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川柳的逍遥 人の世の一家言
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もし空がピンクだったら落ちつかぬ  大内朝子    



【朱印状】

朱印状とは、戦国時代から江戸初期にかけて、

戦国大名・藩主や将軍により発給された公文書。


軍事命令や領地の授与,法令の発布,外交文書などに用いられた。
       かおう
朱印は花押の代用として使われはじめ,

黒印よりは重いものとされた。

                                          つぶさ
またこの朱印状で当時の政治情勢や人間関係が具にわかり興味深い。

眼はすでに的を射抜いている構え  池部龍一



「信長と官兵衛の関係」

官兵衛信長はどんな関係にあったのか。

「信長公記」には、官兵衛についてわずか一箇所しか記されていない。

天正5年(1577)の「上月城の戦い」の部分だけである。

ここだけを見ると、

信長の官兵衛に対する関心は稀少だったと見えてしまう。

ところが、黒田家側の「黒田家文書」の中では、そうではないことが伺える。

この文書にある信長から官兵衛に宛てられた朱印状を見てみると、

二人の関係は明確で天正5年に始っている。

帯よりも長いたすきはざらにある  松下和三朗


    信長朱印状

〔織田信長朱印状〕 -①

備前面に至り進発すべく候。其れに就き羽柴筑前守を差し越し候。
    なら
働き并びに人質等事、筑前守 申す次第に別して馳走専一に候。

油断あるべからず候なり。

  九月六日    朱印       小寺官兵衛 とのへ

これは、信長官兵衛に備前方面への出陣を命じたものである。
軍事行動や人質の徴集に関しては、秀吉に従うようにとある。
(これは上月城に関わるものだが、興味深いことに従軍命令に関しては、
信長の朱印状が必要であったことがわかる。)

運命にもDNAがあるらしい  武本 碧

〔信長朱印状書〕 -②
い                                                  つぶ
去んぬる月二十六日、佐用面において働きの趣き、具さに聞こし食し候。
         いよいよ
尤も以て神妙に候。 弥戦功を励むべき事専一に候。
なお
猶羽柴筑前守 申すべく候なり。

  十二月五日   朱印       小寺官兵衛とのへ

(これは、「上月城の戦い」で戦功を挙げた官兵衛に対する感状である。
軍功は秀吉ではなく、信長に賞されるのであった。
秀吉は取次のような役割を果たしている。)

水仙の第一球を蹴り上げた  岩根彰子

〔信長朱印状書〕 -③

今度別所小三郎(長治)、羽柴筑前守に対し存分これありと号し、

敵同意候段、言語同断の次第に候。

然れども無二に馳走せしむるの由、尤も以て神妙に候。
                                        みぎり いよいよ
別所小三郎急 度成敗加うべく候条、此の砌、弥忠節を抽きんずべく候事、
            なお
専一に候。 猶羽柴申すべく候なり。

  三月二十二日  朱印    小寺官兵衛 とのへ

(これは、別所長治が叛旗を翻したことに対して、
官兵衛が無二の馳走をしたことを賞賛したものである。
官兵衛は竹中半兵衛とともに、「三木合戦」で軍功を挙げている。
ここでも主体は信長であって、秀吉は取次であることを確認できる)

修羅越えて標準的になるくらし  山本昌乃


    信長黒印状

〔信長黒印状書〕

音信として、手綱・たすけ書中の如く到来、悦び思し召し候。

なお堀久太郎申すべく候なり。
                                     たすき
(これは、官兵衛が音信とともに手綱・襷を贈ってきたので、
信長が礼を述べたものである。
こうしてみると、官兵衛が仕えた主体は信長であり、
軍事行動を秀吉とともにするよう、命じられていたことがはっきりとわかる)

運掴むそれまで両手開いてる  新海信二

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天と地が揺れても正座崩さない  板野美子

 

    姫山付近 (画像は大きくしてご覧ください)

「姫路城」

古来山陽道の要地である姫路は、北に中国山地、南に播磨灘を望む。

また東西の台地の裾には川が流れ、山陽道が西国へと続く、

四神相応の地とされる。

その中央に位置する「姫山」に、姫路城は築かれた。

羽柴秀吉時代の姫路城は、天正8年(1580)、

現在の大天守のある位置に三重の天守があげられていた。

黒田氏時代の姫路城も、姫山にあったと考えられている。

官兵衛の父・職隆が永禄4年(1561)に本丸、二の丸から成り、

櫓を築き塀で囲んだ城を築いたという。(姫路城史)

