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川柳的逍遥 人の世の一家言
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哲学の道表札の艶に会う  前田咲二

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和装の新島八重

(画面をクリックすると拡大されます)

幕末のジャンヌ・ダルクこと山本八重のエピソードと

彼女が生きた時代へ鼠を進めていきたいと思いますので、

この一年よろしくお付き合い下さい。


眩しくて裏返す少女の名前  山本早苗

"男勝り"  "豪放磊落"  "異端児"  "正体不明の女子"

"元祖ハンサム・ウーマン"・・・・・


これらすべて幕末から激動の維新、

明治から昭和初期を生き抜いた一人の女性・山本八重

後に同志社大学の創始者となった新島襄

夫人として生きた、新島八重を称した言葉である。

天と地のあいだで人間が響く  徳山みつこ

八重は弘化2(1845)年11月3日

会津鶴ヶ城(若松城)城下に居を構える会津藩砲術指南役の

山本権八・佐久の娘として生まれた。

会津では、藩士の指定は10歳になると、

学問や武術を教える藩校・「日新館」への入学が、

義務付けられていた。

クレパスの未来に続く太い線  下谷憲子

しかし、女子は日新館への入学が許されておらず、

母親のもとで、読み書きと裁縫を習うのがしきたりだった。

八重もまた読み書き裁縫を学びながら、

母から君主への忠誠を学んだ。

ただ、

八重は他の女子とは違っていた。

子が空けた穴が我が家に二つある  除田六朗

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山本家が砲術指南役という家柄もあってのことだったが、

裁縫の稽古終ると、

おしゃべりに興じる他の藩士の女子たちを尻目に、

八重は生涯において大きな影響を受けた、

17歳年上の兄・覚馬に鉄砲の指南を受けていた。

上達も早く、腕もよく、

八重の鉄砲撃ちの技術と戦での戦いぶりが、

後に、「気性が激しく、男勝りな女丈夫」という、

八重のエピソードを生むことになる。

大木になろうと思う草の夢  上村八重子

大河ドラマ・「八重の桜」は、

「八重の人物像を表現する、次の言葉に始まる」

慶応4(1868)年8月、

会津藩は新政府軍の圧倒的な火器に追いつめられていた。

そんな中、鶴ヶ城の北出丸に立てこもる山本八重は、

断髪、白鉢巻の勇ましい姿で、

出丸の隙間からスペンサー銃を敵に向けてぶっ放していた。

「お城は渡さぬ!ならぬことは、ならぬのです!」

三陸の海を奏でたポセイドン  萩原三四郎

この物語は会津戦争から遡ること17年前、

嘉永4(1851)から始まる。

その年の夏、会津藩藩主の松平容保にとっては、

初めてのお国入りだった。

容保は16歳。

美濃高須藩松平家より会津23万石・松平家の養子となって、

4年目のことだった。

会津藩城下では、

一目でも若き藩主を見たいと上士、下士とも

あわただしかった。

その中でも、山本家の娘・八重は特に興奮していた。

アラベスクの中で果てしない鼓動  加納美津子

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藩主の尊顔を見ることはもちろんだが、

江戸藩邸で暮らしている兄の覚馬に会えるのを、

楽しみにしていた。

山本家に帰ってきた覚馬は、さっそく庭の角場で、

江戸から持ち帰ったオランダ産の「ゲーベル銃」の試射を、

父・権八に見せていた。

銃の威力は、

これまでの火縄銃とは比べものにならない優れもので、

八重は銃の威力に心踊らせた。

紙コップ楽しい話聞きたがる  杉本克子

【豆辞典】ーゲーベル銃

17世紀にフランスで開発され、オランダが正式採用した。

生産性と簡易構造を重視したため命中率は低い。

日本には幕末に上陸。

しかし薩摩や長州では早い時期から、

命中率や射程距離で勝るミニエー銃やスナイドルへ転換。


ゲーベル銃は過去のものとなっていく。


王様の椅子と馴れ馴れしい女  森中惠美子

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 檜で造られた宇治橋が、
太陽の光に照らされ眩しいばかりに光っている。
(各画面は拡大してご覧下さい)

