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川柳的逍遥 人の世の一家言
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 迷子札つけた私を見ましたか  山本早苗

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雑物蔵に和歌を刻む八重 (会津図書館蔵)
                          
(画像は拡大してご覧下さい)


会津藩は、籠城抗戦一か月、9月22日ついに白旗を掲げ開城と決した。
こうこう
その夜、八重は、耿々たる秋月の光を浴びながら、
こうがい
三の丸雑物蔵の白壁に笄で万感の想いを彫りつけた。

"明日の夜は何国の誰かながむらん なれしお城に残す月かげ"

【笄】  髪を整えるための道具.。箸に似た細長いもの。

取りあえず地下まで降りるエレベーター  中野六助

「斗南」
                                                かたはる
明治2年(1869)6月3日、松平容保に嗣子・容大が誕生。

それから間もなくして、太政官から家名の再興が許されたが、

旧会津藩には、斗南3万石を取るか、

猪苗代3万石を取るかの

二者択一が迫られることになった。

この選択に斗南移住賛成派の永岡久茂と、

猪苗代を主張する町野主水派との間で意見が分かれるが、

結局、「斗南」へ移ることに決まる。

≪永岡久茂=奥羽越列藩同盟締結に功。
    町野主水=戊辰戦争で北越方面を転戦、会津戦争で功績≫

哀しみをせめては後ろ手に閉ざす  たむらあきこ

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明治2年11月4日、容保隠退。

斗南藩3万石は、誕生間もない容大に与えられる。

明治3年1月5日、旧会津藩士4700余名の謹慎が解かれ、

斗南に移住することが許される。

しかし、旧会津藩23万石の全員が、

新封地の斗南3万石に移住することはできない。

そこで希望者を募り、およそ2800戸、

家族を含めて、約1万5000人が移住することになった。

4月19日、斗南に移住の第一陣300名が八戸に上陸。

その7月、藩の名はあらためて「斗南藩」と名付けられた。

尻尾切り以上で事は終えました  谷垣郁郎

「藩民移住と苦難の旅路」

斗南藩主となった容大は、

藩士の冨田重光の懐に抱かれて駕籠に乗り、

この時は、五戸に向かったが、

のちに円通寺の所在地・田名部に移住している。

斗南に移住した旧会津藩士の家族たちは、

藩士らより約6ヵ月後の10月、

会津からはるばる陸路にて、斗南へ向けて旅立った。

彼等の中には老人や婦女子らに混じって、

多くの負傷者たちもいた。

しかも途中の旅籠代は、

のちに藩から一括して支払うといっても信用されず、

宿泊を拒絶する宿も多かった。

ページ繰るたびに入って行く迷路  合田瑠美子

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  斗南藩士上陸の地

【斗南】 漢詩の「北斗以南皆帝州」に因んで命名されたもので、

  
「北辺の地とはいえ天子の領土なのだから、

   天朝から追放されたのではない」
  と解した≫

粥をすすり、霙にうたれても着替えさえなく、

新封地斗南を遥かに拝しながら、

無念の涙をのみ死んでいった者も数多くいたといわれる。

斗南へ到着してからも、藩士達に艱難は続く。

会津23万石から斗南3万石へ減封された彼らであったが、

さらに言えば斗南3万石といっても、

それはあくまでも表高であって、

実高は、7000石余という不毛の地であった。

このため、会津藩士の斗南における苦難の生活は、

さまざまに語り伝えられている。

限りなく明日がどんどん擦り切れる  大海幸生

八重の夫、川崎尚之助も他の藩士達と行動を共にするが、

明治3年(1870)1月に謹慎が解かれ、

会津松平家の新たな領地とされた斗南藩に移った。

ただし、二十三万石だった会津藩士の家族全員が、

三万石の斗南に移るわけにはいかない。

すでに生活の基盤を得ていた者は、

「当座そこに留まるべき」という配慮から、

八重と母・佐久、兄・覚馬の嫁・うらとその娘・みねは、

身を寄せていた米沢で、そのまま過すことになった。

≪かつて会津で尚之助に砲術を学んでいた米沢藩士が、

   家族の窮地を見かねて救いの手を差し伸べたのだ≫


淋しさが極まる蟹に足がない  嶋澤喜八郎

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斗南に移った会津藩士たちは、

厳しい気候風土の中で、塗炭の苦しみを味わっていた。

そんな中、明治3年10月、藩士の窮状を救うべく、

川崎尚之助柴太一郎と共に、

外国から米を輸入するために、函館に向かうが、

そこで詐欺事件に巻き込まれる。

尚之助と太一郎は、藩に迷惑をかけぬため、

一身に責任を引き受け、裁判が行われる東京に移送される。

だが尚之助は訴訟係争中に身体を壊し、

明治8年(1875)3月20日にその東京で亡くなった。

柴太一郎=義和団事件ー北清事変で活躍した柴五郎の兄

渋い茶の底で溶けないわだかまり  百々寿子

明治4年2月29日、斗南藩は弘前藩に文章を送り、

窮状を訴えて1500円の支援を受けた。

同6年になると、移住藩士は窮乏のどん底に陥り、

その後多くの者は、

着の身着のままで斗南の地を去った。

さよならの背中へせめてもの夕日  松本 柾子

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ブラックホールのここは真ん中だと思う  安土理恵

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     降伏の絵     (各画像は拡大してご覧下さい)

無念の降伏を決意し、調印式に臨む松平容保

新政府軍代表には
板垣退助、中村半次郎、西郷隆盛らがならぶ。
                                   (「会津藩降伏之図」会津若松市所蔵)

