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川柳的逍遥 人の世の一家言
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現役のままボリュームは絞らない  美馬りゅうこ



芳年武者旡類

当時はまだかけだしの毛利元就と激戦のすえ、

敗れた尼子氏再興のため、


「願わくば我に七難八苦を与え給え」

と三日月に祈る山中鹿之助。



「山中鹿之助」

山中鹿之助は、山陰地方をおさめていた尼子氏の家臣。

名は幸盛

一騎打ちで毛利氏配下のも猛将を何人も討ち取り、

「山陰の麒麟児」の異名をとる。

その尼子氏が毛利元就の謀略により永禄9年(1566)に滅亡する。

鹿之助ら尼子遺臣団は、京都・東福寺の僧籍にあった尼子勝久を、

還俗させ擁立し、尼子氏再興のため立ち上がる。

永禄12年、山名祐豊を頼り但馬国を経由し、

隠岐の豪族・隠岐為清の協力を得て、出雲忠山を占領。

その後、出雲の尼子遺臣の勢力を吸収、

「新山城」を落しここに本営を置く。

「原手合戦」で毛利軍に勝利するなど、

毛利氏の拠点・月山富田城を除き、

出雲一国をほぼ手中に収めるまでに勢力を伸した。

潮騒にしばらく心ゆだねよう  柴田園江



  尼中鹿之助

その後、尼子遺臣団の統制の乱れ、隠岐為清の離反、

そして「布部山の戦い」に敗北するなど衰勢著しく、

元亀2年(1571年)8月に新山城が落城する。

この「美保関の合戦」で、鹿之助は元就の次男・吉川元春に捕らえられ、

尾高城に幽閉されるも、監視の油断をついて脱出する。

これが鹿之助による尼子氏再興蜂起の一回目である。

頑な私にまぶす塩麹  松本柾子

その後、鹿之助らは京都に逃れた。そのとき信長に拝謁している。

尼子遺臣団は尼子氏再興の志を秘めて山名氏と組み、

因幡国を転戦、「甑山城での戦い」「鳥取城の戦い」を制し、

天正2年(1574年)頃には、因幡国の諸城を攻略し、

織田方の浦上宗景の助力もあって若桜鬼ヶ城・私都城の確保に至り、

一時的にも尼子氏を再興することに成功した。

ところが、毛利氏と敵対していた山名祐豊が、

信長に脅威を感じ毛利氏と手を組んだことや、

織田軍の支援を得ることができなくなったことで、

天正4年5月、鹿之助ら尼子再興軍は若桜鬼ヶ城を退去し、

因幡から撤退する。

尼子再興二度目の失敗である。

人間さまを信じられないのが辛い  大海幸生    



 絵本太閤記

中国勢上月の城を囲む

上月城は延元元年(1336)に築城された。

天正5年に秀吉軍の攻撃で落城後尼子勝久が入城している。

だが翌年には、毛利の大軍に囲まれて落城した。

その後鹿之助らは織田軍のもとで、尼子氏再興を目指すことになる。

明智光秀「丹波平定戦」織田信忠「信貴山城の戦い」に参加。

また信長の命令を受けて、秀吉が播磨国へ進軍を開始すると、

尼子再興軍もその行軍に参加する。

秀吉が毛利の拠点・上月城を攻略すると、

勝久・鹿之助らは上月城の守備をまかされる。

出直しのチャンス頂く春キャベツ  靏田寿子   

天正6年(1578)2月、三木城の別所長治が信長に叛旗を翻すと、

毛利軍はこれを機に吉川元春・小早川隆景らが軍勢を率いて、

播磨に攻め込み、4月には、上月城を包囲する。

「毛利軍が上月城を包囲した」 という知らせを受けた秀吉は、

荒木村重らとともに軍勢を率いて、上月城の救援に向かおうとするが、

信長より別所長治が篭城する「三木城の攻撃を優先せよ」

命令があり、上月城は孤立無援となる。

そして兵糧も底を突き、また兵士も戦意喪失しはじめ、

7月5日、ついに尼子主従は、同年7月5日毛利軍に降伏した。

撤退が始まる人間らしくなる  岩根彰子



阿井の渡しにある鹿之助の墓

降伏の条件として、