また城と市街の要所に、幾多の門を構えていた。

城の北側の山陽道に向かって町が形成され、

大手口も北に開かれていたと思われる。

限界集落うつくしい蟹がいる  新家完司

 

    姫路城模型

運命の出会いという言葉がある。

官兵衛と秀吉との出会いはまさにそれである。

小寺家中を織田家支持にまとめた官兵衛は、

自ら岐阜に赴いて信長の傘下に入り、

天正5年(1577)播磨に進軍してきた秀吉を迎えた。

秀吉の才覚と人柄に触れた官兵衛は、率先して播磨の先導役を務め、

また、居城の姫路城本丸を秀吉に譲り渡した。

秀吉は交渉巧みな官兵衛が「自分と似ている」ことを認め、

「こいつは使えるぞ」と喜んだ。

実際、播磨に土地鑑も人脈もない秀吉にとって、

官兵衛は貴重な存在で、二人の歯車はうまく噛みあった。

いわゆる姫路城は、官兵衛と秀吉の運命の始まりの場所である。。

カリスマと呼ばれる人の静電気  ふじのひろし

 

姫路城の珍しい十字の鬼瓦

言うまでもないが、国宝・姫路城は別名「白鷺城」と呼ばれ、

世界遺産にも指定されている。

この姫路城は築城にまつわる謎が多く、また黒田氏の居城であるが、

何より、国宝や重要文化財の建築物が多いことで知られる。

① 国宝―大小天守四棟・渡櫓四棟。

② 重要文化財―櫓十六棟・渡櫓十一棟・門十五棟・塀三十二棟。

天守閣は、連立式の大天守・西小天守・乾小天守・東子天守の

4つで構成され、大天守は33メートルの高さを誇り、

外観五層・内部七階という非情に規模の大きなものである。

もちろん現存の天守としては最大規模で、

その美しさは群を抜いている。

すっかり上から目線になった竹  一階八斗醁



   上山里下段石垣

天守閣を解体修理した際、

一回り小さい石垣が現在の大天守の石垣の中から発見された。

これが秀吉時代の遺構と考えられている。

「姫路城の歴史」

姫路城の歴史は古く元弘3年(1333)

赤松円心護良親王の命により挙兵。

京に兵をすすめる途中、姫山に築いた砦が姫路城の原形といわれる。

そして、その次男・赤松貞範が貞和2年(1346)に本格的な城を築いた。

この後、姫路城は秀吉によって補強される。

天正8年(1580)1月、三木城の別所氏を滅ぼした秀吉は、

三木城を本拠にしようと考えたというが結局、姫路城を本拠に定めた。

その理由は、姫路城は近くに瀬戸内海が広がり、

主要な街道が通っていたからである。

今後毛利氏との交戦を考慮すれば、絶好のロケーションであったからだ。

そして、秀吉は本格的に姫路城を改修し、三層の天守閣を築いた。

実質的に姫路城は、秀吉によって築城されたといえるのかもしれない。

何よりもまずあ行からリアリズム  柴田園江

 

