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川柳的逍遥 人の世の一家言
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アオリイカという大前提を越え  井上一筒

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     延暦寺

≪比叡山には、延暦寺という名の建物はなく、

   比叡山そのものが、「延暦寺」を表わしている≫

「賀茂川の水 双六の賽 山法師 是ぞわが心にかなわぬもの」

白河法皇は嘆いた。

山法師とは、「比叡山の衆徒」を指し、

事あるごとに日吉山王の神輿を担ぎ出し、

その権威を借りて院に「強訴」に及び、

乱暴狼藉を働く者どもであった。 

S字に触れて無色の溜息がにじむ  きゅういち

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  山法師強訴図屏風

そして、後白河院清盛の政治対立をまで生む、

『強訴』とは、どのようなものだったのだろうか。

強訴とは、各寺院の権益を守るために、

武装した僧侶たちが、朝廷・院におしかける行動である。

彼らは武装してはいるものの、合戦をするわけではなく、

延暦寺は、「日枝神社の神輿、興福寺は春日社の神木」

といった宗教的権威を前面に押し立てて、

院や朝廷に、圧力を加えるという行動であった。 

雪虫は信号無視の素振りする  岩根彰子

 

その要求の大半は、寺領の荘園にかかわるもので、

" 受領に没収された荘園の返還 "、

あるいは、荘民を死傷させられたとして、

" 受領の処罰を求める " というもので、

不法な荘園に関する理不尽な要求も、少なくなかった。

このため、当初、朝廷は厳しい対応を示した。 

宇宙の藻屑ムササビ飛び交って  富山やよい

 

強訴が政治問題となった嘉保2年(1095)、

源義綱義家の弟)が、

延暦寺の不法な荘園を、朝廷の命で没収した際、

流れ矢が原因で、僧侶に死者が出た。

このため、延暦寺の悪僧たちは、

日枝神社の神輿を先頭に、義綱の配流を

要求する強訴をおこなった。 

蒼天割れて十戒ごっこ教えあう  兵頭全郎

 

これに激怒した時の関白・藤原師道は、

武士を動員して強訴を撃退したが、

その師道は、何と4年後に急死してしまう。

この急死が、" 神輿の祟り " と喧伝されたことから、

強訴はいっそう激化し、逆に朝廷は、

すっかり弱腰になってしまった。 

ぐにゃぐにゃのジャングルジムがぽっと点く 井上しのぶ

 

その後は、防御に動員された武士も、

原則として、手出しすることを禁じられ、

延暦寺なら賀茂川、興福寺なら宇治川に、

防御線を設けて、侵入を防ぐことになる。

合戦ではないとないえ、

防御には、多くの武士が必要であったことから、

北面をはじめとして、

武士が増大する一因ともなった。 

まだ虹を喪うまえの物語  中野六助

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    強訴図屏風

清盛が生まれた同じ年、

元永元年(1118)5月の「延暦寺強訴」に対し、

白河院は北面以下、千人もの武士を派遣している。

伊勢平氏と強訴は、いろいろと因縁がある。

正盛・忠盛は、たびたび、強訴の防御に動員されているが、

その忠盛と清盛も「祇園社の闘乱事件」が原因となって、

延暦寺から配流を要求され、

あわや強訴という危機に直面している。 

とばっちり冬の蔦にも絡まれる  山本早苗

 

後白河院政期には、

延暦寺が、
院近臣の配流を要求する強訴を惹起し、

大きな政治問題となった。

清盛や平氏一門の多くは、

防御に消極的で、
後白河との対立を招くことになる。

そして、安元3年の強訴をめぐる院と清盛との対立が、

ついに、院や院近臣たちによる「平氏打倒」の謀議を生み、

「鹿ケ谷事件」を引き起こすことになるのである。

結末は口をそろえてそら豆の  酒井かがり

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筆順はどうあれ薔薇は愛である  森田律子

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八幡太郎義家(月岡芳年)

義家、「清和源氏」に発する「河内源氏」の嫡流として、

7歳の時、岩清水八幡宮で元服、

よって八幡太郎と号す。

「前九年の役」・「後三年の役」で、

卓抜した武勇をあらわした公の代に、

源氏の武威の最盛期を迎えた。

"鷲の棲む深山には、概ての鳥は棲むものか、

              同じき源氏と申せども、八幡太郎は恐ろしや"

