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川柳的逍遥 人の世の一家言
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一山に盛られたじゃこに俺もいる  北野哲男


 小伝馬町牢獄図-1

【豆辞典―①】-「松陰時代の牢獄の環境」
               しょうかい
獄舎について、安政元年6月21日に松陰土屋蕭海へ送つた手紙に、

「極暑の候ではあるが牢内は、甚だ清凉で凌ぎよい故、

   御放念願ひたい」

と言ってゐる。

「江戸獄記」の中には、

「江戸獄ば裏表が格子となつて居り、日影が遠い故、夏でも凉しい」

と記してゐる。

更に夏になると「凉み」と云つて、隔日に昼の2,3時頃には、

外鞘の内に出してくれる等、なかなか行届いたものであつた。

日溜まりは恵み日暮れは早いまま  栗田久子

松陰が傅馬町の牢へ入つたのは二度共、夏から秋へかけてであって、

冬の経験はないが、牢内で他の囚人から聽く處に據ると、

「冬になれば格子へ紙を張つてしまふ故、甚だ暖い」

と記してゐる。

又、冬は參湯を給し、

夜になると熱湯を徳利に入れたものを、囚人へ與へ暖を取らせる。

獄中と云へども、相当の情があつた事が分る。

悩むのはよそうミカンに手を伸ばす  嶋沢喜八郎

松陰は最初の入牢の時は、友人達から金を取り寄せ、

それを牢名主に贈つて、遂に「名主の次ぎ」の添役と迄なるに至ったが、

地獄の沙汰も金次第であることは申す迄もない。 

然しながら、

何から何まで金次第だと考へると、大いに違ふとも云つてゐる。

「それは立引と称して、人から頼まれた囚人は、

   名主以下も決して粗末にしない。

   手当囚人は勿論の事だが、諸役人から託された囚人とか、

   或は有名な侠客や博徒から頼まれた囚人等は、

   特別扱ひにしたものであつて、金の力が物を云ふ獄中であつても、

   役付の囚人達に、唯、徒らに金のみを振り廻したとて、

   それは少しも顧みられぬものだ」

   と松陰は獄中の囚人にも猶意氣と云ふものがある事を泌々と感じた。

そうか君は明日も生きてるおつもりか 居谷真理子

又一方、牢屋係の役入獄卒達は賄賂を取る事に吸々として、
       いや
松陰も賤しむべき人達だとは感じたが、

他方に於いて、一度賄賂を貰つて承諾した事は必ず実行する。

約束を違える様な事がないのは実に意外であつて、

誠に左様な賤しい心の人達ではあるが、義理堅いものだと驚いている。

松陰が初めて傅馬町の牢へ入つた時、

友人の手紙の往復、金錢其の他の届物などを託したのは、

獄卒の伊八と云ふ者であつたが、

此の伊八は前に云つた義理堅さはなく、甚だ良くない奴であつた。

其の度に松陰から貰ふ使賃だけでなく、

小倉健作の處へなども度々行つて迷惑をかけたので、

松陰は小倉へ其の事を詫び、以後は伊八に託さぬ事とした。

伏線はあった接続詞が消えた  森吉留里恵

其の後は伊三郎と云ふ獄卒に託したが、

伊三郎は眞面目な人物であつて、松陰が小倉へ送つた手紙にも、

「伊三郎は容貌は怪異ではあるが、

   決して悪い人物ではない故安心してくれ」

と云つてゐる。

松陰が再度、傅馬町の牢へ入つた時は、

獄卒の金六に託して、外部との連絡を取つてゐた。

高杉晋作へ宛た手紙にも、

「金六は前回の入牢以來知つてゐる人物であつて、慥な者故、

   萬事此の者へ託してくれ」
 したた
