この糸が切れたら風になるつもり 河村啓子
鍋島直大と鍋島胤子
鍋島直大は維新後明治政府に出仕しイタリア全権公使などを務めた。
たねこ
「鹿鳴館の女たち」⑤-鍋島胤子
なおひろ
佐賀藩主・
鍋島直大夫人。結婚11年目の明治7年、
胤子は二人の幼な子を義母に預け、夫の渡欧に同行。
新たにヨーロッパでの生活が始まった。
ロンドンでの胤子は積極的にヨーロッパ文化を吸収した。
英語やフランス語、ダンスやピアノ、西洋刺繍や絵画も学んだ。
この時、油絵の練習のお供をしたのが、
ひゃくたけかねゆき
外務書記官でのちの画家・
百武兼行である。
佐賀藩出身の百武は、父の代から鍋島家に仕える身で、
直大の渡欧にも従者として随行した。
胤子と一緒に、画家・
リチャードソンに油絵の手ほどきをうけた百武は、
絵心が芽生えたのか、その後、
「日本で初めて油絵で裸婦を描いた画家」 として名をはせる。
いわば、彼の画家としての才能を開花させたのは胤子なのだ。
風の子を風へ返した絵の時間 堂上泰女
「叢中の卵」-
鍋島胤子画
同時に胤子の画才も、
「日本で最初に西洋画を学んだ貴婦人」
と百武に太鼓判を押されている。
夫妻は、その気品ある物腰から
「プリンス・プリンセス・ナベシマ」と、
たたえられヨーロッパ上流社会との交流を深めた。
イギリスの
ヴィクトリア女王とエドワード皇太子との謁見という
栄誉にもあずかり、約3年のヨーロッパ生活を謳歌した。
だが、帰国後、体調を崩した胤子は30歳の若さで亡くなってしまう。
額縁を出て子午線を通過中 岩根彰子
鍋島栄子
結婚前、栄子は宮中に仕えていた。母の血を引いたのか
実子の伊都子(梨本宮妃)も皇族随一の美女といわれる美麗だった。
伴侶を亡くした悲しみの涙が乾く間もなく直大はイタリア公使に任命される。
ながこ
急遽、公家広橋家の令嬢栄子との再婚が決まり、
明治14年23歳の栄子は、単身直大が待つイラリアのローマに向かった。
肉感的な栄子は、洋装も似合い外人にもひけをとらなかった。
妊娠して体をしめつけるコルセットがきつくなると、
着物に切り替え、しっとりとした大和撫子ぶりを披露し、
ローマ社交界で日本女性の美しさが評価された。
渡欧翌年に誕生した長女には、
イタリアの都ローマで生れたことから
伊都子と名付けた。
帰国後は、外国生活での経験を生かし鹿鳴館で花形となる。
群青の青より深い年でした 八上桐子
渋沢兼子
実業家の夫を支える一方、兼子は鹿鳴館の慈善会などを推進し、
社会慈善事業にも熱心に取り組んだ。
「鹿鳴館の女たち」⑥-渋沢兼子
渋沢兼子の父・
伊藤八兵衛は、
深川油堀の
「伊勢八」と呼ばれる幕末の豪商だった。
水戸藩の金子御用達や、米やドル相場など、
博打的な投資で儲け、江戸一番の大富豪とうたわれた。
だが、明治に入って没落。
ついには破算し、12人の子どもたちも路頭に迷ってしまうのだ。
18歳で江州から婿を迎えていた兼子だが、
金の切れ目は縁の切れ目とばかり、
無情な婿はさっさと実家に帰ってしまった。
現実をせめて忘れるための花 松本としこ
自ら
「芸妓になりたい」といって兼子が働き口を探していると、
芸妓ではなく妾の口があると紹介された。
その相手が
渋沢栄一であった。
前妻
千代をコレラで亡くした渋沢は43歳。
次女と長男はまだ幼く、女手が必要だった。
だが恩師の娘で糟糠の妻だった亡き千代を思うと、
再婚にはなかなか踏み切れない。
しかし兼子と接するうちに彼女を気に入り、後妻として迎えることにした。
偶然にも、渋沢家の屋敷は、
羽振りのよかった頃の実家、油堀の屋敷の近くであった。
幕末の豪商の娘から、新時代の実業家の妻となった兼子は、
博打的な強運の持ち主といえまいか。
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黒田清隆箱館戦争で新政府軍の参謀を務めた黒田は、
五稜郭開城後、頭を丸めて榎本の助命を嘆願した。
「鹿鳴館の女たち」⑦-黒田滝子
24歳の若さで亡くなった黒田清隆の妻・清は病死といわれたが、
実は、酒乱の黒田が、
「酔って妻を斬り殺した」という噂がまことしやかに流れていた。
酩酊した黒田が、妻の不貞を疑って刀を振り回し、
追いつめたすえの惨殺というのだ。
そんな黒田が18歳の深川芸妓・
滝子に一目惚れ、
滝子は結婚を乞われるが、殺された妻の後釜に入るのだから、
決断は辛い。
暗がりで触れるアルキメデスの原理 森田律子
いったん、滝子は縁談を断るが黒田の盟友・
榎本武揚が仲介に入り、
懇願されたため、断りきれなくなった。
明治13年、滝子は41歳の黒田と結婚する。
また黒田はつねにピストルを携帯していた。
条約改正に反対した
井上馨の邸に、よった勢いで乱入したこともある。
酒癖の悪さは彼自身の出世にも悪影響を及ぼした。
酒が入るとあらくれ者に豹変し、
酔いが醒めると自己嫌悪に陥る夫をなだめすかすなど、
滝子も夫の酒乱ぶりには相当苦労した。
(明治21年夫が総理大臣に就任すると総理夫人として助力を惜しまなかった)
きみ嫁けりとおき一つの訃に似たり 大西泰世[3回]