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川柳的逍遥 人の世の一家言
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うつろいやすき愛へ湖があふれ  森中惠美子

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       法住寺

法住寺は七条坊門小路、観音堂大路、東山山麓より法性寺大路を、

敷地とする広大な寺域を持ち、


後白河法皇らの院御所(『法住寺殿』)として、

1161年に、この地から、後白河法皇の長い院政が始まった。

千体の観音像を安置する「三十三間堂」もその敷地内の一部で

法皇を極楽浄土に導くため、仏像は全て法住寺に向いている。


「建春門院滋子」は、後白河院とともにここに眠っている。

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     千体の仏像

街角の一理に変わるしじみ蝶  筒井祥文

「建春門院滋子」

永禄元年(1160)清盛は念願の公卿の座にのぼった。

謁見する清盛に後白河院は皮肉たっぷりに言った。

「まさか朝廷の番犬が、そこまでのぼる日が来るとはのお」

「お戯れをこの日が来ることを上皇様は、

  保元の戦さの折より、お気づきであったはず」


不敵な態度の清盛に、ご白河もまた不敵な笑みを返した。

清盛と後白河院の長い長い「すご六遊び」の、

新たなる始まりであった。

身の上のここは泣くとこ笑うとこ  清水すみれ

家貞美福門院もこの世を去り、

時代は大きく変わりつつあった。 

そんな折、上西門院後白河院の姉)の女房として

仕える滋子(清盛の義妹)が、兄・時忠から、

「二条天皇のもとへ入内しないか」

ともちかけられる。

それを滋子はきっぱりと拒否する。

二条天皇とそりが合わず、

面白くない後白河上皇はある日、宮中で滋子と会い、

一目見て、その姿と気の強さに心ひかれる。

あっという間に後白河上皇の子を懐妊した滋子に、

平家一門は大騒ぎになる。

好きですと言ってくれたら好きになる  新家完司

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「平滋子」

平家の時代の中で、

歴史的に重要な役割を果たしている女性がいる。

父は平時信(堂上平氏)時子の異母妹。

建春門院滋子である。

鳥羽法皇の娘・上西門院に女房として仕え、

その美貌と聡明さが、

後白河の目にとまって寵愛を受け、

高倉天皇を生んで女御となった。

後白河の寵愛は、

他の妃とは比較にならなかったといい、

生前は後白河と清盛の対立を、

調整・緩和する存在であった。

前略 アイウエオ 早々にてナダレ  山口ろっぱ

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「その素顔」

滋子の女房として仕えた健寿女(藤原定家の同母姉)

『たまきはる』〔建春門院中納言日記〕に、

滋子の素顔を書き残している。

掟を脱いだら象形文字になった  岩根彰子

「たまきはる」には、彼女の容姿を

「あなうつくし、世にはさはかかる人のおはしましけるか」

       (なんと美しい、この世にはこのような人もいらしたのか)

と記されている。

≪滋子の美貌は、

  「言ふ方なくめでたく、若くもおはします」

            (言葉にできぬほど美しく、若々しい)

『建礼門院右京大夫集』でも絶賛している≫


この世です「ああ」がいっぱい詰まります  徳永政二

性格をというと、

「大方の御心掟など、まことにたぐひ少なくやおはしましけん」

      (心構えが実に比類なくていらした)

万事につけて、しっかりとして几帳面な性格で、

女房が退屈しないよう気配りを怠らず、

いつ後白河や高倉が来ても良いように、

絶えず威儀を正し、

後白河が御所にいる時は、

いつも同殿して食事を共にとったという。

出会ったんだもの私の半分と  居谷真理子

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そのことについて、”たまきはる” で滋子は、

「女はただ心から、ともかくもなるべき物なり。

  親の思ひ掟て、人のもてなすにもよらじ。

  我心をつつしみて、身を思ひくたさねば、

  おのづから身に過ぐる幸ひもある物ぞ」


     (女は心がけしだいでどうにでもなるもの。

      親や周囲のせいではない。

      自分の心をしっかりもって我が身を粗末にしなければ、

      自然と身に余る幸運もある)


