忍者ブログ
川柳的逍遥 人の世の一家言
[136] [137] [138] [139] [140] [141] [142] [143] [144] [145] [146]
ギロチン台へボクの親指ぐらいなら  くんじろう

 

新島夫妻が暮らした家(寺町丸太町上ル) 新島旧邸

(二人の住居は女紅場や同志社の仮校舎のすぐ近くにある)

「襄の朝は早い」

6時前に起床、6時半には洋風の朝食を済ませ、

7時前には家を出て、徒歩で同志社へ向かった。

郵便夫が持つようなカバンに本をたくさん詰めて通っていたという。

昼は大抵家に戻り、食事をした。

同志社の食堂で食事をしたり、所用で外食をするときは、

前もって人を使いに出し、八重への伝言は欠かさなかった。

おくれ毛は日付変更線までなびく  森田律子



「ところどころに襄の優しさ・思いやり」

八重は京都で誰よりも初めて帽子を被り、靴を履いた。

明治という時代、これが世間に受け入れられるのは、難しかったようだ。

すべての人格は尊重すべし!

といっても、当時は男尊女卑。

世間は「夫を尻に敷く悪妻」と評価。

また八重は、薩長の生徒に厳しいとか、

武士の誇りを掲げる八重に、襄が諭したこともあった。

「ハイヒール事件」

ある日、八重がハイヒールを靴箱から出してみると、

ヒールの部分がなくなっている。

襄の仕業だった。 

八重が襄に尋ねてみると、体の大きい八重のハイヒール姿は、

襄にはすごく危なっかしく見えたようで、

「転ぶと危ないから私が切りました」 と返事が返って来た。

(襄の変な優しさが垣間見えるエピソード)

カチュウシャをしたら双子のできあがり  酒井かがり

「襄の家・八重の家具」

 

          応接間(約18畳)

当時のままで机やイスやソファーが置かれている。

右は襄が寝転び心身を休めたというソファー。
 
また、ここは、生徒が集まって勉学に励む場であったり
 
雑談のロビーなどとして多目的に使われていた。

八重の桜のドラマでも正確に再現している。

 

     食堂と棚            鍵のかかった棚

襄が無類の甘いもの好きだった。

同志社の生徒たちのために、八重が買い置きしておいた菓子まで、

襄はつまみ食いしてしまうことが、しばしばあり、

八重は襄のことを考え食べられないようにと、鍵をつけた。

とは言え、八重はケーキ作りが好きで、

よくワッフルやクッキーなどを作り、生徒たちに食べさせていたという。

八重のふくよかな姿は、この菓子作りのせいだったのかも

焼き方三年煮方で五年食い方終生  山口ろっぱ

 

   書斎と本棚             東南角の書斎

襄が使っていた使った机と本棚。

襄はよく書きものをし、よく本を読んだ、8割以上の本が洋書である。

 

八重使用していたオルガン

八重は京都に出てきて色々なものを吸収した。

オルガンもその一つ。

今でも昔のままの音が出る優れもの。

 

               寝 室


洋式が始めての八重のために、八重の方のベッドは低くしつらえてある。

ここにも襄の思いやりが垣間見られる。

 

  セントラルヒーティング

この時代、セントラルヒーティングも取り入れた進歩的な家だった。

1階に取り付けられ、ここからダクトを通って温風が二階へも送られた。

揉め事終わりはハグで納めます  竹中ゆみ



       台 所

キッチンも八重の背の高さに合わせて使いやすく工夫してある。

かまどの前の格子窓から梅が見えるように、と襄の思いやりも見える。

 

            洋式トイレ

トイレも洋式に座ることもできるし、上がってからしゃがむこともできる。

京都最初の洋式といわれている。

 

            風 呂

シャワーはなく、風呂の洋風化、近代化はまだというところか。

が、二人は愛をこの湯舟に温めていたのだ。

順風満帆夢を見ているのだろうか  柏原夕胡

 

