忍者ブログ
川柳的逍遥 人の世の一家言
[127] [128] [129] [130] [131] [132] [133] [134] [135] [136] [137]
皆既月食もう蛹には戻れない 笠嶋恵美子



焼失前の岡山城天守(焼失前)   月見櫓
                (全て画像は画面をクリックしてご覧下さい)
「宇喜多直家の死」

天正9年(1581)11月になると阿波・淡路から官兵衛

鳥取から秀吉が姫路に帰着した。

官兵衛が阿波・淡路での委細を秀吉に報告している際、

秀吉がふと、「備前の宇喜多が・・・」と呟き、

そのまま黙ってしまった。

岡山城に備前・美作を領する宇喜多直家が、

重い病で臥せっているのだ。

この宇喜多直家という武将は、

戦国乱世の申し子といっても過言ではない、食わせ者であった。

尻尾揺らして薄ら笑いも嘘泣きも  オカダキキ
 

                                              権謀術数の限りを尽くし、その地位をつかみ取った男である。

そんな直家が亡くなれば、宇喜多家は中心を失う。

同時に、一族や家老がおのおの権力を言い立てかねない。
     しし
また、嗣子である八郎(秀家)はまだ幼く、

とても家中を纏めることなどできない。

ヘタをすれば、一族や家老の中からも、

毛利方に走る者が出るかも知れない。

秀吉はそれを危惧したのだ。

ラジオから見えなくなった空の色  くんじろう

直家の病状を聞いた官兵衛は、

「それ(直家の死)を機に」と切り出した。

「本営を岡山城に進めてはどうか」と提言したのだ。

そして、秀吉自身が八郎の後見役となり、

「その権威を利用して宇喜多家の指揮権を掌握してしまおう」

というのである。

そうなれば、岡山城が対毛利家の最前線基地となるだけでなく、

現地に城を持つ者が先鋒を務めるという、

織田家の軍法にも叶うことになるのだ。

仏飯とまるい会話をして生きる  岩根彰子



宇喜多氏築城時の石垣

まだ直家は死んでもいないのに、

秀吉と官兵衛は謀議を進めた。

間もなく直家は亡くなり、秀吉が八郎の後見役となった。

直家の死はしばらく秘匿され、

年があらたまった天正10年1月9日に、

その死が触れられている。

終点に着いたら降りるしかないか  清水すみれ

3月15日、気候がよくなったのを見計らい

秀吉率いる織田軍2万は、姫路を進発した。

そして4月5日、

宇喜多秀家が新しい主となった備前・岡山城へ入る。

こうして、本格的に毛利家との対決姿勢が整ったのだ。

一方、毛利家も指をくわえて見ていたわけではない。

毛利家の基本的な戦略思想は、草創者である毛利元就の、

「版図を守り中央に討って出ることを望まない」

というもの。

この遺訓を時の総司令官である小早川隆景は頑なに守っていた。

隆景の智略や合戦のかけ引きの妙、

采配の見事さは群を抜いている。

加えて、隆景の兄である吉川元春

多分に勇を好む性格であったのに対し、

隆景は勇に逸り無理をすることは、決してなかった。

引き出しが眼鏡市場になっている 合田留美子



 小早川隆景

だがここに至って隆景のような慎重な人物も、

毛利軍の全力を挙げて、

織田軍と戦わなければならないことを決意したのである。

そして、備中に配された毛利方の7つの城を守る城主を、

自らの居城である備後の三原城に招いた。

そして、夏には織田の大軍が攻め寄せてくるであろうこと、

その際には、備前の宇喜多氏が先導を務めるであろうことを告げた。

境目七城」毛利方と宇喜多方との間にあるためこう呼ばれた。
  (宮地山城・冠山城・高松城・鴨城・日幡城・松島城・撫川城)


