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川柳的逍遥 人の世の一家言
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風おこす順番が来た立ち上がる  竹井紫乙



            御着城跡

御着城は赤松氏の一族小寺氏の居城で永正16年に小寺政隆が築城したと伝わる。

                                                                    (画面をクリックすると絵は拡大されます)


「官兵衛の初陣」

万吉と呼ばれていたころの官兵衛は、母・いわを亡くした後、

歌道の本ばかり読み耽っていたという。
                        たねいえ
母・いわの父筋・明石家は、関白・近衛稙家の歌道師範を

務めていたとされ、いわも歌道に精通していた。

そうした才が子々孫々の受け継がれ、

さらに官兵衛にまでも、その血をうけついだとしても不思議ではない。

当主の小寺政職はもとより、

叔父である休夢も和歌や連歌を嗜み、茶を好んでいた。

誰よりも明るい空をポケットに  むさし


                                よしたか
14歳で元服した万吉は、官兵衛孝高と名乗る。
                           まさもと
そして永禄4年(1561)、16歳で主君・小寺政職の近習となり、

御着城に起居するようになる。

その翌年、敵対する近郷の土豪討伐で初陣を飾った。

そののちも合戦ごとに官兵衛は、手柄を立てるのだが、

歌にのめりこむ生活に変わりはない。

永禄7年に妹が婚礼当日、

妹が下野守赤松氏との争いに巻き込まれて、

夫ともども、攻め殺されるという悲劇があったことも、

官兵衛に世の無常を痛感させ、

ますます文学に親しんでいく要因になったのだろう。

また南瓜切ったか月に話したか  鳴海賢治

しかしそんなある日、近くに住む円満坊という僧が、

「戦国の世に歌に溺れるとは何事か!」

と諌めたことが官兵衛のその後を大きく変えることとなった。

「たしかに今は戦国。

  軍学を学んで弓術や馬術に精を出すべきであるのに

  風雅の道に耽っていては時代に適応できぬ」

非を悟った官兵衛は、戦乱に真正面から向き合うことを決意し、

父から御着小寺氏家老・姫路城代の地位を継承した。

もうそれはたぶん要らない部品です  芳賀博子



    黒田家廟所

御着城跡の隣には官兵衛の祖父重職と生母の明石氏が眠る黒田家廟所がある。
                     
こうした中で、小さな合戦が起こる。

「青山合戦」である。

これが官兵衛の初陣となった。

父の職隆はすでに小寺家の主席家老であったため、

官兵衛が先鋒の大将を務めることになる。

自転車にはじめて乗れた日のように  高橋かづき

職隆が前線に出ている間、官兵衛は政職の床机まわりにひかえていた。

司馬遼太郎はこの合戦の際、官兵衛が、

「進んで使い番を務めた」 と記している。

通常は老練な武者が務める役割だ。

16歳という若年ではあったが、官兵衛は伝令だけでなく、

時には敵陣にまで馬を乗り入れ、敵状を探ってきた。

そして戦況を 詳細に分析してみせたという。

月光で影を洗ってから眠る  木本朱夏

 

