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川柳的逍遥 人の世の一家言
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あの世のことは曖昧なままでいい   新家完司

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中野姉妹柳橋出陣の図 (会津新撰組記念館)

画面をクリックすれば大きく見れます。


「中野竹子」

中野竹子は文武両道・才色兼備、

江戸弁を話す利発な女性であった。

5歳にして小倉百人一首をすべて暗唱、

7歳の頃より目付・赤岡大助に手習や剣術・薙刀を師事した。

書の腕は相当でり、

備中庭瀬藩主・板倉勝弘正室の祐筆を勤めた。

もののふ
武士の猛きこころにくらぶれば 数にも入らぬ我が身ながらも

                                   〈竹子辞世の句〉

手のひらで遊ばせている天道虫  河村 啓子

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文久2年(1862)ごろ、会津藩江戸屋敷には、

「会津名物業平式部小野はだしの中野の娘」

という俗謡があり、

6歳年下の妹・優子ととともに中野姉妹は、

小野小町も驚く美麗な娘と称えられた。

文久3年、赤岡が大坂御蔵奉行に就任する際、

竹子は養女とばり大坂の伴われたが、2年後、

赤岡の甥との縁談を嫌い江戸に戻った。

中野家が会津城下に移ったのは慶応4年。

竹子は赤岡とともに坂下町で、剣道を教えた。

 坂下では、羨望の的であった入浴中の竹子を若者が覗こうとし、

   彼らを追いかけて斬ろうとしたというエピソードが残る。


心音の一つを守る屋根と壁  居谷真理子

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「竹子の戦争」

8月23日、会津藩若松城下に、早鐘が鳴り響いた。

会津藩の要衝の地であった十六橋を突破し新政府軍が、

会津城下に進軍してきたのである。
                                     こうこ
新政府の侵攻を知った竹子と母・孝子と妹・優子は、

髪を切り庭先に埋め、白羽二重の鉢巻、

深緋色のたすきをかけ、

柳腰に大小、右脇に薙刀を持ち、

6人余りで照姫が向かったという会津城下坂下町へ急いだ。

が、情報は誤報。

葉桜になり哲学の道になり  藤本秋声

翌24日、竹子らは会津家老・萱野権兵衛に従軍を願い出る。

いくら薙刀の遣い手の女子たちとはいっても、

新政府軍は銃で武装している。

権兵衛は、「ならん!、絶対にならん!」と拒否。

しかし、竹子は、

「参戦のご許可がいただけないのであれば、

  この場で自刃します」


と言って、一歩も挽かない。

うっとこの釘はひたいで打てますの  井上一筒

根負けした権兵衛は、翌日になって、

彼女らの衝鋒隊への参加を許した。

陽の方へせめて向かむと花の首  前岡由美子

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    竹子像      柳橋の殉節碑

竹子が新政府軍と戦った柳橋付近に建てられた碑と像。

碑には竹子の辞世の句が刻まれている。


城下の柳橋(涙橋)付近で長州・大垣藩兵との戦闘を展開、

奮戦する竹子を銃弾が貫いた。

妹・優子に介錯させた竹子の首は農兵により、

坂下の法界寺に葬られた。
             じょしたい
生き残った娘子隊は、28日に入城し、籠城戦にに参加。

母は洗濯中に飛び込んできた砲弾を、

盥の水で素早く消しとめ称賛された。

生き延びた優子は、後年に、

「姉は一風変わった、言わば男勝りの様な性質」

と書き残した。

んの字を上手に書いて箱の中  奥山晴生

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合戦と生きる女が香を焚く  森中惠美子

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砲弾を処置する会津の婦女子 (会津武家屋敷蔵)

(画面をクリックすれば拡大されます)