                                                       後白河法皇・『梁塵秘抄』

有名になりたいですか はい少し  笠原道子

【源氏系図】

50.桓武天皇 ┬ 万多親王──桓武平氏
                      ├ 葛原親王──桓武平氏
51.平城天皇

52.嵯峨天皇┬54.仁明天皇 ┬ 55.文徳天皇  ────┐
53.淳和天皇                          ├本康親王─仁明平氏
                      ├嵯峨源氏                             
                      ├仁明源氏                
                                      ┌────────────────┘
                                      └┬56.清和天皇─┬ 57.陽成天皇
                                                                     ─陽成源氏
                                                  ├貞純親王─清和源氏


百匹の蟻を数えたことがない  前中知栄

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     源為朝

「源氏のルーツ」

源氏は、光仁5年(814)、

嵯峨天皇が,諸皇子を臣籍に降下させ、

「源」の姓を賜ったことに始まる。

以後、仁明・文徳・清和・陽成・光孝・宇多・醍醐・村上・

花山・三条ら、
各天皇も皇子たちに「源の姓」を与えたので、

多くの源氏が生まれることになった。

≪平安時代、天皇家の血筋を絶やさないように、

皇子が多く設けた事が、朝廷の財政を圧迫したため、

皇位を継ぐ可能性が無くなった皇子を、

皇籍を離れさせ、臣籍に下すということが行われた。

この際に源朝臣」や「平朝臣」の氏姓を賜った≫

生まれ変わるつもりなのか綿埃り  酒井かがり

これらを区別するために、

それぞれ天皇名を冠して呼称しているが、

源氏諸流のうち、貴族社会でもっとも興隆したのは、

平安前期の「嵯峨源氏」と、

平安後期の「村上源氏」といえる。

これに対して、

「清和源氏」は、貴族社会での栄達よりも、

「武士」として、発展する道を選んだ。 

つぎの世へ転がしてゆく青林檎  大西泰世
 
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    源為義

「清和源氏」

源頼朝木曾義仲な血筋である「清和源氏」は、

清和天皇の孫で

「平将門の乱」
「藤原純友の乱」で活躍した

経基王(つねもとおう)「源経基」に始まる。

その子・満仲や孫の頼光は摂津を、

頼信は河内を拠点として、

それぞれ「摂津源氏」・「河内源氏」の祖となった。 

転居届け壁と呼ばれた男から  くんじろう

 

源氏と東国とのかかわりは、頼信の時代に始まる。

11世紀初頭に関東で起きた「平忠常の乱」を、

短期間で鎮圧して武名をあげ、

源氏の関東進出の土壌をつくった。

その子・頼義、「前九年の役」を平定、

頼義の子・義家,「後三年の役」を主導したが、

この過程で東国の武士団の多くが、

頼義・義家と、主従関係を結んだといわれる。

頼朝が伊豆で旗揚げし、瞬く間に関東を席巻する素地は、

    この時代に育まれた≫

骨拾う箸がことさら手に馴染む  桑原伸吉

河内源氏を中心に「清和源氏」が繁栄する一方で、

「伊勢平氏」は、維衡の子や孫の代になると、

勢いがなくなり、
上流貴族に仕える、

侍や、中央官庁の三等官程度の地位に低迷していた。 

≪この時代の侍は、高級貴族に仕える「六位クラス」の官人をいう≫

 

五位以上の位階をもつ人が、「貴族」だから、

一般庶民よりも、少し身分が高い程度だ。

平氏にとっては、まさに雌状の時代といえる。 

酸欠の青大将であった頃  井上一筒

 

源氏と平氏の地位を逆転させたのが、

清盛の祖父・正盛であった。

源義家の嫡子・義親が出雲で反乱を起こすと、

隣国因幡守として、義親の追討をみごとに果たし、

一躍武門のトップに踊り出たのである。

一方、源氏の惣領は義親の子・為義が継いだが、

粗暴なふるまいが多かったため、

受領にすらなれず、義朝が棟梁になったときには、

すでに平氏との差は、

抜きがたいものになっていた。 

理想って追わねば目減りするらしい  南出トシ

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『余談-①』

平氏には、桓武平氏・仁明平氏・光孝平氏・文徳平氏の

4流があり、
桓武平氏の他、仁明平氏から、

公卿を輩出している。

また、桓武天皇以外の三者からは、

「源」も賜与されている。

平姓は、平安遷都を行った桓武天皇以降、

四代にのみに見られるので、「平」という字は、

平安京に由来しているともいわれている。 

終着駅四角い顔の人ばかり  原 洋志

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      源義朝

 