            青山古戦場

永禄12年龍野城主・赤松政秀が3千の兵を率いて姫路城を目指した。

「官兵衛の戦場」

戦闘の地へ御着城を出た一行は、

近隣の女性や老人たちの見送りを受けて進軍していく。

官兵衛重隆おたつに見送られて進んでいった。

そんな官兵衛を見送るもう一人の若者がいた。

栗山村の善助である。

※ 栗山善助とは、黒田24騎の中でも筆頭にあげられる知恵者。

 農家の出身だが、黒田家が才覚次第で家臣を取り立てると聞き、

 官兵衛を道で待ち伏せて仕官を願い出た豪の者。

樹は風に僕は言葉に揺れている  大西俊和

小寺軍が黒田軍に合流すると、政職職隆から

「敵の先鋒はおよそ200、率いているのは、石川源吾」

だという報告を受ける。

左京進は先鋒に加わりたいと名乗り出て、

「敵の首級をあげてみせる」 と息巻いた。

官兵衛も続いて名乗りをあげようとするが、言いそびれ、

近習として政職を守る役目をしっかり務めることを誓う。

緊張が続くと笑いそうになる  青砥たかこ

戦場では小寺軍と赤松軍が激突していた。

小寺の本陣にいた官兵衛は、

武兵衛を連れて戦況が一望できる丘へ向かう。

初めて見る戦で、初めて人が斬られて死んでいくのを見た二人は、

震えながら戦況を見つめていた。

戦場では左京進ら先鋒の部隊が石川の軍勢と戦っていた。

石川の部隊は後退したかと思うと、退くのをやめて攻撃に転じてくる。

その繰り返しの様子をみて、罠を仕掛けられていると見た官兵衛は、

『孫子』の言葉・「半ば進み半ば退くは誘也」を引用するや

馬に飛び乗った。

官兵衛は戦場に向かって走り出し、

武兵衛は本陣の政職のもとへ走らせた。

ぽろりんと生れた日から鬼ごっこ  菊池 京

敵の作戦に気づいた職隆が味方を止めると、官兵衛が走ってくる。

官兵衛は左京進が罠に気づかずに敵を追っていることを報告すると、

職隆を抜け道に導いた。

後退をする石川隊を追って、森の中に入った左京進隊は、

茂みから伏兵にに襲われてしまう。

味方が次々と討ち死にし、絶体絶命となったところで、

官兵衛に連れられて職隆たちが駆けつけた。

意表をつかれて動揺する赤松軍に黒田軍は、圧倒的な強さをみせ、

石川隊を追い払った。

遠雷や会わない奇蹟会う奇蹟  山口亜都子

父の左京亮から、

官兵衛の働きで敵の背後をつけたことを知らされた左京進は、

「目薬屋も手助けはいらない」

と官兵衛に言い捨てる。

しかし当の官兵衛は、初めての戦場に圧倒され、

辺りに転がった死体を呆然と見るだけで、

何も耳に入っていないのだった。

すみません作り笑いの時間です  鳴海賢治

結果、勝利を得たのは、小寺氏の方であった。

「黒田家譜」によると、このとき小寺政職と交戦に及んだのは、

赤松政秀である。

播磨の名門・赤松氏の系譜を政秀は、龍野に本拠を置く有力者である。

政秀は播磨に勢力を拡張しようと目論む信長と結んでいた。

播磨国内で織田信長に叛旗を翻すのは、小寺氏宇野氏くらいである。

いわゆる、この合戦の背景は信長勢力による播磨侵攻の一環であった。

こうした経緯があって、小寺政職と官兵衛は、

信長の侵攻作戦のなかで、大きな決断を迫られることになる。

薄氷の奥から届くデコメール  河村啓子

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怪しさを取り出す月の光から 立蔵信子



   姥が懐
            うばがふところ
黒田城跡の麓の「姥が懐」に官兵衛の生誕地を示す碑。

「黒田氏のの祖の謎」

黒田官兵衛、戦国時代末期に登場したこの稀代の軍師は、

羽柴秀吉の帷幕にあって、ついには秀吉に天下を取らせた男として、

後世に名を残した。

ところが官兵衛以前の黒田家のことは、ほとんど知られていないのが実情だ。

司馬遼太郎も著書「播磨灘物語」で、

「かれの祖父や曾祖父のことといっても、

遣わされたわずかな文献や現地で想像できるだけでよくわからない」 

と記している。

その先は曲がっています水平線  河村啓子

 

   目薬の木      広峰神社御師屋敷跡

広峰神社】には諸国を歩き、神社のお札などを売る御師たちの屋敷が今も残る。

官兵衛の祖父・重隆は、この札に黒田家家伝の目薬を合せて売ってもらった説もある。

【目薬の木】ー日本の山地に自生するカエデ科の落葉高木で、

秋には葉が鮮やかに紅葉する。

家伝の目薬は砕いた樹皮を赤い絹の袋で包み、

さらに大蛤の貝殻の容器に入れたとされ、
それを煎じた汁で目を洗うことで、

目の痒みや酷い目ヤニに抜群の効果を発揮したという。


黒田家は関が原の戦い以後、筑前福岡で52万石の大大名となった。

その頃、江戸の徳川幕府は各地の大名に家系を提出させている。

「寛政重修諸家譜」によれば、

黒田氏は近江源氏の佐々木氏から分かれた一族となっている。

宇多天皇の孫・雅信が臣籍を離れて源姓を名乗る。

その孫の源成頼は近江国佐々木に居を構え、

佐々木氏を称するようになった。

成頼が近江源氏の祖であり、その七代目に当たる佐々木信綱の時、

江南の六角氏と江北の京極氏に分かれる。

京極氏の祖となったのが京極氏信で、

その孫の宗清が近江の黒田村に移り住み、黒田氏を名乗った。

それが黒田氏の始まりとされている。

早咲き遅咲き一度はきっとは咲くはずだ 森下よりこ

 

