ロンパリ!考える椅子
川柳的逍遥 人の世の一家言
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鳥羽・伏見の戦い
条約を遵守した餅の和え方 井上一筒
海路江戸へ向かう慶喜
鳥羽伏見の戦いの際、総大将である
慶喜
が大阪城を退去し、
江戸へ戻ったことは、幕府軍の士気を落とし、敗戦の要因とされた。
(画面をクリックしてご覧下さい)
「鳥羽伏見の戦い」
慶応3年
(1866)
10月、将軍
慶喜
は大政奉還を行ない、
幕府の政権を朝廷に返上して、倒幕派の鋭鋒をかわしつつ、
政治の主導権を握ろうと目論む。
これによって薩摩・長州に、
岩倉具視
から下達された
「倒幕の密勅」
は空振りとなった。
しかし薩摩藩らは、
同年12月に
「8月の政変」
と同様の政変を起こし、
「王政復古」
の大号令
を発した。
冷凍のインゲンマメというメンツ 井上しのぶ
同日、慶喜の将軍辞職、摂政・関白、京都守護職、
江戸幕府の廃止が決まる。
慶喜は衝突を避けるために、大坂城に移る。
この時、会津藩兵や桑名藩兵もともに大坂に退いた。
その後も慶喜は、驚異的な政治力を発揮し、
一時は、情勢を巻き返すかに見えた。
だが薩摩藩が江戸で騒乱を繰り返して挑発。
これに乗せられて、ついに戦端が開かれるのである。
振り出しに決して戻らぬ時雨の記 小林満寿夫
薩長らの兵力五千に対し、
京都を目指す旧幕府軍は1万5千。
会津藩兵らは、伏見街道を進み、
桑名藩兵や幕府歩兵隊らは、鳥羽街道を進む。
だが寡兵ながら、新式火器を装備した薩長の火力は、
圧倒的であった。
慶応4年
(1868)
1月3日、
鳥羽街道を縦隊で進軍する旧幕府軍を、
薩軍が待ち受けて一斉射撃を加えた。
桑名藩兵や幕府歩兵隊らは反撃を試みるも、
敵に圧倒され壊乱する。
祈ろうかススキの光透けてゆく 増田えんじぇる
指揮をとる容保
同じ頃、伏見街道でも、
会津藩らが陣を置いた伏見奉行所を薩軍が砲撃。
会津藩大砲奉行の
林権助
らが必死の砲撃で反撃し、
佐川官兵衛
は
土方歳三
率いる新選組と共に、
斬り込みをかけるが、
劣勢を覆せずに伏見奉行所は焼失してしまう。
旧幕府軍は淀城に退却した上で、迎え撃とうとする。
しかし、淀藩は譜代藩で藩主が現職老中であったが、
新政府側に寝返り、入城を拒否。
さらに山崎に布陣していた藤堂藩兵が、
淀藩の寝返りに呼応して、旧幕府軍を側面から砲撃した。
結び目がささくれだった声を出す 岩根彰子
ここに至り、旧幕府軍は敗走せざるを得なくなった。
この戦いで会津藩の砲兵隊は、
死傷率が八割を超すほどの被害を蒙った。
大砲奉行の
林
は全身に銃弾を浴びつつ指揮を執るが、
江戸に退却する途中の船上で落命。
また
覚馬
の弟・
山本三郎
もこの時の戦傷により、
江戸に帰還後、死去している。
てのひらの石を出ていく一番列車 岩田多佳子
金戒光明寺の会津藩殉難者墓地
この時、失明していた覚馬は、戦いに参加できなかった。
会津藩士たちが大坂へ去った後も京都に留まって、
洋学所の塾生たちに教授を続け、
戦争勃発後に捕らえられたとも、
大坂に移り、その地で捕らえられたともいわれる。
薩摩藩邸に捕えられた覚馬は、
朋輩たちの戦死をどう噛み締めていたのだろうか。
この戦いで戦死した会津藩士115名の慰霊碑、
および、文久2年(1862)の上洛からそれまでの間に、
落命した237名の墓碑が、
金戒光明寺の
会津藩殉難者墓地
にある。
捨て石にきれいな色を塗りましょう 蟹口和枝
[1回]
