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川柳的逍遥 人の世の一家言
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蛸壺と蛸のふしぎな間柄  西澤知子



同志社英学校・仮校舎跡(新島旧邸)

「キリスト教と会津の心」

覚馬は、この数年間キリスト教伝道学校設立のために腐心していた。

当時、反対運動が盛んで、

『京都にキリスト教の学校をつくるのは、

比叡山を琵琶湖に投げ込むほど不可能なこと』

と言われるほどだった。

明治8年11月「同志社英学校」が開設された翌年1月の

最初の日曜日に八重がプロテスタント式の洗礼を受け、

キリスト教に入信する。

マリア様におたずねしたいことがある  安土理恵

京都で新たな歩みを始めた八重が、

会津のことを全く忘れていたわけではない。

むしろ、その逆である。

会津の人々にとって、

戊辰戦争は不条理以外の何ものでもない。

孝明天皇からも篤く信頼されていた会津藩が、

ある日突然に朝敵にされ、理不尽な侵攻を受け、蹂躙されたのだ。

戦いの中で、親しい者が次々に死んでいく悲劇も数多く味わった。

人一倍負けず嫌いの魂をもつ八重は、

大いなる怒りと悲しみを覚えていたはずである。

うたがいの日々むらさきの布を裁つ  森中惠美子



八重と覚馬が明治以降、キリスト教に惹かれたのも、

その心の傷ゆえかもしれない。

愛する国・会津を喪失した悲しみと絶望の中で、

「勝てば官軍・負ければ賊軍」

不条理な権力や秩序の枠を超えた、

「最上位の存在としての神」‐「仕えるべき主人としての神」

を求めたのではないかと思えるのである。

ジクソーの最後のピースですあなた  勝又恭子

そして、八重には、

「神の前では人は皆平等」ー「男女も平等」

という教えも大いに魅力だった。

八重のような女性は、

「女子だから」と押さえつけられたこともあっただろう、

兄の覚馬や夫の尚之助の識見が、

身分秩序の壁のために、十分に活かされない現実も、

目のあたりにした。

その不条理も、八重にとっては我慢できないものだったはずである。

玉入れのカゴが古いという理由  山本早苗



しかし、だからといって八重は、

「日本人全員がキリスト教になるべき」

などと、考えてはいないし、

平塚らいてうのように女性解放運動を行うわけでもない。

彼女は、社会を変えるのではなく、

むしろすべてを一度、自分自身の問題として、

受け止める道を選んだのだ。

キリスト教も、彼女にとっては、

「己の心を磨く砂」としての意味合いが強かったのだろう。

わたくしが歩む線です太く引く  早泉早人

そこには、会津の教育が根本にある。

会津藩では極めて高水準の儒教教育が行われていた。

儒教では第一義的に、

「身を修め、家を斉えることによって国を治め、社会の平安をもたらす」

ことを言う。

その点で八重は、

会津の教育で培ったものを失ってはならないと考えたのだ。

卓袱台で天声人語噛み砕く  岩根彰子

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いつも本気で咲いているのは寒椿  大西泰世




(写真は画面をクリックすると拡大されます)

「鵺か烈婦か」

八重は、西洋帽子にハイヒール姿、たまには着物に靴

といった和洋折衷で当時は奇異な目で見られた。

八重は人前で夫を「ジョー」と呼び捨てにし、

人力車に乗る時も、レディーファーストだったから、

世間は「悪女」としか見なかった。

当時の社会通念からすれば、

八重の姿が、言動が反感を買うのも無理はない。

流しそうめんの速度が気に入らぬ  大野佐代子

    

同志社の学生だった徳富蘇峰は、自伝で、

『新島先生夫人の風采は、日本とも西洋ともつかず、

いわゆる「鵺」(ぬえ)のごとき形をなしており、

かつ我々が敬愛している先生に対して、我々の面前において、

余りに馴れ馴れしき事をして、これもまた癪にさわった』

と、回顧している。

車窓から見えるヌメリのようなもの  井上一筒

しかし、八重は全く気に止めるところはない。

西洋的なスタイルは「男女平等」という

自分の思いに沿うものである、

と同時に、夫が求める生き方でもあった。

ひたむきな応えに惑いなどはない  たむらあきこ



会津の儒教教育で夫唱婦随の精神を身に染み込ませた

八重としても、何を臆することもなかったのである。

スペンサー銃を学び、キリスト教を信仰し、

西洋帰りの夫好みの女性として振る舞った八重は、

「和魂洋才」を一身で体現した初めての女性なのである。

カメレオン淋しい彩に変わるなよ  森中惠美子

結婚した明治9年の4月には、

襄の両親、姉、甥が京都にきて共同生活を始める。

その1年後の4月に「同志社分校女紅場」が開校。

八重は礼法の教員となり、

母の佐久が同校の寮母になる。

福耳に何かを期待してしまう  竹内ゆみこ




右は、八重が作ったとされる洋菓子とロール・キャベツ。
左は、ワッフルを焼く時に使った道具

                      (写真は拡大してご覧下さい)