「会津終焉」

9月4日、城の西方の如来堂に陣取っていた新撰組が敗退。

9月15日、一瀬要人らの部隊が新政府軍と遭遇。

 一進一退の激闘を繰り返し、城の南方の一の堰村で辛うじて、

 西軍を追い払うが、指揮官の一瀬要人をはじめ、

 多くの死傷者を出し、撤兵を余儀なくされた。

玄武隊の一員として戦っていた八重の父・権八

この戦いで戦死している。

これはまだ序の口ですと雨が降る  清水すみれ

佐川隊はなおも日光口を進軍せんと

大内宿田島方面で苦闘を続けるが、

戦局を覆すには至らなかった。

9月4日、米沢藩が降伏したのに続き、

 15日には仙台藩も降伏する。

最後まで糧道を確保していた城の西南部も、

西軍の手に落ち、若松城は完全に孤立に追い込まれた。

トンネルを抜け出た前に次の山  オカダキキ

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14日から西軍の総攻撃がはじまる。

城の周囲に陣取った50門に及ぶ大砲が轟然と火を噴く。

籠城から1ヶ月、5000名が立て籠もった鶴ヶ城では、

全員討死の覚悟であったが、

奥羽征討総督・仁和寺宮が錦旗を奉じて、

塔寺まできたことを知り、

松平容保はついに「降伏開城」を決意。
 てしろぎ  すぐえもん
手代木直右衛門・、秋月梯次郎らが、

米沢藩陣所へ行って交渉に入った。

相手は政府軍の参謀・板垣退助

当日は結論が出なかった。

忘却の海に向かって船を漕ぐ  森光カナエ

20日、あらためて政府軍に「降伏」を伝えた。

21日、会津藩は抵抗をやめる。

 松平容保は家臣に開城を告げ、

   城外で戦闘を続けていた、佐川官兵衛には書面で、

   帰順を伝えた。

22日、白旗を揚げて降伏した。

この白旗は城内にいた女性たちが、

布を集めて縫いあわせたもので、

長さは3尺(約90㌢)あり、これに「降伏」の文字を書いた。

無条件降伏であった。

北の大手門に白旗が掲げられると、

政府軍の発砲がすべて止んだ。

それで気は済みましたかと割れた皿  八上桐子

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容保喜徳は、籠城戦を戦い抜いた藩士を集めて、

別れを告げる。

藩士たちは涙を流し、城を出た2人は、

妙国寺に護送されていった。

政府軍が大きな歓声をあげて城門から駆け込んできた。

この時、城にいたのは4956人、うち女性は570人・

傷病者284人・老人や子供は575人だった。

空箱の中で蟋蟀鳴いている  畑山美幸

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「萱野権兵衛」

戦後、新政府は容保に罪を問おうとしたが、

「主君には罪あらず。抗戦の罪は全て自分にあり」

萱野権兵衛が主君を命がけでかばった。

このため容保は幽閉で済むことになったが、

権兵衛は久留米藩邸にお預けとなり、

新政府の沙汰を待つ事になる。

古里の渋茶が仲裁してくれた  岩根彰子

会津藩が新政府軍に降伏し、若松城を明け渡すと、

新政府軍は容保の代わりとして、戦争責任者の首を求めた。

戦争の終盤、筆頭家老の神保内蔵助・田中土佐は自刃、

第3席は行方不明という状況。

第4席の権兵衛は、戦いの終わりを見届け、敗戦処理城明渡し、

