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川柳的逍遥 人の世の一家言
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甲乙丙そんな時代がきっとくる  合田瑠美子               



黒田二十四騎

(画像は拡大してご覧ください)


黒田家には譜代の臣は存在しない。

官兵衛の父・職隆の代に姫路城主となり、家臣団が形成された。

初代家老を曽我大隈守という。

官兵衛が家督を継いで、二代目家老になったのが吉田喜三右衛門

三代目家老は久野四兵衛

黒田家が播磨国から備前国中津へ国替えして、


栗山善助、母里太兵衛、井上九郎右衛門の三老体制となった。

その家臣団の中で、官兵衛が集め育てた精鋭部隊の侍大将たちを、

「黒田二十四騎」と呼ぶ。

戦国武将はファッションのように兜にこだわりを持ちました。
各武将の誰かは、兜で判別してください。

新しい家族の箸を選っている  杉本克子    



栗山四郎右衛門利安―善助

天文20年(1551)~寛永8年(1631)

姫路近郊の栗山に生まれる。

黒田二十四騎の中で選りすぐりの「黒田八虎」のひとり。

永禄8年(1565)、15歳の頃から播磨国の黒田官兵衛(孝高)に仕えた。

官兵衛に似て知略にも武勇にも優れ、

官兵衛を題材とした物語には頻繁に登場するほど、

利安は、官兵衛の股肱の家臣として最も厚い信任を受けている。

大きくはないが手応えある器  磯部義雄
 
 

「青山・土器山の戦い」に初陣として参加して以来、数々の武功を重ねた。

官兵衛が有岡城に幽閉された際は、伊丹の商人の助けを借りて牢に接近。

官兵衛を励ましながら播磨の情勢などを伝えたほか、

有岡城の落城時は、他の家来と共に官兵衛を救出した。

「山崎の合戦」にて勝龍寺城を攻めた際は、大手で槍により一番首を挙げ、

「小牧・長久手の戦い」の岸和田の陣で根来雑賀衆と戦った時にも、

大きな戦功を挙げた。

「関ヶ原の戦い」では、母里太兵衛と共に、

大坂城下の官兵衛・長政の布陣を脱出させた。
 
利安は永禄12年の初陣「青山の戦い」で、首級を2つ挙げて以来、

官兵衛に仕える間、戦場の功名を11度挙げた。

5度は勇士としての働きであり、6度は采配をとっての功名であった。

鏡の中の奥を引っ張り出している  森田律子

官兵衛の父・職隆は遺言で

「役に立つ者であるから重臣として扱うように」

と命じたため、中津で三老の一人として遇されている。

やがて、福岡藩の筆頭家老となり、2万石弱の大身となり、

その勇名も知られていたが、利安は万事が控えめで、

道で誰かに会った際には、身分に関係なく、

必ず馬から降りて挨拶し、決して礼を失わず、寡黙な人物だった。

驕りが無く身は質素で、小身の者が生活に困っていると聞くと,

有る時払いの催促無しで金銀を与えた。

福岡藩の時代までに貸した金額は100貫匁に及んだという。

太陽の裏へご一緒致します  井上一筒

官兵衛の恩顧に関して利安は、

「わしは先君(孝高)に仕えて3年目に初めて足軽の小者を1人もらった。

  これが1番嬉しかった。

  次は19歳の時、初めて知行地を貰い、

   83石にそえて馬・物の具などを賜った事で、

   その懇ろな処遇に感激した」

官兵衛が豊臣政権下で豊前中津の領主になると、

「一気に200石から5800石を加増されて6000石を賜った。

  筑前へ移った時には1万5000石を賜ったが、

   これなどはあまり恩とも思わず、かたじけないという気も起こらなかった。

  これをもって見ると、とかく人間というものは、付け上がるものだから、

  若者たちは初心を忘れぬように、よく注意しなければならぬよ」

と語っている。

おしるしまでとナガスクジラを頂いた  高島啓子    
 
 

