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川柳的逍遥 人の世の一家言
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イモリの黒焼きで眉毛だけ生えた  井上一筒



「弾正忠松永久秀」ー芳年武者牙類

刀を抜いた久秀の頭上に破片のようなものが飛び散っている。

自刃の前に最期の杯を飲み干して叩き割った刹那を描いている。

「松永久秀」

逆上型で知られる信長が、何故か、松永久秀には甘かった。

信長を久秀は2度裏切っている。

しかし、信長は「この男なかなかの悪人である」と言いながら、

3度目の裏切り対しても「許そう」 と使者を送っているのだ。

狡猾で傲慢不遜の「戦国乱世の梟雄」とか「日本三大梟雄」といわれ、

謀略や暗殺など手段を選ばない人物なのにである。

戦国の三梟雄=『斉藤道三』・『宇喜多直家』・『松永久秀』
日本三大梟雄=『斎藤道三』・『北条早雲』・『松永久秀』

みての通り、どちらにも久秀の名前が見てとれる。

さらに、

① 13代将軍・足利義輝暗殺。
② 東大寺大仏殿の焼討ち。
③ 主家・三好家に対する暗殺と謀略。

この三つを前置きして、信長は、

「この人物は全く油断ができない、

 彼の三悪行は天下に名を轟かせた男である」

と久秀を家康に紹介しているのである。

着地する悪い噂のどまん中  嶋澤喜八郎   



三好三人衆・岩成友通

永禄3(1559)年8月,松永久秀、大和信貴山城主となる。

主家の嫡男・三好義興と供に将軍・足利義輝の御相伴衆になり、

主君・三好長慶と同格の桐紋と塗輿の使用を許された。

久秀は多聞山城を築き六角家と争い、政所執事伊勢家を討伐。
                   そごうかずまさ
永禄6年(1562)、長慶の弟・十河一存、嫡男の義興を毒殺し、

弟・三好義賢の討死後、三好政権は、
                      ろうだん
三好長逸「三好三人衆」と久秀が壟断するようになる。

長慶が病死すると、久秀らは喪を秘したまま、将軍・足利義輝を暗殺。

(三好三人衆=三好長逸・三好政康・岩成友通)

