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川柳的逍遥 人の世の一家言
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凸面に溢れるものが急くものが  杉浦多津子



『稲葉山の月』 月岡芳年

稲葉山城の戦い、一夜城のエピソードで有名な戦。

永禄10年美濃国井之口の斎藤氏の居城・稲葉山城を信長が攻め取った。

絵は1885年芳年作-月光る夜半、若き秀吉僅か7名ほどを引き連れ、

崖をのぼり稲葉山城に裏から潜入する場面を描いている。

「永禄10ー11年」

時は永禄10年(1867)、室町幕府は衰亡の一途をたどっていた。

13代将軍・足利義輝が暗殺されて、2年が経っても、

征夷大将軍の座は空いたままになっており、

義輝の弟・義秋(義昭)がその座を狙っていたものの、

力のない義秋に味方するものは、少なかった。

義秋は京から遠い越前国の朝倉義景の庇護下にあったのだが、

朝倉に天下への野心などなく、

武田信玄上杉謙信も上洛できない状況にあった。

横顔は波打ち際へ辿り着く  森田律子

京に上り松永久秀三好三人衆を討とうとする者がいないことに、

業を煮やした義秋は、全国の大名に書状を出し、

上洛の供をするように命じるのだった。

その書状が小寺政職のもとにも届くと、

政職はまんざらでもない様子を見せる。
     よしとし
小河良利は小寺の名が遠く越前にいる義秋の耳にまで届いている

と喜ぶが、実は、職隆のもとにも同様の書状が届いていた。
                                      ながやす
※ 三好三人衆=三好長慶の部下であった長逸・政康・友通の3人をいう。

 長慶の死後、三好家の後継である義継が幼年であったため、

 その後見役として、この3名と重臣・松永久秀が台頭。

 将軍・義輝を殺害して以降、政権の主導権をめぐって,

  久秀と分裂闘争を起こした際、
東大寺が炎上した。

 信長の上洛に反発して抵抗するも、あえなく敗退する。


うっかりとタブーに触れた昼の月  合田瑠美子

政職は、義秋からの書状が職隆にも届いていたことを知り、

職隆を警戒するようになっていった。

「将軍までもが殺される下克上の世に、何があってもおかしくない」

と政職は考えたのだ。

まして黒田家の力は先代の重隆より領民に慕われており、

有事にはすぐに兵を集めることができる。

職隆のためなら命を惜しまないという兵がたくさんおり、

政職はそれを恐れたのだ。

乱世のしるし火星がよく光る  河村啓子



長年、光の読み方は "てる" とされてきたが、最近(平成25年10月)