      御師屋敷            御師

【御師】ー特定の寺社に所属して、神符や暦などを配り歩きながら、

その社寺へ参詣者を案内し、参拝・宿泊などの世話をする者のこと。

特に伊勢神宮の者は「おんし」と読んだ。

黒田家は官兵衛の祖父・重隆の代に姫路にやってきて、

広峯神社の御師の世話で家伝の目薬を売り、財を成したという。

しかし永正8年(1511)、時の当主・黒田高政が合戦の際、

先駆けの軍律違反を起こしたため、

近江に居づらくなり備前国の福岡村に移住する。

その子・重隆は播磨国の浦上氏が備前に勢力を伸ばしてきたため、

「戦乱を避けて放浪に出た」 と伝えられている。

そして、最終的に播磨の姫路に落ち着いたのである。

記憶から歳月毀す飯粒零す  岩根彰子

 

 屋敷内部は非公開

重隆の子の満隆は御着城を本拠とした小寺氏に仕えた。

主君の小寺政職は自らの名を一字与えて職隆と名乗らせたほど、

満隆を重用したのである。

さらに職隆には、重要な支城であった姫路城を任している。

その職隆の子として姫路城で生まれたのが官兵衛であった。

この町で咲きこの町の土になる  笹倉良一



      荘厳寺

西脇市黒田庄町にある荘厳寺。

門前の案内板にはこの土地が官兵衛の生誕地であると記されている。

以上が従来までの定説となっているが、

近年になって兵庫県にある「荘厳寺」で、

発見された黒田家家系図には、またく違う系譜が記されていた。

それによれば播磨の黒田氏は、その祖が播磨の有力者、

赤松円心の弟である円光となっている。

荘厳寺のすぐ近くにある黒田城を本拠地としていたが、

九代・治隆の時に合戦に敗れ滅亡した。

軽口にちょっと流れた目玉焼き  合田瑠美子

しかし、治隆の弟・孝隆は、それよりも数年前に

小寺家の家老となっていたため難を逃れた。

それが黒田官兵衛だというのである。

荘厳寺に建てられている案内板には、

「近年はじめて判明した新事実」 と紹介されている。

黒田城跡がある山の麓には「黒田官兵衛生誕地」の碑もあった。

どの説が正しいのか?

黒田城を本拠とした一族こそが播磨・黒田氏なのか? どうか

戦国時代にのし上がって来た武将たちは、

ほとんどが正確な出自はわからない。

なかには槍ひと筋でのぼりつめてきたことを、誇る者すらいる。

黒田氏だけが特別ではない。

別宅に馬本宅に牛を置く  井上一筒

「黒田氏系図」

宇多天皇・・源雅信→佐々木信綱→京極氏信・・黒田宗清・・
高政→重隆→職隆(妻-明石正風)→官兵衛(妻-光)→長政

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嬉しくて光り悲しくても光る  嶋澤喜八郎



「黒田官兵衛のおいたち」

弱肉強食、下克上の風潮からか、戦国武将の幼少期の記録は少ない。

あるいはよく分からない者が多いが、

黒田官兵衛はまだ記録が多く残っているほうである。

官兵衛が姫路で誕生したのは天文15年(1546)11月29日のこと。
          まさもと        もとたか
父は小寺政職の配下で職隆

母は播磨の国主・明石正風の養女・いわ

幼名は万吉

誕生した日は雪が降っており、

当時は、それが家門繁栄の前兆と喜ばれた。

太鼓打つごとに一コマ進む夢  井上一筒

「幼くして大志があり、聡明で才知たくましく、

  武略は人よりも優れていた。


  勇猛英武で世に同じような人は少ない」 

と、『黒田家譜』は官兵衛の幼少期を記している。

ただし、「黒田家譜」における官兵衛の記述はすべて賞賛の一色である。

たしかに有能であったには違いないが、やや大袈裟な記述が多く、

多少割り引いて考える必要がある。

ただ官兵衛が若い頃から、文芸に感心を寄せていたことは、
                                          たしな
その後の和歌や連歌への傾倒や茶道への嗜みを考慮すると、