と折に触れて、自戒の意を込め語っていたとある。

楕円を引っ張ればほんのり唇  下谷憲子

「逸話」

後白河院が9月に滋子を伴って、

熊野参詣を行った折のこと、

熊野本宮で滋子が「胡飲酒」を舞っていたところに、

突然大雨が降ってきた。

が、滋子はいささかもたじろがず、舞を続けたという。

滋子の信念の強さ、気丈な性格を表した一面である。

さあ今日も私が地球回さねば  高橋謡々

滋子は、後白河院が不在の折には、

除目や政事について奏聞を受けるなど、

家長の代行機能の役目も果たした。

「大方の世の政事を始め、

  はかなき程の事まで御心にまかせぬ事なし」


   (政治の上でのどんな些細なことでも、

    女院の思いのままにならないことはなかった)


≪こうした政治的発言力により、滋子は、信範(叔父)や、

   宗盛(猶子)、時忠・親宗(兄弟)の昇進を後押しもした≫

キツネが憑いていた頃の声の艶  井上一筒

安元2年(1176)3月4日から6日にかけて、

後白河院の50歳の賀のために「法住寺殿」において、

盛大な式典が催された。

後白河院滋子高倉徳子上西門院平氏一門

公卿が勢揃いしたこの式典は、

平氏の繁栄の絶頂を示すものとなった。

その後3月9日、

後白河院と滋子は有馬温泉に御幸する。

帰ってまもない6月8日、

滋子は突然の病に倒れる。

そしてそのまま、35歳でその生涯を終える。

一+一まではつじつま合っている  谷垣郁郎

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四角い雲は物置に積んでおく  井上一筒

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    義朝の墓

愛知県野間大坊にある義朝の墓。

義朝はここで家臣に殺された。


おびただしい数の木太刀が奉納されている。

(写真は観光として画面をクリックして大きく見てください)

