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川柳的逍遥 人の世の一家言
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死ぬなんて思っていない人ばかり  新家完司



    隋願寺

官兵衛の叔父・黒田高友はこの随願寺、地蔵院で休夢と称する僧侶であった。
和歌に秀で、秀吉に仕える。
天正元年、別所長治に攻められ全山を焼失。
同13年に羽柴秀吉が再興した。


"名を残す長門の海を来て見れば  むかしにかへる春のうらなみ"

「黒田休夢」

黒田一族の中で、官兵衛が傑出した存在であることは疑いないが、

もう一人、官兵衛に負けず劣らず優秀な武将がいる。

その名は、黒田千太夫高友

号は休夢と称する。

休夢は、重隆の次男として、大永5年(1525)1月に誕生。

兄・職隆とは、わずか1歳違いで、官兵衛の叔父になる。
        たっちゅう                
永禄7年(1564)頃、休夢は隋願寺の塔頭地蔵院に入り、
 ぜんけい
「善慶」と称した。

次男であったがゆえに家督を継げず、出家していたのである。

後に兄の職隆と同じく、最初は政職に仕えた。

カクカクと仁王立ちする糸切り歯  岩根彰子

荒木村重に官兵衛が捕らえられた際、秀吉は休夢に書状を送り、

休夢が、

「信長に忠誠を誓っていることを満足に思っている」 こと、

「村重が官兵衛を幽閉したことは許し難い」 こと、

「幽閉された官兵衛を早く救い出したい」 ことなどを記している。

黒田家当主が囚われの身となったことは、

黒田一族にとって大きな衝撃であった。

一方、秀吉が指揮する「三木合戦」は継続中である。

この時、黒田家は官兵衛の妻・を中心に一致団結した。

そして隠居した官兵衛の父・職隆とともに、官兵衛の代わりとなって、

秀吉を支えたのが休夢だった。

秀吉がおこっています3D  立蔵信子

別所長治との交戦において、

秀吉は三木城攻略方法などについて、休夢に指示を行った。

天正8年、三木合戦終了後も休夢は、秀吉から重用され、

姫路市内における「村落間相論」の裁定にあたっている。

つまり休夢は秀吉に信頼され、

官兵衛の代わりに合戦にも参加したのである。

さらに合戦終了後も、

有岡城から瀕死の状態で救出された官兵衛に代わり、

姫路における村落間の紛争の難しい裁定に臨んだ。

こうした点を見ても、

休夢が非常に高い能力の持ち主であったことが窺える。

勝ち組と負け組みになる波高し  森中恵美子



秀吉休夢を重用したことで注目されるのは、

秀吉の「御伽衆」に起用されたことである。

御伽衆とは、古来から主人に対して武辺話を行う家臣が存在した。

やがて、それは職業化し、御伽衆と敬称されるようになる。

御伽衆の資格は、

 咄がうまいこと、 咄に適応する体験や技術を有すること、

が条件であった。

むろん、その背景には豊かな教養が必要とされる。

できるわけ無いを叶えてこそ男  西美和子

茶人・津田宗及の茶会記・『宗及自会記』に休夢の名前が見られ、

また千利休とも交流があったことも確認できる。

天下第一の宗匠と交友関係を持っていたことは注目すべき点であり、

休夢の高い教養が窺い知ることができる。

欠点がないのでつまらないわたし  中村 和



箱崎・千代松原の茶会にて

さらに、休夢は和歌や連歌にも通じていたことで知られる。

天正15年(1587)5月に、薩摩の島津氏が秀吉に降伏すると、
         はこざき
戦後処理は、筑前筥崎(現在の福岡市東区箱崎)で行われた。
                                    つけあい
その際、休夢は秀吉に同行し、同地で連歌会を催して付合を、

一句詠んで秀吉を喜ばせている。 

(付合=前の句に次の句をつけること)

千利休秀吉に献じたこの茶会には、津田宗及・黒田如水(官兵衛)らも

顔を連ね、和歌を詠じた。

秀吉も二首詠じている。 (右から2・3の句が秀吉)