ふとある日触れるや知れぬ非常ベル  美馬りゅうこ

隆景としては織田方に与されることは仕方がないと考えていた。

ただ、
「戦闘中に寝返られるのは全軍の士気にも関わるので、
        きし
 今のうちから旗幟を鮮明にして欲しい」

ということを確かめるための招集であった。

というのも備中・7城の城主たちは、

全員が毛利家譜代ではなかったからだ。

釣り糸の先に孤独をぶら下げる  荻野浩子



  清水宗治

結果は、全員がこのまま毛利に従う、ということになった。

中でも7城の忠心となる備中・高松城を守る清水宗治は、

典型的な外様でありながら、

最初から勝算は度外視して毛利方に与することを決めていた。

総大将の毛利家を筆頭にして、

中国勢にはこうした律義者が多かった。

投げつけた言葉が山彦でかえる  山本昌乃

拍手[5回]

PR
戦前のキツネ戦後のきつね汁  井上一筒



  最後の酒宴

「絵本太閤記」で描かれた鳥取城落城。

城兵の命と引き換えに吉川経家の切腹が決まり、

秀吉から贈られた酒肴で別れの宴を催す。

「鳥取城の戦い」

鳥取城の開戦の前年の秋、鳥取城の周辺には

官兵衛に派遣された若狭国の商人などが頻繁に姿をみせ、

収穫したばかりの米や穀物を時価の数倍の高値で買い取っていた。

このとき金に目が眩み、

城内の備蓄まで売ってしまう不届き者がいたという。

それこそが官兵衛のねらいでもあった。

さらに官兵衛は、鳥取城を包囲する直前に念をいれて、

付近の農村を襲って、ことごとく焼き払い、

自宅を失った農民たちが城内に逃げ込むように誘導した。

削除キー押しても眼裏に残る  上嶋幸雀



   鳥取城城門

官兵衛は秀吉陣営に復帰すると、

天正9年(1581)6月には因幡・鳥取城攻めに加わった。

鳥取城城主は吉川経家で、約2千が立て籠もった。

この時、官兵衛の脳裏には、

死の恐怖と共にあった幽閉から生還した思い、

すなわち命の尊さが甦った。

「敵味方ともに、命を無駄にしない戦い方はないものであろうか」

およそ戦国武将らしくない官兵衛の胸の裡は理解し難い。

だが官兵衛は、「力と力衝突するという合戦の常識を破る」

ことが必要だと信じたのである。

本当のわたしに出会うまで歩く  阪本こみち

武器や将兵の数にたのむのではなく、敵を弱らせて落城させる。

結果的に双方の損害は少なく戦を終えられ、

合理的だと秀吉に進言した。

「因幡六郡の米を、古来、新米を問わず買い占めてくだされ」

兵糧攻めだ。

周辺の米を2倍3倍の値で買うことで、

「容易に買占めは成功する」と付け加えた。

米は、鳥取城には入らなくなった。

そればかりか、周辺の農民なども城に逃げ込み、

城内の人数は膨れ上がった。

第二章白いうぶ毛の乱反射  山口ろっぱ



   鳥取城古写真 (鳥取城フォーラム2013 シンポジウム)

『因幡国鳥取郡の一郡の男女は、

   悉く鳥取城中へ逃げ入って立て籠もった。

   下々の百姓以下は、長期戦の心構えがなかったので、

   即時に餓死してしまった。

   はじめは5日に一度か3日に一度鐘を衝くと、

   それを合図に雑兵が城柵まで出てきて、

   木や草の葉を取り、中には稲の根っこを上々の食糧とした』
                                                                      
時間の経過とともに悲惨さは,さらに増した。

餓死するものは止まるところを知らず、

痩せ衰えた男女は、柵際でもだえ苦しんだという。
                                                                         ([鳥取城地獄絵図」-【石見吉川家文書】)
水中花火に泡だったよと告げる  蟹口和枝


吉川経家
             あずさゆみ         すみか
”武士の 取り伝えたる梓弓  かえるやもとの 栖なるら”                                                                 (吉川経家ー辞世の句
まさに地獄絵図さながらに、

