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川柳的逍遥 人の世の一家言
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真夜中にバケツの水を入れかえる  河村啓子

  

天正6年(1578)元日。

織田信長松井友閑を茶頭にして茶会を開催した。

この時代の茶の湯は政そのもので、信長の茶会に招かれることは、

織田家中で一歩抜きんでることにほかならなかった。

茶会に招かれたのは、

秀吉、信忠、光秀、村重、長秀、一益 ら12名で、

謙信に備える勝家は席に加わることが出来なかった。

茶会で秀吉がひと月で播磨を平定したことが話題になると、

秀吉は、「すべて信長の威光のおかげ」だと主君を立てる。

そんな秀吉は毛利攻めに際して、信長の出陣を願い出た。

対して信長は、荒木村重に本願寺との和睦を急かせると、

毛利氏を自ら叩き潰すと宣言する。

砂嵐と根気比べをする駱駝  高島啓子

村重は、石山本願寺の顕如に和睦を申し入れていた。

しかし身内を殺されていた門徒たちは、信長の卑劣さを憎み、

死ぬまで戦い続ける覚悟を決めていた。

顕如でも門徒衆を止めることは出来ない状態だった。

石山に留まって顕如の返答を待っていた村重は、

元朋輩と再会した。

旧友にも信長の非道ぶりをなじられた村重は、

逆に信長のやり方が嫌で、

気苦労が重なっているのではないかと労られる。

古い付き合いだからこそ、村重の心中を察するものがあったのだ。

すみません作り笑いの時間です  鳴海賢治    

まもなく石山本願寺・顕如から村重に返事が届いた。

本願寺は和睦には応じないという返答であった。

和睦しても、信長が門徒衆を皆殺しにすることを、

本願寺側は見越していたのだ。

和睦の失敗を聞いた信長は、「それなら滅ぼすまで」と声を荒げ、

村重には、本願寺が一区切りついたら播磨に行って、

秀吉の配下になるよう命じる。

屈辱的な命令をされた村重は、手柄を立てて、

ふたたび這い上がるしかなかった。

モリブデン前者の轍の踏み心地  井上一筒



『石山本願寺合戦』ー歌川豊宣画(明治16年)

