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川柳的逍遥 人の世の一家言
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鑑あるから目を合わす舌を出す  田中博造

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「覚馬の視力」


慶応元年(1865)、国元会津から京都の覚馬にあてて、

吉報が届く。

妹の八重が盟友・川崎尚之助と祝言を挙げたのである。

時に八重21歳、尚之助30歳。

「慶応年間会津藩士人名録」によると、

尚之助は藩校・日新館の砲術師範として、

洋式砲術を教授する身になったという。

幸せになる条件が揃いだす  福尾圭司

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覚馬自身も、禁門の変の功績によって、

公用方に抜擢されており、38歳を迎えたこの年は、

本来であれば、前途洋々たる気に満たされるはずだった。

だがこの時、

覚馬はその生涯を左右する病魔に襲われていた。

暗闇の中で読書をし過ぎたためとも、

鉄砲の硝煙が目に浴びたともいわれ、

視力が急速に衰えていたのである。

海見える窓の真ん前ビルが建つ  新家完司

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蛤御門での苦戦を反省した会津は、

藩兵に洋式銃を訓練させるため

丸太町東詰の畑を買い上げて練兵場にし、

覚馬に指導させた。

だが目の治療成果は上がらず、教えるのは不可能となる。

また洋学所通いも、一人歩きもできないほどになり、

京都の清浄華院での療養を余儀なくされる。

視力を失った砲術家に、一体、何ができるというのか・・・。

視力を失うのはただでも恐ろしい。

しかも、砲術の専門家である覚馬の心境はいかばかりか。

その懊悩は常人に推し量れるものではない。

何よりもあ行からリアリズム  柴田園江

そして慶応2年(1866)12月、容保にも不幸が訪れる。

孝明天皇の崩御である。

容保は突然の不孝に呆然となった。

これには薩長と手を組む岩倉具視による毒殺が噂されていた。

彼らにとって、幕府寄りの天皇は邪魔な存在であった。

(※ 現在、毒殺は噂ではなく真実との見方もなされる)

気が付くと毒殺されていたわたし  井上一筒    

天皇崩御の五ヶ月前、将軍家茂も行き詰った長州征伐の

心労がもとで病没し、慶喜が将軍となっていた。

慶喜は倒幕をめざす薩長の気勢を削ぐには、

土佐藩が建議した大政奉還しかないと判断した。

意表を突かれ一時は慌てた討幕派だったが、

岩倉は薩摩の大久保利通、西郷隆盛らと図り、

先に容保らが長州を追放した八・一八クーデターを真似て、

御所の外門を封鎖して、王政復古の大号令を発した。

もの言わぬ闇をこまかく切り刻む  嶋澤喜八郎

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つきつめてゆくと愛かなてんと虫  時実新子

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大河ドラマ「八重の桜」の怪しいところ。

八重の実家である山本家が広すぎるんです、

下級武士の家庭だから、こんな立派な屋敷には住めません。

また射撃練習場が小さな家にあるわけがなく、

射撃の練習はもっぱら、

鶴松城の三の丸にあった操連場を利用していたと思われます。
(余計なお世話)

難しいことは言わない山桜  中野六助

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「川崎尚之助の消息を尋ねる」

近年になって、八重川崎尚之助の妻となったことが、

確認できる資料が発見されたため、

二人が夫婦だったことは間違いないとされる。

しかし、二人の夫婦生活がどのようなものであったか、

が分るエピソードは残っていないし、

八重自身も尚之助のことについては、

口を閉ざして語りたがらなかった。

夕日の海に色を塗ったのは誰だ  内山雅子

一方、二番目の夫・新島襄については、

回顧録で思い出の数々を語っており、

まだ封建的な道徳観念が色濃く残っていたことを、

差し引いても、あまりにも対照的な扱いといえる。

それでも八重にとって尚之助との夫婦生活が、

忘れたい過去だったかといえば、

決してそんなことはないはずだ。

特に兄・覚馬が京都に発ってからは、

洋学に明るい尚之助が、

兄に代わる八重の心の拠り所となったことは確かだろう。

あらましは流れ星から聞きました  桑名知華子

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尚之助は会津戦争の敗戦と時を同じくして、

八重と別れたとされるが、

それまでは会津藩士ではないので、

開城の際に会津を去ったというのが定説であったが、

近年になって、

尚之助は会津藩士だったことがわかっているので

疑問の余地がある。

他藩出身の尚之助に責めが及ばないように、

八重の方から別れたという説もあるが定かではない。

(ドラマではここのところを強調しているが)

