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川柳的逍遥 人の世の一家言
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粉々にすると豆腐は食べ易い  井上一筒

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  新政府軍進路図

(画像をクリックして大きくご覧ください)

慶応4年3月から会津に至る街道口を守るため、
各方面へ会津藩兵が向かう。


西郷頼母を総督として、(副総督・横山主税)ー白河口

大鳥圭介を総督として、(副総督・山川大蔵)ー日光口

合わせて、約千三百。 

太平口ー約七百(総督・原田対馬

米沢口ー約百、越後口ー約千三百(総督・一瀬要人

かき回されて泥色になるところ  石橋能里子

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「会津戦争の経過」

4/20     白河口の会津藩が白河城を陥す。
5/  1      新政府軍、白河城奪回。 横山主税戦死。
   6   日光口今市ー大敗。

6/ 24  会津藩ー棚倉城陥る。
7 /  2  西郷頼母・戦績不振で罷免。内藤介右衛門が後任に。

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    二本松少年隊像

  29  二本松城陥る。 二本松少年隊の悲劇

8/   4  会津藩ー越後口・村松にて敗北、石間へ戦闘が進む。

8/ 21  およそ1万の新政府軍は、
      母成峠を突破し一気呵成に若松城に迫った。
     22  猪苗代城落城。 
      その勢いで十六橋を突破。
      これを受け復職した西郷頼母、田中土佐
      神保内蔵助、萱野権兵衛、梶原兵馬、佐川官兵衛ら、
            重臣が緊急登城し、防衛策を討議。
     23  新政府軍、城下に侵攻炎上に城が落ちたと見誤り、
      2番隊/白虎隊が飯盛山にて自刃
     24  城下では入城のお触れが出て、籠城戦へ。
     25  急な敵襲の知らせに入城出来なかった女性たちが、
      薙刀をふるって城外で奮戦。
      中野竹子戦死。
  26   山川大蔵隊ー新政府軍の隙をつき入城し、
          籠城兵力三千となる。
     29  佐川官兵衛一千が出撃、長命寺を囲んで激戦。

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9月   戦線が膠着状態陥る中、城内の子供たちは、
      まだ余裕があることを敵軍に示すため、
      凧あげをしていた という。

   14     新政府軍鶴ヶ城を総攻撃。
  17  一瀬要人、八重の父・権八戦死
           城下への食糧補給が路断たれる。
  22  会津藩降伏

どこまでも人は哀しいものですか  庄田潤子


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      管  見

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人生の節目節目の立ち泳ぎ  合田瑠美子


『管見』ー概略

覚馬は安定した政体の構築を訴え、

そこで目指すものへの多岐ににわたる提言をした。

示されたのは政治新聞や軍事面から衣食や生活面にいたる

23項目もの提言である。


1  天皇奉戴の下で三権分立

2  大小の議事院による二院制として、大臣と小臣を置く。
   士分出身の小臣は藩の石高で人数を規定

3  京坂と重要港に学校設置

4  制令一定のための試行錯誤の必要性

5  人材抜擢と国是の設定

6  家臣は天皇から諸侯へ付属。士分の農商業選択の自由。
   各戸共通の軍役への派出や課税制度改革等

7  農業立国から商業立国への移行奨励

8  官命による製鉄所設置

9  貨幣を重視し、銅の保有量を公示

10 毛織物着用と肉食の奨励

11 女子への教育の奨励

12 財産の嫡子相続の見直しと均等相続の奨励

13 常食物の米から麦や葡萄への原材料の移行奨励

14 開港地神戸周辺への砲台建設

15 軍艦建造の官製限定

16 神戸開港にともなう地域水路の拡充

17 種痘奨励と性病対策

18 社会的問題の多い髪結所の廃止と髪型の自主選択

19 破戒僧の追放と僧侶の官許化

20 対外貿易航海時の海上・生命保険設置の提案と
   貿易社設立の奨励

21 外国式の時勢への変更

22 太陽暦への変更

23 家格に囚われぬ優秀な官医の抜擢

てのひらの石を出ていく一番列車  岩田多佳子

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 ドラマ以上のドラマ切り取るカメラマン  美馬りゅうこ

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白河口合戦絵図ー1

(画像クリックで拡大されます)

