忍者ブログ
川柳的逍遥 人の世の一家言
[152] [153] [154] [155] [156] [157] [158] [159] [160] [161] [162]
とりあえず意思は曲げない接続詞  たむらあきこ

tanomo.jpg

   西郷頼母

会津藩祖・保科正之の同族で、

代々家老職を務めた西郷家、西郷近思の嫡男として、

天保元年(1830)に生まれた頼母は、

万延元年(1860)、31歳で家老職を継ぐと、

藩主・松平容保に忠誠をもって仕えた。

しかし、時代は幕末に向かって混乱を極め、

頼母は会津藩とともに、歴史の渦の中に巻き込まれる。

ひん曲がり斜めに咲いてそれも花  山下怜依子

頼母、そして会津藩にとって、

後の命運を左右することになったのは、

文久2年(1862)だった。

幕府は容保に「京都守護職」を命じた。
 
これを知った頼母は急ぎ江戸へ上り、

朝廷と幕府の間に入り、

「難局にあたることは容易ならざるため、

  京都守護職は辞退すべし」


と容保に説いた。

咲きなさい自分の好きな色かたち  嶋澤喜八郎

しかし、幕府の執拗な要請に、

容保は、京都守護職を受諾してしまう。

それでも、強固に辞任を求めたことで、

容保の怒りを買った頼母は、家老職を解かれ、

蟄居させられてしまう。

残照を描き私を俯瞰する  前中知栄

07a8146a.jpeg


    鶴ヶ城外景 (画像は拡大してご覧下さい)

慶応4年(1868)「戊辰戦争」が起こると、

頼母は急ぎ家老職に復帰する。

江戸藩邸の後始末を終えた後に会津へ帰ったが、

維新後の新政府は、「会津藩征伐令」を出し、

会津に攻め入る。

「不戦恭順」を唱えていた頼母だったが、

恭順の意が朝廷に届かず、

総督として新政府軍を迎え撃ったが敗れて、

鶴ヶ城に帰る。

頼母は長子の吉十郎を伴って城を出たが、

母をはじめとする一族は籠城の末、全員が自刃した。

字余りのままで流れてゆくのです  中 博司

その後、頼母は、榎本武揚らと合流し、

箱館で政府軍と戦ったが、最後には降伏、

館林藩に預けられて幽閉される。

明治5年(1872)に開放されると、

伊豆に私塾を開設し、

塾長として里人らに学問の指導を行った。

明治8年(1975)からは福島県の霊山神社の宮司を勤め、

明治36年(1903)会津若松の旧藩邸のすぐ近くにある、

十軒長屋で74年の生涯を終えた。

手も足も口も出さない石となる  河村啓子

拍手[2回]

PR
太陽と月を跨いでいるひたい  谷垣郁郎

rekisi-4.jpg

木の上で読書に耽る八重 (画像は拡大してご覧ください)

