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川柳的逍遥 人の世の一家言
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別れ歌歌うライオン橋のライオン  くんじろう

 
    徳冨蘇峰旧邸と蘇峰

「徳富蘇峰と徳冨蘆花」

徳富猪一郎(蘇峰)は新聞記者であり、歴史家、言論人。

文久3年(1863)1月25日熊本に生まれ、熊本洋学校から同志社に学ぶ、

が、明治13年、新島襄と衝突し,退学。

故郷に帰り,自由民権運動のかたわら、明治15年大江義塾を開く。

19年塾を閉鎖し上京、『将来之日本』を刊行し、

新進評論家として注目を集める。

20年「民友社」を設立、雑誌・『国民之友』を創刊、

青年層を中心に圧倒的支持を得る。

23年「国民之友」・「国民新聞」を創刊し日本言論界に不動の地位を築く。

この樽を出ると立派な酒になる  山本芳男

 
      徳冨蘆花の本

徳冨健次郎(蘆花)は小説家。

明治元年10月25日生まれで、兄・蘇峰とは5歳の年の差。

名作「不如帰」・「自然と人生」で文壇の異色作家として注目を浴びる。

ともに京都の同志社で学ぶが、

蘇峰、蘆花、この兄弟の不和は歴史上あまりに有名

ともかく二人の思想・活動は異なり、

とりわけ蘆花は蘇峰に一方的な葛藤と顕著な劣等感を抱いていた。

ひとりごとだけが出てくるボイスレコ  黒田忠昭

「蘆花の劣等感」-エピソード」

徳冨の名の兄・蘇峰は「富」(うかんむり)で、

蘆花は、わかんむりの「冨」の字で晩年まで冨で通した。

背景に、「蘇峰の富と区別したい、という気持ちがあったのは確か」

と蘆花文学館館長。

号に関して、蘇峰は故郷・熊本の名峰「阿蘇山」から取った雄大なもので、

蘆花は地味な「蘆の花」

「『蘆の花は見所とてもなく』と清少納言は書きぬ。
 しか
 然も其の見所なきを余は却って愛するなり」 

と随筆に記している。

粘りつく入道雲を背負い投げ  山田ゆみ葉

 
            蘇峰旧邸

「和解」ー「蘆花臨終の日まで続いた二人の断絶状態」

蘆花は、5歳年上の兄・蘇峰へ「告別の辞」を発表して絶交。

明治36年のことである。

何かにつけて兄に反発していた蘆花だが、

明治43年に一度、大逆事件の幸徳秋水らの減刑を願う、

桂太郎首相への嘆願書提出に蘇峰を頼った。

この嘆願は果たせず、

これ以後も兄弟のあいだには疎遠な状態がつづいた。

その後、14年続いた疎遠の二人が劇的な和解を果たすのは、

昭和2年、蘆花が群馬県伊香保で病床に就いたときである。

※ 大逆事件ー社会主義者・幸徳秋水らが、明治天皇暗殺計画を企てたとして、

     検挙された事件


わたくしの天使の羽根が生え換わる  蟹口和枝


      徳冨蘆花

病床の蘆花を見舞いに来た蘇峰が 「おまえは日本一の弟だ」 

と話しかけると、

蘆花は 「兄貴こそ日本一だ。どうかいままでのことは水に流してくれ」

と泣きながら訴え、

そして兄に

「後のことは頼む」

と言い残し逝ったといわれる 。

蘆花、58歳だった。

ありがとうを言う汽笛になりながら  八上桐子

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セロテープ千切れば朝のナイル川  井上一筒

 
        徳冨蘆花

『黒い眼と茶色の眼』

「黒い眼と茶色の眼」は、徳冨蘆花が18歳の頃の苦い恋の体験を、

46歳のときに、描いた小説である。

28年の時を経て小説にしたところに、蘆花の根にあるものをみる。

さて、徳冨健次郎(蘆花)は、2度同志社で学んでいる。

1度目は明治11年から13年まで、2度目は明治19年から20年まで、

そのとき、18歳だった。

このときに健次郎は、15歳の山本覚馬の娘・久栄と恋をする。

路面電車が綿毛の中を出て往った  岩根彰子

小説の舞台は主に京都と東京。

時は明治19年から2年間。

そこに同志社を創った歴史上の人物が多く登場する。

名前は、実在の人物と微妙に変えてある。

新島襄は憂いに満ちた優しい黒い眼をした飯島先生として、

八重多恵という名で出てくる。
                   ひさよ
茶色の鋭い眼をした女学生は寿代の名で、久栄

主人公にあたる健次郎は、敬二というように。

そして、健次郎の従兄弟・横井時雄は、又雄という名になっている。

京都府を剥して沖縄県に貼る  兵頭全郎



「物語概略」
 
