わたくしの骨とさくらが満開に 大西泰世
八重は常に新しい自分を見つけていった。
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明治29年、51歳になった八重は、特別社員になり、
日清戦争時の功績や、看護婦の待遇改善や地位向上を
目指したことが認められ、一般人として初めて
「勲七等宝冠章」が下賜された。
そして、日露戦争時にも大阪予備病院で2ヵ月間、
篤志看護婦たちを連れて従軍、
後に「勲六等宝冠章」を授賞する。
ふりむかぬ進化の先の表彰台 岩根彰子
八重の博愛精神は、会津・鶴ヶ城の籠城戦での負傷者の看護、
京都へ来てからの盲目の覚馬の介添え、
襄の看病などを体験し、社会奉仕事業に傾倒していった。
まさに、『日本のナイチンゲール』と呼んでもいいだろう。
その後の八重は、篤志婦人看護会の活動とは別に、
慈善活動にも取り組み、学校の増改築、
また天災被害や火事の被災者にも、寄付を欠かさなかった。
偉くなる本を買わないことにする 森中惠美子
「美徳を以って飾とせよ」
八重の精神が茶室に掲げられている。
56歳の時は「愛国婦人会」の臨時評議員に選ばれ、
プライベートでは、「茶道の修業」にも熱心に取り組んだ。
茶道とは単なる芸事ではなく、
「終わりなき修練の場」と考えたのかも知れない。
61歳で「京都婦人慈善会」に特別会員、
78歳で名誉会員となる。
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大正13年に貞明皇后(昭和天皇の母)が、
同志社女学校へ行啓訪問され、八重に単独の謁見が許される。
八重が79歳の時で、同志社側は大いに喜んだ。
学校の土地は、京都御苑の旧柳原前光邸を借り受けたものであり、
柳原の妹・愛子さまが大正天皇の母というご縁でのご訪問だった。
雨は何かを見つめたまま 雨に 前田扶巳代
晩年の八重に朗報が続く。
昭和3年は会津戦争から60年の節目の年。
大正天皇第二皇子・秩父宮と、旧会津藩主・松平容保の六男で
外交官であった松平恒雄の長女・節子(成婚後・勢津子と改名)
とのご婚約が発表される。
秋晴れて二枚重ねのよだれがけ 森田律子
この慶事は、「朝敵」と呼ばれた会津の汚名返上となり、
復権に会津関係者たちは沸き立った。
83歳になった八重は、いても立ってもいられず、
東京の松平家へお祝いの挨拶に出かけた。
晩年の八重は会津への思いが顕著で、
会津出身者たちの「京都会津会」にも入会し、
全国総会にも出席する。
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80代になった八重はまたしても物議をかもしだす。
キリスト教から仏教に宗旨変えしたのではと騒がれた。
「一つの宗教に籍をおいているからといって、他の方のお話を
聞いてはならない事はないでしょう」
世間への反論である。
昭和7年4月、八重の米寿の茶会が開催された。
6月14日、急性胆のう炎を発症した八重は、
86年の生涯を終えた。
会津で砲術師範・山本家の娘・八重として生まれ、
京都で新島襄と出会った八重、
会津武士の末裔である『戦争上リノオ転婆娘』が、
この世に別れを告げた。
燃えつきて溜息だけが暮のこる 河村啓子
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