「川崎尚之助」

八重の兄・覚馬は江戸での「遊学」を通じて、

幕府や諸藩の開明の士との間に、人脈を広げていったが、

その中の一人に、川崎尚之助がいた。

八重の最初の夫となった人物である。

本名は「正之助」だが、

会津松平家の始祖である保科正之と、似ているため、

配慮して改名したという。

薄皮を剥いでシーラカンスは昆布〆  山口ろっぱ

尚之助は、出石藩の医者の家に生まれ、

覚馬と同様に、江戸で医学や蘭学を学んでいた。

出石藩きっての俊才と評判の若者で、

覚馬は会津藩の藩校・日新館に設立した蘭学所の

教授陣を充実させるために、

尚之助をスカウトして、会津に呼んだのだ。

尚之助は蘭学所で教鞭をとるかたわら、

覚馬の「軍制改革」を補佐した。

大文字山を盆地で摺り下ろす  筒井祥文

taiga-3-1.jpg


木の上の八重を見上げる尚之助

近年の研究では、尚之助は、

覚馬の肝いりで後に正式に会津藩士として、

取り立てられたことがわかっている。

覚馬は尚之助を、自分の家に寄宿させていたため、

八重は十代前半の頃には、

尚之助と一つ屋根の下で、暮らしていたことになる。

≪八重と尚之助のそれ以上の馴れ初めについては不明≫

アッハッハ女心が描けない  徳山泰子

近年になって八重が、尚之助の妻となったことが、

確認できる資料が発見されたため、

二人が夫婦だったことは、間違いないとされる。

しかし、

「二人の結婚生活がどのようなものであったか」

が解るエピソードは残ってないし、

八重自身も尚之助のことについては、

口を閉ざして、語りたがらなかった。

擂鉢の節目に点滅信号  岩田多佳子

一方、二番目の夫である新島襄については、

回顧録で思い出の数々を語っており、

まだ封建的な道徳観念が色濃く残っていたことを、

差し引いても、あまりに対象的な扱いといえる。

それでも、八重にとって尚之助との夫婦生活が、

忘れたい過去だったかといえば、

決してそんなことはないはずだ。

美辞麗句君はフリーズドライ刑  岩根彰子

rekisi-3.jpg

特に兄の覚馬が京都に発ってからは、

洋学に明るい尚之助が、

兄に代わる八重の心の拠り所となったことは、

確かだろう。

尚之助は、「会津戦争」の敗戦と時を同じくして、

八重と別れたとされる。

それまでは、会津藩士ではないので開城の際に、

会津を去ったというのが定説であったが、

近年になって、尚之助は会津藩士だったことが

わかっているので、疑問の余地がある。

ボンネットバスに二人で乗った頃  井上一筒

他藩出身の尚之助に責めが及ばないように、

「八重の方から別れた」 という説もあるが定かではない。

会津藩が斗南に移封になると、

尚之助も斗南藩士として同行している。

その後、廃藩置県を経て斗南藩も消滅。

尚之助は裁判に巻き込まれて、

東京に身柄を送られ、

判決を待たずに獄中でひっそり死んだ。

花屋のない街を通って来た別れ  森中惠美子

拍手[2回]

始まりはリンゴと蛇と好奇心  板垣孝志

taiga-3.jpg

「八重と覚馬」

八重にとって、

権八のほか父親のような存在が、もうひとりいる。

兄・覚馬である。

八重の自慢はこの兄だったが、

実をいえば、幼い頃、

八重はこの兄が苦手だった。無理もない。

歳が17も離れているし、

八重が6歳から7歳にかけて、

また、9歳から12歳にかけて、

江戸へ留学してしまったため、

幼女の思い出に兄の影はほとんどない。

さらにいえば、留学を終えて帰ってきた兄は、

あまりにも、眩しすぎた。

朝日から私へさらの一ページ  徳山みつこ

taiga-6.jpg

覚馬は江戸で佐久間象山に学び、

洋式砲術の泰斗として帰藩し、

藩校・「日新館」に蘭学所を開設してその教授となるや、

さらに立身して、

軍事取調役兼大砲頭取にまで駆け上がった。

それだけではない。

覚馬が衆に秀でていたのは、理論だけではなかった。

弓馬刀槍はもとより、

鉄砲を撃ち放つ技術も、人並み波外れている。

ゲーベル銃の命中率だけでも当代随一といわれ、

理論と実践を兼ね備えた一流の人物として、

藩と藩の垣根を越え、

諸国の藩士から信頼を得ていたのである。

見てたんだこの私が見てたんだ  嶋澤喜八郎

taiga-7.jpg

八重は、父よりも畏怖の対象ともいうべき兄から、

砲術を手ほどきされた。

そうしている内に、徐々に慣れ親しみ、

歳の離れた妹として、

愛情を一身に注がれていることに、気付いていった。

畏怖は消え、尊敬が生じ、自慢が湧いた。

「砲術だけではなく、裁縫にも励むのだぞ」

と言われれば、直ちに「はい」と明るく答え、

針と糸を手に取ったものだ。

要するに、八重にとって覚馬は、

絶対的な存在といっていい。

助けたり助けてほしい位置にいる  山本昌乃

 taiga-2.jpg


      象山の発明品

こんなことがあった。

ある日、覚馬は江戸留学中に知己となった、

但馬出石藩出身の、川崎尚乃助を招き、

洋砲伝習と舎密術(せいみじゅつ)の教授として、

務めさせたのだが、そればかりか、

いきなり八重に縁談を持ち掛け、縁づかせようとした。

自分の片腕の尚之助を藩士の身分に引き上げて、

「いつまでも側に置いておきたい」

とする策略以外の何者でもなかったが、

驚いたことに、

八重は、この兄の頼みに素直に応じた。

行間に助けもとめる息遣い  清水すみれ

taiga-4.jpg


自我の強い八重とは思えないような、素直さだったが、

それだけ会津の発展に精魂を傾けている兄を、

支援したかったのだろう。

それを期に覚馬は、八重に砲術の訓練を控えさせた。

これもまた素直に従った八重であった。

新しい風が吹き始めたようだ  岡内知香


【豆辞典】-舎密術(せいみじゅつ)