 日常一番使われた食卓

和洋折衷の八重に同志社の学生たちは、

「鵺のような女性!」と形容し、

西洋と和風が入り混じった八重を批判、反発した。

しかし八重はこんなことには全く動じなかった。

肝っ玉がすわった女性だった。

はこうした八重に刺激を受けていた。

思いもよらぬ発想で襄を勇気つけたり、励ましたりする。

襄はアメリカの友人に、周りもはばからず

「彼女は見た目は美しくないが、生き方がハンサム」

「自分の理想の女性」と語っている。

目の奥に消えないものが咲いている  ふじのひろし



一方で、襄は八重との結婚生活での本音も少し零している。

「なぜ神がこんなに反対の性格の人間を夫婦にしたか、

と考えさせられるほど、

性格においても相反している事を後になって発見して、悩むことがある。

しかし、これも神々が各々の性格を磨かしむるためになし給う、

御手の技であるから、ますます相忍ばなければならない」

襄が病床に伏しているとき、看護婦に洩らした本音が風と伝わる。

ほぐすのに微量の毒がいるのです  美馬りゅうこ



明治15年、八重は万感の思いで故郷の土を踏んだが、

この頃から、襄の体に異変が起きていた。

襄は休むことを知らず学校建立のための全国行脚をし、

明治17年、20ヶ月におよぶ外遊へ出発。

翌18年帰国したが、長かったアメリカ生活の疲れも顕著に、

体力の低下は見て取れた。

そんな中、襄が心臓発作で倒れる。

淋しさの具象抽象描き分ける  森吉留里子

拍手[3回]

PR
ふいに手を繋ぎたくなる烏瓜  河村啓子

 

            陸奥亮子 (各画像は拡大してご覧下さい)