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      大御堂寺


3月の涅槃会では、義朝の供養も行なわれる。

寺は義朝ゆかりと伝わる太刀などを所蔵する。


長い道歩いて人は人となる  田原喜久美

「義朝の最期」

永暦元年(1160)1月4日、

義朝は、長男・義平・次男・朝長・三男・頼朝ほか、

一族郎党とともに、東国に逃げ落ちていった。

雪辱を果たすため、

本拠地で再起を期すつもりだったのだろう。

だが、執拗な落ち武者狩りによって、

朝長は深手を負って死を選び、

頼朝は途中で、一行からはぐれてしまう。

義朝は郎党の鎌田正清を従えて、

尾張に着いたところで、

正家の舅である長田忠致(おさだだだむね)の館に宿を得た。

生と死を見つめ直して生きている  神野節子

しかし、

忠致は、義朝を襲って首を刎ねたのだった。

首は清盛に届けられ、9日に獄門に晒された。

再挙をめざした義平は、

近江の石山寺付近に隠れているところを捕縛され、

1月21日に六条河原で斬首された。

かなしみの言葉ばかりが地に溜まる  森中惠美子

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同じ大坊にある義朝の首を洗ったという池

頼朝もまた、2月9日に近江で捕まり、

処刑されるところだったが、

清盛の継母である池禅尼の、

「亡くなった実子に似ているからと助命を嘆願した」

の一言で死一等を減じられ、伊豆配流となった。

頼朝14歳、3月11日のことである。

人見知りする鏡だなすぐ曇る  谷垣郁郎

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京都市北区の総神社

かってここに義朝の別荘があり、

常磐御前がここで義経を産んだとされる。


弟たちもみな助命され、

また義朝に従った東国武士も、

特に処罰された形跡がない。

ただし、生き残った彼らは、義朝という後ろ盾を失い、

それぞれに、厳しい立場を生きることになるのである。

今日中に咲かせるための腹話術  井上しのぶ

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「藤原信頼の最期」

清盛の二条天皇の脱出作戦の一芝居に

引っかかって、

まんまと二条天皇をさらわれた信頼たちの、

あわてぶりは、ひどかった。

二条天皇を失った今、信頼たちの有効な手立ては、

もはや残されていなかった。

かっての主君である後白河院は、

自分たちで裏切ってしまったのだし、

関係を修復しようにも、

肝心の後白河院は、二条天皇よりも先に、

仁和寺に脱出してしまっていた。

てぶくろの中にて指が汚れだす  清水すみれ

慌てふためいて、信頼は仁和寺に逃げ込んだが、

同行した藤原成親とともに捉えられた。

六波羅の清盛の前に連れ出され、

助命を請うたものの、清盛は首を縦に振らない。

そのまま引き立てられて、六条河原で斬首された。

刃こぼれは月を削っただけのこと  くんじろう

保元の乱で処刑されたのは、武士に限られていたが、

今回は貴族の信頼ですら、死罪を免れなかった。

その理由は、

信頼が乱の主導的役割を果たしたことと、

信頼自身が武装して参戦していたため、

戦闘員として扱われたことによる。

刻々と迫る私の持ち時間  佐藤后子

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一方、藤原成親は死罪を免れ、流罪にもならず、

解官だけの処分ですまされたのは、

成親の妹が重盛の妻だったからだろう。

また、「とるに足らない殿上人」

と見くびられたからともいう。

≪のちに成親は、打倒平家のクーデター(鹿ケ谷事件)の、

   首謀者の一人に、なるが計画が発覚して失敗に終わり、

   配流されることになる≫


万匹の狸一匹連れ帰る  黒田忠昭

これらの戦後処理によって、

「平治の乱」は終りを告げたが、

最後の最後に、どんでん返しが待ち受けていた。

乱の余韻のまだ残る翌・永禄元年(1160)2月、

藤原経宗・惟方の二人が捕らえられ、

経宗は阿波国へ、

惟方は長門国へと流罪にされたのである。

スキップで出かけて腹這いで帰る  森田律子

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二人の直接の罪状は、後白河院に対する侮辱であった。

二条天皇脱出の功労者である二人は、

これでいよいよ自分達の時代の到来とばかりに、

後白河が街中の様子を見物していた桟敷に、

板を打ち付け、

視界を遮ってしまったのである。

同情の余地はあれども罪は罪  徳山泰子

これは公衆の面前で行なわれたわけで、

後白河の権威を、白昼堂々と否定してみせた行為である。

もちろん後白河院は激怒したが、

今となっては頼れる近臣もなく、

二人を処罰してくれるよう清盛に泣きついた。

雷が転げそうだよおーい雲  泉水冴子

泣きつかれた清盛は、二人をひっ捕らえただけでなく、

院の面前に引き据えて、拷問にかけている。

清盛がこれだけの仕打ちを行なったのは、

平治の乱の片棒を担いでおきながら、

乱平定の功労者面をし、

二条天皇の威をかりて、やりたい放題をする2人に、

対する周囲の憤懣が込められていた。

砂漠からとどく青色鳥語集  松本 泉

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 源氏ゆかりの銘刀・行平

こうして後白河派・二条天皇派の近臣たちは、

一掃された。

義朝など有力な武士たちも、ことごとく壊滅した。

この「誰もいなくなった」とでもいうべき状況で、

ただ一人、清盛だけが勝ち残ったのである。

清盛自身は事態を主導せず、

状況を受身に対応した結果ではあるが、

清盛がただ幸運に、恵まれていたというわけだはない。

こころざしのような背骨はもっている  たむらあきこ

他のものたちが焦って自滅していく中で、

正盛以来蓄えられた実力を持つ清盛だからこそ、

状況を冷静に見極め、

判断を過たずに勝ち残ることができたのである。

その意味で清盛は、

勝つべくして勝ったのだといえよう。

乱後に清盛は従三位を飛び越えて、

正三位に昇進し、念願の公卿昇進を果たしている。


大の字で見る回天の一部始終  兵頭全郎

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アドリブを重ね塗りして抽象画  美馬りゅうこ

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平家六波羅邸

二条天皇が移った「六波羅」は、

もともと京の住民の葬送の地で、


清盛の祖父・正盛が一門の供養塔を建てたことから、

平家との関わりが始まった。

この地は、京と東国を結ぶ交通の要所でもあったので、

清盛の父・忠盛が、ここに一町四方の屋敷を建設し、

寿永2年(1183)の都落ちまで、

平家の京での邸宅・軍事基地の役割を果したのである。


                         (画面をクリックすれば大きく見れます)