なお冒頭の句は、九州征伐も最終段階に入ろうという時期の、

天正15年3月、赤間関で安徳天皇追福の和歌会に

休夢が参加したときの一首である。

大空を飛んで私の今である  森田律子

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流されているなと思いつつ流れ  前田咲二 



     郡山城

尼子氏の衰退はこの郡山城から始まった。

「尼子の最期」

秀吉官兵衛の信頼の神文が、半兵衛の手で火中に投げ入れられ、

灰になってしまった時の半兵衛の言葉です。

「天下を統一せんとするのは、合戦をいとうからではない。

  民を安らげるためでもない。

  つまらぬ戦さなどさっさと止めて、国造りをしたいからだ。

  調略を行うのは、つまらぬ小戦で兵力を損ないたくないからだ。

  敵の主力に対して全力で立ち向かい、完全な勝利を得るためだ。

  しかし、それには智恵がいる」

分が悪くなると化石になっている  小谷小雪

「神文などにとらわれて、軍師としての目が曇りますぞ。

 あなたの力は己の見栄や欲得ではなく、

 その知恵を、天下のために使ってこそふさわしいのではありませんか。

 すでに領土を侵し侵され、奪い奪われる時代ではない。

 時代は、天下統一に向けて動いている。

 貴殿は才がある。

 その才は主家のためだけに使うのではなく、

 天下のためにこそ用いるべきだ。一周り大きくなられよ」

ほらそこに夢のしっぽが光ってる  田村ひろ子



   尼子勝久(太平記英雄伝)

半兵衛のずっしりとした現実味のある説教に官兵衛は項垂れた。

以後、官兵衛は変わった。

何もかも半兵衛から会得しようとした。

官兵衛は日増しに成長した。

この時期こそ官兵衛が智将となっていく過渡期にあったと言えるが、

人生に分岐点もあれば、当然、試練もある。

その前兆となったのが、「尼子家の悲劇」だった。
       こ ち
毛利勢によって故地を奪われた尼子勝久とその遺臣たちは、

信長の元で、再興を図り、上月城を与えられ、

秀吉の翼下に組み込まれていた。

月明り背にしてこころ隠しきる  石橋能里子

ところが、天正6年(1578)の春、非常事態が生じた。

三木城主の別所長春が信長に叛旗を翻したのだ。

ことから毛利の反攻が始まり、

宇喜多直家率いる一大兵力が進攻してきたのである。

官兵衛は宇喜多勢にあったが、

信長は急遽、秀吉に対して戦線の縮小を指示してきた。

撤退すれば上月城を見捨てることになる。

官兵衛はそれだけはできないと思ったが、

信長の命令は絶対だった。

石垣の石はスクラム組まされる  籠島恵子



   書写山園教寺

三木城の造反により姫路城にいた秀吉が、東の別所氏と西の毛利氏に挟まれ
窮地に陥った時、官兵衛は書写山園教寺に本陣を移すことを秀吉に進言する。
姫路城にいては、
海が近くて毛利軍の攻撃を受けやすく、
信長からの援軍を
収容できる広さもないからである。