久秀はこの三人衆と別段仲が良かった訳でも無く、

足利義栄を擁立直後、三人衆との対立が表面化する。

その辺から久秀は孤立、一時、消息が途絶える。

矢面に立てるか長になるならば  伊藤志乃



永禄10年(1566)、突如として姿をみせた久秀は、

東大寺に立て篭る三好三人衆を奇襲し、大仏殿に火を放つ。

この内粉で消耗、弱体化した三好政権は、

翌年の9月、信長の軍事力の前に崩壊。

このとき久秀だけは、大和一国を安堵されている。

信長が足利義昭を擁して上洛した際は、

義昭は兄の義輝暗殺の首謀者として、「久秀を誅殺せよ」と命じた。

が、信長は久秀を庇って助命に持ち込んだ。

この時この恩をもって久秀は信長に、

臣従の証しとして名器・「九十九髪茄子茶入」を献上している。

第一次信長包囲網の折には朽木元綱を調略し、信長のピンチを救う。

これが信長に対する久秀最初で最後の忠節であった。

敵の敵は味方じゃないと傷が言う  竹内いそこ

元亀2年(1571)、義昭と呼応し、久秀は武田信玄に通じて信長に背く。

これは信玄の死によって実らず、降伏。

これを信長は、「一回目は許す」を信条として,

久秀を許し、大和支配を安堵させた。

天正3年(1575)、多聞山城と大和守護を失うと、

北陸の上杉謙信を頼んで,再び信長に背く。

天正5年(1577)、上杉謙信・毛利輝元、石山本願寺などの

反信長勢力と呼応して、本願寺攻めから勝手に離脱。

信長の命令に背き、大和信貴山城に立て籠もり、

再び対決姿勢を明確に表した。

時々は堪忍袋解き放つ  合田瑠美子



『太平記英勇傳松永弾正久秀』-平蜘蛛釜・謀反-落合芳幾

信長は松井友閑を派遣し、理由を問い質そうとしたが、

使者には会おうともしなかった。

信長は、嫡男・信忠を総大将、筒井勢を主力とした大軍を送り込み、

信貴山城を包囲。

所有していた「名器・平蜘蛛茶釜を差し出せば助命する」

と寛容な対応を提示したが、それに対して久秀は

「平蜘蛛の釜と我らの首と2つは信長公にお目にかけようとは思わぬ。

  粉々に打ち壊すことにする」

と返答したという。

信長のもとに人質として預けていた2人の孫は、京都六条河原で処刑。

そして東大寺大仏殿を焼き払った10年後の同じ10月10日に、

久秀はついに抗しきれず、名器・「平蜘蛛の茶釜」を抱いて、

火中に投身した。享年六十八。 

『平蜘蛛の釜と俺の首の二つは やわか信長に見せさるものかわ』

は久秀辞世の句とされている。

地獄の扉に「ようこそ」と書いてある  新家完司

「信長のなぜを考える」

信長が語った久秀の「三悪事」に対し、

信長自身も主君に当たる織田大和守家の当主・織田信友を討滅し、

将軍であった足利義昭を追放し、「比叡山焼き討ち」を敢行する等、

久秀とまったく同じような所業を成している。

似た者同士、「親近感を抱いた」のではないかという説がある。

また、下克上でのし上がった乱世の奸雄としては、

斎藤道三とも類似しており、

「信長は道三の面影を久秀に見ていた」

のではないかという説もある。

赤い血を出さないように串を刺す  寺川弘一


「平蜘蛛」


蜘蛛が這いつくばっているような低く平らな形から名付けられたという。

「松永久通」

大和国多聞山城主。 松永久秀の嫡男。
                         ながやす
三好三人衆の一人三好長逸とともに将軍義輝暗殺の実行犯となった。

三好三人衆との内戦では多聞山を死守し、

将軍義昭を奉じて、上洛した信長に父・久秀とともに臣従。

しかし信長と義昭が不仲になると、父とともに信長に反逆して敗北。

裏切者にきびしい信長からなぜか父子とも許されたが、

その後に謙信の上洛の話にのって再度反旗をひるがえし、

父とともに、信貴山城で自害した。

ポキポキポキポキそれは無駄骨  鳴海賢治

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灰色を桃色にする春嵐  新家完司



   フランシスコ・ザビエル

スペイン・ナバラ生まれ。
ポルトガル王ジョアン三世の依頼でインドのゴアに派遣された。
天文18年(1549)日本へ初めて訪れ、キリスト教を伝えた。
                                  (画像は拡大してご覧ください)