"みつ" だったことが圓應寺(福岡)に残された過去帳の略伝から分っている。

「櫛橋 光」

この頃、官兵衛はと結婚する。

官兵衛がいつ結婚したかは「黒田家譜」に明記されていない。

永禄11年(1568)12月3日子息の松寿が誕生した記事が突然みえる。

そして、これより以前に播磨国の志方城主・櫛橋伊定の息女・幸圓

娶ったと記されている。

このとき官兵衛23歳、幸圓は16歳であったという。

この記述を信頼するならば、二人のの結婚はもっとも早い場合、

永禄11年初頭頃ということになる。

幸圓は才色兼備のすばらしい女性で、

体格は官兵衛よりも大きかったといわれている。
                                           
また名前は幸圓で知られているが、本名は「光」であると指摘されている。

しあわせを数える為の十の指  山口亜都子

光の実家・櫛橋氏ついて触れてみる。

志方城は、現在の加古川市志方町に所在する。

櫛橋氏はもと相模国大住郡櫛橋郷を本拠としていたが、

鎌倉時代に播磨国に移ってきたといわれている。

南北朝期に至ると播磨では赤松氏が勃興し、やがて守護に任命された。

櫛橋氏は赤松氏配下の奉行人として、草創期から仕えることになる。

しかし、戦国時代に至って赤松氏が衰退すると、

棚橋氏も自立化の道をたどった。

そして、有力な領主として、志方城を中心に威勢を誇っていたのである。

ちぎれ雲ゆずれぬことがあったのね  竹内ゆみこ



このように官兵衛も父・職隆と同様に、

地元の有力者の娘を娶ることになったのである。

ところで当時としては珍しいことに、

官兵衛は側室を迎えなかったといわれている。

二人の愛情は、仲睦まじいものがあった。

光に試練が訪れたのは、夫・官兵衛が

天正6年(1578)荒木村重の居城・有岡城に幽閉されたことである。

このとき黒田一族は、「御本丸」と称し、

職隆・休夢の支援を得て一致団結した。

光が推載されたことから、強く信頼されたことがわかる。

いつもより念入りにする薄化粧  青砥たかこ



「信長ー天下布武」
                                      もりなり
永禄9年(1566)竹中半兵衛安藤守就が稲葉山城を占拠後、

加治田城主・佐藤忠能加治田衆を味方にして中濃の諸城を手に入れ、

さらに西美濃三人衆を味方につけた信長は、

ついに翌永禄0年、斎藤龍興伊勢長島に敗走させ、

織田信長は33歳で尾張・美濃の2ヶ国を領する大名になった。

※ 西美濃三人衆=戦国大名の斎藤氏の重臣である稲葉良通氏家直元

 安藤守就のこと。不破光治を加えて四人衆とすることもある。

 義龍の代に斎藤氏を離反して信長に仕えた。

大刀で地獄極楽裏返す  筒井祥文


この美濃平定の後、信長「天下布武」の印を使い始めた。

天下布武とは日本全国を武力で統一するという意志を示したものである。

この意志を表わしたものが美濃(井ノ口)を、

「岐阜」という名称に改めた点である。

「岐」は天下を治めた周の文王が、

最初に立ち上がった「岐山」に倣ったもので、岐阜の「岐」を使うことは、

信長も文王のように、「日本を統一する」という意志を示したものなのだ。 

この美濃平定の直後、
       おおぎまち                                   りんじ
信長は正親町天皇から朝廷への奉仕を要請する綸旨を受けた。