     合子形の兜

官兵衛からは全幅の信頼を寄せられ、官兵衛臨終の時には、

長政とともに枕元に呼ばれた。
                                                ごうすなり
官兵衛は愛用の「合子形の兜」を托し、

長政に対して,「利安を父と思え」と言い渡したという逸話もある。

忠実に仕えた利安だったが、

後に子の大膳利彰と長政の嫡子・忠之との間に

「黒田騒動」と呼ばれる諍いが勃発。

幕府の裁判で忠之は警告を受けることとなる。

階段は一段づつと決めている  中野六助

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足並みが揃う 止められないだろう  八上桐子



          御着城絵図

「青山・土器山の戦い」

御着城主・小寺政職と敵対する龍野城主・赤松政秀が、

三木城主の別所安治と手を組んで挟撃をしかけてきた。

兵力に圧倒的に差があるため、官兵衛は、

当時の小規模な姫路城に籠城しては、何日も持たないと即断。

そこで官兵衛は、僅か300人の兵を連れて、

城の西方約4キロに位置する青山の地に伏し、

姫路城を攻めようとした3000人赤松軍に奇襲攻撃を仕掛け撃退した。

「青山・土器山の戦い」 の始まりである。

ドブ板を鼬になって越えて行く  井上一筒

政職は手柄を立てた官兵衛を称賛し、

「これで赤松氏も攻めてこない」 との見解を示した。

ところが官兵衛は、もう一度攻めてくると考えていた。

赤松氏が将軍・足利義昭に供をするという大義名分を得て、

兵を集めていたからだ。

案ずる官兵衛に対し政職は楽観的に構え、再度攻めてきたときは、

「自ら出陣して蹴散らしてくれるは」

と息巻くのだった。

そんな政職に不安を感じながら姫路に戻った官兵衛は、

父・職隆や叔父・休夢らと赤松氏の対処を考える。

先の負け戦を恨む赤松氏は、

恥辱をすすぐため再び攻めてくると確信しているからだ。

たちぎわにそっと足もとみる男  八木侑子  

 

     千石池

青山の戦いでの落武者の首が沈むという。

案の定、「やられたままでいるわけにはいかない」と考える政秀は、

翌月に3000人の兵を再び率いて小丸山(青山)に本陣を敷き、

土器山に布陣していた黒田軍を夜陰に紛れて、奇襲をしかけてきた。

官兵衛たちは必死に防戦するが、

奇襲に脅えた政職は御着城に逃げ帰ってしまう。

姫路城を守るためにも、黒田勢だけで持ちこたえようとした。

しかし、黒田勢は次第に追いつめられ、

官兵衛の叔父・井出友氏小兵衛らが戦死するなど、

甚大な被害を受けた。

前のめりふと足元を見失う  合田瑠美子

「奇襲を受けたその日の夜、すぐに奇襲返し」

職隆や英賀城主・三木通秋などの援軍による怒涛の攻撃で、

疲れのみえる赤松軍をおしこんでいく。

なんとか陣を立て直した官兵衛は、

守勢に入れば勝ち目はないと判断し、

「進みて禦ぐべからざるは、その虚をつけばなり」 【孫子】

(油断しているときに攻めれば、敵は防ぐことができません)

