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川柳的逍遥 人の世の一家言
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忘れもの捜しに出口から入る  板垣孝志



「会津人とキリスト教」

明治以後、会津藩士やその子供の中で、

クリスチャンになった者が沢山いる。

藩が敗亡し、それまで信じてきた価値観が壊されてゆく中で、

「それを超える大きな価値観」

に惹かれる部分があったのだろう。

会津藩の教育方針には、

藩主への忠義と親への孝を中心とする倫理的価値観が、

組み立てられている。

絨毛のある風景に突入す  井上一筒

会津の人々は、会津戦争で大きな悲劇に直面し、

家族や友が血しぶきの中で死んでゆく、

死屍累々たる光景を見て、

「死とは何か、生きるとは何か」

を考え抜かざるを得なかった。

また廃藩置県で、主君を喪失した。

そんな状況に置かれた会津人が、

キリスト教の絶対的な神に必然的に救いを求めた。

さかさまになって秘密がバレてくる  竹内いそこ

キリスト教では、霊魂は不滅で、

死ねば天国で愛する者たちと再会できると教える。

この教えは、数多くの悲痛な死にに接した会津人たちにとって、

大きな救いになったに違いない。

さらに「己の良心のみに従う」キリスト教の倫理観は、

維新以後、

「勝てば官軍」の論理で理不尽にも賊名を被った会津人の心を、

支えてくれるものだった。

天主堂のステンドグラスにも 雨  下谷 憲子

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もう満足だろうと神がいうのか  茶助

谷垣郁郎さんの急逝の報に、ただただ驚くばかり。
郁郎さんを絞れば、川柳の汁が出てくるのではないか、
と、思うほど、どっぷりと川柳に浸かっておられたように思う。
義理堅い人で月のうち、どれだけ沢山の結社を回り、
大会に参加されていたことか察するに余る。

数々の結社に残された、その足跡を10句ほど拾ってみました。

河原町を背負い投げする塩小路

途中下車の途中ですよと貼るシール

ドーナツの穴に填ってきたひたい

間に合ったようだな髭が伸びている

自画像に近くなるまで色を選る

七並べ終えて私が見当らぬ

寝付かれぬ筈だ金魚の寝言だな

右手から左手までにもう青葉

線香花火ポトリ童話が済みました

ゼロまでも取られ何にもありません

そしてこんな句も

コーヒーの冷めないうちにポックリと

葬儀には参列できませんが心よりご冥福をお祈りいたします。

                               茶助

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思いはその人に寒暖計下がる  森中惠美子

 

「八重と襄‐結ばれる」

「幕末のジャンヌ・ダルク」と讃えられるほどの武勇伝を

のこした八重は、明治4年8月に兄・覚馬を頼って京都に行き、

いち早く英語を学んで洋装のモダンレディへと変身する。

日本は明治5年に「キリシタン禁令」を解いたが、

それは諸外国の圧力をうけて黙認したというにすぎない。
           いてき
人々が「夷狄」とよんでおびえている外国人とつきあい、

宣教師から聖書まで習っている八重の大胆不敵さに、

保守的な京都人は腰をぬかさんばかりに仰天した。

さざなみへ石を投げてはいけません  北川ヤギエ

そうした八重の、向こう見ずな女傑ぶりに惹かれて

プロポーズしたのは、アメリカ帰りの新島襄である。

八重は洋学者・川崎尚之助と一度結婚をしているが、

八重が新島と出会ったときには、

すでに川崎尚之助は病死していたから、

二人の結婚に障害となるものはなかった。

夕日にも予防注射しておいた  井上一筒

 
                            どくりつふき
襄にとって八重は、まさに「独立不羈」の魂を持った女性だった。
      
「政府や国家に依頼心を持たず、独立不羈の一己の見識と

  品格に基づいて、天地に恥じない『一国の良心ともいうべき者』 

  であり、そのような者は、キリスト教の普遍的真理に基づく

  徳育により養われる」

これが新島襄の考える近代国家を支えるべき人間なのだ。

独立不羈=どこからも何の束縛も制約も受けることなく、

        自らの考えに従って事を行うこと。

鍵のないドアで自由が出入りする  河村啓子

しかし、いくら英語を学び、キリスト教に感心をもっていたとしても、

相当の覚悟と勇気がなければ、

クリスチャンとの結婚には踏み切れない。

八重だからこそ受け入れたのだ。

明治9年1月に、八重は京都で初めての洗礼をうけ、

新島襄とキリスト教による結婚式をあげた。

凶のみくじはコヨリにしておこう  山本昌乃



明治9年1月2日、襄と八重のキリスト教式の結婚式が行われた。

これは京都では初めてだった。

2人とも洋装で、襄はフロックコート、八重はドレス姿。

参列者は家族、宣教師、同志社の学生たち10数人で、

質素なものだった。

襄が32歳、八重は30歳だった。

R30指定手前の固結び  酒井かがり

そして襄と共に理想の教育実現に全力を尽くしていくこととなる。

八重はキリスト教の洗礼を受けたこともあって、

女紅場を免職されるが、

結婚後、同志社女学校の設立に力を注いだ。

また、襄の理想に従い、

西洋的な「レディ」の生き方を実践してみせた。

洋装し、夫を「ジョー」と呼び捨てにし、一緒に並んで人力車に乗る・・・。

そんな態度は、京都の人々には決して理解されるものではない、

同志社の生徒たちからすら白眼視された。

くるぶしの辺りを騒いでいるカモメ  森田律子

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方程式を研ごう答えがひかるまで  たむらあきこ

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「会津の女」⑤-高木時尾

高木時尾は弘化3年(1846)