翌永禄11年には足利将軍13代・義輝の弟・義昭を奉じて上洛戦を敢行し、

義昭を15代将軍の座につけると、四方へ攻略の手を伸ばす。

ドミノ倒しのように諸勢力が信長になびき、

雪だるま状に織田支配圏が広がりつつあった。

ぎんなんの散る日は寒い日のしるし  墨作二郎

一方、職隆はいよいよ新しい時代が動き出すと予感し、

「新たな流れについていくには新たな人材に交代するのが一番良い」

と考え、信長よりもひと回り若いながらも、

同じ時代の人間である官兵衛に将来を託し、家督を譲ったのである。

官兵衛22歳であった。

土鈴にはカシューナッツと陰陽師  井上一筒

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ピカソを越えるにはピカソしかいない  笹倉良一



小寺職隆は官兵衛に家督を譲るまで御着城主小寺政職に仕え、

筆頭家老として黒田家隆盛の礎を築く。

父・重隆が目薬を売って財をなしたため、家柄や血筋にこだわる

重臣たちからは「目薬屋」と囁かれるが、実直に務めを果たして、

主君の信頼を得る。

「官兵衛の父・職隆」

黒田職隆はのちに、父・重隆とともに姫路にやってきた。

しかし、周辺には中小の領主が群雄割拠しており、

なかなか争いごとが絶えなかったという。

職隆は思慮が深く武勇もあったので、

じきに彼らの領主は、職隆を主君として仰ぐようになった。

その後、職隆は御着城主・小寺政職の配下に属した。

各地の戦いに出陣し、多くの軍功を挙げたと伝わる。

政職は職隆の軍功を称え、厚く遇したという。

ドブ板を鼬になって越えて行く  井上一筒

政職は明石正風の娘を自身の幼女に迎え、職隆のもとに嫁がせた。

明石氏は現在の明石市に勢力基盤を置いた有力な領主である。

そして、二人の間に誕生したのが、官兵衛である。

職隆の家ははじめ貧しかったが、だんだんと富むようになってきた。

職隆は天性慈愛が深く、人を恵み、飢えて貧しい者を救おうとした。

そして大きな長屋を二軒建てると、飢えた人をたくさん集め、

道で非人に出会うと「私のところに来なさい。助けましょう」

と言ったので、多くの飢えた人が集まった。

職隆は、人々に食事や衣服を与え養ったのである。

これは、「黒田家譜」にある職隆の人となりを示す一文である。

生きていくため触角を手入れする  高島啓子



後世に編まれた「黒田家譜」の記述によるもので、

丸々信じるわけにはいかないが、少なくとも優しい人柄であったようだ。

これだけでなく、職隆の評価は、

「職隆の人となりは温和にして慈愛が深く、

  正直にして義を守ること剛毅である。

  人品は他人に勝り、善行も多い」

とまで記されている。

座ってるただそれだけでいぶし銀  和田洋子

 ちなみに「黒田家譜」では、職隆は政職に仕えたとあるが、
           のりもと
実際はその父の則職の代から仕官したもんとと考えられる。

その活動が天文年間の「鶴林寺文書」に職隆の書状があり、

則職の意向を伝えたことが認められる。

職隆が作成した算用状では、黒田姓を用いており、

永禄元年(1558)の時点において職隆は、未だ自立的な様相を残していた。

したがって、職隆が小寺姓を用いるのは、

則職が亡くなって政職が家督を継いで以降のことといえる。

算用状=年貢の収支決算書

オクラほどの粘りが性に合っている 下谷憲子



政職が小寺家の当主となった時点で、

職隆は、小寺氏の完全な配下に収まった。

やがて政職から「職」の字を与えられるまでになり、

職隆の代に、黒田氏は小寺氏の重臣の地位を築くのである。

また職隆は、小寺姓をも与えられるほどであるから、

有能であったとことは確かである。

そお点において「黒田家譜」が職隆を賞賛するのは、

多少表現が大袈裟であることを除けば、信用してよいだろう。

また奉行人としては、長浜職秀とともに連署奉書を発給するなど、

小寺氏家中の中心にあった。

一方、職隆の弟・休夢も、当初は政職配下にあった。

つまり、小寺氏家中の中核は、

黒田氏によって構成されていたことは明らかである。

削っても削っても大黒柱  森 廣子

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山や谷越えた図太さ今がある  堀冨美子



「官兵衛旅に出る」

官兵衛はまだ家督を継ぐ前、武兵衛善助を連れて、

堺や京見物に出たことがあった。

戦国期の京は政治都市としての機能は殆ど失われてしまっていたが、

商都としては、大変な賑わいを見せていた。

京では官兵衛は神社仏閣への参詣や物見遊山には目もくれず、

人とは違う目線で京を見学した。

堺では賑わう町の様子に目を輝かせ、

目の青い南蛮人に驚きを隠せずにいた。

官兵衛はこの近くで戦があったことが信じられずにいた。

靴紐を結びなおして生きて行く  吉崎柳歩

 

堺の鉄砲鍛冶図/国会国立図書館所蔵
                              (画像は拡大してご覧ください)

道中であるきっかけで知り合い、道案内を買って出た荒木村重は、

「堺は、よそとは別だ」 と説明する。

「堺には、仇同士でも刃をおさめなければならないという掟があり、

  どんなに腕に覚えがあっても、堺の金の力には勝てない」

と言い、さらに村重は、
                                         えごうしゅう
「堺で一番偉いのは将軍でも大名でもなく会合衆と呼ばれる豪商たちだ」

