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川柳的逍遥 人の世の一家言
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別宅に馬本宅に牛を置く  井上一筒

官兵衛には三人の弟と三人の妹がいたことが知られている。

ところが彼らの事績はあまり知られていない。



「黒田兵庫助利高」

官兵衛の実弟で黒田24騎・黒田八虎の一人。

天文23年(1554)に生まれ、のちに秀吉の馬廻衆となっている。

母は官兵衛と同じ、明石氏の娘である。

実直で柔和な性格で思慮深く、物事に動じない人物像が伝えられる。

長政の後見役を務めるようになるが、常に長政を崇める姿勢で接し、

家臣たちに藩士としての手本を見せた。

そういう誠実さから、家中の者たちから慕われたという。

官兵衛に従って播磨各地で戦功を挙げ、

小牧、長久手の戦いでの泉州岸和田の陣、

四国攻めでには、独立武将として参戦。

九州攻めでは、先手を務めて長政を助けた。

官兵衛が豊前六群を与えられると、

うち1万石を分与され高森城代となっている。

その後、文禄元年(1592)の朝鮮征伐に参戦したが、

体を壊して休戦時に帰国し、文禄5年(1596)和泉国・堺で没した。

キリシタンといわれている。

わたくしの器に雑草が似会う  杉本克子



「黒田修理亮利則」

利則も黒田24騎・黒田八虎の一人。

永禄4年(1561)生まれ。

黒田職隆の三男(神吉氏の娘)官兵衛利高とは異母兄弟にあたる。

播磨平定後、利高とともに秀吉の馬廻り組となった。

賎ヶ岳の戦いで活躍し、

その後、仕えた羽柴秀長に従って九州攻めに参加。

官兵衛の豊前入国後は黒田家に戻って2千石を領した。

文禄の役では、長政に従って渡朝。

休戦中に頭を丸めて「養心」と号した。

慶長の役では、旗本備として42人を従えて再び渡海し、
         しょくさん
忠清道の稷山で功績を挙げた。
                                          とみく
関が原の戦いでは、官兵衛に従って豊後国富来城攻めに参加。

その後、兵とともに中津城を守った。
                                むなかた
筑前入国後は1万2千石を領して宗像郡津屋崎城代となる。

黒田家の男兄弟では最も長命であった。 没年慶長17年(1612)

もう一度生きても多分この程度  徳島一郎



「黒田図書助直之」

直之も黒田24騎・黒田八虎の一人であった。

永禄7年(1564)生れ、黒田職隆の4男(母は母里氏の娘)

