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川柳的逍遥 人の世の一家言
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逢えぬとや同じハガキが二枚くる  森中惠美子

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平時子が夢とあこがれる源氏の君の物語

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小柴垣のもとに立ち寄り庵の様子を垣間見た

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子どもたちが遊んでいる

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その中にいる十歳くらいと見える少女

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ほかの子どもたちとはくらべものにならず

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さてぞ美しいおとなになるであろう容貌をしている

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どうしたのですか けんかでもなさったのですか

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雀の子を大君が逃がしてしまったの

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伏篭の中に閉じ込めておいたのに・・・ 

私にとっても甘いわたしです  河村啓子

 

「光源氏ー秘話」

光源氏は、天皇の子で血統は最高。

しかもその名のように、まばゆいばかりの光彩を放つ、

この世に二人といない美男子。

だから連日、山のようなラブレターが届いたという、

「又文か、そこらへ置け」 と光君。

しかし、もてまくる光君も数のうち、たまには、

フラれることもある。 

危ない男の近くでうろうろしなさんな  中山おさむ

 

光君は、人妻の「空蝉」と深い関係に陥っていたが、

空蝉は夫にすまない気持ちから、光君を避けるようになる。

光君は意を決し、ある夜、空蝉の寝所に忍び込んだが、

彼女は察して逃げ去った後。

肩透かしを食らった光君、

やむなく、その場に寝ていた空蝉の養女の、

「軒端萩」(のきはたのはぎ)と一夜をすごした。 

かかわらぬ事に決めます寒椿  新川弘子

 

貴族崩壊の道へと導いた平安末期の「保元の乱」は、

"不倫" が原因といわれる。  

≪いわゆる平安時代は、源氏が物語るように、自由な文化を謳歌していた≫ 

 

しばらく、光が連絡を取らないでいると、

そのうち空蝉の方から、寄りを戻してきて、

また、心踊る不倫の日々となる。 

そしてまたドット・コムから元気かい  山本昌乃

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源氏物語屏風

 

「平安の女流文学時代」

清盛誕生の110年ほど前、

平安中期、女流文学の花が咲き誇る。

権力者たちは、

后にした自分の娘などに、教養をつけさせるために、

文学に秀でた女官を集め「サロン」を形成。

いわば、カルチャースクールの開講である。

これにより、教師の女官たちは、

切磋琢磨して高質な作品を作り上げた。

有名なところでは、百人一首にも選抜されている 

清少納言、紫式部、和泉式部、赤染衛門。

 

清女は早起き 紫女は宵っ張り  江戸川柳

清女は清少納言、紫女は紫式部のこと。

『枕草子』「春はあけぼの」から始まり、

紫式部は、琵琶湖畔の月の名所の石山寺で、

不朽の名作・『源氏物語』を書いたとされる。 

つややかに恋を走ってきた炎  たむらあきこ

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「紫式部」一条天皇の第三夫人・”彰子サロン"の一員。

ドラマ「清盛」の鳥羽天皇の正室・彰子は、

「たまこ」と読むが、こちらは、「しょうこ」と読ませる。

源氏物語が評判を呼び、

紫式部は、彰子の父・御堂関白・藤原道長から、

求められサロンに就職することになった。

寛弘2年(1005)の暮れのころのことである。

そこから約7年、宮仕え中に日記・『紫式部日記』を著し、

ついで、60帖にもわたる長編・「源氏物語」がうまれる。 









 

一篇の詩に魅せられてきた迷子  能津幸子

 

石山寺での式部の執筆を詠んだ江戸川柳は数々ある。 

紫の硯にかかる秋の月

「いしいし」と食べて明石に書きかかり

一割は雲隠れし物語  

 

≪7帖目・「明石」の帖から書き始めたと伝わっていることから、

   60帖ではなく、実際は54帖≫

百人一首・第57番 紫式部の"雲隠れ"にかかっている。

"めぐりあひて見しやそれともわかぬまに雲がくれにし夜半の月かな"

(久しぶりにめぐり合って、見たのがそれかどうかもわからないうちに、

  雲に隠れてしまった月のように、偶然に会った昔からの親しい人は、

  あわただしくお帰りになったことです)

いつだってあなとを追っている視線  勝又恭子

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「清少納言」は、

一条天皇の皇后・「定子(ていし)サロン」の一員。

彼女が書いた『枕草子』に、

有名な「香爐峰の雪」のエピソードがある。

雪が降ってきたので、皇后の定子が、

「香爐峰の雪は?」 と謎めいたことをいうと、

漢詩に詳しい清少納言は、

唐の白楽天の詩の「香爐峰の雪は簾をかかげて看る」

を知っていて、
黙って簾をあげたという。 

雪の謎解けて御簾を巻き上げる  江戸川柳

 