と、言葉を続ける。 そして、

「堺の豪商が播磨の田舎侍を相手にするかどうか分らないが」

と、前置きをつけ、堺の鉄砲商人・今井宗久の屋敷へ、

官兵衛らを連れて行く。

斜め三十度口笛吹く男  嶋澤喜八郎

荒木村重=摂津国の地侍。

不遇時代に官兵衛と知り合って意気投合し、
官兵衛のよき兄貴分となる。

信長の抜擢を受けて、摂津の国主となりながら、


やがて信長に造反し、居城・有岡城に籠城。

説得に訪れた官兵衛を幽閉した。


籠城は一年におよんだが、あてにしていた毛利の援軍は来ず、

数人で城を脱出。この幽閉で官兵衛は足を悪くしてしまう。

落し蓋の下で弾んでいる男  谷口 義
 
      今井宗久

宗久邸には、南蛮渡来のさまざまな珍品が飾られていた。

官兵衛は興味深そうに部屋の中を見回し世界の広さに目を丸くする。

宗久が部屋に入ってくると、

「一見の客でも鉄砲を売って貰えるのか」

と問いながら、官兵衛は興味津々に鉄砲を吟味するのだった。

宗久は話の流れで、

木下藤吉郎という侍が鉄砲を求めてここに来たことを話す。

官兵衛はこのとき初めて木下藤吉郎の名を耳にした。

藤吉郎はとても愉快な男で、彼がこんなことも言っていたという。

「今のこの堺の栄華が、戦の道具を売ることで成り立っているというのは、

  なんとも因果なものですな」

宗久は、「それが堺の商人の戦なのだ」 と官兵衛に告げた。

実のなかに秘密の基地がありました  合田瑠美子
                            
今井宗久=戦国時代の堺の豪商・茶人。
   かねかず
名は兼院、号は昨夢斎。
たけのじょうおう
武野紹鴎の娘婿。

信長に近づいて堺対策に協力し、多くの利権を握る。


のちに秀吉の茶頭となり、千利休・津田宗及とともに三大宗匠と称された。

僭越な箸でゲテモノをまさぐる  美馬りゅうこ



錦絵・堺の町の賑わい (包丁屋の店先)

戦国時代、堺は鉄砲製造で有名だが、江戸時代になると鉄砲の需要が落ち、

その鍛冶の技術を応用して包丁を作るようになる。

この旅で官兵衛は、市に出向いては、

諸国から集まって来たさまざまな商人たちと、言葉をかわした。

官兵衛の興味は常人と別の方向を向いているのである。

単に商品そのものを問いただすだけではなく、

産地や流通に関する情報も聞き出した。

こうして世の中の仕組みや世情についても、

独自の戦略眼を磨き上げていった。

官兵衛の軍師としての手腕は、日常から発揮されたこうした努力が、

育んだと言っても過言ではない。

真っ新な明日になりそう大落暉  荻野浩子

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崖上の水仙崖の下のぼく  井上一筒


                    (各画像は拡大してご覧下さい)
「黒田家譜」

播磨は古来豊かな国だった。

律令制下背景となったのは、「播磨」という国名の元にもなった「ハマ」=浜、
                      ふくとまり
すなわち播磨灘に面する魚住・福泊、室津の港と播磨平野である。

だが、その豊かさが仇になったか、争いの火種は常にくすぶっていた。

播磨・備前・美作の守護職だった赤松氏の支配力は弱まり、

播磨から備前の守護代として赴任した浦上氏が、

備前の戦国大名として成長し、播磨においても、

三木の別所氏と龍野の下野守・赤松氏の両守護代が、独立性を高め、

さらに明石氏などの有力な土豪たちがそれぞれ割拠している。

そして牽制しあいながら、微妙なバランスを保ち続けていたのである。

そのような勢力が割拠する播磨の地に黒田官兵衛は生れたが、

元々、黒田氏は近江国伊香郡黒田の出身で、

守護の佐々木氏の一族に繋がる土豪だった、と「黒田家譜」は伝える。

その先の夢へと伸びる豆の蔓  たむらあきこ

また『黒田家譜』によると、実質的な黒田家の始祖は、

高政であったらしい。
                       よしたね
永正8年(1511)の船岡山合戦で足利義稙・細川高国
           ゆきなが
細川澄元・三好之長が戦うと、高政は、義稙に従った。