その日の夜に赤松軍の本陣・小丸山を強襲することが決議された。

匕首の流儀は俺様の流儀  居谷真理子

黒田軍が奇襲を仕掛けたのは、

赤松軍が勝利の美酒に酔っている時だった。

勝利に慢心していた赤松軍は虚をつかれて敗走し、

官兵衛は勝利を手にしたが、この強襲の際に、

重傷の身を押して出撃した母里武兵衛など、

多くの股肱の臣を失ってしまう。

終止符のそばにいるのは傘でしょう  菊池 京

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イケメンの駱駝に乗ってきた胡椒  山本早苗



色白で背丈あったイケメン半兵衛

竹中半兵衛は美濃国・斉藤義龍の家臣・竹中重元の嫡子として生れた。

誕生年は天文13年(1544)、官兵衛より二つ年上になる。

子どもの頃から体が弱く、華奢で色白な半兵衛を周囲の者は、

「青びょうたん」とからかったが、中国の兵法書を読みあさるなどして、

その学才は目を見張るものがあったという。

半兵衛の名が世間に轟くのは、

20歳のときに起こした稲葉山城の乗っ取りである。

主君義龍の政治手腕に対する不満などを抑えきれず、

舅の安藤守就と力をあわせ、わずか16名の家臣と共に城を襲撃。

ほんの一晩で稲葉山城を手中に収めた。

座布団の裏にも貌がありました  笠嶋恵美子        

この事件は瞬く間に近隣諸国へと知れわたり、

堅牢な稲葉山城を落せずに手を焼いていた信長は、さっそく半兵衛に

「稲葉山城と引き換えに美濃半国を与えようぞ」

と破格の条件を出す。

しかし、半兵衛は、

「謀反は主君の愚策を戒めるために起こしたもの。

  私利私欲ではござらぬ」

と突っぱね、一年後には稲葉山城を義龍に返したうえ、

岩手山中に隠棲してしまうのである。

キリンにはキリンの足のたたみ方  北村幸子 



       竹中半兵衛   

半兵衛の才能を惜しんだ信長は、羽柴秀吉の与力になることを命じた。

そこで半兵衛は秀吉の幕下に入り、

「姉川の戦い」をはじめ数多くの戦で武功を上げたほか、

長岡城築城や臣民に不満が出ぬよう治世面でアドバイスするなど、

秀吉の出世を助けた。

半兵衛に功名心や私欲はなく、

戦乱の世で困窮する人民の姿に心を痛め、

戦で智略をめぐらせるのは、無用な血を流さないための手段であった。

秀吉の下に入ったのも、足軽から苦労して出世した秀吉に、

才能と人間味を感じたからかもしれない。

なにごともなかったように返事する  竹内ゆみこ

 