飢えの苦しみは三木城と同じ様相であった。

とにかく飢えを凌ぐために、

鳥取城内の人々は、口に入るものはなんでも食した。

『(秀吉軍)が鉄砲で城内の者を打ち倒すと、

   虫の息になった者に人が集まり、

   刃物を手にして関節を切り離し、肉を切り取った。

   身のなかでも、とりわけ頭は味がよろしいとみえて、

   首はあっちこっちで奪いとられていた』

もし早期に官兵衛の降伏勧告を容れていたならば、

そのような状況には陥らなかっただろう。

このような事態をうけ10月、

安国寺 恵瓊が秀吉の陣営を訪れ、鳥取城の開城を協議した。

そしてその月の25日、吉川経家は城兵の助命を条件に切腹した。

南無阿弥陀仏でタマネギ切る法師  中村幸彦

拍手[4回]

今ここに私が立っている事実  徳山泰子



    牛 車

平治物語絵巻に描かれる牛車

建保・承久年間(1213~1221)に成立した『大要抄』には

公家が使用する車に「紋」をつけたことが多く載り、
かてい              かざりしょう
嘉禎年間(1235~1238)に成立した『餝抄』には

久我家の紋章である「龍胆紋」が、

衣服の文様から採用された様子が記されている。


酔いざめに菜の花色の息を吐く  井上一筒



「家紋の歴史から」

聖徳太子の時代、調度や器物には装飾目的として、

様々な文様が描かれている。

その文様は平安時代になると、朝廷に出入りする公家たちが、

他家と区別する目印として、独自の文様を描くようになり、

家紋へと繋がっていく。

西園寺実季徳大寺実能といった公家が、

独自の紋を「牛車」の胴に付け、

都大路でその紋を披露して歩き回り始める。

人生のドラマの中の雨季乾季  美馬りゅうこ

当時、内裏に参内する公家が用いる牛車が、

都の大路を行き交う時に、大変混雑した。 

今で言う渋滞である。

公家たちは、そうした混乱を回避し、

また自分の牛車を素早く識別するために、

おのおの独自の「紋章」を車に施した。

譲り合う精神のはしりである。

いわゆる紋は、身分の上下を見極め、

優先順位を守る方法としても、役立てたのである。

これが一般的に「家紋」の起こりであると言われている。

ふりふりのついた話で騒がしい  北原照子

鎌倉時代になると、合戦の際、敵味方を識別する為に、

武士の旗指物などに自らの「しるし」(家紋)を付けた。

江戸時代には、下級武士や町人が家紋を用いることで一般に広まり、

冠婚葬祭という「晴れの行事」の中で衣服から調度品まで、

「家紋」が幅を利かせるようになる。

明治時代になると、身分規制がなくなったことにより、

庶民が紋服を着用したり、

墓石などに家紋を入れることが増える。

正念場脳の湿気を取り除く  上田 仁



「官兵衛の紋について」
        ふじどもえ
官兵衛「藤巴紋」には、二つの由来が伝えられている。

一つは、主君・小寺政職に小寺を名乗ることを許されたときに、

小寺家の家紋の使用を許されたというもの。「寛政重修諸家譜」

黒田氏が「黒田藤」(三つ藤巴)を使用する以前、

黒田孝高(官兵衛)は小寺氏から小寺姓を許されて、

小寺孝隆と名乗っていたこともあり、

小寺氏と同様の紋を使い続けていたことが記録されている。

小寺家の家紋の基本は「橘紋」「藤橘巴」も使われていた。

藤巴紋のもう一つの由来は、

荒木村重の有岡城に捕らわれたとき、

土牢から見えた藤の花に力づけられたために、

それを家紋にしたというものである。

守るものあり男に熱い血が流れ  奥山晴生



「家紋薀蓄」

 家紋に使われる主な図案は、

植物や動物、天体、文字、幾何学模様など、実に様々だが、

唯一、動物由来では、「鷹の羽紋」がある。

 大一大万大吉  

石田三成の紋で家紋に意味を語らせるあたりが、

天才派三成らしいところである。


大一大万大吉をどう読むか>だいいちだいまんだいきち

と読み意味は、


「一人が万民のため万民が一人のために尽くせば、

   世の中は大吉」となる。


 150年の歴史を持つルイ・ヴィトンの鞄のベースである

「星と花の柄」は、パリ万国博覧会がきっかけとして、

日本の家紋をモチーフに1896年考案されたもの。

 黒田家の藤巴紋は「藤紋」の変形である。

藤は長寿で繁殖力が高いことから「不死」の植物として、

縁起がいいとされた。

紋の形としては、「下がり藤」が基本だが、

「下がる」というのが縁起が悪いとされ「上がり藤」もつくられた。

 日本十大家紋と呼ばれる家紋がある。

ときどきは不真面目がいい生きるには  瀬川瑞紀



☆日本十大紋の多くは植物の図柄がもとになっている。
                              おもだか
桐紋(豊臣秀吉) 木瓜紋(織田信長) 沢潟紋(毛利)
                         かたばみ
橘紋(黒田・小寺・井伊) 蔦紋 片喰、柏、 茗荷紋、藤紋。

 武将は、木瓜紋のほかに「揚羽紋」や

「永楽通宝」の図柄の紋なども使用した。

また黒田家の家紋も「石持紋」など複数ある。

 明治期に軍刀の柄金具に銀細工で所有者の家紋を入れるなど、

当時盛んだった国粋主義や家意識の表象として多く用いられた。

現在でも、ほぼ全ての家に一つ以上の家紋が定められており、

冠婚葬祭などで使用され続けている。

大空を飛んで私の今である  森田律子

拍手[4回]