リアリスト・官兵衛」

日本に初めてキリスト教が伝来した戦国時代。

天文18年(1549)、F・ザビエルの九州上陸に始まり、

大勢の宣教師が海を渡り、わが国に教えももたらした。

「ドン・シメオン」これが官兵衛の洗礼名である。

官兵衛がキリスト教に入信したのは、

天正13年(1585)前後といわれている。

その模様が当時布教活動にあたっていたルイス・フロイス

著書・
「日本史」にみられる。

空即是色あんたはわたし手を挙げろ  むさし



フロイスが記した「日本史」

ここには書かれていないが、官兵衛は表向き棄教しただけで、
ひそかにキリスト教を信仰し続け、信徒らを保護したという逸話もある。

「時に天下は太平で、各地の武将たちは頻繁に政庁を訪れるために、

 大坂に出入りし、その機会に我々の説教を聴き・・・中略・・・洗礼を受けた。

 その受洗者の中に関白(秀吉)の顧問を務める貴人がいて、

 毛利との和平を成立させた」

この貴人こそが官兵衛である。

彼は日本人キリシタンの一人としてフロイスの書物に登場している。

官兵衛をキリスト教へ誘ったのはフロイスではなく、

高山右近小西行長であった。

2人ともキリシタン大名として知られる熱心な信徒だった。

当初、官兵衛はキリスト教のすべてを理解していたわけでなく、

右近や行長の熱意に応えた格好だったようだ。

よもぎ餅あんたの鼻へストライク  井上一筒
  
それでも一時期、官兵衛は熱心にキリスト教の布教にも協力した。

秀吉の命令で九州征伐を行う前、

彼は先発隊の司令官として毛利家の領地・下関へ赴き、

退廃していたキリスト教の教会を復活させるよう、

領主・毛利輝元に頼んでいる。

挑戦を受けてみろよと言う日差し  立蔵信子

ここでは、司祭が定住することを認め、

司祭に無期限で土地を提供すること、自由に布教することなどを認めた。

下関では、名声のある貴人たちに説教を聞かせ、

およそ60人が洗礼を受けたほか、

播磨から遠征してきた二人の弟(利則、直之)にも、

説教を聞くよう命じ、洗礼を受けさせた。

秀吉の側近中の側近である官兵衛の名は全国に轟いていたため、

輝元の重臣たちは、輝元の前に出る時以上に緊張していたという。

弓を引く的はあなたののどぼとけ  池部龍一

その官兵衛が司祭に対して、深い尊敬と恭順を示したので、

人々はこれを見て驚嘆したそうだ。

九州征伐では布陣中の諸隊の陣営を巡回したが、

その際に2名の修道士を同伴した。

各陣営には、キリスト教の訓えに興味を持つ者もあり、

その者らに対して修道士の口から説明させたのである。

しかし天正15年(1587)7月に秀吉がバテレン追放令を出し、

右近らがこれに反抗して改易されると、

官兵衛は率先して令に従い、キリスト教を捨てた。

揺れたのは片時歩には歩の仕事  松谷大気



   ルイスフロイス

ポルトガル・リスボン出身のカトリック司祭。宣教師。
戦国時代の日本に上陸し織田信長や豊臣秀吉と会見。
文才に優れ『日本史』や『日欧文化比較論』など、
当時の日本社会や偉人たちの、
人物像を伝える貴重な資料の数々を書き残した。

秀吉の側近である官兵衛を頼りにしていたフロイトを

はじめとする宣教師、他のキリシタン大名は、

秀吉の側近である官兵衛の棄教にショックを隠せなかったようだ。

高山右近は棄教できず、マニラに追放されたほどで、

官兵衛がもし公に信仰を続けていれば命はなかったかもしれない。

一方、フロイスは官兵衛のことを

「熱意にもかかわらず、教理の知識が不足していた」 と評している。

嘆き節である。 

続篇の生むアドリブが騒がしい  古田祐子

官兵衛は、「宗教は頼るものではなく利用するもの」

と考えていたリアリストだったのだろう。

彼にしてみれば、「秀吉がダメというのならダメ」

というスタンスに従っただけであり、

そこにはいささかの躊躇いもなく、秀吉への強い忠誠心も伺える。

秀吉は当初、キリシタンやキリスト教に寛容であったが、

やがてその勢力拡大および、それに伴う外国の侵略に危機感を覚え、

先の「追放令」を結構したのだ。

続いて政権を握った徳川家康もキリスト教を禁じてる。

官兵衛と同じく、息子の黒田長政もキリスト教を捨て、

江戸時代になると率先して、キリシタンを迫害する側へ回っている。

信仰に関していえば、その変わり身の速さは、親子共通だったようである。

片方の耳はしぶしぶ承知する  山本昌乃 

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指切りのきっとときどき疼きだす  三村一子               

 