ところで、半兵衛が官兵衛と出会うのは、

信長が中国攻略を画策している頃である。

播磨小寺家の家老の身でありながら諸侯を差し置いて信長に謁見し、

中国経略の先導役として産軍した官兵衛を、

秀吉側の武将は、油断ならない存在と警戒した。

半兵衛もあからさまに非難はしないが、

「毒も薬になるたとえもござります」 と

あくまで静観する態度をとった。

滅多にみせぬしたたかな芯  安土理恵               

しかし官兵衛こそ、

毒どころか命をかけて主君に尽くす忠臣と知ることになる。

秀吉方は信長へ叛意がないことを示すため、

小寺政職へ人質を要求した。

体が弱い嫡男を人質に出せばかえって信長の疳気に障ると

躊躇する政職を見て、官兵衛は、

「自分の一人息子を人質に差し出す」 と申し出る。

最愛の子どもを差し出してまで信義をつくす姿に、

自らもひとり息子を持つ半兵衛は、ただならぬ覚悟を感じた。

そして彼こそ自分と同じ矜持の持ち主と知り、

急速に親しみを持つようになる。

血筋という武器に甘えているのだね  山本昌乃

けれど官兵衛は何かと、己の力を見せつけようとする性癖があった。

ある時、官兵衛は「自分は秀吉殿に兄弟同様に信頼されている」

自慢げにいい、秀吉から直々にもらったという証文を半兵衛に見せた。

すると半兵衛はその証文を突然奪い、火中に投げ入れてしまう。

驚く官兵衛に、

「過去の証文を当てにしていてはそれにとらわれて、

  軍師としての目が曇りますぞ。

  あなたの力は己の見栄や欲得ではなく、


  天下のために使ってこそ、ふさわしいのではありませんか」

官兵衛は増長していた自分を恥じ、

進言した半兵衛に感謝の念を持ったという。

階段は一段づつと決めている  中野六助 



「二兵衛のエピソード」

時流を見るのに長け、智略を駆使して戦国の世を生き抜いた官兵衛

片や、実直に主君に仕え、36歳の若さで病没した半兵衛

類いまれな才能で秀吉の出世を支えた二人は「二兵衛」と称された。

二兵衛と呼ばれた二人ではあったが、

実は共に闘った戦の数はそう多くはない。

反織田方である三木城の奪取に向けて秀吉は、

天正6年(1578)、戦を起したが意外にも相手が手強く、

城攻めに手を焼いていた。

そんなある日、500名ほどの兵が小高い山中に消えるのを秀吉は見る。

「あれは敵か味方か」

判別できぬ秀吉が半兵衛に尋ねると、

「あれは官兵衛様でございましょう。

 今日は殿の勝利に終わるに違いござりませぬ」

と、きっぱり言ってのけたのである。

勢いは鍾乳石になっている  岩根彰子

 

三木の商店街から見上げた三木城跡

三木城は、秀吉による三木城兵糧攻め(干殺し戦法)に亡びた。



三木城は、播磨国美嚢郡三木にあった城。

平山城・釜山城とも呼ばれる。


小寺氏の御着城、三木氏の英賀城と並び播磨三大城と称された。

半兵衛はその日、官兵衛が動くと知らされていなかったが、

今回の戦で劣勢が続く中、

「この辺りで策を打ちたい」 と思っていた矢先のことだった。

あの山中は以前より兵を進めるならここだと見込んでいた場所。

官兵衛も同じ読みをしたに違いない。

そう即座に判断し、秀吉に進言したのである。

半兵衛はさっそく援軍を出して敵をおびき出した。

そこを官兵衛隊が襲撃。

官兵衛に花を持たせるかたちで秀吉勢に勝利をもたらすことに成功した。

相槌を打つと矢玉が跳んでくる  皆本 雅

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凸面に溢れるものが急くものが  杉浦多津子



『稲葉山の月』 月岡芳年

稲葉山城の戦い、一夜城のエピソードで有名な戦。

永禄10年美濃国井之口の斎藤氏の居城・稲葉山城を信長が攻め取った。

絵は1885年芳年作-月光る夜半、若き秀吉僅か7名ほどを引き連れ、

崖をのぼり稲葉山城に裏から潜入する場面を描いている。

「永禄10ー11年」

時は永禄10年(1867)、室町幕府は衰亡の一途をたどっていた。

13代将軍・足利義輝が暗殺されて、2年が経っても、

征夷大将軍の座は空いたままになっており、

義輝の弟・義秋(義昭)がその座を狙っていたものの、

力のない義秋に味方するものは、少なかった。

義秋は京から遠い越前国の朝倉義景の庇護下にあったのだが、

朝倉に天下への野心などなく、

武田信玄上杉謙信も上洛できない状況にあった。

横顔は波打ち際へ辿り着く  森田律子

京に上り松永久秀三好三人衆を討とうとする者がいないことに、

業を煮やした義秋は、全国の大名に書状を出し、

上洛の供をするように命じるのだった。

その書状が小寺政職のもとにも届くと、

政職はまんざらでもない様子を見せる。
     よしとし
小河良利は小寺の名が遠く越前にいる義秋の耳にまで届いている

と喜ぶが、実は、職隆のもとにも同様の書状が届いていた。
                                      ながやす
※ 三好三人衆=三好長慶の部下であった長逸・政康・友通の3人をいう。

 長慶の死後、三好家の後継である義継が幼年であったため、

 その後見役として、この3名と重臣・松永久秀が台頭。

 将軍・義輝を殺害して以降、政権の主導権をめぐって,

  久秀と分裂闘争を起こした際、
東大寺が炎上した。

 信長の上洛に反発して抵抗するも、あえなく敗退する。


うっかりとタブーに触れた昼の月  合田瑠美子

政職は、義秋からの書状が職隆にも届いていたことを知り、

職隆を警戒するようになっていった。

「将軍までもが殺される下克上の世に、何があってもおかしくない」

と政職は考えたのだ。

まして黒田家の力は先代の重隆より領民に慕われており、

有事にはすぐに兵を集めることができる。

職隆のためなら命を惜しまないという兵がたくさんおり、

政職はそれを恐れたのだ。

乱世のしるし火星がよく光る  河村啓子



長年、光の読み方は "てる" とされてきたが、最近(平成25年10月)

