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川柳的逍遥 人の世の一家言
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向きあってあなたのなかの旅人よ  定金冬二



「萩の舎」発会記念の集合写真

「萩の舎」は歌人の中島歌子が開いた歌塾。

比較的上層の婦人が多く集まっていた。

最盛期には門弟が1000人を超えたという。

2列目中央が中島歌子その左が三宅花圃、3列目左から3番目が樋口一葉

「萩の舎」は10代の樋口一葉が入門寄宿し、

やがて頭角をあらわす契機となった場所。

中島歌子は歌人としてより、樋口一葉、三宅花圃の師匠として名が残る。

1枚の紙に私が咲いている  植野美津江

「女流文学」

「女流文学」という四文字を広辞苑で引くと

女性によって作られた文学―とある。

平安時代、清少納言は宮中でのあれこれを、

ツイッターで呟くように『徒然草』に綴った。

紫式部は、恋愛妄想を爆発させながら『源氏物語』を書いた。

その後も、女流文学の伝統は細々とつながれたものの、

封建社会が発達した江戸時代、

文学に携わる専門職を男性が占めるようになると、

女性たちは家に閉じ込められた。

雪もよい遠い電話を待つばかり  森中惠美子

明治維新を機に、女性の社会的地位が少しずつ向上すると、

それまで男性によって独占されていた「文壇」に、

家庭内で束縛されていた女性たちが解き放たれていった。

樋口一葉が明治時代の女流文学を代表していることは間違いない。
    
だが一葉以前の揺籃期、女流文学のレールを敷いた3人の女性がいた。
                           すそ
きみ恋わむ式部納言の裔として  大西泰世



中島湘烟と書簡

若いころより深い教養を周囲に認められた人物。

政治運動に関わった際には男女同権を主張し全国各地を遊説したという。
     しょうえん
中島湘烟―文久3年(1863)、京都生まれ。

呉服商の家に生まれ、宮中に出仕。

皇后に漢学を進講したのち、高知で自由党員らと知り合う。

政治運動に関わったのち、神奈川県令・中川信行の後妻となった。

『女学雑誌』に論説、漢詩を発表した。

ことばの海へ宝さがしの旅ひとり  木村徑子

木村曙―明治5年兵庫生まれ。

牛鍋チェーン店・「いろは」木村荘平の愛人の子。

東京高等女学校(お茶の水女子大付属高)を卒業後,

父に海外留学を拒否され,法科学生との交際も断たれ,

迎えた養子との結婚も破綻した。

母といろはの支店に住み込みで働きながら、

曙がなしえなかった海外留学する女性を描いた小説・「婦女の鑑」

満16歳で『読売新聞』に連載。

他に『操くらべ』『わか松』などの作品があるが,18歳の若さで没する。

落葉なら新芽の心描けます  徳山みつこ



 三宅花圃と夫・三宅雪嶺

後列左端が花圃、中央が夫・雪嶺でほかは夫妻の子どもたちである。
      かほ
三宅花圃―明治元年、東京生まれ。

幼少より和歌を学び、中島歌子「萩の舎」に入っただけでなく、
かわなべぎょうさい
河鍋暁斎の門に入って浮世絵も学んだ。

また明治21年には、女性初の小説ー『薮の鴬』を発表。

明治開花期の女学生の軽薄な欧化主義を風刺した作品。

この花圃が萩の舎の後輩・樋口一葉に、

創刊間近のの『文学界』を紹介することになる。

次回予告ー樋口一葉、与謝野晶子、平塚らいてう、から現代へ。

紫のちょっと手前の薄紫  河村啓子

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耐えてきた言葉ねとても丸いもの  河村啓子



 八重の和歌と綴る半生

”めずらしと誰か見ざらん世の中の 春に先だつ梅の初花”

                       (画像は拡大してご覧ください)


「村雲の晴れて嬉しき光をぞ見る」

数日後―。

「健次郎さんはそのように申されましたが・・・」

八重は薄茶を点てながら静に口を開いた。

客は、茶友の栗田宗近

「人は誰でも還暦に至れば、赤子に還ります。

新たな人生が始まるのです。記念写真を撮ったあの日、

会津の血を引くすべての方々が、

今また新たな歴史を始めるのだと胸に誓われたに相違ございません」

「そういうものでしょうか」

「しょういうものです」
                                           じゃくちゅうあん
炉が切られているのは、自邸の庭に建てた『寂中庵』である。