秀吉はすぐその策を実行し、見事危機を回避した。



「羽柴小一郎」「天正六年」「近江浅井郡」 と書かれている柱
          じきどう
書写山園教寺の食堂内には、秀吉が本陣を一時的に移した際、

兵士が書いたと思われる「羽柴」と書いた柱の落書きが現存している。

またこの地は「西の比叡山」と称される天台宗の古刹でもあり、

映画・『ラストサムライ』のロケ地としても知られている。
                  しょしゃざん
官兵衛は秀吉に従い姫路の書写山まで退いたが、

尼子勝久は、主家再興を第一義とする山中鹿之助らに支えられ、

上月城から退却しなかった。

「小事を優先してどうなる」

官兵衛は、半兵衛の言をもって必死に説得した。

だが、尼子遺臣団は織田家に従属するよりも尼子家として、

滅亡することを望んだ。

官兵衛は「以前の自分」と思った。

ホウレン草食べてポパイは死にました  大西俊和

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太陽の裏へご一緒致します  井上一筒 



  別所長治

「播磨混沌」

官兵衛半兵衛という稀代の戦略家が二人も揃ったことで、

秀吉による播磨平定の戦いは順風満帆に進み始めた。

そして作用城と上月城を鮮やかに落としたことで、

播磨の豪族たちの心は織田方に靡いたようにも見えた。

だが、天正6年(1578)正月、

秀吉が戦勝報告のために信長の元へ戻った隙に、

再び毛利と気脈を通じる者たちが出てきた。

白いめまい背信のその日から  安土理恵 

そして、2月になると東播磨を治める別所長治が反旗を翻す。

理由については、後世、さまざまに語られている。

その一つは、織田軍の総司令官である秀吉の出自だ。

播磨のような田舎では、まだ中世的な身分意識が強く残っており、

名族意識の強かった豪族たちに侮られた。

それと別所家の場合、家中に一向宗の門徒が多く、その本山である

大坂石山本願寺と敵対していた織田家を敵視する者も多かった。

さらに別所氏と昵懇であった丹波の波多野氏織田氏の対立も、

要因のひとつとされている。

反逆の血をたぎらせて緋を纏う  森吉留里惠

いずれにしても東播磨で約43万石という大勢力を誇る別所氏が、

毛利方についたことで、多くの小豪族がそれに従うことになった。

秀吉は3月末から三木城の攻撃を開始。

だが4月になると、

別所一族で唯一織田方に付いていた別所重宗の別府城を、

毛利の軍が急襲する。

この時は、官兵衛が兵を率いて救援にかけつけている。
                あ べ
これが、官兵衛の引きつけ戦術・「阿閉城の戦い」である。

尻尾のない男が一人まぎれこむ  居谷真理子



  山本山城二の丸跡

山本山のことを、山の南側の山本村では山本山(山本山城)と呼び、                
                    あつじ

対して、東側の阿閉村側では、阿閉山(阿閉城)と呼ぶ。

この呼び名は、この城が南向きに機能していた時と、

東向きに機能していた時の名残でふたつの顔がある。

「阿閉城の戦い」

三木城の城主・別所長治が信長に叛旗を翻したときのこと。

加古川市にある阿閉城は、別府城とも呼ばれ、

長治の叔父にあたる別所重棟の居城である。

重棟は、足利義昭を奉じて上洛した信長のもとに馳せ参じるなど、

別所家の親織田派の急先鋒だったが、
    よしすけ
兄・別所賀相との内部抗争に敗れて、主家と袂を分かつ道を選んでいた。

沈黙がカリフラワーになっている 岩田多佳子

東播磨で毛利方についた別所長治に同調しなかったのは、
      かすやたけのり
この阿閉城と糟屋武則が城主を務める加古川城だけだった。

そのため毛利輝元は阿閉城と加古川城を落とし、

それから三木城の別所長治と協力して、

西播磨の姫路城へと進軍する戦術をたてた。

そこで輝元は、備前国・岡山城主の宇喜多直家の軍勢8千を海路で、

阿閉城に派遣した。

一方、時を同じくして秀吉に命じられた官兵衛が、

5千の兵を率いて、篭城の援軍に駆けつけた。

二枚貝ほどの扉で守る城  清水久美子



阿閉城(山本山城)は小谷城の西約5kmに位置し、

琵琶湖岸の標高324mの山本山の山頂付近に築かれている。

山本山の山頂からは琵琶湖を一望できることから、

湖上交通をも掌握する上で、重要な役割を担っていた。

官兵衛はまず、兵の数をより少なく偽装するため幟や旗を隠させた。

それを見た大軍を擁する宇喜多軍は、

もともと阿閉城が防衛力に乏しい小規模な城だったこともあって、

侮りきっていた。

官兵衛は城兵たちに、いっさい反撃せずに敵を十分に引きつけ、

的を外さない射程距離まで引き寄せたら、

一気に鉄砲や弓矢を放つ、戦術を指示していた。

銃とパンあげるどちらか取りなさい  森 廣子

敵が無抵抗なのを甘く見ていた宇喜多軍は、

鉄砲用の盾も持たずに城壁を登り始めた。

そのため官兵衛の号令で、

いっせいに射かけられた鉄砲や弓矢に死者が続出。

敵のパニック状態をみて官兵衛の手勢が城門を開いて突撃すると、

宇喜多軍は総崩れとなって敗走したのである。

口パクで枯れ木も山のにぎわいに  藤本秋声

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人物をそっと描き足す風景画  合田瑠美子

  

軍法極秘伝書ー(竹中半兵衛)