外国人が称賛してやまないサムライの心を、

もっとも純粋なかたちで残してたのが
会津藩であった。

それは武士だけでなく、

武家の女性たちにまで代々うけつがれてきた。


これが
「会津魂」とよばれるものである。

いっぽんの線を描きつづけています  岩田多佳子

「誇り高き会津の女たち」

慶応4年(1868)8月23日の朝、

入城を知らせる早鐘が城下に響きわたり、

子どもや老人の手を引いた女たちまで、

討ち死にを覚悟で鶴ヶ城に立てこもった。

その数、およそ5200人。

連日連夜撃ちこまれる砲弾にもめげず、

ほぼ一か月間にわたる籠城を戦いぬいた。

足手まといになることをおそれて、

自刃した婦女子は233人にのぼる。

たくましい女の二の腕が細い  福尾圭司

会津戊辰戦争といえば、飯盛山で自刃した白虎隊や、

薙刀で政府軍に立ちむかった中野竹子ら、
じょしたい
娘子隊の、華々しい活躍ばかりが礼讃されがちである。

しかしそれにもまして、

籠城した女性たちの奮闘ぶりに圧倒される。

つぎつぎと運びこまれてくる負傷者で、

本丸内の大書院や小書院は足の踏み場もなかった。

容保の義姉にあたる照姫の指揮のもと、

負傷者の看護にあたったのは、女たちである。

野たれ死にしても笑っているつもり  和田 洋子

着の身着のままで、湯にも入らず、

傷病兵の看護から弾丸づくり、炊き出しと、

昼夜の別なく働いた。

とりわけ5200人分の食糧の確保は大変な苦労だった。

少しでも米を減らすまいと、

兵士には玄米のにぎり飯を与えて、

女たちは城に備蓄してあった古い道明寺粉を練って食べた。

ときには命がけで城外に出て、野菜などを調達する。

 道明寺粉=もち米を水に浸し蒸してから乾燥させ粉に挽いたもの。

動いてる軸になったりなられたり  徳山泰子

敵が撃ちこんでくる砲弾が破裂する前に、

濡れた布団や着物をかぶせて爆発を防ぐ「焼玉押さえ」

という危険な仕事にあたったのも女たちだった。

失敗してふきとばされたものも多い。

軍事総督として籠城戦の指揮をとった、

家老・山川大蔵の妻・登勢も、

砲弾が破裂して致命傷を負った。

「早く私を介錯してください」

と訴える義姉・登勢の悲痛な叫びは、

当時九歳だった山川捨松(幼名咲子)の脳裏から

消えることはなかった。

きらきらと水陽炎や経流し  大西泰世

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   中野竹子

今の誰に似ているかかなりの美女と言われた。


「中野竹子エピソード」

八重はかねてから娘子隊に入ることをすすめられていたが、

薙刀で戦争はできないと思っていたので、

それには加わらなかった。

中野竹子が敵の銃弾を受けて戦死したのち、
                                   
新政府軍の包囲網をくぐって、
                                   こうこ
入城をはたした竹子の母・中野孝子は、

八重のもとにかけより、

「あなたがどうしてわたくしどもの組にお入りにならないのか、

  卑怯者のように思っていました、が、

  鉄砲に薙刀ではかないません。

  ようやく自分の娘
(竹子)が討ち死にしてから悟りました。

これから何日籠城するかわかりませんが、

下の娘
次女優子)に鉄砲を教えてください」

と頼んだ。

ペガサスが今朝は馬刺しになった由  井上一筒

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竹子と優子の姉妹は、父が江戸常詰の藩士だったため、

江戸で生まれ育った。

姉の竹子は7、8歳のころから剣術を習っていたほど、

武術のたしなみがあったが、

鉄砲にはまったく感心がなかったようだ。

竹子だけでなく、大方の会津藩士は、

「鉄砲など野蛮人の兵法だ」 と侮っていたから、

八重の兄で砲術師範の山本覚馬が、

どんなに洋式銃による兵制改革を進言しても、

聞きいれられなかった。

生きていく透視図法に跨って  河村啓子

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鶴ヶ城に入城する八重 (白虎隊記念館)