「石山本願寺との10年戦争」

「天下布武」を目論む信長は、豊富な財貨を所持する石山本願寺に、

戦争資金の支援を求めた。

発展する流通社会のなかで、

街道筋の関所、運送業者、商品生産の元締め、流通市場などを

支配下においていた本願寺は、金銭に困ることはない。

いわゆる「金持ち喧嘩せず」で顕如は信長の求めに応じ、

五千貫を供与した。

それから、2年後の元亀元年(1570)9月、

信長は現在の大阪城辺りに位置する本願寺が所有する土地からの

立ち退きを求めた。

味方だと思い込んでいた敵の敵  笹倉良一

本願寺立ち退きには二つの理由が考えられる。

一つは、大きな経済的な基盤を持ち、武装した寺社勢力をなくす事。

権益を守るための寺社は、膨大な門徒宗がそのまま、武力となり、

また武装した僧兵や神人たちは、信長にとって氏族と何ら変わらない

「目の上のたんこぶ」だった。

一つは、信長はこの土地の有効性を知り、

何としても手に入れたかった事。

当時、摂津地方は満潮になると海流が淀川・大和川の奥まで逆流し、

雨が降れば一面水浸しの湿地帯になる。

摂津地方で唯一この石山の上町台地は高台になっており、

乾燥地帯であった。

またこの台地は淀川の河口に位置しており、京都の朝廷の牽制になり、

西国の大名を牽制できる絶好の地でもあったからだ。

地下茎を太らせながら風を待つ  前岡由美子   



天下布武とは、「七徳の武」をもって天下を治めるという意味。

七徳の武とは、「暴を禁じ、戦をやめ、大を保ち、功を定め、

民を安んじ、衆を和し、財を豊かにする」の七つを意味する。

信長のやっていることは、すべてこれらに逆行することだが、

これを達成する為には、「障害となるものは叩き潰すのみ」

何の批判があろうと、強行手段も止むを得ないと考えたのである。

こうして多くの大名が恐れていた聖域にも足を踏み入れた。

その内に一体となる天も地も  板野美子



一方、本願寺にとって信長の横暴はこれで終わるとも思えず、

信長への不信感が募らせていく。

そんな中、元亀元年(1570)、信長は石山本願寺の対岸に位置する

三好氏の野田砦と福島砦に攻撃を仕掛けてきた。

この砦を攻め落せば、信長の次の狙いは、「おそらく本願寺」

そう考えた本願寺の顕如は、

「危機である!」と門徒に決起を促した。

こうして本願寺と信長の10年戦争がはじまるのである。。

手を打つと怪しい雲がやってくる  森 茂俊

信長は、諸国に蜂起する本願寺一派の一向一揆の討伐に手こずったが、

天正4年(1576)安土城を築くと、ここを拠点として、

一向一揆の本拠地である石山本願寺を猛攻、悪戦苦闘の末、

本願寺の軍を石山城内に閉じ込めることに成功する。

そこで信長は、本願寺の四方十ヶ所に砦を築き、兵糧攻めにした。

大阪湾からの兵糧搬入も水軍で海を包囲した。

これに対し、本願寺方も五十一ヶ所に端城を構え、

長期籠城の構えをとり、安芸の毛利氏の支援を得て、

糧食を大阪湾から寺内に搬入させて対抗した。

極め球を持った男の背のゆとり  山野寿之

さすがに、本願寺を支援する毛利の水軍は強力であった。

そこで、信長は対抗策として巨大な鉄の軍艦を造り、

軍艦には大砲も装備した。

これが有名な信長の巨大鉄船である。

この軍艦は、さすがに毛利水軍を圧倒した。

そして天正8年(1580)正親町天皇が仲裁に入り、

信長は、門徒衆の命を取らないことを約束。
 
本願寺の顕如は、「石山からの退去・武力抵抗をやめること、

信心だけなら許すが、武力抵抗のみならず、

武装することすら許さない」という信長の条件を受け入れ、

本願寺を開け渡すに至ったのである。

もう少し酔えば桜を見に行こう  ふじのひろし

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酢味噌和えつまむと霧が濃くなった  森田律子     



赤漆塗合子形兜

櫛橋左京進は播磨城主の嫡男。

青年期は近習として小寺職隆に仕え、同僚の官兵衛をよそ者と侮る。

やがて妹・が官兵衛と結婚して義兄弟となるが関係は改善せず、

家督を継いでからも官兵衛と対立した。

さらにもうひとりの妹・が嫁いだ上月城を攻め落とした官兵衛に、

より深い遺恨を抱くようになり、

そのことが播磨を揺るがす動乱に発展する。

この左京進と官兵衛のエピソード。

ゾーンぎりぎりの男で我慢する  中村幸彦

「赤漆塗合子形兜」

永禄10年(1567年)、御着城の城主・小寺政職が櫛橋光を養女とし、

小寺家の家臣・黒田官兵衛と結婚させた。

櫛橋左京進は、この結婚に際し、

黒田官兵衛に「赤漆塗合子形兜」を贈られたといわれている。

この兜の特長は、お椀を逆さにしたようなユニークな形状で、

合子とは、蓋付の小型容器を意味している。
あかうるしぬりごうしかぶと
赤漆塗合子形兜を着用した官兵衛は、

戦場で「赤合子」と呼ばれ、敵方から恐れられたという。

ところが、櫛橋左京進からの贈り物とされる合子形兜は、

黒田の子孫である三代藩主・黒田光之が官兵衛を偲んで、

貞享5年(1688)に領内の具足師に依頼し作成されたものなのだ。

疑問符は続く明日も明後日も  岡谷 樹



「合子形兜の成り行き」

合子形兜の実物は、現在、岩手県盛岡市の歴史文化館が所蔵している。