兄二人と同じく秀吉の馬廻り組となり、その後、秀長に仕えた。

豊前入国後は兄とともに黒田家に戻り4千5百余石を領した。

中津城下では官兵衛にならって洗礼を受け洗礼名を「ミゲル」と名乗った。

小田原攻めを敢行した官兵衛に同行し、

北條家の家臣・由良新六郎の娘を娶る。

その妻も洗礼を受け、洗礼名を「マリア」と名乗った。

朝鮮の役に参加した際は、長政に従い旗本備として120名を統率。

稷山の戦いで功名を挙げた。

また梁山城では、

官兵衛が1千5百の兵で4千の明軍を撃退した戦いにも参加した。

関が原の戦いでは官兵衛の指揮の下、

富来城攻めで先陣を務めたほか、柳川城攻めでも活躍。

筑前入国後は秋月で1万2千石を領した。

キリスト教への深い信仰心から2千人の信者を保護したため、

秋月はキリシタン王国のようであったと伝えられている。

秋月には現在も「天主堂跡とキリシタン橋」が残っている。

慶長14年(1609)没。

進化論いつかは人になれそうで  竹内ゆみこ

「官兵衛の妹たち」

官兵衛の長妹と思しき女性は、母は官兵衛と同じ明石氏であり、

三木清閑のもとに嫁いだとされる。

三木氏はおそらく英賀城主・三木氏の一族で、

黒田氏が三木氏との同盟関係を築こうとした意図に基づくもので、

いわば、政略結婚の一環であったと推測されている。

あきらめのよい女が好きといわれても  森中惠美子

次妹の母も明石氏であった。

彼女が嫁いだのは、黒田家の家臣・尾上安右衛門という人物で、

播磨の土豪クラスで有力者であったらしい。

三番目の妹の母は、母里氏で三弟の直之と同母ということになる。

彼女が最初に嫁いだのは、一柳直末であった。

直末は秀吉の有力な家臣であった。

次いで嫁いだのは、伊藤是庵であったといわれる。

が詳しいことは分っていない。

妹は胸の名札を裏返す  河村啓子



キリシタン橋

秋月に天主堂跡とキリシタン橋が残っているとはいうものの、

平べったい一枚の岩があり、 横に「キリシタン橋」という説明板があるから、

辛うじてここが跡地と分るものである。

この橋を行くと、天主堂があったとされる広い敷地(キリシタン畑)に出てくる。

救いも悲劇もあった橋のようである。

ともかく6人の兄弟姉妹がいたことは確かなのだが、

官兵衛の知名度が突出し過ぎていたためか、

彼らの生涯はあまり研究されていない。

とりわけ妹たちのことは、分らないことばかりである。

その傷を分っているのは私だけ  渡邊真由美

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一発で天狗の鼻を叩き折る  池部龍一

 
             竹中半兵衛の銅像

写真を拡大して半兵衛の表情をご覧ください。

「何をなさいます!」

「英賀の戦い」に勝利した後、

官兵衛は嫡男の松寿丸(長政)を、人質として信長の元へ預けた。

天正5年(1577)、信貴山城に籠る松永久秀を攻め滅ぼした信長は、

いよいよ、秀吉を播磨に進駐させた。

これを迎えた官兵衛は、自らの居城である姫路城を秀吉に譲り渡す。

一族は国府山城に移らせ、自らは姫路城の二の丸に詰めた。

シャッターを切るたび君は咲いてゆく  野村辰秋



全ては主家を守るためだった。

ただ主の小寺政職にとっては、思いがけない情況が展開することとなる。

忠臣だったはずの官兵衛が、秀吉の参謀に取り立てられたのだ。

その不満はほどなく奔出するが、

こうしたところ官兵衛は、幾分か配慮に欠けていたのかもしれない。

主家を重んじているつもりで、

己のことばかり考えていただけなのかもしれない。

が、ともかく官兵衛は奮闘した。

秀吉の弟・秀長に従って但馬国の竹田城をせめ、

半兵衛とともに、播磨・美作、備前の国境にある要衝・上月城も、

奪取してみせた。

また南瓜切ったか月に話したか  鳴海賢治

こうした攻撃戦の際、官兵衛の懐には常に、

秀吉から与えられた神文があった。

「城を落とし、武将を篭絡できたなら、きっと恩賞を取らせ、

  出世も約束する」 

と認めた物だ。

長男・松寿丸を人質として信長の元へ差し出してまで、

忠誠を誓った官兵衛にしてみれば、

己が勲功を挙げることで、主家とその領土が安堵されると信じていた。

だから死に物狂いになって戦い続けた。

ところが、勲功を挙げているというのに、秀吉はいっこうに、

約束を守ろうとしない。

官兵衛の不満は溜る一方だった。