藩主父子の助命嘆願など敗戦処理に力を尽くした。

そして、戦争責任を追及する会議で出た新政府軍の、

「首謀のものを出頭させるべし」 

という命に名乗りを上げ、

会津藩における一切の戦争責任を一身に引き受けた。

雨雲がぎっしり覆う後頭部  笠嶋恵美子

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     萱野権兵衛

やがて権兵衛の切腹の場に当てられた飯野藩保科邸から、

迎えが来た。

権兵衛は久留米藩有馬家に厚く礼を述べるとそこを出た。

保科邸には梶原平馬山川大蔵が来ていた。

権兵衛が到着すると、保科正益から本日の介錯人は、

剣客の沢田武司であることが伝えられる。

梶原と山川は権兵衛に、容保照姫からの親書を渡した。

熱い目で追うものがあり花図鑑  桑原伸吉

権兵衛がおし戴いて容保からの親書開いてみると、

そこには、

「私の不行き届きによりここに至り痛哭にたえず。

  その方の忠実の段は厚く心得おり候」


とあり、また照姫からの親書には

"夢うつつ思ひも分す惜しむそよ まことある名は世に残れとも"

の一首が添えられていた。

権兵衛は、ねんごろな書状に謹んで礼を述べ、

「覚悟の事であるから、少しも悲しむところではない」

と言い、むしろ喜びの心を述べた。

もう何も言うまい月が丸いから  和田洋子

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「付足してー1」

9月8日にすでに「江戸」「明治」となっていた。

徳川幕府に忠誠を誓い擁護をした結果が、

会津藩の終焉になるとは、誰が予測しただろう。

誰もが八重も、ただ会津を愛し、

守っていきたかっただけなのに。

なんと不条理な戦いであったのか。

城を開け渡した後に、

「これでくじけたら、会津は本当に負けになる」

八重はくちびるを噛みしめ胸を張って、明治の世を迎えた。

「勝てば官軍、負ければ賊軍」

幕末以来、朝廷への忠義を欠かしたことなどなかった、

にもかかわらず、「朝敵」の汚名を着せられ、

故郷が灰燼に帰してしまったことで、

「官軍か賊軍か」の喩えがこれほど適切であったことを、

会津の人たちは思い知らされるのであった。

もういいよそしてだあれも浮いて来ず  嶋澤喜八郎

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   松平容大 (三沢市先人記念館所蔵)

「付足して-2」

会津藩は明治2年(1869)10月、

生まれたばかりの容保の子・
容大を藩主にして、

再興が許されたが、28万石から3万石に減封されたうえに、

陸奥の奥地・
斗南に移された。

寒さなどあまりにも厳しい環境に、

廃藩置県後多くの者が、その地を去ったという。


(一方、容保は、江戸に移され謹慎。

  のちに許されて日光東照宮の宮司となった)


先頭の人だけ方舟に乗せる  井上一筒

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ケセラセラのセラはとっても貧しそう  くんじろう

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     戊辰戦争図
                  (画像は拡大してご覧下さい)