軒下にアトランティスがあったはず  井上一筒

「六波羅邸」

平治元年(1159)12月25日、

院近臣と称される公卿がひしめく

六波羅に、歓喜の声が湧き上がった。

公卿たちが口々に喜びの声を上げる。

「これで朝廷は救われた。

 もはや謀叛人どもは手も足も出ないであろう」


この日、藤原信頼、源義朝らの手によって、

幽閉されていた二条天皇の身柄が、

とうとう奪還されたのだ。

水の無い所にあなたもういない  西川節子

反信頼派から事の次第を通告された後白河は、

信頼派・反信頼派双方から孤立する道を選択し、

仁和寺に逃げ込んだ。

反目する二条側につくことはありえず、

かといって、上皇といえど、

天皇と敵対すれば、正統性はなくなることを、

「保元の乱」における兄・崇徳上皇を見て理解していた。

回廊を渡ると寒い過去が見え  森中惠美子

後白河は信頼を見捨てたのだ。

翌26日朝、

二条ばかりか、後白河までも消えた大内裏で信頼らは、

「アブノ目ノヌケタル如ク」

(目が抜けた虻のように)  『愚管抄』

おろおろとし、義朝は信頼を

「日本第一ノ不覚人ナリケル人ヲタノミテ、

  カカル事ヲシ出シツル」


(日本一不注意な人間をあてにして、こんな事になってしまった)

と言い捨てて、にわかに鎧を着したという。

えの具が足りぬ人間百景  北川アキラ

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天皇・上皇を失った勢力は、謀叛人となってしまった。

謀叛人とされた武士がどうなるか。

保元の乱で父・為義を処刑した義朝には、

もはや、武装蜂起に走る以外に道はなかった。

もうちょっとなのに海まで行けぬ泥  森 茂俊

天皇の六波羅行幸が知れわたると、

後白河上皇はじめ、

上西門院・美福門院、藤原忠通・基実父子以下、

公卿・殿上人のすべてが、六波羅に集まった。

信頼の支持者であった忠通が、

清盛についたことで、

信頼の孤立は、決定的になったといってよい。

その26日、信頼・義朝追討の宣旨が下された。

ここに平清盛率いる平家は「官軍」になり、

義朝率いる源氏は「賊軍」になった。

そうかそうか僕は咲かない芽のほうか  中野六助

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両者の戦いは、26日朝にはじまった。

内裏の焼亡を避けるよう要請された清盛は、

内裏に立て籠もる信頼・義朝軍を誘い出す作戦をとった。

まず内裏に押しよせ、敵が出撃してきたら引いて、

六波羅におびき寄せる。

その間に、内裏を占拠するという作戦である。

平家軍は、3000余騎で内裏の3門を襲った。

迎え撃つ信頼・義朝軍は800余騎。

走れ走れ正気に戻らないように  田中博造

重盛を大大将に清盛方は、内裏に一気に攻め寄せた。

待賢門(御所の東)を守るはずの信頼は、

戦わずして退き、やすやすと重盛軍は門内に入った。

しかし、義朝の子息・悪源太義平の奮戦で、

一旦門外に追いやられた重盛軍だが、

今度は義朝軍を、内裏からおびき出す作戦に出た。

計略にかかり内裏から出た途端、

義朝軍は門扉を閉められ、かくなる上は、

清盛の本拠六波羅を攻めんとして進軍するが、

平家軍は五条橋を壊し、

鴨川の東岸で待ち受けていたのだった。

そして六条河原での交戦となり、敗北を喫した。

≪また、この平治の乱では、頼朝が初陣を戦った≫

矢印が盗まれ日々が疎くなる  谷垣郁郎

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東国へ落ち延びる義朝

義朝は六波羅に迫ろうと奮戦したが、

六条河原で敗戦を覚悟し、戦場から離脱する。

信頼は、いつの間にか姿を消していた。

前線の地雷をいくつ踏んだのか  清水すみれ

拍手[3回]

酸化した油で大安を揚げる  森田律子

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「大内裏から脱出する二条天皇」(歴史と民族の博物館・埼玉)

二条天皇は女装して密かに六波羅へと脱出した。

25日夜、二条は女装して牛車い乗り、

清盛の六波羅の私邸に迎え入れられた。


                     (画面をクリックすれば大きく見れます)


