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川柳的逍遥 人の世の一家言
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どう畳んでも右足が入らない  森田律子

 
          城井谷j絵図 (築上町教育委員会蔵)

「官兵衛の人生で唯一、残虐な謀略」

天正15年(1587)官兵衛秀吉から「九州征伐」の功績として、

豊前六郡12万石を拝領することとなった。

大きな功績にもかかわらず、恩賞はあまりにも小さかった。

やはり秀吉は、

「自分に対して恐れを抱いており、力を与えようとはしない・・・」

官兵衛がそう感じるのも無理はなかったであろう。

ともかくも、官兵衛は九州の新天地へと辿り着いた。

そして豊後国下毛郡中津川に、中津城を築城し居とする。

疑問符が備考欄から叫んでる  山本昌乃

息子・長政もまだ未熟ながら、侍として成長著しい。

秀吉の軍師となってから15年、

家臣として務めが終わったことを感じ始めるようになった。

しかし、それを許さぬ事態が発生した。

秀吉から拝領した佐々成政の強引な押さえつけに、
      くまべちかなが
反発した隈部親永を中心とする地侍たちが決起し、

一揆を起こしたのである。

秀吉の許可を受け、鎮圧の一翼を担うこととなった官兵衛は、

他の鎮圧軍と筑前で合流する。

寝袋を出て寝袋を風に干す  井上一筒


   城井城上の門

人ひとりしか通ることが出来ない狭い門。
この狭さに官兵衛は打つ手もなく苦戦を強いられる。

ところがそこに、さらなる驚きの一報が入ってきた。

官兵衛のおひざ元、豊前でも反乱が勃発したというのだ。
                       きいだに
蜂起の中心人物は、400年来、城井谷を拠点としてきた
         しげふさ
国人の宇都宮鎮房である。

本領安堵を望む鎮房に、秀吉が伊予国移封を下したことが原因だった。

さすがの官兵衛も青くなり、すぐ豊前へと引き返す。

オクラほどの粘りが性に合っている  下谷憲子


宇都宮鎮房の兜

地元の名門の子孫である鎮房は、足軽から身を起こした秀吉に

従うことを執拗に拒んだ。

そして「城井谷城」に挙兵する。

負けじと長政も挙兵し戦おうとするが、

鎮房は奇岩に囲まれた狭い谷に鎮座する城井ノ上城へ立てこもり、

頑強に抵抗を続けた。

長政の軍勢は押し返され、長政自身も傷を負った。

官兵衛は、「弱敵と侮るな。油断が敗北を招く」

と長政を諭し、「勝つこと考えろ」 と檄をとばす。

父という大きな無言立っている  和田洋子

難攻不落の要害に官兵衛は討伐を断念し

秀吉に使者を派遣し、秀吉が仲裁役とし、偽装の講和を提案する。

それは、鎮房の娘・舞姫が長政に嫁げば、黒田家の親族となるので、

「宇都宮氏の旧領は安堵する」 

という条件であった。

しかし官兵衛は講和での事態解決をよしとしていなかった。

領国経営のためにあえて、非情な措置をとったのである。

玉葱の薄皮ほどのせめてです  新川弘子


    合元寺 (朱色の壁の下には血痕が残る)

天正16年(1588)官兵衛は、

わずかな家臣を連れ、婚儀の祝宴に中津城を訪れていた鎮房を、

長政に謀殺させたのである。
         ごうがんじ
中津城近くの合元寺に待機させられた鎮房の家臣たちも惨殺される。

その時に飛び散った血が、門前の壁を赤く染め、

以後、何回塗り替えても、

血痕が浮き出てくるという怪現象が絶えないので、

合元寺では、壁を朱色にしたといわれている。

耳の日の壁へ交響曲「ヒロシマ」  八上桐子

天下平定にあたって転封や国替えは避け難く、

従わない勢力は断固取り除く。

秀吉とともに各地を平定した官兵衛には、

どんな手段をつかってでも、

それを果たすという凄みが染みついていた。

これも先々の領国経営を考えて、叛乱の種は残さないという、

官兵衛の意思表示でもあった。

反面この事実は、官兵衛のわだかまりになっていた事が

晩年の言葉に中に残る。 (この言葉は後述、名言集へ)

