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川柳的逍遥 人の世の一家言
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ワサビから生還 国へ打電せり  きゅういち

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「山崎合戦官軍大勝利の図」

左ー新政府軍 右ー旧幕府軍

(画像をクリックしてご覧ください)

「官軍-全国平定戦」

慶応4年(1868)1月、鳥羽伏見の戦いに始まって、

上野戦争、東北戦争(長岡城の戦い)、母成峠の戦い、

会津戦争、箱館戦争(五稜郭の戦い)
が終結するまでの、

官軍による全国平定戦を「戊辰戦争」という。


戦いは、幕府軍が数の上で勝りながら完敗した。

西郷隆盛の指揮する薩長軍の方が兵備にすぐれ、

士気も数段上回っていたからといわれている。

この戦いに勝利した討幕勢力は、

徳川慶喜・松平容保・松平定敬以下を「朝敵」とし、

その追討令を下した。

優先順位狂いはじめたのは昨日  清水すみれ

しかし考えてみれば、慶喜は仕方がないとしても、

たまたま京都守護職にあった会津藩、

京都所司代にあった桑名藩が朝敵とされたのは、

可哀想というか、運が悪かったとしかいいようがない。

ダウンロードしているあの日の岸辺  河村啓子

初戦の「鳥羽・伏見の戦い」の大勝利は、

討幕派にとって、圧倒的に有利になった。

それまで日和見をきめこんでいた諸藩が、

新政府支持の方向に動きはじめたからだ。

地響きは予兆ぽっと蓮の花  増田えんじぇる

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 討征に向かう戦士たち

慶喜は江戸城に逃げ帰っており、

討伐軍の攻撃目標は江戸城にしぼられることになった。
ありすがわのみやたるひと
有栖川宮熾仁親王を東征大総督とし、

西郷隆盛を総督府参謀とする征討軍が組織され、

東海・東山(中山)・北陸の三道に分かれ東に向かった。

いわゆる「錦の御旗」を先頭とする、

朝敵征討軍が動いたわけである。

結局、江戸城は勝海舟西郷隆盛の話し合いにより、

無血開城となる。

わずかに主戦派幕臣集団による彰義隊が、

上野の山にたてこもったが、

大村益次郎の率いる政府軍によって潰滅した。(上野戦争)

ケチャップでごまかすシュールリアリズム  藤本秋声

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「戦いは東北から北海道へ」

東北地方では、官軍に抵抗した会津藩の、

救済を嘆願していた諸藩が、「奥羽列藩同盟」を締結して、

新政府に対抗する姿勢を鮮明にする。

そこで官軍は、東北に全力を投入した。

「東北戦争」の始まりである。

当初、長岡藩がすさまじい奮闘を見せたが、

同藩が敗北すると、列藩同盟は瓦解をはじめ、

会津藩の降伏によって全域が平定された。

声張り上げて泣くべきか笑うべきか  山口ろっぱ

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  戊辰戦争終結の地

しかし、戦争はまだ終結しない。

新政府への戦艦引き渡しを拒否した海軍副総督・榎本武揚が、

品川から旧幕艦隊をひきいて、

蝦夷地箱館の五稜郭を拠点に蝦夷共和国を樹立したからだ。

官軍は明治2年(1869)5月18日、

雪がとけるのを待って、

「箱館戦争」といわれる五稜郭に総攻撃をしかけ、

陥落させた。

こうして、ようやく戊辰戦争は終わりを告げた。

"明日よりはいづくの誰かながむらん なれしお城に残す月影"

操縦席にじゃが芋の幕を引く  井上一筒

拍手[4回]

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そこのけそこのけと直線を通す  高島啓子

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徳川慶喜ー隠れ家

(各写真は画面をクリックしてご覧ください)