過呼吸をときどき起こすハーモニカ  北原照子

 
 蜂須賀小六

こうした官兵衛をじっと観察しているのが、竹中半兵衛だった。

半兵衛は秀吉に生涯を捧げている といってもいいような人物で、

その心情は蜂須賀正勝(小六)によく似ていた。

正勝は秀吉にとって最古参の家臣で、秀吉のことしか考えていない。

この正勝が、「官兵衛は毒だ」と断言していた。

半兵衛もその人物評は、ほぼ間違いないだろうと思っていた。

だが、毒は薬にもなる。

猛毒と劇薬は紙一重で、使いようによってはこれほど重宝するものはない。

問題はその毒が秀吉に対して使用されないことで、

そのためには毒気を取り除いておけばいい。

毒になる本が一番売れている  森中惠美子

人の生涯には、いくつかの岐路がある。

それ以後の人生を決めてしまうような瞬間のことで、

官兵衛は、その分岐点のひとつに直面していた。

天正5年、冬。

眼の前、囲炉裏を挟んだところに、一人の武将が座している。

竹中半兵衛。痩躯(痩せた体)だ。

透き通るような白さの肌をしており、

女人のようなおだやかさに包まれている。

しかし、行動は凛として凄みがあった。

このとき、官兵衛は秀吉から授かった神文を後生大事に抱えていた。

それを見せてくれと半兵衛は、官兵衛に所望し、

手にするや否や、やにわに切り裂き囲炉裏に投げ捨てたのである。

軒先は呉越同舟通り雨  ふじのひろし

 
 歌舞伎調半兵衛

「あっ!何をなされますっ!」 

官兵衛は仰天して大声を張り上げたが、すでに遅い。

神文は燃え尽き、灰になった。

唇をわななかせたまま茫然としている官兵衛に対し、

半兵衛は「一周り大きくなられよ」と厳かに告げた。

「このような神文があるから、不平が口をついて出る。

 後生大事にとっておいても貴殿のためにはならない。

 すでに領土を侵し侵され、奪い奪われる時代ではない。

 時代は、天下統一に向けて動いている。貴殿は才がある。

 その才は、主家のためだけに使うのではなく、

 天下のためにこそ用いるべきだ。

 神文に拘わるのは小寺家に囚われている証だ。

 主家に拘わって天下を思わぬなど、才のあるもののすることではない」

第五画あたりでアッと思い出す  山本早苗

この時初めて、官兵衛は己の生き方を恥じた。

官兵衛は無論、信長が時代の臍になっているのは理解していた。

ただ自分はその信長の傘下に入ることで、

主家と我が身を守ろうとしていた。

所詮、自分のことしか考えていなかった。

姑息な考えだったと恥じた。

鼓の音ポンと鳴るのでひきさがる  桜風子



ただ半兵衛は、「もっとも」と言いそえた。

「綺麗ごとをいうつもりはない。

  天下を統一せんとするのは、合戦をいとうからではない。

  民を安らげるためでもない。

  つまらぬ戦さなどさっさと止めて、国づくりをしたいからだ。

  調略を行うのは、つまらぬ小戦で兵力を損ないたくないからだ。

  敵の主力に対して全力で立ち向かい、完全な勝利を得るためだ。

  しかし、それには智恵がいる。

 ひと周り大きゅうなって、その智恵を貸してくれぬか」

このことがあって以後、官兵衛は変わった。

読む本はきみ一冊で事足りて  山口亜都子

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負けん気の強い右手ですみません  竹内ゆみこ



「後藤又兵衛」

後藤氏は春日山城(福崎)に栄えた豪族だったが別所氏に滅ぼされた。

末裔にあたる後藤基次(又兵衛)は、姫路近郊の山田で生まれで、

官兵衛に預けられ、小姓として仕えた。

「黒田二十四騎」・「黒田八虎」の一人

黒田家に仕えた後、豊臣秀頼にも仕えた基次は講談などで、

人気を博した侍のひとりで、通称・「又兵衛」で知られている。

父・左衛門は姫路の地に小さな城を構えていた。

その左衛門が没した後、伯父の藤岡九兵衛とともに黒田家に入った。

住所氏名年齢職業鰯雲  鳴海賢治

しかし、官兵衛荒木村重に捕らわれ有岡城に幽閉された際、

伯父・九兵衛は黒田家を裏切ったため、

一族同罪で又兵衛も追放となる。

その後しばらくは秀吉 配下の武将・千石秀久に仕えていたが、

その時期には特に活躍したような言い伝えは残っていない。

秀吉が九州攻めを敢行する前、

長政から百石という高禄を条件に再び呼び返された。

それに応じて又兵衛は数々の戦いで活躍し、