会津藩が斗南に移封になると、

尚之助も斗南藩士として同行している。

その後、廃藩置県を経て斗南藩も消滅、

尚之助は裁判に巻き込まれて東京に身柄を送られ、

判決を待たずに獄中でひっそり死んだ。

真実は多数決に棄てられた  岡田幸子
                                                にょこうば
明治5年4月14日、京都府の「新英学校及女紅場」

開校へ、「出頭女」として八重が奉職したのは、

同年4月25日、川崎八重の名での奉職の可能性がある。

4年8月米沢城下、内藤方寄留時は、

「川崎尚之助妻」と記されており、

その後の7ヶ月程の間に、

尚之助と離縁したとする記録はない。

消しゴムは買えるわたしを消すために  田中博造

八重が京都府の辞令で山本姓となるのは、

8年2月8日付けの

「山本屋ゑ女紅場権舎長兼機織教導試補申付候事 京都府」

とあるのが初見である。

いわゆる、明治4年~8年のどの時点かで、

八重は川崎から山本姓に戻ったのである。

可能性として、尚之助が槇村正直救出のための上京時に、

八重と再会していたかもしれない明治6年か。

尚之助が対らプラキストン裁判のため、

また東京から函館に向かったとされる明治7年か。

漂うていましたアリバイなき時間  きりのきりこ

明治7年5月時点での尚之助の動向を伝える資料が

青森県立図書館にあり、

京都へ行ったとする内容である

これらを考え合わせると、

尚之助は開拓使には函館にと届出、

密かに上洛して八重や覚馬に会い、将来について話し合い、

旧姓に戻ったのは、この7年の時点とする可能性がある。

やっと見つけた出口扉にノブがない  森田律子

ところで、八重の母親・さくにとって尚之助はどのような

存在であったのだろう。

さくの同志社女学校寄宿舎の舎監時代(明治11年~16年)

八重と新島との結婚後であるが、

八重や前夫・尚之助の会津籠城戦での、

勇ましい戦いぶりを、

女子生徒に幾度となく話して聞かせている。(高畑菊「回想録」より)

さくには、八重の襄との再婚は隠す必要もなく、

「尚之助は語るに誇るべき存在であった」 といえるし、

これは八重を含む山本家の尚之助に対する気持ちを、

如実に表している。 (『創設期の同志社』より)

てのひらを重ねて違う虹を見る  前田一石

「八重の女紅場時代」

女紅場とは、女子に読書き算盤・裁縫・料理を教えた施設。

女紅場時代について八重(78歳)の懐旧談の引用に、
                かねおはぐろ
「生徒の服装は鉄漿をぬり、

懐剣をさし、実にその美麗な事は

今日では想像もつかない様であると思ひました」


とある。 (福沢諭吉『京都学校の記』)

髪梳けば富田林の痩せギツネ  井上一筒

なお、明治8年7月に女紅場に入学した岡田しげ子は、

旧会津藩の老女だった芦沢鳴尾が舎長として居り、

人格者で子猫を可愛がっていた様子を懐旧し、さらに、

「新島八重子女史、山本うら子刀自、梅田千代子刀自、

同ぬい子女史
(梅田雲浜先生未亡人と令嬢)は、

機織や養蚕の先生でありました・・・」


と述べている。 (『鴨沂会雑誌』第50号)

