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川柳的逍遥 人の世の一家言
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豆の蔓自分探しはすんだのか  たむらあきこ

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           西  行

大河ドラマ・「清盛」で、

佐藤義清役演じている俳優(藤木直人)の、、

知名度の割りに、
「佐藤義清」の名は、

歴史的にはあまり知られていない。

この義清を即座に誰といえる人は、かなりの歴史通である。

というのは、義清(のりきよ)としての名は、

凡そ5年ほどしかないからだ。

彼は武士(北面)として生きて、世に無常を感じ、

23歳で出家してしまう。

崇徳院待賢門院・彰子(たいけんもんいん)という

2人の人への愛を、
こころに偲ばせ、

旅の僧となった。

百人一首で知る「西行」である。 

片方の目だけ造反したようだ  牧浦完次

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    宴の絵巻

「佐藤義清」

義清は、元永元年(1118)、

祖先が藤原鎌足という裕福な武士の家系に生まれる。

16歳ごろから徳大寺家に仕え、

この縁で、後にもと主家の実能公能と、

親交を結ぶこととなる。

保延元年(1135年)18歳で左兵衛尉に任ぜられ、

同い年の平清盛とともに、

御所の北側を警護する「北面武士」として、

奉仕している。

「北面武士」の採用には、ルックスも重視されており、

   義清は、容姿端麗だったと伝えられている

眼や鼻の置き場をちょっと間違える  中野六助

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北面生活では、「歌会」が頻繁に催され、

そこで義清の「歌」は、高く評価された。

武士としても、実力は一流で、

疾走する馬上から的を射る「流鏑馬」の達人であり、

さらには、鞠(まり)を落とさずに蹴り続ける、

「蹴鞠」の名手でもあった。 

神さまの前の市松模様かな  岩根彰子

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"君が住む宿のつぼおば菊飾る ひじりのみやといふべかるらむ"


徳大寺家は、藤原道長の叔父・公季(きみすえ)から、

分かれた家系で、院政時代に法皇の信頼をえて、

その家運は上昇していた。

義清を取り立てた徳大寺実能(さねよし)は、

鳥羽院の中宮・璋子の兄であり、

璋子に仕えた義清の前途は、

洋々と開けているように思れた。 

色即是空 流れるままの春の雲  美馬りゅうこ

 

が、保延6年(1140)、23歳のとき、

とつぜん出家して円位を名のり、

後に、西行と名乗る。

"身を捨つる人はまことに捨つるかは 捨てぬ人こそ捨つるなりけれ" 
 

流されて今日という日に辿りつく  河村啓子

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   彰 子

その動機には、

友人の急死にあって「無常」を感じたという説、

また、「失恋説」がある。   

「御簾の間から垣間見えた女院の姿に恋をして、

  苦悩から死にそうになり、

  女院が情けをかけて一度だけ逢ったが、

  「あこぎ」と言われて出家した」
 
とある。     『「「「
室町時代物語・「西行の物かたり」

 

この女院は、中宮・璋子であると考えらている。 

「小倉百人一首・八十六番に選出」

 

”嘆けとて月やはものを思はする かこち顔なるわが涙かな”
 

何もかも知っていたのねお月さま  竹内ゆみこ

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百人一首「86番」・西行

出家後しばらくは、京都の嵯峨や東山に草庵を結び、

歌会へ出たり、

鞍馬寺で、仏道の修行を行ったりしたと
伝えられる。

その後、

旅の歌人として知られる能因法師の足跡を辿って、

奥州を旅している。

白河関、信夫の里、衣河など「歌枕」を訪ねつつ、

平泉より、出羽にまで至った。

その後は高野山に庵を結んだ。

"世の中を捨てて捨て得ぬ心地して 都離れぬわが身なりけり"
 

縦長の字に変節を潜ませる  奥山晴生

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そこでは、毎年、吉野山で花見を行い、

また修行を兼ねて、

天王寺、熊野、厳島等の寺社に参詣し、

大峯で修行したとも、伝えられる。
 
その間に、「鳥羽院の葬列」に参会し、

また、「保元の乱」に敗れて、仁和寺に籠もった、

崇徳院を訪ねたりしている。

"花見ればそのいはれとはなけれども 心のうちぞ苦しかりける" 
 

