ロンパリ!考える椅子
川柳的逍遥 人の世の一家言
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斉藤一
鮟鱇の提灯ひとつこの旅路 ふじのひろし
西南戦争時の斉藤の写真
(前列右が斉藤)
「斉藤一」
斎藤一
という名前は、新選組全盛期時代の名前で、
何度も改名している。
(山口一~斉藤一~山口二郎~一戸伝八~藤田五郎)
謎が多い男である。
彼の生き方の中にある軸は、
「愚直である」
ということ。
純粋に何かを成したいと思っているが故に、
眉ひとつ動かさずに人を殺す、
汚れた仕事を平然として為した冷徹な人物だとされる。
ある日ある時カビから生まれ人間に 谷垣郁郎
幕末の文久3年
(1863)
春、
庄内藩士・
清河八郎
の発案により、
将軍・
家茂
上洛の警護の為に浪士が集められる。
一行は
「浪士組」
として京を目指すが、
「浪士組を天皇配下の兵にする」
という清河の計画が発覚。
浪士たちは江戸へ戻ることに。
しかしその中で、壬生・八木邸を宿所としていた
芹澤鴨
、
近藤勇
ら、13名は浪士隊から分かれて京に残り、
「壬生浪士組」
を結成する。
クモの巣に捕まってからお友達 森 茂俊
(13名とは、
芹澤鴨、近藤勇、土方歳三、沖田総司、山南敬助、
新見錦、原田佐之助、藤堂平助、野口健司、井上源三郎、
平山五郎、平間重助、永倉新八
である)
そしてまた同日、
斎藤一
を含めた11人が入隊し、
京都守護職である会津藩主・
松平容保
の預かりとなった。
造花を飾るあさっての式次第 筒井祥文
斉藤は新選組幹部の選出にあたり、
20歳にして副長助勤に抜擢される。
のちに組織再編成の際には三番隊組長となり、
沖田、永倉らとともに撃剣師範も務める。
沖田総司、永倉新八と並び、
新選組最強の剣客の一人であった。
永倉は弟子に、
「沖田は猛者の剣、斎藤は無敵の剣」
と語っている。
人間の都合で仕分けされる虫 三村一子
戊辰戦争では、新選組を率いて会津へ。
敗戦の色が濃くなった後も、会津にこだわり戦い続けた。
斉藤ら新選組は会津藩の指揮下に入り、
白河口の戦いや母成峠の戦いにも参加した。
敗戦により若松城下に退却。
土方と合流したのは、この退却の最中、猪苗代でのことだった。
いつからか拳の中の一人旅 くんじろう
その後、土方らは庄内へ向かい、
大鳥圭介ら幕軍の部隊は仙台に転戦したが、
斎藤は会津に残留し、
会津藩士とともに城外で新政府軍への抵抗を続けた。
9月22日に会津藩が降伏したあとも斎藤は戦い続け、
容保が派遣した使者の説得によって投降した。
壁のないカベかも知れぬグイと押す 本多洋子
降伏後、捕虜となった会津藩士とともに、
会津藩領の塩川、のち越後高田で謹慎生活を送った。
明治維新後、八重の幼なじみの
高木時尾
と結婚する。
時尾との間には、三人の男子を儲けている。
漁火が海を銀河に変えてゆく 竹内いそこ
[5回]
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y2013/08/28 09:30 z
CATEGORY[ポエム&川柳]
八重と新島襄の出会い
風もないのに揺れてしまったココロ 森田律子
八重と同志社女学校の教え子たち
(画像は拡大してご覧ください)
「八重と襄の出会い」
し め た
慶応元年、アメリカ・ボストンに渡った
新島七五三太
(襄)
は、
日本において国民教化を進めるべく、
明治7年に帰国。そのまま「
米国伝道会社」
に所属し、
宣教師として布教活動を行う。
大阪や神戸から伝道活動への協力を求められた襄は、
キリスト教と近代科学を教える学校を設立したかった。
しかし大阪府知事は、学校設立は容認するが、
キリスト教主義の学問や宣教師を教師に当てることを禁じ、
学校設立は暗礁に乗り上げてしまう。
山門があり遊郭があり梅雨があり くんじろう