亮子の憂いを含んだ横顔の写真は、つとに有名だ。

鹿鳴館の貴婦人の中でもナンバーワン美女の呼び声高いが、

自由奔放な夫の生き様に翻弄され、彼女の人生は辛苦がたえなかった。
                  りょうこ
「鹿鳴館の女たち」③-陸奥亮子

明治政府の高官が薩長連合で占められているなか、

紀州出身の陸奥宗光は藩閥のバックもなく、孤軍奮闘していた。

才気煥発がゆえに、身の不遇にもがき苦しみ、

私生活では妻を病で失うという不幸に見舞われた。

そんな時、可憐な新橋芸妓の亮子に惚れこんだ。

芸妓でありながら身持ちが固い女といわれたが、

なぜか陸奥に心をひかれた。

明治6年、17歳でひと回り年上の陸奥と結婚。

翌年には長女が生まれ、先妻の子どもと合わせて、三人の母親になる。

号泣も爆笑もとうに飽きている  中野六助



中央が陸奥宗光、左が亮子、右は長男の広吉

5年後、宗光は反政府運動に加担した罪で禁固5年の刑を受け、

山形監獄に投獄されてしまう。

亮子は姑とともに、陸奥家の主婦としてけなげに留守宅を預かった。

ところが宗光は出獄するとすぐに、単身ヨーロッパに留学。

妻の心労をよそに何とも身勝手な夫といおうか。

筆まめの宗光は獄中時代から亮子に手紙を書きつづけ、妻の行状を指示。

唯一事後承諾となったのが、鹿鳴館での慈善バザーへの参加だった。

外遊中の明治17年、尻込みする亮子を、

総理大臣夫人・伊藤梅子が後押しして出席させたのだ。

あるいは私が錆びるためのあまり風  山口ろっぱ



「於鹿鳴館貴婦人慈善会之図」‐橋本周延画

鹿鳴館では貴婦人たちの主催による慈善パーティーが行われた。

陸奥亮子も、めずらしく夫に事後承諾でバザーに参加していた。

政府高官がズラリと居並ぶなか、

亮子は初めてきらびやかな世界に足を踏み入れた。

その後政界復帰を果たした夫とともに、亮子も社交界にデビューする。

その抜群の美貌から「鹿鳴館の華」とうたわれた。

また夫が駐米大使となって渡米すると、

クリーブランド大統領夫妻に謁見するなど、

ワシントン社交界でも華やかな存在となる。

33歳女盛りの亮子にとって、人生でもっとも輝かしい時期ではなかったか。

美しい横顔の写真も、ワシントン時代に撮影されたものである。

鏡台よ泪をかくしているのです  田中博造



   戸田極子
                         きわこ
「鹿鳴館の女たち」④-戸田極子

戸田極子岩倉具視の二女。

14歳で大垣藩最後の藩主・戸田氏共に嫁ぐ。

岩倉具視の令嬢という血筋もさることながら、

その美貌は陸奥亮子と並んで「鹿鳴館の華」とうたわれた。

明治20年4月22日、

内閣総理大臣・伊藤博文邸で盛大な仮装舞踏会が開かれた。

主催者の伊藤夫妻はヴェネツィア貴族に扮するなど、

仮装した政府高官や実業家3~400名が集い、

夜を徹したお祭り騒ぎが繰り広げられた。

ところがこの舞踏会の最中、伊藤が戸田極子を庭に木陰に連れ出し、

いかがわしい行為に及んだ・・・という艶聞が流れた。

女にはやさしい牙を持っている  森中惠美子

漁食家で知られる伊藤のこと。

多くの浮名を流したが、よりによって相手は高貴な身分の伯爵夫人だ。

新聞各紙もこぞって面白おかしく書きたて、

一大スキャンダルとなってしまう。
                                            うじたか
騒動直後、公使館の参事官にすぎなかった夫の戸田氏共は、

オーストリア大使に任命されウィーン駐在となった。

突然の夫の出世から、極子の不倫騒動の報奨ではないか、

やはりゴシップは真実だったと、関係が疑われるのも無理もなかった。

足の爪剥いでしゃっくりを止める  井上一筒



 「ウィーンに六段の調」
          
(ブラームスと戸田伯爵極子夫人)‐守屋多多志作

夫とともにウイーンに滞在した極子が奏でる琴曲に、

ブラームスが耳を傾ける場面が描かれている。

こうして不名誉なレッテルを貼られてしまった極子だが、

オーストラリア滞在中、名誉挽回とばかりに大きな役目を果たしている。

長年学んでいた山田流の琴の演奏を、異国の地で披露したのだ。

戸田家の音楽教師・ハインリヒ・フォン・ボクレットは、

彼女の弾く琴曲に感銘しピアノ用に編曲して、

「日本の民族音楽」なる楽譜を書いている。

(譜面のない琴曲を楽譜に表しただけでも、彼らの関心の高さがうかがわれる)

風になり魔女になったりして娘  石田すがこ

また主催したパーティでも、日本文化のアピールにと極子は琴を演奏した。

そこには作曲家・ブラームスもいた。

さらにブラームスは、ポクレットの著した楽譜に自ら加筆訂正していた。

つまり極子は、伝統的な日本文化と西欧文化の橋渡し役を務めたことになる。

醜聞の汚名返上というか、

伯爵夫人としての役目をきちんとこなしたのであった。

美人でスタイルのいい極子は洋装がよく似合い、

英語もダンスも堪能で、物おじしない優雅な物腰も板についていた。

帰国後、鹿鳴館の花形となるのは自然の成り行きであった。

交錯して足は明日へと歩きだす  清水すみれ

拍手[15回]

階段はエリザベス女王のように  新家完司

  完成直後の鹿鳴館 (各画像は拡大してご覧下さい)

イギリスの建築家・J.コンドルの設計による国際的社交機関の洋風建築物。

明治14年に着工、 明治16年7月に落成。

当初は外国人接待所という名称で、約三年の工期と18万円という、

当時としては莫大な建設費をかけてつくられた。

「鹿鳴館時代」

明治16年11月28日、1200名を招待して盛大な開館式が行われた。

「鹿鳴館」では外国からの賓客接待ばかりでなく、

天長節の祝賀会行事をはじめ、数々の国内行事も行われるようになる。

これらの夜会、舞踏会、高官婦人による慈善事業などが世間の注目を集めたが、

欧化政策を批判する国粋主義者は「嬌奢を競い淫逸にいたる退廃的行事」

として非難の声を挙げていた。

手裏剣が赤絨毯に落ちている  前田咲二

一方当時は、日本の政府高官やその夫人でも、

大抵は西欧式舞踏会のマナーやエチケットなど知るよしもなく、

また、ダンスを踊れる日本人女性が少なかったため、

ダンスの訓練を受けた芸妓が舞踏会の「員数」として動員されていた。

ともかく貴婦人たちは真剣勝負でその場に挑んだが、

西欧諸国の外交官も、うわべでは連夜の舞踏会を楽しみながら、

その様が奇異であり、日記などに「大変滑稽」などと記して嘲笑していたようだ。

(その様子がジョルジュ・ビゴーの風刺画に顕著に描かれている)