舎密とは蘭学者・宇田川幸庵がオランダ語で、

科学を意味する「Chemie]に漢字をあてたもの。

1840年、幸庵の翻訳本「舎密開宗」が出版される。

1869年には大阪に科学研究や教育・勧業のための、

公的機関「舎密局」が設置されている。


マジシャンの腋の下からアマリリス  井上一筒

拍手[3回]

宝石になるまで磨くつもりです  竹内ゆみこ

e4494862.jpeg

 失明の山本覚馬

「先見の明と知見を持った八重の兄にして師匠・山本覚馬」

幼少期からの八重の人格形成に、

最も大きな影響を与えたのは、誰かといえば、

八重の兄である山本覚馬をおいて他にはいない。

幕末期の動乱を迎え、会津藩も他藩と同様に、

軍備の増強と近代化にいそしんでいたが、

その主導的な役割を果たしたのが,

砲術指南役の覚馬だった。

火の向こうにいつも男が立っている  森中惠美子

黒船来航直後に江戸へ出府して蘭学を学び、

坂本龍馬の師匠として知られる佐久間象山

勝海舟らに師事して、

最新式の砲術や兵学を会得して会津に帰国。

藩内では、保守派による西洋の学問や

技術への抵抗が強く、

一時は覚馬も藩主・松平容保の怒りを買って、

処分を受けたこともあったが、やがて復帰して、

軍事取調兼大砲頭取という要職に就き、

その知見をもって、藩の軍制改革に取り組んだ。

本日は晴天なりで幕が開く  橋倉久美子

また覚馬は、会津藩の藩校・日新館に射撃場をつくらせ、

藩士にはそれまでの火縄銃ではなく、

ゲベール銃などの洋式銃などによる射撃訓練を課した。

この覚馬をはじめ、

「羽・伏見の戦い」に先立って、15代将軍・徳川慶喜

不戦恭順論を説いた家老の神保修理のように、

会津にも、先見性を持った人材が、

少なからずいたことは確かだ。

下顎の骨を入れ替えてもらった  井上一筒

それにもかかわらず、

会津藩の近代化や軍制改革は十分に機能せず、

結果的に近代化を成功させた薩摩・長州両藩を中心とする

新政府軍に「会津戦争」で敗北してしまったのは、

歴史の皮肉といえよう。

傷口はきっとわたしの始発駅  たむらあきこ

八重は幼い頃から覚馬を通じて、

西洋事情や新しい技術に触れ、

大きな関心を持つようになっていった。

少女時代の八重が鉄砲の稽古に夢中になったのも、

日頃から覚馬の薫陶を受けていた彼女にとっては、

自然な流れであったといえる。

八重とは年齢が17歳も離れていたため、

覚馬と妹との関係は兄妹というよりも、

師弟のそれに近かったのかもしれない。

ほぐすのに微量の毒が要るのです  美馬りゅうこ

京都守護職に就任した容保に従って、

京都に赴いた覚馬は、

会津藩兵の西洋式軍隊の訓練にあたるとともに、

洋学所を設置して、在京の藩士たちに洋学の講義を行った。

長州藩が「禁門の変」を起こすと、

藩兵を率いて参戦し目覚しい武功をあげるが、

この頃から「眼病を患い失明」してしまう。

(禁門の変で砲弾の破片あるいは、

 粉塵を目に受けて負傷したのが原因という説もある)