なぜ、福岡から遠く離れた盛岡に、官兵衛の合子形兜があるのか。

元和9年(1623黒田長政が没すると、

新しく福岡藩主になったのが忠之である。

しかし、忠行は粗暴な性格でもあり、長政から廃嫡を迫られていた。

この事態を救ったのは、栗山大膳である、

大膳は血判した嘆願書を長政に送り、忠行を廃嫡にするならば、

家臣一同切腹すると申し出た。

そのような事情から長政は、後見として大膳を頼み、

死後に家督を譲るようにしたのである。

三角へゼムピン四角へフラフープ  和田洋子

ところが大膳が送った諫書が忠之の機嫌を損ね、

以来、忠之は大膳と距離をおくようになった。

寛永元年(1624)に新藩主についた忠之は、

譜代の家臣を退けて、新たに倉八十太夫らを登用した。

なんと一万石も与えている。

そして幕令を無視し、軍船・鳳凰丸の建造、足軽隊の増強は、

幕府のお咎めを受けることとなった。

水底にゆっくり溜まる不協和音  青砥和子  

家老の大膳は忠之を諌めたが、

却って忠行は大膳を殺害しようとした。

寛永9年大膳は豊後府内藩主・竹中采女正とともに、

江戸にのぼり、忠之が謀反を起こすと幕府に訴えたのである。

翌年の裁定により黒田家は存続し、

大膳は陸奥盛岡藩・南部家に預けられた。

いわゆる「黒田騒動」である。

こうした経緯を踏まえて、

大膳が所持してい合子形兜は盛岡に移ったのである。

官兵衛の形見といわれる合子形兜は、

正式には「銀白檀塗合子形兜」という。

涙こぼれます天地無用に願います  美馬りゅうこ

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障子から射すのがきっと未来です  清水すみれ            



       福原城本丸跡

「毛利との攻防の始まり」

信貴山に籠る松永久秀を攻め滅ぼした信長は、

毛利との直接対決を決断。

天正5年(1577)10月、秀吉を将として兵7千を西播磨へと進攻させた。

ただ、この秀吉播磨出陣前の9月、信長は官兵衛に人質を求めている。

それに応じて官兵衛は、嫡男の松寿丸を人質として信長のもとに預けた。

官兵衛は小寺政職の家臣でしかなかったが、

実質的に、小寺家を支えていたのが官兵衛であることを、

信長が見抜いてのことである。

秀吉を迎えた官兵衛は、自らの居城である姫路城を秀吉に譲り渡す。

一族は国府山城に移らせ、自らは姫路城の二の丸に詰めた。

いよいよ,5年に亘る織田軍の毛利との攻防がはじまる。

ぽろりんと生れた日から鬼ごっこ  菊池 京

秀吉の軍勢がやって来たとはいえ、

毛利氏の勢力圏内に近い西播磨の豪族の多くは、

信長に敵対する姿勢を崩さなかった。
                      すけなり          まさのり
なかでも作用城の福原助就、上月城の赤松政範などは、

毛利方の有力大名のひとり、備前の宇喜多直家の支援を受け、

あからさまに反抗してきた。

秀吉軍は11月、1千の兵で福原城(作用城)に籠る福原軍を包囲。

この福原城と同時に、4キロほど離れた上月城も攻撃している。

この陣には竹中半兵衛も参加、官兵衛との揃い踏みとなった。

「福原城の戦い」である。
                                           いしひっけつ
ここで、『孫子』軍第7にある兵法のひとつ「囲師必闕」の策を、

官兵衛は見事に活用している。

わたくしとまだやりますか泥試合  安土理恵          



              福原霊社

福原城跡・福原霊社には、頭脳明晰だった城主・福原氏を祀っている。

「福原城の戦い」

官兵衛の調略によっての播磨の大半の城主たちは戦わずして、

秀吉方になびいたが、作用城(福原城)と上月城だけは、

毛利氏に属す宇喜多直家の支配下にあるため、

徹底して織田氏の軍門に降ろうとはしなかった。

そこで官兵衛は、半兵衛とともにこれらの城を攻めることになった。

孫子の兵法・「囲師必闕の兵法」とは、

「囲師には必ず闕き、窮冠に迫ることなかれ」

と続き、

「敵を追い詰めても必ず逃げ道をあけ、

  窮地に追い込んだ攻撃をしかけてはならない」

というものである。

これは四方全部を囲んでしまうと「窮鼠猫を噛む」の状態となった敵が、

死にもの狂いで抵抗するため、

味方の損害がそれだけ増える危険性がある と教えているのである。

考える形で影が離れない  早泉早人

官兵衛はそれに倣い、福原城を三方から攻めた。
            すけなり
城主の福原助就をはじめ城兵たちは、

思惑通り、包囲のゆるい一方向から逃げてくる。

官兵衛は空けておいた逃げ道の先に伏兵を潜ませた。

そのため逃げ出してきた大部分の城兵たちが討ち取られたのである。

官兵衛に指示されてその場所に待機していた平塚為広は、

秀吉の勘気にふれて浪人の身となっていたが、

官兵衛のおかげで、見事手柄を挙げることができ、

秀吉の配下に復帰することができたというオマケまでついている。

(黒田家の記録「黒田家譜」には、官兵衛の計略、孫子の兵法・「囲師必闕」

  によって福原城(作用城)を落城させたと記されている。

  そして毛利に与し敗北した宇喜多直家は天正7年に織田方に寝返っている)

