嬉しくて光り悲しくても光る 嶋澤喜八郎
「黒田官兵衛のおいたち」
弱肉強食、下克上の風潮からか、戦国武将の幼少期の記録は少ない。
あるいはよく分からない者が多いが、
黒田官兵衛はまだ記録が多く残っているほうである。
官兵衛が姫路で誕生したのは天文15年
(1546)11月29日のこと。
まさもと もとたか
父は
小寺政職の配下で
職隆。
母は播磨の国主・明石正風の養女・
いわ。
幼名は
万吉。
誕生した日は雪が降っており、
当時は、それが家門繁栄の前兆と喜ばれた。
太鼓打つごとに一コマ進む夢 井上一筒
「幼くして大志があり、聡明で才知たくましく、
武略は人よりも優れていた。
勇猛英武で世に同じような人は少ない」
と、
『黒田家譜』は官兵衛の幼少期を記している。
ただし、「黒田家譜」における官兵衛の記述はすべて賞賛の一色である。
たしかに有能であったには違いないが、やや大袈裟な記述が多く、
多少割り引いて考える必要がある。
ただ官兵衛が若い頃から、文芸に感心を寄せていたことは、
たしな
その後の和歌や連歌への傾倒や茶道への嗜みを考慮すると、
ほぼ事実と考えられる。
ヤマは越えましたが谷はあるらしい 杉本克子
黒田官兵衛
( 画像は拡大してご覧下さい)
7歳の時に寺へ入り、僧に読み書きを習った。
武家の息子が寺で修業するケースは多く、
上杉謙信や織田信長も幼少期、同様に寺に預けられていたことがある。
また、この頃城下には父の職隆が設けた百間長屋があり、
商人や職人のほかバクチ打ちや浮浪者でも分け隔てなく受けいれていた。
官兵衛が彼らとどう関わったか不明だが、
色々な境遇の者を目にする中で、
「人間とはいかなる生きものか」
を、肌で学びとったことは間違いない。
二三日水に戻すと光り出す 谷口 義
14歳の時、母が亡くなった。
官兵衛は相当に悲しんだとみられ、
武芸よりも和歌や連歌に没頭するようになったという。
母は和歌などの文芸に優れた播磨んぽ国衆・明石氏の出身であったため、
その供養の意味もあったのだろう。
しかし、寺の僧侶に諭され、
悲しみが癒えると武芸や兵書にも目を通すようになっていた。
乗り越えて見れば何でもない挫折 笹倉良一
まさもと
永禄5年
(1562)、
小寺政職の近習となり、
この年に父と共に土豪を征伐し初陣を飾った。
永禄7年、官兵衛17歳、ちょうど元服を終えた頃である。
しかし、その2年後に同盟者である
浦上清宗に嫁いだ妹が、
婚礼当日、
敵対する赤松政秀に攻められて、
夫共々殺されるという事件が起きた。
19歳の官兵衛にとって、これは衝撃的な出来事であったに違いない。
乗り越える壁は次つぎやってくる 大内朝子
母や妹の死について、
官兵衛が何かを語ったという記録は残っていないが、
赤松氏と対する時は心に期するものがあったのではないだろうか。
後の永禄12年
(1569)、
「青山・土器山の戦い」で、
赤松政秀を打ち破った時、官兵衛の心には、もしかすると
「妹の仇を討った」との思いもあったかもしれない。
(赤松政秀は2年後に浦上氏の手で毒殺される)
多感な時代をこのように過した官兵衛は、
戦国武将として心身を鍛えられ、成人していったのである。
ゆっくりと舟はわたしの道をゆく 山本芳男
官兵衛の妻・櫛橋光
官兵衛の唯一の妻。黒田長政、熊之助を産む。
才徳兼備の人と称えられた。
くしはしこれさだ てる こうえん
官兵衛は23歳の時、播磨の領主・
櫛橋伊定の娘・
光(幸圓)を妻に迎えた。
光は16歳だったが、当時としては決して早くはないし、
官兵衛が遅すぎるぐらいだ。
だからというわけではないだろうが、
官兵衛は光を大切にし、側室を持たずに一生を終えた。
二人の間に永禄11年に誕生したのが
松寿(後の長政)である。
光の人物像については大柄であったこと以外わからないが、
その後の出世の陰に光の支えがあったのは間違いない。
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