時は夏休み、京都にいる又雄を訪ねてやってきた敬二が、

梨木神社筋向いの東桜町にある又雄の屋敷で初めて、

寿代という女学生と出会うところから物語は始まる。

その後、又雄は、木屋町三条上ル東側に移るが、

近くの河原町に、寿代が父親と住んでいる家があり、

色々な祭事や緒用などがあって、

敬二と寿代の二人が顔を合わす機会が増えていく。

そして、しだいに敬二は寿代に惹かれていく。

ここまでは水玉ここからは谺  赤松ますみ

やがてクリスマスが過ぎ、ある日、熊本から来ていた従兄弟の次平が、

敬二に、「寿代は、あゝたに恋しとる…どうすったいな」 という。

敬二は寿代の気持を知り、

「吾が未来の妻」、「君が将来の夫」と書いた手紙を寿代に送った。

ところがこの手紙の一件が、又雄や飯島先生に知れるや、

「皆、怒っている」、という噂が伝わってくる。

そこで敬二は寿代を南禅寺に呼び出す。

やがて三門に人力車が止まり、

紫の袴に空色の洋傘を開いて寿代が降りてくる。

二人は天授庵の庭に入り、そこで敬二は別れ話を切り出すつもりでいた。

大騒ぎただれた月の後始末  酒井かがり

そこへ突然、又雄が寺にやってきて、二人を見つけると、

「なんという不都合な…

 妙令の女子を誘って野外において密会したることはよくない」 

と叱りだす。

「成業後なおその感情に変りなくば別問題であるが、

  今日の所為の如きは、全然論外である」 

と言うのだ。

敬二は熟考の末、寿代さんには、

「彼女から来た手紙を返し、彼女からは自分の手紙を返してもらいます」

と無条件に白旗を揚げた。

白線はむごい逢うのに許可がいる  武智三成

 
          蘆花文学館

しかし、敬二は同じことを二回くりかえす。

一度は二人で梨木神社の東側のまん中の寺で会い、

寿代に、「プロミスをリストアする」、つまり約束を復活させる旨を伝える。

また又雄に叱られる。

「リーズン(理性)をもってパッション(情念)に打ち克つでなけりゃいかん」

敬二は、素直にこの忠告を受け入れた。

もう一度は、

敬二が夏休みになって東京に移っていた両親のもとに出かけた時のこと。

兄も近くに事務所をかまえている。

隣の霊南坂教会には、小﨑弘道が牧師をしており、

本郷教会には海老名弾正がいた。

敬二は寿代に手紙を書く。

「あゝなんの日か、おん身を手をたずさえてこの游をなすを得んや」

そして、「君が至親の夫」とつけ加えて投函した。

私の庭で熟していく童話  合田瑠美子

そこへ旧友を訪ね又雄が上京、友とは歓談するが敬二に対しては、

「あんたまた詐うそを云いなはったな」 と叱った。

京都へ帰って敬二は、いよいよ「破約」を決意する。

「清滝へ行って静かに考えます」

しかし学業が手につかず、旅館の支払、送金の遅れ、金策、借金、

月謝滞納、処分の警告など、難題が次々やってくる。

学業の遅れと落第の恐怖、

相国寺で見た首つり自殺をしていた男の想起などなど、敬二を襲う。

青蜥蜴こころ閉じたり開いたり  嶋澤喜八郎

彼は飯島先生にも失望されたと思い、先生に遺書を書き置きし、

京都を脱出。

あてもなく、ただ西に向かい、古い自分の死と、

新しい自分の生を求めて旅に出る・・・・。

というところで物語は終っている。

エピローグのページがあって、その後、何年かして飯島先生が亡くなり、

寿代の父も亡くなり、続いて寿代も病死した。

「茶色の目は23才で眠った」 と、

淡々と、しかし紙背に反省と悔悟の念をこめて、綴られている。

風ラララそちらは掃除用具入れ  筒井祥文

 
神戸女子大・成瀬記念講堂
 
『黒い眼と茶色の眼』の暗号ー解説

                 児玉実英 (同志社女子大学名誉教授・元本学学長)

敬二は又雄さんに3度ウソをつきました。

これはペテロが、鶏が鳴くまでに3度主を裏切るルカによる福音書の場面を

踏まえていると思われます。

それから寿代は、

「紫の袴に空色の洋傘」をさしてしばしば敬二の前に現れますが、

青い色はマリアの色です。

また敬二と寿代や又雄さんの間に立って、

敬二に強い不信感を抱かせてしまう次平は、

最終的には和解するのですが、ユダのイメージと重なっています。

逆光の銀杏飴さん持ってます  藤本鈴菜

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焼けあとにもきっとやさしい芽は出よう  森中惠美子



      若松賤子

明治期の翻訳家。本名松川甲子(かし)。通称・島田嘉志(かし)