「白河城の戦い」

奥羽鎮撫総督府下参謀の世良修蔵が斬られた
          ふっきょう
その日の払暁、会津藩は、

新選組の斎藤一ら先鋒軍を差し向けて白河城を攻撃。

意を通じていた守備側の二本松兵は、

防戦の構えだけ見せて早々に退却した。

さらに、慶応4年4月23日には、

白石城で第二回の列藩会議が開かれ、

薩長の横暴を糾す方針が合意される。

私は絶滅危惧種です多分  高橋謡々

慌てた西軍は二日後の25日、宇都宮から大田原まで、

進出していた軍勢を白河に差し向けるが、

会津藩はこれを撃退し、大いに意気を上げた。
            そ ご
だがここで齟齬が発生する。

西軍を撃退した翌日、

会津藩の白河口総督・西郷頼母が白河城に入城し、

さらに仙台藩なども加わって総勢2500の軍勢となるが、

方針を巡り意見の対立が起きてしまうのである。

ぶらんこのきしみ気管に押しあてる  榊 陽子

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    西郷頼母句

新撰組隊長の斎藤一らは、

城から兵を出して「戦術的要衝を押さえる策」

を献策したが、総督の頼母はこれを却下。

「城で待ち構える方針」を決めたのだ。

鳥羽・伏見以来の連戦を経験し、

西軍の火力を知り尽くしていた斎藤らに対し、

頼母は実戦経験がなかった。

このことが重大な結果を招く。

一瞬をよぎる碧を盗まれる  山口ろっぱ

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    白河小峰城

5月1日、薩摩の伊地知正治が率いる西軍700が

白河城への攻撃を開始する。

会津藩及び奥羽諸藩(東軍)が兵力を城内に

止めていたため易々と進撃した西軍は、

軍を3つに分け、本隊で中央突破するように見せかけつつ、

残りの2軍で城近傍の2つの山を奪取し、

東軍を包囲殲滅することを狙った。

これに対し、

頼母は戦力を逐次投入し、被害を拡大させてしまう。

その間に西軍は、地元民に兵を誘導させて迂回路を進み、

要衝を悉く手中に収めた。

そこからの西軍の猛烈な攻撃により、東軍は総崩れとなる。

消しゴムのカスから零れ出る吐息  下谷憲子

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     西郷頼母筆

頼母は兵を叱咤激励するも、潰乱を止めることができない。

わが身だけでも敵陣に突入しようとするが、

部下から「総督はいまここで死ぬべきではない」と、

諫められ、後退せざるをえなかった。

結局、会津藩の副総督・横山主税、

仙台藩の主将・坂本大炊軍監・姉歯武之進

指揮官クラスが多く戦死し、

700もの兵を失うという大敗北を喫してしまうのである。

 姉歯武之進=世良を襲撃した人物

廃液の波に呑まれた尾骶骨  皆本雅

白河口の戦況は、その後もはかばかしいものではなかった。

5月1日の敗北から2ヵ月、

東軍は白河城への攻撃を繰り返すが、

奥羽諸藩の連携不備もあり、遂に奪還できずに終わる。

この間、日光口方面から転戦してきた板垣退助が、

白河城に着陣するなど、西軍の兵力は増強された。

また、5月15日には上野寛永寺に籠った彰義隊も敗北し、

新政府は援軍を海路で平潟港に送り込む。

6月16日に上陸した西軍は、

磐城平藩や相馬藩などを下し、仙台藩に迫った。

7月26日、この情勢を見た三春藩が西軍に寝返ってしまう。

胃袋を掴まれたならもう終り  蟹口和枝

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                少 年 隊

これにより、西軍は一気に攻勢を強め、

7月29日には二本松藩に迫った。

しかし二本松藩は、

主力軍を白河方面などに出兵しており、

老兵少年兵で西軍に立ち向かうしかなかった。

条件をみんな呑んでも風ぐるま  山本早苗


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    木村銃太郎