そう言えば自粛のように散っていた  山本早苗

西行崇徳院への思いは止みがたく、

院の、讃岐への配流後も、

歌の遣り取りをしていたようである。

さらに、院崩御後の仁安二年(1167年)には、

四国讃岐国の崇徳院の陵を訪れて、

「鎮魂の歌」を捧げている。
  
"よしや君昔の玉の床とても かからむ後は何にかはせむ"

    
さよなら三角そんなかたちの雲がある  田中博造

また富士山を詠んだ次の歌も、

この旅の折りのものと伝えられる。
  
"風になびく富士の煙の空に消えて ゆくへも知らぬわが思ひかな"

                                                                

陽炎が人の形になるよすが  蟹口和枝

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「エピソード」ー『吾妻鏡』

文治2年(1186)8月、

鶴岡八幡宮に頼朝が参詣すると、

鳥居の周辺を徘徊する老僧がいた。

怪しんで家臣に名を尋ねさせると、

これが、西行と分かり、

西行の過去を知る頼朝は、館に招いて、

流鏑馬、歌道の事を詳しく聞いた。 

触れてみる昨日が遠くならぬよう  山本早苗

 

西行は、 「歌とは、花月を見て感動した時に、

 僅か三十一字を作るだけのこと。

 それ以上深いことは知りません」

 

と飄々と答え、 

「流鏑馬のことは、すっかり忘れ果てました」

 

とトボケた。  

取り立てて言うこともない冷奴  新川弘子

 

が、頼朝が困惑するので、

馬上での弓の持ち方、矢の射り方をつぶさに語り始めた。

2人の会話は終夜続き、

翌日も滞在を勧められたが、

西行は振り切るように、昼頃発った。

頼朝は土産に,高価な「銀製の猫」を贈ったが、

西行は館の門を出るなり、

付近で遊んでいた子どもにあげてしまったという。                            

リンゴの皮むき 出ておいでわたし  岡本久栄

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西行法師の墳墓の傍に建つ歌碑。 

"願わくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ"

 


西行が晩年に詠んだ歌のその意味のとおり、

陰暦2月16日、釈尊涅槃の日に入寂した。

僧の人として50年、享年73歳。 

天竺を越えてきた銀の前置詞  井上一筒

 

拍手[5回]

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五階まで若葉をつれた人が来る  森中惠美子

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「エピソードー清盛のやさしい一面」

清盛が若い頃の話である。 

「ある人が嫌なことをしたとしても、

 その人が、戯れでやったことと思い、

その人をいたわる気持ちから、

おかしくなくても笑ってあげた。

誰かが間違いをおかしたり、

 

ものを散らかしたりしても荒々しく声を立てることもなかった。

流れ行く一部始終を見た辛夷  山下怜依子

冬の寒い頃には、

若い奉公人たちを、

自分の衣のすその下に寝かせてやり、

彼らが寝坊したら、

そっと寝床から抜け出して思う存分寝かせてあげた。

善人の面そおっと置いていく疲れ  山本昌乃

身分の低い召使であっても、

その者の、家族や知り合いの見ている前では

一人前の人物としてあつかったので、

その者は、大変名誉に感じて心から喜んだ。

うどんの神様 コタツの佛さま  壷内半酔

このような情けをかけたので、

ありとあらゆる人が清盛に心を寄せたのだった。

人の心を感動させるというのは、

こういうことをいうのである」

焦点にずらし具合を聞いて情  蟹口和枝

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『平家物語』で知られる横暴な清盛像とは、

だいぶかけ離れている。

清盛の若かった頃の話ということだから、

「保元・平治の乱」前か、

もしくは、その直後のことであろう。 

大つぶの涙ファイルの中の染み  オカダキキ

 

明治以降の「国定教科書」」では、

「皇室への反逆者」 として、

その「横暴ぶり」が強調された清盛だが、

平家全盛の時代から、

さほど遠くない鎌倉時代の「少年向け教訓書」の中で、

「理想の上司」として、描かれているのはおもしろい。 

B面を辿れば焼きいもに出会う  山本早苗

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『十訓抄』が成立した鎌倉中期は、

平家に対する懐古の雰囲気が、

色濃い時代であったといわれる。

平家の全盛時代を懐古した『平家公達草紙』が、

編まれるのも、鎌倉初期のことである。 

筆太に書いて信号青にする  谷垣郁郎

 