救命具ないのに沖が呼びにくる  清水すみれ


『太平記英勇傳・岩成主税助左道』-三好三人衆

「小寺政職陥落」

東からの信長の勢力が日の出の勢いで押し寄せ、

西からは毛利氏が台頭してきた播磨国は、

両勢力の緩衝地帯となっていた。

しかし信長が石山本願寺との抗争で播磨への進攻が、

足踏み状態だったため、毛利氏の調略の手が伸びていき、

播磨の小領主たちは、どちらに就くか右往左往していた。

空へ向けた人差し指を回す神  山田ゆみ葉

右往左往イコール即領土は乱れ、下克上ありき侵略ありきで、

播磨は赤松氏、小寺氏、明石氏、櫛橋氏、別所氏などの勢力が乱立。

それぞれ独自の動きをとるようになる。

その中に小国大名のさまざまな生き様が見えてくる。

秀吉と意地で戦った光の兄・櫛橋伊定、光の姉の夫・上月景貞

当初織田方についていたが、時の流れを読み違えた別所長治

毛利につくか織田か、狡猾に生き延びた備前・美作・宇喜多直家

代役ながら武士の本懐を全うした吉川経家

そして単純明快で優柔不断な御着城の小寺政職。 などなど。

広がってゆくほころびをさてどうします  山本昌乃



「小寺政職の場合」

天文14年(1545)小寺則職より家督を引き継ぎ、

御着城城主となった政職は、播磨国内での勢力を着実に拡大していく。

官兵衛職隆のらの優秀な人材を得て、

置塩城の赤松氏の勢力を後退させるなど、

自立した大名としての途を邁進していくのである。

そして、東播磨の別所氏と並ぶ西播磨の戦国大名に成長を果たす。

盆栽が枝葉広げる夢を見る  片山かずお

やがて、東から織田、西から毛利の勢力が伸びてくると、

官兵衛の助言に従って一旦は織田方に付いた。

その後、毛利氏の浦兵部宗勝が率いる毛利軍五千を千の兵で撃退し、

信長から感状を与えられる。

にもかかわらず、三木城の別所長治の寝返り、

有岡城の荒木村重の反乱、などを目の当たりにすると、

気の弱い、優柔不断な政職の心は揺れ、

信長も官兵衛をも裏切る決断をする。

クレヨンぽきぽき泣ける力はどのあたり  菊池 京



政職の唯一の戦さ碁石将棋

天正7年(1579)11月、城主・荒木村重が不在となった有岡城は、

城兵が織田軍の調略に応じ、落城。

天正8年に三木城が、落城し、御着城も同年に、落城。

政職は英賀を経て毛利氏の備後国・鞆の浦のもとへ落ち延びる。

その鞆の浦への流浪中、信長にひたすら謝罪を繰り返したが、

信長は政職の裏切りを許さなかった。

政職はそのまま備後の鞆に住み、天正12年5月にその地で没した。

政職には嫡子・小寺氏職の他に、女子数人の子供が居たが、

政職の死により、大名としての小寺家は滅亡。

逃げ道のタンポポまでも踏みつける  河村啓子


  官兵衛
           うじもと     いつき
政職の嫡男・小寺氏職幼名・斎)も父に付いて毛利領に落ち延びた。

政職が備後の鞆で死没後、官兵衛は氏職を不憫に思い、

「小寺政職は不義によって流浪し、死んで小寺家は滅びました。

息子の氏職を引き取り養育したいので、氏職の罪は恩赦して欲しい」

官兵衛の希望を聞いた秀吉は、

かって官兵衛を裏切り、幽閉へと追い込んだ張本人をまないばかりか、

昔の恩を忘れない志に感心し、その願いを聞き入れた。

人々もまた「命の危機にさらされたにも拘らず、

旧悪を忘れ、なんと情の深いことか。

恩をもって仇を報ずとは、このことである」と関心した。

馬の涙も馬の笑顔も知る男  福尾圭司

まもなく官兵衛は養育のため筑前国に屋敷を氏職に与えている。

その後、氏職は「有庵」と称して黒田家の客分となり、

子孫は福岡藩士となって存続した。

「竹中半兵衛の遺言」戦国武将への警告。

【武士は名こそ惜しけれ、義のためには命も惜しむべきはない。

 財宝など塵あくたとも思わぬ覚悟が常にあるべきである】

白というその一点の毅然かな  徳山泰子

拍手[4回]

予言者はヒゲ蓄えて遠く見る  オカダキキ



   諸葛亮
         (画面をクリックすれば大きくなります)