『余談ー②』

源義朝は、東国の鎌倉を基盤に勢力を固めてきたが、

嫡子の義平に後事を託して、京都に戻ってきている。

保元の乱では、父・為義や弟たちが崇徳院について、

処刑されてしまったために、

義朝が「河内源氏」の嫡流の位置を占めた。 

ひょうたんから馬が飛び出す量子論  藤本秋声

 

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生きていた証 地べた一面  くんじろう

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    平将門

清盛の妻は2人がわかっている。

最初の妻は、右近衛将監・高階基章の娘・明子という。

保延4年(1138)、清盛22歳の時、

清盛後の平家を背負って立つ逸材として、

期待された長男・重盛を生み、

年子で次男・基盛を生んでいる。

このころの清盛は、23歳で従四位に叙され、

仕事にも家庭にも恵まれ、充実した家庭を送っていた。 

ハンカチでつまむとあなたてるてる坊主  小林満寿夫

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しかし、次男・基盛を生んでまもなく、

明子は病に倒れ早世する。

清盛の初めて恋心をおぼえた相手でもあり、

心底から愛した明子であっただけに、

清盛の悲しみは、いかばかりのものであったか。

ただ、明白に言えることは、

父の身分がそれほど高くないので、

生きていても、
正室の地位に、

とどまっていたかどうかはわからない。

≪次男・基盛は23歳で早世しており、

  兄・重盛と違い、その活躍の記録はほとんど分からない≫

だいこんに忍び笑いの癖がある  牧浦完次

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明子の死後、清盛の正室となったのが時子である。

太治元年(1126)生まれだから、

清盛の8歳年下になる。

清盛と同じ「桓武平氏」ではあるが、

時子の家系は、高棟王流の「公家平氏」である。 

立ち位置を変えて入り日にまた出会う  笠原道子

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   平正盛

「桓武平氏」

平忠盛、清盛たちの血筋を「桓武平氏」という。

桓武平氏とは、桓武天皇の皇子の子孫のうち、

平姓を賜り、「天皇の臣下になった家」 のことである。
                                                  
桓武平氏には、いくつかの流れがあるが、

最も有名なのが、

桓武の第三皇子・葛原(かずらわら)親王の系統である。

そのうち長男・高棟王(たかむねおう)の子孫は、

京の宮廷貴族として栄え、

「公家平氏」「堂上平氏」などと呼ばれる。

清盛の妻・時子は、この血筋を引いている。 

友だちを沢山もっている音だ  森中惠美子

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一方、

忠盛・清盛が輩出した武家平氏の祖となったのが、

高棟王の弟の高見王(たかみおう)の子、

高望王(たかもちおう)である。

武勇にすぐれていた高望王は、

「平姓」を与えられ平高望になると、

九世紀末ころ上総介(かずさのすけ)に任じられて関東に下った。

当時、坂東では、徒党を組んで、

盗賊行為を働く群党の蜂起が問題になっており、

天皇家出身という血統と、武勇をあわせもつ高望に、

その鎮圧が期待されていたといわれる。 

卍から卍を盗み見る角度  井上一筒

 

やがて、高望の子孫は、

常陸や下総、武蔵など関東各地に土着し

「坂東平氏」として繁栄した。

後世、鎌倉幕府の御家人として名をはせる、

千葉、三浦、上総、大庭などは、その末裔である。 

面影はいつも笑顔で現れる  河村啓子

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     納 経

東国は、源氏のふるさとのように思われがちだが、

武士の勃興期にあっては、

平氏こそが坂東の覇者だったのだ。

「桓武平氏」に転機をもたらしたのは、

十世紀に勃発した「平将門の乱」であった。

高望の孫である将門が、

常陸や上野(こうずけ)で、大規模な反乱を起こすと、

鎮圧に功をあげた従兄弟の貞盛は、

従五位上に叙され、

その子供たちも朝廷の官位をもらい、

桓武平氏が中央軍事貴族として、

繁栄する足掛かりを得た。 

臨海を見るまで磨く大ふぐり  上野勝彦

 