水底で月は檸檬になりました  古田祐子

「第二幕・六波羅合戦」

藤原信頼源義朝が挙兵したのは、

平治元年(1159)12月9日、

憎んでも余りある信西を三条鳥丸の院御所に襲い、

続いて内裏を占拠して、二条天皇の身柄を押さえた。

天皇を確保した反乱軍は、一時京都を完全に制圧し、

その兵革は、成功したかに見えた。

空想が碁盤の石の下にある  筒井祥文

しかし「六波羅」が動き出すと、

しだいに雲行きが変わっていく。

六波羅の主人、清盛の帰還とともに、

政局は此処を中心にまわりはじめたのだ。

ドアはいま 隣の部屋を出ていった  山本早苗

「平治の乱  二条天皇奪還」

天皇脱出の手立てをする密命をおびて、

内裏に入ったのは、

藤原惟方の義兄弟である藤原尹明(ただあき)だった。

尹明は、天皇を女装させて女房用の車に匿い、

25日夜を待った。

手筈どおりに大宮二条で火災がおこり、

警備の武士が気をとられている隙をついて、

内裏を出た。

後発に棒高跳びの特技あり  井上しのぶ

そのとき警備の者が怪しんで、

車の御簾を上げさせたが、

17歳の天皇を女性と見誤ったともいう。

天皇が六波羅に入ったのは、

26日の晩だった。

天皇の脱出計画を知らされた後白河上皇も、

同日、ひそかに内裏から逃れ、仁和寺に身を寄せた。

六波羅を臨時の皇居として、

天皇を奪い返す策は、見事に成功した。

水紋の夥しきは水面下  蟹口和枝

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信頼義朝は天皇を奪われた瞬間、

謀叛人に転落するのだ。

「これで反乱も終わった」

と公卿たちが喜ぶのも、無理はなかった。

それが院政期に、天皇権力に寄生することで台頭した、

院近臣たちの常識である。

法則を背負って登る豆のつる  桜 風子

「平家の棟梁はいかがした」

と、公卿たちは、浮かれ気分で、

この六波羅の主人の姿をさがす。

なんといっても、第一の功労者だ。

皆で褒め称えてやれば、

「あの遠慮がちな六波羅の主人も感激するだろう」

と、わいわい騒ぎあう。 

一匹の魚の笑い見にゆこう  森中惠美子

「いずこにおる、平家の棟梁」

公卿たちは、

「恥ずかしがらずに出て来い」

とでも言いたげな口調だった。

祝宴でも始めそうな公卿たちは、

なかなかお目当ての、平家の棟梁が出てこないので、

車座になって、お喋りを始めた。

きらきらと単孔目鯉苔を食う  大西泰世

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   清盛像

「お待たせいたしました」

出し抜けに頭上から声が降ってくる。

訝しげに見上げた公卿たちは、息を呑む。

そこにいたのは、確かに平家の棟梁・平清盛だった。

オーロラの裏の座敷牢に居ます  井上一筒

だがいま、公卿たちの前に現れた清盛には、

いつもの腰の低い微笑はない。

口調こそ丁重だったが、

別人のように厳しい表情だった。

それにしても、清盛のいでたちは何たる有様であろうか。

此処はいま臨時の皇居だ。

殿上である。

しかし清盛は、公卿たちが後ずさるような、

武者姿で現れたのだ。

絶句した公卿たちは、

眼を見張って、清盛の武者姿を仰ぐ。

まず嗚咽漏らしたのは袖口  酒井かがり

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   平清盛公日招像

そこにいる清盛は、冒し難い威厳に満ちていた。

しかも、見る者の眼を奪う美しさがあった。

清盛の軍装は、黒で統一されていた。

鎧の縅毛は黒、太刀も黒漆、

矢は柄も羽根も黒で、沓まで熊毛だった。

だがただ一点、冑の立物だけが銀だった。

その白く輝く立物が、ひた黒の装束を、

心憎いまでに引き立てていた。

沈黙を買いに行く万札のシワ  山口ろっぱ

公卿たちを圧倒した清盛の大音声が、

殿上に響きわたる。

「殿上の方々、お喜び召さるのは、まだ早い。

 本当のいくさが始まるのはこれからじゃ」


殿上が水を打ったように静まり返る。

清盛は続けた。

「主上の玉体を奪われて観念するのは公家の習い。