八重は家事も、これまでのようにメイドまかせにしないで、

宣教師夫人たちから料理なども教わった。

のために苦手な洋食も洋菓子もつくり、

襄や家族は大喜びだった。

肉を丸コゲにするような失敗もあったが、

ジンジャーブレッドなどは、宣教師夫人たちにも好評だった。

化け続けせめて最後は人間に  森 廣子

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忘れもの捜しに出口から入る  板垣孝志



「会津人とキリスト教」

明治以後、会津藩士やその子供の中で、

クリスチャンになった者が沢山いる。

藩が敗亡し、それまで信じてきた価値観が壊されてゆく中で、

「それを超える大きな価値観」

に惹かれる部分があったのだろう。

会津藩の教育方針には、

藩主への忠義と親への孝を中心とする倫理的価値観が、

組み立てられている。

絨毛のある風景に突入す  井上一筒

会津の人々は、会津戦争で大きな悲劇に直面し、

家族や友が血しぶきの中で死んでゆく、

死屍累々たる光景を見て、

「死とは何か、生きるとは何か」

を考え抜かざるを得なかった。

また廃藩置県で、主君を喪失した。

そんな状況に置かれた会津人が、

キリスト教の絶対的な神に必然的に救いを求めた。

さかさまになって秘密がバレてくる  竹内いそこ

キリスト教では、霊魂は不滅で、

死ねば天国で愛する者たちと再会できると教える。

この教えは、数多くの悲痛な死にに接した会津人たちにとって、

大きな救いになったに違いない。

さらに「己の良心のみに従う」キリスト教の倫理観は、

維新以後、

「勝てば官軍」の論理で理不尽にも賊名を被った会津人の心を、

支えてくれるものだった。

天主堂のステンドグラスにも 雨  下谷 憲子

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もう満足だろうと神がいうのか  茶助

谷垣郁郎さんの急逝の報に、ただただ驚くばかり。
郁郎さんを絞れば、川柳の汁が出てくるのではないか、
と、思うほど、どっぷりと川柳に浸かっておられたように思う。
義理堅い人で月のうち、どれだけ沢山の結社を回り、
大会に参加されていたことか察するに余る。

数々の結社に残された、その足跡を10句ほど拾ってみました。

河原町を背負い投げする塩小路

途中下車の途中ですよと貼るシール

ドーナツの穴に填ってきたひたい

間に合ったようだな髭が伸びている

自画像に近くなるまで色を選る

七並べ終えて私が見当らぬ

寝付かれぬ筈だ金魚の寝言だな

右手から左手までにもう青葉

線香花火ポトリ童話が済みました

ゼロまでも取られ何にもありません

そしてこんな句も

コーヒーの冷めないうちにポックリと

葬儀には参列できませんが心よりご冥福をお祈りいたします。

                               茶助

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思いはその人に寒暖計下がる  森中惠美子

 

「八重と襄‐結ばれる」

「幕末のジャンヌ・ダルク」と讃えられるほどの武勇伝を

のこした八重は、明治4年8月に兄・覚馬を頼って京都に行き、

いち早く英語を学んで洋装のモダンレディへと変身する。

日本は明治5年に「キリシタン禁令」を解いたが、

それは諸外国の圧力をうけて黙認したというにすぎない。
           いてき
人々が「夷狄」とよんでおびえている外国人とつきあい、

宣教師から聖書まで習っている八重の大胆不敵さに、

保守的な京都人は腰をぬかさんばかりに仰天した。

さざなみへ石を投げてはいけません  北川ヤギエ

そうした八重の、向こう見ずな女傑ぶりに惹かれて

プロポーズしたのは、アメリカ帰りの新島襄である。

八重は洋学者・川崎尚之助と一度結婚をしているが、

八重が新島と出会ったときには、

すでに川崎尚之助は病死していたから、

二人の結婚に障害となるものはなかった。

夕日にも予防注射しておいた  井上一筒

 
                            どくりつふき
襄にとって八重は、まさに「独立不羈」の魂を持った女性だった。
      
「政府や国家に依頼心を持たず、独立不羈の一己の見識と

  品格に基づいて、天地に恥じない『一国の良心ともいうべき者』 

  であり、そのような者は、キリスト教の普遍的真理に基づく

  徳育により養われる」

これが新島襄の考える近代国家を支えるべき人間なのだ。

独立不羈=どこからも何の束縛も制約も受けることなく、

        自らの考えに従って事を行うこと。

鍵のないドアで自由が出入りする  河村啓子

しかし、いくら英語を学び、キリスト教に感心をもっていたとしても、

相当の覚悟と勇気がなければ、

クリスチャンとの結婚には踏み切れない。

八重だからこそ受け入れたのだ。

明治9年1月に、八重は京都で初めての洗礼をうけ、

新島襄とキリスト教による結婚式をあげた。

凶のみくじはコヨリにしておこう  山本昌乃



明治9年1月2日、襄と八重のキリスト教式の結婚式が行われた。

これは京都では初めてだった。

2人とも洋装で、襄はフロックコート、八重はドレス姿。

参列者は家族、宣教師、同志社の学生たち10数人で、

質素なものだった。

襄が32歳、八重は30歳だった。

R30指定手前の固結び  酒井かがり

そして襄と共に理想の教育実現に全力を尽くしていくこととなる。

八重はキリスト教の洗礼を受けたこともあって、

女紅場を免職されるが、

結婚後、同志社女学校の設立に力を注いだ。

また、襄の理想に従い、

西洋的な「レディ」の生き方を実践してみせた。

洋装し、夫を「ジョー」と呼び捨てにし、一緒に並んで人力車に乗る・・・。

そんな態度は、京都の人々には決して理解されるものではない、

同志社の生徒たちからすら白眼視された。

くるぶしの辺りを騒いでいるカモメ  森田律子

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