このうち貞盛の子で伊勢を拠点とした維衡(これひら)は、

藤原道長など、中央の上流貴族に奉仕しつつ、

常陸や下野(しものつけ)、伊勢の受領を歴任して、

力を蓄えた。

この維衡こそ、「伊勢平氏」の祖といわれる人物であり、

正盛の曽祖父にあたる。 

場所としてアシタが見える筈ですが  山口ろっぱ

 

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美しい死語を女は抱いている  森中惠美子

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       美福門院得子

「保元物語」で、美福門院得子は、

「鳥羽院をたぶらかして世を乱させた悪女」

と書かれている。

≪この肖像画も悪意があるのか,かなりきつい顔を描かれている≫


前向きに生きた女の意地を言う  長谷川きよ子

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   鳥羽上皇

「美福門院得子」

美福門院得子は、永久5年(1117年)に生まれ、

父は藤原長実

長実は、祖母・藤原親子(ちかこ)が、

白河上皇 “ 唯一人の乳母 ” であったことから、

白河院政期には、院の判官代や別当を務めるなど、

院の近臣(権中納言)に名を連ねた。

母は左大臣・源俊房の女、方子。 

裏表開けて私と風の道  原田久枝

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               長 秋 記

 

上向き指向の長実は、愛してやまない得子を 

「ただ人にはえゆるさじ」 

 

(そんじょそこらの男なんかには嫁にやらない)

と語り (『今鏡』)、

臨終の間際には、

「最愛の女子一人の事、片時も忘るゝなし」

と落涙したという。(『長秋記』) 

わが死後を思うは自由日向ぼこ  大西泰世

 

父の死後は、二条万里小路亭で暮らしていたが、

以前から美しいという評判の得子に、

鳥羽院が関心を持ち、

長実の喪が明けるや、彼女に手紙を書き、 

「隠れつつ参り給ひける」
 
ようになり、  

「やや朝まつりごとも、怠らせ給ふさま」 

 

(ややもすると、政務もおろそかにする)

ほどだったという。 

いつも唯笑って君の傍にいる  森吉留里

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鳥羽上皇の寵愛を受け、

まもなく得子が、男児(体仁親王)を産むと、

御所内は、
恨みと憎しみが絡まって、カオスの森と化す。

白河の愛妾・璋子と叔父子と呼ぶ崇徳を冷視する鳥羽上皇

鳥羽に疎まれ、なかなか政治の実権を握れない崇徳天皇

白河と鳥羽に翻弄されつづける待賢門院璋子

国母の座を狙い野望すさまじい美福門院得子

まさに四角関係の醜い争いになっていく。  

雪憎しみて雪に似て兎死す  阪本きりり

  

鳥羽は21歳で上皇となり、

憤怒の炎を燃やす日々を送ったが、

それから6年後、40年余りにわたって院政を敷き、

独裁者として君臨してきた白河が、

77歳で亡くなると、
崇徳帝はまだ幼く、

鳥羽が、院政を引き継いで、

権力を掌握したのは言うまでもない。 

写生する人と重ねる遠い声  富山やよい

 

そして、ここから鳥羽の報復が始まった。

璋子は、入内した後も朝廷人や誰彼との浮名を流し、

鳥羽の愛情は得子へと傾いていった。

その得子が産んだ近衛が三歳になると、

鳥羽は、自分が白河にされたと同じように、

崇徳に譲位を迫り、 

「近衛を崇徳の養子の形にする」 と説得して即位させた。

従って、崇徳は新帝の父親格で、上皇になったと思い、

院政への道が開けたと喜んだ。 

三月の雲菜の花の匂いする  墨作二郎

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「恨みが恨みに帰る」

璋子は17歳で鳥羽のもとに入内し、

翌年、崇徳を産んだものの、

ほどなく、これが白河の子と明らかになり、

驚愕の噂が京を走った。

白河はこの" ひ孫 "に対して、

異常なほどの偏愛ぶりをみせ、 

崇徳が5歳になると、鳥羽に譲位を迫って即位させた。 

 

黒色火薬砂嘴種馬の蹄  井上一筒

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「得子の権勢」

永治元年(1141)12月7日、

鳥羽は崇徳に譲位を迫り、

体仁親王(近衛天皇)を即位させた

体仁親王は、崇徳帝の中宮・藤原聖子の養子であり、

「皇太子」のはずだったが、

譲位の宣命には「皇太弟」と記されていた。(『愚管抄』)