『平家物語』による、

「悪者」のイメージが定着していない時代でもあり、

平家の世を、正当に評価しようという機運が、

このような逸話を掘り起こさせたのかもしれない。

では、「この逸話の信憑性やいかに」

ということになるわけだが、

晩年の清盛は、「福原遷都」「南都焼き打ち」など、

その活動はお世辞にも、

「やさしい」とはいえない。 

オーロラは強く掴むと消えてゆく  井上一筒

 

その一方、権力を握る前の若かりしころは、

「十訓抄」の第7の項にあたる、

「アナタコナタ」する「気配りができる人」だった。

「十訓抄」が、

「若かったころ」 とあえて限定しているところに、

かえって、真実味が感じられるのだが・・・

どうだろうか?!。

追い出した鬼をときどき思い出す  河村啓子

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    『平家公達草紙』

「十訓抄の内容」

第一 人に恵を施すべき事
   情けは人のためならず、人に与えた恩は必ず自分に帰ってくる。

第二 傲慢を離るべき事
   美貌で知られる小野小町の尊大な態度を例に、戒めのこと。

第三 人倫を侮らざる事
   倫理ばかり尊重していてかえって馬鹿を見る。

第四 人の上を誡むべき事
   無知のまま、べらべらと色々しゃべると恥をかく。

第五 朋友を選ぶべき事
   友達選びに失敗し、人生を棒に振った悲しき人々の話。

第六 忠直を存ずべき事
   忠義の善悪について話そう。

第七 思慮を専らにすべき事
   人の立場を思いやる気持ちの大切さ。

第八 諸事を堪忍すべき事
   忍耐こそが最高の徳である。

第九 懇望を停むべき事
   人に罪の意識を植え付ける。

第十 才芸を庶幾すべき事
   誰にも一つ優れた才能がある、それを伸ばして世の中に役立てよ。

というように、道徳の教科書になっている。

ここにこそ、本来の清盛の内面がみえてくる。

欲張らず等身大で生きてゆく  田中荘介

拍手[4回]

あらあらとDNAの一夜干し  前中知栄

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   鳥羽上皇

40年余り院政を敷いてきた独裁者・白河法皇が亡くなると、

大治4年(1129)より、鳥羽天皇が院政を敷く。

まず鳥羽院は、

白河法皇に疎んじられていた藤原忠実を呼び戻して、

娘の泰子(高陽院)を入内させるなど、

院の要職を自己の側近で固めた。

同時に権力を掌握した鳥羽院の、

白河法皇への憎しみは、

白河の愛妾であり、自身の正妻である彰子へ向けられ、

白河と彰子の子である崇徳帝への報復となっていく。 

青空も渋滞らしい雪ダルマ  和田洋子
 
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そこから、

白河法皇の後ろ盾を失った中宮・璋子にかわり、

鳥羽院は、三人目の中宮として、

藤原得子(美福門院)を寵愛した。

程なくして得子は懐妊。

一人目の叡子内親王は、高陽院の養女となったが早死にし

二人目の暲子は、鳥羽院が手元で育てられ、

そして、3人目で、やっと男児が誕生する。

のちの近衛天皇、体仁(なりひと)親王である。 

孖の踊りからふと目覚ましか  湊 圭史
 
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     崇徳院

男子が生まれると、

鳥羽院には、待賢門院・璋子との間に、

雅仁親王(後白河帝)がいたが、

その得子が産んだ近衛が三歳になると、

鳥羽は自分が、白河にされたと同じように、

崇徳院に譲位を迫り、

近衛を崇徳の養子の形にすると説得して、即位させた。

だが、即位の際の宣命では、

「崇徳は皇太弟に譲位した」 と読み上げられたのである。

鳥羽は崇徳を欺いたのである。

(これが崇徳の怨念の始まりとなり、

  義清が無常の旅に出る原因のひとつとなる)

おとといの場所から起こる砂嵐  笠嶋惠美子

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    後鳥羽上皇

こうして14年が過ぎた夏。

近衛帝が重篤となった。

後継に関し、誰もが崇徳院の嫡男・重仁親王が、

次の天皇の最有力候補と思われていたが、

雅仁親王(のちの後白河)が、即位することとなる。

得子が、崇徳院が藤原頼長と組んで、

近衛帝を呪い殺したと信じ、

その子である重仁を排除するよう、

鳥羽院に働きかけかけたのだ・・・。 

入賞圏内に伝染病がある  井上一筒
 
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「はみだし者ー雅仁親王」

"イタクサタダシク御遊ビナドアリ"