と認めてあつた。

松陰が處刑になつた後、其の遺骸の引渡を請けやうと尾寺新之丞

飯田正伯が獄吏に賄賂を贈つた時も、この金六の手を通してであつた。

少し訳あり余白に太く引く破線  上田 仁


 小伝馬町牢獄図-2

獄中へ金銀や書物を入れる事は許されない。

即ち牢内法度の品として金銀、刄物、書物、火道具類は、

堅く禁じられて居る事項、松陰が友人から金を取り寄せたり、

或は「靖献遺言」「十八史略」等の書物を入れてもらつたのも、

皆内密の事で、それには此の獄卒を使つたものであった。

着物其の他の必需品は願出れば公然と差入れを許される。

松陰は初めの入牢の時、

紋付袷、紋付帷子、五布蒲團、單物、襦袢、下帯、手拭、

半紙、錢二百文等を差入れて貰つてゐる。

再獄の時も大体同様である。       

オラの画鋲は金に画鋲でごぜえやす  くんじろう

以上の如く松陰の傅馬町牢に於ける揚屋の生活は、

相当気楽なものであつたようだ。

松陰のゐた東口揚屋は間口二間半、奥行三間の部屋に、

同囚が十三人ゐたが、無宿牢となると間口四間奥行三間の部屋に、

いつも6、70人から80人にも達する囚人が押し詰められて居り、

毎日のやうに病死人が出た事は松陰も「江戸獄記」の中に記している。

以上の通り松陰の獄中記を読めば、同じ傅馬町牢の中でも、

揚屋と無宿牢とでは、囚人生活に如何に多くの相違があるかが分り、

又貴重な記録である。       (「梅丘庵・クラシマ日乗」より

後悔を埋めたあたりを掘り返す  美馬りゅうこ


    ホエ駕籠

【豆辞典ー②】「罪人の護送」

江戸時代、町人や農民など庶民の重罪人を運ぶとき、

竹で編まれた円筒状の駕籠が使われた。

これを「唐丸駕籠」又は「目駕籠」と呼ぶ。

「唐丸」とは中国渡来のシャモの愛称で、シャモを飼うときに使う

円筒状の籠を模して作られたことから名付けられた。

唐丸駕籠は、武士の罪人を運ぶために使われる場合もあったが、

一般的に武士を運ぶときには、普通の駕籠に施錠し、

上から青網をかぶせたものが用いられた。

帽子からはみ出す雄鶏のトサカ  井上一筒



唐丸駕籠は高さ90センチほどで、横には中の様子を見たり、

食べ物を差し入れたりする穴が、

底の台には、大小便の落とし穴があけられていた。

駕籠の中央には柱が立てられ、罪人の首にかけた縄を結びつけた。

罪人は手足も縛られ、

舌をかまないように、口に竹の管をくわえさせられることもあった。

真暗がり破って見ても明日がない 森 廣子

唐丸駕籠が通行するときは、前もって沿道の宿場に、

罪人を送り出した大名の名前などの名前や、駕籠の数(罪人の数)、

役人の人数などを記した「触れ書き」が届けられた。

「遠島刑」という刑罰では、離島に罪人を送るために、

船上に小さな牢が設けられた「流人船」という船が使われた。

江戸からは大島・三宅島・八丈島などが、

京、大阪、西国、九州からは壱岐・隠岐などが流刑地に選ばれ、

春と秋の2回出帆した。

船賃をお地蔵さまに借りたまま  笠嶋恵美子

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クックックッちぇっちぇっちぇっと百八つ 河村啓子


松陰に最も近いとされる松陰像
たとい             てきがい
仮 令獄中にありとも、敵愾の心一日として忘るべからず。
いやしく                       せっさ
苟も敵愾の心忘れざれば、一日も学問の切磋怠るべきに非ず。

