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川柳的逍遥 人の世の一家言
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渋柿に満中陰の志  井上一筒

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蛤御門の変

「禁門の変」

軍事的には劣勢な長州軍だったが、

戦意は極めて高く大善戦した。

戦国の豪傑の趣きがあると賞賛されていた来島又兵衛は、

一手の指揮官として蛤御門で奮戦し、

会津、桑名の藩兵を蹴散らしていた。

そのまま行けば、御所に突入し、

「天皇を囲い込む」

という目的を果たせたかもしれない。

ところが、そこに援軍が現れた。

薩摩藩兵であり、

その指揮を執っていたのは西郷隆盛であった。

手の内は明かさぬ地図は褐色  山口ろっぱ

西郷は島津久光から「御所を固くお守りせよ」との

厳命を受けていた。

しかし、それだけではない。

そもそも長州は、国を誤まる存在であり、

決して組むことは出来ない相手だとも考えていた。

まして目の前の長州藩兵は、畏れ多くも御所へ向かって

発砲し突入しようとしている。

まさしく「朝敵」のふるまいである。

西郷は長州軍への攻撃を命じた。

冬ざれがさんざめいてる水溜り  岩根彰子

薩摩藩の伝統的戦法というのは、

関が原での敵中突破でも使われたが、

腕の良い狙撃手が敵の大将クラスを狙い撃ちにし、

敵を動揺させて一気に討つというものである。

この時も西郷は、まず来島への狙撃を命じた。

状況から見て、狙撃手はかなり接近して、

来島を狙うことが出来たはずだ。

これでは長州はたまらない。

来島は銃弾で胸を射ち抜かれ落馬した。

どちらにしても葬儀屋さんが太る  中村登美子

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来島又兵衛 (幕末ガイドホームページ)