「自由の木」だったこめかみの本質  山口ろっぱ

枕草子は、機知に富んだ330段の長編エッセイ集。

”夜をこめて鳥のそら音ははかるともよに逢坂の関は許さじ”

〔夜の明ける前に、鳥を鳴かせて関守に門を開かせた計略は、

 知っているけれど、私の肉体の関所は、そう簡単に開きませんことよ〕

第62番・百人一首に採られた歌も、茶目っ気タップリで、

下心を持って訪ねてきた男友だちに、

中国の函谷関の故事を読み込み、

肘鉄をくらわしたときのことを、綴っている。

それに即座に食いついているのが江戸川柳で、 

関守は二度夜が明けて大騒ぎ

 

食いついてきたのはやはり外来魚  井上しのぶ

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「紫式部と清少納言の仲」

清少納言紫式部とのライバル関係は、

後世おもしろおかしく喧伝されているが、実際のところ、

紫式部が中宮・彰子に伺候した時期と、

清少納言が宮仕えした時期に、

2、3年のずれがあり2人に面識はない」ものと思われる。

≪長保2年(1000)に中宮定子が出産時に亡くなって、

   まもなく、清少納言は宮仕えを辞めているからだ≫

しかしなぜか紫式部は、

和泉式部赤染衛門には、好感を持っていたが、

清少納言は、あまり好きではなかったようにも伝わる。 

鏡の中の彼奴をどうにかしないと  黒田忠昭

 

清少納言は、才能が豊かで、前述のとおり、

男どもでもやり込めるような、勝気な女性。

≪枕草子の中にも、彼女の性格を如実に垣間見ることができる≫

何かというと、自分の才能を見せびらかす清少納言に対し、

紫式部は控えめで、

自分の才能を見せびらかすようなことはしない。

性格はまるで対極にある。

そんな清少納言の性格を、紫式部は、

嫌いだったのか、嫉妬したのか。 

十二単衣の下から三番目の手が  加納美津子

 

式部は日記に、 

「清少納言は。高慢な顔をして、まことにいやな女です。

利巧ぶって、いかにも学問に優れているようなことを、

言っているけれども、

よく見れば、まだまだ不充分な者です。

それなのに、なにかにつけ、

人とは違うところを表そうとばかりする。

 

そんな人は必ず、ぼろを出し、

やがては、ろくでもないことになるでしょう・・・」

と書いている。   

※ 『枕草子』=詩歌秀句、日常の観察、個人のことや人々の噂、

    記録の性質を持つ回想など、

    清少納言が平安の宮廷で過ごした頃を綴った随筆。

  

眼鏡より濁った目玉替えなさい  奥山晴生

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和泉式部紫式部と同じ「彰子サロン」の所属。

平安女流文学者中、美人度、好色度ナンバー1で、

関白・道長から大勢の前で、

「浮かれ女」とからかわれた女人。

人妻なのに複数のプリンスとのスキャンダルに始まり、

公家、僧侶から牛飼に至るまで、

言い寄る男を「もののあわれ」で、

包み込んだ肉体の天使だから、

江戸川柳の的に沢山なっていそうなものだが、

何故なのか、江戸の川柳子に人気がない。 

たんと出そうな名前和泉也  江戸川柳

 

四角四面紙風船にしてしまう  和田洋子

そんな中のエピソード、和泉の二番目の夫は、藤原保昌

保昌は、「新しい情夫はつくるなよ」と異見したものの、

和泉はどこ吹く風で男を漁りまくり。

それでも、保昌は根っからのお人好しだから、

洛内外の境の、九条あたりまで迎えにいったとか・・・。

とにかく、活発な和泉式部なのです。

≪不倫こそ文化≫と言いたげな、

平安のとんだ女丈夫であったようです。

"あらざらむこの世のほかの思い出に今ひとたびの逢うこともがな"

≪この世の思い出に、もう一度逢いたいのと、女心の未練を表白したのが

   和泉の百人一首歌≫

ここにも、ぬけぬけと・・・。 

マタタビのエキスを目薬に混ぜる  井上一筒

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赤染衛門 は、"あかぞめえもん" と読む。

藤原道長の正妻・源倫子と、その娘の上東門院・彰子に仕え、

紫式部、和泉式部とおなじサロンにいた。

紫・和泉・清少納言らと壁もなく、

また、和泉娘の小式部能因法師・喜撰法師らとも、

年の差関係なく、広く親交があり、

しとやかで、優しく、人に好かれる人であったようだ。 

生涯の今やもっとも一人静  大西泰世

 

女流歌人としては、和泉式部と並び称され、

和泉式部が情熱的な歌風なのに対して、

赤染衛門は、穏やかで典雅な歌風と評される。

百人一首・第59番 赤染衛門の歌から。

"やすらはで寝ましきものを小夜更けてかたぶくまでの月を見しかな"