尼子勝久は切腹を命ぜられ、鹿之助は生け捕りとなる。

そして備後国鞆浦・毛利輝元の陣へ護送される途上の阿井の渡しで、

鹿之助は謀殺される。

この鹿之助の死によって尼子氏再興活動は完全に絶たれた。

【予談】(鹿之助の長男・山中幸元(鴻池新六)は父の死後に、

    武士を廃して、
大阪伊丹市で酒造業をはじめて財を成し、


    豪商・鴻池財閥の始祖になったという)

ブラックホールの傍にインターホンがある 岩田多佳子



 絵本太閤記

山中鹿之助VS品川狼之助の一騎打ち

【エピソード】

毛利氏による尼子氏の居城・月山富田城攻城戦のなか、

毛利輝元が、石見の兵を中心に編成した軍勢を引き連れ、

尼子氏の兵糧集積場(荒れ寺)に兵を伏せ、

山中鹿之助率いる尼子氏の軍勢に奇襲を掛けた。

ところが、鹿之助率いる尼子氏の軍勢による返り討ちに遭い、

輝元も殺されそうになる。

そのとき品川狼之介が現れ、周辺の敵を長剣で打ち払い、

輝元の危機を救う。


敵である狼之介の活躍に目を留める鹿之助。

狼之介が名乗りを上げる「拙者、石見の生まれ、品川狼之介」

鹿之助 「狼之介?」

狼之介 「左様。ただ鹿(鹿之助)を討つことのみを夢見て、

     古き名を捨て狼之介と名乗っておる」

鹿之助 「面白い、出られい」

荒れ寺の外で、狼之介と鹿之助の一騎打ちが始まる。

光り出すあなたが欠けて行く月夜  山口亜都子

幸盛(鹿之助)が先行して川に飛び込み、

将員(狼之介)は幸盛が川の途中まで渡ったところで

川に飛び込み、決闘の場所へと向かった。

将員は大弓に矢をつかえて川を渡ろうとしたため、

尼子軍の将、秋上伊織介(宗信)、五月早苗介、藪中荊之助は、

「一騎討ちの戦いに飛び道具を使用するとは、臆病者の所業だ。

 お互いに名乗りを上げての勝負なので、

 太刀による打ち合いで行うべきだ」

と大声を上げ抗議した。
                            約600m
しかし将員はその声を無視し、そのまま30間ばかり、

川を渡っていたため、たまりかねた宗信は、

弓に大雁股の矢をつかえて解き放ち、将員の弓の弦を切り落とした。

攻撃を阻止されたため将員は怒り、壊された弓矢を投げ捨て、

中州に上がると、大太刀を抜いて幸盛に切りかかった。

対する幸盛も太刀を抜いてそれに応じ、太刀打ちの勝負となった。

一時余り戦うと、しだいに幸盛の力量が勝り、

将員は受け太刀となり追い詰められた。

太刀打ちの勝負に不利を感じた将員は、

「取っ組み合いで勝負を決めよう」

と幸盛に提案し、幸盛もそれに応じたため、

勝負は組討へと変更になった。

組討勝負は、力で圧倒する将員が勝り、将員が幸盛を組み伏せる。

しかし組み伏せられた幸盛が、下から腰刀により将員の太股を2回抉り、

弱った将員を跳ね返してその首を切り討ち取ったため、

幸盛の勝利となった。

幸盛は「石見の国より出でたる狼を、出雲の鹿が討ち取った。
たらのき
             もとより棫の木は好物なり。我に続け」

と叫びながら味方の陣に帰還した。  『雲陽軍実記』

フィニッシュは地獄の釜へ真っ逆さま  新家完司    

『雲陽軍実記』に狼之助は、

「自分は抜群の大勇力を持ちながら、

 運悪くこれまで万人の目を驚かすほどの高名がない。

 尼子には、山中幸盛、立原久綱、熊谷新右衛門

 三傑といわれる人物がいるが、その1人なりとも出会い、

 一騎討ちの勝負をして名を後世に残したい。

 特に幸盛は軍智博学・勇猛兼備の者なので、

 討ち取れば比類の無い高名を得ることができるだろう」

と思い、毎日城を出て敵陣の様子を探っていたと独白する。

獺と鼬の暗闘は済んだ  井上一筒 

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真夜中にバケツの水を入れかえる  河村啓子

  