霜柱まことに遺憾に存じます  酒井かがり

当時の女紅場の女生徒には、明治維新になって、

我が世を迎えた公郷(250石位)の子女が多く、

会津戊辰戦争に敗れ、

惨たる戦場と辛苦の生活を味わってきた八重にとって、

女生徒の容姿が如何に強烈な印象を与え、

一生忘れ得ぬものであった事が判る。

これが当時、京風に同化できぬ八重の其後の、

和洋ない交ぜた美装の一要因になった。


バラの花銜えりゃカルメンになれる  下谷憲子

「為念」

奥田は女紅場教員に八重と並んで、

「山本うら子刀自」が居たと述べている。

が、これは山本覚馬の妻・うらではあり得ず、

八重の姉で窪田家に嫁した女性で「山本八重の姉」

ということで「山本うら子」とされたものと思われる。

8年4月~18年8月29日迄、

「授業補」として「窪田うら」が女紅場に在籍している。

なお、女紅場には後に跡見学園を創設した跡見花蹊

絵画を教えていたと説をなす人もいるが、

跡見玉泉と娘の玉枝であって花蹊でない。

生きのびて軽い名前を持ち歩く  森中惠美子

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横っ腹に草間弥生の玉受ける  三村一子

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  幕末の京都地図

「長州のやってきたこと」

日本の歴史をまったく知らない人でも、

長州藩が当時置かれていた状況を把握すれば、

戦争回避、そして外国との講和以外に道はない、

とわかる。

長州は既に米、仏と個別に戦って惨敗しているし、

それ以後、武器の改良がなされたわけでもない。

しかも今度の敵は、

米仏に英蘭が加わった連合軍なのである。

爆発のための言い訳考える  清水すみれ

長州藩は皮肉なことだが、トップである藩主は、

「敵であるはずの欧米」を嫌ってはいなかった。

にもかかわらず、開戦した。

元治元年(1864)7月26日連合艦隊は横浜を出航し、

8月2日から3日にかけて、姫島沖に集結した。

ここで陣形を整えると、4日の午前9時には、

全艦関門海峡へ向かった。

この日には攻撃は行われなかった。

絶壁の端ならいつも空いている  森田律子

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  下関(馬関)戦争図

午後までに各艦は、関門海峡に設けられた、

長州側の砲台から充分な距離をとって、投錨した。

つまり、長州側の旧式大砲の射程距離の外に、

身を置いたのだ。

逆に攻める側の戦艦の大砲は、充分に陸まで届くのである。

午後3時、旗艦ユーリアラスのマストに戦闘旗が掲げられた。

各艦は一斉に地上の長州側砲台に向けて砲撃を浴びせた。

連なる一本の道にて真昼の花火  山口ろっぱ

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   連合軍の砲弾

≪長州藩の前田砲台跡で行われた発掘調査で見つかった砲弾。

  4カ国連合軍の艦船から撃ち込まれたものと考えられる≫

一方、長州側砲台も応戦するものの、

弾丸は敵艦の前で、ポチャンと落ちるだけで、

何の打撃も与えられない。

結局、アメリカ、フランスの単独攻撃の時と同じことになった。

長州は負けた。

負けるべくして負けた。

しかし、勝てないと解りつつ戦争に挑んでくる日本人の、

闘志や根性に、

「日本人恐るべし」の印象を刻んだことは、

日本が外国の植民地化にされずに済んだという、

ある意味立派な勝利となるものであった。

分った振りするしかない地動説  三宅保州

「ではなぜそんなバカなことが起こるのか」

それは第一に、そもそも実行不可能な攘夷、

それも完全攘夷を、

藩を団結させるためのイデオロギーとして、

採用してしまったからである。

そして第二に、その完全攘夷を至高の存在である

「天皇が求めている」 という形で権威付けされたからだ。

これが「尊王攘夷」ということ。

そもそも尊皇と攘夷は別次元の話で、

尊皇とは、天皇に忠義を尽くすことであり、

攘夷は、外国勢力を国から排除することだ。

直接の関連性はない。