沈黙のしこりをついに笑わせる  岡内知香



福原則尚の肖像画福圓寺所蔵)

「福原助就」
                                           のりひさ
播磨国高倉山城主。本来、福原城主は福原則尚と伝わるが、

『黒田家譜』などは、福原助就が福原城主としている。

秀吉の中国遠征がはじまると、毛利と手を結んで抵抗したが、

官兵衛らの猛攻にあい平塚為広によって討たれたという。

『黒田家譜』では、城主・福原助就、城主福原則尚両名とも

黒田官兵衛の家来に討ち取られたことになっている。

が、地元の伝承では、福原則尚は戦死せず、

城に火を放って高尾山福円寺まで逃れ、

12月1日ここで自害して果てたと伝えている。 (『三日月町史』)

福圓寺には則尚の墓だけでなく、後世の人が想像して描いた肖像画もある。

国滅ぶ時も行列崩さずに  板垣孝志



      柴田勝家ー(太平記英雄伝)

【豆辞典】ー「手取川の戦い」

現在の石川県白山市付近を流れる手取川で繰り広げられた合戦。

信長の先発隊である柴田勝家と上杉謙信軍が矛を交えた。
                            ちょうつぐつら
畠山の居城・七尾城の重臣・長続連の救援要請に応じた信長は、

柴田勝家を総大将とする先発隊を派遣して、

自らも大軍を率いて加賀へ出陣した。

ところが柴田軍が進軍する途中、
                                ゆさつぐみつ 
以前から続連が実権を握ることに不満を抱いていた遊佐続光
ぬくいかげたか
温井景隆ら親上杉派が内応して、七尾城は落城。

その情報を手取川を渡りきったところで知った勝家は、

すぐさま撤退を命じたが、

満を持して待っていた上杉軍の襲撃にあい惨敗。

運悪く手取川の増水で逃げ場を失った柴田軍は多数の溺死者を出した。

謙信は関東情勢が気にかかっていたので柴田軍を追撃せず、

関東を平定した上で上洛しようと考えて、

居城・春日山城にいったん凱旋したが、その半年後に病死した。

川あかりだけを頼りに行きますか  酒井かがり

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木漏れ日は古い小さな椅子になる  河村啓子



三顧の礼ー(月岡芳年/玄徳風雪に孔明を訪う)

劉備、関羽、張飛が「軍師」孔明を迎える三国志の名場面・『三顧の礼』

江戸時代・「三国志演義」が日本に輸入されて民衆にも広く愛読され、

その名場面が錦絵にもなった。
                              (画像は拡大してご覧ください)

 
      諸葛孔明


「軍師の原点」

この世に、「軍師」という存在が初めて誕生したのは、
                        ちこう
遡ること紀元1世紀、西暦23年(地皇4年)と考えられている。

『後漢書』に、
かいごう
隗囂という君主が、方望なる人物を軍師として招聘したと記され、

彼が正式な形で、軍師の地位・肩書きに就いた史上初の人物とされる。
             かんきん  こうほぶん
同時代には、韓歆皇甫文が軍師の地位に就いていたという。

制度としては彼らが初めてなのだが、

それ以前にも、似たような地位に就いた人物はいた。

切株に父の帽子が置いてある  笠嶋恵美子


       太公望
                                                          りょしょう
有名な処では紀元前1100年頃に周の文王を補佐した呂尚(太公望)
      りゅうほう                           ちょうりょう
前漢の劉邦(紀元前200年頃)に仕えた張良などがいる。

とくに張良は、戦場で手柄を立てたことは一度もなかったが、
      いあく
「謀を帷幄のなかにめぐらし、千里の外に勝利を決した」 

と、主君の劉邦に評価されている。

帷幄=幕。作戦を立てる所。

そこから時代が少し下ると軍師は、よりハッキリとした形で現れる。

中国の後漢時代(25~220年)で、その末期が「三国志の時代」である。

飛び降りてよいかあなたのてのひらへ  むさし

 
      張 良

軍師を初めて制度化し、有効に使った君主といえば、
                                                 そうそう
三国の中でも最大の勢力を誇った「魏」の創始者・曹操である。
                                             じゅんいく
この曹操に仕えた軍師で、もっとも有名なのが荀彧だ。