「仇討ちへ女性組織」ー【娘子隊】

「鳥羽伏見の戦い」の後、新政府軍は、

天皇家の紋章・錦の御旗を先頭に、

江戸を目指し怒涛のように進んでいく。

慶応4(1868)年2月16日、会津藩主松平容保は、

江戸の上屋敷、和田倉邸を出て、会津へ向かう。

この時、江戸詰の会津藩士と家族も会津へ帰ることとなり、

皆、親戚縁者を頼り、それぞれ会津を目指した。

同22日、容保は会津へ到着した。

27日には家臣に対し、

「薩長二藩は、私怨を酬いろうとして、

王師
(天皇)の名を借りて、兵を我に加えようとしている」

と忠告があり、

「非常に備えよ」と非常事態宣言をしている。『諸月番申渡書』

内幕を描けば見事なドーナッツ  谷垣郁郎

八重は、若松城下に続々戻ってくる江戸詰の家臣や、

その家族、さらには、

弟・三郎の遺髪や形見の軍服が届いたことから、

会津藩をめぐる情勢が一層緊迫してきたことを知る。

そして、最愛の弟を失った悲しみは、

新政府軍に対する憎しみ、怒りへと転じていく。

城下の女性たちは、

八重同様、新政府軍に対し怒りを覚えていた。


このころ、城下には「女隊」または「娘子軍」

と呼ばれる女性たちの組織が結成された。

八重も属している。『会津戊辰戦争』

陽炎になる息つぎをつづけます  美馬りゅうこ

水島菊子と姉の依田まき子は、

まき子の夫が鳥羽伏見の戦いで戦死しているが、

同じように、

「仇なれば、是非一太刀たりとも怨まんと思い」

といった者が、20数人いたという。

ただし、「指揮者なき」とあり、

江戸勘定役・中野平内の妻・孝子(43)が年長であったことから

一定の指揮を執っていたようだ。

婦人らの一団は、

江戸詰の中野孝子・竹子、優子ら親子と、

会津在住の八重、依田まき子、水島菊子らに分かれていたが、

皆思いは一つ、

「肉親の仇討ち」でまとまっていた。

岸壁に靴を残して参ります  筒井祥文
 

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始発から終着駅のフィクション  堀 冨美子

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15代将軍徳川慶喜

「徳川慶喜」

第2次長州征伐の最中、大坂城で病死した家茂のあと、

第15代将軍に擁立されたのが、慶喜であった。

慶応2年(1866)12月のことである。

そして、同じ月、

攘夷論者でありながら佐幕的立場をとっていた、

孝明天皇が突然死んだ。

≪毒殺の疑いがかけられているが、可能性は非常に高い≫

毒掃丸の連絡を待つ正露丸  美馬りゅうこ

たしかな証拠があるわけではないが、

佐幕的立場をとる孝明天皇では、

長州藩、薩摩藩にしても、

倒幕を唱える急進的公家たちにしても、

やりにくかったはずだからだ。

幼少の新天皇を擁立し、それを「玉」として使いながら、

自分たちの思う方向へ進ませようと考えたのではないだろうか。

こうして新しい将軍慶喜、

新しい天皇明治天皇へ、

と幕府も朝廷も、代替わりしたのである。

蜥蜴の青をまとう左半分  森田律子

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家茂が死んだため、第2次長州征伐は中止となったが、

幕府の威信をかけた軍事行動を中止したことにより、

威信は大きく低下することになった。

もはや幕府は、倒壊寸前のところまできていたのである。

事実、慶喜は京都で将軍になったが、

そのまま京都にとどまり、

江戸へ戻ることができないでいた。

しめやかに弔う不本意な昨日  下谷憲子

京都を離れれば、その隙をついて、

薩長が朝廷と幕府の間を割くことが考えられ、

朝廷が、

「幕府に政治を委任するのはやめる」といい出せば、

それで幕府は終ってしまうからだ。

手のひらで遊ばせている天道虫  河村啓子

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その件は戦場を片付けてから  壺内半酔

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              上申書・叢裡鳴蟲(そうりめいちゅう)

岩倉具視和宮降嫁に反対する公家と対立し、

岩倉村に蟄居している間に書き上げた著作。

上申書には政の大綱は朝廷で起案し、諸藩を集めて評議させる、

ことなど卓越した提案がならんでいた。


「新島襄登場」
                                                        
上州安中藩士の子として神田に生まれ、
                                                しめた
1864年、鎖国の禁を破って米国船に乗り込んだ
新島七五三は、

船長から
ジョーと名付けられボストンに渡る。

地元資産家
ハーディ夫妻の庇護の下、現地の大学や神学校に学び、

72年には岩倉 使説節団の通訳として渡欧。

そして74年。

米国の伝道組織アメリカン・ボードの総会で、

大学創設の夢を語った彼は、約5千どるの寄付を手に帰国。

翌75年、京都に借り受けた華族・
高松保実邸で、

教師2名、生徒8名の
「同志社英学校」を開校する。

ちなみにこの時力を貸したのが
八重の兄・山本覚馬だった。

垢を落せば残った骨が光り出す  森 廣子

「薩長同盟」

「蛤御門の変」の直後、長州はイギリスやフランスなど、

四国艦隊との戦争にも惨敗し、

いよいよ攘夷が困難であることを思い知る。

倒幕に根強く反対していた上層部も、

高杉晋作らによる軍事クーデターに遭って淘汰され、

長州の藩論は、「武力倒幕」にまとまった。

四月からだんだん開く川の巾  笠原道子

こうして、長州の藩論が武力倒幕に固まるなか、

新たに倒幕へと傾き始めた勢力があった。

もとは公武合体派で、

長州と激しく対立していた薩摩藩である。

薩摩藩の西郷隆盛は、幕臣の勝海舟らから、

「幕府には時局をまとめる力がまったくない」

と聞かされたこともあって、

ひそかに倒幕を目指しはじめていたのである。

覇王になるはずの朝の目ん玉  山口ろっぱ

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岩倉具視幽棲旧宅

ただし、薩摩藩のトップは、

「幕藩体制の遵守」をかかげていた島津久光である。
                                                    たかちか
家臣にすべてを任せていた長州藩の藩主・毛利敬親と違い、

