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川柳的逍遥 人の世の一家言
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どの足も使いこなしているムカデ  竹内ゆみこ    



天王山の陶板画に描かれた「山崎の戦い」

「山崎の戦い」

本能寺の変で信長が天下を目前に無念の死を遂げたすぐあとのこと。

官兵衛はただちに街道を封鎖して、毛利軍への情報を遮断し。

何事もなかったかのように平静を装いながら、

毛利の相談役・安国寺恵瓊と講和をとりまとめた。

これまで難航をしていた和睦を、

わずか一日半で成立させた手腕はさることながら、

その交渉の席で、毛利氏の旗を借り受けたという先見性が、

数日後に起こる「山崎の戦い」の趨勢を決定づけるのである。

水玉模様ですか新しい羽根  森田律子

備中高松城の・清水宗治が切腹して和睦が成立した直後、

信長の死が毛利軍の知るところとなる。

毛利の追撃を警戒した秀吉が官兵衛に相談すると、

「水攻めに使用した堤防を切れば敵は水が引くまで、

    軍をすすめることができなくなる」

と答え、殿軍を買って出る。

また、毛利輝元に人質を返すようにも進言する。

ぶれない覚悟をブランコの風から  飛永ふりこ

それは、光秀との決戦に勝てば天下は秀吉のものとなって、

人質などいなくても、輝元に反抗する力はなくなり、

もし、光秀との決戦に負ければ、秀吉は生きていないので、

いずれにしても人質は必要なく、

ここで毛利氏に対して寛容な態度を見せておいたほうが、

のちにプラスになるという官兵衛の考えであった。

2番線ホームの熊の足跡よ  井上一筒



   官兵衛

世に言う「中国大返し」で京都方面へ進軍する際、

秀吉軍は官兵衛が講和のときに借りた毛利氏の旗や、

備前で別れた宇喜多氏の旗を随所に靡かせた。

光秀の間諜に、毛利や宇喜多の助成まで参加している、

と思わせるためだ。

それだけで相手は士気が低下する。

まだどちらに加勢するか決めかねていた、

近畿の諸大名への影響力も大きいからだ。

実際、中川清秀、高山右近、池田恒興ら諸将は、

秀吉からの書状を受け取ると、与することを約束している。

命ある限りと書いた一ページ  岩佐ダン吉



   勝龍寺城跡

そして、13日には山崎と攝津の国境である山崎の地に両軍が集結。

ここは天王山の麓近くまで淀川が迫り、

地峡を成しているため古来より京を守る要地とされてきた。

夕刻、光秀軍の右翼が天王山の東麓に布陣していた黒田隊に、

攻撃を仕掛けてきたことで、山崎の戦いの火蓋が切られた。

光秀軍は1万、対する秀吉軍は4万。

光秀軍は善戦したが、やがて総崩れとなり、

勝龍寺城に落ち延びていく。

四方から道化の顔のマスゲーム  岩田多佳子

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黄金糖の角で磨いている言葉  河村啓子

    