"みつ" だったことが圓應寺(福岡)に残された過去帳の略伝から分っている。

「櫛橋 光」

この頃、官兵衛はと結婚する。

官兵衛がいつ結婚したかは「黒田家譜」に明記されていない。

永禄11年(1568)12月3日子息の松寿が誕生した記事が突然みえる。

そして、これより以前に播磨国の志方城主・櫛橋伊定の息女・幸圓

娶ったと記されている。

このとき官兵衛23歳、幸圓は16歳であったという。

この記述を信頼するならば、二人のの結婚はもっとも早い場合、

永禄11年初頭頃ということになる。

幸圓は才色兼備のすばらしい女性で、

体格は官兵衛よりも大きかったといわれている。
                                           
また名前は幸圓で知られているが、本名は「光」であると指摘されている。

しあわせを数える為の十の指  山口亜都子

光の実家・櫛橋氏ついて触れてみる。

志方城は、現在の加古川市志方町に所在する。

櫛橋氏はもと相模国大住郡櫛橋郷を本拠としていたが、

鎌倉時代に播磨国に移ってきたといわれている。

南北朝期に至ると播磨では赤松氏が勃興し、やがて守護に任命された。

櫛橋氏は赤松氏配下の奉行人として、草創期から仕えることになる。

しかし、戦国時代に至って赤松氏が衰退すると、

棚橋氏も自立化の道をたどった。

そして、有力な領主として、志方城を中心に威勢を誇っていたのである。

ちぎれ雲ゆずれぬことがあったのね  竹内ゆみこ



このように官兵衛も父・職隆と同様に、

地元の有力者の娘を娶ることになったのである。

ところで当時としては珍しいことに、

官兵衛は側室を迎えなかったといわれている。

二人の愛情は、仲睦まじいものがあった。

光に試練が訪れたのは、夫・官兵衛が

天正6年(1578)荒木村重の居城・有岡城に幽閉されたことである。

このとき黒田一族は、「御本丸」と称し、

職隆・休夢の支援を得て一致団結した。

光が推載されたことから、強く信頼されたことがわかる。

いつもより念入りにする薄化粧  青砥たかこ



「信長ー天下布武」
                                      もりなり
永禄9年(1566)竹中半兵衛安藤守就が稲葉山城を占拠後、

加治田城主・佐藤忠能加治田衆を味方にして中濃の諸城を手に入れ、

さらに西美濃三人衆を味方につけた信長は、

ついに翌永禄0年、斎藤龍興伊勢長島に敗走させ、

織田信長は33歳で尾張・美濃の2ヶ国を領する大名になった。

※ 西美濃三人衆=戦国大名の斎藤氏の重臣である稲葉良通氏家直元

 安藤守就のこと。不破光治を加えて四人衆とすることもある。

 義龍の代に斎藤氏を離反して信長に仕えた。

大刀で地獄極楽裏返す  筒井祥文


この美濃平定の後、信長「天下布武」の印を使い始めた。

天下布武とは日本全国を武力で統一するという意志を示したものである。

この意志を表わしたものが美濃(井ノ口)を、

「岐阜」という名称に改めた点である。

「岐」は天下を治めた周の文王が、

最初に立ち上がった「岐山」に倣ったもので、岐阜の「岐」を使うことは、

信長も文王のように、「日本を統一する」という意志を示したものなのだ。 

この美濃平定の直後、
       おおぎまち                                   りんじ
信長は正親町天皇から朝廷への奉仕を要請する綸旨を受けた。