二本松藩(丹羽家)尚武の気風を誇る藩であり、

砲術師範の木村銃太郎が率いる少年砲兵隊20数名、

また二本松少年隊数十名もこの戦いに勇躍臨む。

彼らは新式銃を持ち、錬度も士気も高く、

敵に衝撃を与える。

だが、衆寡敵せず、やがて木村銃太郎は被弾。

少年たちは泣く泣く師を介錯した。

そして少年たちも、一人また一人と斃れていく。

(続きがあります。よろしければ「続きを読む」をクリックして下さい)

運命と割り切ったのに出る余り  松本柾子

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極月の首靴べらで刎ねて行く  井上一筒

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    奥羽列藩同盟

(画像は大きくしてご覧下さい)

「世良修蔵」ー(東北勢力の結束)

3月18日奥羽鎮撫総督府の兵数百が海路、仙台藩に到着。

総督の九条道孝は、早速、

「鳥羽・伏見戦争の首謀者は、容保は死罪、
     
    さかいただずみ
  庄内藩主・酒井忠篤は薩摩藩・江戸三田藩邸焼き打ちの

  罪により、城外で謹慎し処分を待て」


との命令を東北諸藩に伝え、

「直ちに会津を追撃せよ!」

と仙台藩に迫った。

人偏の横で胡坐をかいている  前中知栄

この派遣軍に長州の世良修蔵と薩摩の大山格之助という

傲岸不遜で常識のない、二人の者がおり、

下参謀の役職にありながら、まるでチンピラなのだ。

しかし、たとえチンピラであっても、天皇の派遣軍である。

仙台藩藩主・伊達慶邦はじっとこらえた。

礼を尽くして迎えねばならない。

藩主の丁重な応対にもかかわらず、

二人は横柄な態度で、上座から会津追討を急かす。

地元ではやや外股になるムカデ  きゅういち

「さっさと会津攻撃に兵隊を出せって言っちょるのに、

  もたもたしやがって!」


東北人をバカにする世良と大山の態度に、

藩士も領民も怒りを募らせる。

もともと仙台藩や東北の諸藩に、

会津藩や庄内藩を討つ理由がない。

それなのに大山と世良は戦争を強要する。

それでも東北の諸藩は、すべてが会津や庄内贔屓ではないが、

何とか会津や庄内藩の赦免歎願を、

「鎮撫総督」へ取り次ごうと奔走した。

そしてついに嘆願書提出にまでこぎつけることが出来た。

石ころは転がる前に考える  嶋澤喜八郎

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ところが総督府は、奥羽十四藩による嘆願をあっさり却下した。

とにかく大山世良の言葉が、総督府の言葉である。

最初から、会津や庄内藩をやっつける為に来ているのだ。

東北人には、彼らの異様な執念と、

戦争趣味を理解できなかった。

選択肢に雪隠詰めが残される  兵頭全郎

世良は世良で、東北人も怒りが昂じれば、

行動に出るということを理解していない。

「あいつらに何が出来る」 とバカにしている。

世良は大山に手紙を書いた。

「会津の入れ知恵だか知らんが嘆願書をよこしおった。

  仙台も米沢も兵隊は弱虫のクセに、朝廷を軽んじてる。

  東北の人間はみんな敵と見て、新たに反撃作戦を考えたい。

  まぁ仙台も賊徒は数人で、主人は好人物らしいがの。


  じゃよろしく」 と。
 
点滅のあしたをもっとなまぐさく  たむらあきこ

この手紙が仙台藩士・瀬上主膳姉歯武之進らに手に渡る。

「東北人はみな敵だとよ・・・」

彼らは激昂し、世良の居る金沢屋へ向かった。

金沢屋で世良は女と寝ていることも分かっている。

女郎の膝枕でごろ寝しながら、戦争指導とは、

東北人を心底ナメてかかっていた。

そこで世良は召し取られ、

福島の阿武隈川の河原で仙台藩士に斬首された。

世良を討った仙台藩は、皮肉にも会津に代わって、

薩長軍に宣戦布告したようなものだった。


ざけんなよ右から二つめのコブ  酒井かがり

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    世良修蔵の墓

(画面を拡大すれば文字が読めます)


