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川柳的逍遥 人の世の一家言
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生きている私ができる墓まいり  平紀美子



「新島八重の会津帰郷」

八重が会津へ戻るのは、戊辰戦争後初めてのことで15年ぶりになる。

明治15年7月3日、京都を出た新島襄らは、

11日には中仙道を通り、郷里である群馬県の安中に到着する。

そこで海路で横浜に上陸し、

一足先に安中へ入って襄の到着を待っていた八重と合流。

1週間ほど安中に滞在した襄らは、7月17日に、

八重・覚馬の娘・みねと夫・伊勢時雄の4人で会津へと向かう。

旅たのし男に櫛を借りられる  森中惠美子



襄らは日光を観光した後、

白河を通り、7月27日に八重の故郷・会津へ入った。

襄が会津を訪れるのは初めてである。

また、八重にとっても結婚後で初めての帰郷となる。

八重とみねは、戊辰戦争後初の帰郷であった。

みねと時雄は前年に結婚し、新婚旅行も兼ねていた。

当時、東北本線は開通していなかったことから、

人力車での移動であった。

そぞろ歩けば雫するエッセイ  徳山泰子

一行は、日光見物後に白河へ行き、そこから白河街道を通り、
せいしどう                     こなん
勢至堂峠で馬に乗り換え、

湖南から舟で猪苗代湖北西岸に渡り、

27日に七日町の藤田平次方の当時若松で

最も大きな旅館・清水屋に入った。
                                                          こた
白河街道からの峠越えは、八重と病弱の襄にとってよほど堪えたらしく、
                                              かんにんごりょうさつ
「ドタパタドタパタ馬ニ引カレテ若松ニ参ル、ソノ堪忍御了察アレ」

と襄から愛弟子の徳富蘇峰宛ての手紙に書かれている。

船宿に結び目置いて逃げたとさ  くんじろう

 

襄は会津で、若松城を見学し、

会津戦争の生き残りから若松城籠城戦についての話を聞いた。

襄が会津を訪れたとき、既に若松城は取り壊されていた。

明治政府は若松城を保存しようとしたが、

若松城は籠城戦での破損が酷かったため、

福島県側が若松城の取り壊しを上申し、

明治7年に若松城は取り壊された。

沈黙の深さは覚悟した証拠  太田扶美代

8月1日、襄は伊勢時雄を伴って、会津から山形県・米沢へ向かう。

八重とみねは、襄と別れて、会津に残った。

当時、米沢へ行くには、

北塩原村の桧原峠(標高1094㍍)を越える米沢街道を通るしかなかった。

2日に襄は桧原の大和屋に宿泊している。

3日には白布高湯温泉の東屋に逗留。

21日、布教活動などで、米沢の甘糟三郎宅へ行く。

※ この間に襄は『青春時代』の執筆をしている。

モノクロに戻って勘を連れ歩く  前中知栄

 

                再 会

襄が米沢へ行っている間、八重、みねは若松に留まっていた。

八重が見た若松は、まだ戊辰戦争の傷痕が色濃く残り

「士族中多クハ貧困」(『日抄』) と書き残している。

(若松に住む旧会津藩士の生活は依然として窮乏していた)

八重が故郷・会津に滞在していた時、若松は活気がなかった。

「市人ハ旧藩ノ圧抑(あつよく)ヲ受ケタルニヨリ、

更ニ改進ノ精神ナク、新奇ノ事ヲ為シ肯セズ、唯旧ヨリノ商売ヲ為スノミ」

(会津の人々は新たなことを受け入れず、旧態の商売をするのみだった)         
                                                           ゆうおう

                                      新島襄・『遊奥日記』

生きのびて川 生きのびてふきのとう  田中博造

八重はこの時、戊辰戦争で焦土と化した武家屋敷跡を見て、

藩政時代に繁栄していた城下と比べ、時代の大きな変化を感じていた。

(また「然ルニ北方(喜多方)ニ於イテハ、
                    すこぶ
農民中往々自由党ニ加入シ頗ル民権皇張ヲ望ムモノアルヨシ」 と、

(喜多方市では、農民を中心に自由民権運動が起きている)