天正6年(1578)元日。

織田信長松井友閑を茶頭にして茶会を開催した。

この時代の茶の湯は政そのもので、信長の茶会に招かれることは、

織田家中で一歩抜きんでることにほかならなかった。

茶会に招かれたのは、

秀吉、信忠、光秀、村重、長秀、一益 ら12名で、

謙信に備える勝家は席に加わることが出来なかった。

茶会で秀吉がひと月で播磨を平定したことが話題になると、

秀吉は、「すべて信長の威光のおかげ」だと主君を立てる。

そんな秀吉は毛利攻めに際して、信長の出陣を願い出た。

対して信長は、荒木村重に本願寺との和睦を急かせると、

毛利氏を自ら叩き潰すと宣言する。

砂嵐と根気比べをする駱駝  高島啓子

村重は、石山本願寺の顕如に和睦を申し入れていた。

しかし身内を殺されていた門徒たちは、信長の卑劣さを憎み、

死ぬまで戦い続ける覚悟を決めていた。

顕如でも門徒衆を止めることは出来ない状態だった。

石山に留まって顕如の返答を待っていた村重は、

元朋輩と再会した。

旧友にも信長の非道ぶりをなじられた村重は、

逆に信長のやり方が嫌で、

気苦労が重なっているのではないかと労られる。

古い付き合いだからこそ、村重の心中を察するものがあったのだ。

すみません作り笑いの時間です  鳴海賢治    

まもなく石山本願寺・顕如から村重に返事が届いた。

本願寺は和睦には応じないという返答であった。

和睦しても、信長が門徒衆を皆殺しにすることを、

本願寺側は見越していたのだ。

和睦の失敗を聞いた信長は、「それなら滅ぼすまで」と声を荒げ、

村重には、本願寺が一区切りついたら播磨に行って、

秀吉の配下になるよう命じる。

屈辱的な命令をされた村重は、手柄を立てて、

ふたたび這い上がるしかなかった。

モリブデン前者の轍の踏み心地  井上一筒



『石山本願寺合戦』ー歌川豊宣画(明治16年)