研ぎ上げた刃先に映る悔いひとつ  桑原伸吉

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百年に一度の咳を二つする  井上一筒


    聚 楽 第

天正15年(1587)10月1日、秀吉は九州平定と

「聚楽第」の竣工を祝し、北野天満宮境内で「大茶会」催した。

茶席には、秘蔵の名物茶器・道具が展示され、また、

秀吉自ら亭主を勤めるなどして、多数の参会者で大賑いだったという。

茶会は九州平定を終えた7月早々に企画され、

その月の28日に京都・五条などに「触書」を出された。

7月の末より、諸大名・公家や京都・大坂・堺の茶人などに

10月上旬に茶会を開く旨の朱印状を出した。

これは豪華絢爛な聚楽第の披露に併せ、

秀吉が京都の朝廷や民衆に威光を見せつける目的があった。

ことさらにはしゃぐイソギンチャクになって
                  山口ろっぱ
 


 茶席の井戸「三斎井戸」

触書の内容は次の通り。

① 北野の森において10月1日より10日間、大規模な茶会を開き、

秀吉が自らの名茶道具を数寄執心の者に公開すること。

 茶湯執心の者は若党、町人、百姓を問わず、釜、釣瓶、呑物1つ、

茶道具が無い物は、替わりになる物でもいいので持参して参加すること。

③ 座敷は北野の森の松原に畳2畳分を設置し、

服装・履物・席次などは一切問わないものとする。

 ④ 日本は言うまでもなく、数寄心がけのある者は唐国からでも

 参加すること。尚、遠国からの者に配慮して10日まで開催する。

 こうした配慮にも関わらず参加しない者は、今後茶湯を禁止する。

 ⑤ 茶湯の心得がある者に対しては場所・出自を問わずに、

 秀吉が目の前で茶を立てること。

巻貝は空を飛べたのだきっと  くんじろう


  北野大茶会の図

茶会初日は、北野天満宮の拝殿を3つに区切り、

その中央に黄金の茶室を持ち込んでその中に、

秀吉自慢の名物・「似たり茄子」などが陳列された。

また、麩焼き煎餅、真盛豆等の茶菓子が出されたとされている。

御触れの効果からか当日は京都だけではなく、大坂・堺・奈良からも、

参加者があり総勢1,000人にも達したという。

お互いをちりめんじゃこと笑い合う  松山和代

会場では野点が行われた。

4つの茶席には、秀吉と茶人3名(千利休・津田宗及・今井宗久)

を茶頭として迎え、来会者には身分を問わず公平に籤引きによって、

各席3-5人ずつ招き入れて名器を用いて茶を供した。

秀吉は午前中は茶頭として茶を振舞い、

午後には会場内各所を満足げに視察して1日を過ごした。

0を書く真ん中が頂点  田中博造

ところが、10日間開催の予定だった茶会が、翌2日目が中止され、

その後も再開されぬまま終了となった。

理由は初日の夕方に発生した肥後一揆が発生したという知らせが入り、

秀吉が憤慨し気分を悪くしたというのが有力な説だが、

「単なる関白の気まぐれである」とか

「秀吉が数百人も茶を点てるのに疲れてしまった」

ともいう説もある。

一日を微塵切りして前を向く  岩根彰子


   佐々成政

(肥後国人一揆)

