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川柳的逍遥 人の世の一家言
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変身の刑豚までにしてほしい  井上一筒



秀吉の書状

「領土確定問題」

「山崎の戦い」のあと秀吉が大坂城の築城と平行して、

取り組まねばならない課題が、

毛利氏との「領土確定問題」であった。

一般的には備中・高松城での講和で毛利氏との関係は解決した、

と見られているが、実は棚上げしたに過ぎなかったのである。

この領土問題に際して、秀吉は小早川隆景に書状を送り、

「自らが交渉に乗り出す」 と述べている。

しかし、これはいつもの秀吉の恫喝手法であって、

自身が交渉にあたるわけだはない。

その時刻には沈黙を手向ける  居谷真理子


   蜂須賀正勝

秀吉側で交渉に担当したのは、官兵衛蜂須賀正勝

一方、毛利側は安国寺恵瓊である。

恵瓊は毛利氏の配下にあって、秀吉とも交流があり適任といえる。

恵瓊は「信長の没落と秀吉の興隆」を予言した人物としても知られ、

交渉能力も優れていた。

何より情報収集と分析に優れており、

的確な判断を下すことに定評があった。
                               さるかけ
そして天正11年12月、恵瓊と就連は備中・猿懸城に赴いて、

官兵衛と正勝との面会を果たした。

もぐらたたきせめて一発反したい  柴田園江

高松城の戦いは、本能寺の変が勃発したこともあり、

とりあえずは清水宗治の切腹により幕を閉じた。

秀吉側が条件を少し譲歩したとはいえ、

実態としては、毛利側が不利なまま、終局を迎えた。

そのことを実感していたのは恵瓊であった。

そのような事情から、秀吉の要求は実に厳しいものであった。

秀吉が毛利氏に割譲を求めたのは、

備中・美作・備後・伯耆・出雲の五カ国である。

さすがに毛利氏側もすぐに呑むわけにはいかなかった。

流されているなと思いつつ流れ  前田咲二


  安国寺恵瓊の板絵

安国寺恵瓊は安土桃山時代の禅僧で大名。
「板絵」は約40㌢四方の大きさで江戸時代に描かれたとされる。

結局は備中・美作・伯耆に絞られた。

それでも、この交渉は難航を極めた。

① 備中外部を秀吉に譲る。
② 美作を秀吉に譲る。
③ 虎倉山、岩尾城からの撤退。
④ 常山城、松山城、高田城から一つ選択して残りは放棄する。
⑤ 伯耆の八橋城の割譲。

備中・美作の割譲プランである。

秀吉の要求はあまりに厳しかった。

官兵衛・正勝からすれば、備中半国を譲った形であるが、

当初から織り込み済みであったのだろう。

逆に恵瓊らにすれば、大きな成果であった。

身辺整理わたくしをそぎ落とす  岡内知香

ところが天正12年3月、「小牧・長久手の戦い」が勃発し、

官兵衛と正勝は交渉をいったん打ち切り、急遽帰国している。

改めて毛利氏との領土確定交渉が行われ、

解決したのは天正13年の2月であった。

毛利氏は備前と高田城を引き渡し、

八橋城と松山城はそのままということになった。

備中も高梁川から西を確保することができた。

この交渉における恵瓊が果たした役割はかなり大きい。

こうして毛利氏は、秀吉と和睦したが、

以後は秀吉の先兵として、各地に出陣することになる。

せめてこの一瞬凍らせてみたい  立蔵信子

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大根をおろすとじゃこが身構える  井丸昌紀


 秀吉・義久和睦の像

剃髪した島津義久は、名を龍伯と改め、薩摩川内の泰平寺において、

秀吉に跪いて降伏し、3歳にも満たない3女・亀寿を人質に出した。

「九州平定」

四国を平定した秀吉の、次なる目的地は九州であった。

九州とは、九つの国=州が集まっているという意味。(現在は7県)

筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後・日向・大隈・薩摩 を指す。

天正年間の初め頃は豊前、豊後を大友氏、肥前・筑後を龍造寺氏
                                                                ていりつ
薩摩・大隈を島津氏が抑え、鼎立していた。