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y2013/05/15 09:30 z
CATEGORY[ポエム&川柳]
管見
やがて身は溶けて吸われる樹液かな 山田ゆみ葉
山本覚馬 建白書
「会津藩の怒り」
薩摩は会津と盟約したかと思えば、
密かに長州と結ぶなど表裏定かでなく、
謀略をも厭わなかった。
薩摩の標的でなかった南部藩家老・
楢山佐渡
ですら、
その横暴ぶりに義憤を覚え、
奥羽越列藩同盟に加わったほどだ。
ましてや、
当事者たる会津の心境たるや推して知るべしである。
山本覚馬
とて、怒りを禁じ得なかったはずだ。
固い背がまだ許さない許せない 高橋謡子
薩摩藩邸があった同志社大学のキャンパス
しかし覚馬は、伏見の会津軍に向かう途中、
薩摩藩に捕縛され、
京都二本松の薩摩屋敷の牢に収監される。
牢といっても稽古場をにわかに改造したもので、
畳敷きで夜具もあった。
西郷
を知る覚馬は、優遇され、読書も自由だった。
≪覚馬はここで新国家構想を示した。
革新的な
『管見』
を口述筆記させ、勤皇の有職者たちを驚かせた。
その内容は三権分立や二院制をはじめ、
商工業振興や税制改革、能力主義の人材登用など、
日本の近代化を進めるにあたって、
具体案を23にわたる項目で論じたものだった。
「管見」のなかでも感心させられるのは、
「教育」と「物づくり」を重視している点である。
「教育」と「物づくり」を核にした国づくりという構想が、
いかに的を射たものであったかは、
その後の日本の発展が証明している≫
生駒聖天に黄色を塗りに行く 井上一筒
囚われの身となった覚馬は、それでもなお、
怨讐を捨て争乱の拡大を抑えようとする。
旧幕府方が朝敵とされ、
大坂から江戸に向けて敗走したこと、
さらに新政府軍が江戸に進軍中であることを知ると、
自ら和平の使者となることを願い出るのだ。
「私が慶喜公と容保公を説得し、矛を収めさせましょう。
もし新政府軍があくまで追討すれば、
わが会津藩は、一兵残らず討死するまで戦うでしょう。
そうなれば日本の国力が衰えるばかりで、
外国の乗ずるところとなります」
風の樹は風になるまで勇ましい 田中博造
覚馬はもちろん、会津を愛する気持ちは強かったが、
それ以上に、日本そのものを守ろうとしていた。
視界から光が失われれば失われるほど、
覚馬の視野はむしろ広がりを見せ、
自分が会津藩士であると同時に、
日本人であることに目覚め、
「今は国内で争うべきではない」
と痛感したのである。
ルーズになってくる日本列島のかたち 森中惠美子
しかし、覚馬の嘆願が聞き入れられることはなかった。
その直後に記した建白書
『管見』
も、
先進的な内容で西郷や小松を瞠目させたものの、
新政府軍の動きを阻止するにはいたらなかった。
遺言はなし伝説になりました 石橋能里子
[4回]
y2013/05/08 09:30 z
CATEGORY[ポエム&川柳]
慶喜の一面
仏壇の鉦を合図にクーデター 井上一筒
京都二条城一・二の間
慶応3年10月14日、15代将軍・徳川慶喜は京都・二条城一の間に、
上洛中の40藩の重臣を招集し、大政奉還を諮問した。
かくして徳川幕府265年の歴史は幕を閉じた。
(画面は拡大してご覧下さい)
「秒読みの戊辰戦争」
慶応3年
(1867)
5月頃まで長崎に滞在した
覚馬
が、
京都に戻ると、時局は混迷を極めていた。
わけても、
薩長同盟
を結んだ薩摩藩と会津藩の対立が,
激化していた。
覚馬が目指すべき道は、
佐久間象山、勝海舟
と同じく、
国内が一致して西洋列強にあたることにある。