九州征伐の功績で、秀吉は佐々成政に肥後一国を与えた。

秀吉は、「性急な改革を慎むように」と指示したが、

病を抱える成政だったが、秀吉の意見を無視し検地を強行した。

これに反発する肥後国人が一斉蜂起したのである。

成政はこれを自力で鎮めることができなかった。

このため失政の責めを受け、安国寺恵瓊らの助命嘆願も効果なく、

摂津国尼崎法園寺にて、切腹を命じらられたのである。

大坂城の秀吉に釈明に向かう途中であった。

切腹の日、成政は秀吉憎しの一心で、大阪城の方角を睨みつけたまま、

腹を切り、目一杯歯を食いしばったため、

歯がポロポロと抜け落ちたという逸話がある。

この肥後国人一揆の火種は、官兵衛・長政の城井谷城に飛火する。

敵の敵は味方じゃないと傷が言う  竹内いそこ

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強いから泣かないのではありません  青砥たかこ


 黒田如水縄張図 (中津市歴史民族資料館蔵)

これは黒田如水が描いた中津城の縄張り図だと筆書きされている。
城は、本丸を忠心として北側に二の丸、南側に三の丸が配置されている。
その形状が扇型をしていることから「扇城」と呼ばれる独特な城構え。
官兵衛らしく周到な城で、中津の地形を生かした鉄壁の防御で、
攻めるに攻めにくい、攻められたとしても退路は海側に確保されている。
(この絵図は官兵衛の絵を元に17世紀に写されたものである)

「新天地-中津」
     いばく
秀吉の帷幕に加わって以来、官兵衛の働きは、

文句のつけどころがなかった。

秀吉が信長の後を継ぎ、

天下人への道を歩むことができるようになったのも、

「官兵衛の働きがあってこそ」といっても過言ではない。

だが恩賞に関しては、その働きと比例しているとは言い難かった。

秀吉のもとで働き始めた当初は、

小寺家の家老という立場であったため、致し方なかった。

だが、秀吉に仕えるようになってからは、

もっと恩賞に預かったとしても、誰からも文句は出なかったであろう。

手頃だと亀の子束子わたされる  河村啓子

そんな官兵衛は、四国征伐の翌年の天正14年(1586)春、

従五位下勘解由次官に任じられた。

そして播磨国宍粟郡などで2万石、

赤松氏の旧領から8千石を領することになった。

さらに嫡子の長政が丹南で2千石与えられたので,

合わせて3万石であった。

そんな官兵衛は九州征伐でも、抜群の働きぶりを発揮した。

秀吉はつねづね官兵衛に

「九州を平らげたら、どこか一国を与えてやろう」

と口約束をしていた。

だが、九州平定が成ったときに、秀吉が官兵衛に与えたのは、

豊前8郡のうちの6郡,石高にして12万石であった。

水底にゆっくり溜まる不協和音  青砥和子

これまでの天下統一事業に向けた官兵衛の貢献度を考えれば、

一国すら与えない恩賞は、明らかに冷遇である。

秀吉が故意に恩賞を抑えたのは、

官兵衛の勢力を増大させることを恐れたからである。

間近で官兵衛の才能をまざまざと見せつけられた秀吉は、

自分にすら取って代わりうる傑物として、警戒したのである。

尚、秀吉は、官兵衛に400年続く名門・宇都宮一族がいる

豊前に「領地を構えるように」と命ずるのである。

官兵衛は秀吉のこの言葉に、

この地で起こるだろう嵐の予感がしてならなかった。

もう何も言わずにちりめんじゃこになる 早泉早人


    中津城

海と川が自然の要塞となっている中津川の河口に築城された中津城。
官兵衛時代の城には、写真のような天守閣はなかった。
現在の中津城は、明治4年廃藩置県により廃城となったため、
後年の復元であり、二の丸は模擬天守である。