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「戊辰戦争以後の山本家」

「鳥羽伏見の戦い」で、山本八重の兄・覚馬は行方不明、

弟・三郎は戦死。

その悲報で幕を開けた「八重の戊辰戦争」だったが、

「会津戦争」によって、さらなる悲劇に見舞われることになる。

61歳の父・権八は、50歳以上の藩士で構成された

「玄武隊」に所属して連戦していた。

しかし、南方の兵站を断つべく攻めてきた新政府軍と、

激突した一ノ堰で、遂に戦死する。

降伏間近の9月17日のことであった。

さよならが魚のかたちにうずくまる  大西泰世

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降伏開城すると藩士は猪苗代、そして東京で謹慎を命じられ、

女性や老人、子供は塩川から喜多方周辺の農家に当面、

住むように命じられる。

八重と母・佐久、兄嫁・うら、姪・みねの4人もしばらくは、

そこに滞在していたようだが、その後、米沢に移った。

会津に留学して川崎尚之助に砲術を師事していた

米沢藩士・内藤新一郎が、山本家の窮状を見かねて

援助の手を差し伸べてくれたのである。

傷口を重ね塗りしてB面へ  谷垣郁郎

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やがて、覚馬が京都で生存していることがわかり、

一家は明治4年(1871)、京都に向かうことになる。

しかしそこに覚馬の嫁・うらの姿はなかった。

その時すでに京都では、身体が不自由になった覚馬を、

時栄という女性が献身的に支えていた。

京都で覚馬が開いた洋学所に学んだ丹波郷士の

小田勝太郎が、目の不自由な覚馬のために、

自分の妹・時栄に身の回りの世話をさせたのが、

きっかけだというが、八重たちが京都に向かった年には、

久栄という娘も誕生している。

後ろ指さされても膝カックンされても  酒井かがり

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恐らく、うらは自ら身を引く決断を下したのであろう。

また、八重の最初の夫、川崎尚之助もいなかった。

尚之助は会津戦争の頃には、

会津藩士になっていたらしく、他の藩士と共に謹慎した後、
                                となみ
会津藩が再興を許された地・斗南にむかったのである。

おとなしのかまえでこれからを泳ぐ  笠嶋恵美子

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"みちのくの斗南いかにと人問はば 神代のままの国と答えよ"
                                      〔 山川 浩 〕
尚之助なぜ、八重たちを連れず、

単身で斗南に向かったのか。

藩士に取り立ててくれた会津藩への恩義を感じつつ、

しかし蘭学者らしい合理的精神で、斗南での苦労を予見し、

当座、かつての弟子で米沢藩士の内藤に

家族を預けたほうが安心と考えたのだろう。

とはいえ酷寒の地・斗南の苦境は、

尚之助の想像さえ、はるかに超えた。

残高も踵のヒビも読み違う  井上一筒

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藩士の餓死の危機を脱するために、

尚之助はデンマーク領事で商人でもあったデュースから

広東米を調達しようとする。

しかし、仲介した日本人貿易商が契約を履行せず、

尚之助はデュースから損害賠償の訴訟を起されてしまった。

藩を巻き込むことを恐れた尚之助は、

すべての罪を一身にかぶり、

東京での司法裁判に臨むのである。

≪八重と離縁したのはこの時と考えられている)

夕刊には小さく美談にされている  山本昌乃
         いんじゅん
佐久は、因循なところが全くなく、八重の受洗に続いて、

明治9年(1879)末にキリスト教の洗礼を受ける。

そして、同志社女学校の舎監を務め、

女子生徒たちに実の祖母のようにやさしく接し、

「山本のおばあさま」 と慕われた。

今日の地図さて何色で塗りましょう  合田瑠美子

みねも、佐久と共に洗礼を受けた。

後に同志社女学校を卒業。

同志社英学校第一回卒業生で横井小楠の長男・横井時雄

明治14年(1881)に結ばれる。

だが明治20年(1887)、長男の平馬を出産後、病死する。

時代の激動に翻弄された山本家。

明治以降の八重たちの歩みの陰には、

一人ひとりのドラマがあったのである。

今日と明日の間を痩せたらくだゆく  森中惠美子

拍手[4回]

