ロンパリ!考える椅子
川柳的逍遥 人の世の一家言
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八重の籠城戦
次の世は星になるのか風なのか 新家完司
(各画像は大きくしてご覧下さい)
「八重の籠城戦-マップ」
① 8月23日朝、
八重
、入城
三の丸下あたり
② 8月23日~、敵軍を三方向から銃撃し、
城内への侵入を防いだ。
伏兵曲輪の上
③ 8月23日~、
八重
、スペンサー銃で薩摩藩二番砲隊を狙撃。
大山弥助
(巌)を狙撃か
北出丸上
④ 8月23日夜、
八重
、夜襲にも出撃。以後も度々敢行
北出丸右
⑤ 8月24日頃、
八重
が夜襲に出ようとしたところ、
少年たちに随行することを請われる
天 守
⑥ 8月26日、
山川大蔵
らが
「彼岸獅子」
を先頭に立てて入城を果たす
西出丸
⑦ 8月26日、
中野こう子、優子
らが入城を果たす
西出丸
⑧ 9月14日の新政府軍の総攻撃後、大書院、小書院の病室に
食事を届ける途中で、
八重
の至近距離に敵の砲弾が落ちる。
本丸
⑨ 9月22日、
降参の白旗
が掲げられる
北出丸
⑩ 9月22日午後、会津兵が三の丸に移される
三の丸
⑪ 9月22日夜、
八重
が雑物庫の白壁に
「明日の夜は何国(いずく)の誰かながむらんなれし御城に残す月かげ」
の歌を刻む
2つの三の丸の間
八重
、連日狙撃する
西の丸
松平容保
指揮所。八重が不発弾の解体を披露する
鉄門
藩士に弁当を届ける途中に、敵の銃弾で
八重
の帽子が飛ばされる
11番と同じ
川崎尚之助
が砲隊を指揮し、小田山の敵砲陣を砲撃。
豊岡神社に
四斤山砲
を据え、山頂の墓碑を目印とした。
八重
もこれを手伝う
下の方の三の丸あたり
南走長屋と干飯櫓
ひたむきな命は美しいものだ 杉本克子
「八重の籠城戦」
郭内に突入した西軍はただちに北出丸攻略にとりかかった。
北出丸御門は、藩主および公用をおびた重役のみが
出入りする
鶴ヶ城の表門
である。
西軍の銃撃に対して、城中からも激しく応戦した。
八重
もこれに参加、銃眼からスペンサー銃を撃ちまくった。
そのうち、西軍の銃声が砲声にかわった。
これは薩摩の
大山弥助
の率いる二番砲隊が、
活動を開始したのである。
たちまち犠牲者が続出した。
後悔がひたすら落ちる砂時計 石橋能里子
城中の旧式ゲベール銃などでは、
到底太刀打ち出来るものではない。
―このままでは表御門が突破されてしまう!
八重の脳裏に、その時、ひらめくものがあった。
城中に
四斤山砲
があったことを思い出したのだ。
八重は、玄武隊の兵によってこれを運び込むと、
城壁の土台の石垣を突き崩し、
そこから山砲の砲身を差し出して、砲撃を開始した。
もう一度同じ時間に乗ってみる 高島啓子
老兵たちは、彼女の指示に従って弾丸の装填をし発射した。
最初のうちは不器用だった彼等は、次第に馴れて、
敵陣に着弾するや、面白がって連発発射した結果、
さしもの薩摩砲隊も沈黙し、
「撤退した」
と知ると歓声をあげたものだった。
このことから初め男装の八重を見て、
単なる「お転婆娘」ほどに思っていた彼等も、
最後は言葉遣いまで改めて接するようになった。
「いやあ、女ながら、大したものだ」
と。
こうして八重の籠城は始まった。
ポニーテールほどいて四つキーをあげる 酒井かがり
八重はしかし、薩摩砲隊の撃退くらいで満足せず、
単独の夜襲出陣を企てた。
―これほどでは、三郎の無念は消えやせぬ。
との思いが強いのである。
スペンサー銃を担ぎ、
御台所門
に向かったところ、
12、3歳の少年が10人ばかり、
槍の柄を手ごろに詰めたものを持って、
たむろ
屯していたが、八重の姿を見ると、
「八重様、わたしたちも夜襲に同行させて下され!」
と誠意をこめて願った。
さすがに彼女も当惑し、本営にどうしたものかと諮ると、
心情は分らぬものではないが、敵方に、
「さては城中に兵少なく、会津様では、
女子供までも狩り出したかと、あなどりをかうではないか」
と叱責され、八重の夜襲は取りやめとなった。
生きていてくれと言われて生きている 永井 尚
間もなく、城内に藩兵の姿が急に目立つようになった。
城下の危急を知った遠征部隊が、馳せ戻ってきたのである。
それにつれて、西軍も長期作戦を取った。
以来、八重は藩兵の夜襲に混って、たびたび城外出撃をした。
が、彼女の場合は特殊であり、
籠城婦人たちの大方は、
兵士のための
炊飯
、
傷病兵の看護
および、
銃弾作り
が主な役目であった。
むろん八重もこれらに参加しなかったわけではない。