この時、狙撃したのが川路利良だと言われているが、

来島もさすがに長州一の剛の者だけあって、

即死はしなかった。

しかし、到底助からぬ命と槍で腹を突き、

甥の喜多村武七に介錯させて果てた。

享年48歳。

山惑へ笑いとばして阿弥陀像  小嶋くまひこ

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    久坂玄瑞

また一部の長州藩士は、南外門横の鷹司邸に逃げ込んだ。

それを幕府方が囲むが、高い外壁に阻まれた。

そこで覚馬四斤砲を撃ち込んで角壁の破壊に成功し、

幕府方が突入した。

松陰の妹婿・久坂玄瑞は、鷹司邸に入り、

その仲介で難局を打開しようとしたが、

戦火を恐れた鷹司家は、既に全員が避難しており、

目的は果たせず、「もはやこれまで」と、

炎上する邸内で同志とともに自刃した。

享年25歳。

共に戦っていた松陰門下の朋友・入江九一も銃撃で負傷し、

逃げ切れぬと自害。 

こちらは享年29歳であった。

図式からポロポロ淋しい音がして  北原照子

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    燃える京都

三家老(福原・益田・国司)は、なんとか国元まで落ちのびたが、

真木和泉は天王山で自害した。

享年52歳。

そして、真木和泉と並び称せられた軍師・平野国臣は、

この時、京の六角獄に収監されていたが、

この戦いで起こった大火災のどさくさにまぎれて

斬殺されてしまった。

火事の時は罪人の「解き放ち(仮釈放)がルールだったのに、

殺されてしまったのである。

桂小五郎有栖川宮に調停を嘆願しようとするが果たせず、

一人斬りまくって何とか囲みを脱出したが、

長州藩邸は炎に包まれ焼失した。

こうして京における長州勢力は壊滅した。

足下の落ち武者の声聞きとれず  くんじろう

翌日、山崎の天王山に逃げた長州勢を、

幕府軍は新選組が先鋒となって攻めたが、

相手の火器に苦しむ。

そこで覚馬は、鉄砲隊を率いて応戦し、

味方の突撃を容易にして相手を敗北に追い込んだ。

覚馬は御所と天王山の両方の功績を賞され、

公用人に取り立てられた。

運命線を解くとさなだ虫だった  奥山晴生

禁門の変は、幕末動乱の大きな潮目となる。

会津と薩摩はともに勝利したが、

決して仲が良かったわけではない。

第一次長州征伐で幕府側にいた薩摩は、

第二次征伐では動かず、

犬猿の仲だった長州と握手し、薩長同盟がなる。

すると薩摩にとっても、京都守護職は、

おのずと倒さねばならぬ敵となった。

なぞかけのように剣山置いてある  中村幸彦

「開戦までのあれこれ」

開戦の前、一橋慶喜は京郊外に布陣している長州勢に、

使者を送って「退去」を促した。

この年の春頃には長州征伐に賛成していた慶喜が、

すぐに強硬手段を取らなかったのは、

薩摩が協力するかも定かではなく、

兵力に不安があったからだ。

長州と戦って敗北し御所の占拠を許せば、

「禁裏御守衛総督」の権威が丸潰れとなる。

しかし、その慶喜も結局は戦うことを決断した。

理由は、孝明天皇の、

「長州など許さぬ」という決意が固かったからである。

皮肉なことに、最も過激な攘夷派である長州藩は、

最も過激な攘夷論者である天皇に、

とことん嫌われていたのである。


ため息をつくためにだけある窓辺  西田雅子

一方、長州側でも軍議が開かれ、

このまま布陣することで軍事的圧力をかけ、

外交交渉で事態の好転を待つか、

それとも一気に京に投入し、御所を占拠することで、

事態の打開をはかるか、意見が対立した。

慎重論を唱えたのは、久坂玄瑞である。

万一、突入して失敗に終ったら、

長州藩は安全に朝敵にされてしまい、

現状を打開するどころか藩の存亡の危機となる。

「ここはもう少し様子を見よう」と主張していた。

前向きな意見に釘を刺してきた  山本芳男

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劣化した皿にときどき渦も盛る  たむらあきこ

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    蛤御門と蛤御門の門柱に残る弾痕 (拡大してご覧下さい)

元治元年(1864)7月19日、

ついに長州軍は洛中に入り、御所占領を目指し、

これを阻止しようとする会津、

桑名の藩兵らと激戦になった。

最も激しい戦闘があったのが、

御所の「蛤御門」付近であった。

この戦いを「禁門の変」と呼ぶのは、

御所の門(禁門)の前で戦闘が繰り広げられたからだが、

御所の門というのは一つではない。

雨天につき第二関節まで決行  酒井かがり

そのうち蛤御門での戦闘が最も激しかったので、

「蛤御門の変」 と呼ぶわけである。

蛤御門は、もともと「新在家御門」という名称であった。

ところが京の天明大火で、

普段は開くことの無かったこの門が開いたので、

まるで「火にあぶられた蛤が口を開いたようだ」とされ、

蛤御門と呼ばれるようになった。

有事論くもりガラスが外せない  堀井 勉

「戊辰戦争あたりから活躍しはじめた大砲」

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  四斤山砲 (クリックで拡大)

口径:86.5mm 全長96.0cm

全備重量:218kg 初速:237m/秒 最大射程:2.600m


1859年にフランスが制式採用した火砲。

フランス陸軍がイタリア統一戦争で、

戦果を挙げたことでその存在が知れわたり、

各国が導入を急いだ。

日本では幕府が第2次長州征伐で使用したのが最初である。

榴弾の側面に12か所のスタッド(鉛鋲)があり、

これが砲筒内の6条の溝に嵌り、

発射の際に回転を与える仕組みとなっていた。

また砲架を分解さえすれば、

未整備路でも運搬が可能であり、

山道が多くて大型の火砲を運ぶことが、

困難な日本にも適していた。

「会津戦争」では、両軍が主力野先戦砲としており、

八重も指揮して新政府軍を砲撃した。

開拓史から一歩も出ない銃社会  萩原三四郎

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  アームストロング砲

口径:64mm 全長:153cm 全備重量:250kg 初速:350m/秒

最大射的:3600m


イギリスの技術者アームストロングが開発した最新鋭野戦砲。

幕末期の日本には、12ポンド、9ポンド、6ポンドの3種類が

持ち込まれていたが、

「戊辰戦争」で使用されたのは6ポンドのもの。

榴弾の弾体の中央には、鉛が巻きつけてあり(鉛套式)