しかし、大阪にいた
木戸孝充
らの援助で、
京都の大参事・
槇村正直
と知り合うと状況が変わる。
一度は諦めた大学設立を京都で行うことになる。
やがて、襄は槇村の知恵袋のような存在だった
覚馬
と知り合い、そして、のちの妻となる
八重
と出会う。
八重は、兄・覚馬に勧められて、紅場の勤めが終わると、
木屋町のアメリカ人・
ゴルドン
宅に行き、
聖書と英語を学んでいた。
余っても時間は明日に回せない 牧浦完次
新約聖書
八重や覚馬が
キリスト教
に関心を持つきっかけを作ったのも、
宣教師・ゴルドンの家でのことであった。
八重
が聖書を習いにゴルドン家を訪れた時、
ゴルドンの靴を磨いていた
新島襄
に出会うのである。
ある日、玄関で靴を磨いている男を見た。
一見、ボーイと思ったが、ゴードン夫人から、
「宣教師の新島襄」
と紹介された。
身の上をしずかに語るほうれい線 八上桐子
明治8年5月、襄と八重の初めての出会いだった。
八重と襄はしばらくの間は、
お互いを意識することはなかった。
が、最初に相手を意識したのは襄の方だった。
ある時、襄は京都府知事の槇村に、
「君はどのような妻君を迎えるのか」
と問われると、襄は
「亭主が、東を向けと命令すれば、
三年でも東を向いている東洋風の婦人はご免です」
と答えた。 すると槇村は、
「それなら、ちょうど適当な婦人がいる。
山本覚馬の妹だ。
度々私のところに女紅場について難しい問題を持ちかけて、
私を困らせているのだ」
と語った。
ストレートな人だきっと馬が合う 佐田房子
そんなやりとりがあった後の、ある夏の日のこと。
覚馬を訪ねた襄は、井戸の上に板を渡し、
その上に座って涼みながら縫い物をする八重に出会う。
襄が、覚馬に危ないと促すと、
「妹は大胆なことをする」
と取り合わなかった。
そんな姿を見て、襄は八重に惹かれてしまう。
落ちそうですよ幅十センチの海 森 茂俊
襄はアメリカの
ハーディー夫人
への手紙で、
『彼女は見た目は決して美しくはありません。
ただ、生き方がハンサムなのです』
と書いている。 また実の父には、
『日本はいないかもしれない女性』
と綴っている。
そして、この年の10月、2人は婚約する。
凸レンズで覗く結実の経過 井上一筒
教科書(裁縫の手引き)
しかし、その直後、八重と襄、覚馬は職を失う。
八重は女紅場を解雇され、
覚馬は京都府顧問を罷免され、
襄も博物館ご用係を辞めさせられた。
京都という土地柄、
仏教界の圧力で3人の行動は、
「英語教育やキリスト教を布教する学校設立だ」
と懸念されたのだ。
なるようにしかならぬもの ちぎれ雲 新川弘子
[5回]
y2013/08/24 09:30 z
CATEGORY[ポエム&川柳]
会津の女④-瓜生岩子
プラチナの匙真夜中を裏返す 井上一筒
瓜生岩子
像
「会津の女」④―瓜生岩子
幕末の戊辰戦争のさなか、いよいよ新政府軍が会津に
攻め込んでくると、城下は大混乱に陥った。
自害する者、城にこもる者、逃げまどう人・・・。
やがて城下は炎に包まれ、負傷者でごった返した。
この時、敵・味方の別なく、懸命に看病して歩く
ひとりの女性の姿があった。
会津藩で以前から救恤活動に尽していた
瓜生岩子
である。
修業の語尾を約三度上げる 蟹口 和枝
当時39歳であった。
「敵を看病している」
と非難する声もあったが、
「けがをした人はみな同じ、国のために戦っている」
というのが彼女の持論だった。
彼女はさらに戦災孤児の世話や戦死者の供養も行っている。
岩子は喜多方の裕福な商人の生まれだが、
8歳のとき、父が急死したうえに家が火事で全焼、
母の親戚に預けられて育った。
今日もまたさんざん冷やかされた夕日 一階八斗醁
16歳で結婚して子宝に恵まれ、幸せな生活が続いたが、
33歳のときに夫が病死。
商売も傾き、母も他界して途方に暮れた岩子は、
尼になろうとも考えたが、寺の住職に.