両藩の対立は望むところではなかった。
そこで6月、覚馬は宥和を図るべく、
薩摩の
西郷隆盛
と
小松帯刀
と会談するが、
会津藩内の強硬派は鎮まることがなかった。
一方、西南雄藩は倒幕の動きを加速させていく。
その機先を制すべく10月14日、
徳川慶喜
が
大政を奉還
する。
足し算の途中で夕陽が沈んだ 森田律子
二条城俯瞰
「大政奉還‐慶喜の真意」
『天下の政権を朝廷に奉還せしめ、
政令宜しく朝廷より出ずべき事』
『上下議政局を設け、議員を置きて万機を参賛せしめ、
万機宜しく公議にに決すべき事』
これは
坂本龍馬
が長崎から京都へ向かう船中で、
後藤象二郎
に構想した
「船中八策」
である。
この船中八策は、土佐藩主・
山内容堂
から建白の形で、
慶喜に示された。
御破算で願いましては日記帳 黒田忠昭
慶喜の方でも、朝廷の方から
「委任をやめる」
と言い出す前に、
何らかの手を打たねばならないと考えていたので、
この
大政奉還
を一つの手として、
受け入れることにしたのである。
それはまた、薩長と土佐藩とを分断することにもなるし、
薩長の倒幕の口実を封ずることにもなると、
考えたからであった。
賞罰の欄に羊を押し込める 岩根彰子
徳川慶喜
「大政奉還後、慶喜はどのような位置を占めようと考えていたのか?」
せきむかい ひっき
慶喜生前の談話集・
「昔夢会筆記」
(慶喜談話集)
によると、
かつきよ
慶喜側近の老中・
板倉勝静
らは、
慶喜を朝廷の摂政という形にして、
そのまま実権をとり続けさせたいと思っていたようである。
また幕臣の
西周
の
「議題草案」
によると、
将軍は
「大君」
と名前を変え、諸侯議会の議長となり、
国家の行政権と立法権、
さらに軍隊の統帥権まで握るとしている。
通り名がもひとつあって太い骨 くんじろう
ところが薩長は権謀術数を用い、
12月9日に
王政復古
を宣言。
慶喜の将軍職辞職と
容保
の京都守護職解任が決まる。
新政権から排除された上、
辞官納地まで求められた慶喜は、事態の急展開に驚くが、
ひとまず会津藩などの旧幕府方を引き連れて、
京都をあとにして大坂城に入った。
(この時点ではまだ、討幕派の政治体制が確率していたわけでなく、
慶喜自身も巻き返しは可能とみていたものと思われる)
サンダルを洗う潮騒きいている 三村一子
馬上の慶喜
ところが覚馬は、
同僚から身の危険を諭されながらも京都に止まる。
万一、薩長と旧幕府方が武力衝突するような時には、
身を挺してでも、双方の宥和を図るつもりだった。
だが薩摩は、江戸市中で狼藉を働くなど、
旧幕府方への挑発を繰り返していく。
旧幕府方、とりわけ会津藩の薩摩に対する憤りはすさまじく、
ついに慶応4年
(1868)
1月3日、
「鳥羽・伏見を戦場とする戦い」
へと突入する。
この鳥羽伏見の戦いの開始が、
「戊辰戦争」
の始まりであった。
戊辰とは、慶応4年の干支である。
かげろうだろうこころとか想いとか 新家完司
[3回]
y2013/05/04 09:30 z
CATEGORY[ポエム&川柳]
孝明天皇の不審死
捨てた紙屑青い炎があがり出す 森 廣子
孝明天皇
「孝明天皇の死の裏」
孝明天皇
が即位したのは、
12代将軍・
家慶
の在位中のことである。
即位時、天皇はまだ16歳、政治経験が乏しいままに、
安政の大獄
や
桜田門外の変
などが起きた動乱の時期を、
駆け抜けることとなる。
また公武合体運動の推進などを行ない、
天皇としての尽力に努めた。
スムーズに回る水車を見届ける 山田幸子
天皇の多忙さに周囲は天皇の心労や体調を心配するが、