ことに銃弾作りと、運搬には、彼女らしさを発揮した。
ゴミ箱に私が落ちていませんか 守田啓子
百発を1箱に詰めた物を、
鉄砲隊に届けるのも女の仕事の一つで、
百発の重量は、女の細腕に余る重さであったが、
八重は2、3箱を抱えて平然としていた。
「三郎さんにはかなわない!」
女たちはそんな八重に嘆声をあげた。
この頃の八重は、友人に頼んで断髪していたので、
誰もが彼女を
「三郎さん」
と呼んだのであった。
城中城外での激しい攻防戦のすえ、
9月に入ると、ついに西軍は総攻撃を開始した。
UFOは蚊取り線香で追いはらえ 筒井祥文
城を見下ろす小田山に砲列を敷いて砲撃したのだ。
砲弾は月見櫓を越えて、城内へ落下した。
月見櫓を守った老人が数えたところ、
1日千発をはるかに越えた凄まじさであった。
八重が目撃しておどろいたのは、
天守閣に砲弾が着弾するや、猿のごとく屋根の上を走って、
その砲弾を素早く衣類に包んで投げ捨てていた
一団がいたことだ。
これは江戸屋敷出入りの鳶の者が40余人、
藩士に従いて会津に来、籠城したとのことであった。
「鉄砲や大砲の弾が恐くって、
逃げたとあっては、江戸っ子の恥だい!」
という啖呵が聞こえるようである。
火渡りのもう戻れない列につく 大西泰世
鉄 門
八重が
松平容保
の御前で不発弾を分解し、
砲弾の仕組みについて進講したのも、この時のことで、
黒金門内
の采配所で容保は、
感じ入った面持ちで八重の説明に耳を傾けていた。
八重が開戦以来、別れわかれになっていた、
川崎尚之助
と偶然めぐり逢ったのも、
西軍の砲撃が激しくなり、降りそそぐ砲火の中で、
銃弾運びをしていた時であった。
昨日から前頭葉に柿の種 森茂俊
三の丸鉄砲隊の陣地へ伺おうとし、
三の丸
の土手にさしかかった時、
さしもの彼女も思わず「あ」と棒立ちになった。
三の丸の土手の
大砲隊
を指揮し、
小田山の西軍に反撃を加えている人物が、
他ならぬ夫の尚之助だったからである。
八重に気付いた尚之助が、
片手を上げて
「お!」
と目をみはったのは、
八重が男装だったからに違いない。
まさしく、久方ぶりの対面であったが、
「ご苦労さん」
「お前様も」
「気をつけてな」
「あなたも」
二人の交わした言葉は簡略である。
直角に曲がる律義な人ですね 竹内ゆみこ
これが夫婦永別の時となるとは、もとより知る筈もなく、
八重は他の女達とともに、鉄砲隊の陣地へと向かい、
尚之助もまた、ふたたび大砲隊の指揮にとりかかっている。
会津藩は、籠城抗戦1ヶ月、
9月22日ついに白旗を掲げ開城と決した。
その後、八重は、耿々たる秋月の光を浴びながら、
三の丸雑物蔵の白壁
に笄で万感の想いを彫りつけた。
"明日の夜は何国の誰かながむらん なれし御城に残す月かげ"
落城とともに、城と同じく八重の人生もどうなるかは分らない。
むろんキリスト者・
新島襄
とめぐり逢うことなど、
彼女の夢想だにせぬことであった。
唇の水別れは不意にやってくる 森中惠美子
[4回]
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y2013/07/06 09:30 z
CATEGORY[ポエム&川柳]
西郷家の悲劇
死ぬときに飾るものなど遺さない 森中惠美子
(各画像はクリックして拡大してご覧下さい)
頼母の長女・次女自刃前の覚悟の辞世読み合わせ
次女
「手をとりてともに行きなばまよわじよ」
長女
「いざたどらまし 死出の山みち」
みすこ
頼母の家族、妻・西郷千恵、母・西郷律、妹・西郷眉寿子、西郷由布子、
たえこ たきこ
娘・西郷細布子、西郷瀑布子6人は、それぞれ辞世を残し、
「官軍兵の恥辱に犯されるよりは武家の子女として操を守る」
ために足元が乱れないように縛り、自決した。
辞世は次の通り。
律 子
「秋霜飛兮金風冷 白雲去兮月輪高」
千重子
「なよ竹の風にまかする身ながらも たわまぬ節はありとこそきけ」
眉寿子
「死にかへり幾度世には生きるとも ますら武雄となりなんものを」
由布子
「武士の道と聞きしをたよりにて 思いたちぬる黄泉の旅かな」
船がくる身をのり出して手を振って 山本昌乃
西郷頼母家の広大な屋敷(復元)
「西郷頼母一族の自刃」
若松城の城門近くに、
会津藩の家老の西郷頼母の家老屋敷があり、
この家老屋敷で
西郷頼母
一族21人が自刃に倒れた。
西郷頼母一族の自刃があったのは、
頼母が国境警備にあたっている時のことである。
藩士の女性や子どもたちも最後の戦いに臨もうとする中、
なぜ、頼母の妻や娘たちは自刃を選んだのか?