「揺れ動く播磨」

英賀の戦いで毛利の大軍を追い払った官兵衛は、

姻戚関係にある明石氏棚橋氏などを説得し、

戦わずして播磨の大半を織田方に調略した。

その外交手腕に感嘆した秀吉は、

官兵衛への信頼を高め義兄弟の契りを交わした。

しかし、西播磨は毛利氏の勢力圏に近いこともあって、

信長に敵対する勢力が残っている。

一方、信長は毛利の水軍を味方にした本願寺を落すのに手こずっている。

官兵衛は約束の羽柴軍が一刻も早く播磨に入る日を待ち望んでいた。

ところが、事態は官兵衛の期待する反対の方向に進みだす。

蛇口から水はけっして疑わぬ  森田律子

信長が播磨行きの中止を決めたのだ。

このとき、足利義昭の仲立ちで上杉、武田、北条が和睦し、

背後をつかれる恐れがなくなった上杉謙信が、

上洛の兵を出す懸念が生じていた。

そのため信長は越前を固め、謙信に備えることに軌道修正をした。

しかも、毛利の水軍を味方につけた本願寺を落すのに手こずっており、

ますます本願寺戦が長引くことが考えられた。

さらには、反旗をひるがえした丹波の波多野秀治

容易に片付く相手でなかったことから、

「信長は播磨を見捨てる決断をした」 のだった。

幹はアカペラ枝葉のことは気にかけぬ  阪部文子



〔波多野秀治〕

丹波国八上城主。娘は三木城主・別所長治に嫁いだ。

足利義昭を奉じて上洛した信長に臣従していたが、

突如として反旗をひるがえし、

丹波平定戦をしていた明智光秀を急襲して敗走させた。

これに激怒した信長は、光秀に大軍を与えて攻撃を厳命。

八上城は約1年半の籠城戦を耐え抜いたが、

「秀治たちの助命、および光秀の母を人質に差し出す」

という破格の条件を提示され降伏した。
                ひでひさ
しかし秀治と弟・秀尚を許さず、安土にて処刑。

信長が約束を反故にしたことで、怒った波多野家の家臣たちの手によって、
           たっけい
光秀の母が磔刑に処された。

このことが、本能寺の変を招く一因になったともいわれている。

よけたのは目の前だけの水たまり  みつ木もも花



〔宇喜多直家〕

不遇の幼少期を過したのち、浦上宗景に仕官して数々の武功を挙げ、
おとご
乙子城主となる。

領土を拡大するために姻戚関係を結び、

身内となって油断したところを殺す

などの容赦のない手口を繰り返し、謀略の限りを尽くして、

備前美作を領有する戦国大名となる。
          きゅうゆう      ぼうれい  しせいかんねい
そのため「梟雄」「悪逆暴戻」「資性奸佞」などと形容された。

踏めばすぐ落ちる梯子を駆け昇る  筒井祥文



〔本願寺顕如〕

12歳で継職して本願寺11世となり、

祖母・慶寿院の補佐を受けて教団を運営する。
                                 おおぎまち
信長との石山合戦を主導した後、正親町天皇の仲介により和睦し、
      さぎのもり
紀伊国鷺森に退去した。