                       〔松陰の言葉〕
「野山獄」

安政元年(1854)9月23日、

手鎖と腰縄を付けられて江戸を出た松陰金子重輔は、

約一ヶ月の道中駕籠に乗せられ、10月24日に萩に着いた。

そして松陰は「野山獄」へ、金子は「岩倉獄」へと投獄された。

野山獄と岩倉獄は、もともと藩士の屋敷であったが、

江戸初期にそこに住んでいた岩倉孫兵衛が、

道一つ隔てた野山六右衛門の屋敷に斬り込み、

家族を殺傷するという事件が起こった。

喧嘩両成敗で両家とも取り潰しの後、両家跡は牢獄として使用された。

ほんのりと はすのかおりのしたような 大海幸生


死んで牢獄を出る金子重輔

事件は岩倉に非があったので、野山獄が士分を収容する「上牢」

岩倉獄が庶民を収容する「下牢」となった。

因みに野山獄には、松陰死去後に高杉晋作や保守派の椋梨藤太らが

つながれるなど、長州藩の幕末史に深く関わっている。

獄中の環境は、下牢である岩倉獄のほうが当然劣悪で、

小伝馬町獄舎にいたときから病気を患っていた金子は、

岩倉入獄後、3ヶ月も持たず死去してしまう。

行動を共にした弟子の死に松陰の無念はどれほどのものだっただろう。

ジグソーの欠けらを拾う冬の底  合田瑠美子


  野山獄と岩倉獄

岩倉獄が大人数部屋であるのに対し、

野山獄は独居房であり、

6房の牢屋が、中庭を挟んで南北に二棟並んでいた。

松陰が入獄したときすでに11人の囚人がおり、

松陰には北側奥の牢が与えられた。

不思議なことに、このとき居た11人の囚人のうち、

藩命による罪人は、わずか二人だけだった。

ほかの9人は、親族からの依頼で入牢した者であり、

純粋な罪人ではなかった。

いつか来る別れと割箸は思う  杉浦多津子


    野山獄舎

罪人でない者が獄に入れられるというのは、

現代にてらし違和感があるが、

江戸時代の牢獄は、現在の刑務所とは違い

懲役・禁錮という刑罰はなく、

殆んどが死刑か遠島などの「追放刑」であった。

小伝馬町にしろ野山獄にしろ、牢獄は未決囚が収容される施設であり、

現代流にいえば「拘置所」なのだ。

一方で、江戸時代の獄舎には、親族にとって不都合な人物を

世間から隔離するために収容するという機能もあり、

そうした幽囚されることを「借牢」と言った。

人間のアブクを背負う終電車  山口ろっぱ


松陰は一番手前の独居房へ
高須久子は中庭を挟んで松陰から一番遠い斜交いの独居房入った。

のちに松陰と交流する高須久子は、密通の疑いで入牢したのだが、

藩から命じられたわけではなく、世間の目を嫌った家族が、

「借牢願い」を出して野山獄いりさせている。

松陰も形式上のことだが、父・百合乃助から借牢願いが出された。

藩命による入牢者は赦免によって解放されるが、

借牢願いでつながれた者は、親族からの許しがない限り、

社会に戻ることはできない。

左足だけとりあえず転勤す  井上一筒



実際、松陰入獄時の野山獄には在籍20年以上の者が3人おり、

そのうち、大深虎乃丞は在獄47年に及んでいた。

そのため、囚人たちはおのずと厭世的になり、