外反母趾我慢してますシンデレラ  加納美津子

「鹿鳴館の女たち」-①

 

井上武子ー外務卿・井上馨夫人

明治の初期、外務・大蔵次官の大隈重信は、

築地本願寺に五千坪の広大な屋敷を構えていた。

「築地梁山泊」と呼ばれたこの屋敷には、

彼を慕う者たち―伊藤博文、井上馨、渋沢栄一、山県有朋など、

後の政府の要人たちが集い、政治論議に花を咲かせていた。

薩摩出身の中井弘もそのなかの一人。

しかも彼は、柳橋の芸妓だった武子にひとめ惚れして、

強引に結婚し、この大隈邸に預けていた。

他ならぬ事情でしょう椅子での正座  山本昌乃

だが若き男たちの溜り場で、美貌の武子が目をつけられないはずがない。

放浪癖のある中井の留守中、井上馨が武子に夢中になり、

彼女を奪ってしまったのだ。

その後、中井が帰国、妻が寝取られたことを知り、あっさり引き下がった。

井上に「武子と添い遂げる」と誓約書を書かせ二人はめでたく結婚する。

井上と中井はその後も友人関係が続き、

中井は武子のいる井上邸に出入りしていたというから、

何とも不思議な関係である。

片減りの靴に合わせるインソール  合田瑠美子

誓約書通り井上は、武子を大事にした。

ヨーロッパ視察旅行にも同行、2年間のヨーロッパ生活で、

武子は語学や西欧のマナーやダンスなどスマートな社交術身につけた。

またミシンや編み物、料理など積極的に学んで家庭的な面も見せている。

帰国後、井上は外国からの賓客を招く接待所が必要と、

「鹿鳴館」設立に奔走する。

鹿鳴館が開館すると武子は夫に尽力し、堂々と優美に接待役をこなした。

奇しくも、この「鹿鳴館」の名付け親は中井であった。

(「詩経の小雅鹿鳴」の詩から引用。

"鹿は餌を見つけると一匹では食べず、仲間を呼んでみなで食べる"

という意味の、社交場にふさわしい名称である)

選びながら時を繋げていくキミと  立蔵信子

鹿鳴館外交の中でも最も華麗な舞踏会のひとつとして知られるのは、

明治20年4月20日の仮装舞踏会「ファンシー・ボール」である。

しかしこの舞踏会は実は鹿鳴館ではなく総理官邸で行われたもので、

しかも、外交とは直接関係のない催しだった。

伊藤博文総理・梅子夫人の主催ということで開かれたこの舞踏会は、

実際には時のイギリス公使夫妻が主催したもので、

伊藤は好意で官邸を会場に貸し出したにすぎなかった。

しかし当時の国粋主義者たちは、

このことを知るや「亡国の兆し」と口を極めて罵った。

アメリカへの渡航歴があり、外務大丞をつとめたこともある勝海舟でさえ、

これを契機に憂国の感を深め、

これを21か条の時弊を挙げた建白書にしたためて政府に意見している。

イヌに吠えられライオンにほえられる  井上一筒

「鹿鳴館の女たち」-②

「伊藤梅子」ー初代内閣総理大臣夫人

伊藤博文けの集合写真

明治の後半、神奈川大磯の本部・滄浪閣で撮影されたもの。

中央が伊藤博文、前列左から3番目が梅子。

好色宰相の異名をとった伊藤博文だが、

妻・梅子は夫の乱行ぶりに目をつぶり、プライド高く気丈に生き抜いた。

梅子自身、下関の売れっ子芸妓「小梅」時代に伊藤と知り合い妊娠、

伊藤を離婚させ、再婚させた。

出来ちゃった婚、略奪婚の走りだが、そんないきさつもあってか、

梅子は夫の女遊びには目をつぶり、超然と構えていた。

ありがとうを言う汽笛になりながら  八上桐子

自宅に遊びにきた芸妓たちに帰りには必ず土産物を持たせたり、

朝まで過していった女には、翌朝、化粧や身の回りの世話までしてやるなど、

大人の対応を示し、遊び女たちに畏れを抱かせた。

芸妓遊びがこうじて、伊藤の邸宅は借金のかたになっていたという。

しかし女にだらしなくても、金銭には終着せずにきれいだった」

のが誇りだった。

虹のたつカビを女は持っている  板野美子

昭和42年、伊藤がハルピンで暗殺の一報を受け取ると、

梅子は動揺することなく、涙もみせなかった。

そして、

" 国のため光をそえてゆきましし 君とし思えどかなしかりけり "