慶応4年8月23日
(閏1868年10月8日)
早朝、
城下町に早鐘が鳴り響き、
藩士の家族が続々と若松城に向かうなか、
西郷一族21人は西郷頼母の家老屋敷に集まっていた。
血小板に彫り込んである家訓 井上一筒
西郷千恵
頼母の母親・
西郷律子
は、
「女が城に居ては足手まといになる。
されど、敵の手に落ちて辱めを受けるわけにはいかない」
と言い、辞世の句を詠むと、自刃に倒れた。
頼母の妻・
西郷千恵子
は義母・西郷律子の後に続き、
まだ自害できない幼い我が子を刺した。
そして、妻の西郷千恵子は我が子の死を確認すると、
返す刀で自分の喉を貫き、
会津藩士の妻としての役目を果たした。
こうして、頼母の家族9人が自害した。
また、別室に集まった頼母の縁者12人も、
西郷律子らに続き自害した。
この日、西郷頼母の家老屋敷では一族21人が自殺した。
小刻みに揺らぐ別れのレモン水 藤本鈴菜
「土佐藩の中島信行の介錯」
このとき、新政府軍・土佐藩の
中島信行
は、
若松城の近くにある屋敷を一軒一軒、調べていた。
中島は大きな屋敷に鉄砲を撃ち込む。
しかし、反応が無いので、屋敷内を捜索した。
中島が長い廊下を渡って1室の障子を開け、
目にしたのは西郷家の女・子供たち21人の自刃の姿だった。
中に、17~18歳の女が1人まだ息を残していた。
年齢から考えて、
女は頼母の長女・
西郷細布子
だとされている。
西郷細布子は母に頼らずに自害したが、
急所を外して自殺に失敗し、意識がもうろうとしていた。
西郷細布子はもうろうとしながらも、
障子を開けた中島信行の気配に気づくと、
「敵か、味方か」
と問うた。
ト書を消そう 海のシナリオ 森吉留里惠
中島が
「安心せい、味方じゃ」
と答えると、
西郷細布子は力を振り絞って懐刀を差し出し、介錯を頼んだ。
中島信行は「御免」と言い、西郷細布子の首を落としてやった。
※
(このエピソードの主役・中島信行はこのとき土佐藩を脱藩しており、
会津戦争にも参加していないため、別人の可能性がある)
会津藩士の家族の中には、
頼母一族と同じように新政府軍の辱めを受けることを
危惧して、自害した者が大勢居た。
柴五郎
の家族も自害している。
内藤介右衛門
の家族も面川泰雲寺で自害している。
戊辰戦争で死んだ会津藩の女性の数は、
計230人に上ったという。
わさびだな涙のツボを知っている 徳山泰子
明治時代に撮られた西郷頼母の写真
目立つのは伸びるにまかせた長いあごひげ。
「妻も子も失ってー頼母30年の漂泊」
慶応4
(1868)
年8月、新政府軍が若松城に迫る中、
頼母は陣頭指揮にあたっていた。
新政府軍のあまりの猛攻の前に、
重臣達の中には講和を申し出て降伏しようと言う者が現れた。
それに対し頼母は、
「降伏すれば会津の恥をさらすだけだ」
と激怒する。
しかしこの直後に頼母は城を追われ、
唯一残された長男・
吉十郎
と共に会津を去ることになった。
(これは敗色濃くなる会津藩で、
降伏論に激しく反対した頼母の口を封じるためとされている)
明治元年9月22日、会津藩降伏。
戊辰戦争の会津藩の犠牲者は、
女性や老人 子どもも含め3千人に及んだ。
その後、頼母は北海道へ向かう旧幕府軍に合流、
戦いに敗れるが、頼母は生き延び幽閉の身となった。
まんぼう笑う しょいきれぬもの抱きしめて 太田のり子
頼母の自叙伝「栖雲記」
会津戦争の後に頼母が伝え聞いた
妻や娘たちの凄惨な最期の様子が記されている。
明治3
(1870)年
、頼母は幽閉を解かれる。
会津藩は事実上解体、藩士たちは方々に離散してしまう。
頼母は長男とともに各地を転々とすることになり、
頼母は有志が開いた私塾で歴史や漢学を教えた。
明治7年、国の新たな制度で公立小学校が作られ、
頼母の塾が閉じられた。
それでも働いて跡取りの吉十郎を成人させた頼母だったが、
明治12
(1879)
年に吉十郎が病死。
頼母が会津崩壊とともに切腹をせず、
生き恥を晒すことを選んだのは、
西郷家の血である吉十郎を守ることであった。