入城口になる菱の門。

番人の詰め所と馬見所があった。

慶長5年(1600)池田輝政が姫路に入ると本格的な大改修が行われた。

工事は翌年から開始され、9年の歳月をかけて完成した。

「エピソード」

池田輝政による姫路城築城の時、

完成した天守から一人の男が身を投げて自殺したといわれている。

その男の名は、城普請にあたった大工の棟梁・桜井源兵衛。

輝政に命じられ、9年間、寝る間も惜しんで仕事に打ち込み、

やっと完成した姫路城であった。 しかし彼には、

丹精込めた天守閣が東南の方向に傾いているように思えてならなかった。

それを確認のため、妻を伴い天守に登ると、妻は、

「お城は立派ですが、惜しいことに少し傾いていますね」 と指摘する。

「女の目に分かるほどとすれば、

  自分が計った寸法が狂っていたに違いない」

源兵衛は愕然とした。

悩んだあげく源兵衛は、ノミをくわえて天守から飛び下りたといわれる。

葛藤の鎖が首に這っている  森 廣子



天守閣は現在、修復中のため全体に覆いがかけられている。

城が傾いていた理由は、「東と西の石垣が沈んだため」

と解体修理で判明している。

姫路城は江戸時代にもたびたび修理が行われてきたが、

当時の技術では、天守の重量に礎石が耐えられず沈み込んでいくのを、

食い止めることは難しかった。

加えて柱や梁などの変形も激しく、

『東に傾く姫路の城は、花のお江戸が恋しいか』 

と俗謡に歌われる有様。

改修工事はその後も、明治、大正、昭和と度々行われ、

直近の大修理から45年が経過。

現在、姫路城は天守閣が修理中で、その優雅な姿は見られない。

修理見学施設として「天空の白鷺」がオープンしていたが、

1月15日で終了、天守閣への入城も不可となっている。

和紙に世を包み優しき主を搾る  きゅういち

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別宅に馬本宅に牛を置く  井上一筒

官兵衛には三人の弟と三人の妹がいたことが知られている。

ところが彼らの事績はあまり知られていない。



「黒田兵庫助利高」

官兵衛の実弟で黒田24騎・黒田八虎の一人。

天文23年(1554)に生まれ、のちに秀吉の馬廻衆となっている。

母は官兵衛と同じ、明石氏の娘である。

実直で柔和な性格で思慮深く、物事に動じない人物像が伝えられる。

長政の後見役を務めるようになるが、常に長政を崇める姿勢で接し、

家臣たちに藩士としての手本を見せた。

そういう誠実さから、家中の者たちから慕われたという。

官兵衛に従って播磨各地で戦功を挙げ、

小牧、長久手の戦いでの泉州岸和田の陣、

四国攻めでには、独立武将として参戦。

九州攻めでは、先手を務めて長政を助けた。

官兵衛が豊前六群を与えられると、

うち1万石を分与され高森城代となっている。

その後、文禄元年(1592)の朝鮮征伐に参戦したが、

体を壊して休戦時に帰国し、文禄5年(1596)和泉国・堺で没した。

キリシタンといわれている。

わたくしの器に雑草が似会う  杉本克子



「黒田修理亮利則」

利則も黒田24騎・黒田八虎の一人。

永禄4年(1561)生まれ。

黒田職隆の三男(神吉氏の娘)官兵衛利高とは異母兄弟にあたる。

播磨平定後、利高とともに秀吉の馬廻り組となった。

賎ヶ岳の戦いで活躍し、

その後、仕えた羽柴秀長に従って九州攻めに参加。

官兵衛の豊前入国後は黒田家に戻って2千石を領した。

文禄の役では、長政に従って渡朝。

休戦中に頭を丸めて「養心」と号した。

慶長の役では、旗本備として42人を従えて再び渡海し、
         しょくさん
忠清道の稷山で功績を挙げた。
                                          とみく
関が原の戦いでは、官兵衛に従って豊後国富来城攻めに参加。

その後、兵とともに中津城を守った。
                                むなかた
筑前入国後は1万2千石を領して宗像郡津屋崎城代となる。

黒田家の男兄弟では最も長命であった。 没年慶長17年(1612)

もう一度生きても多分この程度  徳島一郎



「黒田図書助直之」

直之も黒田24騎・黒田八虎の一人であった。

永禄7年(1564)生れ、黒田職隆の4男(母は母里氏の娘)