この鉛が砲空内の施条と噛みあい、

強力な回転を与える構造になっていた。

これにより、四斤山砲などの従来の野戦砲よりも、

弾道の安定感が高まり、

命中精度や初速、射程距離が向上した。

日本で存在が知られたのは、

「薩英戦争」でイギリス艦隊が使用したのがきっかけで、

「戊辰戦争」では、佐賀藩が、

上野の彰義隊攻撃と会津戦争で2門用いている。


どかんかいイージス艦のお通りだ  嶋澤喜八郎

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マフラーのように大蛇を巻きつける  青砥たかこ

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「斬奸状」(真田宝物館所蔵)

佐久間象山が暗殺された日に、

京都の三条大橋に掲げられたといわれる張り紙「斬奸状」。


説明書きには「象山を殺害した事の正当性を記す」資料とある。

『此者元来西洋学を唱ひ 交易開港之説を主張し

枢機之方へ立入御国是を誤候大罪 難捨置候処

剰□□賊会津彦根二藩ニ与同し 中川宮と事を諮り 恐多くも


九重御動座彦根城へ奉移候義企 昨今頻ニ其機会越窮候

無道不可容天地国賊ニ付  即今日於三条木屋町

加天誅畢但斬首可懸梟木ニ之処 白晝不能其義もの也』


                    元治元年七月十一日   皇国忠義士


破れない紙だ鎖がついていた 和田洋子

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「佐久間象山」

佐久間象山、文化8年(1811)2月11日誕生。

幼名は啓之助。

誕生の時に、一際美しく輝いていた明けの明星に因み、

子明・大星などとも名付けられた。

象山は、26歳の頃からの名前で、一時は

「しょうざん」とも「ぞうざん」とも読まれたが、

"ぞうざん" と言う呼び名に統一された。

≪因みに象山の妻は勝海舟の妹≫

大宇宙すっぽり入る頭蓋骨  新家完司

41歳の時、江戸で私塾・「五月塾」を開き、

砲術・西洋兵学を教え実理を説いている。

弟子には、明治維新の布石となった勝海舟、坂本龍馬、

吉田松陰、橋本左内、小林虎三郎などがいる。 

安政元年(1854)松陰の「海外密航事件」(象山の耳打ちによる)

に連座して、伝馬町に入獄する羽目になり、

更にその後は、

文久2年(1862)まで、松代での蟄居を余儀なくされる。

このとき、松代の象山を訪れた高杉晋作、中岡慎太郎、

久坂玄瑞、山県半蔵らが、

象山の論に大いに影響を受けたとされる。

出口さがすその一冊を読みながら  立蔵信子

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元治元年(1864)4月、象山は一橋慶喜に招かれ、

「公武合体論・開国論」を説くため上洛する。

同年7月11日、放漫で自信過剰のところがある象山は、

一人馬上の人として、

京都・三条木屋町を通りかかったとき、

池田屋事件の直後で、いきりたっていた攘夷派の

志士・前田伊右衛門、河上彦斎ら刺客の刃に倒れる。

54歳の生涯であった。

≪余談として、暗殺者の一人河上彦斎は、

   後に象山の大きさを知り愕然として、以後暗殺をやめてしまった。

   というエピソードが残る≫


”折にあへば散るもめでたし山ざくら  めづるは花のさかりのみかは”

辞世ともなる象山を推し量る一句。

もの凄い速さで今日が消えて行く  森 廣子

【豆辞典】-「斬奸状」(ざんかんじょう)