牢内には怠惰な空気が漂う。

松陰は彼らの胸中を憐れみ次のように語っている。

「憤慨を抱きながら死を待つのみ、最もかなしいことだ」

正面にみてはいけないものを見る  佐藤正昭

松陰が思いを寄せたのは、決して同志の金子重輔へだけではなかった。

己の運命を悲しむ前に、まず同囚の運命に涙するのである。

そして、優しさと本質的に教師たる資質を持つ松陰は、

自分は獄に繋がれても読書など、独り自ら楽しむ術を知っている。

しかし、この人たちはそうではない。

何とか、この人たちを救いたいと思う。

ここから、松陰の獄舎内での教化改善、

獄舎を福堂への努力が始まるのである。

鍵穴の向こうは夢の舞う世界  田岡 弘

松陰が野山獄に入獄した直後は読書三昧の生活だった。

そのうち、囚人たちと遊学の事や海外事情などを話す中で、

次第に会話から議論・講義のようなスタイルに変わっていった。

光明なき幽囚の身にあっても人は学ぶことを欲するし、向上心もある。

松陰が、情報も豊かで、なかなかの見識を持つ人物であることを

何となく感じ取った同囚の人たちからも、

次第に質問が寄せられるようになり、松陰はこれに誠実に答えた。

こうして同囚の間にも自然知識欲が目覚め、

やがて獄中の希望者を集めて「孟子」の講義が始められることになる。

数少ないテキストを回し読みし、

相手からの質疑に答える形で松陰が講釈を述べた。

海へ還るせめて鱗を整える  加納美津子


円座の中央で講義する松陰

暫くしてからは、数人が順番に教師を務める輪講の形式がとられた。
            ゼミナール
読書会は、各人が教えあう総合教育へと発展する。

囚人の吉村善作(49歳)河野和馬(44歳)「俳諧」の授業、

富永弥兵衛(36歳)「書道」の授業を担当した。

これらの授業や交流は、通常は牢越しに行なわれたが、

時には囚人たちが互いの独房を訪れたり、一堂に会することもあった。

獄仲におけるこの講義に集まった者は、

同囚のほぼ全員に及んだばかりでなく、

獄吏の福川犀之助『孟子』の授業を聴講するようになり、

福川の好意によって、禁止されていた灯火の使用も許された。

松陰は尊皇攘夷派の月性宛の手紙のなかで、

「もし自分が一生獄中にいることがあれば、

   すばらしい人間が生み出せるだあろう」

と記している。

礼言わんといかんのはこっちです  雨森茂喜

          
 「野山獄囚名録叙論」  「野山獄謂われ」
                          (画面を拡大して読んでください)
「冒頭の文章

こういん
『甲寅(1854年)十月、余罪ありて獄に繋がる。

獄舎のに列する者、凡そ十一人なり。

つまびらかに之れを問ふに、其の繋がるること久しき者は数10年、

近き者も3‐5年なり。
         
皆曰く、
   つい  まさ  ま
『吾が徒終に当にここに死すべきのみ、復た天日を見る得ざなり』
        さがく
と。余乃ち嗟愕して泣下り、
                         いとま
自ら己れも亦其の徒たるを悲しむに 暇あらざるなり。