一房の夢と甘露を追いかける  吉川 幸

それが徐々に島津氏の勢力が拡大していった。

天正6年の「耳川の戦い」で

九州最大の勢力を誇る大友宗麟の軍を破り。
                おきたなわて
さらに、天正12年の「沖田畷の戦い」では、

九州西部に勢力を誇っていた龍造寺隆信を敗死させた。

こうして島津氏が九州最大の戦国大名となれたのも、

当主・島津義久義弘・歳久・家久という優秀な3人の弟がいたから。

ともに武将としての資質に富み、精強な家臣団を抱えていた。

詰め込むとどこか歪みの出る器  たむらあきこ


   大友宗麟

彼らが協力して一時は、

豊前の一部を除く九州全土に版図を拡げたのである。

そんな島津氏の圧迫に苦しんでいた大友宗麟は、

秀吉に救いを求めた。

秀吉としても、九州全土を島津氏が支配するのは面白くない。

そこで天正13年(1585)10月、島津氏に停戦命令を下した。

その年の7月11日、秀吉は関白に任官したため、
                        そうぶじれい
朝廷の権力を背景に私闘を禁じる「惣無事令」を発令したのだった。

そして、天正14年5月に秀吉は、

肥後半国、豊前半国、筑後を大友氏に返すように命じた。

海胆の分際で信号無視をする  井上一筒

しかし島津氏は従うどころか6月になると逆に大友領に攻め込んだ。

その報に接した秀吉は、

7月に官兵衛を九州先遣隊として先発させる。

10月、途中で、毛利輝元・吉川元春、小早川隆景の毛利隊と合流、

官兵衛は、部隊の軍監として2万5千余りの兵で豊前へ攻め入った。

8月、豊前に着陣した先遣隊の一部は、高鳥居城を奪還、

小倉城を攻略。
       うるづ
つづいて宇留津城をわずか一日で陥落せしめ、

1千余りの首を斬獲したばかりか、

男女373人を生け捕りにして磔にかけた。

とんがらし入りの目薬です どうぞ  中村幸彦

無益な流血を伴う武力行使を、極力回避しようとした官兵衛の

戦術思想とは、相容れないとも思える行為だが、

実はそうではない。

宇留津城攻めでの厳酷な行為は九州平定に向けての、

周到な布石であった。

抵抗勢力を苛烈に処断することで、脅しの一面を見せる一方、

官兵衛は島津方になびいた大名や国人衆のもとへ

使者を送り込んでの調略を策すのである。

使者に選んだのは貝原市兵衛久野勘介だった。

変換キー願いを聞いてくださいな  下谷憲子

「九州の諸将は関白殿下の勢威盛んなることを知らず、

   島津になびいている。

   連中のもとへ使いして殿下の武威を知らしめよ」

「仰せながら、それだけでは容易に膝を屈するとは思えませぬが」

「来年には、殿下自ら九州へ下向なさることになっている。

   降参して味方するならば、

   殿下によきように申し上げて本領を安堵すると約束してやれ」

続けて官兵衛は、次のような言葉をつけ加えた。

「即座に島津と手切れ出来ないというのであれば、

   内々に志を通じ、殿下の御下向を待てと伝えろ.
              したた