「上月城の戦い」

黒田官兵衛が活躍した戦いの中に、「上月城の戦い」がある。

この戦いは、凄惨さを極めたことでも知られている。

天正5年(1577)10月、羽柴秀吉は播磨に増発した。

播磨と美作の国境付近に位置する上月城を攻略するためである。

秀吉を支援したのが官兵衛であった。

西国方面の攻略に際して、秀吉がもっとも注力したのが、

播磨国の有力な領主から人質をとることであった。

これには官兵衛も一役買っている。

これで秀吉は圧倒的に優位な状況で戦いを進めることが出来たのである。

裏側も確かに僕の貌である  熊谷岳朗

 

  上月山城への中腹       山城本丸跡

まず11月27日、勢いに勝る秀吉勢は、

わずか一日で福原城を落とした。

これによって播磨における反織田勢力は、

の姉・が嫁ぐ上月城だけとなった。

官兵衛は乱世の習いとして親戚と戦う覚悟を決め、

光はそんな官兵衛にすべてを託す。

上月城は播磨・備前・美作の3カ国の境で織田方と毛利方の、

最前線に位置している。

そして福原城から約1里離れた上月城に秀吉の軍勢は迫っていた。

昨日から前頭葉に柿の種  森 茂俊        

身内での争いを避けようとした官兵衛は、

官兵衛は間際まで城主の上月景貞に降服するように説得を繰り返す。

しかし景貞は応じず、力も景貞に添い遂げる覚悟を見せる。

調略が不可能と悟った官兵衛は、

秀吉軍の威光を知らしめるためにも、

「すぐに上月城を落とすべし」として、秀吉に先鋒を買ってでる。

この先遣隊として活躍したのが、官兵衛と半兵衛であった。

これが官兵衛と半兵衛が共同して戦った、はじめての合戦である。

夕焼けを飲んで二人乗りブランコ  清水すみれ 



 山中鹿之助 

上月城攻めに最も活躍した山中鹿之助の勇姿 

対する上月軍には、宇喜田直家が援軍として駆けつけていた。

まもなく黒田軍と上月軍が激突する。

序盤は黒田軍が優勢に戦を進めたが、

側面から宇喜田軍の追撃を受けると、黒田軍は窮地に立たされる。

そんな危機を救ったのが鹿之助が率いる尼子勢だった。

直家は秀吉と尼子の軍勢と交戦して、散々に打ち負かされ、

敗走中に自軍の兵の首が、619も取られた。

ライバルの浦上宗景を天神山城から放逐した直家であったが、

さすがに秀吉軍にはかなわなかったのである。

絡みつくものを月光で洗う  本多洋子

宇喜田勢を打ち破った秀吉は、

その余勢を駆って上月城に迫り、さらに激しい攻撃を行った。

落城から惨劇の様子を実況―

宇喜田氏との合戦場から引き返し、

いよいよ七条城(赤松七条家の城)を取り詰めた。

水の手を奪ったこともあって、上月城の篭城者から、

いろいろと詫びを入れてきたが、秀吉は受け入れなかった。
      ししがき
そして、返り猪垣を三重にして城外への逃亡を防ぎ、

諸口から攻撃を仕掛け、12月3日に城を落とした。

敵兵の首をことごとく刎ね、その上に敵方への見せしめとして、

女・子供200人余を播磨・美作・備前の境目において、

子供を串刺しにして、女を磔にして晒すなど残虐の限りを尽くした。

官兵衛の眼下には、悲惨な光景が広がった。

過去形に閉める扉は後ろ手に  真鍋心平太



  山中鹿之助    

戦後、上月城には、鹿之助ら尼子氏が入った。

秀吉はこの勝利によって、

中国方面における織田軍優勢のきっかけを作り、

播磨・但馬両国を申し付けられた。

また信長から秀吉は茶道具「乙御前の釜」を褒美として与えられた。

官兵衛は信長や秀吉の期待に大いに応えたことによる、

感状を信長から送られた。

上月城城主・上月景貞の妻であり、光の姉である力は、

夫と家臣たちの菩提を弔うため出家する道を選択した。

雨は小止みに冴えだしたビブラート  山本昌乃

【豆辞典】ー乙御前釜



   乙御前釜

乙御前とはお多福の異名

名前の由来は、お多福の面のようなふくよかな形状にちなむ。

秀吉の時代になって開催した大徳寺や北野の大茶会でも用いられた。

なお秀吉から茶会を開くことが許された家臣は秀吉を含めて5名。

柴田勝家ー柴田井戸、丹羽長秀ー白雲、明智光秀ー八重桜、織田信秀ー初花