                         黒田家譜にある官兵衛の言葉

「弔い合戦」

「殿には武将としての御武運が開ける機会が巡ってきました。

  ここを切り抜けた後に待っている大事に懸けようではありませんか」

官兵衛の言葉は、秀吉軍の将兵にも、

「この窮地を脱すれば、我らが殿が天下人になる」

という希望と勇気を与えることになった。

官兵衛は安国寺恵瓊を呼び、和睦を急いだ。

「毛利方を欺き通し和睦して上方に急反転して信長様の仇を討つ」

恵瓊は、将来を見据え、

また官兵衛の腹の内を読んで、この提案に乗った。

がっちりとこの世の端に命綱  新家完司

あとは小早川隆景が応ずるかどうかにかかっている。

恵瓊がすでに説得にかかっていたが、

官兵衛は夜道を駆けて,隆景に目通りを願った。

「信長公は毛利を滅ぼすおつもりで、出陣されました。

   御到着ののちには、もはや和睦はかないませぬ」

「なぜ和睦を急ぐのか?」 

と首をひねる隆景。

「すべては天下のためでございます。

   和睦がなれば必ずや乱世は終わり、

   毛利は生き延びることができまする」

返答を迫る官兵衛に、とうとう隆景は頷いた。

もどれない場所で揺れている尻尾  山本昌乃



     本能寺の焼け跡に残った信長の壷

これが官兵衛の瀬戸際外交の骨子である。

官兵衛が信長の死を知って数時間後のことであった。

そして―6月4日。

正式に和睦が成立し、清水宗治が切腹して果てた。

官兵衛の人並み外れた胆力、人の機微を見抜く洞察力、

「この男なら」という信頼があればこそ結実した和睦であった。
                どんじり
そして、官兵衛は秀吉に殿軍を申し出たのち、

ふたたび小早川の陣へ赴き、隆景に奇妙な要請をする。

「これにて、我らは兵を引きます。つきましてはお願いがございます。

   毛利のお旗を20本ほどお貸し願いたい」

「なんのためだ?