ほぼ事実と考えられる。

ヤマは越えましたが谷はあるらしい  杉本克子

 

          黒田官兵衛
                                                ( 画像は拡大してご覧下さい)

7歳の時に寺へ入り、僧に読み書きを習った。

武家の息子が寺で修業するケースは多く、

上杉謙信織田信長も幼少期、同様に寺に預けられていたことがある。

また、この頃城下には父の職隆が設けた百間長屋があり、

商人や職人のほかバクチ打ちや浮浪者でも分け隔てなく受けいれていた。

官兵衛が彼らとどう関わったか不明だが、

色々な境遇の者を目にする中で、

「人間とはいかなる生きものか」 

を、肌で学びとったことは間違いない。

二三日水に戻すと光り出す  谷口 義

14歳の時、母が亡くなった。

官兵衛は相当に悲しんだとみられ、

武芸よりも和歌や連歌に没頭するようになったという。

母は和歌などの文芸に優れた播磨んぽ国衆・明石氏の出身であったため、

その供養の意味もあったのだろう。

しかし、寺の僧侶に諭され、

悲しみが癒えると武芸や兵書にも目を通すようになっていた。

乗り越えて見れば何でもない挫折  笹倉良一
                       まさもと
永禄5年(1562)小寺政職の近習となり、

この年に父と共に土豪を征伐し初陣を飾った。

永禄7年、官兵衛17歳、ちょうど元服を終えた頃である。

しかし、その2年後に同盟者である浦上清宗に嫁いだ妹が、

婚礼当日、敵対する赤松政秀に攻められて、

夫共々殺されるという事件が起きた。

19歳の官兵衛にとって、これは衝撃的な出来事であったに違いない。

乗り越える壁は次つぎやってくる  大内朝子

母や妹の死について、

官兵衛が何かを語ったという記録は残っていないが、

赤松氏と対する時は心に期するものがあったのではないだろうか。

後の永禄12年(1569)「青山・土器山の戦い」で、

赤松政秀を打ち破った時、官兵衛の心には、もしかすると

「妹の仇を討った」との思いもあったかもしれない。

(赤松政秀は2年後に浦上氏の手で毒殺される)

多感な時代をこのように過した官兵衛は、

戦国武将として心身を鍛えられ、成人していったのである。

ゆっくりと舟はわたしの道をゆく  山本芳男



  官兵衛の妻・櫛橋光

官兵衛の唯一の妻。黒田長政、熊之助を産む。

才徳兼備の人と称えられた。
                                  くしはしこれさだ     てる こうえん
官兵衛は23歳の時、播磨の領主・櫛橋伊定の娘・(幸圓)を妻に迎えた。

光は16歳だったが、当時としては決して早くはないし、

官兵衛が遅すぎるぐらいだ。

だからというわけではないだろうが、

官兵衛は光を大切にし、側室を持たずに一生を終えた。

二人の間に永禄11年に誕生したのが松寿(後の長政)である。

光の人物像については大柄であったこと以外わからないが、

その後の出世の陰に光の支えがあったのは間違いない。

青い空どんな夢でも描けそうだ  河村啓子

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                     2014年 1月1日