風になるか人で通すか模索中  嶋沢喜八郎

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現役のままボリュームは絞らない  美馬りゅうこ



芳年武者旡類

当時はまだかけだしの毛利元就と激戦のすえ、

敗れた尼子氏再興のため、


「願わくば我に七難八苦を与え給え」

と三日月に祈る山中鹿之助。



「山中鹿之助」

山中鹿之助は、山陰地方をおさめていた尼子氏の家臣。

名は幸盛

一騎打ちで毛利氏配下のも猛将を何人も討ち取り、

「山陰の麒麟児」の異名をとる。

その尼子氏が毛利元就の謀略により永禄9年(1566)に滅亡する。

鹿之助ら尼子遺臣団は、京都・東福寺の僧籍にあった尼子勝久を、

還俗させ擁立し、尼子氏再興のため立ち上がる。

永禄12年、山名祐豊を頼り但馬国を経由し、

隠岐の豪族・隠岐為清の協力を得て、出雲忠山を占領。

その後、出雲の尼子遺臣の勢力を吸収、

「新山城」を落しここに本営を置く。

「原手合戦」で毛利軍に勝利するなど、

毛利氏の拠点・月山富田城を除き、

出雲一国をほぼ手中に収めるまでに勢力を伸した。

潮騒にしばらく心ゆだねよう  柴田園江



  尼中鹿之助

その後、尼子遺臣団の統制の乱れ、隠岐為清の離反、

そして「布部山の戦い」に敗北するなど衰勢著しく、

元亀2年(1571年)8月に新山城が落城する。

この「美保関の合戦」で、鹿之助は元就の次男・吉川元春に捕らえられ、

尾高城に幽閉されるも、監視の油断をついて脱出する。

これが鹿之助による尼子氏再興蜂起の一回目である。

頑な私にまぶす塩麹  松本柾子

その後、鹿之助らは京都に逃れた。そのとき信長に拝謁している。

尼子遺臣団は尼子氏再興の志を秘めて山名氏と組み、

因幡国を転戦、「甑山城での戦い」「鳥取城の戦い」を制し、

天正2年(1574年)頃には、因幡国の諸城を攻略し、

織田方の浦上宗景の助力もあって若桜鬼ヶ城・私都城の確保に至り、

一時的にも尼子氏を再興することに成功した。

ところが、毛利氏と敵対していた山名祐豊が、

信長に脅威を感じ毛利氏と手を組んだことや、

織田軍の支援を得ることができなくなったことで、

天正4年5月、鹿之助ら尼子再興軍は若桜鬼ヶ城を退去し、

因幡から撤退する。

尼子再興二度目の失敗である。

人間さまを信じられないのが辛い  大海幸生    



 絵本太閤記

中国勢上月の城を囲む

上月城は延元元年(1336)に築城された。

天正5年に秀吉軍の攻撃で落城後尼子勝久が入城している。

だが翌年には、毛利の大軍に囲まれて落城した。

その後鹿之助らは織田軍のもとで、尼子氏再興を目指すことになる。

明智光秀「丹波平定戦」織田信忠「信貴山城の戦い」に参加。

また信長の命令を受けて、秀吉が播磨国へ進軍を開始すると、

尼子再興軍もその行軍に参加する。

秀吉が毛利の拠点・上月城を攻略すると、

勝久・鹿之助らは上月城の守備をまかされる。

出直しのチャンス頂く春キャベツ  靏田寿子   

天正6年(1578)2月、三木城の別所長治が信長に叛旗を翻すと、

毛利軍はこれを機に吉川元春・小早川隆景らが軍勢を率いて、

播磨に攻め込み、4月には、上月城を包囲する。

「毛利軍が上月城を包囲した」 という知らせを受けた秀吉は、

荒木村重らとともに軍勢を率いて、上月城の救援に向かおうとするが、

信長より別所長治が篭城する「三木城の攻撃を優先せよ」

命令があり、上月城は孤立無援となる。

そして兵糧も底を突き、また兵士も戦意喪失しはじめ、

7月5日、ついに尼子主従は、同年7月5日毛利軍に降伏した。

撤退が始まる人間らしくなる  岩根彰子



阿井の渡しにある鹿之助の墓

降伏の条件として、

尼子勝久は切腹を命ぜられ、鹿之助は生け捕りとなる。

そして備後国鞆浦・毛利輝元の陣へ護送される途上の阿井の渡しで、

鹿之助は謀殺される。

この鹿之助の死によって尼子氏再興活動は完全に絶たれた。

【予談】(鹿之助の長男・山中幸元(鴻池新六)は父の死後に、

    武士を廃して、
大阪伊丹市で酒造業をはじめて財を成し、


    豪商・鴻池財閥の始祖になったという)