   詳しくは、この廻文に認めてある」

官兵衛は、島津の報復をかわすための手順の詳細まで明示して、

細やかな気配りを演出したのである。

またこの廻文を、わざと敵の手に渡らせて、

疑心暗鬼を生じさせる作戦も考えていたのである。

まず致死量を確かめてからジンライム 山口ろっぱ


   貝原市兵衛       久野勘介

貝原市兵衛は、小倉から海路を経て筑前・筑後・肥後へ赴き、

久野勘介は、陸路を辿って筑前・秋月に至り、

さらに筑後・豊前の諸所を巡り、廻文を呈示して口上を述べた。

結果、諸将の多くはその旨に従って密かに内通を約束。

翌天正15年3月、秀吉自らが20万を超える大軍を率いて、

赤間関(下関)に着陣する。

九州に入ると秀吉は10万余りを率い肥後路を通って鹿児島を目指す。

弟の秀長が率いた10万余りの別働隊は日向路に向かう。

官兵衛はこの別働隊に参加している。

ブレーキを踏まずに交差点通過  笠原道子


義久秀吉と謁見の場面

秀吉をグッと睨み、悔しそうな義久の表情が滲みでている。

かくして秀吉が九州に入ると帰順する小大名が多く駆けつけた。

飴と鞭を見事に使い分けた、人間通の官兵衛らしい「勧降」である。

結果、秀吉軍に薩摩まで追い詰められた島津義久は、

秀吉への臣従を決意。

およそ2年をかけ、ついに九州平定となったのである。

細胞分裂喧嘩は止めにしませんか  竹内ゆみこ

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TAXI に乗ってきた高山右近  井上一筒

「こんな近くにある歴史」

高槻は阪急電車で大阪梅田から京都へ向かって15分、
NHK大河に出演中の高槻城城主・高山右近氏がこんな近くにおりました。


  高山右近記念聖堂

キリシタン墓地は「高山右近記念聖堂」から西北西へ
約100m程離れた場所にある。
大人や子供の墓が整然と配置され、
高山右近記念聖堂「二支十字を描いた木棺」などが見つかる。


二支十字を描いた木棺の蓋の墨書


高槻カトリック教会の前庭にあるユスト高山右近之像
これはイタリアの彫刻家ニコラ・アルギイによって彫られた。

テロップが流れ忘れた傘さがす  中川隆充


    野見神社

高山右近は、天正元年(1573)、父・飛騨守とともに「高槻城」に入り、
城の拡張などを行う一方、「キリスト教」を厚く保護。
家臣や領民へ布教を進め、一時、高槻は、
京都・堺と並ぶ近畿でのキリスト教布教の中心であった。
その拠点となったのが天正2年(1574)
城内の現・「野見神社」付近に飛騨守が建てた「天主教会堂」である。

宣教師・ルイス・フロイスの記録によれば、
大きな木造の教会堂と宣教師の宿舎を備え、
池のある美しい庭園の一角には、大十字架が建てられていたという。
神社東方の発掘調査では、教会に隣接していたキリシタン墓地が、
江戸時代の厚さ2メートルに及ぶ盛土の下から発見され。
棺の蓋板に墨書された二支十字や死者にそえられた木製のロザリオは、
発掘資料としては日本最古ものといわれる。