それを孝明天皇が望んでおられるという形で、

絶対に逆らえないスローガンに変えたのが、

この時代であった。

≪こう読むと長州は、何らかの行き違いがあり孝明天皇に嫌われたが、

   朝廷の敵でないことがわかる≫


夕凪の裏に罵詈雑言の立つ  酒井かがり 

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徳川慶喜・勝海舟・松平春獄       

「長州生き残る」

下関戦争から3ヶ月後の元治元年(1864)10月、

大坂城評議の間で、征長軍総督の徳川慶勝(尾張藩)、

副総督の松平茂昭(越前藩)、大目付、軍目付、

諸藩の代表者ら、勝海舟西郷隆盛も列席して、

軍議が開かれていた。

諸藩に長州総攻撃の作戦が指示され、

征長軍十数万の兵を進軍させて、

「いつ攻撃するか」を話し合うだけだった。

躓いたところへ飾る余命表  桜風子   

ところが席上、西郷が「長州に恭順を促す」

「首謀者の三家老の切腹で事を治める」

と提案すると、一同はざわめき猛反発が始まる。

慶勝は声を荒げて西郷に噛みつき、茂昭も、

計画通り領地割譲のために、長州を打つと引かなかった。

西郷は、十数万の大兵力を進軍し、

包囲して公議の威光を示せば、

下関戦争で諸外国連合に惨敗している長州は、

必ず従うと自信があった。

梅雨前線通過中です揉めてます  美馬りゅうこ

西郷の「和平交渉案」は征長軍の方針を一変させ、

その結果、長州は三人の家老の首を差し出して、

幕府に恭順の意を示し、一戦も交えることなく、

征長軍は兵を解いた。

守護神は電子レンジと申します  井上一筒

禁門の変が7月19日、そこから3ヶ月のあいだに、

長州とは正反対の位置にいた西郷に何があったのか。

9月11日の夜のこと、

長崎から神戸に戻っていた勝海舟は所用あって、

大坂へ出張していた。

それを知った西郷は手紙を出して、面会を求めた。

なぜ西郷は面識のない勝を訪ねようと思ったのか。

それは西郷が神のように崇拝した亡君・島津斉彬であった。

持国天グイッと突き出す股関節  岩根彰子

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こうして勝と西郷は大坂の専称寺で、密談の席を持った。

そこでどんな話し合いがなされたか。

密談だから、知りようもないが、多分、そこで勝は、

「今は欧米列強が日本を植民地化しようと狙っている、

  時代ではないか、日本人は一致団結すべきであって、

  身内で争って場合ではない。

  薩摩も長州にいろいろ言いたいこともあろうが、


  ここは心を広く持って寛大な処分で許してやるべきだ」

とでも言ったのであろう。

こうして一つの出会いが歴史の歯車を大きく動かすのである。

バイブルに般若心経書いてある  坂田こういち

対面の後、西郷は大久保利通宛に有名な書簡をおくっている。

「勝氏へ初めて面会仕候処、実に驚入候人物にて、
              つもり     ささしこし
最初は打叩く賦にて差越候処、頓と頭を下げ申候。

どれ丈けか智略のあるやらしれぬ塩梅に見受申候。

先英雄肌合の人にて佐久間(象山)より

事の出来候儀は一層も越候半、

学問と見識においては佐久間抜群の事に御座候へ共、

現時に臨候では、此勝先生とひどくほれ候』


"勝氏に初めて会いましたが、実に驚くべき人物です。

最初はへこませるつもりだったのですが、すぐに頭を下げました。

どれほど智略があるやらわからないほどで、

まず英雄の肌合を持った人物でしょう。

佐久間象山より実行力があり、学問と見識でも、

いまや勝先生の方がまさっているかもしれません。

いやはやひどく惚れこみました"


もちろん勝も、

西郷をべた誉めしていることは衆知の通りである。

一年に一度はベッドから落ちる  新家完司

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蛸壺と蛸のふしぎな間柄  西澤知子

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  日新館ー1(画面をクリックしてご覧下さい)