≪ためらわずに寝てしまえばよかったのに、あなた様がおいでになると、

    おっしゃったので、とうとう夜更けまでお待ちして、

  西の空に月が傾くのを一人で見てしまったことです≫

三寒四温まだ咲いていた寒椿  籠島恵子

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ひよこまんじゅうの鉱脈を逆探知  井上一筒

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  常盤御前

「源義朝の妻」

義朝の女房といえる女性は、正式には4人いる。

この4人とも、義朝の子を為している。

義朝の長男・義平の母と次男・朝長の母、

そして、由良御前常盤御前である。 

相応に八丁味噌は恙無し  岩根彰子

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「正妻は由良御前」

由良姫の父は、熱田大宮司・藤原季範

長姉は、待賢門院の娘・上西門院・統子の女官。

次姉は、待賢門院に仕え、

由良姫自身も上西門院に仕えていたと伝えられている。

大宮司職は、代々尾張氏が務めていたが、

平安時代後期に尾張員職の外孫で、

藤原南家の藤原季範に、
その職が譲られた。 

※ 熱田神社は、

    
スサオウノミコト「八岐の大蛇」の尾から取り出したという、

     「三種の神器」のうちの一つ、"草薙の剣"が置かれ、

      伊勢神宮に次いで、権威ある神社として栄えた。

 

アジトにするなら総天然色図鑑  酒井かがり

尾張の一ノ宮・熱田神宮の宮司の娘で 

義朝は、この藤原氏という名門の出の由良姫と、

久安年間頃に、
結婚したとされている。

そして二児のほか、久安4年(11147年)には、

三男・頼朝を産んだ。

頼朝が三男であるにも関わらず、

家督を継ぐ事ができたのは、

母・由良の出自と人脈が、あったからこそといえる。 

塩の手に搦められては袈裟の内  きゅういち

 

義朝は、院近臣である妻の実家の後ろ楯を得て、

鳥羽院藤原忠通にも接近し、

仁平3年(1153年)31歳で、

従五位下・下野守に任じられ、

翌年には、右馬助を兼ねた。

河内源氏の受領就任は、

源義親以来50年ぶりの事であり、

義朝は、検非違使に過ぎない父・為義の立場を、

超越する事になる。 

わたくしの凹みを風が抜けてゆく  たむらあきこ

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「頼朝のほかに義朝 と由良姫の間の二子について」

土佐に流された地で成人し、

頼朝の挙兵に参じる途中に暗殺された弟・希義(まれよし)と 

一条能保に嫁いだ妹・坊門姫である。

後に坊門姫の子孫が 鎌倉4代将軍・頼経となる。 

井戸端会議のことはみんなに内緒だよ  竹内ゆみこ

 

「義朝の愛妾ー常盤御前」

当代随一の美女・常盤御前は、源義経の母。

当時は、身分や格が重視され、

源頼朝の母・由良姫からみて、

常盤御前は、身分が低く、

兄弟とはいえ義経は、頼朝の「家臣」の地位になる。

こうした系統のなかで、

源氏の後継者になり得ない義経が、

兄・頼朝が定めた「鎌倉御家人の掟」に反し、

朝廷から官位を受理したことで、

頼朝の勘気を買う破目になり、

「義経追討」がはじまった。 

絵草子を膝で開いて西日部屋  阪本きりり

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「清盛の妻」

清盛は、「海賊追討」の功により、

保延元年(1135)8月21日、「従四位下」に叙任され、

翌2年4月7には、19歳で「中務大輔」に任官している。 

「明子・・・正確な名前は不明」

 

この頃に、清盛は、最初の妻となる「明子」と出会っている。

明子の父は、高階基章(たかしなもとあき)。

基章は、「近衛将監」で、内裏内の警衛・夜警、

及び、

天皇行幸の際の護衛や、高級官吏の護衛をしており、

清盛が中務大輔の公事に従事する際に、

接点があったのではないかとされている。 

横に振る首は何でも知っている  山本芳男

 

近衛将監の官位は、

四等官の「判官」(ジョウ)に相当し、

序列は従六位上くらいで、

清盛の官位より、5階級ほど身分は低い。

運命的な出会いを果すも、当初は、身分の違いから、

2人の婚姻には、周囲の強い反対があった。

基章は、保延2年(1136)正月に、

右近衛将監に任じられている。

中務大輔の地位にあった清盛が、

惚れた明子と結ばれるために、

基章を昇格させたのではないかと、考えらている。 

例えれば夕日人情のグラディション  安土理恵

 