天皇はいたって健康だったという。
そんな孝明天皇が急な発熱で倒れたのは、
慶応3年
(1867)
1月16日のこと、
原因は天然痘と発表される。
すぐに24時間体制での治療措置がとられ、
その甲斐あって、天皇の症状は順調に回復しはじめたが・・・
病状は急変。
そのまま帰らぬ人となってしまった。
ああ四月 消しゴムのさら買いにゆく 河村啓子
岩倉具視
あまりにも急な出来事だっただけに、
孝明天皇は、何者かに暗殺されたのではないかと囁かれた。
「いったい、誰が何のために天皇を殺したのか」
「天皇が死んで一番得する人物は一体誰なのか」
そこでひとりの男の名が浮かび上がる。
岩倉具視
だ。
黒を着る 秘密を持っている限り 福尾圭司
岩倉具視はかって公武合体論者だったが、
彼は世間が倒幕ムードになると、
あっさりと尊王攘夷に転向。 これが結果的に、
孝明天皇との関係に決裂を招くこととなる。
孝明天皇が在位されている限り出世することは難しい。
そう考えた岩倉が天皇暗殺を企てた、というのである。
孝明天皇から、14歳の
睦仁親王
(明治天皇)
へ変わると、
岩倉は一躍出世している。
斜め三十度口笛吹く男 嶋澤喜八郎
そんな天皇暗殺が囁かれる岩倉だが、
彼にはもう一つ、疑いがかかっているものがある。
「天皇すり替え説」
だ。
これは睦仁親王が明治天皇となる前、
別の者に差し替えられたというもの。
それを示すように即位前とあとで、
天皇はまるで違う人なのである。
≪たとえば、睦仁親王は天然痘を患っており顔面には、
天然痘特有の後遺症があったが、明治天皇の顔には見られない。
また虚弱体質だったという幼少時代に対し、
即位後はといえば側近の者を相撲で投げ飛ばすことも。
さらに、「字が下手」「政務に無関心」「乗馬の記録がない」
という睦仁親王に対し、
明治天皇は真逆の要素を持っているのである≫
カラカラと素焼きの壺の中のボク 加納美津子
明治天皇
「では誰にすり替えられたのか」
おおむろとらのすけ
その相手は、南朝の末裔である
大室寅之祐
。
つまり
「北朝」
系の子孫である睦仁親王に代わり、
「南朝」
の大室が即位したのだ。
これにより、北朝系に仕えていた徳川家や松平家は、
天皇にとって
「逆賊」
になってしまった。
これが新政府にとって、
江戸幕府勢力を一掃する口実となり、
戊辰戦争
が起きたのである。(・・・の考え方に繋がる)
卵は半熟ぬるま湯の企み 山口ろっぱ
[3回]
y2013/05/01 09:30 z
CATEGORY[ポエム&川柳]
覚馬ー失明して
阿弥陀籤当りは雲の詰め合わせ 岩根彰子
幕府が派遣したオランダ留学生達
(国立国会図書館)
前列右端が西周、後列中央に榎本武揚の姿が見える。
(画面をクリックすれば大きくみれます)
「山本覚馬、失明して」
視力を失った砲術家に一体、何ができるというのか・・・。
視力を失うのは、ただでさえ恐ろしい。
しかも砲術の専門家である
覚馬
の心境はいかばかりか。
その懊悩は、常人に推し量れるものではないだろう。
人間の隙間ににがい句読点 皆本 雅
勝海舟
勝は西と覚馬を結びつけた。
ところが驚くべきことに、その後の覚馬の歩みは、
止まるどころか、むしろ力強いものとなってゆく。
覚馬の歩みの中でとりわけ重要なのが、
にしあまね
近代日本を代表する啓蒙家・
西周
との出会いである。
慶応2年
(1866)
、覚馬は
勝海舟
の紹介により、
京都で西周と知遇を得た。
西は文政12年
(1829)
生れで、
覚馬より一歳年下の旧津和野藩士である。
幸運はタラちゃんに会う曲り角 山本早苗