   毛利が織田に味方すると、明智に思わせるためか?」


蓮ひらく今日の心のかたちして  八上桐子



官兵衛と恵瓊は、ハッとした。

すでに隆景のもとに「信長を討った」との書状が届いていたのである。

しかし逆賊と手を組み、事を構えて遺恨を残すより、

天下人に最も近い秀吉に恩を売るほうが、

毛利のためになると考え、隆景は官兵衛の頼みに応じた。

そして、兄・吉川元春がこのことを知る前に立ち去るよう勧めた。

やがて、信長の死を知った吉川元春は、

講和を破棄して追撃を主張したが、隆景はただ、

「誓詞を守るのが毛利の家訓」 としてこれを許さなかった。

食べてすぐ偽装を見抜く舌を持つ  ふじのひろし



   沼城古図

城の周辺は湿地帯。城山は亀の様に見えることから亀山城とも呼ばれた。

秀吉軍の大移動が開始されたのは、6月6日の午後のことだった。

殿軍を任された官兵衛は、高松城から22キロほど東にある沼城で、

最初の休息をとる秀吉軍と合流、

その後、姫路城まで55キロをほぼ一日半で踏破した。

将兵を一旦城下に帰して休ませようという幹部たちの案に官兵衛は、

「ここで気を緩めてはならない。

    勝機を掴むためには休息など与えてはいけない」

と主張。

しかし、その一方で疲れている将兵のために、

多くの粥を煮て与える配慮を見せることも忘れなかった。

ころがして掬う一日黄金糖  徳山泰子

6月9日、姫路城を発った秀吉軍は、

11日には尼崎、12日には富田に着陣。

約80キロ余りの道を三日で駆け抜けてきたのである。

50~100日で畿内を制圧出来ると考えていた光秀は、

予想を遥かに上回る速さで、秀吉の軍が迫ってきたことに驚く。

畿内各地の武将や織田と対立していた有力大名に書状を送り、

協力を仰いだが、結果ははかばかしくなかった。

それどころか光秀麾下の摂津・丹後・大和の諸将は、

秀吉からの書状を受け取ると与することを約束している。

秀吉軍がこれほおどの短時間で戻ってくるとは、

思ってもいなかった光秀軍が、慌てたのは必然であった。

こわれる理由持っているんだシャボン玉  和田洋子

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時々水漏れする私の方程式  近藤真奈



「本能寺の変ー視点を変えてみる」

「本能寺の変前夜」の信長の兵団の分布図を見てみると。

「北陸」方面では、越中東部に於いて「魚津城の戦い」の真っ最中、

越前の柴田勝家、勝家の甥である加賀の佐久間盛政

能登の前田利家、越中の佐々木成政らは、越後の上杉軍と対峙し、

本拠の春日山城まであとわあずか、

魚津城を攻めとすところまで迫っていた。

「畿内」では、近江・坂本の明智光秀が丹後の細川藤孝

大和の筒井順慶を率い丹波を攻略後、

遊軍として各地の戦地に赴いていた。

「関東」では、相模の北条家と対峙する上野の滝川一益

ここは陣を組んで2ヶ月、兵団としての機能は出来ていなかった。

「四国」へは、信長の三男・信孝丹羽長秀長宗我部討伐に進駐。

「中国」では、羽柴秀吉が高松の清水宗治に降伏を迫り、

あとは毛利軍との最後の決戦をまつばかりになっていた。

二ツ目の角を曲がって鰓呼吸  酒井かがり



「本能寺の変」の前夜の状況は、柴田隊も羽柴隊も滝川隊も、

うかつには動けない。

それぞれ上杉、毛利、北条の反撃を受けて、

兵団が壊滅する恐れがあった。

事実、上野に入って日の浅かった滝川は、北条氏政の軍に完敗し、

旧領の伊勢長島に、ほうほうの体で逃げ帰っている。

また丹羽隊は編成の途中、信長の求心力なしでは、

満足に戦えない。

そして信長の同盟者・徳川家康は、

僅かな家来だけを連れて上洛していたから、

徳川領に帰り着く前に、落武者狩りの農民などに、

闇討ちされる可能性がある。

実際に、家康と同行していた穴山梅雪は別ルートをとって、

帰国の途についたが落武者狩りに襲われ、

木津河畔で殺害されている。

まさに、これらの兵団の状況を知った上での、

光秀の行動であった。

過ちの数だけ欲しい数珠である  山本芳男



   「兼見卿記」

「光秀の背後にいたとされる黒幕説を紐解く」

まずは、「朝廷黒幕説」である。

朝廷黒幕説には、「三職推任問題」が伏線にある。

貴族の日記・「晴豊公記」によると、本能寺の変の1っヶ月前、

朝廷は信長に対し、「太政大臣か関白か将軍に就任しないか」

と持ちかけ、信長は即答しなかったとある。

信長の意中の官職は何だったのか、それとも、

信長は既存の官職を不要とし、

天皇に並ぶような地位を欲していたのか。

天皇の家来という立場に自分を置きたくなかった節もある。

「三職推任工作」が天正10年5月に始まり、

そして、本能寺の変が6月。