皇位継承とは、無縁で気楽な立場にあった雅仁親王は、

『平治物語』によれば、

「今様狂い」と称されるほどの遊び人であり、 

「文にあらず、武にもあらず、能もなく、芸もなし」

 

と同母兄・崇徳院に酷評されていたという。

皇位継承とは無縁と目され、

帝王教育を受けることもなかった。

その没頭ぶりは、周囲からは常軌を逸したものと映ったらしく、

鳥羽上皇もまた、 

「即位の器量ではない」 とみなしていた(『愚管抄』)。 

百均のふたはさなれたままの首  阪本きりり

 

「そのかみ十余歳の時より今に至るまで、

  ”今様”を好みて怠ることなし」

≪雅仁は、十歳の頃からずっと「今様」が好きで、

   一日としておろそかにすることがなかった≫
 
遅々たる春の日は、

枝に開け庭に散る花を見、

鶯の鳴き郭公の語らふ
声にもその心を得、

粛々たる秋夜、

月をもてあそび、虫の声々にあはれを添へ、

夏は暑く冬は寒きをかへりみず、

四季につけて折りに嫌はず、

昼はひねもすうたひ暮らし、

夜はよもすがらうたひ、明かさぬ夜はなかりき。 

待ち合いに広がる摂氏23度の空  酒井かがり 

 

(春は花を見ては、あるいは鶯や郭公の声に感興を呼び起こし、

  秋は月や虫の声に、夏はどんなに暑くとも、

  冬はどんなに寒くとも、昼は一日中、

   夜は一晩中歌い明かしている)

 

羽毛のアダージョとレム睡眠に酔う  山口ろっぱ

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『梁塵秘抄口伝集』ー雅仁親王

" 昼は一日中歌い暮らし、夜は一晩中歌い明かした。

  声が出なくなったことは三回あり、

  その内二回は、喉が腫れて、

  湯や水を通すのもつらいほどだった。

  待賢門院が亡くなって、五十日を過ぎた頃、

  崇徳院が、同じ御所に住むように仰せられた。 

  あまりに近くで、遠慮もあったが、

  今様が好きでたまらなかったので、

  前と同じように毎夜歌った。

  鳥羽殿にいた頃は、五十日ほど歌い明かし、

  東三条殿では船に乗って、人を集めて四十日余り、

  日の出まで毎夜音楽の遊びをした」

 

と自らも記している。" 

悪癖は星に行ったり帰ったり  くんじろう

 

「今様」に遊び更ける雅仁親王の遊び相手には、

源資賢・藤原季兼がいたが、

他にも、京の男女、端者(はしたもの)、雑仕(ぞうし)、

江口・神崎の遊女、傀儡子(くぐつ)など、

幅広い階層に及んだという。

 今様=田楽・猿楽などの庶民の雑芸が、

     上流貴族の生活にも入り込み、

   催馬楽・朗詠に比べて,自由な表現をする遊びが盛んとなっていた。

ご先祖のわたしと遊ぶ猿の檻  有田一央

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「遊びをせむとや生れけん」

「作品紹介」

これまで文学としてのみ扱われていた平安時代の、

流行歌集・『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』の詞章に、

世界の民族音楽のエッセンスを取り入れた

独創的な音楽をつけて、

現代によみがえらせた桃山晴衣の伝説の作品。

美しく楽しい夢幻世界の響き。

シルクロードの世界、

ペルシャの撥弦楽器、セタールにまで遡る三味線の系譜、

そして古代の音。

この三つの柱から紡ぎ出された「生命の讃歌」を携え、

桃山晴衣が、

日本全国・百十箇所を廻ったコンサート・ツアーは、

大きな話題となり、

新しく自由な音楽と文化を求める聴衆たちから、

熱く迎えられた。

平安の「今様」をしる機会のために。 

朽ち果てる刹那に燃ゆる赤い糸  小嶋くまひこ

 

拍手[6回]