だが、覚馬と西では、学問に対する姿勢が正反対だった。
西は、喩えるならノーベル賞を狙うような学者肌で、
実社会に活かすための哲学とはいえ、
自身は学理を突き詰めていくタイプであった。
対する覚馬は、探究心旺盛ではあるものの、
より実戦を重視した。
≪覚馬は、『管見』で、日本の近代化の具体的な提案をし、
維新後の京都府顧問時代には、
そのための施策を実現させている≫
それからの問わず語りが胸を突く オカダキキ
百一新論 西周
とはいえ二人が深い信頼関係で結ばれていたことは、
間違いない。
西の代表作・
『百一新論』
は、
覚馬が記録した西の講義録をもとに、
明治に入ってから覚馬が中心となって刊行したものである。
そして覚馬の手による序文には、
「我友西氏」
の文言がある。
学問に対する覚馬の真摯な態度には、心から頭が下がる。
年下の相手に教えを請うには、よほど謙虚でなければできないからだ。
自分はこれだけの知識しかない、
足りない部分は相手が誰であれ、学び取れなければならない・・・。
覚馬の生涯は、兎に角、謙虚な精神に貫かれていた。
リバーシブルのどちらも味方して着てる 山本昌乃
覚馬の眼病を診察したボードウィン
(長崎大学付属図書館)
「長崎で突きつけられた現実」
眼病を患って後、覚馬は西以外からも、
貪欲に西洋知識を吸収していく。
西と出会った慶応2年、覚馬は第2次長州征伐後に、
藩命によって、最新式の銃砲を購入するために、
長崎に派遣された。
そして、多くの西洋人と直に交流し、次の事を教わった。
アメリカでは器械で田畑を耕し二人で70人分の働きをする。
(ドイツ・レーマン)
イギリスの富は蒸気器械の発明によってもたらされた。
(オランダ・ハラトマ)
外国の商人は貿易によって富を得ている。
(オランダ・ボードウィンとイギリス・グラバー)
素直になった風もフォローになってきた 佐藤美はる
一方で長崎は、覚馬に恐れていた現実を突きつける。
ひとつは、会津藩の
「後れ」
である。
西国諸藩は以前から、西洋事情をつかめる長崎に、
藩士を派遣していた。
すでに洋式銃の購入は、先進的でも何でもなく、
中には蒸気船まで購入している西南雄藩すらあった。
組織対組織の戦いでは、すでに会津は後れを取っている・・・。
覚馬は否応なく、そう認めざるを得なかったはずだ。
ガラパゴスのトカゲに出会う井の蛙 藤本秋声
同時に、自分がいかに会津藩という組織の中で、
孤立した存在か 実感した。
長崎に派遣されたとはいえ、
覚馬の目指す洋式の軍制改革が、
会津藩で諸手を挙げて認められたわけではない。
同時期に長崎にあった
坂本龍馬
は、
脱藩浪人ながら、薩摩藩の支援のもと、
亀山社中を率いて存分に働いていた。
それに比べると、
覚馬は組織にありながらも、孤独な存在だった。
どの道を歩いてみても雨が降る 河村啓子
西 周
「西 周」
嘉永6年
(1853)
に藩命によって江戸に出たところ、
ペリー
来航に刺激されて、蘭学を学ぶために脱藩。
その後、幕府に才能を買われた西は、
オランダ留学を命じられ、
文久3年
(1863)
8月から慶応元年10月まで、
ライデン大学の講義を受ける。
西が学んだのは、主に政治学だが、それだけでなく、
J・S・ミル
の経済学やカントの哲学も修めた。
帰国後は
徳川慶喜
のブレーンとなり、
新進気鋭の蘭学者として名を馳せていく。
日本刀鍛え直した差し歯です 井上一筒
[3回]
y2013/04/27 09:30 z
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