棘の深さを夢の深さと思ってみる  大西泰世

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戦傷兵の手当てに活躍する城内の婦女子たち 

(〔長谷川恵一画〕)
     (画像は拡大してご覧下さい)

「籠城戦の中で」

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城の中は多くの人たちが集まっていた。

先ず女たちは、誰に言われた訳ではないが、

手際よく、米を磨ぎ、飯を炊き、兵士たちのための、

「握飯」を作り始めた。

大釜を幾つも並べ、火を熾し、炊き上がった飯から、

順々に握り始めた。

「炊きたてで熱いわよ」

「水で手を冷しながら握るといいわよ」

「熱っ!本当に熱いけど、戦っている男衆のことを思ったら、

  何でもないよ」

「手に付いた米粒が桶に溜ったら、あとでお粥にするからね!」

「お焦げも捨てないでね、あとで女衆は、

  それをいただきましょう」


などと実に結束しているのだった。

平凡がいいと握った塩むすび  太田 昭

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また女たちは、「弾丸作り」も積極的に参加していった。

西軍の銃撃は激しく、城中からも応戦するのだが、

銃弾や大砲の弾が間に合わないほどだった。

そこで女も、兵士に教えてもらいながら弾丸作りをし、

出来上がった重い弾丸を運ぶのであった。

百個を一箱に詰めて運ぶのだが、

八重は、火事場の力持ちのごとく、

二箱も三箱も肩に担いで運ぶものだから、

男装していることもあって、

「三郎さん頑張るね!」

「力持ちだな、三郎さんは!」

「たよりにしてるよ三郎さん!」

「頑張り過ぎるなよ三郎さん!」


と、兵士たちは八重をねぎらうのであった。

振り向くとみんな大きな愛でした  牧渕富喜子

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籠城戦も日をかさねて行くと、

敵の弾に当って負傷する者がでてきた。

薬も充分ではないが、八重たち女子は、

かいがいしく手当てをしていった。

しかし、ある晩のこと、

長い廊下に一列になって兵士が寝ているのを見つけて、

八重はびっくりしたものだった。

―よほど戦いに疲れておられるのだなあ、

  風邪でもひかれたら大変だ。


と灯火をつけると、

寝ているのではなく死んでいるのであった。

―この人たちの分も戦わなくては!