「彰義隊」

慶応4年(1868)2月11日徳川慶喜は、

鳥羽伏見の戦い後、新政府に恭順の意を表し、

上野寛永寺に蟄居を命じられる。

12日、これに憤慨する一橋家ゆかりの者ら17名が、

酒楼・「茗荷屋」に集まり、

慶喜の復権や助命について話し合いが行われた。

21日の会合では、一橋家幕臣の渋沢成一郎が参加し、

また諸藩の藩士や旧幕府を支持する志士らが参加している。

そして23日、「尽忠報国」を掲げ、

浅草の東本願寺で「彰義隊」が結成される。

結成の噂を聞きつけた旧幕府ゆかりの者のみならず、

町人や博徒や侠客も参加し、

隊は千名を越える規模になった。

(布陣は頭取・渋沢成一郎、副頭取・天野八郎、幹事本多敏三郎伴門五郎

真っ新な息を揃えて貝割れ菜  岩根彰子

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  徳川慶喜ー隠れ家

慶喜が水戸へ移った折、勝海舟は武力衝突を懸念して、

彰義隊の解散を促すが、隊は徳川家霊廟守護を名目に、

寛永寺に居残った。

その後も、明治新政府軍と一戦交えようと各地から、

脱藩兵が参加し、

最盛期には3~4千人規模に膨れ上がっている。

渋沢は慶喜が江戸を退去したため、

「彰義隊も江戸を退去し日光へ退こう」

と提案したが、天野八郎は反対、

江戸での駐屯を主張したため将棋隊は分裂する。

渋沢が彰義隊を去り彰義隊は再編成を余儀なくされる。

≪この後、天野派の隊士の一部が渋沢の暗殺を図ったため、

   渋沢は一時姿を隠していたが、

   同志とともに飯能の能仁寺で「振武軍」を結成している≫


見込みある男飛び出す土砂降りへ  柴本ばっは

江戸では彰義隊の新政府への敵対姿勢が改まらず、

彰義隊隊士の手で、

新政府軍兵士への集団暴行殺害が繰り返されていた。

事態の沈静化を願った勝海舟ら旧幕府首脳は、
                                                   かくおういん ぎかん
慶喜の警護役の幕臣・山岡鉄舟を輪王寺宮の覚王院義観

会談させ、彰義隊への解散勧告を行った。

しかし寛永寺執当職・覚王院義観は説得に応じない。

仲裁が入り話がなおこじれ  上田 仁

新政府側は、5月1日、

彰義隊の江戸市中取締の任を解くことを通告する。

同時に彰義隊に江戸警備の任務を与え、

懐柔しようとした勝海舟ら旧幕府首脳、

また東征軍の西郷隆盛から、職務上の権限を取り上げ、

彰義隊を討伐する方針を決定した。

西郷に代わる統率者として、大村益次郎を着任させ、

新政府自身が彰義隊の武装解除に当たる旨を布告した。

これにより、彰義隊との衝突事件が上野近辺で頻発する。

かくして軍務局判事・大村益次郎の指揮で、

14日に、彰義隊討伐の布告が出される。

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      上野戦争

上野戦争は戊辰戦争のひとつに数えられ、

戦いの戦死者は彰義隊105名、新政府軍56名といわれる。

渋沢成一郎が率いる振武軍は彰義隊の援護に赴いたが、


行軍中に彰義隊の敗北を知り、敗兵の一部と合流して退却した。

浮雲の視点は鳶の油揚げ  坂田喜久子

「上野戦争へ」

慶応4年5月15日、大村益次郎が指揮する政府軍は、

寛永寺一帯に立て籠もる彰義隊を包囲し、

午前7時、雨が降る中、

両軍は南西北三方向で戦闘が開始される。

南(寛永寺黒門口)に薩摩藩、北側背面は長州藩があたり、

西はアームストロング砲を有する肥前佐賀藩があたった。

午前中、新政府軍は上野山王台に陣した関宿藩・卍隊の

激しい砲撃と屈強な彰義隊の抵抗に会い、

戦況は一進一退の状態が続いた。

最前線はインプラントの部隊  井上一筒

午後に入ると大村は伝令を呼び、
         アームストロング
「あるむすとろんぐの大筒。もはやよろしかろう」

と加賀藩邸の鍋島監物に伝えさせた。

そして射程距離の長いアームストロング砲の砲弾が、

敵陣に着弾し始めると、

形勢は一気に逆転、残る半日で上野戦争の決着はついた。

アームストロング砲の威力に関して、藩主・鍋島直正は、

「威力猛烈なるをもって、攻城や海戦ならばともかく、

  内乱のために用いるならば人を殺傷しすぎるゆえ、

  望ましきことにあらず」


と考えていたという。

着地点は真っ赤な押しピンで印す  本多洋子


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     彰義隊墓所

彰義隊は明治政府にとって賊軍であるため、

政府をはばかって彰義隊の文字はないが、

旧幕臣山岡鉄舟の筆になる「戦死之墓」の字を大きく刻む。

拍手[3回]