「石山本願寺との10年戦争」

「天下布武」を目論む信長は、豊富な財貨を所持する石山本願寺に、

戦争資金の支援を求めた。

発展する流通社会のなかで、

街道筋の関所、運送業者、商品生産の元締め、流通市場などを

支配下においていた本願寺は、金銭に困ることはない。

いわゆる「金持ち喧嘩せず」で顕如は信長の求めに応じ、

五千貫を供与した。

それから、2年後の元亀元年(1570)9月、

信長は現在の大阪城辺りに位置する本願寺が所有する土地からの

立ち退きを求めた。

味方だと思い込んでいた敵の敵  笹倉良一

本願寺立ち退きには二つの理由が考えられる。

一つは、大きな経済的な基盤を持ち、武装した寺社勢力をなくす事。

権益を守るための寺社は、膨大な門徒宗がそのまま、武力となり、

また武装した僧兵や神人たちは、信長にとって氏族と何ら変わらない

「目の上のたんこぶ」だった。

一つは、信長はこの土地の有効性を知り、

何としても手に入れたかった事。

当時、摂津地方は満潮になると海流が淀川・大和川の奥まで逆流し、

雨が降れば一面水浸しの湿地帯になる。

摂津地方で唯一この石山の上町台地は高台になっており、

乾燥地帯であった。

またこの台地は淀川の河口に位置しており、京都の朝廷の牽制になり、

西国の大名を牽制できる絶好の地でもあったからだ。

地下茎を太らせながら風を待つ  前岡由美子   



天下布武とは、「七徳の武」をもって天下を治めるという意味。

七徳の武とは、「暴を禁じ、戦をやめ、大を保ち、功を定め、

民を安んじ、衆を和し、財を豊かにする」の七つを意味する。

信長のやっていることは、すべてこれらに逆行することだが、

これを達成する為には、「障害となるものは叩き潰すのみ」

何の批判があろうと、強行手段も止むを得ないと考えたのである。

こうして多くの大名が恐れていた聖域にも足を踏み入れた。

その内に一体となる天も地も  板野美子



一方、本願寺にとって信長の横暴はこれで終わるとも思えず、

信長への不信感が募らせていく。

そんな中、元亀元年(1570)、信長は石山本願寺の対岸に位置する

三好氏の野田砦と福島砦に攻撃を仕掛けてきた。

この砦を攻め落せば、信長の次の狙いは、「おそらく本願寺」

そう考えた本願寺の顕如は、

「危機である!」と門徒に決起を促した。

こうして本願寺と信長の10年戦争がはじまるのである。。

手を打つと怪しい雲がやってくる  森 茂俊

信長は、諸国に蜂起する本願寺一派の一向一揆の討伐に手こずったが、

天正4年(1576)安土城を築くと、ここを拠点として、

一向一揆の本拠地である石山本願寺を猛攻、悪戦苦闘の末、

本願寺の軍を石山城内に閉じ込めることに成功する。

そこで信長は、本願寺の四方十ヶ所に砦を築き、兵糧攻めにした。

大阪湾からの兵糧搬入も水軍で海を包囲した。

これに対し、本願寺方も五十一ヶ所に端城を構え、

長期籠城の構えをとり、安芸の毛利氏の支援を得て、

糧食を大阪湾から寺内に搬入させて対抗した。

極め球を持った男の背のゆとり  山野寿之

さすがに、本願寺を支援する毛利の水軍は強力であった。

そこで、信長は対抗策として巨大な鉄の軍艦を造り、

軍艦には大砲も装備した。

これが有名な信長の巨大鉄船である。

この軍艦は、さすがに毛利水軍を圧倒した。

そして天正8年(1580)正親町天皇が仲裁に入り、

信長は、門徒衆の命を取らないことを約束。
 
本願寺の顕如は、「石山からの退去・武力抵抗をやめること、

信心だけなら許すが、武力抵抗のみならず、

武装することすら許さない」という信長の条件を受け入れ、

本願寺を開け渡すに至ったのである。

もう少し酔えば桜を見に行こう  ふじのひろし

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酢味噌和えつまむと霧が濃くなった  森田律子     



赤漆塗合子形兜

櫛橋左京進は播磨城主の嫡男。

青年期は近習として小寺職隆に仕え、同僚の官兵衛をよそ者と侮る。

やがて妹・が官兵衛と結婚して義兄弟となるが関係は改善せず、

家督を継いでからも官兵衛と対立した。

さらにもうひとりの妹・が嫁いだ上月城を攻め落とした官兵衛に、

より深い遺恨を抱くようになり、

そのことが播磨を揺るがす動乱に発展する。

この左京進と官兵衛のエピソード。