翌永禄11年には足利将軍13代・義輝の弟・義昭を奉じて上洛戦を敢行し、

義昭を15代将軍の座につけると、四方へ攻略の手を伸ばす。

ドミノ倒しのように諸勢力が信長になびき、

雪だるま状に織田支配圏が広がりつつあった。

ぎんなんの散る日は寒い日のしるし  墨作二郎

一方、職隆はいよいよ新しい時代が動き出すと予感し、

「新たな流れについていくには新たな人材に交代するのが一番良い」

と考え、信長よりもひと回り若いながらも、

同じ時代の人間である官兵衛に将来を託し、家督を譲ったのである。

官兵衛22歳であった。

土鈴にはカシューナッツと陰陽師  井上一筒

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ピカソを越えるにはピカソしかいない  笹倉良一



小寺職隆は官兵衛に家督を譲るまで御着城主小寺政職に仕え、

筆頭家老として黒田家隆盛の礎を築く。

父・重隆が目薬を売って財をなしたため、家柄や血筋にこだわる

重臣たちからは「目薬屋」と囁かれるが、実直に務めを果たして、

主君の信頼を得る。

「官兵衛の父・職隆」

黒田職隆はのちに、父・重隆とともに姫路にやってきた。

しかし、周辺には中小の領主が群雄割拠しており、

なかなか争いごとが絶えなかったという。

職隆は思慮が深く武勇もあったので、

じきに彼らの領主は、職隆を主君として仰ぐようになった。

その後、職隆は御着城主・小寺政職の配下に属した。

各地の戦いに出陣し、多くの軍功を挙げたと伝わる。

政職は職隆の軍功を称え、厚く遇したという。

ドブ板を鼬になって越えて行く  井上一筒

政職は明石正風の娘を自身の幼女に迎え、職隆のもとに嫁がせた。

明石氏は現在の明石市に勢力基盤を置いた有力な領主である。

そして、二人の間に誕生したのが、官兵衛である。

職隆の家ははじめ貧しかったが、だんだんと富むようになってきた。

職隆は天性慈愛が深く、人を恵み、飢えて貧しい者を救おうとした。

そして大きな長屋を二軒建てると、飢えた人をたくさん集め、

道で非人に出会うと「私のところに来なさい。助けましょう」

と言ったので、多くの飢えた人が集まった。

職隆は、人々に食事や衣服を与え養ったのである。

これは、「黒田家譜」にある職隆の人となりを示す一文である。

生きていくため触角を手入れする  高島啓子



後世に編まれた「黒田家譜」の記述によるもので、

丸々信じるわけにはいかないが、少なくとも優しい人柄であったようだ。

これだけでなく、職隆の評価は、

「職隆の人となりは温和にして慈愛が深く、

  正直にして義を守ること剛毅である。

  人品は他人に勝り、善行も多い」

とまで記されている。

座ってるただそれだけでいぶし銀  和田洋子

 ちなみに「黒田家譜」では、職隆は政職に仕えたとあるが、
           のりもと
実際はその父の則職の代から仕官したもんとと考えられる。

その活動が天文年間の「鶴林寺文書」に職隆の書状があり、

則職の意向を伝えたことが認められる。

職隆が作成した算用状では、黒田姓を用いており、

永禄元年(1558)の時点において職隆は、未だ自立的な様相を残していた。

したがって、職隆が小寺姓を用いるのは、

則職が亡くなって政職が家督を継いで以降のことといえる。

算用状=年貢の収支決算書

オクラほどの粘りが性に合っている 下谷憲子



政職が小寺家の当主となった時点で、

職隆は、小寺氏の完全な配下に収まった。

やがて政職から「職」の字を与えられるまでになり、

職隆の代に、黒田氏は小寺氏の重臣の地位を築くのである。

また職隆は、小寺姓をも与えられるほどであるから、

有能であったとことは確かである。

そお点において「黒田家譜」が職隆を賞賛するのは、

多少表現が大袈裟であることを除けば、信用してよいだろう。

また奉行人としては、長浜職秀とともに連署奉書を発給するなど、

小寺氏家中の中心にあった。

一方、職隆の弟・休夢も、当初は政職配下にあった。

つまり、小寺氏家中の中核は、

黒田氏によって構成されていたことは明らかである。

削っても削っても大黒柱  森 廣子

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