ここに於て義を講じ道を説き、
とも  まれい           お
相与に磨励して以て天年を歿へんと期す』

これは、松陰が出獄(安政3年(1856年)3月28日)後に記した

憎しみも毛玉も残る雑記帳  岡谷 樹

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序破急を舞った真白き骨拾う  加藤 鰹


  ペリー来航瓦版

「黒船時代の背景」

徳川家康によって開かれた「江戸幕府」による統治は、

250年以上という長期にわたる泰平の世を日本にもたらした。

徳川家の当主は「征夷大将軍」として君臨し、

各大名はその将軍に臣従した。

毛利家は長州藩、島津家は薩摩藩といった形で、

それぞれ将軍から与えられた領地をとして経営した。

幕府は大名と藩を厳しく統制することも忘れなかった。

その政策が鎖国で、外国との取引を一切禁じるとともに、

日本人が外国へ行くことも、外国人日本入国も禁じたものである。

タバスコを江戸にかけたら写楽の目  柳瀬孝子

ただし幕府は完全な形での「鎖国」を行なっていたわけではない。

幕府直轄地の長崎に限定し、

清とオランダの2ヶ国のみと貿易を行なった。

また、対馬藩は李氏朝鮮と松前藩は蝦夷のアイヌと、

薩摩藩は琉球王国と、それぞれに交易を認めた。

そのため、江戸時代の日本は"鎖国"という言葉ほどには、

外国との窓口を閉ざしていたわけではなく、

諸外国の情報や文物は、限定的ながら入手していた。

必要とされるところで咲いてみる  岡内知香


五大州を周遊せんと欲す

寛永16年(1639)ポルトガル船の入港を禁止してから

100年以上、中国とオランダ以外の外国船が途絶えていたが、

18世紀後半に入ると、列強国はアジア進出を狙い、

日本に対しても交易や補給を求め、船を来航させるようになる。

安永7年(1778)、ロシア人・ラストチキンの商船が、
    あっけし
蝦夷の厚岸に来航し、寛政3年(1791)には、

アメリカの探検家・ケンドリックが紀伊大島に到着。

寛政4年(1779)、ロシア人のアダム・ラクスマンが、

漂流民である大黒屋光太夫ら3名を連れて根室に上陸、

初めて正式に国交を要求したが、

幕府は拒否し、一時的に長崎への入港許可書を出すにとどめた。

曲線の曲がるあたりの右顧左眄  皆本 雅


    投夷書

19世紀になると、ロシア、フランス、アメリカの船が、

前にも増して来航するようになる。 

幕府は、「異国船打払令」を出し

「接近する外国船があれば砲撃して追い払う」

という姿勢をとるが、天保11年(1840)アヘン戦争」で、

清がイギリスに敗れたという報がもたらされる。

隣国ともいえる、アジアの大国の敗戦にショックを受けた幕府は、

異国船の来航に態度を軟化せざるを得なくなった。

以来、幕府は方針を転換し、異国船が望めば、
                  しんすいきゅうよれい
薪や水の補給だけは認める「薪水給与令」を新たに打ち出す。

三叉路はそのうち 痒みになっていく  河村啓子

弘化3年(1846)閏5月27日、

アメリカ東インド艦隊のジェームス・ビッドル提督は、

全長75mの巨艦コロンバス号などの軍艦2隻で浦賀沖に来航した。

はたして浦賀奉行は、

「国禁により通商は許されない」と上陸を許さなかった。

「薪水給与令」により、水・食料・燃料だけを受け取った返礼に

ビッドルが、日本側の船に乗ろうとすると、

通訳のまずさから意志が伝わらず、

傍にいた警護の武士がビッドルを突き飛ばし、刀を抜いた。

そんな一幕にビッドルは、日本の開国の意志を確かめるのが、

任があったため、怒りを収め帰国した。

木枯らしのせいにしておく怒り肩  森田律子

 

これを聞いたアメリカのフィルモ大統領は、

「今度こそ開国させよ」との意志をペリーに伝え、

日本の将軍宛の親書を預ける。

当時58歳のペリーは東インド艦隊を率い、

アメリカ東海岸・ノーフォークを出航し、東回り(大西洋)

カナリア諸島~セントへレナ島~ケープタウン(インド洋)~

セイロン~シンガポール(東シナ海・日本海)~香港~上海~

小笠原~浦賀まで、約8ヶ月かけて日本へ到着した。

風の音無地のノートの一枚目  新川弘子

そして嘉永6年(1853)6月3日、

江戸湾の浦賀沖に4隻の「黒船」が現れた。

外輪と蒸気機関を使い、

高速で航行し、煙突からはもうもうと煙を上げる。

最新鋭の蒸気船であった。

黒船は、合計73門の大砲を備えており、

浦賀湾内で数十発の空砲を撃ち鳴らした。

害虫が薔薇のつぼみをナンパする  藤島たかこ

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スパイスその壱のちょうちんあんこうの風景
                   山口ろっぱ



ペリー来航を伝える瓦版

「松陰ー密航計画」

嘉永3年(1850)、数えで21歳になった松陰は、

藩から軍学稽古の名目で許しを得ると九州遊学に出た。

平戸、長崎、熊本と旅路に松陰は、初めて見る風景の数々に心躍らせた。

長崎では、入港中のオランダ船を見物し、

日本へ入ってきたばかりの書物を購入するなど異国文化を積極的に吸収。
                              ていぞう
また、九州各地で山鹿万助・葉山左内、宮部鼎蔵などに会い、