「あなたより苦労している人は大勢いる」
と諭されて改心。
後生を窮民の救済に捧げようと決意した。
渾身の力でこの星を背負う 福尾圭司
戊辰戦争後は、郷里に救養所をもうけ、
堕胎・間引きの非を説き、
磐梯山噴火の際には救援活動を行い、
独力で福祉事業を推し進めてゆく。
明治24年、岩子62歳のときには、
大実業家・
渋沢栄一
に請われて上京し、
東京養育院で働いている。
近代日本の福祉事業の草分けとなった彼女の名声は
みるみる高まり、明治29年には、
女性として、はじめて藍綬褒章を授与されている。
脳味噌は自分で捏ねるほかはなし 新家完司
[3回]
y2013/08/21 09:30 z
CATEGORY[ポエム&川柳]
山本覚馬の偉業
花は散ったそろそろ人間に戻る 谷垣郁郎
女紅場
(画像は拡大してご覧ください)
明治5年4月、九条家旧屋敷を校舎とっして設立。
山本覚馬
の妹・
八重
も教官を務めた。
日本初の女学校。
英語も教えられ、明治6年以降に各学区に設けられた。
おおぎ
女紅場の門が移築された京都府立鴨沂高等学校正門。
黄昏を素早く掬うのでとても 酒井かがり
「日本を守るべきに何をすべきか」
京都府知事を務めた
槇村正直
に見識を買われた
覚馬
は、
明治3年に府顧問に招聘され、京都の近代化に取り組み、
また京都府会の議長を務めるなど、
維新後の旧会津藩士の中では、
「最大の成功者」
の一人となった。
だが明治時代の覚馬で真に見るべきは、
幕末以来掲げていた
日本を守るべきに何をすべきか
―という気概を、
終生、失わなかった点にある。
鑑真和上のクローンではないか 井上一筒
御池小学校
(写真は明治初期に開校された御池小学校)
京都では明治5年の学制発布より早く、
小・中学校が次々と開校、
その数は最初の一年間で60を超えた。
覚馬が京都近代化の軸に据えたのは、
『管見』
で主張した
「教育」
と
「物づくり」
である。
教育では、学制発布以前より小・中学校を次々と創設。
にょこうば
また
「女紅場」
という女子学校を設立して、
女子教育にも力を入れた。
この女紅場で、
教師や女子寮の監督を務めたのが妹の
八重
だった。
彼女が覚馬を頼って京都に出てきたのは、明治4年のこと。
7年ほども離れ離れになっていた兄を慕い、
見ず知らずの京都にまで来たのだから、八重にとって覚馬が、
心から尊敬できる兄だったことは間違いない。
地下街の散り初めしバラ手に受ける 山口ろっぱ
京都舎密局
物づくりで特筆すべきは、
「舎密局」
の設置である。
いわば、化学研究所のことで、ガラスや薬剤、ビールまで、
幅広い西洋品の国産化が進められた。
他にも
養蚕場
や
製紙場
を設け、
古都・京都は日本最先端の工業都市へと変貌、
今日の繁栄の基礎を築いた。
このような、
「人づくり」「物づくり」
を重んじた覚馬の政策は、
薩長が牛耳る新政府に対して、京都をモデルに、
「近代日本の理想像」
を示したと言えるものだろう。
湿地帯ぬけた足だな濡れている 中野六助
さらに覚馬は、近代日本の精神の核とすべき、
「新たな価値観」
の必要性を痛感し、模索する。
そして注目するのが、
「キリスト教の精神」
である。
故郷会津が新政府軍に理不尽にも蹂躙された悲劇が、
背景に覗く。
会津藩士とその家族の多くが無念の最期を遂げ、
いわれなき
「賊軍」
の汚名までも着せられ。
維新後も故郷を追われ、
不毛の地で塗炭の苦しみを味わわされ、
職に就くにも差別された。
まさに薩長の、
「勝てば官軍」
の歪んだ価値観が横行していた。
(この価値観
が今尚、幕末・新政府軍の戦死者のみを祀る靖国神社に残る)
白紙には重たい時間埋めてある 瀬川瑞紀
同志社英学校
明治8年11月に開校した
同志社英学校
。
覚馬は
新島襄
を支援し、
自らが所有する旧薩摩藩邸跡
(今出川)
に校舎を建設させた。
そんな中で、少なからぬ会津の人々が、
「公正」「平等」
を重んじるキリスト教に惹かれ、また覚馬も、
「義も節も力で捻じ伏せ、勝てば官軍と称して憚らない
価値観を断じて許してはならない」
と信じる中で、キリスト教の精神にある合理性、
公正さに着目するに至る。
そして、このキリスト教精神こそ、