信長の跡を継いだ秀吉とは友好関係を保ち、

天正19年(1591)京都堀川七条に寺地寄進を受け、

翌年、京都に本願寺を再興した が、その年に50歳で死去する。

命預けます散らかってますが  酒井かがり

【本願寺】

戦国時代の最大宗教勢力。

親鸞が開いた浄土真宗の本願寺派の宗教団体で、通称は一向宗。

武士に不満を持つ信者の農民たちが一向一揆の集団として勢力を強め、

加賀国では国主を自害に追い込んで、

本願寺門徒の支配する国が誕生するほどだった。

法主・本願寺顕如は信長に敵対して10年にもおよぶ「石山合戦」を展開。

降伏する際、徹底抗戦を唱える子・教如を勘当したことで、

顕如派の西本願寺、教如派の東本願寺に分かれることとなった

借景がヒタヒタしてる蟹歩き  岩根彰子 



〔足利義昭〕

諸国を転々としていたが、信長の助力で上洛を果たし、

室町幕府15代将軍に就任する。

しかし、信長と不和を生じ、

各地の大名にひそかに「打倒信長」を呼びかけるようになる。

逆鱗にふれた信長から追放されても、幕府の復権をあきらめず、

中国の毛利氏を頼って、「反信長同盟を画策」 し、

足利家の家名と「御内書」と呼ばれる手紙だけを武器に戦い続けた。

和解したしるしの首がぶらさがる  佐藤正昭



〔小早川隆景〕

深慮遠謀の覇者・毛利元就を父とし、

勇猛果敢な武者・吉川元春を兄とする。
     かいい         えけい
容貌魁偉な安国寺恵瓊とともに、本家の若き当主・毛利輝元を支え、

毛利家を盛り立てた知将。

中国地方に攻め寄せる秀吉の軍勢をあらゆる手段で阻止しようと試みた。

最終決戦となった備中高松城の攻防戦で出会った官兵衛とは、

互いに認め合い、やがて畏友となる。

取り分は1対9で合意した  井上一筒



〔安国寺恵瓊〕

毛利家の軍師・外交官として働き、

本能寺の変と秀吉の台頭を、早い段階で予見していた鋭い眼力を持つ。

毛利氏の名代時代に秀吉との交渉を担当し、やがて、

豊臣政権となると秀吉に重用され、東福寺の修復や建仁寺方丈を確立。

しかし関が原で敗北し、

石田三成、小西行長らとともに西軍の首謀者として処刑される

百八の魑魅魍魎がノックする  園内知香



〔高山右近〕
                                   いみな
摂津国高槻城主。幼名は彦五郎で、諱は友祥、長房、重友など。

当初は荒木村重に属したが、

村重が有岡城に籠城した際に信長に仕えた。

信長の死後は秀吉に従い、播磨国明石6万石を拝領。

「キリシタン大名」 として知られ、洗礼名はジュスト。

「利休七哲」のひとりで文武両道に優れ、

右近の影響で官兵衛や蒲生氏郷が受洗した。

秀吉の禁教令に従わず改易され、家康の禁教令で国外追放、

フィリピンのマニラで病没した。

満月の置場を探している茶室  くんじろう

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もし空がピンクだったら落ちつかぬ  大内朝子    



【朱印状】

朱印状とは、戦国時代から江戸初期にかけて、

戦国大名・藩主や将軍により発給された公文書。


軍事命令や領地の授与,法令の発布,外交文書などに用いられた。
       かおう
朱印は花押の代用として使われはじめ,

黒印よりは重いものとされた。

                                          つぶさ
またこの朱印状で当時の政治情勢や人間関係が具にわかり興味深い。

眼はすでに的を射抜いている構え  池部龍一



「信長と官兵衛の関係」

官兵衛信長はどんな関係にあったのか。

「信長公記」には、官兵衛についてわずか一箇所しか記されていない。

天正5年(1577)の「上月城の戦い」の部分だけである。

ここだけを見ると、

信長の官兵衛に対する関心は稀少だったと見えてしまう。

ところが、黒田家側の「黒田家文書」の中では、そうではないことが伺える。

この文書にある信長から官兵衛に宛てられた朱印状を見てみると、

二人の関係は明確で天正5年に始っている。

帯よりも長いたすきはざらにある  松下和三朗


    信長朱印状

〔織田信長朱印状〕 -①

備前面に至り進発すべく候。其れに就き羽柴筑前守を差し越し候。
    なら
働き并びに人質等事、筑前守 申す次第に別して馳走専一に候。

油断あるべからず候なり。

  九月六日    朱印       小寺官兵衛 とのへ

これは、信長官兵衛に備前方面への出陣を命じたものである。
軍事行動や人質の徴集に関しては、秀吉に従うようにとある。
(これは上月城に関わるものだが、興味深いことに従軍命令に関しては、
信長の朱印状が必要であったことがわかる。)