豊前国に入った官兵衛は、秀吉の命ずるとおり最初は、
みやこ
京都郡(福岡県行橋)にある「馬ヶ岳城」を居城とした。

その後、秀吉から「どこに住んでもよい」と言われたので

官兵衛は馬ヶ岳城に入城したその年のうちに、

中津城築城に着手している。

なぜ官兵衛が中津へ城を構えたのか。

 馬ヶ岳城のある京都郡が、所領した豊前国6郡の北端だった、

のに対し、中津は領内のほぼ中央に位置していること。

 豊後街道によって、豊後・筑後方面へのルートが開けていたこと。

さらには、周防灘を利用した海路を利用できること。

 中津は地勢面で有利な点が多いこと。

一国の領主となった官兵衛は、

領内の統治と産業経済発展の両面を睨みながら、

そのポテンシャルを十分に備えた中津の地を選んだのである。

良いことを言う占いの方へ行く  中野六助

天正16年(1588)正月、中津城の築城が開始され、

直後に、官兵衛と長政親子は馬ヶ岳城から中津へと移っている。

同年4月、一旦は降伏させた地元豪族の宇都宮氏を率いていた

宇都宮鎮房が反抗的だったため、中津城に誘い入れ謀殺。

さらに、合元寺に控えていた宇都宮氏の従臣たちもすべて惨殺し、

宇都宮氏を滅ぼした。

これは、秀吉の指示により長政が実行したとされている。

合元寺の庫裏の柱には、当時の生々しい刀傷の跡が残る。

こうして、領内の反対勢力の封じ込めに成功した官兵衛は、

中津城下の整備を着々と進めていった。

浮いてさえいればいつかはむこう岸  橋倉久美子


   おかこい山    

城下町を守るために、中堀・外堀沿いに "おかこい山" と呼ばれる
土塁がめぐらされていた。寺町の自性寺境内に遺っている。

「中津城の特徴」

中津川の河口に建つ中津城は、海と川を自然の要塞とした好立地にある。

実際に川側から城の方向を眺めてみると、川はまさに堀のように見える。

またいざという時の海路の確保、物資の輸送にも便利な場所なのだ。

川や城内の堀は、潮の干満によって上下するのも特徴で、

今治城、高松城と並ぶ日本三大水域に数えられている。

城の東には二重、南は三重の堀を有し、

外堀には城下の守りを強化するため、

さらに"おかこい山"と称する土塁を巡らせている。

いまもその土塁が町中に見られるほか、

黒田時代の町割や町名などが使われている。

姫路町、京町、博多町など、如水が偲んだと思われる町名が、

「黒田如水縄張図」 に明記されている。

人生のガイドブックが良く売れる  合田留美子

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極楽も地獄の鐘もただゴーン  奥山晴生


南蛮屏風 に描かれた南蛮人(長崎歴史文化博物館蔵)