特に九州攻めの際の「宇留津城攻め」では大きな戦功を挙げている。

地獄極楽風船は跳ねに跳ね  筒井祥文



『太平記賤ヶ嶽本陣之図』 

官兵衛・又兵衛・太兵衛などが佐久間盛政を捕らえている図

「朝鮮の役」では長政に先手を命じられ白河城を守った。
 しんしゅう
「晋州城攻め」では「亀甲車」に乗って、

一番乗りを果たしたことで一躍有名になった。
      しょくざん
ほか「稷山の戦い」でも、巧妙を挙げた。

とりわけ「関が原の戦い」では、負傷しながら果敢に戦い、

東軍を勝利に導く働きぶりで、筑前入国後には、

大隈益富城・城代となり1万6千石を拝領。

黒田家の重臣として、隠岐守を名乗った。

たっぷりとマグマを抱いた竹の節  くんじろう

慶長9年(1604)に官兵衛が没すると事態は急変する。

又兵衛はあとを継いだ長政とそりが合わず、再び黒田家を離れた。

又兵衛にしてみれば、とどろく実績と優れた能力があったので、

すぐに浪人生活から解放されると思ったに違いない。

事実、福島正則、前田利長、池田輝政、結城秀康 などから

声がかかっている。

しかし、又兵衛の仕官はいずれも実現しなかった。

見込みある男飛びだす土砂降りへ 柴本ばっは

家中の内部情報に通じている又兵衛の逐電は、

黒田家にとって「一大事」なことで、

長政が緊急「奉公構え」という手段を講じたのである。

「奉公構え」とは刑罰の一種であり、出奔した家臣や改易された者に対し、

大名が出す回状を意味する。

回状を受け取った大名は、該当する者を雇わなかった。

これにより又兵衛の再仕官の道を断たれたのである。

賢治の詩遠く切ない雪になる  森 廣子 



『太平記大合戦』-大坂の陣・後藤又兵衛

その後、又兵衛は京都で長い浪人生活を送った。

そこで勃発したのが、「大坂の陣」である。

又兵衛は豊臣秀頼に招かれ、意気揚々と求められるままに、

大阪城に入城した。

そして真田幸村らとともに、「大坂の陣」で豊臣家のために、

死力を尽くしたが、慶長20年(1615)5月、奮戦空しく討ち死にした。

その戦いを通じて又兵衛の体には刀槍の傷が53ヶ所もあったという。

この記録は、後々伝説として語られるようになった。

六尺を超える勇猛な巨漢の豪傑として、

講談などでは「槍の又兵衛」と呼ばれ、大変人気があった。

狼尾男ビニール傘たたむ  兵頭全郎

     
                           又兵衛と光

「亀甲車とは」

慶尚の晋州城を攻撃するのに長政が使用したとされる亀甲車は、

官兵衛がキリシタンから得た知識から発想したもので、

「黒田長政の士大将後藤又兵衛基次亀の甲といふ車を作り出せり」

とある。 『常山紀談』

いわゆる現地で、加藤清正と又兵衛が図面を見て造ったという。

【構造】 上は亀の甲のように高く盛り上がり、火がつかないように、

表面は毛の方を内側にして牛の生皮を貼り、

下には転がしやすく車輪をつけ、

内部の四隅に柱を組み、

壁は堅牢に厚くして石を投げられても破れない様に。

また、後部には大縄をつけ、

バックも可能に工夫した戦国版戦車である。

この中に後藤又兵衛が入り、敵の城壁まで迫り敵隊を崩したという。

                              きりはり
【説明】 厚板の箱を拵へ内に強き切梁を設け、
                    くだ
石を落しかけても箱の摧けざる手当をし、

箱の内へ後藤入りて棒の棹を指し車を箱に仕かけ、

進退自由に廻る様にして城際へ押詰石垣を崩して乗入けり。

551のぶた饅は削除した  井上一筒

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指切りのきっとはおとぎ話です  美馬りゅうこ



長浜城の構造復元図 (長浜博物館)

秀吉が浅井長政の旧領を織田信長から拝領したとき、

この地は「今浜」と呼ばれていた。

秀吉は信長から一字賜って「長浜」と改称し、

浅井氏の居城・小谷城などから、資材を運んで「長浜城」を築城。

のちに、勝家の甥・柴田勝豊が城主となったが、

秀吉に降伏し、賤ヶ岳の戦いのあとは山内一豊が6年間在城した。

その後、内藤氏が城主となるが、まもなく廃城。

その資材の大半は彦根城の築城に流用され、

「天秤櫓」は長浜城から移したものという。

(現在の模擬天守は昭和56年に復元されたもの)

日本の梁は発砲スチロール  杉山ひさゆき
 
 