が、ここで吉十郎が死んだとて、会津滅亡から12年今更、
切腹の意味もなかった。
切腹はいやだ 首吊りもいやだ 新家完司
頼母の心の内を伺わせる直筆の唄が残されていている。
そこに記されていたのはかたつむりだった。
その後、頼母が各地を渡り歩いた年月は20年に及んだ。
明治32年、70歳となった頼母は会津若松へと戻り、
ふるさとに居を構えた。
食べるだけのやっと暮らしだったのか、玄関には戸もなく、
筵を下げただけの長屋住まいだったという。
お金を無心することもあり、
恥を晒してでもふるさとへと戻ってきた頼母は、
妻や娘たちが眠る墓の傍らに、
自らの墓を建てることが最後の願いだった。
明治36
(1903)
年、西郷頼母 永眠 享年74。
白紙の周辺から一行足らずの私情 山口ろっぱ
[4回]
y2013/07/03 09:30 z
CATEGORY[ポエム&川柳]
会津のために
ハンカチの黄色は褪せて黒ずんで 嶋澤喜八郎
会津戦争記聞
迫り来る新政府軍から、馬上の容保を守る会津藩士たち。
左から3番目に
中野竹子
も描かれている。
(画像は大きくしてご覧ください)
「会津のために」
急を告げる城内の警鐘が乱打された。
それは城下すみずみまで鳴り響いた。
郭内の武家屋敷では、藩士の留守を守る家族が残っており、
この鐘が鳴る時には、
籠城
して城を守る合図として会津藩では通達されていた。
同じこと聞かれて同じこと言うて 都司豊
朝餉の片付けも終り、自室に戻っていた
八重
は、
突然鳴り響いた鐘の音に、びくっとしたものの反射的に動いた。
―家族を守るのだ!
「お母さま!!」
「八重!早く避難せねば!うらや!何も持たずともよいから、
みねを連れて逃げるのです!」
「お母さま!今、お城を守るのは、
郭内に残っている私たちの役目です!
逃げても会津のためにはなりませぬ!!」
真実を伝える唇が赤い 笠嶋恵美子
母・
佐久
は、そんな強い語気の八重を初めて見る思いで、
「八重や!女や子供が、城の中に入っても、
戦いのジャマになるだけですよ!」
日頃から、おとなしい
うら
も、
「そうですよ八重さん!私の実家がある村へ早く逃げましょう!」
「八重や!みねもまだ幼いゆえ足手まといになるだけですよ!」
「そうですよ、八重さん!早く逃げましょう!」
信号が青になっても出ない足 牧浦完次
そんな母や嫂のうらの差し迫った言葉も八重にとって、
会津藩の一大事の前では、只々悲しく聞こえるのであった。
ー城が落ちて、会津藩がなくなってしまえば、
父や兄や、三郎が、今まで戦ってきたのは、
何のためなんだろうかと。
ー今ここで城を後にして、ただ逃げるだけなのか。
最後の最後まで、私は家族のためにも、会津のためにも、
戦いたい!
ー会津は間違っていない! 殿さまを守らなければ!!
柔よく剛に挑んだのは女たち 桑原伸吉
八重は決意をこめた口調で、
「お母さま、嫂さん!私は、幼い頃からお父さまや兄さまに、
砲術を教わってきたのですよ。
藩のためにも殿さまのためにも、それを役立てとうございます」
それを聞いて、佐久は面くらいながら、
「でも八重や、私やうらが何のお役に立てるというのですか?」
うらも、
「そうですよ八重さん。みねも危険ですし、
私なんぞ、何の役に立てるというのですか?」
八重は、郭内がさわがしくなってきているのを聞きながら、
辛抱強く2人を説得した。
微笑んだ頬に涙の跡がある 藤井裕司
「お母さまや嫂さんは、
食事を作ることができるではありませぬか。
ケガをした兵士がいれば手当てをすることだってできるし、
火を熾すことも、水を運ぶことも!
女だって、子供だって、
戦の力となります!
それに郊外の村に逃げる間に、
敵にみつかってしまうかもしれません。
女、子供だけで、どう立ち向かえばいいのですか?」
「でもお前・・・」
と母は、まだ不安そうな表情で、うらも呆然としながら、
逃げたそうな面持ちであった。
わたしにもまだ差し上げるものがある 安土理恵
「お嫂さま、兄さまの行方は判りませぬが、
必ず生きていらっしゃいます!