しゃぼん玉せめてを宙へ泳がせる  古田 祐子

以後は京都に残るが、

「鳥羽・伏見の戦い」が勃発して会津藩が賊軍になっても、

覚馬の才覚を高く評価していた薩摩藩は、

彼を粗末に扱わず保護するようになった。

≪この時に覚馬は、三権分立や二院制による議会制度、

   女子教育の推進など、明治新政府に対する
建白書『管見』を,

  記しており、これを読んだ
西郷隆盛ほか、

   薩摩藩出身の政府首脳からますます尊敬を集めた≫


スリリングな人生だった阿弥陀籤  岩根彰子

釈放されて、晴れて自由の身となってからの覚馬は、

その才能を買われて京都府庁に出任。

後に京都府会議員となり初代議長も務めるなど、

その生涯を京都の近代化と発展に捧げた。

八重の二番目の夫となった新島襄に、

薩摩藩から購入していた藩邸跡地を譲渡して、

後の同志社大学の基礎となる同志社英学校の設立に、

貢献したのも覚馬である。

きびきびと小春日和を使いきる  大西泰世

f7ab5c6a.jpeg


【豆辞典】 〔佐久間象山〕

幕末を代表する洋学者。兵学者。思想家。松代藩主。


天保4年(1833)江戸に出て、儒者の佐藤一斎に学んで頭角を現し、

私塾「象山書院」を開く。

松代藩主・
真田幸貫が海外防掛に任じられると、

江川英龍の下で、兵学を修め藩主・幸貫に「海防八策」を献じ、

大砲の鋳造にも成功する。

この他、指示電信機による電信、ガラス製造などにも挑み、

黒船来航時には浦賀に赴いている。

黒船再航時に、門弟の
吉田松陰が密航を企てて失敗すると、

象山も連座して投獄され、さらに松代での謹慎を余儀なくされる。

元治元年(1864)、象山は
一橋慶喜に招かれ上洛、

持論の
「公武合体・開国論」を堂々と弁じたが、

尊王攘夷激派ににらまれ、

7月11日、三条木屋町で暗殺された。

門下から
松陰ほか勝海舟、橋本左内、坂本龍馬、河井継之助、

山本覚馬など幕末維新の英傑を輩出した。

大は小を兼ねない器の美学  下谷憲子

拍手[4回]

一本の松が新芽を出しました  合田瑠美子

cfbf94cf.jpeg

(画像は拡大してご覧下さい)

「什(じゅう)の掟」(子弟教育7カ条)

「会津っぽ」といえば、"頑固""生真面目""保守的" で、

何より "強情一直線" な気質で知られているが、

それを象徴するのが『什の掟』と呼ばれる教えである。

「什」とは、同じ町に住む6歳から9歳の、

藩士の子どもたちで構成される10人前後の集まりのこと。

この集まりは「遊びの什」とも呼ばれ、

子どもたちは午前中の寺子屋が終ると、

順番で仲間の誰かの家に集まり、

ともに過すことを常としていた。

読み捨てた本が柱になっている  新家完司

といっても、ただ遊んでいたわけではない。

年長者の中から選ばれる什長の下、

次のような掟の素読と指導が行われ、

会津藩士としての精神を教え込まれた。

 年長者の言ふことには背いてはなりませぬ。
 年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ。
 虚言(ウソ)を言ふ事はなりませぬ。
 卑怯な振る舞いをしてはなりませぬ。
 弱いものをいぢめてはなりませぬ。
 戸外でモノを食べてはなりませぬ。
 戸外で婦人と言葉を交へてはなりませぬ。


" ならぬことはならぬもの " です。

出口さがすその一冊を読みながら  立蔵 信子

ec147ede.jpeg


それはまさに朱子学の教え・「悌(てい)

―年長者によく仕えて従順であり、

兄弟や長幼の間の情誼(じょうぎー義理・情愛)が、

細やかであること―

の実践を定めたものだった。

什長は年下の者に、

掟を「お話し」として言い聞かせてては、反省会を行い、

掟に背いた者がいたら、事実の有無を確認したうえで、

年長者たちで相談して次のような制裁を加えたという。

※ 無念― 最も軽い処罰。

   (皆に向かって「無念でありました」とお詫びをする)

※ 竹篦―しっぺい。いわゆる「しっぺ」。

※ 絶交―文字の通り「仲間外れ」にすること。

     (最も重い処罰でめったなことで加えられることはなかったが、

     この処罰を受けた者が什の一員に戻るには、

     父か兄が付き添いのうえ、集まりで什長に詫び、

     仲間から許されなければならなかった)


その他では、火鉢に手をかざす「手あぶり」や、

行の中に突き倒して雪をかける、

「雪埋め」などの制裁もあった。

盗み聞きした唇を切り取られ  井上一筒  

いずれも大人が介入することはほとんどなく、

子どもたち自身運営されていた。

つまり、

大人から無理やり押し付けられたものではなかった。

それだけに、掟は子どもたちの心の奥底に、

自然に根付き、

「会津武士の子としての一体感」

醸成していくこととなった。

笑っていよう木苺赤くなるまでは  森田 律子

拍手[3回]



Copyright (C) 2005-2006 SAMURAI-FACTORY ALL RIGHTS RESERVED.
忍者ブログ [PR]
カウンター



1日1回、応援のクリックをお願いします♪





プロフィール
HN:
茶助
性別:
非公開