「式年遷宮」-伊勢神宮

冬至の朝、一年で最も長い夜が明ける頃、
伊勢神宮内宮の宇治橋前は大勢の人々で埋まる。
橋の大鳥居の背後から朝日が昇るのだ。

太陽の昇らない日はないのに、
なぜかこの朝日はすがすがしく、神々しい。
神宮の森から一筋の光の帯が射し込むと、
空気がすっと変わった。

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『お伊勢さん』と親しく呼ばれる伊勢神宮は、
正式にはただ「神宮」という。
8万社にのぼる日本の神社の中でも、
『本宗』という別格の位置づけで、皇祖神の天照大神を祀る。

伊勢市南部を流れる五十鈴川の川上に鎮座して2000年。
古くから崇敬を集め、
江戸期には伊勢参り『一生に一度』と、
庶民の憧れの旅となった。

そして平成の今、
年間800万人もの老若男女が参拝し、その数は右方上がりだ。
なぜならば伊勢神宮には20年に1度の『式年遷宮』がある。

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この大きな祭が衆目を集め、参拝者が増加するという、
20年周期の大きな波がある。
今度の「式年遷宮」は、
平成25年、ますます注目を浴びる。

「式年遷宮」は、社殿の破損や修理のためではなく、
あくまで祭りとして社殿を建て替え、
「神様に遷っていただく」
というもの。

この制度は天武天皇が発案され、
妻の持統天皇によって690年に第1回が行われて以来1300年、
中絶時期を乗り越え現代まで続いている。

その歴史を紐解くと、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康
三英傑が遷宮資金を出したり、安定化を図っていたりする。
また、俳人の松尾芭蕉も自らの集大成といえる
奥の細道の旅を終えると、伊勢へ向かった。

「尊さに背押しあひぬ御遷宮」

元禄2(1689)年に詠んだ一句からは、
江戸の人々の興奮も伝わってくる。
それほどに伊勢の「式年遷宮」にこだわったのはなぜだろうか。

実は遷宮は全国の神社でも行われるが、
伊勢神宮の場合は、
社殿を建てる2つの敷地が隣接し、20年に1度、
東から西へと遷る点、同じ社殿を新しく建て、
そして、古い方は解体される点が異なる。

同じ形の社殿を建て替え続けることで、
古代の形をした社殿が新しいままに今に伝わってきたのだ。
その「古くて新しい」拝殿を拝し、
尊いことだと芭蕉は句にしたのではないだろうか。

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「式年遷宮」には、
『常若』という神道の考えが根底にあるという。
常に若々しい、新しい社殿に神様に鎮まってもらい、
その力で私たちを守っていただこうという願いだ。

私たちは「わびさび」という古びたものへの美意識を持つ一方、
元旦の「若水」など、新しいものには力があると信じてきた。
「式年遷宮」はただ新しいだけでなく、
「20年ごとに新しくなる」 という意味で未来にも通じている。

閉塞感が漂う現代、
「未来を信じられる」
このことが生きる力を生むのではないだろうか。
日本人は伊勢参りで『常若』の力をいただき、
活力にしてきたに違いない。

「式年遷宮準備の写真」

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写真は一コマづつ拡大してご覧下さい。(画面をクリックすればかくだいされます

伊勢神宮は、天照大御神の鎮座するご本殿は建て替えられ、
さらにご本殿だけではなく、
60棟超える社殿、神様に奉る御装束や御神宝など
約1600点もの品も、1300年前と変わらない工法を用いて、
作り直されている。


「20年に1度、2013年に迎える式年遷宮のために」

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「渡始式」は、同じく新しく架け替えられた宇治橋に、
いわば、命を吹き込む重要な神事なのだ。

内宮の神域の外、宇治橋と真っ直ぐに向き合う森の中に
饗土橋姫神社という小さなお社がある。

御祭神を宇治橋鎮守神といい、
その名の通り宇治橋をお守りする神様がお祀りされている。
渡始式はこの饗土橋姫神社で神職の方々が祝詞を
奏上することから始まるのだ。

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         擬宝珠(ぎぼうし)