なにとぞ八重のことを信じて、ついて来ていただけませぬか?
お母さまも、お嫂さまも、みねのことも、
八重が守ってみせますから!!」
そう言いながら、八重は、
亡き
三郎
の袴と軍服に素早く着替え、
麻の草履をはき、両刀を佩いて、スペンサー銃を肩に担いだ。
母佐久は、
「八重・・・」
と、あとは言葉にならず、
一瞬のうちに、八重の心情を察した。
重ね着の隙間を風がすり抜ける 神野節子
母佐久と嫂うら、姪のみねと共に、
八重たち山本家の女たちが、城内に入ったのは、
城下のそこかしこで銃撃戦が始まり、
火の手が上り、甲賀町郭門口、桂林寺郭門口が突破され、
銃声や怒声が飛びかい、
間一髪で城門が閉まる直前の時であった。
「嫂さん、お母さまとみねのこと、よろしく頼みますよ!」
「八重さんは、どうなさるおつもりなの?」
ーここまで来れば大丈夫。
なんとか頑張って城を守っていきましょう。
心の中で言いながら、弟の仇を討つ意気込みで、
八重は鉄砲隊のいる場所を目指して、駆け出した。
生きるためそれから人を愛すため 清水すみれ
[5回]
y2013/06/29 09:30 z
CATEGORY[ポエム&川柳]
白虎隊隊士‐東梯二郎
ひとりではないよないよと仏の灯 森中惠美子
「白虎隊 飯盛山自刃の図」
(浅井応翠筆)
(画像を拡大してご覧下さい)
慶応4年
(1868)
8月23日、
戸の口原にて
板垣退助
率いる新政府軍に破れた、
白虎隊士中二番隊
の一部17名は、
退却途中に
飯盛山
にて集団で自刃した。
飯盛山
「白虎隊ーひとりの美少年-東梯次郎」
東梯次郎というひとりの少年がいる。
父の名は佐太夫...食禄130石で会津藩にあっては
大目付まで出世し、しきりに藩の行く末を案じている人物だった。
そんな上士の息子が4歳の頃、
忘れられない光景をまのあたりにした。
よねだい
郭内米代四之町にある隣家の娘の光景である。
その娘の名は
山本八重
。
藩の砲術指南役、150石取り
山本権八
の娘である。
梯次郎
よりも九つ年上だから、
当時はまだ13歳になったばかりだったろう。
それはともかく、その光景、
梯次郎にとってはなんとも恐ろしいものだった。
大人へと化学反応し続ける 山口美千代
「むんっ」
という掛け声とともに、
八重が米俵をいとも軽々と担ぎあげたのである。
米俵がどれだけ重いのかは、4歳の子どもでも知っている。
四斗
(60㌔)
である。
1斗樽の油ですら梯次郎は持ち上げられないというのに、
八重は八重は、ヒョイと担いでみせる。
化け物ではないかと感じた。
ところが、その化け物、御仏のように優しい。
いつも下女の手伝いで米蔵から米俵を担ぎ出して、
母屋まで運んでやるのだが、そうした時、
きらきらと輝くような笑顔を見せるのだ。
どんな時も幸せですと言うている 太下和子
7歳になっても10歳になっても、梯次郎は同じ疑問に包まれた。
八重に手を引かれて野や川で遊んだり、
祭礼などの見物に出かけたりするたびに首をひねった。
石投げをしても近在の小僧など足元にも及ばない。
何から何まで男勝りに出来ている。
砲術にしても、そうだ。
門前の小僧が習わぬ経っを読むごとく、
父親の仕事ぶりを見ているうちに、
いつのまにやら知識を蓄え、鉄砲を憶え、
藩士が目を丸くするほど、
見事に撃ち放って見せるようになっていった。
いろいろな形でいいの愛なんて 山本昌乃
「八重さんは凄い」
梯次郎は素朴にそう思ったが、親の側としてはそうはいかない。
「あの男勝りは、なんとかならんか」
父の
権八
は妻の
佐久
と相談し、
裁縫
を習わせようと決めた。
八重は近所に住む町奉行の
日向左衛門
の娘
ユキ
と仲が良い。
2人で日向家の隣の高木家の老母の元へ通わせ、
裁縫を習わせることにした。
ただ、なかなか上達しない。
意にそまぬことなんですが私です 桜風子
恐らくは向いていないのだろう。
しかし、うまれつき健気に出来ているのか、
20歳までの数年間、せっせと励んだ。
かといって、鉄砲を忘れたわけではない。
気が向けば鉢巻をきりりと締め、
庭先に設えられた的をめがけて、
轟然と撃ち放ったものだ。
そんな八重のことが、梯次郎は好きだった。