しみじみと聞くしみじみとした話  前田咲二



八重が裏千家のお茶を習うようになったのは、

夫の襄が他界して四年後となる明治27年日清戦争の頃だった。
                               ゆうみょうさい          えんのうさい
当時、裏千家の宗匠は12世の又玅斎から13世の圓能斎へ、

代替わりしつつあったが、実際に手ほどきしたのは、
              せんゆかこ
圓能斎の母・千猶鹿子であるらしい。

八重は明治5年から女紅場に権舎長兼機織教導試補として、

奉職しており、猶鹿子はそこの同僚だった。

素質もあったのだろう。

八重は茶の心を解し、やがて師範となり、宗竹なる茶名も授かった。

一日が始まるようにお湯が湧く  藤本鈴菜
 


   茶を教える八重
           
だが茶は金がかかる、
つきがま
月釜をかけようにも道具がなければ格好がつかない。

しかし、八重のふところ事情は厳しかった。

明治の末、土地も家屋もなにもかも同志社に寄付してしまい、

その代わりに同志社から 年毎に養老金は貰っていたものの、

すべて茶道具に費やされていたからだ。

このため、手元に入るのは茶道教室の月謝くらいで、

決して余裕のある暮らしぶりではなかった。
                           したた
だから 床に掛ける短冊も、ときにはみずから認めた。

ひらがなで話すと流れだす小川  和田洋子

いくとせかみねにかかれる村雲の 晴れて嬉しき光をぞ見る 

                                  「八重84歳」

御慶事というのは無論、雍仁親王のご成婚であろう。

たしかに八重は、会津よりも京都の暮らしの方が長く、

兄の覚馬が洋学所に夢を託していたように、

夫の新島襄とともに同志社の設立と発展を常に念頭に置いて生きてきた。

京都初のキリスト教式結婚式を挙げ、洋装に身を包み、洋館に住し、

生姜菓子を焼き、レディ・ファーストを実戦した。

そうしたありようは、ときに旧い慣わしに包まれた京の町衆の反感を買い、

悪妻という陰口も叩かれたが、八重はいっこうに頓着せず、

同志社の建設と運営に邁進した。

新しいうたを歌いに行きましょう  南野耕平

 