彼は正式に「軍師」という役職についたわけではないが、

「わが子房(張良)が来た」

と曹操に喜ばれたほどの才知をもって、曹操の相談役を務めた。

戦争の際は同行せず、

曹操の留守を預かって、政務を代行することが多かったようだ。

曹操は窮したとき、戦場から手紙を出して彼に戦況を知らせ、

軍の進退を相談したほどだった。

沖凪いで沖の返事がいま届く  桑原伸吉
       じゅんいく       じゅんゆう         かくか  ていいく
曹操は荀彧の他に、荀攸をはじめ、郭嘉、程昱など、

複数の補佐役を、傍において重用し、

その参謀グループに「軍師祭酒」という名前をつけていた。

その筆頭が荀攸だった。

荀攸は荀彧の甥にあたるが、叔父とは異なり、

よく戦場に同行して、謀をめぐらせるタイプの軍師だった。

例えば呂布軍との戦いでは、水攻めを考案して曹操に提案し、

籠城した敵を追い詰め開城させた。

こだわってけやき並木のもたれぐせ  墨作二郎



        周 瑜
                               そんけん
同じ三国の一つ「呉」の孫権は、制度上「軍師」という職は用いなかった。

しかし特定の有能な人物に軍の全権を預け、

総指揮を任せるという活用の仕方をした。
しゅうゆ  ろしゅく  りょもう  りくそん
周瑜、魯粛、呂蒙、陸遜 などがそれである。

とくに周瑜は、「赤壁の戦い」で曹操軍を撃退し、

陸遜は、「夷陵の戦い」で劉備軍を撃退するなど、

いずれも国難に際して重要な働きをし領土を守り抜いた。

ひと口に「軍師」といっても、用いる人物や制度によって、

さまざまにその役割を変えたのである。

裏側の貌は見せない薔薇の艷  前岡由美子



   曹操の石像

【荀彧】 

涼やかな風貌を持ち、

若くして「王佐の才」(王者を助ける才能)を持つと評された。


大局を見据えることに長け、人材を見る目も確かで数多くの賢人を曹操に推挙した。

【荀攸】

戦場に同行することが多かったが、性格は慎み深く、

常に目立たないよう振る舞って曹操を盛り立てた。

【郭嘉】

常に前線において曹操のために献策し、勝利にたびたび貢献した。

呂布討伐戦では、荀攸とともに徹底抗戦を進言し水攻めを提案した。

太陽の裏へご一緒致します  井上一筒 

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イモリの黒焼きで眉毛だけ生えた  井上一筒



「弾正忠松永久秀」ー芳年武者牙類

刀を抜いた久秀の頭上に破片のようなものが飛び散っている。

自刃の前に最期の杯を飲み干して叩き割った刹那を描いている。

「松永久秀」

逆上型で知られる信長が、何故か、松永久秀には甘かった。

信長を久秀は2度裏切っている。

しかし、信長は「この男なかなかの悪人である」と言いながら、

3度目の裏切り対しても「許そう」 と使者を送っているのだ。

狡猾で傲慢不遜の「戦国乱世の梟雄」とか「日本三大梟雄」といわれ、

謀略や暗殺など手段を選ばない人物なのにである。

戦国の三梟雄=『斉藤道三』・『宇喜多直家』・『松永久秀』
日本三大梟雄=『斎藤道三』・『北条早雲』・『松永久秀』

みての通り、どちらにも久秀の名前が見てとれる。

さらに、

① 13代将軍・足利義輝暗殺。
② 東大寺大仏殿の焼討ち。
③ 主家・三好家に対する暗殺と謀略。

この三つを前置きして、信長は、

「この人物は全く油断ができない、

 彼の三悪行は天下に名を轟かせた男である」

と久秀を家康に紹介しているのである。

着地する悪い噂のどまん中  嶋澤喜八郎   



三好三人衆・岩成友通

永禄3(1559)年8月,松永久秀、大和信貴山城主となる。

主家の嫡男・三好義興と供に将軍・足利義輝の御相伴衆になり、

主君・三好長慶と同格の桐紋と塗輿の使用を許された。

久秀は多聞山城を築き六角家と争い、政所執事伊勢家を討伐。
                   そごうかずまさ
永禄6年(1562)、長慶の弟・十河一存、嫡男の義興を毒殺し、