これからの日本に求められると確信した覚馬は、
八重の夫・
新島襄
による同志社設立を、支援し、
普及に努めていくのである。
縫針に通す夕日を尖らせる 岩田多佳子
"いかにして国の役に立つか"
覚馬の生涯は、この信念に貫かれている。
それはやはり、彼が会津藩士であったことの影響だろう。
会津藩士の胸には、藩祖・
保科正之
が定めた
「将軍家への忠義を第一にせよ」
という、会津藩家訓の精神が深く刻み込まれている。
だからこそ、
黒船が来航すると品川や富津の湾岸警備を務め、
また火中に栗を拾うような京都守護職就任も、
涙を呑んで承諾した。
彼らは、国家を守ることを自分たちの存在意義とし、
そのために、取りうる手立てを真剣に考えた。
あの屋根を越えたいのですしゃぼん玉 三村 一子
「覚馬の推進した殖産興業」
養蚕場
(各画像は画面をクリックすると画像は拡大されます)
明治4年4月、操業。
養蚕、製紙などの改良に務めた。
覚馬は特に養蚕に感心を示したといい、公卿の子女にも養蚕を習わせた。
ふしみ
伏水製作所
明治6年4月、操業。
土木用の鉄材、鉄具などを製造。
洋式の溶鉱炉を導入し、農具や印刷機械、四条大橋の鉄材も製造した。
栽培試験場
明治6年4月、操業。
勧業場前の畑に設けられ、
品質の優れた西洋薬草や木苗の試植、頒布をおこなった。
織工場
(写真は織工場の後身・京都織物株式会社)
明治7年、6月操業。
織物生産のほか、洋式の織物技術の研究所の役割も担った。
製紙場
明治9年1月、操業。
維新前、長崎で知り合ったドイツ商人・レーマンから新鋭機械を導入。
西南戦争での新聞普及に伴い激増した紙需要を賄った。
その他、勧業・製革・牧畜場などを次々開設させている。
幕末の動乱の中で、
師から継承した真の攘夷をなすための道筋を、
見失うことなく、新たな知識を吸収しながら、
日本が目指すべき国家像を描いた先見力と、
その実現のために、
覚馬はあらゆる障害に立ち向かっていったのである。
過ぎた日と未来をそっと綯っている 嶋澤喜八郎
[4回]
y2013/08/17 09:30 z
CATEGORY[ポエム&川柳]
会津の女③-山川捨松
女ひとりの心を変えて豪雨去る 森中惠美子
山川捨松
(画像は拡大してご覧下さい)
「会津の女」
③ー
山川捨松
山川大蔵
の妹・
山川咲子
は、鶴ケ城籠城時は子どもだった。
戊辰戦争後、長兄の大蔵は斗南藩の大参事になり、
次兄・東京大学総長を勤めた
山川健次郎
は、
派遣留学生としてアメリカへ。
そして、山川咲子も、名前を
「捨松」
と変え、明治4年、
派遣された条約改正のための
岩倉使節団
に加わって、
津田梅子
ら5人の女子留学生らとともにアメリカに渡る。
12歳のときである。
何だ何だと大きな月が昇りくる 時実新子
大山巌
23歳で帰国した捨松は、
薩摩藩の陸軍卿・
大山巌
に見初められて、結婚。
会津を攻めた宿敵の薩摩人からの結婚の申し出に、
山川家はおどろき、当然ながら断った。
しかし、大山はあきらめずねばり強く交渉する。
最後には捨松本人が、大山の人物を確かめた上で承諾した。
仕事をしたくても、受け皿のない日本社会の現実に悩み、
考えぬいた末の決断だった。
自己肯定せねば生きてもいられない たむらあきこ
政府高官の妻となった捨松は、
鹿鳴館
で催されるパーティーで、
居並ぶ紳士・淑女が苦労する中、
アメリカ仕込みの完璧なマナーとダンスで、
外国人記者もを驚かせ、鹿鳴館の華といわれた。
鋤骨から円舞曲をこぼすおんなへん 大西泰世
また捨松は、津田梅子が創設した女子英学塾
(津田塾大学)
の
顧問となり、側面から女子教育の発展につくした。
八重をはじめとする会津の女性たちに共通しているのは、
信念をつらぬきとおす意志と行動力である。
逆境から活路を拓き、
新しい時代へとみごとな転身をとげた彼女たちの
生き方をとおして、
混迷の時代を生きる指針となる。
トゲトゲの心臓の皮膚植え替える 河村啓子
[2回]
y2013/08/14 09:30 z
CATEGORY[ポエム&川柳]
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