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川柳的逍遥 人の世の一家言
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尺骨を弾けば六段の調べ  井上一筒


                       ごうすなりかぶと
 官兵衛とともに歴戦を戦い抜いてきた合子形兜

稀代の軍師・官兵衛が人並み外れて優れていたのは、

戦略や城下町づくりだけではなく、人心掌握術に長けていたことが、

黒田家譜や名将言行録によって伺い知ることができる。

「官兵衛の名言」

官兵衛と唯一の妻であるの間に生まれた嫡男・長政

幼少期を人質として過ごし、数々の武功をあげる武将へと成長した。

官兵衛は、そんな長政を頼もしく思いながら、

折にふれて、その猪突猛進な戦いぶりを窘めている。

悪口にぐっしょり濡れるのも修行  新家完司

官兵衛が長政に残した教えの一つに、

【大将たる人は、威と云うものなくては万人の押さへ成り難し】

というものがある。

これは、大将に威厳がなければ多くの人を統率することはできない。

というリーダーに必要な能力を明確に言っている。

さらに、
 こしらえ
【拵え事で、いかにも威を身につけたようにふるまってみても、

   それはかえって大きな害になるものだ】

と続く、他人から恐れられることが、威厳だと勘違いすると、

誰に対しても威張りちらすようになり、

誰も忠義を尽くそうとしなくなる。

と官兵衛は考えていた。

私のノートだどうだ重いだろう  居谷真理子

なお官兵衛は、本当の威厳とは、

【自分の行状を正しくし、理非賞罰をはっきりさせれば、

   叱ったり脅したりしなくても家臣は自然に自分を敬うようになり、

   法を軽んじるものもいなくなる。

   故に、自然と威厳が備わるもの】

と考えていた。

積み上げたノートがわたくしの地層  勝又恭子


長政が愛用した黒漆塗桃形大水牛脇立兜
        ひでり
【夏の火鉢、旱の傘ということを 能々味はい堪忍を守らざれば、

   士の我に服せぬものぞ】

暑い夏に火鉢は役に立たず。

同様に旱のときは傘はいらない。

しかし、必ずそれが必要になるときがくる。

家臣も同じで、そこをよく考え、無駄だと思えることも、

続ける忍耐力がなければ、人はついてこない。

夏の火鉢、旱の傘ということを 

よく味い堪忍を守らなければ、士は自分に従いてこないものだ。

真っ直ぐに歩いた路を子に残す  西田百合子      

官兵衛の民政は、

【神の罰より主君の罰おそるべし。主君の罰より臣下百姓の罰】

という考えを基本にしている。

主君への忠節が一番だった武士の世の中で、

官兵衛は神や主君罰以上に、臣下や百姓の罰は、

恐ろしいものだと言っている。

神や主君の罰は、功績と引き換えに許されるかもしれない。

しかし、為政者が間違った判断や政治を続ければ、

人々の心は次第に離れる。 

家臣や民の心が離れていくことが何よりも恐ろしいこと、

慈しみ気配りを忘れるな、とこれもまた、長政に説いた言葉である。

(官兵衛の名言まだまだあります。続きは後日に)

