耳削いで来れば仲間にしてやろう 井上一筒
海援隊の仲間
写真左から
白峰駿馬ー長岡藩藩士。日本最初の造船所を開設する。
千屋虎之助(菅野覚兵衛)ーお龍の妹・君江(紀美)の夫。一時期、お龍の面倒をみる。
龍馬ーこの写真の10ヶ月後に暗殺に遭う。
高松太郎ー龍馬の姉・千鶴の子。龍馬の遺志を継ぎ蝦夷地で活躍する。
岡本健三郎ー龍馬の護衛役。近江屋事件では階下に待機していた。
長岡謙吉ー海援隊副隊長 船中八策・大政奉還副書を起草する。
気が合うね出会いはそんな台詞から あいざわひろみ
”海援隊”を結成する前、龍馬は肝心の船を失い、
経済的に完全に行き詰まり、
亀山社中は、解散寸前の危機にあった。
そこに現れたのが、土佐の参政・後藤象二郎である。
後藤は、土佐商会を運営し、当時、長崎をたびたび訪れていた。
後藤の使命は、土佐藩の海軍力・海運力の強化にあり、
そのノウハウを持つ者を求めていた。
その後藤のアンテナに、龍馬の亀山社中がひっかかったのである。
後藤は、亀山社中が持っていたノウハウに期待した。
風を掬う風を吸う風満ち足りる 山口ろっぱ
”清風亭”使用桐箱
慶応3年1月12日、後藤は、長崎の清風亭に龍馬を招待した。
そのとき後藤は、龍馬が贔屓にしていた芸妓・お元を呼んでいる。
後藤は、抜け目なく龍馬懐柔の下準備をしていたのだ。
この時期、土佐は、薩摩、長州にさまざまな遅れを取っていた。
遠雷を急ぐ自転車のペダル 森田律子
≪軍事力、産業技術力、交易力、国家構想力といった、
当時、雄藩と呼ばれた藩が、必要としていた、
すべての面において、遅れていた≫
また、土佐には、薩摩、長州との太いパイプもなかった。
土佐はそれらの遅れに気づいて、
形勢挽回に力を入れ、
その一環として、亀山社中の取り込みを考えたのである。
ライバルの斜め後ろに付くゆとり 上嶋幸雀
後藤と龍馬をとりもつ杯
後藤の提案は、龍馬にとっても、悪い話ではなかった。
当時、亀山社中は、薩摩藩の庇護下にあったものの、
資金的な援助はわずかであり、社中の財政は逼迫していた。
龍馬は次の手を打てない窮地にあったのだ。
しかし、土佐藩が出資してくれれば、金に困ることはない。
うまくいけば、土佐藩を動かして、政局をリードできる。
龍馬と海援隊が、幕末の主役に躍り出ることも、可能になる。
龍馬は、後藤の人間力、実行力を見て、
提携できる相手と踏んだのだろう。
そして両者は、過去を問わず、
血塗られた土佐の歴史を乗り越えて、合併した。
怨みからうらみへ向かぬ針の先 森中惠美子
土佐・開成館
慶応3年(1867)4月、海援隊が誕生する。
海援隊は、亀山社中と土佐の開成館という、二つの組織が合体して生れた。
土佐の開成館は、
土佐藩が慶応2年、殖産興業、富国強兵を目指してつくった組織。
≪山内容堂側近の後藤象二郎が、具体的に計画を立て、
海軍を練成する軍艦局、貿易を振興させる貨殖局、
産業開発をになう勧業局、外国語を訳す訳局、
大砲をつくる鋳造局、などから成り立っていた≫
鬼太郎を捻って貧乏から抜ける 本多洋子
開成館の本部は、高知にあったものの、
その組織の性質上、高知では技術の向上を望めない。
そこで、海外交易の中心地である長崎にも、
”土佐商会”と呼ばれる拠点がおかれた。
やがて、後藤象二郎は、
同じ長崎に拠点を置く、龍馬の亀山社中のことを知り、
提携を考えるようになる。
白い器に僕の野心を盛りつける 和気慶一
それは、土佐藩の上士勢力と、郷士勢力を結びつける、
作業でもあった。
開成館は、土佐でかって実権を握っていた、吉田東洋の流れをくむものだった。
≪その吉田東洋は、尊皇攘夷を唱える武市半平太の土佐勤皇党一味に殺される。
いっぽう、亀山社中には、土佐勤皇党の流れを組む者が多くいた。
勤皇党は東洋暗殺後、一時、土佐の実権を握るが、
容堂によって解散に追い込まれ、
半平太は切腹、多くの党員が裁かれた≫
もうひとつのかけがえのない息遣い 笹田かなえ
海援隊約規
上記写真の記述は ”土佐藩および、そのほかの藩を脱藩した者、
海外に行きたい者なら、誰でも入隊できる”とある。
亀山社中の者たちは、後藤を憎んでいたし、
後藤は後藤で、東洋暗殺に関連した亀山社中の者らを、
快く思っていなかった。
だが時代の流れが、相容れないはずの、両者を結びつけた。
龍と象の約束のシェイクハンドぜよ 坂本龍馬
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