       八重が蘇峰に宛てた6通の手紙

明治9年、蘇峰は師・新島襄を呼び捨てにする八重を蘇峰は敵視し、

鵺と言い放ったことで二人に少しながらわだかまりがあった。

そんな八重と蘇峰は明治23年、襄の臨終の場で和解した。

6通の手紙はこの年から大正12年までの30年間に及んだもの。

煩悩が断ち切れないのです かしこ  竹内ゆみこ

もっとも、洋風のみを目指したかといえばそうではなく、

芯にあるのは山川兄弟などと等しく会津人の矜持だったろう。

それが証拠に、ほんの3ヶ月前、

会津高等女学校から修学旅行生が来たときも、

八重は「ご本陣にご案内しましょう」と女生徒とともに黒谷へ赴き、

西雲院本堂において、『日新館童子訓』を暗誦して聴かせている。

八重はどこまでも会津藩士の娘だった。

武家の娘である以上、嗜みとして茶道や華道を学ぶのは当然のことであったし、

ことあるたびに歌も詠んだ。

日本語にもてなしという宝物  早泉早人



八重の愛用した赤楽茶碗

「お歌とお茶を続けていなければ安らげる時もなく、

お国には尽くせななかったでしょう」

「看護のあれこれでございますか」

宗近の問いに八重は、こっくい頷いた。

たしかに矢絵の人生をふりかえるに、それはさながら、

ナイチンゲールのようでもある。

最初は会津戦争だった。

かのおり、八重は戦死した弟・三郎の衣装を纏って断髪、

手にスペンサー銃、腰に太刀、帯に銃弾百発を備え、

敢然と敵に立ち向かったものだが、後方においても懸命に働いた。

兵糧を炊き、負傷兵の看護にあたったことだ。
    しゅうか
が、衆寡敵せず、城は落ちた。

戦争の罪を語れる高齢者  大西將文

この折の体験と、京へ上ってから兄・覚馬と夫・の看護を続けたことが、

八重をして看護の道に進ませる引鉄になったといっていい。

襄が同志社に看護婦学校を設立したのも、八重の助言があったに違いない。

実際、その後も八重は看護の道を歩んでいる。

襄が他界した明治23年には日本赤十字社の正会員となり、

翌々年まで覚馬の介護を続け、最期を看取り、

明治27年に日清戦争が勃発した際には、

4ヶ月間、広島の陸軍予備病院に篤志勘合として従軍し、

40人の看護婦の取締役を務めている。

この風に乗ってみようと決めました  合田瑠美子

 

       茶とともに絵もした八重

「ちょうど、裏千家のお手前を習い始めたときでした。

お茶の心得がなければ、

目まぐるしい病院勤務に身も心も疲れ果てていたことでしょう。

このお茶が、私のこころをなんとか平穏に保ってくれたのです」

そういいつつ、八重は、みずから点てた薄茶を喫した。

ただ咲いてそれから揺れただけのこと  八上桐子

日清戦争の後も、八重は看護とともにあった。

看護学校の助教を勤め、明治37年の日露戦争のおりも、2ヶ月間、

大阪の陸軍予備病院で篤志看護婦として従軍している。

こうした活動が認められ、やがて八重は銀杯を下賜されたが、

そのおりも歌を詠んだ。

"数ならぬ身もながらへて大君の 恵みの露にかかるうれしさ"

砂山をかける損を損と思わずに  墨作二郎

「それにしても会津のお友達は日を追うごとに少なくなってまいりました」

たしかにそうであろう。

八重とともに会津戦争を戦った人々はほとんど先に逝き、

京都会津会のも皆、八重よりも年若の人々が後を継いでいる。

昭和の御代となった今、若き日の八重を知るものは、

ほとんどいなくなってしまった。

"六十とせの昔を語る友もなく あわれさみしきこほろぎの声"

一瓶の夜景ごろんと転がりぬ  筒井祥文



  八重直筆の和歌

昭和6年初秋、八重は会津若松へ帰省した。

大龍寺に実家の山本家の墓を建てるのが目的で、

墓石の裏には

「昭和六年九月合葬山本権八娘京都住新島八重子建乃八七歳」

と刻ませた。

八重がその帰郷の折り詠んだ歌である。

"若松のわが古郷に来てみれば さき立ものはなみだなりけり"

"たらちねの御墓のあとをとふことも 今日をかぎりとなくほとゝぎす"

おしまいの縫い目は銀河系になった  清水すみれ

これが八重にとって最後の帰郷となったのだが、

流石に会津の娘だと感心させる挿話がひとつある。

死に支度である。

宗近の証言によれば、八重は日頃から、

「夏に死んだらこの帯、冬ならこれ」

となにひとつ怠りなく用意していたらしい。

遺言のようなものだが、宗近ら茶友はそのとおりにし、

死化粧も綺麗に施したという。

「もういいかい!」くしゃみをしてはいけません  百々寿子



第三の人生を茶の生徒とー八重

永眠は、昭和7年6月14日午後7時40分。

享年88歳。

墓は京都若王子。

兄・覚馬や父母を葬った同志社共葬墓地の静寂の中で、

夫・襄と寄り添っている。

別れがたき女は夕焼けから生れ  森中惠美子

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旅ひとりどんどん水になってゆく  たむらあきこ

 

画像は大きくしてご覧下さい

(前列3人目が八重、左6人目より林権助・松平恒雄・松平保男・山川健次郎・柴五郎)

昭和3年、京都会津会の秋季例会が催された折、

松平保男恒雄を中心とした記念写真が撮られたのだが、

その写真の裏に八重は、数日後に詠んだ短歌を書き記している。
  ち よ ふ
”千代経ともいろもかわらぬ若松の 木に志たかげに遊ぶむれつる”