流れる雲と反省会をしています  西澤知子  

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しがらみを解いて手毬がよく弾む  土屋紀世子

「清洲会議における丹羽長秀の立場」

清洲会議の出席者は柴田勝家、羽柴秀吉、丹羽長秀、池田恒興の4人。

秀吉 対 勝家の主導権争いという形となる。
                      のぶかつ
後継者の資格では、信長の次男の信雄と三男の信孝

どちらも凡庸な人物で、多少ましな信孝を後継者に、勝家は指名。

対して、秀吉は信長の嫡男・信忠の子、三法師を推す。

滝川一益が欠席なので、3票とれば勝ちとなる。

思うこと誰も同じか穴子ずし  原 洋志

恒興の票は、諸々の絆から秀吉にいくものとほぼ確定している。

ここで、丹羽長秀の意見が重要となってくるのである。

この会議の前、長秀はすでに秀吉から内々に話を受けており、

秀吉につく内諾をしていた。

この約束にもとづいて、長秀は秀吉の主張を推し、

反論しようとする勝家に

「明智を討ったのは秀吉である」

と痛烈な一言を浴びせて、勝家を面破した。

みくびった雑魚に根幹握られる  上田 仁


  丹羽長秀

常識で判断すれば、成り上がり者の秀吉の下風に立つよりも、

長い間共に織田家に仕えていた譜代の勝家に協力するのが自然な形。

ところが、長秀は秀吉の内応依頼を簡単に承諾している。

長秀は何を思って秀吉に協力したのだろうか。

同じ譜代の家老でも、勝家は武力に優れた武将である一方、

長秀はあまり武に秀でた才はない。

数々の武功をたて、勝家の周りには、

佐久間盛政・佐々成政・滝川一益らが彼を慕って、

集団を形成している。

対して、各地の戦地において大きな手柄のない長秀は

信長の晩年は、手伝い戦や政治的用向きがほとんどであった。

手の皺に見つけた過去の深呼吸  山下和之

そして、明智軍との戦いでは秀吉の才能を間近で見て、

武力、知力、人徳といった秀吉の器量を身をもって感じたのだろう。

さらに、こうした周辺事情を考えあわせれば・・・。

勝家が実権を握った場合、

彼が率いていた北陸方面軍の佐々成政・佐久間盛政・前田利家や、

勝家を慕う滝川一益らが政権を握るようになり、

自分の出る幕はない。

一方、秀吉の性格から、秀吉に実権を握らせてやれば、

山崎の合戦に従軍したことや、

清洲会議で秀吉を推してやったことなどから、

決して悪いようには扱わないだろうし、

相談役として重く用いられるだろう。

長秀はそう考えたのではないだろうか。

八転びしても明日を信じたい  嶋澤喜八郎

「清須会議のもう一つの争点」-領地配分

信長死後の領地の配分おいて、

柴田勝家は、越前と近江・長浜を手に入れ、

秀吉は、播磨・山城・河内・丹波を所領に。

丹羽長秀は、若狭に加えて近江二郡を得、

池田恒興は、摂津の池田・有岡(伊丹)に加えて、

大坂・尼崎・兵庫といった摂津・河内の大半を獲得。

織田信孝は、美濃国全域を所領し、織田信雄は伊勢に尾張を加えた。

三法師の守役を務める 重臣の堀秀政も、

丹羽長秀の本領から、20万石を貰いうけ近江坂田郡も手にした。

ドクダミの白は秘策を抱いている  美馬りゅうこ

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この世からの出口は不意に現れる   新家完司



天正10年(1582)6月13日、光秀山崎の戦いで討たれ、

織田家後継者及び遺領の配分を決定することを目的に、

尾張の清洲城にて会議が執り行われた。

出席者は柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興の4名。

秀吉、勝家、長秀は織田家の宿老という地位で、

会議の列にいるのは当然だが、あまり実績もなく発言力のない、

池田恒興が何故、重臣として参加することになったのか・・・。