運命にもDNAがあるらしい  武本 碧

〔信長朱印状書〕 -②
い                                                  つぶ
去んぬる月二十六日、佐用面において働きの趣き、具さに聞こし食し候。
         いよいよ
尤も以て神妙に候。 弥戦功を励むべき事専一に候。
なお
猶羽柴筑前守 申すべく候なり。

  十二月五日   朱印       小寺官兵衛とのへ

(これは、「上月城の戦い」で戦功を挙げた官兵衛に対する感状である。
軍功は秀吉ではなく、信長に賞されるのであった。
秀吉は取次のような役割を果たしている。)

水仙の第一球を蹴り上げた  岩根彰子

〔信長朱印状書〕 -③

今度別所小三郎(長治)、羽柴筑前守に対し存分これありと号し、

敵同意候段、言語同断の次第に候。

然れども無二に馳走せしむるの由、尤も以て神妙に候。
                                        みぎり いよいよ
別所小三郎急 度成敗加うべく候条、此の砌、弥忠節を抽きんずべく候事、
            なお
専一に候。 猶羽柴申すべく候なり。

  三月二十二日  朱印    小寺官兵衛 とのへ

(これは、別所長治が叛旗を翻したことに対して、
官兵衛が無二の馳走をしたことを賞賛したものである。
官兵衛は竹中半兵衛とともに、「三木合戦」で軍功を挙げている。
ここでも主体は信長であって、秀吉は取次であることを確認できる)

修羅越えて標準的になるくらし  山本昌乃


    信長黒印状

〔信長黒印状書〕

音信として、手綱・たすけ書中の如く到来、悦び思し召し候。

なお堀久太郎申すべく候なり。
                                     たすき
(これは、官兵衛が音信とともに手綱・襷を贈ってきたので、
信長が礼を述べたものである。
こうしてみると、官兵衛が仕えた主体は信長であり、
軍事行動を秀吉とともにするよう、命じられていたことがはっきりとわかる)

運掴むそれまで両手開いてる  新海信二

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天と地が揺れても正座崩さない  板野美子

 

    姫山付近 (画像は大きくしてご覧ください)

「姫路城」

古来山陽道の要地である姫路は、北に中国山地、南に播磨灘を望む。

また東西の台地の裾には川が流れ、山陽道が西国へと続く、

四神相応の地とされる。

その中央に位置する「姫山」に、姫路城は築かれた。

羽柴秀吉時代の姫路城は、天正8年(1580)、

現在の大天守のある位置に三重の天守があげられていた。

黒田氏時代の姫路城も、姫山にあったと考えられている。

官兵衛の父・職隆が永禄4年(1561)に本丸、二の丸から成り、

櫓を築き塀で囲んだ城を築いたという。(姫路城史)

また城と市街の要所に、幾多の門を構えていた。

城の北側の山陽道に向かって町が形成され、

大手口も北に開かれていたと思われる。

限界集落うつくしい蟹がいる  新家完司

 

    姫路城模型

運命の出会いという言葉がある。

官兵衛と秀吉との出会いはまさにそれである。

小寺家中を織田家支持にまとめた官兵衛は、

自ら岐阜に赴いて信長の傘下に入り、

天正5年(1577)播磨に進軍してきた秀吉を迎えた。

秀吉の才覚と人柄に触れた官兵衛は、率先して播磨の先導役を務め、

また、居城の姫路城本丸を秀吉に譲り渡した。

秀吉は交渉巧みな官兵衛が「自分と似ている」ことを認め、

「こいつは使えるぞ」と喜んだ。

実際、播磨に土地鑑も人脈もない秀吉にとって、

官兵衛は貴重な存在で、二人の歯車はうまく噛みあった。

いわゆる姫路城は、官兵衛と秀吉の運命の始まりの場所である。。

カリスマと呼ばれる人の静電気  ふじのひろし

 