消し炭を掴む男の意地の果て  森中惠美子

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幕末・明治の会津美人

上から順に、外人好みの日本的美人、日本一の人気芸者、

外国に紹介された美少女、ミス日本第一号、幕末のハーフ美人。


神保修理の妻・雪も女らしい美人であった。

(各写真は拡大してご覧ください)

2ddd58ea.jpeg 神保雪役(芦名星)

「神保修理・雪ー非情」
                                        おかずみ
神保雪は会津藩士・大組物頭・井上丘隅の二女。

軍事奉行添役・神保修理に嫁ぐ。

夫婦仲は周囲も羨むほど睦まじいものであったとされ、

修理も雪子に対して愛情を注ぎ、

周囲からも羨望の的であった。

寒いねという人がいて温かい  笠原道子

修理は家老・神保内蔵助の長男で、秀才の誉れ高かった。

藩命による長崎派遣で各藩の志士と交友し、

坂本龍馬「会津には思いがけない人物にてありたり」

と評されている。

慶応4年(1868)「鳥羽・伏見の戦い」では、

徳川慶喜に恭順を進言。

慶喜が戦のさなかに、海路江戸へ向かったのは、

修理の誤った戦況報告による失態とされ、

2月13日、会津藩の江戸屋敷で切腹となった。

根回しをしすぎて落ちた穴の中  桜風子

会津にて夫の最後を知った雪は、化粧をしなくなり、

自室に引き籠った。

父・井上丘隅は白河口の戦いで負傷、会津戦争でも敗走。

8月23日、井上邸で父母・姉は自刃したが、

雪は婚家へ戻るよう説得され、

神保家に向かったといわれる。

雪子もまた、同年8月の会津戦争において薙刀を手に、
じょうしたい
娘子隊に参加したといわれるが真相は不明。

彷徨中に大垣藩本陣(長命寺)の捕虜となった。

25日、放免を主張した土佐藩士・吉松速之助

脇差しを借りて壮絶な自決を遂げている。享年24歳。

琴線に触れてしまった昼の月  合田瑠美子

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   なよたけの碑

会津戦争では新政府軍に降るのをよしとせず、

自刃して命を落とした女性が数多くいた。


西郷千恵の辞世から名付けられたこの慰霊碑には、

会津女性233人の名が刻まれている。


"なよ竹の風に任する身ながらも たゆまぬ節は有とこそきけ"  
                                       (西郷千恵)

c657173d.jpeg 神保修理役(斉藤工)