悪人を斬るうえで、その理由を記した書状。

桜田門外の変においても、水戸浪士たちは
「斬奸趣意書」を残している。

また大久保利通を暗殺した嶋田一郎たちは、

陸義猶が書いた
「斬奸状」を持参していた。

冒頭の「斬奸状」は1965年ごろまで、県町のホテル「犀北館」が所蔵。

展示されたことはなく、好事家が閲覧していた。


その後、長野市教育委員会が蔵書類などと一括して購入。

現在は真田宝物館で一般公開している。


意のままにならぬ自分という器  上山堅坊

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針山の身の置きどころ泣きどころ  森中惠美子

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「禁門の変へ」

8月18日のクーデターの直後、

尊攘激派の脱藩浪人たちが組織した天誅組は、

大和や生野などの戦いに敗れて地下に潜った。

長州の志士たちも、復権を目指して京都に潜伏し、

不気味な動きを見せた。

会津にいた山本覚馬が京都に召集されたのは、

世情が一段と混迷を増す、

元治元年(1864)2月のことだった。

思い切り舞おう やがては石になる  奥山晴生

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覚馬は砲術師範の家に生まれ、

軍事取調役兼大砲頭取として百五十石を食み、

日新館の蘭学所の教授をしていた。

佐久間象三、勝海舟らに学び、

西洋文明を積極的に取り入れることを、

是としていた覚馬は、

「軍艦建造や砲台の設置をすすめ、

  藩の武器も刀槍中心から脱却し、

  砲銃中心の西洋軍制に改革をすべきだ」


と主張していた。

だが保守的な会津にあって、その意見は軽視された。

覚馬は旧守派を痛烈に批判して、

一年間の禁足処分を食らうなどもしていた。

読み過ぎて通りを悪くする小骨  三村一子

上京した覚馬は、大砲・鉄砲の教練にあたるとともに、

藩士のための洋学所を開き、

藩外の者にも門戸を開いた。

覚馬は以降、会津には帰らず、京都を終の栖として、

新島襄を助けて同志社経営に協力するが、

その覚馬の教育者としての原点は、

他藩の士も受け入れた、

この洋学所にあったといえる。

点滅にいよいよ華やぐ膝頭  酒井かがり

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元治元年(1864)6月、

京都に潜伏した長州の志士たちが、

他藩の脱藩浪人と結託して、

風の強い日に市中に火を放って、

中川宮、松平容保を殺害し、孝明天皇を、

長州に連れ去るという密謀をめぐらしていた。

その下準備の会合が、

5日夜に行われるとの情報を得た「新選組」は、

局長の近藤勇以下30人の隊士が旅籠・池田屋を襲撃、

周囲を会津兵などが包囲して、

志士7人を斬り殺し、23人を捕縛した。

マツタケを警察犬が嗅いでいる  井上一筒

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この池田屋事件は、新選組の名を高らしめる一方で、

長州とその一派を激怒させ、

7月19日の禁門の変
(蛤御門の変)を誘発した。

長州は「薩賊会奸」を叫んで3人の家老が、

1600人を率いて上洛し、

他藩同士も加わり、三方から御所を攻めた。

迎え撃つ幕府側は、

禁裏守衛総督になっていた慶喜のもと、

会津・薩摩・桑名・福井・彦根などの諸藩が御所を守った。

この時、肝心の容保は、

重病を患い指揮がとれなかった。

鴉止まれりバーコード付きの門  筒井祥文

幕府軍は伏見、山崎方面から攻めた長州軍を撃退したが、

嵯峨方面から迫る長州勢に蛤御門まで攻め寄せられた。

長州勢は目くらましの砂を詰めた大砲を放って、

銃を連射し、

刀槍隊主体の会津兵を突き崩して内門に迫る。

銃弾は御所内をも飛び交い、

睦仁親王(後の明治天皇)が気絶し、

公家はあたふたして、天皇を比叡山に移そうとした。

痛み痒みギブスは何も答えない  山本芳男

孝明天皇の窮地を知った容保は、

歩行困難な体にもかかわらず、

慶喜と弟・松平定敬(桑名藩主・京都所司代)に、

両脇を抱えられながら天皇に拝謁し、

その袖にすがって引き留めた。

天皇は容保の必死の嘆願に、

「朕の身はそなたに任せよう」

と言って、御所に留まったとされる。

疑問符がからんだまんまケセラセラ  山本昌乃

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扉から扉 この世という場所は  森田律子

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              西郷頼母邸跡


「あいづねの遠近人に知らせてよ 保科近悳今日死ぬるなり」

                         (西郷頼母の辞世)
                   ちかのり
西郷頼母の諱は近悳(保科頼母)