ゾーンぎりぎりの男で我慢する  中村幸彦

「赤漆塗合子形兜」

永禄10年(1567年)、御着城の城主・小寺政職が櫛橋光を養女とし、

小寺家の家臣・黒田官兵衛と結婚させた。

櫛橋左京進は、この結婚に際し、

黒田官兵衛に「赤漆塗合子形兜」を贈られたといわれている。

この兜の特長は、お椀を逆さにしたようなユニークな形状で、

合子とは、蓋付の小型容器を意味している。
あかうるしぬりごうしかぶと
赤漆塗合子形兜を着用した官兵衛は、

戦場で「赤合子」と呼ばれ、敵方から恐れられたという。

ところが、櫛橋左京進からの贈り物とされる合子形兜は、

黒田の子孫である三代藩主・黒田光之が官兵衛を偲んで、

貞享5年(1688)に領内の具足師に依頼し作成されたものなのだ。

疑問符は続く明日も明後日も  岡谷 樹



「合子形兜の成り行き」

合子形兜の実物は、現在、岩手県盛岡市の歴史文化館が所蔵している。

なぜ、福岡から遠く離れた盛岡に、官兵衛の合子形兜があるのか。

元和9年(1623黒田長政が没すると、

新しく福岡藩主になったのが忠之である。

しかし、忠行は粗暴な性格でもあり、長政から廃嫡を迫られていた。

この事態を救ったのは、栗山大膳である、

大膳は血判した嘆願書を長政に送り、忠行を廃嫡にするならば、

家臣一同切腹すると申し出た。

そのような事情から長政は、後見として大膳を頼み、

死後に家督を譲るようにしたのである。

三角へゼムピン四角へフラフープ  和田洋子

ところが大膳が送った諫書が忠之の機嫌を損ね、

以来、忠之は大膳と距離をおくようになった。

寛永元年(1624)に新藩主についた忠之は、

譜代の家臣を退けて、新たに倉八十太夫らを登用した。

なんと一万石も与えている。

そして幕令を無視し、軍船・鳳凰丸の建造、足軽隊の増強は、

幕府のお咎めを受けることとなった。

水底にゆっくり溜まる不協和音  青砥和子  

家老の大膳は忠之を諌めたが、

却って忠行は大膳を殺害しようとした。

寛永9年大膳は豊後府内藩主・竹中采女正とともに、

江戸にのぼり、忠之が謀反を起こすと幕府に訴えたのである。

翌年の裁定により黒田家は存続し、

大膳は陸奥盛岡藩・南部家に預けられた。

いわゆる「黒田騒動」である。

こうした経緯を踏まえて、

大膳が所持してい合子形兜は盛岡に移ったのである。

官兵衛の形見といわれる合子形兜は、

正式には「銀白檀塗合子形兜」という。

涙こぼれます天地無用に願います  美馬りゅうこ

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障子から射すのがきっと未来です  清水すみれ            



       福原城本丸跡

「毛利との攻防の始まり」

信貴山に籠る松永久秀を攻め滅ぼした信長は、

毛利との直接対決を決断。

天正5年(1577)10月、秀吉を将として兵7千を西播磨へと進攻させた。

ただ、この秀吉播磨出陣前の9月、信長は官兵衛に人質を求めている。

それに応じて官兵衛は、嫡男の松寿丸を人質として信長のもとに預けた。

官兵衛は小寺政職の家臣でしかなかったが、

実質的に、小寺家を支えていたのが官兵衛であることを、

信長が見抜いてのことである。

秀吉を迎えた官兵衛は、自らの居城である姫路城を秀吉に譲り渡す。

一族は国府山城に移らせ、自らは姫路城の二の丸に詰めた。

いよいよ,5年に亘る織田軍の毛利との攻防がはじまる。

ぽろりんと生れた日から鬼ごっこ  菊池 京

秀吉の軍勢がやって来たとはいえ、

毛利氏の勢力圏内に近い西播磨の豪族の多くは、

信長に敵対する姿勢を崩さなかった。
                      すけなり          まさのり
なかでも作用城の福原助就、上月城の赤松政範などは、

毛利方の有力大名のひとり、備前の宇喜多直家の支援を受け、

あからさまに反抗してきた。

秀吉軍は11月、1千の兵で福原城(作用城)に籠る福原軍を包囲。

この福原城と同時に、4キロほど離れた上月城も攻撃している。

この陣には竹中半兵衛も参加、官兵衛との揃い踏みとなった。

「福原城の戦い」である。
                                           いしひっけつ
ここで、『孫子』軍第7にある兵法のひとつ「囲師必闕」の策を、