曲尺で測る鯨の鼻の下  藤井孝作

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              日宋船

平安時代末期は仏教でいう、

仏の教えが行われない「末法」の世とされ、

世の中は、乱れる一方と考えられていた。

そんな人々が、先行きに希望の持てない時代にあって、

清盛は確かな希望を見据えていた。

その視線の先にあったのは、「海」 

少し待てば五段活用いたします  山口ろっぱ

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      日宋貿易

備前守であった父・忠盛に従い、

若き日の清盛は、西国の「海賊討伐」に力を尽くした。

当時の海賊たちは、

普段は、「海上運輸」に従事する者たちであった。

その中で、朝廷の意のままにならない武装した者が、

「海賊」として、討伐の対象となったのである。 

対極の悲哀に天の林とも  きゅういち

 

忠盛・清盛親子は、彼らを平定するとともに、

主従関係を結ぶことによって、

西国で勢力を拡げていく。

やがて西国で清盛は、

生涯の志を託すに足る事業を見出す。

「日宋貿易」である。 

揺らす風ならば揺られてもみようか  下谷憲子

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  日宋貿易の出土品

当時中国との交易は、

大宰府で朝廷の貴族のためにのみ、行われていた。

中国の珍しい宝物を、収集するための交易であった。

これに注目した忠盛・清盛父子は、

大宰府以外の地で、この貿易に乗り出し、

次第に大きな富を築いていった。 

たてよこななめ桃源の風通し  山本早苗

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      陶磁器

ここで平安貴族たちであれば、

富を元手に「権門」に取り入るか、

奢侈に流れた生活を謳歌したことだろう。

しかし、武士である平氏は、

武家の棟梁としての、地位を固める道を選んだ。

そのことは皇室・摂関家・源平両氏が入り乱れて争った、

「保元・平治の乱」での清盛の存在感を見れば、

明らかである。 

※ 権門=権力・勢力のある家

 

うわずみの灰汁に命をためされる  皆本 雅

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       宋 銭

源氏より大きな武力を持った清盛は、

二つの大乱において、

勝敗の行方を左右するキャッチング・ボードを握った。

平家の武力が、

そこまで大きなものとなったのは、

「日宋貿易」による富があったからである。

宝石箱になるハコフグの系図  井上一筒

拍手[2回]

石ころと本気で対話する男  嶋澤喜八郎

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平安遷都を指揮する桓武天皇

"泣くよウグイス"で知られる平安遷都。

桓武天皇、わずか10年で長岡京を廃し、

794年、京都へ遷座した。

実はこの遷都は、早良親王の怨霊から逃れるために、

挙行されたと伝わる。

ウソのような話だが、当時の人々は、

真剣にたたりを信じていたのだ。

≪桓武天皇は晩年、

    早良親王の霊を鎮めるために崇道天皇の称号を贈り、

    その遺骨を大和に改葬して正式な天皇陵に指定した≫

この後、平安時代は、400年の歴史を刻むことになる。 

三寒四温きょうは愉快なほうである  岡田陽一

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「摂関政治」

平安時代に登場した「摂関政治」というのは、

天皇の外戚が、摂政や関白の地位について、

天皇の後見として、一切の政務を代行するシステムである。

とくに「摂政」は、天皇が幼少であったり、

女帝である際にもうけられ、

聖徳太子、中大兄皇子のように、

皇太子があてられるのが通例だった。

だが、貞観8年(866)、

清和天皇の外祖父・藤原良房がはじめて「摂政」につき、

息子・基経に継承されて、

藤原北家による実質的な「摂関政治」が、

11世紀末まで、150年以上にわたって続いた。 

動物園から春の欠伸がもれてくる  山本昌乃

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ところで、「摂政・関白」に就任するには、

天皇の外戚であることが、必要条件だった。

だから、なんとしても、

娘を天皇の妻としなければならなかった。

ゆえに、愛娘には紫式部清少納言のような、

優秀な家庭教師をつけ、最高の教養を身につけさせて、

天皇が気に入るような妻女に育て上げた。 

乾いても一人で飛べぬ濡れ落葉  田中荘介

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摂関政治の全盛は、藤原道長の時代である。

彼は運のいい男だった。

摂関職にあった兼家の四男で、

普通なら実権を握るのは困難なのだが、

兄たちが次々と伝染病で没したうえ、

兄の娘たちに皇子がいなかったため、間際をぬって、

娘の彰子一条天皇の中宮とすることに成功、

幸運にも皇子(後一条天皇)を得て、外戚となったのである。 

ひざまずくたったひとつの林檎のために  小嶋くまひこ

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       道 長

 