この工作の失敗が、本能寺の変の原因 ではないかという見方である。

舞いこんできたのはとてつもない話  吉岡 民

黒幕容疑者の一人公家・吉田兼見は、朝廷に仕える公家。

朝廷と信長の交渉では中心的な役割だった。

三職推任の工作にもかかわっている。

信長は朝廷を保護する見返りに官位を受け権威を高めたが、

天下統一が目前になると、

朝廷が作った暦にケチつけたり、強行な態度を取り始めた。

それに危機感を抱いた兼見は、親しかった光秀に接触。

本能寺の変の前にも会っていた。

来客の辞して残していくドラマ  徳山泰子



兼見は、本能寺の変直後からの行動を日記に記録している。
かねみきょうき
「兼見卿記」である。

本能寺の変が起こった6月2日、信長を討ち果たした光秀が、

大津通りを近江へ下向することを知った兼見は、

粟田口までわざわざ馬で駆けつけ、

光秀に対面すると

「在所の儀、万端頼みいる」の由を申し入れている。

また変後、朝廷では光秀との折衝に兼見をあてている。

6日、兼見は、誠仁親王より、光秀への使者を命じられ、

翌日、近江安土城に光秀を訪問したが、

その際、光秀が兼見に向かって、

「この度、謀反の存分を雑談」したとある。

壁のなかで一度光った風景画  前田一石



そして9日に光秀が上洛すると、兼見自ら白川まで迎えに出向いた。

その後光秀は兼見の屋敷を訪問し、

朝廷よりの使者の礼に来た旨を述べ、

朝廷に銀子五百枚、五山と大徳寺にも、各百枚ずつ、

さらに吉田神社修理の名目で兼見にも五十枚を献上、

それを兼見に託している。

光秀はその日の夕食を兼見邸で振舞われている。

だませそうな指とゆびきりをした誤算  岡田幸子

また、本能寺の変の一級史料である「兼見卿記」の原本内容が、

「本能寺の変」の前後1か月について欠けており、

天正10年の項目は、「新たに書き直していた」 という点も、

「朝廷黒幕説」を支える根拠とされている。

この日記の不審なところは、天正10年の分が、

2分割され1冊目は、

光秀が山崎で斃れた6月12日で終わっていること。

その時刻には沈黙を手向ける  居谷真理子

天正10年6月13日、山崎の戦いで光秀軍が秀吉軍に敗北した。

すると兼見は、

光秀が敗れる前日6月12日まで書いた日記を脇に置き、

この年の正月からもう一度新しく日記を書き始めた。

新しい日記は、光秀と会ったことなどをすべて書き換えられていた。

そこでは本能寺の変、当日の午後、「在所の儀」を頼んだことや、

6月7日に安土城で光秀が兼見に「謀反の存分」を語った

というような、二人の親しい交流を示す部分は裏帳にしているのだ。

しかし、なぜ兼見は、

光秀との親密な関係が書かれた古い日記を残したのか。

月明り背にしてこころ隠しきる  石橋能里子



「2013年1月4日の読売新聞夕刊 」ー「兼見卿記」

戦国時代・吉田兼見の日記「兼見卿記」のうち、

これまで知られていなかった文書(筆写)69点が、

東京大学史料編纂所で「発見」された。

2011年に編纂所の中で、

「兼見紙背」と書かれた茶封筒を見つかり、

中には、原本を写した原稿用紙がたくさん入っていた。

編纂所の金子拓助教、遠藤珠紀助教が調べたところ、

「兼見卿記」の紙の裏に書かれた文書を写したものとわかった。

そこにいたでしょう見つめていたでしょう  八上桐子

古い日記は、本能寺の変の前年天正9年から書き始められ、

9月17日まで書かれている。

兼見は紙を節約するため残りのページに、

天正10年の日記を書き、

紙切れで光秀が敗北の前日6月12日までで終わっている。

書き換えの理由は紙切れ、光秀に関する部分以外にも、

30ヶ所以上内容が変更されているのが明らかになった。

2つの日記の違いは書き写すとき、

内容を整理する中で生まれた誤差ではないかとされている。

寝返りを打って矛盾を裏がえす  松本征子

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日の丸が揺れたからとてめし茶碗  壷内半酔



 本能寺ー光秀の急襲

「信長・本能寺に斃れる」

天正10年(1582)6月2日未明、信長に命じられ、

一足先に中国戦線へ赴くはずだった光秀の軍が、

京の本能寺を急襲した。

世に言う「本能寺の変」である。

わずかな供回りしか連れていなかった信長は、

当初は自ら弓や槍を持って奮戦したが、

やがて居間に戻ると、自ら館に火を放ち自刃した。

妙覚寺に滞在していた嫡男の信忠は、

防戦のために、二条御所に移った。

だが、「衆寡敵せず」で、信忠も自刃して果てた。

※ 衆寡敵せず=少人数では、多人数にとても勝てない。

持逃げされた向日葵の首一つ  井上一筒


 本能寺信長(国芳絵)