官兵衛は見事に活用している。

わたくしとまだやりますか泥試合  安土理恵          



              福原霊社

福原城跡・福原霊社には、頭脳明晰だった城主・福原氏を祀っている。

「福原城の戦い」

官兵衛の調略によっての播磨の大半の城主たちは戦わずして、

秀吉方になびいたが、作用城(福原城)と上月城だけは、

毛利氏に属す宇喜多直家の支配下にあるため、

徹底して織田氏の軍門に降ろうとはしなかった。

そこで官兵衛は、半兵衛とともにこれらの城を攻めることになった。

孫子の兵法・「囲師必闕の兵法」とは、

「囲師には必ず闕き、窮冠に迫ることなかれ」

と続き、

「敵を追い詰めても必ず逃げ道をあけ、

  窮地に追い込んだ攻撃をしかけてはならない」

というものである。

これは四方全部を囲んでしまうと「窮鼠猫を噛む」の状態となった敵が、

死にもの狂いで抵抗するため、

味方の損害がそれだけ増える危険性がある と教えているのである。

考える形で影が離れない  早泉早人

官兵衛はそれに倣い、福原城を三方から攻めた。
            すけなり
城主の福原助就をはじめ城兵たちは、

思惑通り、包囲のゆるい一方向から逃げてくる。

官兵衛は空けておいた逃げ道の先に伏兵を潜ませた。

そのため逃げ出してきた大部分の城兵たちが討ち取られたのである。

官兵衛に指示されてその場所に待機していた平塚為広は、

秀吉の勘気にふれて浪人の身となっていたが、

官兵衛のおかげで、見事手柄を挙げることができ、

秀吉の配下に復帰することができたというオマケまでついている。

(黒田家の記録「黒田家譜」には、官兵衛の計略、孫子の兵法・「囲師必闕」

  によって福原城(作用城)を落城させたと記されている。

  そして毛利に与し敗北した宇喜多直家は天正7年に織田方に寝返っている)

沈黙のしこりをついに笑わせる  岡内知香



福原則尚の肖像画福圓寺所蔵)

「福原助就」
                                           のりひさ
播磨国高倉山城主。本来、福原城主は福原則尚と伝わるが、

『黒田家譜』などは、福原助就が福原城主としている。

秀吉の中国遠征がはじまると、毛利と手を結んで抵抗したが、

官兵衛らの猛攻にあい平塚為広によって討たれたという。

『黒田家譜』では、城主・福原助就、城主福原則尚両名とも

黒田官兵衛の家来に討ち取られたことになっている。

が、地元の伝承では、福原則尚は戦死せず、

城に火を放って高尾山福円寺まで逃れ、

12月1日ここで自害して果てたと伝えている。 (『三日月町史』)

福圓寺には則尚の墓だけでなく、後世の人が想像して描いた肖像画もある。

国滅ぶ時も行列崩さずに  板垣孝志



      柴田勝家ー(太平記英雄伝)

【豆辞典】ー「手取川の戦い」

現在の石川県白山市付近を流れる手取川で繰り広げられた合戦。

信長の先発隊である柴田勝家と上杉謙信軍が矛を交えた。
                            ちょうつぐつら
畠山の居城・七尾城の重臣・長続連の救援要請に応じた信長は、

柴田勝家を総大将とする先発隊を派遣して、

自らも大軍を率いて加賀へ出陣した。

ところが柴田軍が進軍する途中、
                                ゆさつぐみつ 
以前から続連が実権を握ることに不満を抱いていた遊佐続光
ぬくいかげたか
温井景隆ら親上杉派が内応して、七尾城は落城。

その情報を手取川を渡りきったところで知った勝家は、

すぐさま撤退を命じたが、

満を持して待っていた上杉軍の襲撃にあい惨敗。

運悪く手取川の増水で逃げ場を失った柴田軍は多数の溺死者を出した。

謙信は関東情勢が気にかかっていたので柴田軍を追撃せず、

関東を平定した上で上洛しようと考えて、

居城・春日山城にいったん凱旋したが、その半年後に病死した。

川あかりだけを頼りに行きますか  酒井かがり

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木漏れ日は古い小さな椅子になる  河村啓子



三顧の礼ー(月岡芳年/玄徳風雪に孔明を訪う)

劉備、関羽、張飛が「軍師」孔明を迎える三国志の名場面・『三顧の礼』

江戸時代・「三国志演義」が日本に輸入されて民衆にも広く愛読され、

その名場面が錦絵にもなった。
                              (画像は拡大してご覧ください)