ブラックホールの傍にインターホンがある 岩田多佳子



 絵本太閤記

山中鹿之助VS品川狼之助の一騎打ち

【エピソード】

毛利氏による尼子氏の居城・月山富田城攻城戦のなか、

毛利輝元が、石見の兵を中心に編成した軍勢を引き連れ、

尼子氏の兵糧集積場(荒れ寺)に兵を伏せ、

山中鹿之助率いる尼子氏の軍勢に奇襲を掛けた。

ところが、鹿之助率いる尼子氏の軍勢による返り討ちに遭い、

輝元も殺されそうになる。

そのとき品川狼之介が現れ、周辺の敵を長剣で打ち払い、

輝元の危機を救う。


敵である狼之介の活躍に目を留める鹿之助。

狼之介が名乗りを上げる「拙者、石見の生まれ、品川狼之介」

鹿之助 「狼之介?」

狼之介 「左様。ただ鹿(鹿之助)を討つことのみを夢見て、

     古き名を捨て狼之介と名乗っておる」

鹿之助 「面白い、出られい」

荒れ寺の外で、狼之介と鹿之助の一騎打ちが始まる。

光り出すあなたが欠けて行く月夜  山口亜都子

幸盛(鹿之助)が先行して川に飛び込み、

将員(狼之介)は幸盛が川の途中まで渡ったところで

川に飛び込み、決闘の場所へと向かった。

将員は大弓に矢をつかえて川を渡ろうとしたため、

尼子軍の将、秋上伊織介(宗信)、五月早苗介、藪中荊之助は、

「一騎討ちの戦いに飛び道具を使用するとは、臆病者の所業だ。

 お互いに名乗りを上げての勝負なので、

 太刀による打ち合いで行うべきだ」

と大声を上げ抗議した。
                            約600m
しかし将員はその声を無視し、そのまま30間ばかり、

川を渡っていたため、たまりかねた宗信は、

弓に大雁股の矢をつかえて解き放ち、将員の弓の弦を切り落とした。

攻撃を阻止されたため将員は怒り、壊された弓矢を投げ捨て、

中州に上がると、大太刀を抜いて幸盛に切りかかった。

対する幸盛も太刀を抜いてそれに応じ、太刀打ちの勝負となった。

一時余り戦うと、しだいに幸盛の力量が勝り、

将員は受け太刀となり追い詰められた。

太刀打ちの勝負に不利を感じた将員は、

「取っ組み合いで勝負を決めよう」

と幸盛に提案し、幸盛もそれに応じたため、

勝負は組討へと変更になった。

組討勝負は、力で圧倒する将員が勝り、将員が幸盛を組み伏せる。

しかし組み伏せられた幸盛が、下から腰刀により将員の太股を2回抉り、

弱った将員を跳ね返してその首を切り討ち取ったため、

幸盛の勝利となった。

幸盛は「石見の国より出でたる狼を、出雲の鹿が討ち取った。
たらのき
             もとより棫の木は好物なり。我に続け」

と叫びながら味方の陣に帰還した。  『雲陽軍実記』

フィニッシュは地獄の釜へ真っ逆さま  新家完司    

『雲陽軍実記』に狼之助は、

「自分は抜群の大勇力を持ちながら、

 運悪くこれまで万人の目を驚かすほどの高名がない。

 尼子には、山中幸盛、立原久綱、熊谷新右衛門

 三傑といわれる人物がいるが、その1人なりとも出会い、

 一騎討ちの勝負をして名を後世に残したい。

 特に幸盛は軍智博学・勇猛兼備の者なので、

 討ち取れば比類の無い高名を得ることができるだろう」

と思い、毎日城を出て敵陣の様子を探っていたと独白する。

獺と鼬の暗闘は済んだ  井上一筒 

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