これを機に東北諸藩は一気に結束を固め、

反新政府勢力の旗幟を鮮明にする。

5月3日、仙台藩を盟主とする奥羽列藩同盟が成立、

すでに4月10日に会津・庄内藩は会庄同盟を結んでおり、

会盟したのは25藩。

5月6日には河井敬之助率いる長岡藩など6藩も合流し、

31藩が大同団結する「奥羽越列藩同盟」の成立を見るに到った。

東北諸藩のほとんどを組み込んだ大同盟の結成に、

薩長新政府は驚愕した。

輪廻だとぷっと吹き出すように言う  筒井祥文

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点滅の止まらぬ古い非常灯  安土理恵

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 京都二本松薩摩藩邸跡

「覚馬の捕縛」

慶応4年(1868)1月3日、

鳥羽街道を縦隊で進軍する旧幕府軍を、薩軍が待ち受けて、

一斉射撃を加えた。

桑名藩兵や幕府歩兵隊らは、反撃を試みるも敵に圧倒され、

壊乱する。 

また伏見街道でも、

会津藩らが陣を置いた伏見奉行所を薩軍が砲撃。

会津藩大砲奉行の林権助らが必死の砲撃で反撃し、

佐川官兵衛土方歳三ら新選組と共に斬り込みをかけるが、

劣勢を覆せずに伏見奉行所は焼失してしまう。

目から目へ赤信号が送られる  杉野恭子

旧幕府軍は淀城に退却した上で、迎え撃とうとする。

しかし淀藩は、譜代藩で藩主が現職老中であったのに、

新政府側に寝返り、入城を拒否。

さらに山崎に布陣していた藤堂藩の兵が、

淀藩の寝返りに呼応して、旧幕府軍を側面から砲撃した。

ここに至り旧幕府軍は、敗走せざるを得なくなった。

プロローグ あっという間のエピローグ  山口美千代

この戦いで会津藩の砲兵隊は、

死傷率が八割を超すほどの被害を蒙った。

大砲奉行の林は全身に銃弾を浴びつつ指揮を執るが、

江戸に退却する途中の船上で落命。

また覚馬の弟・山本三郎もこの時の戦傷により、

江戸に帰還後、死去した。

葬送の列は兵馬俑まで続く  古田祐子

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この時、失明していた覚馬は、戦いに参加できなかった。

会津藩士たちが大坂へ去った後も、

京都に留まって洋学所の塾生たちに教授を続け、

戦争勃発後の4年1月9日、

覚馬は京都蹴上で薩摩軍に捕えられ、獄舎の人となった。

撫で肩で未来がすべり落ちていく  河村啓子

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赤松小三郎

当時、赤松は薩摩藩に招聘されていた折、「幕薩一和の端を開く」ため、

西郷隆盛や会津藩の公用方と談じ合っている。

その会津藩の中に覚馬もいた。

赤松は国の未来を憂いながら、志半ばで斃れてしまうが、

彼の残した建白書は、覚馬に多くの影響を与えたといわれる。


覚馬が収監されていた獄舎に会津野沢村出身の

斎藤瑛斎という16歳の少年がいた。

瑛斎は慶応3年2月、洋学修業で長崎へ向かう途中、

覚馬から会津藩洋学所での修業を勧められた。

鳥羽伏見戦争の最中、書籍取り纏めを命ぜられて、

洋学所にいるところを捕えられて、拘留されたのだ。

意外な場所でゆかりの少年に再会した覚馬は、

天佑と思ったかもしれない。

世の中はそうでないとも そうだとも  藤本秋声

覚馬はすでに病で光を失っていたため、

信頼できる瑛斎に重要な口述筆記を依頼した。

まず覚馬は3月に、「時勢之儀二付拙見申上候書付」と、

題する上書を編んだ。

謙譲の姿勢で、新政府への陳謝の意を綴ったものだ。

前年6月に「万事一洗」、すなわちこれまでの軋轢を水に流し、

諸藩一致で国難に臨むべきと赤松小三郎を通じて

西郷らに提示し、理解を得ていたと記している。