兄二人と同じく秀吉の馬廻り組となり、その後、秀長に仕えた。

豊前入国後は兄とともに黒田家に戻り4千5百余石を領した。

中津城下では官兵衛にならって洗礼を受け洗礼名を「ミゲル」と名乗った。

小田原攻めを敢行した官兵衛に同行し、

北條家の家臣・由良新六郎の娘を娶る。

その妻も洗礼を受け、洗礼名を「マリア」と名乗った。

朝鮮の役に参加した際は、長政に従い旗本備として120名を統率。

稷山の戦いで功名を挙げた。

また梁山城では、

官兵衛が1千5百の兵で4千の明軍を撃退した戦いにも参加した。

関が原の戦いでは官兵衛の指揮の下、

富来城攻めで先陣を務めたほか、柳川城攻めでも活躍。

筑前入国後は秋月で1万2千石を領した。

キリスト教への深い信仰心から2千人の信者を保護したため、

秋月はキリシタン王国のようであったと伝えられている。

秋月には現在も「天主堂跡とキリシタン橋」が残っている。

慶長14年(1609)没。

進化論いつかは人になれそうで  竹内ゆみこ

「官兵衛の妹たち」

官兵衛の長妹と思しき女性は、母は官兵衛と同じ明石氏であり、

三木清閑のもとに嫁いだとされる。

三木氏はおそらく英賀城主・三木氏の一族で、

黒田氏が三木氏との同盟関係を築こうとした意図に基づくもので、

いわば、政略結婚の一環であったと推測されている。

あきらめのよい女が好きといわれても  森中惠美子

次妹の母も明石氏であった。

彼女が嫁いだのは、黒田家の家臣・尾上安右衛門という人物で、

播磨の土豪クラスで有力者であったらしい。

三番目の妹の母は、母里氏で三弟の直之と同母ということになる。

彼女が最初に嫁いだのは、一柳直末であった。

直末は秀吉の有力な家臣であった。

次いで嫁いだのは、伊藤是庵であったといわれる。

が詳しいことは分っていない。

妹は胸の名札を裏返す  河村啓子



キリシタン橋

秋月に天主堂跡とキリシタン橋が残っているとはいうものの、

平べったい一枚の岩があり、 横に「キリシタン橋」という説明板があるから、

辛うじてここが跡地と分るものである。

この橋を行くと、天主堂があったとされる広い敷地(キリシタン畑)に出てくる。

救いも悲劇もあった橋のようである。

ともかく6人の兄弟姉妹がいたことは確かなのだが、

官兵衛の知名度が突出し過ぎていたためか、

彼らの生涯はあまり研究されていない。

とりわけ妹たちのことは、分らないことばかりである。

その傷を分っているのは私だけ  渡邊真由美

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一発で天狗の鼻を叩き折る  池部龍一

 
             竹中半兵衛の銅像

写真を拡大して半兵衛の表情をご覧ください。

「何をなさいます!」

「英賀の戦い」に勝利した後、

官兵衛は嫡男の松寿丸(長政)を、人質として信長の元へ預けた。

天正5年(1577)、信貴山城に籠る松永久秀を攻め滅ぼした信長は、

いよいよ、秀吉を播磨に進駐させた。

これを迎えた官兵衛は、自らの居城である姫路城を秀吉に譲り渡す。

一族は国府山城に移らせ、自らは姫路城の二の丸に詰めた。

シャッターを切るたび君は咲いてゆく  野村辰秋



全ては主家を守るためだった。

ただ主の小寺政職にとっては、思いがけない情況が展開することとなる。

忠臣だったはずの官兵衛が、秀吉の参謀に取り立てられたのだ。

その不満はほどなく奔出するが、

こうしたところ官兵衛は、幾分か配慮に欠けていたのかもしれない。

主家を重んじているつもりで、

己のことばかり考えていただけなのかもしれない。

が、ともかく官兵衛は奮闘した。

秀吉の弟・秀長に従って但馬国の竹田城をせめ、

半兵衛とともに、播磨・美作、備前の国境にある要衝・上月城も、

奪取してみせた。

また南瓜切ったか月に話したか  鳴海賢治

こうした攻撃戦の際、官兵衛の懐には常に、

秀吉から与えられた神文があった。

「城を落とし、武将を篭絡できたなら、きっと恩賞を取らせ、

  出世も約束する」 

と認めた物だ。

長男・松寿丸を人質として信長の元へ差し出してまで、

忠誠を誓った官兵衛にしてみれば、