生真面目にゴトン各駅停車です 清水すみれ
ところで梯次郎は、父親によく似て物腰の柔らかい少年だった。
頭も良く、父から漢籍を学び、
11歳の春には日新館に通うようになり、
尚書塾一番組に編入された。
しかし、いくら頭脳が明晰で、姿容が優美で、
仏式歩法調練によって逞しく鍛えられていようとも、
武士として戦場の務めを全うできねばしかたない。
ことに、これからの時代、銃が撃てねば話にならない。
なるほど、会津の藩士らは上級になればなるほど、
鉄砲は下級武士の武器だとか、
武士が腹這いになれるかとか空威張りをしているが、
梯次郎のような若侍にそんな見栄はない。
洋式銃を受け入れねば、故郷を守ることはできない。
どの箱を開けても海は荒れている 中野六助
梯次郎は脇目も振らずに八重のもとへ走り、
「鉄砲を教えて下さい」
ここぞとばかりに頭を下げた。
「鉄砲は、鉄砲の上手な方に教えて戴きたいです。
鉄砲の似合う方は、鉄砲上手です」
「わたしは鉄砲など似合いませぬ」
八重はそのおり機を織っていた。
京にある兄・
覚馬
へ反物を送ってやろうと思っていたのか、
夫・
尚之助
に着物を新調しようと思っていたのか、
それはわからない。
が、このところ、とみに女らしくなってきた八重は、
機織りの手を止め、首を横にふった。
柿の実のたわわに熟れていて遠い 佐藤美はる
だが梯次郎は諦めない。
「機織りなど八重さんには似合いませぬ。
八重さんに似合うのは、鉄砲です」
八重は溜息をつき、諦めたように微笑み、
「わかりました」
と頷いた。
「教えて差し上げましょう」
だが、機織りをやめた八重の教えは、
乙女時代の性格が甦ったようにきつかった。
最初に引き鉄を引いた時からして、そうである。
思わず眼を瞑ってしまったのだが、
―臆病者っ。
いきなり、頭ごなしに叱られた。
―あなたのような臆病者には教えられませぬ。
とはいえ、生まれて初めて銃を手に取ったのである。
射撃の轟音と衝撃に驚かぬ者がいるはずもない。
しかし、八重は赦してくれなかった。
甘やかすつもりなどない角砂糖 竹内ゆみこ
―今度は瞑りませぬゆえ教えて下さい。
と頼み込み、ようやく二発目を撃った。
が、またもや瞑ってしまった。
「そんなふうでは、敵など、撃てるものではありませぬぞ」
「次こそ、次こそ瞑りませぬ。もう一遍っ」
梯次郎は懇願し、三発目は必死に堪えた。
「好いでしょう。教えて差し上げます」
まるで母か姉のような口ぶりだったが、
そのとおり、
八重は精一杯の愛情を傾けて鉄砲を教えてくれた。
射撃の姿勢、照準の付け方、火薬の配合、息遣いなどと、
事細かに誠心誠意、教授してくれたものだ。
弱点を谷折にして立ち上がる オカダキキ
ところがある時、こんなことがあった。
―そのざんぎりになった前髪では、
引き鉄を引く際、動きの妨げになりますね。
いうが早いか、剃刀を手にして、
ばっさりと切り落としてしまったのである。
これには、さすがの両家の者が驚いた。
いや、驚いただけではない。
八重の母・佐久に到っては、火をふくように叱りつけた。
女だてらに鉄砲を教授するばかりか、
―隣家の許しも得ずに前髪を切るとは何事か
と憤激したのである。
どうしょうもないがあきらめかねる 藤井孝作
しかし、八重はひるまない。
「母上はそう仰いますが、
そもそも女ごときに砲術を教えてくださったのは、
父上と兄上にございます。
八重は薙刀も習い憶えましたが、戦さの際に役に立つのは、
何をさしおぴても砲術と心得ております。
ですから八重は、父上と兄上の申されるままに、
砲術の奥義を極めんと欲し、精進してまいりました。
かつまた、梯次郎どのに対しましては、
父上と兄上の教えを、そっくりそのまま伝授して差し上げました。
もしこの先、梯次郎どのが戦さにおいて、
見事に鉄砲を披露して下されば、
それはすなわち、
山本家の教えが世に披瀝されることであり、
我が家の誉れというべきものになるのではありませぬか。
つまり、八重は、山本家の名誉のために、
梯次郎どのの前髪を切り落としたのです」
まん丸でつきたて餅のお人柄 徳山泰子
庭先に立ち尽くして事のなりゆきを見守っていた梯次郎は、
ふと、かたわらに佇んでいる人影に気づいた。