しかし、軍令に背いたことを義稙に咎められ、

佐々木氏の仲介によって、ようやく罪は逃れたものの、

いづらくなった高政は牢人するはめになったという。

その後,高政が流れついたのが、備前国福岡(岡山県)という土地だった。
                       あくら
高政は親族の加地氏・飽浦氏らが備前にいるのを頼ったとされている。

跨いでいくしかない凡庸なオトコ  山口ろっぱ



「身過ぎ世過ぎに何をしたものか」、と考えた高政は、

刀鍛冶が多く住むこの町には鉄の粉で目を痛めるものが多いことに気づき、
 れいしゅこう
『玲珠膏』と名付けた目薬の製造販売をはじめた。

家伝の薬とも、高政の考案とも伝わるが、

残念ながら彼は大永3年(1523)再び世にでることなく死去してしまう。

その子の重隆は、備前で浦上氏が赤松氏から実権を奪おうとする、

下克上の戦乱が起きると、難を避けて播磨飾東郡の姫路に移る。
         ひろみね   
姫路には広嶺山という丘陵があり、その頂きには広峯神社があるが、
                  
重隆はこの神社に接近し、お札と『玲珠膏』をセットにして、
        お し
神社の御師に売り回らせて大当たりをとったという。

透明になるまで自転しています  合田瑠美子

ところで、官兵衛が姓とする「黒田氏」は、いかなる所以をもつのだろう、
                 かんせいちょうしゅうしょかふ
黒田氏の出自に関しては、『寛政重修緒家譜』『黒田家譜』に記されている。

前の文を読む通り、黒田氏の歴史物語には殆ど、

「黒田家譜による」という言葉がついてくる。

いわゆる、軍師・黒田官兵衛の物語はこの家譜にそって進んでいく。

そこで、「黒田家譜」がどういうものなのか見聞してみたいと思う。

始まりはリンゴと蛇と好奇心  板垣孝志

寛文11年(1671)、福岡藩三代藩主の黒田光之は、

貝原益軒に「黒田家譜」の編纂を命じた。

高政まで遡れば、180年前の事実を調べることになる。

光之は倹約家として知られ、藩の緊縮財政を方針としていたが、

益軒を起用して、学問の興隆に務める一面があった。

以来、17年の歳月をかけて益軒は編纂に従事した。

完成したのは、元禄元年(1688)その間の史料収集と執筆は、

想像を絶する難事業であったものとしのばれる。

※ 福岡藩主・黒田光之は官兵衛の曾孫に当たる。

苦労したことを語らぬ太い指  鈴木栄子

 
  
    貝原益軒

貝原益軒は、名は篤信、字は子誠、通称は久兵衛といい、

江戸前期、儒者・博物学者・庶民教育家として知られる。

益軒の先祖は、岡山県吉備津神社の神宮であり、

祖父の代から黒田氏に仕えていた。

父は祐筆役を努め、益軒はその四男として福岡に生まれた。

壮年に至った益軒は、黒田藩に再就職すると、

藩費で京都に数年間にわたり留学し松永尺五木下順庵らの朱子学者や、

中村惕斎・向井元升らの博物学者と交わる。

また江戸時代初期の商業貨幣経済の進展や

上方の経験・実証不義の思想を実体験し、

後年それを発展させた人物でもある。

旅空のわたくしが産むちぎれ雲  徳山泰子



   黒田家先祖の墓

「『黒田家譜』の史料的な価値、黒田家の先祖の曖昧」

「黒田家譜」の価値を貶める一つの要因となっている書物に、

佐々木氏郷という人の著作で「江源武鑑」というのがある。

近江の戦国大名・六角氏について日記形式で著された歴史書で、

全十八巻とかなりのボリュームのある書物なのだが、

作者の佐々木氏郷は、沢田源内の偽名と考えられ、

源内は偽系図の作者としても知られている人物なのである。

そのため、この「江源武鑑」は内容にも誤りが多く、

現在では偽書という位置付けになっている。

とりわけ官兵衛の祖父・重隆の項目では、

内容に問題が多い史料として知られている。

擂鉢の底で粘っている思案  荻野浩子

ところが、官兵衛以降になると、多くの文書を参照しており、

参考になる点も多々で、

「黒田家譜」でしか確認できない文書も掲載されている。

そんなことから、非常に貴重なものであるともみられている。

ただし、本文中に文書が引用されているからといって、

記述が正確であるとは言い切れない。

(益軒が近代歴史学の手法に基いて執筆したといえないからである)