己が勲功を挙げることで、主家とその領土が安堵されると信じていた。

だから死に物狂いになって戦い続けた。

ところが、勲功を挙げているというのに、秀吉はいっこうに、

約束を守ろうとしない。

官兵衛の不満は溜る一方だった。

過呼吸をときどき起こすハーモニカ  北原照子

 
 蜂須賀小六

こうした官兵衛をじっと観察しているのが、竹中半兵衛だった。

半兵衛は秀吉に生涯を捧げている といってもいいような人物で、

その心情は蜂須賀正勝(小六)によく似ていた。

正勝は秀吉にとって最古参の家臣で、秀吉のことしか考えていない。

この正勝が、「官兵衛は毒だ」と断言していた。

半兵衛もその人物評は、ほぼ間違いないだろうと思っていた。

だが、毒は薬にもなる。

猛毒と劇薬は紙一重で、使いようによってはこれほど重宝するものはない。

問題はその毒が秀吉に対して使用されないことで、

そのためには毒気を取り除いておけばいい。

毒になる本が一番売れている  森中惠美子

人の生涯には、いくつかの岐路がある。

それ以後の人生を決めてしまうような瞬間のことで、

官兵衛は、その分岐点のひとつに直面していた。

天正5年、冬。

眼の前、囲炉裏を挟んだところに、一人の武将が座している。

竹中半兵衛。痩躯(痩せた体)だ。

透き通るような白さの肌をしており、

女人のようなおだやかさに包まれている。

しかし、行動は凛として凄みがあった。

このとき、官兵衛は秀吉から授かった神文を後生大事に抱えていた。

それを見せてくれと半兵衛は、官兵衛に所望し、

手にするや否や、やにわに切り裂き囲炉裏に投げ捨てたのである。

軒先は呉越同舟通り雨  ふじのひろし

 
 歌舞伎調半兵衛

「あっ!何をなされますっ!」 

官兵衛は仰天して大声を張り上げたが、すでに遅い。

神文は燃え尽き、灰になった。

唇をわななかせたまま茫然としている官兵衛に対し、

半兵衛は「一周り大きくなられよ」と厳かに告げた。

「このような神文があるから、不平が口をついて出る。

 後生大事にとっておいても貴殿のためにはならない。

 すでに領土を侵し侵され、奪い奪われる時代ではない。

 時代は、天下統一に向けて動いている。貴殿は才がある。

 その才は、主家のためだけに使うのではなく、

 天下のためにこそ用いるべきだ。

 神文に拘わるのは小寺家に囚われている証だ。

 主家に拘わって天下を思わぬなど、才のあるもののすることではない」

第五画あたりでアッと思い出す  山本早苗

この時初めて、官兵衛は己の生き方を恥じた。

官兵衛は無論、信長が時代の臍になっているのは理解していた。

ただ自分はその信長の傘下に入ることで、

主家と我が身を守ろうとしていた。

所詮、自分のことしか考えていなかった。

姑息な考えだったと恥じた。

鼓の音ポンと鳴るのでひきさがる  桜風子



ただ半兵衛は、「もっとも」と言いそえた。

「綺麗ごとをいうつもりはない。

  天下を統一せんとするのは、合戦をいとうからではない。

  民を安らげるためでもない。

  つまらぬ戦さなどさっさと止めて、国づくりをしたいからだ。

  調略を行うのは、つまらぬ小戦で兵力を損ないたくないからだ。

  敵の主力に対して全力で立ち向かい、完全な勝利を得るためだ。

  しかし、それには智恵がいる。

 ひと周り大きゅうなって、その智恵を貸してくれぬか」

このことがあって以後、官兵衛は変わった。

読む本はきみ一冊で事足りて  山口亜都子

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負けん気の強い右手ですみません  竹内ゆみこ



「後藤又兵衛」

後藤氏は春日山城(福崎)に栄えた豪族だったが別所氏に滅ぼされた。

末裔にあたる後藤基次(又兵衛)は、姫路近郊の山田で生まれで、

官兵衛に預けられ、小姓として仕えた。

「黒田二十四騎」・「黒田八虎」の一人

黒田家に仕えた後、豊臣秀頼にも仕えた基次は講談などで、

人気を博した侍のひとりで、通称・「又兵衛」で知られている。

父・左衛門は姫路の地に小さな城を構えていた。

その左衛門が没した後、伯父の藤岡九兵衛とともに黒田家に入った。