炎天をシャキシャキ崩すかき氷  美馬りゅうこ


  高山右近

「高山右近の生涯」

高山右近は、F・ザビエルによってキリスト教が日本へ伝えられた

3年後の天文21年(1552)に生まれた。

当時は戦国時代のまっただなかで、

右近の父親も小さな領主として戦いに明け暮れていた。

そんな時、彼の父はキリスト教に出会い信仰するようになる。

そして、摂津高山に生まれた右近は、12歳で洗礼を受け、

ジュスト(義人の意)の霊名を受けた。

この洗礼は父、高山飛騨守の意向によるものであった。

飾りボタンは校則が嫌いです  森田律子

この信仰に領主でもある右近に厳しい試練が訪れる。

天正6年(1578)荒木村重信長に謀反を起こすと、

右近は当時主君であった村重への忠誠を示すために、

妹と長男を人質に出して、これを翻意させようと尽力するが、

失敗する。右近26歳のときであった。

一方、信長は右近が自分に降下しなければ、

「宣教師とキリシタンを皆殺しにする」

と脅してきたのである。

悩む右近は城内にあった聖堂に籠り、祈り、

最後は武士を捨てる決心をし、

着物の下に着込んでいた紙の衣一枚で信長の前に下りた。

青に青重ねて深海魚になる  中野六助

こうして信長の下に全てを捨てた右近だったが、事態は好転する。

信長の気まぐれな気分で人質は解放され、

 再び高槻城主として活躍する場が信長によって与えられたのである。

この後、約10年間ほどはキリシタン大名として名実ともに活躍した。

安土城下でセミナリオ(神学校)の設立に尽力し、

高槻の領民の教化に務め、 貧しい人の葬儀の先頭に立つなどして、

キリスト教精神の「愛」を実践した結果、

領民の7割がキリシタンになっていた。

のり代をたっぷりとって受けとめる  笠嶋恵美子

その後、天正15年(1587)7月、突如、

秀吉より「バテレン追放令」が発布される。

棄教を迫られた右近は、

「現世においてはいかなる立場に置かれようと、

   キリシタンをやめはしない。

   霊魂の救済のためには、たとえ乞食となり、

   司祭たちのように追放に処せられようとも、なんら悔いはない」

と答えたため、領土を剥奪され、追放され、流浪の身となる。

ごっくんと飲み干す哀しみの記憶  山口ろっぱ

翌天正16年、加賀の前田利家の招きにより金沢に身を預け、

「南坊」の名で茶道と宣教に没頭した。

慶長17年(1612)、徳川幕府が「キリシタン禁教令」を発布、

続き慶長19年にキリシタン・「国外追放令」が出され、

右近は前田家に迷惑がかかるとし、極寒の中、

京都、坂本、大坂へと歩き、そこから船で長崎に入る。

そこからマニラへ向かい、43日後に到着、

マニラでは、ルソン総督らから大歓迎を受けたが、

苦難の道中と不慣れな南国の風土・食物のために身体を弱め、

到着後40日ほどで熱病にかかり、慶長20年2月3日、

63歳の生涯を閉じた。

野たれ死にしても笑っているつもり  和田洋子


    現代劇場

現代劇場の大ホールはセミナリヨ跡、文化ホールは司祭館跡。

この現代劇場では、毎月の第三木曜日、結社「卯の花」主催の句会が
催されている。ここに参加されている川柳人の皆様は、
「こんな近くにある歴史」を見ましたか。
これより歴史公園に入ってみましょう。

    
公園の入口手前に立つ高槻城に関する説明板と高槻城跡石碑

1573年には高山氏が町屋をも堀で囲いこんだ堅固な城を築城した。
現在の「槻の木高校あたりが高槻城の本丸があった」ところとされ、
槻の木高校の敷地に隣接して「高槻城址」の石碑が建てられている。
その東側の城跡は現在「高槻城跡公園」となっており、
歴史資料館なども整備されている。


   右近説明板

まず、しっかり読んで右近になじみましょう。


    右近像

キリシタン大名の姿で立っている。


城跡公園内の池と復興された天守台

天守があったのはこの場所ではなく、隣接の高校の敷地内にあった。

「城跡公園へ」



城跡公園の奥には日本庭園的な空間がある。
尚、城跡公園横の高校グラウンドは、
戦時中は陸軍工兵第四聯隊の駐屯地だったとのこと。
記念碑が立っている。




高槻城詳細マップに描かれている御殿・天守・門・櫓・堀などは、
残っていないが、「八幡宮」「野見神社」「本行寺」は現存する。


 しろあと歴史館   (入場無料)

歴史観の主な展示品


 高槻城の石垣基礎  右下の3つのみが実際に発掘された石垣石。

その他
キリシタンの遺骸とロザリオ
発掘された鯱瓦
伝右近のチョッキ    
伝右近の笠
高山右近書状    
高山右近手製の茶杓
田原レイマンの墓碑
江戸時代の火縄銃や銃弾
鎌倉時代の刀工「了戒」作と言われる日本刀。
江戸時代のものと思われる兜
                           などなど

 キリシタン墓地跡

高槻商工会議所の敷地内に「天主堂跡」の碑が建てられている。
ここが実際のキリシタンの墓地があった所で、
ここで発掘されたキリシタンの遺骨ロザリオなどは、
城跡公園北側・「しろあと歴史館」で見ることができる。