戊辰戦争で武家屋敷のほとんどが焼失し、

八重の生家があった米代四ノ丁は、水田と畑に変わり、

繁栄の面影は全く残っていなかった。
                                          <旅のブログは水曜日へつづく>

迸る想いを砕く蜃気楼  佐藤美はる

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きよお!と喚いてこの汽車はゆく新緑の夜中  大西泰世



日本初の女子留学生たち

左から永井繁子、上田貞子、吉益亮子、津田梅子、山川捨松

「文明開化の女性たち」

明治政府は一刻も早く日本が欧米諸国と肩を並べるために、

優秀な若者を次々と欧米各国に送り、

進んだ文化や技術を取り入れようとした。

女性もその一環として明治4年、

女性教育に感心のあった黒田清隆の独断で、

津田梅子山川捨松ら、5人の女子をアメリカに留学させた。

しかしその翌年の明治5年に女性の断髪を禁止する条例が出された。

髷を切り落とす断髪は、「文明開化」の象徴であった。

だがそれは男性だけで、「女性は日本髪を結うべきだ」

という文章がこのころ、盛んに新聞に取り上げられている。

文明の清潔好きに落とし穴  佐藤后子

         

                        風刺画(ビゴー)ーフランス

ビゴーは浮世絵に惹かれ明治15年から17年間を日本で過ごし、

日本の伝統美に敬意を持っていたが日本の近代化、欧化政策は鋭く批判した。

(風刺画ー履きなれない靴を脱ぎ捨てている。 鏡に映った紳士淑女が猿と犬になっている)


明治15年に津田梅子たちが日本に帰ってきても、

男性と違って、彼女たちに用意されたポストはなく、

女子の留学もたった一回で終わってしまった。

当時の日本では、

女性は結婚しなければ一人前とみなされないという風潮が強く、

大学を卒業して帰国した留学生3人のうち2人までが、

活躍の場を求めて高名な男性と結婚している。

つまり、女性が何かことを成そうとするには、

高名な夫の力が必要だった。

鼾が聴こえるタウンページの奥  桑原伸吉



大隈重信夫人綾子

その一方で、高名な男性と結婚した身分の高い女性は、

それまではほとんど、人前に出ることはなかったが、

欧米の「婦人同伴」という慣習に倣って、

夫人達にも社交の表舞台に出ることが要求される。

鹿鳴館でダンスをしようにも、ダンス以前に多くの女性たちは、

洋装に戸惑った。

なかでも彼女たちを悩ませたのはハイヒールだった。

なれない靴をはいたため足には靴ずれができ、

しばらくは靴がはけない状態になったという。

大隈重信の夫人・綾子が大の洋装嫌いで、

和服で鹿鳴館に登場するとこれを真似する女性が増えた。

傷口に盛りたい塩を買いにゆく  清水すみれ

 

   跡見学校校舎正面  (神田中猿樂町)

東京神田に女学校として開校。

生徒は4・5歳から17・8歳の上流名門の子女で、

開校当初の科目は、

国語、漢籍、算術、習字、裁縫、挿花、天茶、絵画、琴であった。

当時の急進的な欧化政策とは異なり、日本の伝統的な文化も取り入れながら、

情操教育にも重きを置く教育方針は多くの支持を得た。
                        あとみ かけい
跡見学校は、
明治8年、跡見花蹊が開校した。

叱り飛ばすのも教育だ知ってるか  矢須岡 信

「維新後のお嬢様が通う学校」

女性たちが教育をうける学校として明治初年には、

東京の跡見など20校余りが開校し、女子教育が行われるようになった。

こうした学校では現在の学校で学習するような地理や歴史、

英語の授業などもあったが、良家のお嬢様であればあるほど、

習字や裁縫、手芸など、

従来から女性のたしなみとされる学科の成績がよかった。

焼き方三年煮方で五年食方終生  山口ろっぱ



         跡見花蹊 (1840~1926)