この知らせが秀吉の元に届いたのは、翌3日の夜であった。

光秀の密使が秀吉の陣迷い込んだとも、

京にいた信長の茶道相手である長谷川宗仁が、

いち早く、秀吉に知らせたとも言われている。

いずれにしても、

京での変事を毛利よりも早く知ることができたのは、

まさに天運というべきだろう。

ただし、この一報に触れた秀吉は激しく動揺し、取り乱した。

主君・信長が明智光秀に討たれたことも衝撃だが、

同時に、織田の援軍10万はなくなり、

もし毛利方がこの事実を知れば、

和睦どころか攻勢に転じる可能性さえある。

秀吉はまさに絶体絶命の淵に立たされたのである。

梟の目など信じたけれど夢  山本早苗



衝撃と困惑­­­ー当然、この事実を知った官兵衛もそれに襲われた。

しかし、有岡城で死地を切り抜けて来ただけに

「肝」は据わっていた。

最も大事なことは、

取り乱している秀吉を落ち着かせること、

人間とはいかなる生き物かを、

その体験から誰よりも知っている官兵衛は、

秀吉の耳元で信じられない言葉を囁いた。
                      まま
「さても天のご加護を得させ給い、もはや御心の儘なりたり」

" 殿には武将としての御武運が巡ってきました。

   ここを切り抜けた後に待っている大事に、懸けようではありませんか、

 信長が殺されたことを「奇貨」とし、

  あるいは「ポスト信長」の一番手となって、

  この後に対処したらどうか・・・"