点描の一つひとつにある宇宙  嶋澤喜八郎

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不条理を問えば天から降る霰  森 廣子


フランシスコ・ザビエル

「官兵衛とキリスト教」

日本にポルトガルから「キリスト教」がもたらされたのは、

天文18年(1549)のことである。

イエズス会の宣教師であるフランシスコ・ザビエルは、

大友宗麟の庇護を受けて、キリスト教の布教に努めた。

その甲斐があってキリスト教は九州を端緒として日本各地に広まった。

ザビエル自身は、布教のための道を開いた段階で日本を去ったが、

そのあと来日したパードレ(司祭)、すなわちバテレン(伴天連)、

イルマン(修道士)たちによって、

キリスト教は着実に根を下ろしていった。

乾いた梅雨にやっとお湿り  武智三成

こうして天正10年には、都で2万5千人、豊後で1万人、

九州で11万5千人、合計で15万人のキリスト教徒が生まれた。

そして、キリスト教の信仰は戦国大名の間にも広がりをみせていく。

そうした中、

イエズス会・宣教師のルイス・フロイス「日本史」には、

官兵衛のことが記されている。

根を張った幹が世界を左右する  神野節子

「受洗した者のうちには、関白の顧問を勤める一人の貴人がいた。

   彼は優れた才能の持ち主であり、

  それがために万人の尊敬を集めていた。

   関白(秀吉)と山口の国主(毛利輝元)との間の和平は、

   この人物を通じて成立したのであり、

   彼は播磨の国に非常に多くの封禄を有している。     

   彼の心を動かしたのは、ジュスト(高山右近)であり、       

  アゴステイノ(小西行長)が彼を受洗へ導いたのであった。

  この貴人は,小寺シメアン(官兵衛)と称した」 

ちなみに高山右近は、飛騨の蒲生氏郷も受洗へ導いている。

ステップの向こうに夢が続いてる  菱木 誠


             洗礼儀式

上述のごとく官兵衛がキリシタンであったことはよく知られている。

官兵衛が入信したのは、天正11年(1583)頃とされ、

毛利氏との領土確定問題や、大坂城普請などに奔走していた時期だ。

大阪あたりで小西行長、蒲生氏郷、高山右近らの誘いを受けた,

と考えれば、フロイスの記述とも一致する。

洗礼名はドン・シメオン(Simeon josui)という

ローマ字印を用いた。

シメオンとは「聞く、耳を傾ける」という意味であり、

「josui」は出家後の号である「如水をローマ字にしたもの」

である。

(このローマ字印を押した書状が今も残っている)

ゴキブリに名前を付けて満ちている  藤本秋声

ちなみに天正6年、官兵衛が荒木村重の説得のために単身、

有岡城に赴いたのは、二人がキリシタン同士であったからだ、

という説が存在したが、官兵衛が入信するのはその5年後であり、

また最近では、村重がキリシタンであったことが疑われている。

官兵衛は家臣や領民に対し、キリスト教を熱心に勧めたという。

彼がキリスト教の何に強く惹かれたのかは、わからないが、

あるいは有岡城での幽閉体験が影響していたのかも知れない。

こだわりは愛偏屈は葬ろう  伊東志乃

天正15年には息子の長政(ダミアン)