その後、清盛が20歳で「肥後守」に任ぜられたおり、

2人は結ばれた。

保延5年に長男・重盛が誕生。

この翌年には、次男・基盛(とももり)が生まれている。

結婚への経過や重盛の育ちをみても、

明子の性格は、
おとなしく従順ながら、

心に決めたことは変えない、 

「芯の強さの持ち主だったようだ」 とみられている。

また、二人を生んで以降の明子のことは、

全く伝えられていない。

このため基盛を生んだ後、

基章の娘が病没したとみる研究者もいる。 

夜明け前せっせと卵産んでいる  山口美千代

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「平時子」

清盛の正室(継室)。

位階は従二位。

大病を患った清盛に従って出家し、二位尼(にいのあま)と称す。

父は堂上平氏の平時信

母は、二条大宮(令子内親王)の半物。

同母弟に時忠

異母弟に親宗・建春門院滋子(しげこ)がいる。

第一子の宗盛の誕生年・久安3年(1147)より推測して、

久安2年(1146)21歳の頃に、

清盛の後妻となったとみられる。

※ 半物(はしたもの)=下仕えの女房

手探りで引き抜くハート状の物  上野勝彦

15歳位といわれた平安時代の適齢期に、

21歳で嫁いだ時子の婚期が遅れてしまったのは、

「時子が夢見る少女」であったからとされる。

王朝文学に憧れ、光源氏の出現を待つうちに

婚期が遅れてしまったというのだ。 

≪ちなみに紫式部は28歳で結婚≫

 

結局は時子にとって、周囲の雑音に押され、

理想とは真逆の、清盛と結婚する破目になる。 

蓮根の白おろし金にて果てる  前中知栄

 

桓武平氏のうち高望王系の清盛は、

平家としては、傍流だったため、嫡流の高棟王系から、

時信の娘・時子を継室に迎えて、支配基盤を広げた。

清盛からすれば、

もっけの「逆玉」にのったことになる。

清盛には、重盛基盛といった前妻との子がいたが、

時子も宗盛、知盛、重衡、徳子を相次いで出産する。

徳子が生んだ言仁(ときひと)親王が安徳天皇として、

即位すると、清盛とともに、准三号の宣旨を受けた。

重盛死後、宗盛を中心に時子の子らが、

平家一門を支える存在となっていく。

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常盤御前と牛若丸

「常盤御前ーエピアソード」

 

みどりごのために常盤は色をかえ

子の手足のばす気で解く後家の帯

「子のため」と母入道をひん丸め  「江戸川柳三句」

古来戦いの勝利者が、

敗者の妻や愛人を我がものにすることは珍しくない。

「平治の乱」に勝利した清盛が、

義朝の愛妾・常盤御前を自分の妾とする代わりにに、

常盤の三人の子どもたちの命をたすけた、

と伝わるエピソードを
時事的川柳にしたものである。 

車座に益荒男らしきものの跡  山口ろっぱ

 

常盤は、

近衛天皇の中宮・九条院の雑仕女(ぞうしめ)だった。

九条院が中宮にたてられる際、

都中の美女を選んだ千人の中から、百人を選び、

百人の中から十人を選び、

その中から最も美しい女性として、

選ばれたのが"常盤"であったという。

いわゆる、最も古いミス日本コンテストである。

※ 雑仕女=雑事に従事する下級武士

【余談】

義経は,出っ歯なブオトコのように言われているが、


それが事実なら、

義経は母の美点をもらい損ねたのかも知れない。 

焼き芋は焦げたところのそのまわり  藤本秋声

 

ひとしきり入道つきについている

入道の前に障子を持って出る

仏でも仏になるか白拍子

美人好きの清盛は、

白拍子の祇王祇女という,十代の姉妹を妾に囲い、

また仏御前立て続けに妾にしている。

ここで巻き起こる女のドラマは、

読み手の想像力にまかせるとして、

常盤が出現して、

この三人たちの閨へ清盛が遠ざかっていくのは、

彼女の美しさか、

三人の子を生んだ「女の強み」なのでしょうか。 

困ったなあ 複雑すぎる恋事情  山本昌乃
 
「蛇足」

【豆辞典ー①】

官人の序列は、

正一位~少初位下(しょうそいげ)まで30階に分かれている。

また、位階の三位以上の上級官人が、

正一位の太政大臣から左大臣・右大臣・大納言・中納言となる。

これらを「公卿」という。 

【豆辞典ー②】 

 

四等官とは、中央・地方の官職の序列で、

長官(かみ)・次官(すけ)・判官(じょう)・主典(さかん)の、

4等級をいう。

なお、官庁で用いる文字が異なる。

省は、卿(きょう)、(すけ)・丞(じょう)・録(さかん)