会津若松市の生れ。

「会津の女」⑥-若松賤子

戦争によって犠牲を強いられるのは、

つねに女性や子どもたちである。

新政府軍が会津若松城下に侵入してきた日の朝、
                 わかまつ しずこ
わずか5歳だった若松賤子(巌本嘉志子)は、

身重の母や祖母とともに戦火のなかを逃げた。

すでに城門が閉ざされて、入城することが出来なかったのだ。

軟風5ノット地図は砂丘を攻め落す  山口ろっぱ

入城を告げる割場の鐘の鳴るのが遅れたため、

城にかけつけても閉めだされた家族は、

やむなく若松郊外の農山村に避難するしかなかった。

はじめから避難した家族も含めて、

その数は一万人を超えていたと推定されている。

賤子の母は逃避行のさなかに妹・みやを産んだ。

乳飲み子を抱えて着の身着のままで山野をさまよい、

飢えをしのぐ日々がつづいた。

コチコチコチ時間は知らん顔である  太下和子

敗戦後、賤子たちがどこでどう暮らしていたのか、

その手がかりすらなく、賤子の母が明治3年に、

28歳で死去したと伝えられるだけである。

おそらく困窮と疲労から病死したのだろう。

父の行方も知れず、孤児同然となった賤子は、

横浜で貿易商山城屋の番頭をしていた

大川甚兵衛に引き取られる。

その時間には沈黙を手向ける  居谷真理子



フェリス女学院第一回から五回までの高等科卒業生。

前列中央が賤子。18歳で卒業した賤子は、母校で和文の教師を務めた。

その後、開校まもない「フェリス・セミナリー」(フェリス和英女学校)に入学。

13歳で洗礼をうけ、西洋的教養を身につけた知的な女性に成長する。

外人宣教師の訓育下に明治15年フェリス女学校高等科を卒業。

卒業後、母校の教壇に立つ。

この教師時代に文学部をつくって執筆活動をはじめる。

筆名の若松は「故郷の会津」にちなみ、

賤子は「神のしもべ」という意味である。

明治22年、明治女学校の巌本善治と結婚。

結婚後は明治女学校で教鞭をとるかたわら、

次々と児童文学の創作と翻訳を発表。

なかでも、アメリカのバーネット女史の『小公子』の翻訳は、

平易で美しい言文一致の文体で候文からの脱却を模索していた、

坪内逍遥、樋口一葉ら当時の文壇に多大な影響を与え、

長く読み継がれた。

四コマまんがのその先にある目覚め  服部文子

「われわれはきみのものならず、私は私のもの、夫のものではない。

  あなたが成長することを忘れたら、

  私はあなたを置き去りにして飛んで行く。

  私の白いベールの下にあるこの翼を見よ」

結婚式で賤子が夫・巌本善治に送った訳詩である。

まだ女性の社会的地位が低い封建的な時代、

賤子が自立意識と気概に満ち溢れていたことがうかがえる。

明治22年、明治女学校の巌本善治と結婚して教師をやめたが、

語学力を生かして、名作・『小公子』をはじめ、

多くの翻訳から創作を世に送った。

運のないさざなみばかりでもなくて  中村幸彦

翻案小説・《忘れ形見》1890

テニソンの物語詩の翻訳・《イナック・アーデン物語》ー1890

90年から92年には《小公子》(バーネット原作)の翻訳など,

いずれも子供の姿態を清新な口語体でとらえ,