                             茶助
             
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咲くときの顔になるまで火の匂い  前中知栄



   樋口一葉

樋口一葉が「萩の舎」に学んだ当時は、

「平民組」のひとりとされ、大勢を占める上層家庭出身の門人らとの

生活格差に悩むことも多かったという。

「女流文学ー②」

樋口一葉 明治5年、東京府の官吏だった樋口則義・滝子の次女。

15歳のとき「萩の舎」に入塾して和歌を学ぶ。

だが父が他界し、戸主として一家を支えていくため、

筆一本で食う決意を固める。
        か ほ
同門の花圃が女性初の小説『薮の鴬』を発表した事に刺激を受けたのだ。

『東京朝日新聞』の作家・半井桃水の門を叩いた一葉は、

小説の指導を受ける。  桃水は、

「女性の書き手による女性の登場人物の言葉づかいは女らしさに欠ける」

と指摘。

一葉は、この「言葉づかいが女らしくなるよう」に書くのに苦労したという。

バラ描いたのにカーネーションと言われ  俣野登志子

その後、桃水が主宰する雑誌『武蔵野』

処女作『闇桜』などの短編を発表したが、筆一本で食うことができず、

本郷菊坂町から下谷龍泉寺に転居して雑貨屋を開業。

上野図書館に通って書を読み、創作をつづけた。

やがて雑貨屋も畳み、本郷丸山福山町に転居。

肺結核に冒されながら24年半の生涯を閉じるまでの1年余りのあいだに、

一葉は、『たけくらべ』・『にごりえ』など、

井原西鶴に影響を受けた文語体で代表作を生んだ。

生きていますと門燈をつけに行く  徳山みつこ



   与謝野晶子

生活の困窮を支える為の精力的な文芸活動のかたわらで、

夫や西村伊作とともに男女平等教育など、

自由な方針を掲げる専修学校・文化学院の創設にも関わっていた。

与謝野晶子 明治11年大阪で和菓子屋を営む鳳宗七・つね

三女として生れた。 一葉よりも6歳年下。

家業を手伝いながら『源氏物語』など古典を独学し、

東京新詩社・「明星」に加入。

主宰者・与謝野寛(鉄幹)と不倫関係に陥った。

誹謗中傷を浴びながらも上京して寛と同居、やがて結婚。

背徳のほのかな匂い人を魅す  前岡由美子

「くろ髪の千すじの髪のみだれ髪 かつ おもひみだれおもひみだるる」

などを収めた歌集・『みだれ髪』は、ストレートな恋愛表現のため、

世間からは不道徳と謗りを受けたが、評価もまた高かった。

日露戦争に従軍する弟を思って書いた詩・「君死にたまふことなかれ」は、

反戦詩として世間を騒がせた。

外遊中の夫を追って欧州に渡ったり、『源氏物語』の口語訳をしたり、
 せいとう
『青鞜』の賛助員として作品を寄せるなど、

昭和17年に他界するまで、精力的に生きつづけた。

秋風ものせてあなたに流れます  辻部さと子



   平塚らいてう

文学の枠におさまらない広範かつ精力的な活動で女性の地位向上に貢献した。

平塚らいてう 昌子より8年後、明治19年東京において、

高級官吏の父・平塚定二郎さやの三女として生れた。

日本女子大学校家政科に入ったのち、英語を学んだ。

父との葛藤に悩み、ナショナリズムの高揚にも疑問を抱いて参禅。

心の自由を得る。
 けいしゅう
「閨秀文学会」で知った作家・森田草平との「塩原心中未遂事件」で、

スキャンダル渦中の人となり、謹慎。
              
文学の師・生田長江に勧められ、婦人文芸集団「青鞜社」を興し、

同人誌・『青鞜』を発刊する。

創刊号に書いた女権宣言-「元始、女性は実に太陽であった」が有名。

わたくしの息で曇った窓ガラス  古久保和子



    青鞜社の面々

(後列左から2番目がらいてう)

青鞜社は文京区の千駄ヶ谷にあって、らいてうら20代の女性人5名を

発起人として明治44年に発足。

諸々の事情があり5年で閉社される。

寄稿を乞われた与謝野晶子は、賛助員として、たびたび詩歌を寄せている。

性を語ることがタブーだった当時、

「姦通」「貞操」「堕胎」「廃娼」「性欲」「同性愛」などをテーマにしたことで、

青鞜はたびたび発売禁止処分を受けた。

青鞜社が「新しい女の集団」と非難されると、

らいてうはみずから「新しい女」と名乗り、

古い道徳、習慣、法律を破壊すると宣言。

画家・奥村博史と同棲し、「結婚」に反対し、入籍を拒否した。

癖のある影ですたぶん私です  オカダキキ

「女流文学のすえ」

一葉、昌子、らいてう以後、野上弥生子、宮本百合子、林芙美子、円地文子、

宇野千代、中里恒子、岡本かの子、平林たい子、佐多稲子らが、

女流文学の中心にいた。

戦後になってようやく女性が自由にものを書く時代を迎え、

昭和21年に「女流文学者賞」が設立されたが、

平成12年にその幕を閉じた。

もう女流文学の四文字を必要としない時代になったのかもしれない。

僕が逝ったあとも続いてゆくこの世  たむらあきこ

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