続いて宇治橋にて「万度麻」という橋の安全を願うお札が
高欄の「擬宝珠」に納められると、
いよいよ、新しい橋を渡ることになる。

最初に宇治橋を渡るのは、渡女と呼ばれる高齢の女性で。
彼女が行列の先頭に立って仮橋を渡り、
神域の方から引き返して宇治橋を渡る。
そして、神宮の大宮司を筆頭とした神職の方々、
全国から集まった三代続いた夫婦、
一般の参拝者が列を成して続く。
≪ちなみに三代続いた夫婦は、家庭の円満と健康の象徴であること。
  渡女の長寿と合わせ、橋の無事を願うのだ≫

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橋に一歩足を踏み入れると、心地よい檜の香りが漂う。
川岸から垂れた枝に抱え込まれる五十鈴川を渡りながら、
このとき、そこにいる誰もが、
感慨深い気持ちになるのではないだろうか、

前回の渡始式からの二十年の間に、伊勢神宮には延べにして
一億人もの参拝者が訪れたという。
そしてこれからの二十年間、また同じくらい多くの人々が
この宇治橋を通り内宮を参拝することになる。

そう思うと、清々しい檜の香りは、1300年という長い歳月の中で
常に変わらずに営まれてきた神宮の歴史を感じさせてくれる。

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       山口祭

式年遷宮の行事は平成17年6月、
山から御神木を伐り出すためのお赦しを神様からいただく、
「山口祭」から始まり、
平成25年の遷御まで脈々と続く。

遷宮では全ての儀式が古くから伝わるやり方、
手順で行われていく。
御杣山で御神木を伐るのも、
「三ツ尾伐り」という伝統的な手法が用いられている。

幹の三方に杣夫が集まり、それぞれが絶妙のタイミングで
斧を振るっていくのだ。
カツン、カツンという音が静まり返った山中に響き渡ると、
何とも厳かな雰囲気に包まれる。

そしてその日、町に降ろされ御神木の周りに地元の人たちが集まり、
地面に落ちた木屑を大切そうに拾う姿には心打たれる。
こうした人々の神宮への思いを連ねながら、
御神木は伊勢までの長い道のりを運ばれていく。

天照大御神のお住まいを新しくする遷宮は、
「神様に捧げる真心」 だという。
全てを造り替え、新しい社殿にお遷りいただく。
いわば、遷宮は清らかなものを、
高天原の神々の頂点に位置する天照大御神に捧げ、
「国土を御守りしてほしい」 と願う日本人の感性そのものを、
受け継いできたものだとも思える。

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そして過去から現在へと継承されてきたその心のあり様が、

これからやってくる、遠い未来へも確かに受け継がれていくのだ。

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(画面をクリックすると拡大されます)

「2012-100歳」

★ 大阪に「新世界」100年の歴史、「通天閣」新名所になる。

★ 「吉本興業100年」吉本吉兵衛と妻・せい、大阪で、第二文芸館を買収し、

   寄席の経営を開始する。

★ ヒラパーの愛称で親しまれる「ひらかたパーク」は、

   現在の枚方の地で営業を始めて、100年という節目を迎えた。

★ ペコちゃんの「不二家創業100年」(因みにペコちゃん生誕60年)

★ 「広島電鉄開通100年」。(大正時代の祝開通の「花電車」を復刻した)

   (阪堺電車、札幌市電など日本各地で100周年の路面電車が次ぐ)

★ 100年前の出来事、「タイタニック号沈没」。  (4月15日 )

「100年前(1912)年表」

7月30日 - 明治天皇崩御(大正と改元)
9月13日 - 乃木希典、軍人・学習院院長・台湾総督
8月5日 - 日本で最初のタクシー会社設立(有楽町にて)
9月10日 - 日本活動写真会社設立 (日活)

★ 1912年生まれの有名人(生きてれば100歳)
新藤兼人、映画監督・脚本家(2012没)
金日成、北朝鮮首相・国家主席(1994没)
源氏鶏太、作家(1985没)
木下惠介、映画監督・脚本家(1998没)
双葉山定次、第35代横綱・日本相撲協会理事長(1968没)


「2012年まもなく終ります」

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(画面を拡大してご覧下さい)