再び強く決意する八重である。

夕日かも知れず隣の独り言  蟹口和枝

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八重も何度か危険な目にあっていた。

籠城後三週間ほど経った頃、攻撃が激しさを増していった。

御女中見習いから側女中格になった八重が照姫の命で

食事を運んでいた時のこと、

敵の砲弾が足元近くで破裂したことがあった。

幸いにも直撃しなかったが、

土ぼこりで盆のおにぎりは泥だらけになるわ、

一緒に運んでいた女たちも皆、土をあび、まっくろな顔になった。

恐怖心よりも驚きと可笑しさの方が勝って、

皆大笑いしてしまった。

プロセスの涙に疎い土踏まず  中井アキ

銃弾が当りそうになり間一髪命拾いしたこともあった。

弁当を運んでいる時に、

チョットかかんだ拍子に弾が頭をかすめたのだ。

この時も運がよく、その前に知り合いになった兵士の一人が、

「三郎さん!頭を守りなよ!」 と言って、

くれた帽子をかぶっていたため、

その帽子がはじき飛ばされて八重の身代わりとなった。

鈍いふりして針の山生き延びる  あかまつゆうこ

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新政府軍となった敵の総攻撃が始まったのは、

9月の半ばのことであった。

そのすさまじさは、

月見櫓を守っていた老人が飛んできた砲弾を数えたところ

2000発を超えたという。

藩主・松平容保も大砲の威力や銃の重要性を再確認し、

城内に居る砲術に詳しい者を問い、

八重が推挙され、

御前で敵の不発弾を分解し、説明をした。

プラチナの匙真夜中を裏返す  井上一筒

城を見下ろす小田山に連合軍が砲列を敷き、

攻撃してきたので、

三の丸の土手から集中的に応戦することになった。

政府軍がアームストロング砲を撃つのは、

東に1360m離れた要衡・小田山から。

会津藩も大砲隊士や川崎尚之助らが、

小田山に向け四斤砲で撃ったが、空しい攻撃だった。

雨雲がぎっしり覆う後頭部  笠嶋恵美子

銃弾運びも忙しくなり頻繁に行ききしていた八重が、

尚之助に出会ったのも、そんな戦いのさ中であった。

開戦以来消息が判らなかった夫であったが、

尚之助と見つめあった八重は、

―生きていらしたのだ、よかった。

という思いでしばらく言葉がでてこなかった。

尚之助も同じ思いらしく、ただ八重をじっと見つめていた。

一筋のひとすじの道生きて来た  河村啓子

三の丸の大砲隊を指揮していたのが夫であったのだ。

憔悴しきったような夫を見つめて、

「お前さまどうなされました?お疲れのようですが?」

「ああ、人手がたりなくてな」

「では、私がお手伝いいたします」

「助かる!」


西軍の激しい砲撃に対して、八重の助けも加わり、

尚之助は敵砲の攻撃を黙させることができた。

しかし多勢に無勢であるこの戦は、

尚之助が指揮する砲台だけでは無力であった。

不連続というけどずっと雨である  田中博造

鶴ヶ城を取り囲んだ政府軍の数は3万人を超え、

9月14日、総攻撃がはじまった。

早朝から日暮れまで砲弾が雨あられと降りそそいだ。

会津藩は、窮地に立っていたが、

弱みを見せるわけにはいかなかった。

その一策が凧揚げだった。

凧揚げは降伏する日まで続いたという。

満潮の時も鼻だけ沈めない  寺川弘一

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葬送に「いい日旅立ち」予約する  斉藤和子

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山川大蔵獅子舞無血入城
               (画像は拡大してご覧下さい)

「彼岸獅子」

籠城戦二日目の慶応4(1868)年8月25日、

城内の兵が少ないことを憂いた松平容保は、

日光口にいた家老・山川大蔵に使者を出した。

―城中兵少なく守備薄弱なり、速かに帰城すべし、

  但し、なるべく途中の戦闘を避くべし。


この指令は即座に下郷町大内から、

北会津町小松に通達された。

さらに斥候を城に送り、

―賊徒城外に満つ、途中の衝突免るべからず。

との報告を受けた大蔵だった。

真っ直ぐを透かしてみれば傷だらけ  合田瑠美子

しかし、城外の会津藩の部隊にとって、

いかに帰還するかは、大問題であった。

が、「可なり我に一策あり」 

として大蔵が考えついたのが、

「彼岸獅子」を利用した入城である。

日光口で戦っていた大蔵は、若松城近隣まで戻ると、

城から一里ほど離れた小松村で彼岸獅子を調達し、

その囃子を先頭に立てて行進させたのである。

≪その日、大蔵らは小松の大竹小太郎家に一泊、

   小太郎に対し、


   「松平家三百年の恩顧に報ゆるはこの時ぞ」

   と伝え、小太郎は、勇気ある独身男子を集めたという≫

絶望のふちから上澄みをすくう  三村一子

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「入城実況」

小松を出発した一団は、楽手を先頭にして縦隊をつくり、

秘かに阿賀川を渡り、全員が渡り終えると、

大蔵は、飯寺の西で一団を勢揃いさせた。

楽手を先頭に、大蔵が続き、縦隊整列。

大蔵の「前進」の命令で、彼岸獅子の囃子が始まり、

材木町、川原町橋周辺を占拠していた

長州藩と大垣藩の南側を堂々と行進した。

すると、

「西軍これを望みその勇壮活発なる奏楽威風凛々たる

  隊容を見て、意表天外、拱手傍観、唖然、として、

  銃を杖つき遥かにこれを迎送するのみ、

  敢えて来り、其所属を問ふものなし」 
(『小松獅子舞考』)