「川崎尚之助」

八重は19歳で、戊辰戦争前の元治2年(1865)頃、

一度結婚をしている。

相手は但馬国出石藩出身の川崎尚之助である。

尚之助は、医者の家の出といわれ、

蘭学にも優れ、

鉄砲や砲術にも長けた人物であった。

安政3年(1856)山本覚馬が藩校・日新館内に開設した、

蘭学所の教授、砲術の専門家として、

会津藩に招かれ、山本家と住むことになった。

生きていくため触角を手入れする  高島啓子

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    日新館ー2

元治元年(1864)、覚馬が、

京都守護職となった藩主・松平容保の元へ向かうと、

尚之助は覚馬の後任として、

日新館の蘭学所と砲術を教えるようになる。

尚之助も兵学、蘭学の師として、

覚馬を慕っていたのであろう。

尚之助は翌年、八重と結婚するが、

師の妹を妻に迎えることができ、

この上ない喜びだったに違いない。

星三つ飛ばし筋書き煮込んでる  谷垣郁郎

ところで、三年前の調べで、『御近習分限帳』に、

尚之助の名があることが明らかになった。

尚之助は完全に会津藩士となっていたようだ。

八重も兄・覚馬から、

鉄砲や砲術を教えてもらっていたことから、

尚之助とは気が合い、

親しくなるには時間がかからなかった。

『御近習分限帳』=藩士の石高や役職を記したもの‐(慶応年間)

ジクソーの最後のピースですあなた  勝又恭子

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「川崎尚之助の性格」

鶴ヶ城さなかの慶応4年(1868)8月27日、

大砲隊士の戸枝栄五郎らとともに、

三の丸の外側、藩祖・保科正之を祀る豊岡神社から、

小田山中腹に造られた新政府軍の砲陣に

砲撃した際の記録に、
                           
「砲術師川崎荘(尚)之助、時に豊岡にあり、
    せいちんき                 とく
  性沈毅能く、衆を督して戦う」

とある。(『会津戊辰戦争』)

このことから、

尚之助は沈着冷静で意志が強く、毅然とした態度で,

砲術隊士ら大勢の藩士を指揮、監督していたようで、

八重もそうした夫の姿を頼もしく思っていたに違いない。

スッポンを煮てスッポンになるエキス  井上一筒

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日新館ー3

「日新館」

日新館は戊辰戦争が江戸以北に展開すると、

「日新館病院」となった。(『戊辰戦争見聞略記』)

戊辰戦争の8月23日、

「会津戊辰戦史」

「西出丸より火矢を射て之を焼く、

  傷兵歩することを得たる者は城に入り、

  歩する能はざる者は自刃す」
 とあり、

会津藩が火のついた矢を放って、日新館を焼き、

歩けなかったものは、自刃したようである。

ジクソーの最後のピースですあなた  勝又恭子

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渋柿に満中陰の志  井上一筒

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蛤御門の変

「禁門の変」

軍事的には劣勢な長州軍だったが、

戦意は極めて高く大善戦した。

戦国の豪傑の趣きがあると賞賛されていた来島又兵衛は、

一手の指揮官として蛤御門で奮戦し、

会津、桑名の藩兵を蹴散らしていた。

そのまま行けば、御所に突入し、

「天皇を囲い込む」

という目的を果たせたかもしれない。

ところが、そこに援軍が現れた。

薩摩藩兵であり、

その指揮を執っていたのは西郷隆盛であった。

手の内は明かさぬ地図は褐色  山口ろっぱ

西郷は島津久光から「御所を固くお守りせよ」との

厳命を受けていた。

しかし、それだけではない。

そもそも長州は、国を誤まる存在であり、

決して組むことは出来ない相手だとも考えていた。

まして目の前の長州藩兵は、畏れ多くも御所へ向かって

発砲し突入しようとしている。

まさしく「朝敵」のふるまいである。

西郷は長州軍への攻撃を命じた。

冬ざれがさんざめいてる水溜り  岩根彰子

薩摩藩の伝統的戦法というのは、

関が原での敵中突破でも使われたが、

腕の良い狙撃手が敵の大将クラスを狙い撃ちにし、

敵を動揺させて一気に討つというものである。

この時も西郷は、まず来島への狙撃を命じた。

状況から見て、狙撃手はかなり接近して、

来島を狙うことが出来たはずだ。

これでは長州はたまらない。

来島は銃弾で胸を射ち抜かれ落馬した。

どちらにしても葬儀屋さんが太る  中村登美子

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来島又兵衛 (幕末ガイドホームページ)