国は、守(かみ)、(すけ)、(じょう)、(もく)。

【豆辞典ー③】

中務大輔=中務省の上次官。

 定員は一人で、相当官位は「正五位上」のものがなる。

 中務省は、「ナカノマツリゴトノツカサ」とも言われるように、

 詔勅の施行から、後宮女官の人事まで、

朝廷の事務一般ほか、

 天皇に近侍する侍従、宮中の警備(内舎人)

 雑役及び行幸の際の警護役など、かなり幅広い職務である。

アンテナを立てて世間についてゆく  笠原道子

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一筋のひとすじの道生きて来た  河村啓子

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     瀬戸内海

東は大阪湾から太平洋へ、西は周防灘から玄海の海へ。

わが国古代からの主要な交通路として、

存在してきた「瀬戸内海」。

そこは今も、90航路に余る旅客交通船が、

交錯する海路網の、満ちる海域でもある。

東西、約450㌔。

南北は、広いところで約55㌔、狭いところはわずかに5㌔。

600もの島々が点在する。 

だぼ鯊の鱗の長径に合わす  井上一筒

 

≪日本という島国の政治・経済・文化の歴史は、

  西国に興った古代政権からの流れが、

  この海域を"血脈路"として隆盛を保ってきた≫

奈良・京都など、関西を中心としたこの国の、

政治・経済体制を支えたこの海路は、

各地域に定住する"海民"がかかわる、

航路教示や通航補助などが、
自然発生的に生じて、

独自な海上安全システムともいえる、

「航海協力体制」が生れていく。 

波の間にひらひら踊る手と手と手  小嶋くまひこ

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平安末期ころの大型軍船(復元イラスト)

各海域、沿岸に滞在し、

古代から続いた為政者への、貢納物資の輸送など、

「航海援助」を専業とする海民たちは、

「通行船舶」を補助することを生業としたいた。

複雑な潮流変化や、

繁雑な海路・地形の読みの多難性が、

それを必要としていたのだ。 

六道の是非すべからく荒物屋  きゅういち

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鎌倉時代の小型軍船〈蒙古襲来絵詞〉

そうした、海路専導を基本としつつ、

補助を求めない航海者に対する救援強要や、

ときには、略奪もあったとされ、利害の交錯によって、

航海者側からは、「海賊」と指弾されたのであった。 

居残りの海鼠が吐いた投了図  くんじろう

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鎌倉時代の大型軍船〈蒙古襲来絵詞〉

清盛の初期の軍事活動は、「西国の海賊掃討」とされ、

平安期・南北朝時の瀬戸内海は、

海賊の活動期として知られている。

史実によれば、

清盛の父・忠盛が山陽南海の「海賊追捕の功」により、

但馬守に出世。

父の功をもって、清盛も安芸守に、

さらに、保元の乱(1156)に功をたてて播磨守に、

と西国沿海領地の太守を歴任する。

≪のちに内大臣から太政大臣へと大成した清盛の、

  瀬戸内海沿海各地への、こうした任務上の経験が、

   この地域へ(福原遷都)の認知の基本にあることは間違いない≫

背骨の突起つつつと啄ばむなぞる  山口ろっぱ

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   現在の神戸港

清盛は、現在の神戸市となる貿易港・福原を造成、構築。

海に近いこの福原に、別荘を設けて隠居。

出家して、法号を清連(じょうれん)と称した。

それからも、交通の要地、福原に都を移し、

西国の海賊集団を平家の水軍の予備軍として、

補助するなど、

多彩にして繁華な政争のなかに、

身を置き続けるが、
心が、

「西の海」の経済的効用と安全確保に惹かれていたことは、

この「福原遷都」や、予備水軍保持の歴史にも、

そして、色鮮やかに残る安芸の宮島(厳島神社)への、

篤心の情をもって、測ることができる。

導火線もう迷いなど消えました  たむらあきこ

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             厳島神社

清盛は太政大臣への昇任を機に、

仁安2年(1167)に、公的に厳島神社を詣でている。

宋の国との交易拡大を志す清盛にとって、

厳島神社は、貿易ルートの守護神の意味があった。

厳島の神格向上により、

平家一門や諸階級の参拝が盛んになり、

瀬戸内海の海路は整えられ、

複雑な航路の航海技術も、定格化していった。 

暖かい部屋で地球の出を拝む  泉水冴子

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   大輪田泊の石涼

航路の安定化を図るために、

各処で泊地の整備が推進される。

福原に近い「大輪田泊」も、

防波堤をかねた人口島を構築して、整備され、

頻繁になる瀬戸内海交易の独占的な、

位置を占めるようになった。 

二月の空は希望の色と君の言う  山口美千代

 

嘉応2年(1170)には、初めて宋の船を入港させ、

主要な泊地とし、経済環境は充実した。

≪現在の神戸港の原型である≫

瀬戸内海という緑の島々と海辺集落を育む、

陸地に挟まれた長大な"海路"が、

平清盛という一人の為政者の心を映しつつ、

わが国の永い海上交通の歴史を鼓動として、

豊かで清澄な自然の中に、

美しく息づいていることを、知ることができる。 

ぎゅうぎゅうに詰めた袋の後日談  山本早苗

 