跡見花蹊は摂津国で寺子屋を営むちちのもとに生まれ、

幼児より学問に興味を持ち育つ。

20歳のとき父の姉小路の出仕を受けて私塾を継ぎ「跡見塾」を開いた。


こうしたお嬢様は、卒業までに結婚が決まらないのは恥とされる傾向が強く、

お嬢様の結婚がお嬢様の意志とは関係のないところで決められるのは、

江戸時代と変わりがなかった。

ただし明治時代になって変わったのは容姿が重視されるようになったこと。

雑誌には、不美人と結婚すると生れてくる子供も不美人になるので、

美人と結婚すべきと主張する記事が掲載されるほどであった。

学校に嫁候補となっている女性を見に来たり、

写真を見たりして選ぶことも盛んに行われた。

0時にはさや豌豆になるダイヤ  井上一筒



東京三越呉服店の裁縫部(明治42年)

「一般庶民の教育事情」

では東京のお嬢様学校ではなく、一般庶民はどうかというと、

農家にとって子どもは大切な労働力であったため、

子どもを学校にやる親は少なかった。

学校も初期のころは、江戸時代の寺子屋の看板を、

付け替えたようなものだったこともあって、親も女の子には学問よりも、

裁縫など実生活で役に立つ技術を身につけさせたがっていた。

晴れた日にわたしの意思を干してやる  佐藤美はる

女の子には、「女性の教員が教育にあたるべき」 という容貌が強く、

女性教員の育成が急務となった。

当時、女性の職業は限られており、教師はその代表的なものであったが、

働く女性は結婚できない、経済的に恵まれないなど、

常に負のイメージがつきまとった。

※ 江戸時代には場合によっては女性にも財産相続が認められていたが、

明治31年に民法における「家長制」が確立すると、

財産のすべてを実質上、長男が相続することとなった。

明治の女性は見方によっては、それまでの時代よりも、

社会進出を阻まれ、
「男性の付属品である」 ことが、

求められるようになったといえるだろう。


正しい事は正しい黄色いジャンパー  田中博造

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代議士に腹立てながら生きている  新家完司

 

       槇村正直

「京都2代目知事・槇村正直」

天保五年(1834)、槇村正直は、長州藩士・羽仁正純の子として生まれた。

長州藩では諜報活動にも従事していたらしい(推測)。

明治元年、木戸孝允の推挙によって京都府に出仕する。

以降、権参事、大参事、権知事、知事職へと階段をのぼっていく。

明治2年、明治天皇が東京に居を移し、

京都の政治経済が混乱をきたした際、山本覚馬を抜擢し、

殖産興業をともに推進する。

明治3年、「小野組転籍事件」を起こす。

「小野組転籍事件とは」

※ 京都の豪商・小野組が本社を京都から東京に移したいと願いでた際、

当時の京都府知事・長谷信篤と大参事・槇村正直は、

京都復興が軌道に乗りかけているときに、

京都から小野組に出て行かれると、
税収が大幅に落ち込むことを懸念、

京都にとって深刻な問題として、
転籍届けを認めず、処理を怠った事件。

比叡山が白い息して腹式呼吸  岩根彰子



小野組転籍事件は、覚馬や木戸孝允の尽力で何とか収まったが、

明治8年、新島襄のキリスト教学校設立計画で、覚馬と対立。

覚馬は京都府顧問を罷免され、八重も女紅場を免職となる。

明治12年3月、覚馬が初代京都府会議長に選出される。

覚馬は13年10月に退任するが、この間、

槇村の強引な施政について覚馬らに糾弾され、

明治14年、知事を辞職し京都を去る。

このときは元老院に転出という建前をとられている。

慾という魔物を追ってまだ生きる  森 廣子



「槇村の失脚」

槇村は性格的に傲岸なところがあり、

いわば憎まれ役の京都10年であった。

槇村の治政を語るうえで、よく引き合いに出される「小野組転籍事件」

そこににおいては、牢固に思えるくらいのお殿様ぶり、

もっと悪くいえば、狭量な小役人ぶりを曝している。

開明的な近代人とはほど遠い、

封建領主的な振る舞いをしているのである。

そうしたこともマイナス評価に繋がっているのだろう。

裂けた粘土も鍋島のネコとなる 井上一筒

        