「神保修理」

慶応3年(1867年)10月、大政奉還によって風雲急を告げ、

神保修理(長輝)もまた長崎から大坂へ帰還。

12月の王政復古によって事態の収拾が不能となると、

修理は高揚する主戦論に対し、

不戦恭順論を将軍・徳川慶喜に進言。

江戸に帰り善後策を練ることを強く説いた。

これにより、会津藩内主戦派急先鋒の佐川官兵衛らと、

激しく対立する。

もうあとは雨と風とに任せます  八上桐子

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     錦の御旗

結局、戦いは避けられず鳥羽・伏見の戦いが勃発すると、

修理は軍事奉行添役として、会津藩の軍権を持ち出陣する。

しかし、旧幕府側は兵力で圧倒しながら、

戦況が思わしくないことに加え、

鳥取藩などの寝返りによって、不利な状況に転じた。

また倒幕軍側に「錦の御旗」が翻り、

朝敵となることを恐れた修理は、慶喜と容保に恭順を進言した。

その言葉を受け、慶喜は江戸へ逃亡、

そして容保までが大坂城を抜け出して江戸へ脱出した。

指揮をとる総大将が消えた結果、

急速に戦意を喪失した幕府軍は崩壊し、

あっさりと官軍に勝利をもたらすこととなった。

対岸に繋いだままの助け舟  清水すみれ

総大将が前代未聞の戦線離脱をした要因は、

「修理が将軍に恭順を進言したことにはじまる」

と会津藩内で問責の声が出始める。

ついには、修理が鳥羽・伏見の敗戦を招いた張本人

という烙印を押されてしまう。

その後、修理は和田倉上屋敷に幽閉され、

修理の処罰を容保に迫る動きが加速する。

生まれ変わろう水曜日の次の朝  山口ろっぱ

修理の窮地を救おうと親交のあった勝海舟が、

身柄を幕府に引き渡すよう慶喜を通じて、

手を差し伸べるも、「即座に修理を処断すべし」

と動く有志らの陰謀により、三田の下屋敷に移送され、

容保との謁見も許されず、

弁明の機会も与えられぬまま、切腹を命じられた。


君命と偽った命であると知りながらも、修理は、

「是に従うのが臣である」と潔く自刃して果てた。

享年34歳。

"帰りこんときぞ母のまちしころ はかなきたより聞くへかりけり"
                                      (神保修理・辞世)

潔白通し 雪だるま逝く  森吉留里恵

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1月の鏡よモノクロの世界  山本昌乃

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新政府軍の砲撃で大きく破壊された会津若松城天守

(画像を大きくしてご覧下さい)

「戊辰戦争」(鳥羽伏見の戦い)

慶応4年(1868)1月3日、

徳川慶喜は、薩摩藩士が江戸で乱凶に及んでいる、

との噂を聞き、真意をただすべく、

大坂から京へ会津藩兵らを率いて向かったが、

その途中の鳥羽において新政府軍と衝突した。

ファンファーレ鳴って始まるお葬式 合田瑠美子

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伏見関門口豊後橋進撃の図

新政府軍が圧勝し戦争の趨勢を決した鳥羽伏見の戦いを描く。

1月4日、仁和寺宮が朝廷より征夷大将軍に任じられ、

錦旗をもって出陣する。

錦旗とは、天皇の軍隊を意味し、

この旗を掲げた軍勢と戦うことは、

天皇に対して謀反を起すことであった。

長州ではなく、自分たちが、

「朝敵」となってしまった旧幕府軍の動揺は大きく、

戦闘は新政府軍の圧勝に終った。

ガラスを走るかすかな月のひび割れ  前田咲二

1月5日、大坂城に撤退した慶喜は容保らを連れて、

海路江戸へと戻り、朝廷から、

「慶喜追討令」が出されることとなった。

すると旧幕府軍を率いた慶喜は、恭順の意を示し、

和宮ら大奥の尽力によって命を救われ、

70万石ながら、徳川家の存続がなる。

油揚げと石部明を交換する  蟹口和枝

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     錦の御旗

だがこれと引き換えに、薩長は、

誰かを人身御供にせずにはいられなかった。

そこで、新選組を擁して勤皇の志士を苦しめた、

かつての京都守護職・松平容保を標的にした。

薩長は容保の恭順謹慎を許さず、

賊軍の烙印を押して、

帰国した容保を追うように会津に攻め寄せるのである。

会津は貧乏くじを引かされたのだ。

燃えている家でしらじらしい食事  森 茂

慶喜が帰った江戸を攻撃するため、

新政府軍は、進軍を開始するが、

勝海舟西郷隆盛との話し合いにより、

江戸城は無血開城となった。

本来であれば、

「目的は達成され、ここで戦闘は幕を引くはず」

であったが、

新政府軍は、会津藩を中心とする旧幕府軍を、

徹底的に叩かねば、この戦争は終らないと考えていた。


境界線からスーダラ節がきこえます  西澤知子

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                白河関跡

容保は隠居し、嘆願書を出して恭順の意を伝えたが、

とくに長州藩にあっては、

「8月18日の政変」・「禁門の変」における恨みが根深く、

会津藩だけは絶対に許せなかった。

長州藩の私怨をうけることは、

会津藩も覚悟しており、恭順を示す一方で、

軍制改革を行うなど、着々と戦闘準備を進めていた。

≪藩としては、朝廷に弓を引くのではなく、

   あくまでも天皇の名を騙る、「君側の奸」というべき、

   薩長への備えを意図していたものであった≫


サイコロは裏目裏目にでるしかけ  二木廃戸

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霞ヶ城(二本松城)