                             天秤櫓廊下と橋

「秀吉と官兵衛の仲」

天正3年(1575)7月、姫路城をあとに、岐阜城にいる信長のもとへ、

味方になる意思を伝えに赴いた官兵衛は、

秀吉のとりなしで、信長との対面を果たすことが出来た。

この時が官兵衛と秀吉の運命の出会いであった。

官兵衛と秀吉、この二人はすぐにお互いを認め合う。

とくに官兵衛は秀吉の飾らない性格と、

自分を信頼して何でも話してくれる態度に、すっかり心酔してしまった。

その秀吉が信長から中国方面の担当官を命ぜられたのである。

人間関係ならば湯煎をしてみるか  古久保和子

官兵衛は、"この男のために何かせねばならない" と心を奮いたたせた。

天正4年には主君・小寺政職とともに赤松広秀別所長冶という

播磨の三大名を揃って信長に謁見させている。

「小寺家が信長に味方した」

という情報は、まもなく毛利方の知るところとなった。

これを見逃すわけにいかない毛利方は、

まずは官兵衛が守る姫路城を攻略することにした。

この年の5月小早川隆景配下の水軍が5千の兵を率いて英賀の地に上陸。

この大軍を官兵衛は、わずか5百の兵で撃沈せしめた有名な話がある。

「英賀の戦い」である。

山茶花は私の色にきっと咲く  嶋澤喜八郎



「二人の親密度」

天正5年(1577)の英賀の戦いが終了すると、

信長は一刻も早く秀吉を播磨に出陣させようとした。

6月に秀吉は官兵衛に書状を送っている。

この書状の中で秀吉は、

「今後いかなることがあっても隔心なく、相談したい」

とあり、播磨出陣に当って官兵衛を頼りにしていたことが伺える。

官兵衛が中国方面の政情や地理に詳しいので、当然かも知れないが、

秀吉が官兵衛の能力を買っていたことは間違いない。

青い空きみを信じてみるつもり  笠原道子

この書状で秀吉の官兵衛に対する気遣いも伺い知ることができる。

秀吉は自分と官兵衛との関係が人からさげすまれることを憂慮し、

秀吉を憎んでいる者は、官兵衛を憎むであろうことを心配している。

秀吉は一介の百姓から栄達を遂げたため、

周囲の者は決して快く思わなかった。

秀吉の周囲には、本当に信頼できる協力者がいなかったのかもしれない。

従って、播磨出陣に関しては、どうしても官兵衛の力が必要だった。

また、秀吉が官兵衛に改めて送った7月の書状には、秀吉が官兵衛を

「弟の秀長と同然のように思う」 の内容が書かれている。

秀吉は義兄弟という形にしてまでも、

官兵衛との強固な絆を保っておきたいと願っていたようである。

どこよりも遠い自分の足の爪  北村幸子



「ところで、官兵衛がどうして毛利より織田を選んだのだろうか?」

「織田方につくべきだ」

と官兵衛が主君に進言したのは、さすが慧眼という人が多い。

たしかにそういう見方もあるが、むしろ

「自分が信長や秀吉のもとなら、評価され活躍できるだろう」

と思ったことが、大きいのではないか。

信長とか秀吉は、才気走った有能な人物を、門地に関わらず、

取り立てる武将だった。

信長の家臣団の中には、累代の家臣として、

柴田勝家丹羽長秀などもいるが、

近江出身だが出自もよく分らない滝川一益や流浪の浪人だった明智光秀

そして農民出身の秀吉もいる。

その先の夢へと伸びる豆の蔓  たむらあきこ

 
       古天明平蜘蛛

また、松永久秀のような人物すら、上洛時に、

「兄である将軍・義輝を殺した下手人」

という足利義昭の反対を押し切って許し、

その後、一度背いたときも帰順させさせ、三度目も、

「茶器・『平蜘蛛』を差し出せば許す」

といったが、久秀の方がこの名品ともども自爆した。

ともかく信長や秀吉が目指した社会は、伝統とか秩序よりも、

優れた人物が個性を存分に発揮できる、

他所でなら、生意気と片付けられそうな才人にも、活躍の場を与えたことだ。

象だってもっと大きくなりたいさ  田村ひろ子   

官兵衛はそういう噂を聞いていただろうし、

信長のもとに使者として参上したのちは、ますます織田家中なら、

自分が、「水を得た魚のように活躍できる機会が与えられるだろう」

と確信を得たはずだ。

ともかく二人には初対面の時から、お互いを認め合うものがあった。

秀吉と官兵衛は知恵者であり、現実主義者であり、経営の才覚があり、

調略の名人、という似たもの同士である。

違いは、官兵衛にない明るさが秀吉にはあり、

官兵衛には、学があることだろう。

しかし、いずれにせよ、秀吉にとって、官兵衛は、

自分の代理を務めさせることができる稀有な存在だった。