弟の直之(パウロ)も洗礼を受けた。

官兵衛のキリシタンとしての心構えを、

フロイスは次のように記している。

「そなたが予を父と思い、とりわけ何事かにおいて、

   予を喜ばせようと欲するならば、

   そなた、ただちにキリシタンの説教を聴いてもらいたい。

   だが、そなたをキリシタンになることを,

   強制しようとは思っていない。


   それは、我らの主なるデウス様がそなたに与え給うはずの御恵みと、

   聴聞した教えについての理解のほどに待つべきことだからである」

官兵衛は長政にキリスト教の入信を強要せず、

その自主性に任せている。

しかし、結果的に長政は,キリスト教を信仰するに至っている。

淋しくていつも誰かを愛してる  中村幸彦

(画面を拡大してお読み下さい)
官兵衛の信仰の心

「秀吉とキリスト教」

奇しくも長政らがキリスト教に入信した天正15年6月、

秀吉は突如「バテレン追放令」を発布した。

これにより官兵衛は直ちに棄教したが、

高山右近のように信仰を捨てない者もあった。

最終的に右近は、迫害を避けるためフィリピンのマニラに逃れた。

人という合せ鏡にある迷路  次井義泰

官兵衛は信仰を捨てたものの、

キリシタン大名の小西行長の遺臣らを保護し、

また遺言では、博多の教会への寄付を命じている。

さらに弟の直之は、秋月の領地を拝領しても、

キリスト教を保護し、領内にレジデンス(司祭館)を建設するなど、

生涯、キリシタンを通した。

「汝の敵を愛せよ」はキリスト教の基本的教え。

向日葵も夜には雫するのです  杉浦多津子

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福助の耳の埃は拭かぬよう  くんじろう


   豊臣秀吉

「関白・豊臣秀吉」

本能寺の変後、明智光秀を討ったのは羽柴秀吉である。

秀吉は、「山崎の戦い」で光秀を討ち、さらに翌天正11年4月、

「賤ヶ岳の戦い」で対抗馬の柴田勝家を倒し、

信長の後継者としての地歩を固めた。
               のぶかつ
その後、信長の遺児・信雄と結んだ家康と小牧・長久手で

戦うことになるが、秀吉の天下統一の方向で進んでいった。

宝石箱を満たす足りないものは何 前岡由美子

事実、「小牧・長久手の戦い」の直後、

秀吉は従三位、権大納言となっている。

秀吉は朝廷内の官位でほかの大名たちの上に立とうとした。

そして、天正13年7月、従一位に叙され、

「関白」に任官したのである。

それまで、藤原氏以外の人間が関白になったことはない。
       ゆうし
近衛前久の猶子となって便宜的に藤原氏となり、

「藤原秀吉」ととして関白になったのだ。

しかし、その直後、秀吉は新たに豊臣の姓を与えられ、

「豊臣秀吉」として関白政権をスタートさせた。

心が動く時的だって動く  杉山太郎         


   聚楽第行幸

関白・秀吉政権の施策の特徴は、一つは官位による大名編成である。

天正16年4月の後陽成天皇の聚楽第行幸は、

そのピークをなすものである。

諸大名たちは後陽成天皇の前で、関白秀吉への臣従を誓わせられた。

秀吉が従一位関白で、以下、信雄が正二位内大臣、

家康が従二位権大納言というように、

官位によってランクづけがなされ、

秀吉をトップとする大名編成の原則がうちたてられた。

青い空どんな夢でも描けそうだ 河村啓子 
                   おくりょうごくそうぶじれい
もう一つの特徴は、「関東・奥両国惣無事令」の発布に典型的な、

関白としての論理を前面にだした大名支配である。

「関東・奥両国惣無事令」というのは、現存する文書からすると、

天正15年12月3日に出されている。

「惣無事」とは、戦いのないという意味で、

私戦停止令として位置づけられている。

つまり秀吉が、

「関白としての権限において、

関東と出羽・陸奥においては、今後、私戦を禁止する」

としたものである。

秀吉が、関白の論理で全国支配に乗り出したことを物語る。

もぐら叩きかだるま落としか決まらない 大沼和子

ほか、秀吉の施策で代表的なものに、

「太閤検地」と「身分固定化」がある。

太閤検地で秀吉は、ただ土地の面積と収穫量を調査しただけでなく、

検地帳に登録された耕作者を百姓とし、それを年貢負担者と定めた。

続いて秀吉は、身分統制令を出している。

これは、侍・中間・小者などが新たに農民や町民になること、

逆に農民が耕作を放棄して、商人になることなどを、

禁止したものである。

これが、江戸時代の士農工商の身分の原点になる。

竹串がスッと通れば春ですね  米山明日歌

秀吉自身は周知のように貧しい農民の子から身をおこし、

ついには、関白にまでなったわけであるが、

自らが天下統一を成し遂げると、

再び自分と同じような人間が生まれる可能性を否定した。

秀吉は、自分が下克上でのしあがりながら、

下克上の社会を否定したことになる。

これらの政令以前に秀吉は、「刀狩り令」を出している。

これもまた、いつまた下克上の嵐が吹き荒れるかもしれないという、

秀吉の不安感を持っていた現れとされる。

じゃこ食って骨と根性太くする  新家完司

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