戊辰戦争で二本松藩は、「奥羽越列藩同盟」に参加して新政府軍と戦った。

7月29日、藩兵の大半が
白河口に出向いている隙をつかれ、

新政府軍が二本松城下に殺到し、わずか1日の戦闘において落城した。


こうして新政府は、「まず仙台藩に会津を討たせよう」

と説得にあたらせるが、逆に奥羽25藩は5月3日、

「奥羽列藩同盟」を組織し、

会津藩救済のための上申を新政府に送る。

その後、越後6藩、さらに会津と庄内が加入して、

33藩からなる奥羽越列藩同盟が成立し、

新政府軍と対立することになった。

転け方も泣き方も負けたくはない  前中知栄

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      白河口

新政府軍が迫るなか、

会津藩は早い時期から国境に部隊を派遣し、

守りを固めていたが、

「会津7口」といわれるほど会津に入る道は多く、

そのうちの最重要とされた「白河口」を通過され、

2ヶ月にもおよぶ戦いが繰り広げられる。

この間新政府軍は、奥羽越列藩同盟各藩を次々と攻め、

8月には実質的に、

会津、仙台、米沢、庄内を残すのみとなっていた。

8月21日、母成口から進攻した新政府軍に守備を破られ、

いよいよ敵軍は会津城下に迫る。

名古屋のネコにロンドンでまた遭うた  井上一筒

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かなたも寒いこなたも寒い爪のともしび  山口ろっぱ

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     松平容保と家族

最後列で本を開いているのが容保。

その左で本を開く女性が、一説には
照姫だともいわれている。

(画像を大きくしてご覧下さい)

一枚のセピアに静止した家族  山本早苗

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「照姫」ー(和歌とともに)

"夢うつつ思ひも分かす惜しむそよ まことある名は世に残るとも"

戊辰戦争の後始末として、薩長中心の新政府は、

会津藩に対し、「首謀者三家老の首」を求めた。

すでに、家老の田中土佐、神保内蔵助は、

城下で既に自刃していたので、席次から、

萱野権兵衛「斬に処す」との命令が下った。

その執行にあたったのが、
                                            まさあり
皮肉なことに照姫の弟・飯野藩主・保科正益であった。

それを聞き知った照姫は、

一身に会津藩の責を負う萱野に、歌を手向けた。

出口まだ探せぬかなしみの座標  たむらあきこ

照姫は、天保13年(1842)10歳の時、
                         かたたか
第八代会津藩主・松平容敬の養女に迎えられる。

その翌年、容敬の側室に敏姫が誕生。

≪弘化3年(1846)に容保も、養子として迎えられる。

    このとき、照姫14歳、容保11歳≫

                                    まさもと
18歳の時、豊前中津藩主・奥平昌服に輿入れ、

23歳で離縁するが、その理由は不明。

子がなかったからとも言われるが、

照姫が会津と容保の将来を心配しての結果とも、

推測されている。

照姫が安政元年(1854)に会津藩江戸屋敷に戻ってから、

7年後の文久元年、容保の正室となっていた敏姫が、

19歳の若さで他界する。

ほのかな色は無くした物の愛おしさ  森 廣子


"千とせとも祈れる人のはかなくも さらぬ別れになるぞ哀しき"

                           「娘をなくした照姫の哀悼の歌」

(明くれなつかしく、むつまじく、うちかたらひたる君の、


  はかなくならせ給へるに、ただ夢とのみ思はれていと哀しさのままに)

照姫は十代にして早くも、書道、茶道、礼法、香道に通じ、

ことに、和歌や琴を好んだといわれ、

容保にも和歌を手ほどきするなど、

義理の弟を献身的に世話した。

たて書きの便箋を今日買いました  河村啓子

 "きてかへる頃さへゆかし都ぢの 錦を君が袖にかさねて"

(殿が京都でのお役目を無事に果たし錦を着てお帰りになるのが楽しみです)

文久2年(1862)容保が幕府より京都守護職を任命され、

京都に入るとき、詠んだ。

いつだってあなとを追っている視線  勝又恭子

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 陣羽織姿の容保

"御心のくもらぬいろも明らかに うつすかがみのかげぞただしき"