「20日 締め切りです。ポストへお急ぎください」

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[川柳瓦版 誌上競詠・『咲くやこの花賞』のお知らせ]

皆様へ、「誌上競詠」へのご参加を心よりお待ちしております。

      内容は下記の通り、ハガキにて投句してください。

2月のお題 「始まる」 選者 森中惠美子

3月のお題  「食」     選者 井上一筒

4月のお題  「衣」    選者 赤松ますみ

参加料/1年間ー(24年2月~25年1月) 2000円 (切手可)

                          (同人、誌友は 1000円)
締切   毎月20日

表彰 毎年3月句会で発表。
           (一位に優勝杯 二位~十位に瓦版特製記念品贈呈)

投句先 (572-0844) 
        寝屋川区太秦緑が丘11-8    川柳瓦版の会宛

 

拍手[1回]

柔らかく切り裂いてゆく虹の先  蟹口和枝

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流刑の地で果てた悲運の天皇の御陵

≪白峰山山頂近く、崇徳は崩御後この地で、荼毘に付され葬られたとされる≫

崇徳は武士数十人が囲んだ網代車に乗せられ、

鳥羽から船で讃岐へ下った。

同行したのは、寵妃(ちょうひ)の兵衛佐局と僅かな女房だけだった。

その後、二度と京の地を踏むことはなく、

8年後の長寛2年(1164年)8月26日、46歳で崩御した。

関西以外にある天皇陵として貴重な存在。

"瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川のわれても末に 会わむとぞ思う "

待ち人はカラスになって会いに来る  井上一筒

「崇徳天皇怨霊へのルート」

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      崇徳上皇

久寿2年(1155)7月、近衛天皇が17歳の若さで亡くなった。

鳥羽上皇にとっては、

最愛の息子の死という大きな悲しみと同時に、

「皇位継承問題」で、著しい苦境に立たされることになった。

近衛帝には子がなく、皇太子を立てられずにいた。

このため、皇位継承問題がどうなるか、

近衛帝重篤と聞いたときから、

人々の関心は、そこに集中したのである。 

こんにゃくを見ると刺したくなる針だ  泉水冴子

 

皇位を継承する"資格"のあるものは二人いた。

一人は、近衛帝の異母兄の雅仁親王(29歳)であり、

もう一人は前帝・崇徳上皇の子・重仁親王(16歳)である。

雅仁の方は、希代の道楽者で、 

「いたくさただしくお遊びなどありて即位のご器量にはあらず」

 

というのが世間の評価だった。

ゆえに、「おそらくこの人の即位はないだろう」

思われていた。 

まだ自分のかたちは知らぬ豆である  たむらあきこ

 

このため人々は、

新院と呼ばれている柳ノ水の御所へと集まり始めた。

陽の当る場所に、人が群れるのは世の常で、

崇徳重仁が即位すれば、

自分が院政を敷く夢も近づくものと、胸を弾ませた。

上皇とはいえ、崇徳もまだ37歳の壮年だった。 

撫で肩も肩に鞄を掛けたがる  奥山晴生

 

ところが―。

鳥羽が下した決定は、雅仁への皇位継承だった。

すなわち、後白河天皇である。

誰もが唖然として息を呑んだ。

とりわけて崇徳の憤激は、ひと通りのものではなかった。

ここから異様な対立状態が始まる。 

蜘蛛の巣の中にこの世のお約束  加納美津子

kiyomori-3-3.jpg   noriko.jpg

 

「37年前へ・・・-清盛18歳のころ」

系譜の上では崇徳、後白河、近衛は、

いずれも鳥羽の息子で異母兄弟である。

従って、重仁、鳥羽の嫡孫になる。

崇徳と後白河の母親は、

待賢門院・樟子(たいげんもんいんたまこ)

近衛の母は、美福門院・得子(びふくもんいんなりこ)

だが、あろうことか崇徳は、鳥羽の子ではない

父親は、鳥羽の祖父にあたる白河法皇だったのだ。 

かなしさの模様だったか眉毛以下  黒田忠昭

 

樟子は、上級公家・藤原一族の生れだったが、

七つのときに父を失い、

白河法皇の養女となって成長した。

しかし、絶世の美女とうたわれた彼女が、

並外れて奔放な性格で、

淫乱でもあったことが歴史を動かすことになったのだ。

17歳で鳥羽のもとに入内し、

翌年に崇徳を産んだものの、

ほどなくこれが「白河の子」と明らかになり、 

「あれは白河院の養女ではなく、愛人である」

 