住所氏名年齢職業鰯雲  鳴海賢治

しかし、官兵衛荒木村重に捕らわれ有岡城に幽閉された際、

伯父・九兵衛は黒田家を裏切ったため、

一族同罪で又兵衛も追放となる。

その後しばらくは秀吉 配下の武将・千石秀久に仕えていたが、

その時期には特に活躍したような言い伝えは残っていない。

秀吉が九州攻めを敢行する前、

長政から百石という高禄を条件に再び呼び返された。

それに応じて又兵衛は数々の戦いで活躍し、

特に九州攻めの際の「宇留津城攻め」では大きな戦功を挙げている。

地獄極楽風船は跳ねに跳ね  筒井祥文



『太平記賤ヶ嶽本陣之図』 

官兵衛・又兵衛・太兵衛などが佐久間盛政を捕らえている図

「朝鮮の役」では長政に先手を命じられ白河城を守った。
 しんしゅう
「晋州城攻め」では「亀甲車」に乗って、

一番乗りを果たしたことで一躍有名になった。
      しょくざん
ほか「稷山の戦い」でも、巧妙を挙げた。

とりわけ「関が原の戦い」では、負傷しながら果敢に戦い、

東軍を勝利に導く働きぶりで、筑前入国後には、

大隈益富城・城代となり1万6千石を拝領。

黒田家の重臣として、隠岐守を名乗った。

たっぷりとマグマを抱いた竹の節  くんじろう

慶長9年(1604)に官兵衛が没すると事態は急変する。

又兵衛はあとを継いだ長政とそりが合わず、再び黒田家を離れた。

又兵衛にしてみれば、とどろく実績と優れた能力があったので、

すぐに浪人生活から解放されると思ったに違いない。

事実、福島正則、前田利長、池田輝政、結城秀康 などから

声がかかっている。

しかし、又兵衛の仕官はいずれも実現しなかった。

見込みある男飛びだす土砂降りへ 柴本ばっは

家中の内部情報に通じている又兵衛の逐電は、

黒田家にとって「一大事」なことで、

長政が緊急「奉公構え」という手段を講じたのである。

「奉公構え」とは刑罰の一種であり、出奔した家臣や改易された者に対し、

大名が出す回状を意味する。

回状を受け取った大名は、該当する者を雇わなかった。

これにより又兵衛の再仕官の道を断たれたのである。

賢治の詩遠く切ない雪になる  森 廣子 



『太平記大合戦』-大坂の陣・後藤又兵衛

その後、又兵衛は京都で長い浪人生活を送った。

そこで勃発したのが、「大坂の陣」である。

又兵衛は豊臣秀頼に招かれ、意気揚々と求められるままに、

大阪城に入城した。

そして真田幸村らとともに、「大坂の陣」で豊臣家のために、

死力を尽くしたが、慶長20年(1615)5月、奮戦空しく討ち死にした。

その戦いを通じて又兵衛の体には刀槍の傷が53ヶ所もあったという。

この記録は、後々伝説として語られるようになった。

六尺を超える勇猛な巨漢の豪傑として、

講談などでは「槍の又兵衛」と呼ばれ、大変人気があった。

狼尾男ビニール傘たたむ  兵頭全郎

     
                           又兵衛と光

「亀甲車とは」

慶尚の晋州城を攻撃するのに長政が使用したとされる亀甲車は、

官兵衛がキリシタンから得た知識から発想したもので、

「黒田長政の士大将後藤又兵衛基次亀の甲といふ車を作り出せり」

とある。 『常山紀談』

いわゆる現地で、加藤清正と又兵衛が図面を見て造ったという。

【構造】 上は亀の甲のように高く盛り上がり、火がつかないように、

表面は毛の方を内側にして牛の生皮を貼り、

下には転がしやすく車輪をつけ、

内部の四隅に柱を組み、

壁は堅牢に厚くして石を投げられても破れない様に。

また、後部には大縄をつけ、

バックも可能に工夫した戦国版戦車である。

この中に後藤又兵衛が入り、敵の城壁まで迫り敵隊を崩したという。

                              きりはり
【説明】 厚板の箱を拵へ内に強き切梁を設け、
                    くだ
石を落しかけても箱の摧けざる手当をし、

箱の内へ後藤入りて棒の棹を指し車を箱に仕かけ、

進退自由に廻る様にして城際へ押詰石垣を崩して乗入けり。

551のぶた饅は削除した  井上一筒

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