「61年目の慶事」

御所から半里、京師を俯瞰する黒谷の地に城構えの寺がある。
しうんざんこんかいこうみょうじ
「紫雲山金戒光明寺」である。

この寺の 塔頭西雲院において、

昭和3年11月17日、京都会津会の秋季例会が催された。

7日前、昭和天皇の御大典(即位の儀)が京都御所で執り行われた際、

その式典に会津若松の人々も招かれたことによる。

西雲院で催された理由は、

かって京都守護職・松平容保が、くろ谷を本陣としただけでなく、

当院のすぐ東に会津藩殉難者墓地が置かれているからだった。

人脈の真ん中へんに落ちがある  立蔵信子



秩父宮雍仁親王と勢津子妃ご成婚写真

御大典に先立つ9月28日、会津人にとって溜飲の下がった一事があった。
                              やすひと
昭和天皇の皇弟である秩父宮雍仁親王のご婚儀で、

その妃殿下として入輿されたのが、

松平恒雄の長女・節子(勢津子)だったからだ。

ただし、恒雄は平民籍だったため、

爵位を継いで貴族院子爵議員となっていた弟・保男の養女となり、

輿入れした。

思えば会津藩は理不尽にも逆賊の汚名を蒙り、

朝敵とされ、骨の髄まで痛め尽くされた。

それからちょうど61年目、ふたたび戊辰の年が巡り来てようやく、

崇敬し続けてきた皇室に会津の血が迎え入れられることになったのだから、

これに優る慶びはなかっただろう。

沈黙のしこりをついに笑わせる  岡内知香



  山川健次郎

「このたびは、ご苦労さまでございました」

八重が丁寧に頭を下げたのは、旧主松平家の家政顧問・山川健次郎である。

東大、九大、京大の総長も務めた人物で、

勢津子を入輿させるべく東奔西走したという話は、

八重の耳にも届いていた。

「お陰さまで、会津もようやく誉れを得ることができました」

「いいえ、八重さん」

もとはと言えば薩摩の樺山愛輔がいいだし、

たまたま林権助が宮内省御用掛に任じられ功をそうしたのだと、

健次郎は謙虚に答えた。

瘡蓋が剥がれるまでのノーサイド  寺川弘一

が、そのすぐ後、にわかに眉間を緊張させ、

「ご成婚が相成ったとはいえ、会津の戦いは終わっておりませんぞ」

と言い切った。

世間はいまだに会津軍を賊軍と呼んでいる。

この呼称が消えるまで戦わねばならぬのだ、というのである。

実際、大蔵浩は自らの見聞による「京都守護職始末」の草稿を、

記しているし、健次郎もまた兄の草稿を完成させるとともに、

己が体験をもとにした「会津戊辰戦史」の原稿に着手していた。

「わが東軍の義と志を、西軍はもとより世の中の人々に、

あまねく知らしめねばならぬのです」
                                                                     つづく

言葉にはならずにそっと肩を抱く  山田葉子

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わたくしの骨とさくらが満開に  大西泰世

八重は常に新しい自分を見つけていった。

(画像は拡大してご覧ください)