と、その辛い胸中を歌に託した。

数え歌覚えて一つ背が伸びる  ふじのひろし

拍手[7回]

囀りの飛沫を浴びよ生まれ変われ  八上桐子



山本権八の墓 (光明寺)

玄武隊上土組に編入されていた八重の父・権八は、

会津若松市一ノ堰地内において、一ノ堰にて戦死した。

権八の墓は他の会津藩士の墓と異なり、

氏名が彫られた自然石となっている。

八重はこの旅の時、父・権八が慶応4年9月17日、

城南の戦いで戦死したことから、戦場近くの一ノ堰に墓を建てた。

(八重は、父の墓前であらためて戊辰戦争の悔しさを噛みしめたことだろう)

生かされて生きて黄色に染まるまで 嶋澤喜八郎

8月23日、米沢から会津へ戻った襄は、

八重とともに思い出が多く残る若松を去り、9月2日、東京に着いた。

若松滞在中の8月17日、宿泊していた七日町の清水屋の分家、

栄町の清水屋において、喜多方の自由党員・宇田成一らが、

旧会津藩士を中心に組織された政府側の帝政党員によって、

襲撃される事件が発生した。

宿から徒歩で十分ほどの距離にあることから、

八重も事件の一部を目撃したかもしれない。

『遊奥日記』には、

「堺(栄)町清水屋ノ二階ニテ会議ヲ開キ、其ノ夜、

夜モ少シ更ケ各一睡セシ折、何人カ蝙蝠傘、棒チギリヲ持チ来リ」

と書かれている。 

歯並びと歯並び譲らない火種  岩根彰子

さらに、襄は23日に喜多方の宇田を訪ねている。

宇田の自宅は隠し部屋があり、2階への上り階段は一カ所だが、

隠された下り階段が三カ所あり、

いつでも逃げられる特殊な造りとなっていた。
 これ             あえ
「之ヲ穏便ニ付シ敢テ告訴セザリシ」 とする宇田に対し襄は、

「是非トモ告訴スベシト勧タレドモ、同氏ハ固執シテ聞カズ」

と告訴を勧めたが、宇田は聞き入れなかったという。

一連の言動から推察すると、

襄も自由民権運動に賛同していたと思われる。

壁のないカベかも知れぬグイと押す  本多洋子



【蛇足】-「自由民権運動」

明治7年、板垣退助は、「民撰議員設立の建白書」を提出し、

地元の土佐に政治結社・立志社をつくった。

そして薩摩藩や長州藩など、

一部の藩の出身者が政治を行っていることを批判し、

「税金を払っている国民が選んだ議員による政治が行われるべき」

だと主張した。

国民の自由と権利を求めた政治活動、「自由民権運動」の始まりである。

最初、士族が中心だった運動は、しだいに地主や商工業者、

農民など幅広い層に浸透し全国的な広がりをみせた。

板垣らの呼びかけで始まった国会開設の請願書には、

26万人もの署名が集まったほどである。

切り取り線で切るつもりはありません  竹内ゆみこ



こうして各地域においても議会制度の始まりをみるのである。

以降、運動はさらに発展し、明治14年前後になると、

板垣らの「自由党」や大隈重信の「立憲改進党」などの政党が生まれ、

ついに政府も憲法制定と国会開設に向けて動き出すことになった。

政府は板垣らと話し合い、10年後の国会開設を約束し、

憲法に基づく政治体制をひらくことを決定したのである。

大騒ぎタダれた月の後始末  酒井かがり

拍手[1回]