勝利をもたらすために策を練り、主君に忠実に使え、

時に対等に意見する。

影で人臣を導く片腕の存在、それが「軍師」である。

官兵衛もまた有岡城救出後、人格が入れ替わったかのように、

天下人も恐れるほどの才知を駆使し、本物の軍師として歩き始めた。

その軍師の原点にいるのが、「諸葛亮」である

職人の頂点を知る鉋クズ  きゅういち

諸葛亮」

字は孔明。

劉備に仕えるまでその生活ぶりは晴耕雨読で目立つことはなかった。

        しばき
ただ友人の徐庶や司馬徽らがその才能を認め、
がりゅう
臥龍と呼んでいたように知る人ぞ知る賢人だった。

身長8尺の偉丈夫だった。

江戸時代の作家が竹中半兵衛を彼になぞらえるなど、

日本にも大きな影響を与えた人物である。

臥龍=目覚める前の龍。

時計は止められるが時は止められぬ  岡田陽一

「軍師のルーツ・諸葛孔明」



「饅頭で崇りをを鎮める」

遠征の帰り、荒れ狂う河を見て、生贄の風習をやめさせて

饅頭を作って代わりに供え、氾濫を鎮めた。


後漢時代まで、君主は軍師を文字通り「師」と仰ぎ、

進んで陣営に招いた。

諸国に名を知られる有能な人物を軍師として招くことだけでも、

一目置かれ、それはステータスにもなったのである。

それだけに、君主と軍師の関係は、主従関係ではなかった。

むしろ対等に知覚、時に軍師は賓客として遇されることもあった。

一寸の虫が瞬く千里眼  真鍋心平太



「三国志演義にみる孔明の活躍」

「三顧の礼」の折、孔明は劉備に対して天下を三つに分けて納める

「天下三分の計」を示した。劉備はこれに沿って蜀の国を占拠、

曹操、孫権と並び立ち「三国時代」の到来につながった。

しかし「三国志の時代」(184~280)になると、

君主と軍師は主従関係を結ぶようになる。

軍師は君主に対して忠節を尽くし、懸命に働くようになる者も現われた。

その代表格が 諸葛孔明 だ。

孔明は「三国」のひとつ、蜀を建国した劉備に仕えた軍師である。
            けいしゅう
西暦208年、劉備は荊州に住んでいた孔明を三度も訪ねた。

劉備は孔明より20歳も年上だが、彼を賢人と見込み、

自ら足を運んで誠意を見せたという。

孔明もそれを意気に感じて仕官を決意した。

これが故事に残る「三顧の礼」である。

本物は四季の心を持っている  徳山泰子



「草船で矢を借りる」

赤壁の戦いの折、霧の出た夜に藁束で覆った船団で敵陣に迫り、

敵が放った矢を船に満載して帰陣した。

孔明は以後、生涯をかけて劉備に尽くすが、

当初は専ら、劉備が外征に出る際にその留守を預かり、
へいたん
兵站など後方を支援する文官的な役割が目立った。

曹操が中国の北半分を制圧し、荊州に攻めてきたとき、

孔明は劉備軍の代表として、孫権のもとに派遣される。

孔明は外交官としての才覚を発揮し、孫権との同盟に成功。

連合を組んで曹操軍を撃退した。

これが「赤壁の戦い」である。