見識を深めていった。

特に宮部鼎蔵とは、国の防衛などについて話し合い意気投合。

松陰より10歳以上年上であったが、

のちに共に東北旅行に出るなど、生涯の親友とばった。

踵からジンジン石はもうはたち  酒井かがり

 
  異国人上陸の図       東北旅日記
                      たかちか
一度萩に帰った翌年、藩主・毛利敬親の参勤交代に従って江戸へ出る。

江戸では佐久間象山に師事して蘭学を学んだ。

松陰は第一人者であった象山に心服し、大きな影響を受けた。

熊本で知り合った肥後の宮部鼎蔵とも再会し、

二人は津軽海峡の視察を目的に東北遊学を決意する。

しかし、出発日の約束を守るため、

長州藩からの通行手形の発行を待たずに出発。

そのため、萩帰国後に「脱藩の罪」に問われ、

「士籍剥奪・世録没収」 の処分を受けてしまう。

捨てたのか捨てられたのかなぁ雲よ  桑原すゞ代


黒船艦隊の旗艦「ポーンハタン号」

4年後、「日米修好通商条約」がこの艦上で調印された。

しかし、松陰の才能を知る藩主・敬親はじめとする首脳陣は、

表向きは彼を罰しながら、

この機に10年間の諸国遊学許可を特別に与える。

二度目の江戸に着いた2日後、嘉永6年6月3日、

浦賀にペリー率いる「黒船」が来航する。

松陰は師の象山の後を追って黒船を視察に行った。

先進的な文明に心を打たれつつ、

「勝算甚だ少なく候」と危機を痛感した。

静脈を黒い何かが通過する  嶋沢喜八郎


  ペリーの似顔絵

翌年1月、ペリー艦隊は幕府の返答を聞くために再び来航した。

幕府はアメリカの開国要求に応える形で「日米和親条約」を結ぶ。

朝廷の許しもなく、外国の要求を受け入れてしまった幕府の対応に

憤慨する者も多かった。

「尊皇攘夷」を唱え、過敏な行動に出るものも現れるなか、

松陰はもっと先を見据えていた。

突っ込んだ首は抜けませんもごもご  オカダキキ

「攘夷、開国などと言っている場合ではない。

   本当の攘夷のためには、まず異人の文化をこの目で見る必要がある。

   そのためには黒船に乗り、アメリカへ渡るしかない」






象山に相談したところ、大いに励まされた松陰は、

同志の金子重乃輔とともに、

下田に回航し停泊していた黒船艦隊に小舟で接近し手紙を渡した。

手紙は通訳によって読まれたが、

ペリーも日本の国禁を破るわけにはいかない。

乗船を断られ、やむなく引き返した松陰だったが、

乗ってきた小舟が波に流されてしまった。

後頭部から音がしている しぼむ  久保田 紺



小舟には象山の署名入りの激励状が入っている。

密航が奉行所にばれるのは時間の問題だ。

松陰は自首することにした。

捕らえられた松陰は、伝馬町に送られ「揚屋入り」を命じられた。

揚屋とは、武士身分の未決囚が入れられる牢屋のこと。

(重乃輔は、戸籍簿から外された者が入る「無宿牢」に入れられた)