姫路城の珍しい十字の鬼瓦

言うまでもないが、国宝・姫路城は別名「白鷺城」と呼ばれ、

世界遺産にも指定されている。

この姫路城は築城にまつわる謎が多く、また黒田氏の居城であるが、

何より、国宝や重要文化財の建築物が多いことで知られる。

① 国宝―大小天守四棟・渡櫓四棟。

② 重要文化財―櫓十六棟・渡櫓十一棟・門十五棟・塀三十二棟。

天守閣は、連立式の大天守・西小天守・乾小天守・東子天守の

4つで構成され、大天守は33メートルの高さを誇り、

外観五層・内部七階という非情に規模の大きなものである。

もちろん現存の天守としては最大規模で、

その美しさは群を抜いている。

すっかり上から目線になった竹  一階八斗醁



   上山里下段石垣

天守閣を解体修理した際、

一回り小さい石垣が現在の大天守の石垣の中から発見された。

これが秀吉時代の遺構と考えられている。

「姫路城の歴史」

姫路城の歴史は古く元弘3年(1333)

赤松円心護良親王の命により挙兵。

京に兵をすすめる途中、姫山に築いた砦が姫路城の原形といわれる。

そして、その次男・赤松貞範が貞和2年(1346)に本格的な城を築いた。

この後、姫路城は秀吉によって補強される。

天正8年(1580)1月、三木城の別所氏を滅ぼした秀吉は、

三木城を本拠にしようと考えたというが結局、姫路城を本拠に定めた。

その理由は、姫路城は近くに瀬戸内海が広がり、

主要な街道が通っていたからである。

今後毛利氏との交戦を考慮すれば、絶好のロケーションであったからだ。

そして、秀吉は本格的に姫路城を改修し、三層の天守閣を築いた。

実質的に姫路城は、秀吉によって築城されたといえるのかもしれない。

何よりもまずあ行からリアリズム  柴田園江

 

入城口になる菱の門。

番人の詰め所と馬見所があった。

慶長5年(1600)池田輝政が姫路に入ると本格的な大改修が行われた。

工事は翌年から開始され、9年の歳月をかけて完成した。

「エピソード」

池田輝政による姫路城築城の時、

完成した天守から一人の男が身を投げて自殺したといわれている。

その男の名は、城普請にあたった大工の棟梁・桜井源兵衛。

輝政に命じられ、9年間、寝る間も惜しんで仕事に打ち込み、

やっと完成した姫路城であった。 しかし彼には、

丹精込めた天守閣が東南の方向に傾いているように思えてならなかった。

それを確認のため、妻を伴い天守に登ると、妻は、

「お城は立派ですが、惜しいことに少し傾いていますね」 と指摘する。

「女の目に分かるほどとすれば、

  自分が計った寸法が狂っていたに違いない」

源兵衛は愕然とした。

悩んだあげく源兵衛は、ノミをくわえて天守から飛び下りたといわれる。

葛藤の鎖が首に這っている  森 廣子



天守閣は現在、修復中のため全体に覆いがかけられている。

城が傾いていた理由は、「東と西の石垣が沈んだため」

と解体修理で判明している。

姫路城は江戸時代にもたびたび修理が行われてきたが、

当時の技術では、天守の重量に礎石が耐えられず沈み込んでいくのを、

食い止めることは難しかった。

加えて柱や梁などの変形も激しく、

『東に傾く姫路の城は、花のお江戸が恋しいか』 

と俗謡に歌われる有様。

改修工事はその後も、明治、大正、昭和と度々行われ、

直近の大修理から45年が経過。

現在、姫路城は天守閣が修理中で、その優雅な姿は見られない。

修理見学施設として「天空の白鷺」がオープンしていたが、

1月15日で終了、天守閣への入城も不可となっている。

和紙に世を包み優しき主を搾る  きゅういち

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