明治29年、51歳になった八重は、特別社員になり、

日清戦争時の功績や、看護婦の待遇改善や地位向上を

目指したことが認められ、一般人として初めて

「勲七等宝冠章」が下賜された。

そして、日露戦争時にも大阪予備病院で2ヵ月間、

篤志看護婦たちを連れて従軍、

後に「勲六等宝冠章」を授賞する。

ふりむかぬ進化の先の表彰台  岩根彰子

八重の博愛精神は、会津・鶴ヶ城の籠城戦での負傷者の看護、

京都へ来てからの盲目の覚馬の介添え、

襄の看病などを体験し、社会奉仕事業に傾倒していった。

まさに、『日本のナイチンゲール』と呼んでもいいだろう。

その後の八重は、篤志婦人看護会の活動とは別に、

慈善活動にも取り組み、学校の増改築、

また天災被害や火事の被災者にも、寄付を欠かさなかった。

偉くなる本を買わないことにする  森中惠美子

「美徳を以って飾とせよ」

八重の精神が茶室に掲げられている。

56歳の時は「愛国婦人会」の臨時評議員に選ばれ、

プライベートでは、「茶道の修業」にも熱心に取り組んだ。

茶道とは単なる芸事ではなく、

「終わりなき修練の場」と考えたのかも知れない。

61歳で「京都婦人慈善会」に特別会員、

78歳で名誉会員となる。

真剣勝負すっぴんで待ってます  竹内ゆみこ

大正13年に貞明皇后(昭和天皇の母)が、

同志社女学校へ行啓訪問され、八重に単独の謁見が許される。

八重が79歳の時で、同志社側は大いに喜んだ。

学校の土地は、京都御苑の旧柳原前光邸を借り受けたものであり、

柳原の妹・愛子さまが大正天皇の母というご縁でのご訪問だった。

雨は何かを見つめたまま 雨に  前田扶巳代

晩年の八重に朗報が続く。

昭和3年は会津戦争から60年の節目の年。

大正天皇第二皇子・秩父宮と、旧会津藩主・松平容保の六男で

外交官であった松平恒雄の長女・節子(成婚後・勢津子と改名)

とのご婚約が発表される。

秋晴れて二枚重ねのよだれがけ  森田律子

この慶事は、「朝敵」と呼ばれた会津の汚名返上となり、

復権に会津関係者たちは沸き立った。

83歳になった八重は、いても立ってもいられず、

東京の松平家へお祝いの挨拶に出かけた。

晩年の八重は会津への思いが顕著で、

会津出身者たちの「京都会津会」にも入会し、

全国総会にも出席する。

過去形が無性に恋し栗ごはん  山本昌乃

80代になった八重はまたしても物議をかもしだす。

キリスト教から仏教に宗旨変えしたのではと騒がれた。

「一つの宗教に籍をおいているからといって、他の方のお話を

 聞いてはならない事はないでしょう」

世間への反論である。

昭和7年4月、八重の米寿の茶会が開催された。

6月14日、急性胆のう炎を発症した八重は、

86年の生涯を終えた。

会津で砲術師範・山本家の娘・八重として生まれ、

京都で新島襄と出会った八重、

会津武士の末裔である『戦争上リノオ転婆娘』が、

この世に別れを告げた。

燃えつきて溜息だけが暮のこる  河村啓子

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痛そうに咲く脇腹のカキツバタ  井上一筒

 

碑石を支える亀形の台石
                  (画像は拡大したご覧下さい)

鶴ヶ城の東方、東山温泉入口近くの山中に、

約15平方メートルという広大な墓域をかめるのが、

会津藩歴代藩主が眠る、会津の聖地ともいうべき会津松平家廟所である。

これだけの規模は、全国大名家墓所のなかで珍しく、

会津藩の威容がうかがえる。

起立して礼して霊は着席す  兵頭全郎

明暦3年(1657)、藩祖・保科正之の嫡男・正頼が18歳で病死した折に、

正之の命によって墓所と定められ、

2代・正経から9代・容保までの歴代藩主のほか、

正室・側室・子女の墓が並んでいる。
                               まさかた
2代・正経のみ仏式で葬られ、3代目・正容以降の藩主は神式で、

正之の形態にならっている。
                           はにつ
なお正之の墓所は、猪苗代町の土津神社にある。

ためつすがめつ雲梯の吐息  酒井かがり

3代以降の歴代会津藩主の墓は、

霊を祀る鎮石、石灯籠、事績を記した碑石で一組となり、

特に碑石は巨大な亀形の台石に設置され、

すべて北を向いている。

また、亀の大きさが代が下ることに小さくなっているのも面白い。

なお明治26年に逝去した悲運の藩主・容保は、

大正6年になり晴れてこの地に移葬されることとなった。

点線で囲むと居場所出来上がる  合田瑠美子

昭和62年に国指定史跡に登録され、現在も毎年5月4日に、

歴代藩主の霊を鎮める墓前祭「院内ご廟お花まつり」が、

松平家当主が祭主となり行われている。

墓前祭「院内ご廟お花まつり」は、

神主が祝詞をあげて参列者が遥拝する非常にシンプルな祭りであるが、

地元の松平奉賛会や青年会議所の多くが、

数日も前から墓の掃除や諸々の準備のために集まるという。

今尚、会津の絆の厚さを感じさせている。

集うては屋上からの四季の色  徳山泰子

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