揚屋は大人数部屋であり、新入りへの嫌がらせは日常茶飯事だった。

しかし、海外渡航未遂というかってない罪に、

囚人たちは大いに興味を示し、

松陰はたちまち、牢名主に次ぐ地位を与えられた。

国家論じるブタ玉の花かつお  井上一筒



伝馬町獄舎での約半年間の拘留の後、

幕府から松陰へ下された処分は、「在所蟄居」であった。

在所蟄居とは、身寄りが監督して自宅に幽閉する処分のことで、

幕府は野山獄送りではなく、

父・百合乃助へのお預けと自宅監禁を命じた。

しかし長州藩は幕府の命令を覆し、自主的に野山獄への収監を決めた。

藩が幕命より重い罪を与えたのは、幕府への遠慮のためと言われる。

それにしても、鎖国という国法を犯そうとしたにもかかわらず、

幕府が下した「在所蟄居」「入牢」という処分は極めて軽い。

海外渡航計画など、前例のない事件であり、

罰する法律がなかったことが罪を軽くした、

という理由が考えられているが、そこには、もう一つ、

「知識を得るために命をかけた教養ある日本人の知識欲は興味深い」

と松陰の志に感心したペリーが、幕府に取り成したという説が伝わる。

これしきでお褒めいただきトホホホホ  田口和代
  

伝馬町牢屋見取り図

また松陰の渡航を煽動した嫌疑で象山にも自宅蟄居が命じられている。

西洋学術に理解のあった安部正弘が象山の才を惜しんだため、

象山と松陰に同罪の罪を与えたと考えられる。

切り取り線どおりでしたねキミとボク 美馬りゅうこ

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シャチの背中にこんにゃくの載せにくさ 井上一筒


    明倫館

毛利家家臣の子弟教育のための藩校。
現在は明倫小学校の敷地内にあり、文や松陰、
そして長州の志士たちのゆかりの史跡が残っている。

「松陰の兄・梅太郎(民治)」

梅太郎は杉家の長男として生まれる。

寅次郎とは二歳違いの兄で、

幼いころから父・百合乃助や叔父の文之進に学問を教わり、

文之進が塾を始めてからは、松陰とともに勉学に励むようになる。

寅次郎と梅太郎は、とても仲の良い兄弟であった。

松陰の妹・千代が77歳の時、インタビュー記事に語った言葉がある。

「長兄の梅太郎と松陰は、

   見る者が羨ましくなるほどに仲のよい兄弟でした。

   出かけるときも、帰るときも一緒で、寝るときは、

   一つの布団に入りますし、
食事の時は、

   一つのお膳で食べておりました。


   たまに別のお膳で食事を出すと、

   一つの膳に並べかえていたほどでした。


 影が形に添うように、松陰は長兄・梅太郎にしたがい、

   梅太郎の言いつけに逆らうようなことなどありませんでした」

似た声を拾って歩く左耳  八上桐子



寅次郎が故郷を離れ江戸へ遊学に出たときには、

その志を理解し、一家の生活を切り詰めて学費を送金をしている。

22歳のとき、藩校の明倫館に入り、やがて役職に就くようになる。

黒船来航後、江戸湾警備のため相模に出張した際、

寅次郎の「密航未遂事件」に遭遇、帰藩を命じられた。

寅次郎が何度も国禁を犯しては、勤皇思想を公言するので、

そのたびに、そのとばっちりを受け、監督不行き届きとされて、

職を辞さざるを得なくなったり、謹慎を命じられたりした。

しあわせも不幸も君と半分こ  清水すみれ

それでも、寅次郎の志を押さえつけようとしなかったのは、

自分自身も、そうした志を秘めていたからだ。

もともと長州には、かって織田信長足利将軍や

天皇家軽視を批判する向きがあったように、

勤皇の精神が根付いていたのである。

そして、応援し続けた松陰が処刑されたのちは、

役職に復帰し勤皇派の復権を期して、

「鎮静会」という組織を作った。

軍手でつかむつるりとした未来  高島啓子


   民 治

維新後は、数々の役職を務め、主として優れていたので明治2年、

「民治」という名を賜っている。

明治4年には、山口県権典事という重職に就任。

その後、明治11年に辞職して故郷へ帰り、

明治13年頃から「松下村塾」を再興して塾長になった。

やはり、弟と勉学に励んだ日々を忘れることができなかったのだろう。

この塾は25年続いた。

晩年は、私立修善女学校の校長として、

子女の教育に残りの人生を捧げている。

これも松陰の遺志を継いだものなのだろう。

かって松陰が、女学校の建設を提唱していたからである。

松陰は年配の教養ある武士の未亡人を教師にして、

女児に女性の道を厳しく教えることを主張している。

青空を生む一本のネジまわす  和田洋子

梅太郎が亡くなったのは、明治43年、83歳であった。

松陰は、梅太郎からもらった詩に対して次のような返書を認めている。

「長男にとって、上には父母がいて、下を見れば弟妹がいます。

   外に出ると、役職が忙しいし、家の中では家事がたくさんあります。

   静かに座って読書し、ものを書くいとまはないでしょう。

  私矩方(松陰)が長兄に望むことは、詩作ではなく、

  文書を書くことではなくて、人々に農事を教え、農業を指導して、

  人々を富ませる学問することに越したことはありません」

この文書から、「兄がいなければ自分はない」

と考える松陰の兄を敬う念が伝わってくる。

マリオネットの糸をゆるめる二十五時 赤松ますみ

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