               製紙場                           琵琶湖疏水

「槇村が京都赴任中行った主な政策」

明治2年、小学校の開設、
         せいみきょく
明治3年、舎蜜局の創建、

明治4年、京都博覧会の開催、

明治5年、都をどりの創設、新京極の造営・女紅場の創建-など

「都をどり」は、槇村の提案で京都博覧会の余興として開催された。

これにより、本来座敷舞だったものを舞台で大掛かりに舞うようになる。

新京極は寺町通の各寺院の境内を整理して、

門前の寺地を接収して、寺町通の東側に新しく道路をつくり、

恒常的に賑わう繁華街をつくり上げた。

現在の京極あたりの賑わいは、槇村がつくりあげたものなのだ。

乱調も足さねば生が錆びてくる  たむらあきこ

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風に背を押されて叩く門がある  合田瑠美子



   新島襄ー自責の杖  (クリックすると画像は大きくなります)

「自責の杖事件」

明治13年の春。

当時、2年生は入学月のちがいから上級、下級の二組に別れていた。

両クラスとも少人数だったので、

教師会が合併させようとしたのが事件の発端だった。

上級組は学校側の決定に不満をもち、全員が無届け欠席してしまった。

無断欠席は明らかに校則違反である。

5年生から校則違反の処分をせまられて、

学校側は頭をかかえてしまった。

どの色を塗ればあの日の夕焼けに  森田啓子

新島襄は思い悩んだすえに、ある朝の礼拝のあと、

杖をもって学生の前に現われた。

「罪は教師にも生徒諸君にもない。全責任は校長の私にあります。

 校長である私は、その罪人を罰します」

襄はそう言うなり、杖で左の掌をはげしく打ちつづけた。

杖は三片に折れてふっとんだ

本当は悪いヤツなんです私  前中知栄

 

徳富蘇峰は、クーデター「自責の杖事件」を起こし、

卒業まで1ヶ月という時期に同志社英学校を退学した。

同志社英学校を去ったが、

新島襄に対する尊敬の念を失ったわけでは無かった。

蘇峰は新島襄の安中旅行へも同行し、蕎麦の大食い勝負もしているし、

弟・徳富健次郎(蘆花)が同志社英学校に再入学した時も、

新島襄と連絡を取り合っている。

そして、新島襄が第2次大学設立運動を本格化させると、

蘇峰は関東方面で新島襄の手足となって動いている。

≪「自責の杖」事件の後、蘇峰は、紆余曲折を経て、

明治10年に東京で出版社「民友社」を設立。

そして、月刊誌「国民之友」を創刊し、

思想界に大きな影響を与える存在になる≫

仰げば教師先に卒業希望する  平紀美子



襄の痛めた手を介護する八重

明治21年9月、新島襄は蘇峰の助言により、

設立予定の学校の名称を「明治専門学校」から

「同志社大学」
へと変更する。

元々、新島襄は同志社大学という名称で大学を設立しようとしていたが、

「同志社」という名前には"キリスト教のイメージ"が付いているため、

「同志社大学」では、財界人からの寄付が集まらないとして、

「明治専門学校」という名称にしていた。

ほぐされて右脳左脳が入れ替わる  早泉早人

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逆立ちで正しい位置に戻す臍  八上桐子


    

  同志社女子大学         同志社女学校の新校舎
          
                   (それぞれの写真は画像をクリックすると拡大して見れます)