また、作品の中で、官兵衛を全体的に顕彰する傾向が非常に強いのは、

黒田藩主・黒田光之の命で編纂されたものであるから、

止むを得ないところだろう。

これだけを見ても、益軒の苦労のほどが如実に伝わってくる。

紙芝居ほどのジャンルで生きている  武本 碧

さて、「黒田家譜」に関して次のような論もある。

「歴史上の人物で有名な人なのだが、その人がどういう出身の人か、

「父母は誰か?」「どこの生れなのか?」

詳しいことはほとんどわかっていない、というケースは多い。

ところが、黒田官兵衛の場合、そうした先祖や父母や出生地について、

明らかであると思われている。

ところが、それは一般化した「通説」というばかりのことで、

本当のところをいえば、実はそうではない。

黒田官兵衛のケースは、史料がないのではなく、

『黒田家譜』のような「正史」が早々に作成されたために

かえって史実が覆い隠されるという結果になった」 というのである。

やみくもに過ぎるあの日のコトバ達  山本昌乃

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風おこす順番が来た立ち上がる  竹井紫乙



            御着城跡

御着城は赤松氏の一族小寺氏の居城で永正16年に小寺政隆が築城したと伝わる。

                                                                    (画面をクリックすると絵は拡大されます)


「官兵衛の初陣」

万吉と呼ばれていたころの官兵衛は、母・いわを亡くした後、

歌道の本ばかり読み耽っていたという。
                        たねいえ
母・いわの父筋・明石家は、関白・近衛稙家の歌道師範を

務めていたとされ、いわも歌道に精通していた。

そうした才が子々孫々の受け継がれ、

さらに官兵衛にまでも、その血をうけついだとしても不思議ではない。

当主の小寺政職はもとより、

叔父である休夢も和歌や連歌を嗜み、茶を好んでいた。

誰よりも明るい空をポケットに  むさし


                                よしたか
14歳で元服した万吉は、官兵衛孝高と名乗る。
                           まさもと
そして永禄4年(1561)、16歳で主君・小寺政職の近習となり、

御着城に起居するようになる。

その翌年、敵対する近郷の土豪討伐で初陣を飾った。

そののちも合戦ごとに官兵衛は、手柄を立てるのだが、

歌にのめりこむ生活に変わりはない。

永禄7年に妹が婚礼当日、

妹が下野守赤松氏との争いに巻き込まれて、

夫ともども、攻め殺されるという悲劇があったことも、

官兵衛に世の無常を痛感させ、

ますます文学に親しんでいく要因になったのだろう。

また南瓜切ったか月に話したか  鳴海賢治

しかしそんなある日、近くに住む円満坊という僧が、

「戦国の世に歌に溺れるとは何事か!」

と諌めたことが官兵衛のその後を大きく変えることとなった。

「たしかに今は戦国。

  軍学を学んで弓術や馬術に精を出すべきであるのに

  風雅の道に耽っていては時代に適応できぬ」

非を悟った官兵衛は、戦乱に真正面から向き合うことを決意し、

父から御着小寺氏家老・姫路城代の地位を継承した。

もうそれはたぶん要らない部品です  芳賀博子



    黒田家廟所

御着城跡の隣には官兵衛の祖父重職と生母の明石氏が眠る黒田家廟所がある。
                     
こうした中で、小さな合戦が起こる。

「青山合戦」である。

これが官兵衛の初陣となった。

父の職隆はすでに小寺家の主席家老であったため、

官兵衛が先鋒の大将を務めることになる。

自転車にはじめて乗れた日のように  高橋かづき

職隆が前線に出ている間、官兵衛は政職の床机まわりにひかえていた。

司馬遼太郎はこの合戦の際、官兵衛が、

「進んで使い番を務めた」 と記している。

通常は老練な武者が務める役割だ。

16歳という若年ではあったが、官兵衛は伝令だけでなく、

時には敵陣にまで馬を乗り入れ、敵状を探ってきた。

そして戦況を 詳細に分析してみせたという。

月光で影を洗ってから眠る  木本朱夏

 