この時、狙撃したのが川路利良だと言われているが、

来島もさすがに長州一の剛の者だけあって、

即死はしなかった。

しかし、到底助からぬ命と槍で腹を突き、

甥の喜多村武七に介錯させて果てた。

享年48歳。

山惑へ笑いとばして阿弥陀像  小嶋くまひこ

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    久坂玄瑞

また一部の長州藩士は、南外門横の鷹司邸に逃げ込んだ。

それを幕府方が囲むが、高い外壁に阻まれた。

そこで覚馬四斤砲を撃ち込んで角壁の破壊に成功し、

幕府方が突入した。

松陰の妹婿・久坂玄瑞は、鷹司邸に入り、

その仲介で難局を打開しようとしたが、

戦火を恐れた鷹司家は、既に全員が避難しており、

目的は果たせず、「もはやこれまで」と、

炎上する邸内で同志とともに自刃した。

享年25歳。

共に戦っていた松陰門下の朋友・入江九一も銃撃で負傷し、

逃げ切れぬと自害。 

こちらは享年29歳であった。

図式からポロポロ淋しい音がして  北原照子

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    燃える京都

三家老(福原・益田・国司)は、なんとか国元まで落ちのびたが、

真木和泉は天王山で自害した。

享年52歳。

そして、真木和泉と並び称せられた軍師・平野国臣は、

この時、京の六角獄に収監されていたが、

この戦いで起こった大火災のどさくさにまぎれて

斬殺されてしまった。

火事の時は罪人の「解き放ち(仮釈放)がルールだったのに、

殺されてしまったのである。

桂小五郎有栖川宮に調停を嘆願しようとするが果たせず、

一人斬りまくって何とか囲みを脱出したが、

長州藩邸は炎に包まれ焼失した。

こうして京における長州勢力は壊滅した。

足下の落ち武者の声聞きとれず  くんじろう

翌日、山崎の天王山に逃げた長州勢を、

幕府軍は新選組が先鋒となって攻めたが、

相手の火器に苦しむ。

そこで覚馬は、鉄砲隊を率いて応戦し、

味方の突撃を容易にして相手を敗北に追い込んだ。

覚馬は御所と天王山の両方の功績を賞され、

公用人に取り立てられた。

運命線を解くとさなだ虫だった  奥山晴生

禁門の変は、幕末動乱の大きな潮目となる。

会津と薩摩はともに勝利したが、

決して仲が良かったわけではない。

第一次長州征伐で幕府側にいた薩摩は、

第二次征伐では動かず、

犬猿の仲だった長州と握手し、薩長同盟がなる。

すると薩摩にとっても、京都守護職は、

おのずと倒さねばならぬ敵となった。

なぞかけのように剣山置いてある  中村幸彦

「開戦までのあれこれ」

開戦の前、一橋慶喜は京郊外に布陣している長州勢に、

使者を送って「退去」を促した。

この年の春頃には長州征伐に賛成していた慶喜が、

すぐに強硬手段を取らなかったのは、

薩摩が協力するかも定かではなく、

兵力に不安があったからだ。

長州と戦って敗北し御所の占拠を許せば、

「禁裏御守衛総督」の権威が丸潰れとなる。

しかし、その慶喜も結局は戦うことを決断した。

理由は、孝明天皇の、

「長州など許さぬ」という決意が固かったからである。

皮肉なことに、最も過激な攘夷派である長州藩は、

最も過激な攘夷論者である天皇に、

とことん嫌われていたのである。


ため息をつくためにだけある窓辺  西田雅子

一方、長州側でも軍議が開かれ、

このまま布陣することで軍事的圧力をかけ、

外交交渉で事態の好転を待つか、

それとも一気に京に投入し、御所を占拠することで、

事態の打開をはかるか、意見が対立した。

慎重論を唱えたのは、久坂玄瑞である。

万一、突入して失敗に終ったら、

長州藩は安全に朝敵にされてしまい、

現状を打開するどころか藩の存亡の危機となる。

「ここはもう少し様子を見よう」と主張していた。

前向きな意見に釘を刺してきた  山本芳男

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