頼母は会津松平藩の名門に生まれ、

文久2年(1862)に32歳で筆頭家老となった。

同年8月、

藩主容保に京都守護職の内命が下った時には、

同職田中土佐とともに江戸に駆けつけ、

国力に鑑み、強く反対したが容保は守護職を拝命した。

また文久3年(1863)4月に上洛し、

容保に守護職辞職を求めるが容れられず、

容保の怒りを買い家老職を解任され、

以後5年間、会津で幽居生活を送っている。

縦列駐車がヘタクソな蓮根  くんじろう

慶応4年(1868)に旧幕軍が「鳥羽伏見の戦」で敗走し、

容保が会津に帰国してから、頼母は家老に復職。

しかし、恭順謝罪を説き、登城差止め・蟄居処分を受けた。

新政府軍が城下に迫るのをみて、

禁を犯して登城するが、

再び恭順を説いて主戦派と対立し、

越後口方面への使者にかこつけて城を出された。

「中道を行く者の厳しさは、右から見れば左に見え、

 左から見れば右に見えることである」


再考をなさいませタピオカの鬱  前中知栄

頼母が登城した後、屋敷に残った一族は、

戦闘で足手惑いになるのを恐れて自刃する。

 「なよ竹の風にまかする身ながらも たわまぬ節はありとこそきけ」


                      (妻・千重子の辞世の歌)

「女(め)竹、細竹は、風に任せているように見え、

  私も今の時代に身を任せているが、

  竹にも折れないための節があるように、

  女性にも貞節があることを知っていてほしい」


「なよたけの碑」は,墓とともに善龍寺に建っている

歌わないのがカナリアの返事です  奥山晴生

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    西郷頼母の屋敷

「西郷頼母一族の悲劇」

幕末の西郷頼母は、

容保の守護職就任に強く反対したが容れられず、

家老職を解かれ、蟄居処分を受け、また、

鳥羽伏見の戦いを経て容保が帰国した後も、

恭順謝罪を説き、登城差控え・蟄居処分を受けていた。

しかし、新政府軍が城下に迫るのをみて、

禁を破り、息子吉十郎を伴って登城していった。

真夜中に骨を齧るハギシリのついで  山口ろっぱ

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屋敷に残った一族のひとたちは、

戦火の迫るなか足手惑いになることを恐れ、

若松城の城門近くの西郷頼母の家老屋敷で、

頼母一族21人は自刃に倒れた。

この一族の自刃があったのは、

家老の頼母が,国境警備にあたっている時のことである。

慶応4年(1868)8月23日早朝、

城下町に早鐘が鳴り響き、

藩士の家族が続々と若松城に向かうなか、

一族は、家老屋敷に集まっていた。

画鋲を抜くと熱をもっていた  畑山美幸

そこで頼母の母・西郷律子は、

「女が城に居ては足手まといになる。されど、

  敵の手に落ちて辱めを受けるわけにはいかない」


と言い、辞世の句を詠むと、自刃に倒れた。

妻・千恵子は義母・律子の後に続き、

まだ自害できない幼い我が子を刺した。

ケチャップでごまかすシュールリアリズム  藤本秋声

そして千恵子は、我が子の死を確認すると、

返す刀で自分の喉を貫き、

会津藩士の妻としての役目を果たした。

こうして、頼母の家族9人が自害。

また、別室に集まった縁者12人も律子らに続き自害。

この日、頼母の家老屋敷では、

一族21人が自殺したのである。 (西郷頼母一族の自刃より)

一錠で眠る百錠なら死ねる  清水すみれ

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