弟・三好義賢の討死後、三好政権は、
                      ろうだん
三好長逸「三好三人衆」と久秀が壟断するようになる。

長慶が病死すると、久秀らは喪を秘したまま、将軍・足利義輝を暗殺。

(三好三人衆=三好長逸・三好政康・岩成友通)

久秀はこの三人衆と別段仲が良かった訳でも無く、

足利義栄を擁立直後、三人衆との対立が表面化する。

その辺から久秀は孤立、一時、消息が途絶える。

矢面に立てるか長になるならば  伊藤志乃



永禄10年(1566)、突如として姿をみせた久秀は、

東大寺に立て篭る三好三人衆を奇襲し、大仏殿に火を放つ。

この内粉で消耗、弱体化した三好政権は、

翌年の9月、信長の軍事力の前に崩壊。

このとき久秀だけは、大和一国を安堵されている。

信長が足利義昭を擁して上洛した際は、

義昭は兄の義輝暗殺の首謀者として、「久秀を誅殺せよ」と命じた。

が、信長は久秀を庇って助命に持ち込んだ。

この時この恩をもって久秀は信長に、

臣従の証しとして名器・「九十九髪茄子茶入」を献上している。

第一次信長包囲網の折には朽木元綱を調略し、信長のピンチを救う。

これが信長に対する久秀最初で最後の忠節であった。

敵の敵は味方じゃないと傷が言う  竹内いそこ

元亀2年(1571)、義昭と呼応し、久秀は武田信玄に通じて信長に背く。

これは信玄の死によって実らず、降伏。

これを信長は、「一回目は許す」を信条として,

久秀を許し、大和支配を安堵させた。

天正3年(1575)、多聞山城と大和守護を失うと、

北陸の上杉謙信を頼んで,再び信長に背く。

天正5年(1577)、上杉謙信・毛利輝元、石山本願寺などの

反信長勢力と呼応して、本願寺攻めから勝手に離脱。

信長の命令に背き、大和信貴山城に立て籠もり、

再び対決姿勢を明確に表した。

時々は堪忍袋解き放つ  合田瑠美子



『太平記英勇傳松永弾正久秀』-平蜘蛛釜・謀反-落合芳幾

信長は松井友閑を派遣し、理由を問い質そうとしたが、

使者には会おうともしなかった。

信長は、嫡男・信忠を総大将、筒井勢を主力とした大軍を送り込み、

信貴山城を包囲。

所有していた「名器・平蜘蛛茶釜を差し出せば助命する」

と寛容な対応を提示したが、それに対して久秀は

「平蜘蛛の釜と我らの首と2つは信長公にお目にかけようとは思わぬ。

  粉々に打ち壊すことにする」

と返答したという。

信長のもとに人質として預けていた2人の孫は、京都六条河原で処刑。

そして東大寺大仏殿を焼き払った10年後の同じ10月10日に、

久秀はついに抗しきれず、名器・「平蜘蛛の茶釜」を抱いて、

火中に投身した。享年六十八。 

『平蜘蛛の釜と俺の首の二つは やわか信長に見せさるものかわ』

は久秀辞世の句とされている。

地獄の扉に「ようこそ」と書いてある  新家完司

「信長のなぜを考える」

信長が語った久秀の「三悪事」に対し、

信長自身も主君に当たる織田大和守家の当主・織田信友を討滅し、

将軍であった足利義昭を追放し、「比叡山焼き討ち」を敢行する等、

久秀とまったく同じような所業を成している。

似た者同士、「親近感を抱いた」のではないかという説がある。

また、下克上でのし上がった乱世の奸雄としては、

斎藤道三とも類似しており、

「信長は道三の面影を久秀に見ていた」

のではないかという説もある。

赤い血を出さないように串を刺す  寺川弘一


「平蜘蛛」


蜘蛛が這いつくばっているような低く平らな形から名付けられたという。

「松永久通」

大和国多聞山城主。 松永久秀の嫡男。
                         ながやす
三好三人衆の一人三好長逸とともに将軍義輝暗殺の実行犯となった。

三好三人衆との内戦では多聞山を死守し、

将軍義昭を奉じて、上洛した信長に父・久秀とともに臣従。

しかし信長と義昭が不仲になると、父とともに信長に反逆して敗北。

裏切者にきびしい信長からなぜか父子とも許されたが、

その後に謙信の上洛の話にのって再度反旗をひるがえし、

父とともに、信貴山城で自害した。

ポキポキポキポキそれは無駄骨  鳴海賢治

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