中央で傘をさしかけられ、腰にはサーベルを携え、
赤いマントを風になびかせている男性は、南蛮船の船長だろうか、
後ろにお供が続き、黒人も描かれている。

「バテレン追放令」

フランシスコ=ザビエルは、布教のための道を開いた段階で

日本を去ったが、その後、来日した司祭、修道士たちによって、

キリスト教は着実に根をおろしていった。

その頃、仏教そのものが衰退していたことも、一つの原因であり、

さらにイエズス会がその地の戦国大名に積極的に働きかけ、

大名を受洗させていったことも大きい。

彼らをキリシタン大名とよぶが、肥前の大村純忠を皮切りに、

大友宗麟、有馬晴信、高山右近、結城忠正、小西行長らが、

キリシタン大名となっていった。

信じたいからポケットはめくらない  森田律子


    南蛮貿易

ただ注意しなければいけないのは、

彼らが単純に信仰上の理由からだけで、受洗したわけではなかった。

イエズス会士たちは、戦国大名たちが隣国との戦いに勝つため、

鉄砲・火薬・皮・鉄といった軍需物資を

欲しがっていたことも知っていた。

ポルトガル商船によってそれらの品を運ばせ、

それと引き換えに領国内布教の許可を得たのである。

こうして天正10年(1582)には、

15万人のキリスト教徒が生まれた。

当時の日本の総人口は1千5百万人ほどだから、1%の比率になる。

それから数年の後には、キリスト教徒が70万人にも急増している。

玉葱の甘さあなたも剥きなさい  蟹口和枝


  バテレン追放令

ところが、天正15年(1587)九州平定がすむと秀吉は、

長崎とその周辺がイエズス会領とされている状況を問題視し、

「バテレン(宣教師)追放令」を発した。

九州平定後の国分けで、島津氏を薩摩・大隅の2国と日向の1部に、

大友氏を豊後へ、竜造寺氏(鍋島氏)を肥前佐賀へ封じ、

そのほかの領地には、

在地の小大名や自分に協力した大名に恩賞として与えた。

その時、イエズス会による長崎の領有が問題となったのである。

お静かに0と1との会議中  上山堅坊

秀吉にとって主権者が誰か、明確にしておく必要があったのだろう。

そこで早速秀吉は、長崎・茂木・浦上の地を没収して直轄領とした。

しかし追放令真の狙いは、長崎における南蛮貿易の利益を抑えることにあった。

現に、ポルトガル船の来航は禁止されず、

追放令後のキリシタン取り締まりは、さほど厳しくなく、

彼らは非公然ではあるがかなり自由に活動している。

おとといを流して仮面着け替える  笠嶋恵美子

「挿し込みエピソード」

ーバテレン追放令撤回を求めるために秀吉に会見を願いでる官兵衛。

「九州平定を終わって国分けを行おうとしていた秀吉のところに

   官兵衛が参上しても、官兵衛に会おうともしなかった。

   秀吉は官兵衛に三か国を与えるような期待を抱かせながら、

   豊前しか与えず、

   それも豊前国の一部を接収して毛利吉成に与え、

  『汝がキリシタンゆえにこそこれを没収した』と言った」

と記している。
                ルイス・フロイスの「日本史」より

茹で過ぎたパスタスタメン外される  山本早苗


ポルトガルのキャロック

さて、布教活動が広がっていく一方で、

インドや東南アジアの緒地域でみせたように、布教の名を借りた

日本植民地化計画の方針があった疑いがある。

長崎からイエズス会総会長に送った書簡の一節に、

次のような驚くべき内容が書かれているのである。

「日本は海軍力が非常に弱く、兵器に不足している。

   そこでもし国王 陛下が決意されるなら、

   わが軍は大挙してこの国を襲うことが出来よう。

   そしてこの地は島国なので、主としてその内の一島、

   すなわち下又は四国を包囲することは容易であろう」

トンネルの横に実験室はあり  井上しのぶ

下というのは九州のことなので、ポルトガルが日本を攻めれば、

九州と四国ぐらいは奪い取れると言っているのだ。

従来、この文書の存在はあまり知られていなかったらしく、

ポルトガルによる日本植民地計画については議論にならなかった。

しかしこの書簡の発信者ペデロ・クルスは、

長崎で神学を教授していたイエズス会の中での文化人、知識人であり、

そのような人物がイエズス会会長に日本への

軍事力行使を勧告している点は、無視できないのではないか。

ぼこっぼこっとアスファルトから黒い手が 山田ゆみ葉

秀吉・家康が彼らの意図を見抜いていたかどうかは分からないが、

秀吉・家康によるキリスト教弾圧は、この点に限ってみれば、

結果的にポルトガルの軍事的進出を阻止したことになる。

だしじゃこの訴訟もやがてケリが付く  井上一筒

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俎板に水の残っている揺らぎ  八上桐子


   藩中屋敷

20万石程の大名屋敷の大きさ歌川広重絵)