恒興は信長からの信頼が厚く、また恒興の生母が信長の乳母で、

信長とは乳兄弟という関係を重視し、秀吉が推挙したのであった。

会議で主導権を握りたい秀吉の思惑が見えてくる。

重臣の一人、滝川一益は北条との戦線にあり出席出来ず。

劇場へ運ばれてゆくペンと線  筒井祥文

        おぜほあん
ところで、小瀬甫庵「太閤記」、また大村由己「天正記」でも、

清洲会議の後継者問題は、もともと三法師に決まっていたと書いている。

秀吉は三法師を安土城に置き、信雄に後見させようとするが、

織田姓に戻った信孝は、自分が後見人になろうと企て、

勝家と与して、三法師の争奪戦が始まったというのである。

清洲会議の争点は、巷で知られている

「織田家の後継を、信孝にするか三法師にするか」 

ではなく、

「三法師の後見を秀吉にとって、

   御しやすい信雄にするか?信孝にするか?」

だったという。
                        のぶかつ
そのため信長の次男・信孝と三男・信雄は会議には出席せず、

別室での待機となった。

眼科で貰った世襲の舌の裏  井上一筒



これでは清洲会議が面白くない、ので従来のエピソードにする。

評定は信長の甲冑が飾られた主殿で行われた。

初っ端から秀吉が信長の後継者として名乗りを挙げるのはまずい。

光秀討伐は、あくまでも弔いのためという大義名分があり、

秀吉の野望が露骨になれば、反発は大きくなる。

そこで秀吉は、まだ幼い三法師を跡取りにして推薦することを進言。

もちろん幼い三法師には、一族を率いる力などないため、

成人を迎えるまで、

信長の遺児である信雄と信孝を後見人の据えようと提案する。

帽子から取り出す予感とか造花  富山やよい

そこで勝家は、信雄には織田家を継ぐ器量がないとして、

信孝を推した。

明智討伐に遅れた不手際を挽回しようと懸命だが、

口で秀吉に勝てるわけがない。

「事は天下の耳目を集める織田家の行く末。

   誰もが得心のいく節目の正しさが肝心どぇございまする」

「筑前め、三法師を傀儡にして、織田家を牛耳る企みに違いない」

勝家は歯噛みしたが、劣勢はどうしようもなかった。

一言が胸にストンと落ちました  合田留美子



信孝が主君になれば、

烏帽子親を務める勝家の影響力は増しただろうが、会議は、

長秀が秀吉の『長子相続の筋目論』を支持したことで、

信長の長男・信忠の嫡子・三法師が家督を継ぐことになった。

ともかく「甫庵太閤記」「天正記」は、清洲会議自体は波風立たずに、

終了したとも描いている。

むしろその後になって、信孝・勝家と秀吉の間の対立が深まっていく

様子が、主な内容になっている。

最終の器へ確と釘を打つ  吉道航太郎

清洲会議の決定をすんなり受け入れられない者たちがいた。

筆頭家老から転落した勝家と信孝である。

この両者に、清洲会議に声もかからず、

秀吉への不満を抱いていた伊勢長島の滝川一益らの「反秀吉派」は、

ちゃくちゃくと謀反の企てを進める。

しかし、それを見逃す秀吉ではない。

その年の冬、賎ヶ岳付近は燻り、勝家と刃を交える時が近付く。

終章で投げた小石に蹴躓く  上田 仁

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号泣や修験の道の蝉しぐれ  大西泰世


  柴田勝家

「柴田勝家の場合」

柴田勝家の北陸方面隊に「本能寺の変」の報が届くのは、

上杉景勝の支配する越中・魚津城を6月3日早朝に陥落させ、

その余勢を駆って、越後へ向かおうとしていた矢先であった。

一方、死に体になっていた能登・畠山氏の旧臣たちが、

この本能寺の変を聞き、上杉氏の支援を受けて、

能登奪回の巻き返しを狙ってくる。

勝家はすぐにでも京都に取って返したいところだが、

前田利家佐久間盛政らとも領国から離れられなくなってしまった。

戦局が落ち着いたところで、勝家は後事を利家・成政らに託し、