文久3年(1863)容保は天皇より下賜された緋の衣を、

陣羽織に仕立て、孝明天皇による天覧の馬揃えを行った。

このときに撮った写真は、照姫に送られた。

勇ましい姿に照姫は大喜びし、愛情溢れる歌を詠んだ。

≪照姫は、夫となるはずであった容保を生涯慕ったともいう≫

ときめくと睫毛がカールするのです  赤松ますみ

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「容保会津へ帰る」

慶応3年10月14日の大政奉還により、

江戸幕府は地上から消滅。

同月9日、朝廷は王政復古の大号令を発せられ、

新政府が樹立された。

その夜の小御所会議において、

慶喜に対する辞官納地が決定し、

慶喜は、京都の二条城から大坂城へ移る。

このとき、容保も慶喜と行動を共にしている。

≪その後、旧幕府方の武士たちが、薩摩藩邸を焼打ちにしたことから、

   慶応4年1月3日、鳥羽・伏見で幕府軍と新政府郡との間で、

   戦端が開かれ、「戊辰戦争」が勃発する≫


戻らない汽車と無条件のほのか  板野美子

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鳥羽・伏見の戦で形勢不利と見た慶喜は、

側近とともに軍艦・開陽丸で江戸へ逃亡。

自らを朝敵とする追討令が下ると、恭順の姿勢を示し、

事態収拾を勝海舟に一任、上野寛永寺大慈院に籠る。

は江戸城総攻撃直前に西郷と会談し、

4月11日に江戸城無血開城

江戸の街は新政府軍の支配化に入った。

どうしても流れの先を見てしまう  立蔵信子

慶喜の逃亡劇に容保も従った。

容保の行動は、君主としてあるまじきことであったが、

喜んで従ったわけではなかった。

容保は、突然、慶喜から江戸への随行を求められた時、

容保は、「徹底抗戦」を慶喜に訴えた。

が慶喜はそれを聞きいれず、脅迫的に容保に随行を迫った。

その強引な慶喜に押し切られるかたちで、

容保は気持ちと裏腹に

家臣を見捨てる結果となったのである。

反骨の奥歯ギリギリ鳴らしてる  高橋謡謡

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     討伐命令書

江戸に戻った慶喜は、

最初のうちは抗戦を叫んで威勢がよかったが、

恭順の意を示したあと、

新政府に憎まれている容保を、遠ざけはじめる。

二月に入ると容保も、養子の喜徳に藩主の座を譲って、

新政府に対し、恭順の意を表した。

やがて、新政府軍に敗れた会津兵たちが続々と、

江戸に戻ってきた。

当然、彼等は自分を見捨てた藩主容保に詰め寄った。

これに容保は深々と謝罪し、会津へ戻ることにした。

次の世はゴキブリでいく一壺天  加納美津子

"おもひきやわが身の上としら河の 関路をやがて越えぬべしとは"

容保と江戸の藩士らは、会津への帰国の途につく。

照姫は容保より一足早く鶴ケ城を目指し、

慶応2年(1869)、の春に会津・鶴ケ城に入る。

江戸育ちの照姫にとって、会津は未知の土地であった。

女が好きなコラムの中の青い風  森中惠美子

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"荒はてし野寺の鐘もつくづくと 身にしみまさる夜嵐の声"

8月23日から一か月におよぶ籠城戦においては、

照姫は、会津藩の婦女500人余を指揮して、

負傷者の看護、炊事、洗濯、消火活動、弾丸の始末、

製造にもあたり、獅子奮迅の働きをした。

鶴ケ城開城式の後、

容保は滝沢村の妙国寺に謹慎することとなり、

照姫もそれに従っっている。

悟りとも言えず諦めとも言えず  津田照子

"岩くだく滝のひびきに哀れその むかしの事もおもひ出つつ"

開城後は、和歌山藩江戸屋敷を経て、

実弟・正益が当主の飯野藩に戻る。

後半生は歌人として生き、

明治13年(1880)以降、会津を再訪し、

上記の歌を詠んだ。

大正6年(1917)会津若松市内に改葬され、

照姫は今、容保と静かに眠っている。

≪因みに容保は、明治26年(1893)58歳で死去している≫

さわやかな和音へ前頭葉が澄む  山本昌乃

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