万華鏡に演技指導を受けました  美馬りゅうこ

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かくて、

「大蔵の一隊意気揚々として、西追手門より入る。

  城これを見歓声を挙げこれを迎ふ、

  これに反し西軍初めて其東軍なりしを知り、

  切歯扼腕すれども及ばず、ただ左右相顧み唖然として、
                                       う
  自からその迂を笑うのみ、

  西軍は一団が城に入ると初めて会津藩兵と知り、

  地団駄を踏んだ」
  (『会津戊辰戦争』)

≪この時、獅子舞を演じたのは、

   隊長の
高野茂吉、数え30歳を頭に、平均15.7歳の10人。

   茂吉以外すべて十代で、最年少は
藤田与二郎11歳であった≫


真上からのぞけば穴があいている  嶋澤喜八郎

耳に馴染んだ囃子を聞けば、どんな会津兵も味方だとわかる。

一方の西軍は、一体何が起きているのか、呆気にとられ、

ただ拱手傍観、山川隊の隊列を見送るだけであった。

大蔵は河原町郭門から郭内に入り

全員無傷で西追手門から堂々の入城を果たした。

次々の入城で、城内の兵力は3千ほどになり、

士気も大いに高まった。

鬼が泣いている僕は笑っている  福尾圭司

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会津藩は体制の立て直しを図り、

山川大蔵が軍事を統括するこことなり、

指揮系統は大いに旧来の面目を一新した。

この時、佐川官兵衛は城外の戦いの総督を命じられ、

8月29日に決死隊千名を率いて出撃し、

敵を掃討して、

城の南西方面の糧道を確保する任に、当たることになった。

ボタン一つで明日の風も予約する  八上桐子

8月28日夜、容保「官兵衛の出撃を壮」として、
           はいとう
酒を賜り、佩刀を与え、官兵衛も、

「もし利あらずんば、再び入城して尊顔をは拝せず」 

と、その覚悟を示した。

だが官兵衛はその賜酒に沈酔し、

予定時刻の翌日未明になっても起きてこない。

結局、出撃は朝の7時を過ぎていた。

リポビタンD も効かない飲み疲れ  新家完司

融通寺町口から突出した会津藩は、

懐中に遺書を忍ばせ、文字通り決死の攻撃を敢行。

この方面の備前藩、大垣藩の陣地を取り、

さらにその先の長命寺を奪取する。

だが土佐、薩摩、長州などの軍が次々と来援。

会津藩は次第に押され、白兵突撃を幾度も敢行するが、

敵を崩すことができず、

遂に容保から退却命令が発せられた。

この戦闘で、会津藩の精鋭百数十名が戦死。

官兵衛は自軍を城内に退却させるも、

自らは敗戦の責を取り入城せず、以後、城外で手兵を率いて、

糧道確保のための戦いを続けることとなった。

地平線つなぐ長芋 and 数珠  井上一筒

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その官兵衛が大きな戦果を挙げたのは、

9月5日のことである。

薩摩の中村半次郎に率いられた日光口からの西軍部隊が、

若松城下に入ろうとしていることを知った官兵衛は、

砲兵隊を伏兵にして秀長寺付近で待ち構え、

敵が迫るや一斉に攻撃。

西軍は周章狼狽し、多くの軍需品を遺棄して潰乱した。
                                                                                 ろかくひん
官兵衛は銃砲や弾丸、糧食などの鹵獲品を、

城内に送り届けたのであった。

サーカスのテントの中にある絆  赤松ますみ

官兵衛や越後口の戦いから撤退してきた一瀬要人

さらに斎藤一(山口二郎)率いる新選組などの諸部隊は、

城の南西方面で糧道を確保すべく、奮戦し続けた。

だが、西軍が続々と来援。

その数はのべ3万にも上がり、

次第にこの方面も強く圧迫されるようになる。

二度噛んでいるやはり渋柿  武智三成

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