 なれど武家の習いは違い申す。

 殿上の方々、もしやお忘れか」


これを聞いて、水を打ったようだった殿上が、

ふたたびざわめき始めた。

いま私積乱雲の中にいる  ふじのひろし

一座の公卿たちに、不安げな表情が広がっていく。

清盛のいかめしい軍装が、いやでも思い出させた。

「このたびの兵革の張本人・中納言信頼とともに、

 蜂起した者の名を」


「義朝・・・」 

公卿の誰かがつぶやき、

清盛は大きくうなずいてみせる。

緞帳の糸のほつれか悲の匂い  嶋澤喜八郎

「左馬頭義朝は源氏の棟梁。

 主上の玉体を奪われたからといって、

 おめおめと引き下がる者ではござらぬ。

 再び玉体を奪い返さんとして、

 かならずやこの六波羅へ、攻め寄せてまいりましょう」


ある日ふと保険証書が気にかかる  山本昌乃

拍手[3回]

法則を守って雑巾が乾く  山本早苗


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「平治物語絵巻・信西巻」 (国立国会図書館)

信西の首は獄門に晒された。

そして信西の息子たちは、一斉に配流されて一族は壊滅した。

「信西の首」


平治元年(1159)12月9日、「平治の乱」が勃発する。

清盛が一家をあげて熊野参詣のため、

京を留守にしていた最中だった。

後白河の近臣・藤原信頼源義朝らの軍勢が、

後白河上皇の院御所・三条殿を突如襲撃した。

彼らの目的は信西である。

信西は下級官人出身だが、

非常に有能で、実務官僚系の院近臣として、

鳥羽院に接近し、

後白河の乳母を妻にしていることから、

後白河の側近にもなり、「保元の乱」後の混乱の中

政治の中枢に躍り出た人物だ。

ポケットの中の心が見つからず  くんじろう

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信西の生首を持ち帰る道中 前列の4人が首を掲げる

後白河を大内裏に移し、

義朝らは信西を捜索するが、

信西は危険を察知し、逃亡したあとだった。

のちに、自ら胸に刀を突き刺し自殺した姿で、

信楽山の山中で発見され、

その首は落とされ西獄門に晒された。

謀叛罪として梟首に処せられたのである。

子息たちも解官、配流された。

50年前、鎮西で反乱をおこした源義親(義朝の祖父)以来の

「梟首の刑」である。

一昼夜拍手を浴びてオポッサム  富山 悠

信頼義朝はさっそく「除目」をおこない、

自らはもちろん、一門や同志の貴族たちの官位を進めた。

しかし、反信西では一致していた彼らに、

早くも分裂が始まっていた。

除目=官職に任命する儀式。

知らぬところで鏡の割れる音がする  洗い慶子

すなわち二条天皇の外戚・藤原経宗(つねむね)

側近・藤原惟方(これかた)など親二条派が、

9日の事件に、

強い危機感を抱いた内大臣・藤原公教(きみのり)が、

秘密裏に進めていた反信西派の結集工作に、

加わったのだ。

彼らの手引きで、公教は二条天皇を内裏から、

密かに脱出させるという作戦を企て、

その実行役として、清盛が起用された。

終りでも始めでもある判を押す  中川隆充

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   「六波羅合戦図」 (国際日本文化研究センター)

赤い旗をなびかせながら出陣する平氏軍。

中央の赤い甲冑を着た武士が、清盛。
 (デジタル復元図)

もともと、二条親政派であった藤原経宗、

惟方にしてみれば、

後白河院政派から鞍替えしたばかりの、

信頼、義朝が、自分達を差し置いて、

二条天皇を擁立し、政権を牛耳るのは、

バカバカしい話であった。

そこに目を付け、反信西派に打ち込んで分断した、

藤原公教の目の付け所は見事というほかない。

≪公教は、信西によって荘園整理のために設置された、

  記録所の責任者とされた人物だが、

   信西にそれだけ高く評価されるだけのことはあったのだろう≫


砂時計倒れたままの裏表紙  笠嶋恵美子

拍手[4回]



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