八重の夫、尚之助だった。
尚之助は妻の反論をじっと見つめ、
やがてにっこりと微笑んでみせた。
「あれでこそ 八重だ」
だから八重は好いのだ、というのであろう。
みんな許して石段おりる 河村啓子
やがて事なきを得た後、教授の終わりの挨拶として、
梯次郎にこう告げた。
「寒夜に霜を聞くごとく、引き鉄をお引きなさい。
由来、寒い冬の夜には霜が降ります。
けれど、霜の降りる音は、
おいそれと聞き取れるものではありません。
余計なことは一切考えず、
気持をひとつにして霜の音色に耳を傾けるのです。
鉄砲も同じです。
引き鉄にそっと指をあて、ただ的のみを見つめ、
寒夜に霜を聞く如く、
引き鉄を引くのです」
それこそが、鉄砲の極意であると。
目標はきっときっと見つかるから 庄田潤子
慶応4年
(1868)
8月下旬、
(慶応4年は閏で8月下旬は東北では雪が下りはじめる10月にあたる)
戊辰戦争の戦火が会津にもおよび、
梯次郎は白虎隊の隊士として出陣した。
―八重さんっ。
見送りに来てくれた八重に、梯次郎は叫んだ。
「立派に撃ち放ってみせますよ」
そういい、ヤーゲル銃を、頭上に高々と掲げてみせた。
この温柔にして勤学を謳われた美少年は、
こうして戦さの野に進んだ。
戸ノ口原で敵を待ち受け、噎せ返る夏草の間に臥し、
銃を構えた。
銃身の上に、照準を付けるための櫓を立て、
引き鉄に指を絡ませる。
ー
寒夜に霜を聞くごとく―
(秋月達郎)
恋がほんのりそっと背を押す 小山紀乃
「白虎隊を写真で見る」
ー(画像は拡大したご覧下さい)
隊士の手記
白虎隊二番中隊士・津川喜代美の手紙
隊士たちの胸の内
松平容保が陣を敷き白虎隊士が出陣の命を受けた旧・滝沢本陣
白虎隊・隊士像
白虎隊士の墓
碑には、
「幾人の涙は石にそそぐともその名は世々に朽じとぞ思う」
と刻まれている
。
隊士霊像
白虎隊記念館
ブランコに乗せる十五夜お月さん 本多洋子
[3回]
y2013/06/26 09:30 z
CATEGORY[ポエム&川柳]
中野姉妹・こう子
欠けてゆく度 重くなる月 森吉留里恵
中野こう子、竹子、優子母娘の涙橋の戦い
(長谷川恵一画・会津武家屋敷蔵)
(すべての画像はクリックしてご覧下さい)
「中野姉妹・こう子」
中野竹子
は江戸和田倉の会津藩上屋敷内で生まれた。
5歳で百人一首を暗誦し、
藩主
容保
の姉・
照姫
の薙刀指南だった
赤岡大助
から、
7歳の頃より薙刀や剣術を学んだ。
17歳の時、大坂の御蔵奉行に転出した大助の養女となり、
上方に住む。
大助は竹子を甥の嫁にしようとしたが、
男勝りの竹子は、
動乱の様相を呈する世情に無関心ではいられず、
結婚はまだ早いと養女の縁を切って江戸に戻り、
中野家に復した。
そして20歳の頃、
備中松山藩の
板倉勝静
の姫付き祐筆として、
奥勤めにも出た。
プラチナの涙も流す女心 小林満寿夫
幕府が崩壊し、薩長の恨みが会津に向く中、
藩主容保の帰国に伴い、
中野家母娘ははじめて会津の地を踏んだが、
江戸詰めのため屋敷はなかった。
そこで日新館や
山本八重
の家に近い、
遠縁の
田母神兵庫
宅の書院を借りて、
会津戦争が始まる5ヶ月程前から住んだ。
この頃、赤岡大助も会津に帰り、
坂下で道場を開いたため、22歳の竹子は、
片道12キロの道を歩いて通い、薙刀の鍛錬に励んだ。
疲れます正直すぎて真っ直ぐで 安土理恵
当時、母・
こう子
、妹・
優子
も薙刀の訓練を日課とした。
44歳のこう子が中心になり、近所の者で婦女隊を結成し、
敵と戦う相談ができる。
薙刀も習っていた八重も誘うが、
彼女は鉄砲を選んで薙刀隊には加わらなかった。
※ (こう子は会津女ではなく、足利藩戸田家の家臣
生沼喜内
の娘)
やがて散ることも心に留めておく 竹内ゆみこ
会津城城内の砲弾の火を消す女性たち
(長谷川恵一画・会津武家屋敷蔵)
「涙橋の戦い」
若松城下に新政府軍が突入して来た8月23日朝、
母娘3人は自宅で断髪し、切った髪を庭先に埋めて出陣した。
だが敵の侵入が余りに突然だったため、
近所の20人余人で約束した
「婦女隊」
の編成は叶わなかった。
鶴ヶ城に行こうとしたが、敵陣に阻まれ、
城とは反対の西に向かい、