生きている私ができる墓まいり  平紀美子



「新島八重の会津帰郷」

八重が会津へ戻るのは、戊辰戦争後初めてのことで15年ぶりになる。

明治15年7月3日、京都を出た新島襄らは、

11日には中仙道を通り、郷里である群馬県の安中に到着する。

そこで海路で横浜に上陸し、

一足先に安中へ入って襄の到着を待っていた八重と合流。

1週間ほど安中に滞在した襄らは、7月17日に、

八重・覚馬の娘・みねと夫・伊勢時雄の4人で会津へと向かう。

旅たのし男に櫛を借りられる  森中惠美子



襄らは日光を観光した後、

白河を通り、7月27日に八重の故郷・会津へ入った。

襄が会津を訪れるのは初めてである。

また、八重にとっても結婚後で初めての帰郷となる。

八重とみねは、戊辰戦争後初の帰郷であった。

みねと時雄は前年に結婚し、新婚旅行も兼ねていた。

当時、東北本線は開通していなかったことから、

人力車での移動であった。

そぞろ歩けば雫するエッセイ  徳山泰子

一行は、日光見物後に白河へ行き、そこから白河街道を通り、
せいしどう                     こなん
勢至堂峠で馬に乗り換え、

湖南から舟で猪苗代湖北西岸に渡り、

27日に七日町の藤田平次方の当時若松で

最も大きな旅館・清水屋に入った。
                                                          こた
白河街道からの峠越えは、八重と病弱の襄にとってよほど堪えたらしく、
                                              かんにんごりょうさつ
「ドタパタドタパタ馬ニ引カレテ若松ニ参ル、ソノ堪忍御了察アレ」

と襄から愛弟子の徳富蘇峰宛ての手紙に書かれている。

船宿に結び目置いて逃げたとさ  くんじろう

 

襄は会津で、若松城を見学し、

会津戦争の生き残りから若松城籠城戦についての話を聞いた。

襄が会津を訪れたとき、既に若松城は取り壊されていた。

明治政府は若松城を保存しようとしたが、

若松城は籠城戦での破損が酷かったため、

福島県側が若松城の取り壊しを上申し、

明治7年に若松城は取り壊された。

沈黙の深さは覚悟した証拠  太田扶美代

8月1日、襄は伊勢時雄を伴って、会津から山形県・米沢へ向かう。

八重とみねは、襄と別れて、会津に残った。

当時、米沢へ行くには、

北塩原村の桧原峠(標高1094㍍)を越える米沢街道を通るしかなかった。

2日に襄は桧原の大和屋に宿泊している。

3日には白布高湯温泉の東屋に逗留。

21日、布教活動などで、米沢の甘糟三郎宅へ行く。

※ この間に襄は『青春時代』の執筆をしている。

モノクロに戻って勘を連れ歩く  前中知栄

 

                再 会

襄が米沢へ行っている間、八重、みねは若松に留まっていた。

八重が見た若松は、まだ戊辰戦争の傷痕が色濃く残り

「士族中多クハ貧困」(『日抄』) と書き残している。

(若松に住む旧会津藩士の生活は依然として窮乏していた)

八重が故郷・会津に滞在していた時、若松は活気がなかった。

「市人ハ旧藩ノ圧抑(あつよく)ヲ受ケタルニヨリ、

更ニ改進ノ精神ナク、新奇ノ事ヲ為シ肯セズ、唯旧ヨリノ商売ヲ為スノミ」

(会津の人々は新たなことを受け入れず、旧態の商売をするのみだった)         
                                                           ゆうおう

                                      新島襄・『遊奥日記』

生きのびて川 生きのびてふきのとう  田中博造

八重はこの時、戊辰戦争で焦土と化した武家屋敷跡を見て、

藩政時代に繁栄していた城下と比べ、時代の大きな変化を感じていた。

(また「然ルニ北方(喜多方)ニ於イテハ、
                    すこぶ
農民中往々自由党ニ加入シ頗ル民権皇張ヲ望ムモノアルヨシ」 と、

(喜多方市では、農民を中心に自由民権運動が起きている)

戊辰戦争で武家屋敷のほとんどが焼失し、

八重の生家があった米代四ノ丁は、水田と畑に変わり、

繁栄の面影は全く残っていなかった。
                                          <旅のブログは水曜日へつづく>

迸る想いを砕く蜃気楼  佐藤美はる

拍手[2回]



Copyright (C) 2005-2006 SAMURAI-FACTORY ALL RIGHTS RESERVED.
忍者ブログ [PR]
カウンター



1日1回、応援のクリックをお願いします♪





プロフィール
HN:
茶助
性別:
非公開