「官兵衛の報酬について考える」

稀代の軍師と言われ、天下統一の陰の立役者である官兵衛は、

生涯、一度の負け戦もなく、秀吉の側近として活躍した。

その秀吉との二人三脚とさえ言われる彼の評価は、

当時の報酬で考えたときに、果たしてふさわしかったのか。

とくに九州征伐後の彼に対する恩賞は中津・12万石。

これは官兵衛の働きに対する報酬としては、

不十分なものだったという印象を持つ人が、沢山いる。

一昨日がアルミホイルにくっついて  オカダキキ

しかし、数字だけで追わずに背景を辿ってみると、

当時、秀吉の無二の親友である蜂須賀正勝が、

九州攻めで得た報酬に次ぐ、石高だった事実にたどりつく。

官兵衛は四国攻めが終わったころに、4万石の大名だったが、

九州の島津征伐後には豊前国の3分の2を与えられ、

12万石の大名になった。

この数字を加藤清正や石田三成、福島正則らが20万石以上を

得たのと比べて少なすぎると感じ、

「秀吉に警戒されて冷遇された」

という話が黒田家譜にさえ書かれている。

つま先立ちでみるあいまいな未来  高島啓子

だが、これには間違いが二つある。

一つは、官兵衛が豊前を与えられた段階でいえば、

織田軍団と関係ない毛利上杉に代表される外様的大名、織田家一族、

それに、前田・佐々・丹羽など秀吉の同僚というべき有力・織田家臣。

さらに、秀長秀次のような豊臣家の人々を別にして、

秀吉譜代の家臣群のなかでは、

蜂須賀正勝の阿波一国というのが最大で

その次が、官兵衛の豊前国の3分の2なのである。

生乾きのかさぶたを剥がしましょうか  岡谷 樹


  福岡城本丸の図

次に石高だが、公平に比較するために、

太閤検地の結果をもとにした慶長3年の国別石高でみると、

阿波が18万石に対して、豊前が14万石だから、

官兵衛は10万石程度ということになる。

江戸時代の大名の石高として知られるのは、

関が原の戦いのあと諸大名が、江戸幕府に自主申告した石高で

豊前一国プラス豊後の一部を与えられた細川忠興

38万石だったことからすると、

豊前一国は30万石に値するものである。

比率くずせば幽霊になりますが  徳山泰子

徳川時代は豊臣時代よりかなり水増しされた数字になるが、

太閤検地で10万石程度というのは、

江戸時代の20万石以上に相当するのである。

ただし、官兵衛に豊前が与えられたより後になって、

加藤清正、小西行長、福島正則、石田三成などに

10数万石とみられる領地が与えられている。

このあたりは、世代交代で次の世代がそれぞれの功績に応じて、

大きい領地を得たのである。

それに対して、官兵衛は全盛期を過ぎ、長政は若かったから、

まだ加増されなかったと考えられるのである。

微調整ならと水溶き片くり粉  山本昌乃


「官兵衛を苦々しく思う秀吉」

秀吉は官兵衛の優れた才智や野心家ぶりを警戒して、

「官兵衛を自分から遠ざけた」という説がある。

これも黒田家譜に書かれてある。

官兵衛と親しかった小早川隆景は、

「官兵衛は素晴しい知恵者で、なんでもどんどん決めていく。

   私はかれほどの才能はないので決めることには慎重だが、

   じっくり考えるお陰で間違ったことには,滅多にならない」

と評した。

イケメンの駱駝に乗ってきた胡椒  山本早苗

そうした官兵衛の才気煥発ぶりや、恩賞の約束を言いふらして、

危ういと見られていたという話は、多々、伝えられている。

かなり広く官兵衛についての人物評として、見られるところで、

官兵衛がそういう印象を与えていたのは事実のようである。

秀吉は官兵衛が自分と同じような考えをすることを、喜んでいた。

ただ、秀吉が政治的な判断で口にしないことを、

すぐに言ってしまうことを、

秀吉は善くも悪くも疎ましく思うようになった。

すなわち、秀吉は官兵衛の才能を買っていたが、

世が落ち着きだして、官兵衛の出過ぎることを

「苦々しく思った」というのが真のところであろう。

さすがの官兵衛も戦術は得意だが、処世術は駄目だったようだ。

わたしよりわたしの口が前に出る  大海幸生

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