彼女の仕事の頂点を示している。

明治16年ころ、肺結核を病いに犯される。

医療もままならず家事と育児と執筆の中で、病は進んだ。

明治29年2月、明治女学校が炎上した5日後に、

心臓麻痺にて没する。 享年32歳であった。

凶のみくじはコヨリにしておこう  山本昌乃

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逆光線即ち三十歳の乳房  時実新子 



「華族女学校玄関前の図」 山本昇雲画)
                         (画像は拡大してご覧下さい)

袴に靴着用の服装規定により緋袴と指貫を折衷して、


女袴・海老茶袴が考案され制服として定着。

女袴は多くの女学校に普及し、宝塚歌劇の学校など現在でも見られる。



「時栄の不貞」(再出)

明治18年、山本覚馬の家で「一寸むつかしいこと」ことが起きる。

それは、山本時栄と覚馬の2人が、

宣教師・グリーン牧師の洗礼を受けて少し後の出来事である。

ある日、妻の時栄が体調を崩したため、

覚馬は医師・ジョン・カッティング・ベリーを自宅へ呼び、

診察してもらうことになたった

診察を終えた医師・ジョン・カッティング・ベリーは帰りかけに、

覚馬に「おめでとうございます。妊娠5ヶ月です」と告げた。

はてさて冬のはじめの朴葉味噌  大西泰世

その言葉を聞いた覚馬は、思わず、「覚えが無い」と驚いたため、

時栄の不貞が発覚したのだ。

覚馬は時栄の罪を許したが、八重は、

「臭い物に蓋をしては行けない。全てを明らかにする」

として、時栄を糾弾した。

結果、八重が時栄を追い出す形となり、明治19年に離縁に発展する。

きっと黒く残る女ののど仏  森中惠美子

 

「不義の後始末」・月岡芳年

東京日日新聞・発信錦絵(妻が夫の頬を切りつける)

【ついでに】

明治13年7月17日布告「姦通罪」

「有夫ノ婦姦通シタル者ハ 六月以上二年以下ノ重禁錮ニ處ス、

其相姦スル者亦同シ

此條ノ罪ハ本夫ノ告訴ヲ待テ其罪ヲ論ス、

但本夫先ニ姦通ヲ縱容シタル者ハ告訴ノ效ナシ」
   
(夫のある女子で姦通した者は、6ヶ月以上2年以下の重禁錮に処する。

その女子と相姦した者も同様とする。

本条の罪は、夫の告訴がなければ公訴を提起することができない。

ただし、夫自ら姦通を認めていた時は、告訴は効力を有しない)

(昭和22年10月26日廃止)

時効まで笑ってるのが女です  森田律子

 

同志社女学校のダンス教習風景

「明治の女性」

幕末・明治に来日した外国人は、当時の日本女性をどうみていたか。

彼らの多くは、当時の日本女性が、アジア圏、イスラム圏などと比べて、

高い地位にあるとした。

長崎海軍伝習所の教官を務めていたオランダ人・カッテンディーケは、

日本女性が、

「一般的に非常に丁寧に扱われ、

女性の当然受けるべき名誉を与えられている」

とし、彼女らがヨーロッパの婦人のように出しゃばらず、

表面上は男より下の地位に甘んじているが、

「婦人は決して軽蔑されているのではない」 と観察している。

本当に静かに桃は熟れました  河村啓子

 