会津藩大目付・高木小十郎藤田克子の長女として生まれる。

山本家の隣家、高木家の長女で八重の一つ下の幼なじみ。

祖母は盲目ながら、大変器用で裁縫を得意とし、

八重や日向ユキと三人でその祖母から裁縫を習った。

時尾の母・克子は藩内でも評判の美人であったが、

その血をうけて時尾は才色兼備を謳われ、

藩主・松平容保の義姉・照姫の祐筆に抜擢された。

私だけ照らすひかりにやっと逢う  真鍋心平太

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会津戦争では照姫に従って籠城戦に加わり、

男装する八重の髪を切る。

会津城開城後は斗南に移住し、そのとき、

会津藩若年寄を務めた倉沢平治右衛門の養女となった。

明治7年、元新選組隊士であった斉藤一(藤田五郎)と結婚。

時尾28歳、斉藤30歳である。

東京での挙式は、上仲人を松平容保、

下仲人を山川浩、佐川官兵衛がつとめた。

改札を抜けて涙を折りたたむ  岡本 恵

住居は東京・本郷にあり、藤田は警視局に勤務。

明治9年に長男・

西南戦争を経て次男・、三男・龍男が誕生。

藤田は明治24年に退職し、のち、

東京女子高等師範学校の庶務係(警備職)として奉職。

これを機に、自宅の二階に女子学生を寄宿させ、

時尾は礼儀作法などをしつけた。

寄宿生のひとり西野みどりが勉と結婚。

明治42年には初孫にも恵まれた。

ちょい悪を手玉黄色いさくらんぼ  北川ヤギエ

大正2年、会津若松にて、会津戦争の戦死者を

埋葬した阿弥陀寺墓地への寄付が募られると、

時尾は「若松外発起人」の総代となって活動している。

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阿弥陀寺の藤田五郎と時尾の墓

会津戦争の戦死者埋葬に尽力したため、

時尾は墓所の一角を譲り受け、

その場所に夫妻の眠る墓がある。

藤田71歳、時尾74歳で没した。

結末はハッピーそっと本閉じる  三村一子

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一枚のコピーで人を売り渡す  森中惠美子

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 襄密出国時の姿 (画面をクリックすると拡大されます)

「ハンサム・ウーマン」

新島八重のニックネームとして「ハンサム・ウーマン」

定着しつつあるが、

八重のことを最初にハンサムと称したのは、

実は二番目の夫となった新島襄だ。

襄は恩人に宛てた手紙の中で、

結婚を報告するにあたり、八重について、

「彼女は決して美人ではない。

  しかし、生き方がハンサムなのだ」


と書いている。

よく弾む毬をときどき持て余す  山崎美千代

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  23歳頃の襄

京都の名門・同志社大学(同志社英学校)を設立しただが、

八重と同様に、もとは京都の人ではない。

安中藩(群馬県安中市)出身の祐筆(秘書)の家に生まれ、
         し め た
幼名を七五三太といった。

彼もまた江戸で蘭学を学んで海外に興味を持ち、

『ロビンソン・クルーソー』の日本語訳版を読んで、

挑戦心にかられ、アメリカへの密航を決意。

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歯車が合って明日が動き出す  寺島洋子

襄は幕末の元治元年7月、箱館からアメリカに密航した。

その際に乗船したワイルド・ローヴァー号の

船主・ハーディー夫妻の援助を受けて進学し、

明治3年にはアーモスト大学を、

さらに明治7年には、アンドーヴァー神学校を卒業。


同時にキリスト教の洗礼も受けた。

この経験を通して襄は、

「欧米文明の基礎は、国民教化にある」


との確信を抱くようになる。

襄の名前が生れたのは、密航の船上で、

「ジョー」と呼ばれていたことから改名したものである。

少しづつ動くわたしの座標軸  たむらあきこ

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     襄がアーモスト大学時代に学んだノート

その後、正式な日本の留学生として認可され、

岩倉具視の使節団が訪米した際には、

語学力を買われて通訳として同行している。

帰国を果たし、教育者としての道を進みだした襄は、

キリスト教の伝道と近代学問を教える学校の設立を目指す。

その際に紹介されたのが山本覚馬で、

宣教師・ゴードンの家で、八重は襄と初めて会う。

花束の語尾にかすかな静電気  美馬りゅうこ

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襄はこの頃、自身の結婚観について、

「亭主が東を向けと言えば、

  3年でも東を向いている東洋風の婦人はごめんだ」
と。

西洋文化の中で成長した襄にとっては、

つつましい日本女性よりも

自己主張の強い西洋的な女性を理想としていたのだ。

それを知った京都府知事の槇村正直が、

うってつけの女性として、

彼に改めて紹介したのが八重だった。

水色の耳垢だけが取れました  井上一筒

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襄と八重の初めての出会いはゴードン家の玄関

ゴードン家で靴を磨いていた襄を八重はゴードンの書生と勘違いする。

正直は、「女紅場(女学校)の補助金を増額しろ」

とたびたび八重に押しかけられ、

その自己主張の強さにほとほと手を焼いていたのだ。

逆立ちが出来なくなった太郎さん  大森一甲

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襄が八重と結婚を決意したのは、

ある暑い夏の日に知人の家で再会した時のこと。

八重は、井戸の上に渡した板の上に腰かけて、

裁縫をしていた。

板が折れてしまえば大ケガは避けられない。

その大胆な振る舞いに襄は感心し、八重と婚約。

八重もキリスト教に入信し、

同志社英学校設立の翌年に二人は夫婦となる。

夫婦仲は大変によかったという。

それは、レディーファーストが当たり前の西洋文化を、

身に付けていた襄自身が妻に望んだことなのだ。

狙いますあなたのハート鷲摑み  藤内弥年

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