天皇が弟では、将来の院政は不可能であり、

崇徳帝にとって、この譲位は大きな遺恨となった。 

目隠しをされて大根曲がりだす  谷垣郁郎

 

近衛帝即位の同年、

得子は、「国母」であることから皇后に立てられる。

皇后宮大夫には源雅定

権大夫には藤原成通が就任した。

得子の周囲には、

従兄弟で鳥羽上皇第一の寵臣である藤原家成や、

縁戚関係にある「村上源氏」、

中御門流の「公卿」が集結して、

政治勢力を形成することになる。 

二歩三歩後ずさる軽薄な展望  山口ろっぱ

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待賢門院彰子

 

翌年の永治2年正月19日、

台頭する得子の陰で、すっかり権勢を失った璋子は、

これまでの自身の振る舞いを省み、

堀河局らとともに仏門に入る。

得子の地位は、磐石なものとなり、

久安5年(1149)8月3日、

「美福門院」の院号を宣下された。 

塩辛い水になってしまわれた  井上しのぶ

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"身を捨つる人はまことに捨つるかは 捨てぬ人こそ捨つるなりけり"

勅撰和歌集に「詠み人しらず」として収められた西行の歌。

大意は、

身を捨てても(出家しても)、

その人は本当に世を捨てたことにはならない。

捨てないで、世に残っている人のほうが、

真に世を捨てたことになるのだ。

清盛はこの歌を崇徳帝の前で読み、

北面の武士として成功しながらも、

世(政)をはかなんで、

出家の道を選んだ佐藤義清の心情を代弁する。 

美男子と好男子の差を剃りあとに  森中惠美子

 

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抽象画吊るす迷路の入り口に  嶋澤喜八郎

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   沙羅双樹ー1 

 

仏教では、自分の寿命を悟った釈尊は、

「形あるものは必ずこわれ、生あるものは死ななければならない」

と最後の説法をして、

沙羅双樹の下で、涅槃に入ったとされている。

  

人は皆何時かは一人 林檎剥く  吉川幸子

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  沙羅双樹-2

「平家物語ー①」

「生者必滅」の言葉で、綴られてきた『平家物語』は、

作者の意識で、いつの頃のころからか、

「盛者必衰」に書きかえられ、 

"祇園精舎の鐘の声  諸行無常の響きあり

  沙羅双樹の花の色   盛者必衰の理をあらわす

  おごれる人も久しからず   ただ春の夜の夢のごとし

  たけき者もついには滅びぬ   偏に風の前の塵に同じ "

 

という誰もが知っている書き出しで、いまに伝わる。 

沙羅の花いつもこぼれてしまう恋  たむらあきこ

 

物語は、十三世紀初頭に生まれ、

琵琶法師たちによって、語り継がれた「語り本」と、

物語として読むことを目的に作られた「読み本」に分けられる。

内容には、ともに「祇園精舎の鐘の声」で始まる。

今日、文庫本や文学全集などで、

一般的に読まれているのは、前者である。 

切り口は鋭角 春は定位置に  森田律子

 

「語り本」は、

平家嫡流・六代維盛の子)の処刑で幕を閉じ、

全体的に「平家滅亡の物語」という性格が強い。

一方、「読み本」は、

関東における源頼朝の動向に詳しく、

「頼朝の世の到来を喜んで終わる」というふうに、

源平の抗争や源氏政権樹立に、軸足がおかれている。 

※ ≪「覚一本」、「延慶本」、「源平盛衰記」≫

 

パプリカの定理を喋り過ぎる赤  くんじろう

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平家物語を普及する琵琶法師

『覚一本』最も有名な琵琶法師の権威書、

室町時代の初期、琵琶法師たちは、

「平家物語」を弾き語るコトで生活をしていた。

しかし、 

「琵琶法師の数だけ、平家物語を語る人がおれば、

どれが正しい平家物語なのか、後世の人は混乱するだろう」

 

と懸念した足利尊氏の従兄弟・明石覚一(検校)が

足利家の支援を受けながら、

琵琶法師の組織を立ち上げ、
その長として弟子たちに、

口述筆記の形で「平家物語」を一冊の本にまとめさせた。

これが「覚一本」である。 

※ ≪琵琶法師=職業的名称で、琵琶を弾く盲目僧≫

 