居城の越前・北庄城に帰り、光秀討伐の準備を開始した。

先発隊として、甥の柴田勝豊や従兄弟の柴田勝政を送り出し、

6月18日に近江長浜に到着した。

が、時すでに遅し、この5日前の12日に光秀は、

秀吉によって討滅させらていた。

世間みな見てきたつもり象の足  三村一子

「滝川一益・織田信雄の場合」

滝川一益は上野厩橋城を本拠として北条氏と対峙しながら、

東国の新領土の経営に奮闘しており、

本能寺の変の報せが届くのも大幅に遅れた。

信長の次男・織田信雄は、その時、本領の伊勢松ヶ島城にいた。

しかし、その兵の大部分は織田信孝の四国征討軍に従軍していたので、

信雄の周囲にはわずかな兵しかなく、

光秀討伐には動くことはできなかった。

じわじわのうちはなめくじでいよう  田中博造


  丹羽長秀

「丹羽長秀・織田信孝の場合」

丹羽長秀織田信孝が本能寺の報を聞いたのは、

四国へ渡る準備中の時で、毛利氏と交戦中の秀吉に比べれば、

距離的にも状況からも、摂津という、

信長の仇を討つにはベストな位置にいた。

しかし、長秀も信孝も摂津に留まって、

畿内の状況を静観するのみであった。

行動の全権は信孝にあったため、

凡庸な信孝が、光秀との戦いを渋った、

というのが正しい見方になっている。

畿内にいた長秀と信孝は秀吉の中国大返しを知り、

秀吉軍に合流して、やっと光秀との戦いに臨んだという。

手が二本足二本しか無いのです  山口ろっぱ

「徳川家康の場合」

徳川家康は、甲州征伐の際に駿河を拝領した礼をのべるため、

武田旧臣の穴山梅雪をともなって、

5月29日に安土城の信長に面会した後、

信長の勧めにより京都や和泉、堺を遊覧中であった。

堺で代官・松井友閑や豪商達の饗応を受けていたが、

6月2日の午前に変の報を聞くと、上洛と称してすぐさま堺を出奔。

その日は近江信楽の宿に隠れ、

3日朝、「伊賀越え」の道より伊賀に入り、

領国への最短距離となる間道を抜け、

伊勢の白子から船に乗り、領国・三河の大浜に到着。

命からがら本拠の岡崎城にたどりついたのは6月4日であった。

トトロとすれ違う暗渠の中ほど  井上一筒

これら、織田の主力の将の出遅れは、

2週間後に待っている「清洲会議」に大きな影をおとすことになる。

そして、先輩の将の出遅れを尻目に発言権を得た秀吉は、

いよいよ天下を手繰り寄せていく。

明智討伐は秀吉、中川清秀、高山右近、丹羽長秀・織田信孝

連合軍で行われている。

その中で、誰を「総指揮官」にするかにおいても、

家格で織田信孝または信長の家老級の順位で丹羽長秀というのが、

順当であったが、秀吉は最大の兵力を持つこと、

現地へ一番乗りしたことを述べ、指揮権を我がものにしている。

新しい風にただいま乗車中  立蔵信子

長秀は智は秀でてはいるが、戦国武将には珍しく野心がない人物。

秀吉の力量等を考慮し、秀吉が総指揮をとったほうが、

勝利の可能性が高いと判断し、遊軍にまわったのだとされる。

また同じ戦線に働いていた信孝は、

野心だけは人並み以上だが、

自主性はなく凡庸で、長秀の説得に従順に従ったものとされる。

君らしく咲いてくれればそれで良い  杉山太郎

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足の裏だけが知ってる空がある  八上桐子



 高松から山崎へ大返し

時間帯は官兵衛が行軍したもの。(各写真は拡大してご覧下さい)

6/6、高松城を夕刻出発、同夜、沼城で秀吉隊と合流。

6/7、姫路城に秀吉本隊到着、

6/9、姫路を早朝出発。
(尼崎の4里ほど手前で、毛利の旗を掲げたという)

6/11、前日夜に到着した隊は、早朝には尼崎を出発。

6/12、夜、富田到着、

6/13、昼前後に出発「山崎の戦い」へ残り12キロ。


姫路から尼崎間を2日で走破するのは、

長距離ランナーに匹敵する体力を要するといわれる。
(そのため、秀吉軍はかなり軽装だったと推察される)