久光が倒幕行動を許すとは考えられない。

そこで西郷は盟友の大久保利通と協力して、

久光に相談せずに、武力倒幕の道を模索することになった。

君の仕業かと消しゴム付き鉛筆  酒井かがり

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岩倉具視・岩倉村幽居の図-1

すると、倒幕という方針で共通する両藩を、

結びつけようという人物があらわれた。

土佐の脱藩浪士・坂本竜馬中岡慎太郎である。

しかし、薩摩と長州は犬猿の仲。

とくに長州は、蛤御門の変で薩摩に手痛い敗北を喫しており、

強い恨みを抱いていたのだ。

そこで竜馬は、

まず両者が経済的に助けあえるように手を打つ。

この時期の長州は武器の不足に悩み、

薩摩は天災による米不足に頭を悩ませていた。

地平線つなぐ長芋and数珠  井上一筒

そこで竜馬は、薩摩藩が武器弾薬を買い付けて長州に渡し、

長州はその見返りに、米を渡すことを提案したのだ。

竜馬のこの狙いは的中し、長州と薩摩は経済同盟という形で、

まず手を結んだのである。

そして、慶応2年(1866)1月22日、両者は軍事同盟を結んだ。

「薩長同盟」である。

結べとは言ったが括れとは言わん  兵頭全郎

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岩倉具視・岩倉村幽居の図-2

岩倉具視、西郷隆盛・薩摩藩、長州藩による

クーデターは成功した。

クーデター軍に守られながら、

最初の小御所会議が開かれた。

そこには徳川慶喜は出席していない。

「新政府に慶喜の姿がないのはおかしい」

と主張する山内容堂らの意見もあったが、

クーデター軍に銃口を突きつけられているような状況では、

慶喜サイドの大名も多くをいえず、

結局、ここに慶喜の官職辞任と、

領地変換が迫られることになったのである。

試着室に入って会議出てこない  井上しのぶ

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表にはエホバ裏には桃太郎  田中博造

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       幕末の浮世絵

「政変のその後」

元治元年(1864)、長州藩は池田屋において、

謀反の密儀をしていた同藩士らが、

京都守護職預かりの、新選組によって、

殺傷、捕縛されるという事件がおきた。

また蛤御門における会津・薩摩連合軍との攻防で、

長州藩は朝敵となる。 この一連の事件で、

会津藩・薩摩藩・新選組に対して抱く、

彼等の憎悪は一気に高まった。


泣き言をたっぷり詰めた虫歯です  早泉早人

その後、幕府軍は長州征伐に出陣するが、

期待ほどの成果は上がらず、一方で、

苦境にあった長州藩と、

しだいに倒幕に傾きつつあった薩摩藩は、

その距離を縮めていった。

こうして手を結んだ薩長は、

一気に倒幕への動きを加速していく。


ここから、会津藩をめぐる運命の歯車が少しづつ狂っていく。

教えます日暮れのお客の叩き方  酒井かがり

孝明天皇崩御の五ヶ月前、慶応2年(1866)12月、

将軍・家茂は行き詰った長州征伐の心労がもとで病没し、

将軍となっていた慶喜は、

倒幕をめざす薩長の気勢を削ぐには、

土佐藩が建議した「大政奉還」しかないと判断した。

そして慶応3年(1867)10月、朝廷への政権返上を決定した。

ゆく末に安全ピンを敷き詰める  富山 悠

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   岩倉具視

意表を突かれ一時は慌てた討幕派だったが、

岩倉具視薩摩大久保利通、西郷隆盛らと図り、

先に容保らが長州を追放した八・一八クーデターを真似て、

御所の外門を封鎖して「王政復古」の大号令を発した。

≪こうして12月9日、王政復古の大号令が出されると、

 薩長を中心として発足した新政府から前将軍
慶喜は除かれた≫

こんにゃくにボディブローをくらわせる  笠嶋恵美子

岩倉は、将軍職の廃止、京都守護職の停止、

旧幕府の領地返上などを強引に決定した。

母が有栖川宮出身であった慶喜は、

尊皇の想いが強く、天皇の都を血で汚したくないと、

戦いを嫌って大坂城に移る。

だが、薩長の横暴に憤る主戦論に抗しきれず出撃を命じた。

会津、桑名を主軸とした1万5千が京都をめざし、

慶応4年(1868)1月3日、鳥羽伏見で薩長軍と衝突した。

陽炎が人の形になるよすが  蟹口和枝

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