しかし、5年後の「本能寺で信長死す」の報が入ったあたりから、

二人の結束にも影が射し始める。

真っすぐの鉄条網はありえない  森田律子  

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ここですよここがあなたの降りる駅  田村ひろ子

     圧切長谷部」

圧切は「へしきり」と読む。

振りがながないと読めない圧切が製作されたのは、

南北朝期といわれている。

この作者である長谷部国重は、山城国(京都)の刀工として、

建武期(1334~36)を中心に活躍した。

国重はもともと大和の生れであったが、のちに相模へと移り、

長谷川鍛冶で修業を積んだという。

何人を殺め名刀たりうるや  今江やすより

「圧切の銘の由来」

『信長公の御時、クワンナイという茶坊主を手打ちにしようとした。

しかし、クワンナイは台所へ逃げ込み、膳棚の下へ屈みこんでしまった。

刀を振り上げることが難しかったので、刀を指で押さえこむと、

ほとんど手に感触がないまま「膳棚と観内」を切り落とすことができた。

そこで圧切と名付けた』  〔黒田家御重宝故実〕
              かんない
(ある日、茶坊主の観内という者が、信長に敵対することがあった。

そこで信長は観内を手討ちにしようとしたが、

観内は膳棚(食器棚)の下へ隠れたのである。

そこで、信長は観内を「圧切」にした)

諦めるひと埋めるひと通りがかるひと  酒井かがり

「命の使いみち」

官兵衛は軍事力という現実をもって説得を重ね、

ようやく小寺政職の代理となって上洛した。

信長に拝謁を乞うためで、取り次いでくれたのは猿のような小男だった。

羽柴秀吉である。

信長は官兵衛を気に入り、名刀「圧切」を下賜すると同時に

「中国侵攻の折には手を貸してもらいたい」

というようなことを言った。

官兵衛は、これで主家を存続させられると安堵した。

競争の最たるものは生きること  三宅保州

そして、天正5年(1577)官兵衛が織田家のために働く時が来た。
 あ が
「英賀の戦い」である。

すでに毛利家に敵対することを鮮明にしていた官兵衛は、

播磨灘に臨む英賀(姫路)の地で、

5千の兵力をもって押し寄せてきた毛利家の
うらむねかつ
浦宗勝をわずか10分の1の兵力で撃退し、

十分に織田家の最前線を守り抜いたのである。

変な欲死線を越えて抜け落ちる  ふじのひろし

この武功に信長は政職に感状を送ると同時に、

荒木村重にも書状を送っている。

その書状では、小寺氏の武功を称えるのに加えて、

官兵衛にも同趣旨のことを申し聞かせることを村重に命じているのである。

それを受けて村重は、自分に送られた信長の書状を添えて、

官兵衛の軍功を称えた。

これは何を示しているのだろう。

もし官兵衛の配下にあるならば、小寺氏を通じてというのが筋である。

逆に信長からみて、官兵衛は陪臣(家臣の家臣)に当るので、

そうした措置すら行う必要がなかったのかもしれない。

当主の小寺氏が行えばよい。

いわゆる官兵衛を信長は小寺氏に並ぶ「一武将」と見ていたことになる。

逮捕状無しであんたを逮捕する  井上一筒

 
   浦 宗勝

「英賀の戦い」

信長方についた小寺家を討つため、

毛利輝元は家臣・浦宗勝に姫路城への攻撃を命じた。

宗勝は小早川隆景の水軍を代表する名将で、毛利軍を支えた人物。

その宗勝を大将とした毛利水軍5千が、

姫路城の南西約7kmに位置する英賀港に上陸してきた。

対して自由に動かせた軍勢が5百人にすぎなかった官兵衛は、

寡兵の自分たちが勝つためには、

敵の兵が船旅で疲れているのを冷静に見抜き

陣を整える前に奇襲攻撃を仕掛けたのである。

伝えなさい一切ことば使わずに  八上桐子

それだけでなく官兵衛は、近在の農民たちを集めて、

大量の旗指物を持たせ、後方の茂みに伏せさせた。

まだ布陣の整っていない毛利軍は官兵衛の奇襲によって混乱するが、

宗勝は敵が少数なのを知って、

すぐに陣を立て直し反撃に打って出ようとした時、

茂みに隠れていた農民たちが、いっせいに声をあげながら、

旗指物を掲げたのである。

「まさか援軍が!」と勘違いした毛利軍は同様して総崩れ。

さすがの宗勝も一度崩れた軍勢を立て直すことは難しく、

敗走を余儀なくされた。

逃げる毛利軍は官兵衛軍に追撃され、

壊滅的な被害を受けて自領に逃げ帰ったのである。

鉤裂きはあなたが逃げた跡ですね  米山明日歌

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