とばかり驚愕の噂が、京を走ったのである。  

たそがれに手配写真が笑ってる  増田えんじぇる

  

鳥羽の憤激は大きく、

崇徳"叔父子(おじご)"と呼んで遠ざけた。 

「祖父の子なら、自分にとっては叔父だ」

 

というのだが、

逆に白河は、この"ひ孫"に対して、

異常なほどの偏愛ぶりをみせ、
崇徳が5歳になると、

鳥羽に譲位を迫って、即位させたのである 

氷河期の末裔 芋を焼きあげる  壷内半酔

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    鳥羽上皇

鳥羽は、21歳で上皇となり、

憤怒の炎を燃やす日々を送ったが、

それから6年後、40年余りにわたって院政を敷き、

独裁者として君臨してきた白河が、77歳で亡くなった。

崇徳帝はまだ幼く、鳥羽が院政を引き継いで、

権力を掌握したのは言うまでもない。  

のど飴を舐めて出番を待っている  片岡加代

  

そして、ここから鳥羽"報復 "が始まった。

樟子は、入内したあとも、

朝廷人や公家の誰彼との浮名を流し、

≪佐藤義清とも、深い愛を交わしたという噂が残る≫

鳥羽上皇の愛情は、得子へと傾いていった。

権力を掌握した鳥羽は、

その得子の産んだ近衛が3歳になると、 

自分が白河にされたと同じように、崇徳に、

譲位を迫り、 

「近衛を崇徳の養子の形にする」

 

と説得して、即位させた。 

絶頂の先にまさかの坂が待つ  笹倉良一

 

従って、崇徳は新帝の父親格で上皇になったと思い、

院政への道が開けたと喜んだ。

だが、即位の際の宣命では、

「崇徳は皇太帝に譲位した」 と読み上げられたのだ。

鳥羽は、崇徳を欺いたのである。

院政は、天皇の父しか行えないからだ。 

仇討ちを果たして余る憤り  時実新子

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讃岐に流された崇徳上皇(歌川国芳画)

23歳で上皇となった崇徳は、

もはや先に何の望みもない世捨て人同然の身となった。

怨念のこもった屋敷には、幽気が漂い、

雑人輩(ぞうにんばら)でさえも、

怖がって門前を通らなくなった。 

※ 雑人輩=具足も付けることが許されずに戦場に赴き、

     騎乗の武将を防護したり、敵の矢面に立ったり敵陣の柵を破壊するなど、

     捨石的行為に従事させられた身分の低い者たち(雑兵)。

 

ときどきは首があるかと確かめる  中野六助

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そして、保元の乱に敗れた崇徳は讃岐に流される。

前非を悔いて、書き上げた5部・「大乗経」を、 

「京へ奉納させて欲しい」

 

と願い出たが許されず、経文は讃岐へ送り返された。

これを見た崇徳は、  

「この経を魔道に回向して魔縁となって遺恨を散ぜん」

  

と経文に四書して、深海に沈め、

爪や髪も伸ばして恐ろし気な姿に変り、

生まれながら天狗となった。『保元物語』

流れゆく一部始終を見た辛夷  山下怜依子

 

「怨念の地より」

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   弥蘇場の泉 

無念のうちに亡くなった崇徳上皇の遺体をこの泉に浸し、

都からの使者を待った。

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上皇の葬送の途上、この地でにわかに風雨が起こり、

棺から血が流れ出たことから「血の宮」といわれる高家神社
 
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上皇が日常使った食器を埋めたと言われる「わん塚」 

ニアミスをしたこの世あの世の境目で  和田洋子

 

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虹彩に刺さるムラサキウニのトゲ  井上一筒

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出雲国で叛乱を起した源義親を討つ平正盛

「平家の道ー①」・・・巻き戻し

平清盛は、祖父・正盛や父・忠盛の活力に満ちた行動と、

一門の繁栄を考えての深慮を思うたびに、

終生、「敬虔の念と感謝の想い」を、

抱かずにはおれなかった。 

流れ星壺に集めて窓に置く  松田俊彦

 

当時、武士といえば、

「源氏一門が全盛」を誇っており、

平氏の存在は、哀しいまでに影が薄かった。

その頃のはやり唄ににも、 

"鷲の棲む深山には  なべての鳥の棲むものか

  同じ源氏と申せども  八幡太郎は恐ろしや "

 

と歌われたほどであり、

源氏の棟梁・八幡太郎義家の武名は、

天下にあまねく知れわたっていた。 

イメージを食べ尽したら咲くんだね  和田洋子

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     八幡太郎義家

その武名赫々たる義家の嫡男・義親が、

はからずも、源氏に衰運をもたらし、

代わって、「平氏台頭」のきっかけを作った。

義親は性、粗暴にして、乱暴狼藉を働いた結果、

隠岐の島に配流の身となった。

ために義家は義親を廃嫡となし、

孫のため為義を、嫡子に据えた。 

青春の光と影を掘り起こす  元永宣子

 