続いて道長は、妍子(けんし)後三条天皇へ、

威子(いし)後一条天皇

嬉子(きし)後朱雀天皇へと、

なんと四娘を皇后にすえるという、
前代未聞のことを成しとげ、

約30年もの間、比類なき権力者となった。

"この世をば我が世とぞ思う望月の欠けたることもなしと思えば"

≪余談だが、紫式部は道長の愛人であったという噂があり、

   道長が光源氏のモデルであったとされる≫

心配をお尻に敷くと気が楽に  桶爪良紀

「院政へ」

摂関時代は、天皇の外戚である「藤原摂関家」が、

次期天皇の決定を左右してきたが、

白河法皇の父・後三条天皇は、母も天皇出身だったため、

自身の手で次期天皇を決め、譲位することができた。

白河法皇はそれに倣い、次期天皇を決めてから譲位し、

幼い天皇を後見する「法皇」として、

国政を司るようになった。

こうして、国政の主導権は、藤原摂関家から、

院に移ることになる。 

葬列はキシリトールを漂わせ  くんじろう
 

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「大饗」とは、藤原忠通邸で氏催された大饗図

≪大饗とは、摂関家が正月2日に

 親王・大臣以下の公卿・殿上人を自邸に招く慣例の儀式≫

 

もっとも、これで藤原摂関家が没落したわけでなく、

政治力をやや低下させたものの、

天皇家に次ぐ「権門」としての地位は、確保していた。

藤原道長から数えて、三代後の師道(もろみち)の没後、

藤原忠実が内覧、氏の長者となる。 

麦の穂病室にまでのびてゆく  湊 圭史

 

忠実は、「院政」という新たな政治形態にあわせ、

摂関家を天皇家の外戚として権力を握る「権門」から、

「摂政・関白」を世襲する最大の公家へと、

再構築していった。

忠実は、鳥羽天皇のときの「摂政」・「関白」。

≪保元元年(1120)、白河上皇の勅勘をうけ内覧を停止された。

    天承元年(1131)勅勘を許され、翌年内覧の宣旨を受けている≫

仏壇へ千秋楽の永久歯  岩根彰子

摂関家の家領・荘園の獲得と、荘園群の編成、

家政機関や家内法(公家法)の整備、

摂関家に仕える武者を、独自に武力編成するばど、

独立した勢力として、動ける「権門」につくりかえていった。 

ウニ丼に付き添ってきたポセイドン  井上一筒

 

河内源氏・源為義は、伊勢平氏の平正盛・忠盛が、

白河、鳥羽院政と結んで、

勢力を拡大していくのに対抗し、

摂関家の武力として、子どもらを地方に派遣し、

諸国で重代の家人を組織していこうとした。 

一本の黒髪たどる水になるまで  増田えんじぇる

 

この動きのなかで、忠実は、

中庸の道をあゆむ嫡子・忠通より、

狷介だが、才能豊かな頼長に目を掛け、

頼長に摂政・関白・氏長者を、譲らせることを考えた。 

遺言に全部きみへと書くからね  高橋謡子

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    藤原忠通

藤原忠実の長子に忠通

母は右大臣・源顕房〔あきふさ)の娘。

摂関家の嗣子として、19歳で内大臣に任ぜられ、

保安元年、父にかわって関白となる。

法性寺(ほうしょうじ)関白と称された。

父の忠実が勅勘を許され、内覧の宣旨を受けると、

父子の不和が目立つようになる。 

右半身の真空パック承る  蟹口和枝

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     藤原頼長

二男・頼長は、宇治の左大臣「悪左府」と称される。

母は、藤原盛実の娘。

父の期待を一身に集め、父・忠実の尽力により、

29歳で従一位に至った。

忠実は頼長のほうを偏愛したため、

もともと不仲だった兄と弟の間に、

入内競争と家督争いが、表面化していく。

久安6年(1150)、

忠実が忠通から家督を剥奪して、

頼長に与え、両者の対立は決定的となる。

甲冑の中に届いている夕日  たむらあきこ

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