(この様な経緯があって、

この本には、平家物語の正当な本としての権威がつき、

平家物語といえば殆どが、この本を指すようになる)

高炉から出したばかりの琵琶法師  井上一筒

 

『延慶本』平家物語中、最も古い本

延慶二年(1309)夏から約一年の期間を要し、

高野山・根来寺で筆写された。 

綿ぼこり積もってなぐさめられている  岩田多佳子

 

『源平盛衰記』源氏、平家の盛衰興亡を著した軍記物語

「語り物」として流布した『平家物語』に対し、

「読ませる事」に力点を置かれた「盛衰記」は、

平家物語を下敷きに改修されたもので、

源氏側の加筆、本筋から外れた挿話が多く、

冗長さと加筆から生じる、矛盾が多々ある。

≪ただ、「読み物」としての様々な説話の豊富さから、

   後世の文芸への影響は大きい)

しゃきしゃきと嘘の上塗り胡瓜もみ  岩根彰子

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   平家物語絵巻

ともかく、「平家物語」ほど、謎の多い古典はない。

「何時、誰が、どのような目的でつくったのか?」

ほとんど解っていない。

13世紀頃と推測されるが、正確な成立時期も不明である。

もっとも古い記録では、

延応2年(1240)『治承物語 六局号平家』

正元元年(1259)『平家物語 合八帖本』 

13世紀半ば、『原・平家物語』

これらのものをテキストにしたのかどうか、確証はない。 

さくらさくら確かなことは分からない  清水すみれ

 

「作者はいったい誰か?」

『徒然草』で紹介されている信濃前司・行長が本命といわれる。

朝廷で恥をかいたことから出家し、

天台座主・慈円の世話を受けていた行長が、

平家の物語をつくって、  

「盲目の生仏に語らせた」  のが始まりであるとするが、

もちろんこれも、決定的な証拠があるわけではない。

≪この世に生存する総ての者は、何時かは必ず滅びる

  という「生者必滅」の原文を、行長が「盛者必衰」に替えたという話がある≫

真四角になりたがってる楕円形  合田瑠美子

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琵琶法師ー蝉丸

「盛者必衰」

祇園精舎にある鐘の音は、

諸行無常の教えを唱えるかのごとくに鳴り響きます。

釈迦入滅の時に白色に変じたという、

沙羅双樹の花の色は、

あたかも盛者必衰の道理を表しているかのように思えます。

驕り高ぶった人も、

いつまでも驕りにふけっていることはできません。

耳の奥ほら潮騒が聞えてる  河村啓子

それはあたかも春の夜の夢のように儚いものです。

勇猛な者でさえ、ついには滅びてしまうものです。

それはあたかも、風の前の塵のようなものです。

遠く外国の古例を捜し挙げてみると、

秦の趙高、漢の王莽、梁の朱昇、唐の安禄山、

これらの人々は皆、

旧主先皇の政治に従わず快楽を極め、

他人の諫言を真剣に聞こうとせず、

このままでは天下が乱れてしまうということを、

予測しませんでした。

タマシイノモロサ飴細工の危うさ  山口ろっぱ

また、嘆き、悲しみ、憂い、戸惑う民衆を、

顧みなかったので、

末永く栄華を続けることができませんでした。

そしていつしか、

滅びてしまった人たちでありました。

※ 「生者必滅」=この世に生存する総ての者は、何時かは必ず滅びる。

" これやこの行くも帰るもわかれては しるもしらぬも逢坂の関 "

                                                             百人一首・10番 蝉丸

花冷えのましてや拭いきれぬもの  山本芳男

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【蛇足】-琵琶法師
                        
琵琶法師の組織は、全国各地にあり、

時の権力者は、それに保護を与え育成した上、

「検校」という階位も与えた。

保護を与えた理由の一つは、

当時は都の情報を地方に伝え、

地方の情報を、都へ吸い上げる手段が少なく、

琵琶法師を、情報発信と収集の手段として、

権力者が、利用したものと考えられている。

≪その政策は、江戸時代まで続いたが、明治になって、

   保護政策が廃止され、、琵琶法師も衰退する≫

情報のひとつに入れる鮭の貌  筒井祥文

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