同志社は1875(明治8)年に小規模の英学校としてスタートした。

薩摩藩邸跡に移るのはその翌年。

さらに数年後、「煉瓦建て校舎」の建設をスタートさせる。

設計にあたったのは米人宣教師のD・C・グリーン

宣教師ながら建築の専門家、と思いたいが、そうではなかった。

子供のころ祖父の煉瓦積みを見ていた、という経験を生かし設計した。

施工は京都の宮大工・三上吉兵衛、煉瓦建築は初めてだった。



          新島旧邸

「同志社と新島襄」

明治8年11月29日、西暦1875年、

京都寺町、現在の新島旧邸地に同志社英学校が開校した。

わずか教師2名、生徒8名の船出だったが、

これが同志社大学の始まりである。

校名の同志社とは、「志を同じくする者の約束による結社」

という意味だが、一説には八重の兄・覚馬が命名したともいわれている。

翌・明治9年、覚馬が維新後に購入していた相国寺門前の

旧薩摩藩邸の敷地6千坪を新島襄に譲渡、

同志社英学校は新校舎を建設する。

(現在の同志社大学今出川キャンパスである)

ハイヒール70キロを盛り付ける  居谷真理子

 

          彰栄館

今出川キャンパスには文明開化時代の文化遺産が沢山残されている。

現存する京都市内最古のレンガ建築・「彰栄館」(明治17年)、

プロテスタント系では日本最古のレンガ造り教会・「礼拝堂」(同19年)

日本最古の洋式建築図書館・「有終館」(同20年)など、

重要文化財が目白押しである。(先述の宣教師・グリーンの設計)

このころ襄は、学校の運営だけでなく、伝道活動に精力的に力を注いだ。

その活動を冷ややかに見ていた槇村から、

京都府知事が北垣国道に代わると、伝道活動は一気に全国展開する。

襄が全国を回ったのは、伝道活動だけが目的ではなく、

大学を設置することでもあった。

わたくしの器に雑草が似合う  杉本克子

同志社は、キリスト教プロテスタント系の大学だが、

新島は伝道を使命とするミッションスクールではなく、

キリスト教信仰に基づく人格主義教育、

「徳育」を行う総合大学の設立をめざしていた。

キリシタン禁制の高札が撤去されたのは明治6年、

まだまだキリスト教への風当たりは強かったが、

新島も、その協力者の覚馬も泰然自若、決して揺らぐことはなかった。

それは明治維新後の日本が欧米列強に伍して発展を遂げ、

近代化いていくためには、

"何よりも自由・自立の精神の涵養が欠かせない"

という確固たる思いがあったからだろう。

さかさまに振ってもぶれぬ石頭  武本 碧

かねてから政府要人の木戸孝充森有礼などと親交があった襄は、

彼らにも大学設立を働きかけて募金活動も精力的に行った。

襄の募金活動に協力した政財界人は多く、

井上馨、陸奥宗光、青木周蔵、など時代の重鎮が名を連ねた。

勝海舟もそのひとりだった。

2人が初めて会ったのは、

襄が大学設立の必要性を勝に訴えたことがきっかけで、

「日本全国にキリスト教主義の学校を普及させるには何年かかるか?」

と勝が質問を投げかけてからである。

(以降、ふたりは親交を深め、襄の墓標は、勝が揮毫している)

帳尻が合って満月一気呑み  谷垣郁郎

  

               礼拝堂

日本で最も古いキリスト教神学研究機関である神学部を筆頭に、

学問分野でも同志社は、常に先導的な役割を担ってきたが、

新島は旧知の勝海舟の問いに、

「大学の完成には200年を要する」と述べた。

千年の都・京都に同志社英学校が開校して今年で138年、

今や13学部を抱える日本を代表する総合大学だが、

62年後にどんな完成形をみせてくれるのか?

衆目の集まるところである。

とはいえ当時、大学は官位が一校(東京大学)しかなかった。

大学設立の賛同者には、上記の3氏のほか、

大隈重信、土倉庄三郎、大倉喜八郎、岩崎弥之助、渋沢栄一など

政府界の実力者が次々と名乗りをあげた。

勝海舟も積極的に動いたが、

私立大学の創立は、容易なことではなかった。

見終わった夢詰め込んだダンボール  井上一筒

 

明治23年1月23日、新島が志半ばで斃れ永眠する。

だがその理想は協力者や教え子など、"同志"に引き継がれ、

明治45年専門学校令により大学に昇格。

大正9年には大学令により大学に昇格。

関西初の私立大学が誕生する。

階段を転がり落ちて無事着地   新家完司

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