兵站=軍の後方にあって作戦に必要な物資の補給や整備・連絡などにあたる。

何故だろうあなたが来ると風が立つ  山野寿之



   「空城の計」

司馬懿の大軍が迫ったとき、わざと城門を開け放ち、

楼台で琴を奏でて待った。敵は伏兵を恐れて撤退した。

その後、孔明は劉備の勢力が大きくなるに従って重用されるようになり、

後に与えられた役職が「軍師中郎将」「軍師将軍」というものだった。

これは軍事・政治の両面を取りまとめるという重用なポスト。

彼にしかできないことだった。

劉備が蜀の国を得るために出陣した時、

孔明は荊州で留守を預かったが、劉備が危機に陥ると、

張飛趙雲を従えて援軍として赴き、主君の危機を救った。

仮処分の首と明日の手打ち蕎麦  山口ろっぱ



諸葛孔明が記した「出師表(すいしのひょう)

孔明が皇帝の劉禅に上奏した文書。

弱小の蜀が魏に勝てるよう、


死ぬまで努力する決意を述べた名文として知られる。

223年、劉備が亡くなる間際、

「もしわが世継ぎの劉禅に才能がなければ、君が皇帝となりなさい」

と言われたが、

孔明はこれに感激し劉禅の手足となって働くことを決意する。

その後、劉備の遺志を継いで漢王朝復興をめざして戦い続け、

毎年のように自ら総司令官となって蜀軍を率い、魏に攻め込んだ。
                   しばい
魏への北伐は5度に及んだが、魏の名将・司馬懿に防がれて果たせず、

長年の無理がたたり、54歳で過労死した。

彼の存命中は毎年のように遠征を敢行しながらも国政を乱さず、

強国である魏を脅かし続けたが、その死から27年後、

蜀は衰退を続け、魏に滅ぼされてしまった。

決心はダイヤモンドの堅さほど  髙田美代子



「祈祷で寿命を延ばす」

晩年、自分の寿命が近いことを悟り、蝋燭を灯して祈りを捧げるが、

部下の魏延が誤って灯を倒してしまった。

孔明は、小説・「三国志演義」では、

神がかり的な能力を持った軍師として描かれるが、

史実における孔明は天才的な軍師としてより、

このように愚直なまでに、劉備や劉禅を補佐し続けた忠臣であった。
 
その後、「軍師」制度は時代が進むごとに形骸化し、

西晋では「軍司」という名前に転じた。

その役割も前線に出ている軍勢の監視役に留まり、

重要性が薄れ、やがて自然消滅したようである。

後世、軍師はその神秘性が誇張され「三国志演義」「水滸伝」

登場する神がかったような存在へと昇華してゆく。

それが日本にもたらされ、

今日イメージされる軍師像として定着するにたったのである。

そのモデルの代表格が、諸葛孔明なのである。

政治貧しく読み返す水滸伝   奥山晴生

拍手[5回]



Copyright (C) 2005-2006 SAMURAI-FACTORY ALL RIGHTS RESERVED.
忍者ブログ [PR]
カウンター



1日1回、応援のクリックをお願いします♪





プロフィール
HN:
茶助
性別:
非公開