これは予言ではありません。

現実的なボタンの押し間違いなのです。( ̄□ ̄;)ガーン

今年一年ありがとうございました。

良いお年をお迎え下さい。

来年もよろしくお願いいたします。


                            茶 助

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生き下手と死に下手三度食べている  森中惠美子

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 平家物語・「小督の事」

「高倉と小督(こごう)の悲恋」

『平家物語』には、清盛によって人生を変えられてしまう

悲劇の女性が登場する。

祇王はその代表だが、

双璧ともいえる悲劇のヒロインは

なんといっても「小督」だろう。

髪を梳いて縁のなかった人を知る  森中惠美子

高倉天皇が寵愛していた葵の前が死に、

天皇は食事ものどを通らなくなるほど落胆した。

中宮徳子は、天皇をなぐさめるために、

宮中一の美人で琴の上手な小督を、

天皇のもとにさしむけた。

ところが、この小督には、

清盛の婿である藤原隆房もいいよっていた。

大事な娘を嫁がせたふたりの婿(高倉天皇、藤原隆房)を、

取られた清盛は怒って、小督をなきものにしょうとした。

雨が降る降る標札のない女  森中惠美子

これを聞いた小督は、

「我が身はどうあれ、天皇の立場を思うと心苦しい」

と、ある暮れ方に内裏を出て行方をくらませてしまう。

天皇の嘆きは深く、

昼は寝所に引きこもり、

夜は月の光をながめあかすようになった。

曇天に愛のかたちを盗まれて  森中惠美子

清盛は、

「小督のことでふさぎこむのなら、こちらにも考えがある」

といって世話をする女房もさしむけず、

高倉を訪れる貴族たちにも、

にらみをきかせたので、宮中には、

暗い雰囲気がただよった。

もぐら叩きの頭を持って黄昏れる  森中惠美子

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      法輪寺

仲国がこの法輪寺のあたりまで来ると、琴の音が聞こえてきた。

こうして日が過ぎたが、8月10日あまりの夜更け、

天皇は宿直で宮中に詰めていた源仲国を呼んで、

「小督を探してほしい」 と頼んだ。

小督は嵯峨のあたりに隠れ住んでいると聞いた仲国は、

家の場所は分らなかったが、

このような月の美しい晩には、

きっと高倉のことを思って琴を弾いているだろうと、

馬に鞭をあてて嵯峨野へむかうと、

はたして嵐山のあたりで、かすかに琴の音が聞こえてきた。

偲ぶものばかりを抱いてこぼす萩  森中惠美子

『峰の嵐か松風か、たづぬる人の琴の音か、

 おぼつかなくは思へども、

 駒をはやめてゆくほどに、片折戸したる内に

 琴をぞひきすまされたる。

 ひかへて是を聞きければ、

 すこしもまがふべうもなき小督殿の爪音也』


≪これは「平家物語」のなかでも特に印象的な名文である≫

読切にすると女も美しい  森中惠美子

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      琴聴橋

右奥に見える橋は嵐山・渡月橋。

≪この辺りは、人力車の溜り場になっている≫

『風の音か琴の音かはっきりとは分らなかったけれども、

 馬を速めていくと片扉の家の中から、

 かすかに琴の音が聞こえてきた。

 耳を澄ましてみると小督のつま弾く琴の音に違いない。


 しかも、曲は夫を思って恋うと読む「想夫恋」という曲である』

じかに小督にあって話をした仲国は、

小督が出家しようとしていることを知る。

翌日に渡すことばを持つ女  森中惠美子

急いで内裏にとって返しこのことを報告すると、

天皇は、

「すぐに小督を連れ帰るよう」命じたのであった。

内裏に戻った小督は、

人目のつかないところに隠され、

夜な夜な天皇に召されるうちに、やがて皇女を産んだ。

これを知った清盛は激怒して、

小督を捕えて尼にして追放してしまう。

よろこびの日哀しみの日のたとう紙  森中惠美子

小督は23歳という若さで、

黒い墨染の法衣をまとう姿に変わり果てて、

嵯峨のあたりに住んだ。

こうした痛ましいことがあったために、

天皇は病気にかかり死んでしまったという。

≪平家物語・巻六「小督」。

 高倉天皇と小督局の悲恋を主題とした王朝物語風の章段である≫


ひとりではないよないよと仏の灯  森中惠美子

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文箱にぎっしり詰まる座右の銘  合田瑠美子