 
      諸葛孔明


「軍師の原点」

この世に、「軍師」という存在が初めて誕生したのは、
                        ちこう
遡ること紀元1世紀、西暦23年(地皇4年)と考えられている。

『後漢書』に、
かいごう
隗囂という君主が、方望なる人物を軍師として招聘したと記され、

彼が正式な形で、軍師の地位・肩書きに就いた史上初の人物とされる。
             かんきん  こうほぶん
同時代には、韓歆皇甫文が軍師の地位に就いていたという。

制度としては彼らが初めてなのだが、

それ以前にも、似たような地位に就いた人物はいた。

切株に父の帽子が置いてある  笠嶋恵美子


       太公望
                                                          りょしょう
有名な処では紀元前1100年頃に周の文王を補佐した呂尚(太公望)
      りゅうほう                           ちょうりょう
前漢の劉邦(紀元前200年頃)に仕えた張良などがいる。

とくに張良は、戦場で手柄を立てたことは一度もなかったが、
      いあく
「謀を帷幄のなかにめぐらし、千里の外に勝利を決した」 

と、主君の劉邦に評価されている。

帷幄=幕。作戦を立てる所。

そこから時代が少し下ると軍師は、よりハッキリとした形で現れる。

中国の後漢時代(25~220年)で、その末期が「三国志の時代」である。

飛び降りてよいかあなたのてのひらへ  むさし

 
      張 良

軍師を初めて制度化し、有効に使った君主といえば、
                                                 そうそう
三国の中でも最大の勢力を誇った「魏」の創始者・曹操である。
                                             じゅんいく
この曹操に仕えた軍師で、もっとも有名なのが荀彧だ。

彼は正式に「軍師」という役職についたわけではないが、

「わが子房(張良)が来た」

と曹操に喜ばれたほどの才知をもって、曹操の相談役を務めた。

戦争の際は同行せず、

曹操の留守を預かって、政務を代行することが多かったようだ。

曹操は窮したとき、戦場から手紙を出して彼に戦況を知らせ、

軍の進退を相談したほどだった。

沖凪いで沖の返事がいま届く  桑原伸吉
       じゅんいく       じゅんゆう         かくか  ていいく
曹操は荀彧の他に、荀攸をはじめ、郭嘉、程昱など、

複数の補佐役を、傍において重用し、

その参謀グループに「軍師祭酒」という名前をつけていた。

その筆頭が荀攸だった。

荀攸は荀彧の甥にあたるが、叔父とは異なり、

よく戦場に同行して、謀をめぐらせるタイプの軍師だった。

例えば呂布軍との戦いでは、水攻めを考案して曹操に提案し、

籠城した敵を追い詰め開城させた。

こだわってけやき並木のもたれぐせ  墨作二郎



        周 瑜
                               そんけん
同じ三国の一つ「呉」の孫権は、制度上「軍師」という職は用いなかった。

しかし特定の有能な人物に軍の全権を預け、

総指揮を任せるという活用の仕方をした。
しゅうゆ  ろしゅく  りょもう  りくそん
周瑜、魯粛、呂蒙、陸遜 などがそれである。

とくに周瑜は、「赤壁の戦い」で曹操軍を撃退し、

陸遜は、「夷陵の戦い」で劉備軍を撃退するなど、

いずれも国難に際して重要な働きをし領土を守り抜いた。

ひと口に「軍師」といっても、用いる人物や制度によって、

さまざまにその役割を変えたのである。

裏側の貌は見せない薔薇の艷  前岡由美子



   曹操の石像

【荀彧】 

涼やかな風貌を持ち、

若くして「王佐の才」(王者を助ける才能)を持つと評された。


大局を見据えることに長け、人材を見る目も確かで数多くの賢人を曹操に推挙した。

【荀攸】

戦場に同行することが多かったが、性格は慎み深く、

常に目立たないよう振る舞って曹操を盛り立てた。

【郭嘉】

常に前線において曹操のために献策し、勝利にたびたび貢献した。

呂布討伐戦では、荀攸とともに徹底抗戦を進言し水攻めを提案した。

太陽の裏へご一緒致します  井上一筒 

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