マラソンの独走罪を背負うかに  三條東洋樹



 中国大返しの図

「中国大返し」

備中・高松から姫路への道中、官兵衛秀吉は緊張の頂点にあった。

信長の斃れたことに一度は講和が成立したものの、

吉川元春を筆頭に武闘派がどう反転してくるかもしれない。

光秀の討伐も急がねばならない。

そのタイミングを失すれば、

官兵衛の囁いた秀吉による天下統一の足がかりが、

決定的に失われることになる。

とりわけその動静を気にしていたのが、

信長の筆頭家老だった北陸の柴田勝家だった。

勝家は上杉との戦いの最中だったが、

主君の悲報を聞けば、直ちに光秀を討ちに行くことは間違いない。

それに先んじて、秀吉が光秀の首を獲る事は、

天下を収めるための必須条件なのだ。

「中国大返し」は、まさに限界を超えた強行軍となった。

俎板のくぼみに理由を詰めておく  笠嶋恵美子

そしてこの時、秀吉の胸中には様々の思いが去来していた。

考えも及ばなかった天下統一への道筋が目の前に開けたこと、

それに対して、直ちに目の据えた官兵衛という男の恐ろしさ。

「鋭利な刃物のごとき官兵衛という男は、

   やがて切っ先をこちらに向けてくるかも知れない」

そんな不安を持つようになっても不思議ではない。

ただ光秀討伐に待ったなしの状況で、

秀吉に熟慮する時間など、あろうはずはなかった。

ふあんのふ ふしぎふしぎのふもありぬ 高橋かづき



  天王山に陣取る秀吉軍

秀吉・秀長、黒田官兵衛、中川清秀、堀秀政の姿が見える。

左端、中村一氏の横に毛利・隆景、元春の旗が見える。

官兵衛と秀吉は明智側の動きを読んだ。

秀吉上洛を聞きつければ、

光秀もすぐさま安土を発って、京に向かうはず。

しかし京は陣を張った場合、防御するのが困難な場所。

必勝を期する光秀なら、

京の手前のどこかで秀吉軍を迎え撃とうとするに違いない。

明智軍との決戦が近付く、両軍の位置関係から戦場は、

山城と攝津の国境である「山崎の辺り」になる公算が大きかった。

地理的に山崎の西に位置してこの地を一望できる

天王山を制したほうが、この戦いに勝利することは間違いなかった。

官兵衛はあらゆる策を講じ、決戦前夜には、

秀吉の弟・秀長とともに、天王山を押さえた。

方位磁石は西を向かない  下谷憲子


 毛利の旗・一文字三星紋

いよいよ、秀吉軍と明智軍は山崎で向かい合った。

官兵衛がこの「山崎合戦」の折に、

毛利方から借りた吉川・小早川の旗指物を秀吉の陣営に並べたという。

「秀吉軍には、毛利勢も参陣しているとみせるため」

だったという。 (『名将言行録』)

これに明智軍はたじろいだ。

光秀も、ここに秀吉軍がいる以上、

毛利との講和が成立しているとは察したが、

毛利軍が早くも、秀吉のために挙兵していることに、驚いたのである。

心が折れた明智軍は総崩れとなり、支城である勝竜寺城に籠城する。

これを一気に制しようとした秀吉軍だったが、

明智軍は頑強に抵抗した。

しょせん私の私になんか負けないわ  徳永政二



  坂本城の鐘

籠城した軍勢を力任せに潰したとしても、

こちらの被害も大きくなる。

そこで官兵衛は勝竜寺城の北側にあえて隙を作り、

敗戦濃厚な明智側の者たちが、そこから逃げだして来るのを待った。

光秀は、わずかな近臣を従えて城を脱出、京方面に姿をくらました。

主を失った城内の将兵もまた相次いで、

官兵衛の作った道へ逃げてくる・・・。

天王山を押さえた時に、官兵衛の目には、

天下人の道を進む主君・秀吉の姿が見えていたに違いない。

壁の向こうは紅色の雪である  井上一筒

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