食事をする女性たちの古写真 (明治13年)

また明治6年に来日したイギリスの日本研究家・チェンバレンは、

「下層階級においては、中流階級や上流階級におけるほど、

女性の服従が実行されたことはない」 と見た。

もっとも、なかには否定的な意見もあり、実際に日本女性が、

「三従」に縛られていたとする証言もあるが

多くの外国人の目に、

当時の日本女性の地位が高いと映っていたことは注目に値するだろう。

※三従ー結婚前は父に従い、結婚後は夫に従い、夫の死後は子にしたがいう」

それとなくはんなり入れておく袂  みつ木もも花

 

東京女子師範学校の男袴姿の生徒(明治10年)

「当時の日本女性の魅力」

特に彼らを魅了したのは、若い娘たちだった。

幕末に「サムライ」、「ハラキリ」、「ローニン」という日本語が、

当時の欧米諸国の新聞に見られたことはよく知られているが、

実は、「ムスメ」 も同様に、

日本の若い魅力的な女性を表わす言葉として、海を渡っていたのだ。

明治初期の駐日ドイツ公使・ブラントによると、

「ムスメは日本の風景になくてはならぬもの」 であり、

「日本の風景の点景となり、生命と光彩を添える」 ものだという。

また、プロシア艦隊の艦長・ヴェルシーナにいたっては、

日本女性が全般的にかわいいので、

「日本全土の全体にほれこんでしまいそうだ」 とまで感じたという。

仮の世ながらさりながらこぼれ萩  和田洋子

 

カッテンディーケ肖像画

しかし、少数派ながら、こちらも否定的な証言がある。

前出のカッテンディーケは、

「心から美人だと思った女は数名に過ぎなかった」 とし、

オーストリアの外交官・ヒューブナーも、

「日本女性の顔は端正とはいえず、決して美しくない」 

と証言している。

ただし、そんなヒューブナーでも、日本女性は、

「陽気で、純朴にして淑やか、生まれつき気品にあふれている」

から、見た目の問題はまったく欠点にならないとしている。

フクロウが書いたレポートかもしれぬ  筒井祥文

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この糸が切れたら風になるつもり  河村啓子



鍋島直大と鍋島胤子

鍋島直大は維新後明治政府に出仕しイタリア全権公使などを務めた。
                            たねこ
「鹿鳴館の女たち」⑤-鍋島胤子
         なおひろ
佐賀藩主・鍋島直大夫人。結婚11年目の明治7年、

胤子は二人の幼な子を義母に預け、夫の渡欧に同行。

新たにヨーロッパでの生活が始まった。

ロンドンでの胤子は積極的にヨーロッパ文化を吸収した。

英語やフランス語、ダンスやピアノ、西洋刺繍や絵画も学んだ。

この時、油絵の練習のお供をしたのが、
                ひゃくたけかねゆき
外務書記官でのちの画家・百武兼行である。

佐賀藩出身の百武は、父の代から鍋島家に仕える身で、

直大の渡欧にも従者として随行した。

胤子と一緒に、画家・リチャードソンに油絵の手ほどきをうけた百武は、

絵心が芽生えたのか、その後、

「日本で初めて油絵で裸婦を描いた画家」 として名をはせる。

いわば、彼の画家としての才能を開花させたのは胤子なのだ。

風の子を風へ返した絵の時間  堂上泰女



「叢中の卵」鍋島胤子画

同時に胤子の画才も、「日本で最初に西洋画を学んだ貴婦人」

と百武に太鼓判を押されている。

夫妻は、その気品ある物腰から「プリンス・プリンセス・ナベシマ」と、

たたえられヨーロッパ上流社会との交流を深めた。

イギリスのヴィクトリア女王エドワード皇太子との謁見という

栄誉にもあずかり、約3年のヨーロッパ生活を謳歌した。

だが、帰国後、体調を崩した胤子は30歳の若さで亡くなってしまう。

額縁を出て子午線を通過中  岩根彰子



 鍋島栄子

結婚前、栄子は宮中に仕えていた。母の血を引いたのか

実子の伊都子(梨本宮妃)
皇族随一の美女といわれる美麗だった。

伴侶を亡くした悲しみの涙が乾く間もなく直大はイタリア公使に任命される。
                         ながこ
急遽、公家広橋家の令嬢栄子との再婚が決まり、

