

≪事件が解決したその日、龍馬と海援隊の面々は再度「花月」に集い、

芸妓、弦妓、太鼓もちを左右にはべらせ、大判振る舞いの酒で、

カッポレを踊りながら勝利に酔ったそうである≫

階段の手すりを握る歳となり  井上一筒

1cf0369e.jpeg       

『ニュース・「いろは丸沈没事件」』

慶応3年(1867)4月23日23時頃、

最近、景観論争で脚光を浴びている”鞆の浦沖”の六島付近で、

海援隊の蒸気船・「いろは丸」(160トン)と、

徳川御三家・紀州の蒸気船・「明光丸」(870トン)が衝突をした。

龍馬ら海援隊一行は、明光丸に乗り移って鞆の浦に寄港、

海援隊側は、紀州側と4日間にわたって、賠償交渉を行った。

その後、舞台は長崎に移り、交渉は難航したが、

最終的に、龍馬側が、紀州側から多額の賠償金を勝ち取った。

力んでもピサの斜塔は倒せない  小谷竜市

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いろは丸と明光丸の海路図

≪右に明光丸・左にいろは丸 上図の右上に六島≫

「その時の、龍馬側の主張」

御手洗航路上を西進していた明光丸を、発見した”いろは丸”は、

左に舵を取り、遅れていろは丸を発見した明光丸は、

右に舵をとった後、左に戻し、衝突した。

その後、明光丸は、いったん後進して、いろは丸から離れたが、

再び前進して、再度いろは丸に衝突、これが沈没の原因となった。

明光丸は乗組員全員を乗せ、

いろは丸を鞆港に曳航しようとしたが、途中で沈没したというもの。

主張する以上は腹を決めている  村岡義博

そこから120年後、昭和63年になり、

”いろは丸沈没事件”の調査が始まった。

以後、平成元年にかけて、3回にわたる調査の結果と、

平成17年に行われた、第4次調査で、

いろは丸の積み荷全体の遺物を、ほぼ収集された。

遺物は、約220点余り。

「ドアノブなどの内装品や船具」

「積み荷の水銀朱を入れた木箱」

「刀の柄などに用いられた、鮫皮(エイの皮)を保管するための台座」

などのほか

「履き込まれた革靴の靴底」、

などが収集された。

ポチ連れて埋蔵金を嗅ぎ回る  八木 勲

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不思議なことに、積み荷の最新式銃などの補償をめぐって、

紀州藩と交渉し、巨額の賠償金の対照になっていた、

「ミニエー銃」「部品」 などは、

まったく見つかっておらず、

「交渉を有利にするための龍馬のはったり・・・ではなかったか」

との見方も出ている。

ポケットの底たくらみはかび臭い  墨作二郎

また、海援隊の商船・「いろは丸」とみられる船体の第4次調査で、

紀州藩・明光丸の船体の傷が、右舷にあったことなどから、

「海援隊側の操舵ミスの可能性があったのではないか」

と見られている。

これで、龍馬の信用は、ガタ落ちになるはずだが、

ニュース的には、何故か、おおきな問題になっていない。

≪龍馬人気が、真実に蓋をさせてしまったようだ≫

過去形で語ればみんな美しい  西山春日子

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『龍馬伝』・第42回-いろは丸事件 あらすじ

弥太郎(香川照之)の働きで、

蒸気船・いろは丸を借り受けた龍馬(福山雅治)たち海援隊は、

早速運搬業を開始。

だが、そんなやさきに事件は起こった。

大坂へ向かっていたいろは丸は、

夜半、紀州藩の船・明光丸と衝突し、あろうことか沈没してしまったのだ。

しかも、徳川御三家である紀州藩は、

「海援隊を脱藩浪士の集まり」

と、見下し、見舞い金として、千両支払うのみで事を済ませようとしたのだ。

これに納得のいかない龍馬は、

船と積み荷の賠償を巡って、談判し、

紀州藩と真っ向から、交渉することを決めた。

赤い月背おう高圧線のちりちり  山口ろっぱ

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談判に先立ち、元紀州藩士の陸奥(平岡祐太)は、

紀州藩の勘定奉行であった父が、失脚させられたと打ち明け、

「どうしても勝ちたい」
 と語る。

1度目の談判が、不調に終わり龍馬は、

「これは幕府と土佐藩の戦いであり、負けてはならない」

と、2度目の談判に同席するよう後藤象二郎(青木崇高)を説得。

かたや紀州藩も、

勘定奉行・茂田一次郎(中尾彬)が、談判の席に現れる。

いざという時へ裏技磨いてる  北川ヤギエ

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