というのである。

※ 奇貨=利用すれば思わぬ利益を得られそうな事柄・機会。

ほぐされってジキルとハイド入れ替わる  早泉早人


           しお
このひと言で、萎れていた秀吉の心に「希望」が甦った。

さらに、官兵衛の言葉は、

本能寺の変で、絶望の淵に追い詰められた秀吉軍の将兵にも、

「この死地を脱すれば、我らが殿が天下人になる」

という、夢を与えることにもなあった。

官兵衛は秀吉の命を受けて恵瓊を呼び、和睦を急いだ。

信長の横死を恵瓊に知られず、

        かつ、拙速ではない和睦が求められた。

仏飯とまるい会話をして生きる  岩根彰子

「毛利方を欺き通し和睦して上方に急反転して信長様の仇を討つ」

これが、官兵衛の瀬戸際外交の骨子であった。

そして、信長の死の二日後の6月4日、

正式に和睦が成立し、清水宗治が切腹して果てた。

官兵衛の和平交渉が実を結んだのだった。

あとは上方に向けて大軍を移動するだけだ。
         しんがり
官兵衛は自ら殿軍を申し出て、

毛利勢が前線を引くのを確認してから、堤防を切り落とした。

戦国史上に名高い『中国大返し』と呼ばれる秀吉軍の

大移動が開始されたのは、6月6日のことだった。

生き死にの話はご飯食べてから  谷口 義

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跨いでいくしかない凡庸なオトコ  山口ろっぱ



 新史料「長宗我部元親、恭順の書状」発見を伝える6/23日の新聞

「本能寺の変・光秀の真実」

「本能寺の変」の原因に、織田信長が四国の当地方針を変え、

面目を潰された明智光秀が謀反を起こしたとする「四国説」がある。

その説の空白を少し埋める「書状」が、
           いしがい
林原美術館が所蔵する「石谷家文書」から発見され、

歴史学者ら関係者が驚きに湧いている。
        ちょうそかべもとちか
四国の雄・長宗我部元親が光秀の重臣・斉藤利三宛に記した文書で

日付は5月21日、「本能寺の変」の10日前である。

※「石谷家文書」は美濃国の武将・石谷光政、頼辰父子の書状などで構成され、

  天正年間を中心とした3巻47通

皮剥いた玉ねぎとして朝が来る  みつ木もも花



長宗我部元親が斉藤利三に宛てた書状

信長に従う旨が記されている。

左下元親の花押と「5月21日」「利三」の文字がみえる。

当時の長宗我部元親は四国統一の途上。 

ところが大坂本願寺との和睦が成立したことなどから、

信長は、当初の友好関係を転換し、

長宗我部側に土佐以外の占領地からの撤退を要求していた。

今回発見されたうち、

6月2日の変の約5ヶ月前にあたる1月11日書状では、

利三が元親に

「要求に従うのが長宗我部のためになるし、光秀も努力している」 

と助言をしている。 

これに対し、元親は5月21日付で、

「長宗我部のために働いてくれてありがたい。

  信長殿の朱印状へ返答をいままで延ばしたのは申し訳ない。

  一宮城はじめ阿波国の諸城からは命令通り退いたことを、

  信長殿に伝えて欲しい」

と返答。

カピパラが揃って西を向く答え  酒井かがり

続いて元親は、

  「しかし中心部の城は撤去するが、

  土佐に近い南部の海部城と西部の大西城の両城は手放したくない。

  長年にわたって尽くしてきたのにこうなって残念で、納得いかない。

  戦争をしたいのではない。

  何とかならないか。委細は頼辰に聞いてほしい」

と切々と訴えている。

信長の命に従うことで、衝突を避けようとしていたことが分る。

しかし、元親が譲歩したといっても、

信長は阿波を取り上げる方針を決めており、

利三としては、とても報告できる内容ではなかった。

寝返りを考えている涅槃像  河村啓子 

               
      もうしつぎ
信長は元親との申次(交渉役)を光秀に任せていた。

元親の妻が光秀の重臣・斉藤利三の妹という縁もあり、

効果的と考えてのことだったのだろう。

光秀は、この付託によく応え、元親との交渉ルートを確保していた。

織田と長宗我部の融和、

さらには、長宗我部の帰順までを視野に入れていた。

ところが信長は、急に方針を転換してきたのだ。

自分の家臣に与えるために、新しい領地が欲しくなったのだろう。

信長は、融和ではなく武力衝突、

問答無用の四国討伐に着手したのである。

おしるしに月をスライスして渡す  赤松螢子               

そして6月2日、四国攻めは信長の三男・信孝を総大将に、

大坂住吉から出陣することとなった。

長年、長宗我部との申次ぎにあたってきた光秀は、

面目を踏みにじられられ、
                    くだ
また長宗我部が織田の軍門に降ってきたときに、

得られるはずだった莫大な武功も、水泡に帰してしまう。

これに遺恨を抱いた光秀は、「四国攻めを何とか阻止してほしい」

という元親の必死の願いとあいまって。

それらが謀反に突き動かしたのではないかといわれるのである。

心頭を滅却しても火は熱い  筒井祥文

石谷家文書に対する「渡部裕明氏の見解」

『光秀はなぜ、信長を襲ったのか。

「本能寺の変」の動機は、邪馬台国の所持地論争と並んで、

日本史最大の謎とされている。

さまざまな説が出されてきたが、

今回の「石谷家文書」は謎解きの大発見といえる。

変を考える主な史料は、「信長公記」のほか、

関係者の間で交わされた書簡や当時の公家の日記、

さらには「川角太閤記」などの編纂物がある。

編纂物は面白いのだが、

光秀が安土城での徳川家康の接待をしくじった話や、

領国を取り上げられた話など、

後世に作り上げられたフィクションが多い。

その点、「石谷家文書」は、変の直近の史料であること、

しかも出したのは長宗我部元親、受け取ったのも斉藤利三と、

四国攻め交渉をめぐる当事者であり、史料価値は高い。

書状からは、信長の四国政策の突然の方針変更に対する長宗我部側の、

率直な戸惑いと反発、そしてあきらめの心情も生々しく伝わってくる』 

どのイスもいつでも被告席 以上  むさし

 信長の光秀いじめ

「その他、本能寺の変の諸説」

「野望説」
室町後期から戦国時代の通年は「下克上」である。
強いものが正義。
いざとなれば主人も家来もなく、裏切りですら恥ではない。
天下をとろうとの「野望」を光秀が持ったとしても、何の不思議はない。

「怨恨説」・「いじめ説」・「将来悲観説」
 怨恨説は光秀が信長を恨んでいたというもの。
よく知られたところで、母親が殺されたというのがある。

 型破りな信長と実直な光秀は相性があわない。
光秀の顔を見るだけでムカムカした信長は、
家臣の居並ぶ前で恥をかかせたりといじめを繰り返した。
このいじめに加担したのが森蘭丸といわれている。

 秀吉のようにおべっかを使えない光秀は、
日本統一事業が完成した後のことを思うと、
いずれ自分は佐久間信盛のように追放されるだろうと考えたのである。

「黒幕説」
光秀の単独犯ではなく、背後に黒幕がいたとの考え。
① 足利義明 ② 朝廷説 ③ 秀吉説 などが黒幕にあげられている。

『四国説』
上に述べた通り。

まっすぐの鉄条網はありえない  森田律子

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