避難する人々の流れに乗って、郭門を出た先の河原町で、
偶然に
依田まき子・菊子
の姉妹と、
岡村すま子
に出会った。
みな薙刀を持ち、刀を佩びていた。
6人で一緒に行動する約束ができ、
ここに
「婦女隊」
が生まれた。
空高く I を小文字にかえてみる 北村幸子
中野竹子が使用した薙刀
ちょうど通りかかった侍から、照姫が坂下に立退いたと聞き、
6人は、
「照姫様をお守りしよう」
と坂下に向かったが、
誤報と知ってがっかりする。
翌日、出陣していた家老・
萱野権兵衛
に会い、
女ながらも戦いたいと直訴し、翌25日に、
鶴ヶ城へ進撃する衝鋒隊に同行することが許された。
その夜半、寝ている優子を前に、
こう子
と
竹子
のひそひそ話を、
菊子
は盗み聞きし仰天する。
洗練された言葉で花の首を切る 笠嶋恵美子
優子は16歳と若く美人なので、
戦って捕まれば敵の慰み者になってしまう。
そんな恥辱を受けるぐらいなら、
「いっそ今、自分らで殺してしまおう」
と相談していたのだ。
菊子は姉・
まき子
を叩き起すと、
2人で思いとどまるよう説得し、優子は命拾いをする。
襖の下貼りにちょうどよい聖書 森光カナエ
運命の25日、降る雨の中、
婦女隊6人は鶴ヶ城に向け進軍する
衝鋒隊
に従った。
湯川に架かる涙橋は鶴ヶ城の北西2キロ余りにあって、
越後街道と銀山街道の追分けに位置する、
交通の要衝だった。
長州と大垣の兵たちが涙橋に土塁を積んで、
会津方を待ち受けていた。
生と死は神の領域だと思う 佐藤正昭
(画像をクリックすると拡大され 文字が読めます)
夜9時、衝鋒隊が突破を図ろうと
涙橋
に殺到して、
戦闘がはじまる。
当初、衝鋒隊が優勢だったが薩摩と土佐の兵が駆けつけ、
しかも銃器の差によって立場は逆転し、
3時間の戦いで会津方に70人の死傷者が出てしまう。
6人の婦女隊は一塊となって湯川の薬師河原で戦った。
敵味方の放つ銃弾が、雨に濡れてピカピカと光って飛び交う。
6人は臆することなく斬り込み、接近戦となる。
敵の隊長が、女と知って「討たずに生け捕れ」と叫び、
群がるように6人を囲む。
「生け捕られるでない、恥辱を受けるな」
とこう子は怒鳴る。
一点を凝視心は閉じたまま 嶋澤喜八郎
「ものゝ夫の猛き心にくらぶれば、数にも入らぬ我身ながらも」
竹子は自歌を短冊に認め薙刀に結びつけていた。
その薙刀がうなる。
切っ先が敵兵の白刃をしのいで幾人かの敵を倒した。
弾丸は真正面から飛んできた。
彼女の強さに恐れをなして、狙撃したに違いない。
弾は額を貫き、ドドッと竹子は倒れた。
即死だった。
飴玉を砕いた虹は消えました 森田律子
これを見た優子が、
間に立ちふさがる敵を薙ぎ払いながら、竹子に近づくと、
「お姉様の御首級を敵に絶対渡しはしませぬ。
私が介錯し持ち帰りましょうぞ」
と唇をきりりと結び、首をはねようとした。
だが髪の毛が引っ掛ってうまく行かず、
側で戦っていた農兵が手伝って
ようやく姉の首級を挙げたという。
逢えますかあなたそちらへ行く前に 北原照子
竹子が死んだ時、すでに敗色は濃く、
白羽二重の布に首級を包み、
衝鋒隊と共に退却を余儀なくされたのだ。
家老・権兵衛は彼女らの奮闘を讃えると共に、
「今後は城に入り、負傷者の看護にあたって欲しい」
と要請し、5人は同意した。
そこで銃を装備した兵に守られて城に入ると、
容保
と
照姫
に御目通りが許され、
「よく女子ながらも働いてくれた」
とお褒めの言葉を賜った。
すずしろの花汚れても白でいる 河村啓子
時に、こう子の夫・平内は月見櫓におり、
また竹子と優子の間に男子の
豊記
がいたが、
白河口の戦いで右足に銃弾を受けて負傷していた。
籠城家族のほとんどが、
京都出陣以来、肉親を戦死させており、
悲しみは皆同じだった。
ところで、優子に劣らず18歳の菊子も美人で、
しかも男姿だったため、
2人は籠城者から白虎隊の美少年と間違えられて、
人気者になり、餅など沢山差し入れられたという。
見えますかこれでひかっているのです 桜風子
[3回]
y2013/06/22 09:30 z
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