さらに覚馬は6月までに、

新政府に向けた一編の建白書を策定した。 

『管見』である。

キリストと同じところに泣きぼくろ  井上一筒

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 それぞれの事情で跨ぐ水たまり  山本早苗

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脇本陣・「柳屋」

白河口の戦いで、新選組がこの「柳屋」を宿舎とした。


(画像をクリックしてご覧下さい)

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「凛として」ー福島民友新聞

八重が鶴ヶ城に籠城していた時、

女性の命と言われた髪を短く切っている。

≪「城中婦人の断髪は、私が始めでありました」≫ (会津戊辰戦争)

八重は自分で脇差しを使い、髪を切ろうとしたが、

なかなか切れず、手伝ってもらった。

その髪を切ったのが、八重の生家山本家の北東、

一軒挟んだ家に住んでいた三百石の高木盛之輔の姉、

時尾であった。

髪をほどくと確かな川の音がある  森中惠美子

八重時尾の家へ針仕事を習いに通った親しい間柄。

男に成りきってまで、

兄・覚馬弟三郎の仇討ちをしようとする八重の姿に、

時尾は、ひどく心を痛めた。

この時尾は、会津に残って戦った新選組三番組長、

剣術師範の斉藤一と、戊辰戦争後に結婚している。

仲人は松平容保の家老だった佐川官兵衛が務めた。

会津藩から慕われた、忠義の士・斉藤は、

容保から「藤田五郎」の名が贈られている。

≪会津若松市七日町の阿弥陀寺に「藤田家之墓」として
二人の墓がある

守り抜く家紋にこびりつく手垢  百々寿子

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脇本陣柳屋旅館の蔵座敷は、戊辰戦争白河口の戦いの際に、

「新撰組」斎藤一局長ほか106名の隊士が宿営した場所である。
 
また明治天皇東北巡幸(明治14年)の際、

この柳屋を往路は休憩所、帰路は宿泊所とされた。


「新選組と戊辰戦争」

新選組は、激戦だった白河城下での戦いでも活躍している。

白河城(小峰城)は、慶応4(1868)年時、

白河藩主・阿部正静が棚倉城に移っていたことから、

白河城は城主不在であった。

『中島登覚書』によると、

閏4月5日、松平容保より、新選組隊長・斉藤一に対し、

白河へ出撃命令が出る。

仏壇へ顎差し出して差し出して  岩根彰子

新選組は、白河城下の「脇本陣柳屋」を本陣とした。

また、『白河口戊辰戦争記』に従うと、

会津藩は閏4月20日に白河城を占領し、

21日には白坂の境明神にある「従是北白河領」の石柱を倒し、

「従是北会津領」の木柱を立てている。

同25日、新政府軍の攻撃が始まり、

5月1日には逆に白河しろが占領される。

会津藩が奪還作戦を行ったが成功せず、

戦いは7月下旬まで続いた。

ぼんやりと見えてる清水舞台下  黒田忠昭

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    白河小峰城

"老いぬれど又も越えなん白河の 関のとざしはよしかたく(難く)とも"

八重が晩年、白河の関を越えて郷里入りした時に詠んだ歌

この歌が詠まれた時は、

白河駅から白河城の本丸の石垣がよく見えた。

列車が白河駅に停車した時、

本丸までは約200㍍しか離れていなかったため、

八重は石垣だけとなった城跡を見て、

戊辰戦争のことなど、

さまざまな思いが胸をよぎったことだろう。

生涯をこの土となる百合の白  大西泰世

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