ところが、なお義親の行状はおさまらず、

隠岐の島から脱走したうえに、

出雲へ押し渡って国司代官を殺害してしまった。

朝廷では、ただちに義親の討伐を源氏に命じた。

朝敵討伐は、源氏武士団の任務であるからだが、

たまたま、棟梁の義家が病死してしまったため、

朝廷は急遽、討伐使に平正盛を起用した。

ために源氏は、親子死闘の悲劇は避けられたが、

中央政界での存在感は大きく減退した。 



 

心配無用シュレッダーが横にある  桑原伸吉

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    平正盛

 

一方、白羽の矢がたった正盛は、

嫡男・忠盛を当代一流の師につけて、

武術はもとより、和歌、舞など公家の子弟に劣らぬまで、

徹底的に仕込んだのだ。

彼はしばしば、「公家の青瓢箪に負くるな」 と叱咤し、

忠盛はこれに応えて、よく励んだため、

公家の子弟に劣らぬ、教養深き若者に成人した。 

三色を上手に使うことに馴れ  山本早苗

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臨時祭記録

 

そして正盛の目論みは、見事に成功した。

公家の中でも、良家の子弟しかなれぬ、

「賀茂臨時大祭」の舞人に選抜され、

この大役を忠盛は、華やかに舞おさめたのである。 

そして今私はどんな色だろう  河村啓子

 

白河院は、大いに忠盛を賞揚した上、院の昇殿をゆるした。

時に忠盛弱冠26歳。

源氏でただひとり、

八幡太郎義家にして、すでに60歳に達してからを思えば、

推して知るところである。 

猫捨てて犬捨ててボクの立ち位置  山口ろっぱ

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快活、機知にとんだ忠盛は、

白河院に次いで、院政を行った鳥羽院にも、

信愛され重用された。

忠盛は播磨・伊勢・越前等の国司を歴任しており、

備前守時代、山陽・南海二道の海賊追討を命ぜられるや、

直ちにこれを討伐してのけたため、

いちだんと白河・鳥羽両院の篤い信頼を得た。 

キャンディみっつ午後の信号機  くんじろう

 

しかも忠盛は、備前神崎を預かった時代、

「日宋貿易」に関与して莫大な蓄財をしており、

その財力を使って、いよいよ野望を逞しくした。

思えば、国司のいち郎党にすぎなかった「伊勢平氏」が、

いまは自身が国司になったことは、奇跡的ですらあった。 

歓声をサンドバックは遠く聞く  内藤光枝

 

が・・・、忠盛は、国司どころか、

平氏が殿上人-「―貴族」になることを願ったのである。

忠盛が鳥羽院の勅願の観音堂の落慶供養に際して、

一千体の仏像を寄進し、鳥羽院の信愛を濃くしたのも、

野望を遂げるためといってよい。 

浪花節だまって灯る真空管  黒田忠昭

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伊勢平氏発祥の地(三重県)

 

この功により、忠盛は内昇殿を許され、

ついに殿上人となった。

当然、若い公卿たちの間に羨むものが現れ、

昇殿の際に、闇討ちしようとする企てがなされた。

もとより忠盛に油断はなく、いち早く情報を掴んだ彼は、

太刀を帯びて昇殿し、前庭には武装兵を控えさせたから、

公卿たちも手出し出来ぬままに終わった。

はりつめた糸の先から出る微熱  百々寿子

それで悔し紛れに、公卿たちは、

忠盛が太刀を帯びて昇殿した非礼を問題にした。

ところが、忠盛は微笑をして、太刀を抜きかざした。

白刃と思われたそれは、

木刀に銀箔を押した偽刀だったのだ。 

「ははは、これは忠盛の勝ちじゃ」

 

鳥羽院は、いよいよ忠盛を信愛した。

四つ葉だけ栞にされるクローバー  杉本克子

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[川柳瓦版 誌上競詠・『咲くやこの花賞』のお知らせ]

皆様へ、「誌上競詠」へのご参加を心よりお待ちしております。

      内容は下記の通り、ハガキにて投句してください。

2月のお題 「始まる」 選者 森中惠美子

3月のお題  「食」     選者 井上一筒

4月のお題  「衣」    選者 赤松ますみ

参加料/1年間ー(24年2月~25年1月) 2000円 (切手可)

                          (同人、誌友は 1000円)
締切   毎月20日

表彰 毎年3月句会で発表。(一位に優勝杯 二位~十位に瓦版特製記念品贈呈)

投句先 (572-0844) 
        寝屋川区太秦緑が丘11-8    川柳瓦版の会宛

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