明治14年23歳の栄子は、単身直大が待つイラリアのローマに向かった。

肉感的な栄子は、洋装も似合い外人にもひけをとらなかった。

妊娠して体をしめつけるコルセットがきつくなると、

着物に切り替え、しっとりとした大和撫子ぶりを披露し、

ローマ社交界で日本女性の美しさが評価された。

渡欧翌年に誕生した長女には、

イタリアの都ローマで生れたことから伊都子と名付けた。

帰国後は、外国生活での経験を生かし鹿鳴館で花形となる。

群青の青より深い年でした  八上桐子



   渋沢兼子

実業家の夫を支える一方、兼子は鹿鳴館の慈善会などを推進し、

社会慈善事業にも熱心に取り組んだ。

「鹿鳴館の女たち」⑥-渋沢兼子

渋沢兼子の父・伊藤八兵衛は、

深川油堀の「伊勢八」と呼ばれる幕末の豪商だった。

水戸藩の金子御用達や、米やドル相場など、

博打的な投資で儲け、江戸一番の大富豪とうたわれた。

だが、明治に入って没落。

ついには破算し、12人の子どもたちも路頭に迷ってしまうのだ。

18歳で江州から婿を迎えていた兼子だが、

金の切れ目は縁の切れ目とばかり、

無情な婿はさっさと実家に帰ってしまった。

現実をせめて忘れるための花  松本としこ



自ら「芸妓になりたい」といって兼子が働き口を探していると、

芸妓ではなく妾の口があると紹介された。

その相手が渋沢栄一であった。

前妻千代をコレラで亡くした渋沢は43歳。

次女と長男はまだ幼く、女手が必要だった。

だが恩師の娘で糟糠の妻だった亡き千代を思うと、

再婚にはなかなか踏み切れない。

しかし兼子と接するうちに彼女を気に入り、後妻として迎えることにした。

偶然にも、渋沢家の屋敷は、

羽振りのよかった頃の実家、油堀の屋敷の近くであった。

幕末の豪商の娘から、新時代の実業家の妻となった兼子は、

博打的な強運の持ち主といえまいか。

大根おろしとちりめんじゃこの夫婦です  美馬りゅうこ

 

黒田清隆箱館戦争で新政府軍の参謀を務めた黒田は、

五稜郭開城後、頭を丸めて榎本の助命を嘆願した。

「鹿鳴館の女たち」⑦-黒田滝子

24歳の若さで亡くなった黒田清隆の妻・清は病死といわれたが、

実は、酒乱の黒田が、

「酔って妻を斬り殺した」という噂がまことしやかに流れていた。

酩酊した黒田が、妻の不貞を疑って刀を振り回し、

追いつめたすえの惨殺というのだ。

そんな黒田が18歳の深川芸妓・滝子に一目惚れ、

滝子は結婚を乞われるが、殺された妻の後釜に入るのだから、

決断は辛い。

暗がりで触れるアルキメデスの原理  森田律子

いったん、滝子は縁談を断るが黒田の盟友・榎本武揚が仲介に入り、

懇願されたため、断りきれなくなった。

明治13年、滝子は41歳の黒田と結婚する。

また黒田はつねにピストルを携帯していた。

条約改正に反対した井上馨の邸に、よった勢いで乱入したこともある。

酒癖の悪さは彼自身の出世にも悪影響を及ぼした。

酒が入るとあらくれ者に豹変し、

酔いが醒めると自己嫌悪に陥る夫をなだめすかすなど、

滝子も夫の酒乱ぶりには相当苦労した。

(明治21年夫が総理大臣に就任すると総理夫人として助力を惜しまなかった)

きみ嫁けりとおき一つの訃に似たり  大西泰世

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