            青山古戦場

永禄12年龍野城主・赤松政秀が3千の兵を率いて姫路城を目指した。

「官兵衛の戦場」

戦闘の地へ御着城を出た一行は、

近隣の女性や老人たちの見送りを受けて進軍していく。

官兵衛重隆おたつに見送られて進んでいった。

そんな官兵衛を見送るもう一人の若者がいた。

栗山村の善助である。

※ 栗山善助とは、黒田24騎の中でも筆頭にあげられる知恵者。

 農家の出身だが、黒田家が才覚次第で家臣を取り立てると聞き、

 官兵衛を道で待ち伏せて仕官を願い出た豪の者。

樹は風に僕は言葉に揺れている  大西俊和

小寺軍が黒田軍に合流すると、政職職隆から

「敵の先鋒はおよそ200、率いているのは、石川源吾」

だという報告を受ける。

左京進は先鋒に加わりたいと名乗り出て、

「敵の首級をあげてみせる」 と息巻いた。

官兵衛も続いて名乗りをあげようとするが、言いそびれ、

近習として政職を守る役目をしっかり務めることを誓う。

緊張が続くと笑いそうになる  青砥たかこ

戦場では小寺軍と赤松軍が激突していた。

小寺の本陣にいた官兵衛は、

武兵衛を連れて戦況が一望できる丘へ向かう。

初めて見る戦で、初めて人が斬られて死んでいくのを見た二人は、

震えながら戦況を見つめていた。

戦場では左京進ら先鋒の部隊が石川の軍勢と戦っていた。

石川の部隊は後退したかと思うと、退くのをやめて攻撃に転じてくる。

その繰り返しの様子をみて、罠を仕掛けられていると見た官兵衛は、

『孫子』の言葉・「半ば進み半ば退くは誘也」を引用するや

馬に飛び乗った。

官兵衛は戦場に向かって走り出し、

武兵衛は本陣の政職のもとへ走らせた。

ぽろりんと生れた日から鬼ごっこ  菊池 京

敵の作戦に気づいた職隆が味方を止めると、官兵衛が走ってくる。

官兵衛は左京進が罠に気づかずに敵を追っていることを報告すると、

職隆を抜け道に導いた。

後退をする石川隊を追って、森の中に入った左京進隊は、

茂みから伏兵にに襲われてしまう。

味方が次々と討ち死にし、絶体絶命となったところで、

官兵衛に連れられて職隆たちが駆けつけた。

意表をつかれて動揺する赤松軍に黒田軍は、圧倒的な強さをみせ、

石川隊を追い払った。

遠雷や会わない奇蹟会う奇蹟  山口亜都子

父の左京亮から、

官兵衛の働きで敵の背後をつけたことを知らされた左京進は、

「目薬屋も手助けはいらない」

と官兵衛に言い捨てる。

しかし当の官兵衛は、初めての戦場に圧倒され、

辺りに転がった死体を呆然と見るだけで、

何も耳に入っていないのだった。

すみません作り笑いの時間です  鳴海賢治

結果、勝利を得たのは、小寺氏の方であった。

「黒田家譜」によると、このとき小寺政職と交戦に及んだのは、

赤松政秀である。

播磨の名門・赤松氏の系譜を政秀は、龍野に本拠を置く有力者である。

政秀は播磨に勢力を拡張しようと目論む信長と結んでいた。

播磨国内で織田信長に叛旗を翻すのは、小寺氏宇野氏くらいである。

いわゆる、この合戦の背景は信長勢力による播磨侵攻の一環であった。

こうした経緯があって、小寺政職と官兵衛は、

信長の侵攻作戦のなかで、大きな決断を迫られることになる。

薄氷の奥から届くデコメール  河村啓子

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