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安徳天皇を抱いて入水する二位尼

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 鵯越の坂落としの場面


「源平合戦」

「石橋山の戦い」といわれる合戦で頼朝は破れ、

いったん安房国に敗走するが、

治承4年(1180)10月20日の「富士川の戦い」で、

平氏追討軍を撃破。

その後、頼朝は鎌倉に戻り、

以後、源氏の棟梁である「鎌倉殿」として采配を振るう。

一方、信濃国の木曾谷では、木曾義仲が独自に挙兵、

「倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦い」では、

平氏勢に壊滅的なダメージを与えて、

平氏一門を京から追い出すきっかけをつくった。

物欲は歳の二乗に比例する  今井弘之

勇躍京入りした義仲だったが、

蜜月だった後白河法皇と次期天皇の継承をめぐって対立。

ついには、

朝敵として頼朝の命を受けた源範頼・義経勢に討ち取られた。

ポイントのLから飛び出した蛙  河村啓子

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 一の谷の戦い合戦図

源氏方の内輪揉めは、

平氏にとって、起死回生の絶好のチャンスだったが、

後白河法皇の絶大な信頼を得て勢いに乗る義経に、

「一の谷の戦い」で惨敗。

瀬戸内海をわたり四国へと逃れて捲土重来を期すも、

「屋島の戦い」でまたしても義経に敗れる。

西へ西へと敗走した平氏勢は、

やがて最終決戦「壇ノ浦の戦い」を迎える。

撤退が始まる人間らしくなる  岩根彰子

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   屋島の戦いの図

雌雄を決する戦いは、

寿永4年(1185)3月24日未明に始まった。

当初、源氏勢を防戦一方にさせた平氏勢だが、

潮流の変化もあって形勢は逆転。

最後を悟った平氏一門は、

次々に冷たい海の中に、自らの身を投じていった。

平安時代、そして無類の栄華を誇った平家の時代が、

終わりを告げた。

トンネルを抜けみまさかへさようなら  森中惠美子

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 「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり」

「壇ノ浦の悲劇」

二位殿時子「浪ののしたにも都のさぶらふぞ」

先帝を抱いて飛び込む。

建礼門院も温石(暖房用の石)や硯を懐に

入れて沈むが、渡辺党の源五に引き上げられた。

船のはた板に弓で打ち付けられ、動けない女房もいた。

「内侍所」(御鏡)を開けようとする兵を制する平時忠も船に

残っていた。

首筋まで遠吠えだけで埋まる  酒井かがり

平教盛・経盛兄弟は、鎧の上に碇をくくりつけ、

資盛・有盛・行盛は手を組んで入水する。

宗盛・清宗父子は、

「四方見めぐらし、あきれたるさま」

部下に押されて落水するが、

「くッきょうの水練」のために沈まず、

伊勢義盛にともに引き上げられた。

飴色の顔で沈殿物となる  井上一筒

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那須与一扇の的の場面 (いろいろと信じがたい伝説)

「義経八艘飛びの真実」

箭種(やだね)を尽した能登守教経(のりつね)だけは違った。

大太刀と大長刀を両脇に抱え、判官義経を探し回る。

顔を知らないために、

「物の具のよき武者」 の船に乗り移る。

義経も、「おもてに立つ様にはしけれども」

ついに「判官の船にのりあたッて」しまう。

義経は「かなわじ」と長刀を脇に挟んで、

「みかたの船の二丈ばかりのいたりけるに、

  ゆらりととび乗り給ひぬ」


と逃げ出すのだ。

対岸に繋いだままの助け舟  清水すみれ

教経は

「はやわざやおとられたりけん、

 やがてつづいても飛び給はず」
と、冑を脱いで,

土佐の武士安芸太郎兄弟を道連れに入水する。

26歳の命であった。

世にいう「八艘飛び」の場面である。

しかし、一番大きく飛んだのは「一艘」であり、

およそ6メートルの距離にあるところだ。

小柄な彼の、世離れした行為に尾ひれがついて、

「八艘」も飛び越えていくようになったのは、

後世の拡大解釈である。

「判官びいき」の為せる業といえよう。

君が代を歌いつづける海の底  大森一甲

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