忍者ブログ
川柳的逍遥 人の世の一家言
[172] [173] [174] [175] [176] [177] [178] [179] [180] [181] [182]

大きな月が庭に来ている  河村啓子

5a006b4b.jpeg

「海賊討伐ー清盛18歳」

保延元年(1135)8月、

西国で捕虜にした海賊達を引き連れて、

鳥羽院より「海賊追討」を命じられてわずか4ヶ月。

京における平家の武威は、いやがうえにも高まった。

当時、瀬戸内海では、海賊がはびこり、

数十隻の船を操って海上を航行する船を襲って、

乗員を殺害し、
貨物を略奪していた。 

不届き者よしL字型金具よ  酒井かがり

22a07f53.jpeg

 

東国で源氏が武士団を組織したのと同じように、

西国では、後に「水軍」と呼ばれる海の武力集団が,

形成されつつあったのである。

6年前の大治4年(1129)にも一度、

忠盛は山陽・南海道の海賊追討を命じられている。

この時の手腕を買われたのであろう。

ふたたび海賊の横行が問題になったとき、

人選にあたる公卿たちは

「西海に勢力を有する
という理由で、

忠盛の再登板を認めた。 

大勢が正しいと言う そうだろう  高橋太一郎

 

この時、もうひとりの候補としてあげられていたのが,

源義朝の父・為義である。

公卿たちが最終的な判断を鳥羽院にゆだねたところ、 

「為義では追討使が進む路次の国々が滅亡してしまうので,

  忠盛がよいだろう」

 

という指示があったため、

最終的に忠盛の派遣が決定されたという。 

向うにはかなり足りない飴の数  大東ゆたか       

為義では国々が「滅亡」するというのは、

西国に地盤のない武士を送り込むことで、

かえって混乱が深まるということを心配しているのだろう。 

屑カゴのクズの名前にも序列  黒田忠昭

71a4ee1d.jpeg

 

すでに忠盛は、伯耆や備前などの西国の受領を歴任し、

前述のように海賊追捕の経験もあった。

大きな抵抗を受けることなく、

速やかに海賊を鎮圧することが期待されたのである。

だが、華やかな凱旋パレードの影では、

黒い噂が囁かれていたのも事実であった。 

しがらみは落としてくれぬ洗濯機  竹内ゆみこ

 

忠盛が京に連れ帰った海賊は、

日高禅師をはじめとする70人であった。

そのうち28人が、河原で検非違使に引き渡されたが、

実は彼らの多くは海賊ではなく、

忠盛の家人ではないものを「賊虜」と称して、

引き渡したに過ぎないというのである。

忠盛にとっての「海賊討伐」は、

西国の武士との主従関係を強める機会であると同時に、

「平家の武勇を京の人々に誇示するための、

  パフォーマンスでもあった」 のである。
 

手の平のくぼみ魚板の叩く音  前中智栄  

 22a07f53.jpeg

 

平家にとって「海賊討伐」は、

瀬戸内海の水軍や在地武士を組織し西国に

幅広く平家の勢力を拡大するためのものでもあった。

期棟梁である清盛の姿を、

西国衆に披露する良い機会機会にもなったはずだ。

だとすれば、清盛にとって、

これが初めての実戦経験だったかもしれない。

だが清盛にとって、この海賊追討は、

武勇を磨く以上の意味があった。 

饒舌は途絶えて螺旋のけむり  富山やよい

3dcf827f.jpeg

 

凱旋の直後、朝廷より忠盛に海賊追討の賞が与えられ、

その譲りによって、

清盛の位階が「従四位下」に上がったのである。

翌年4月には、「中務大輔」に任じられた。

祖父・正盛が但馬守に任じられたとき、

ある貴族は、五位程度しか上がれない家柄である

「最下品」の忠盛が、

但馬のような大国の受領になったことに

不満を述べたものであった。 

酸欠の青大将であった頃  井上一筒

 

それから30年。

18歳の清盛が、易々と、

「五位から四位」への壁を超えたことは、

平家の躍進を改めて人々に印象づけたに違いない。

実際、これより約40年後の「鹿ケ谷事件」の時、

捕らわれた西光法師が清盛を前にして、 

「四位の兵衛佐になったことでさえ、

 過分なことであると、当時の人々はいったものだ」

 

と罵倒した話が、『平家物語』に残る。 

煮て焼いて振り掛けにする言い掛り  岩根彰子
 

cce9e0c3.jpeg

「実は」

平正盛は永久2年(1114)、

伊予国で海賊を捕らえ、

元永2年(1119)、

肥前国・藤津庄(ふじつのしょう)の庄官を追捕している。

その間を含め、隠岐・但馬・丹後・備前・讃岐などの

受領に、
任じられている。

これらの国々が、

西日本の海沿いにあるのは注目すべきだろう。

正盛は任地の武士団を取り込み、

自らの武力に編成すると同時に、経済力をつけていった。 

手首まである生命線を見つめてる  大海幸生

 

正盛の子・忠盛も、大治4年(1129)に、

山陽・南海道の海賊鎮圧の追討使、

保延元年(1135)には、

西海の海賊鎮圧の追討使に任じられている。

しかし、大治4年には、

「追討使を派遣するほどの事件は起きていない」

そのため、当時、備前守だった忠盛が、

海賊を自分の勢力下に治めるための口実として、 

「追討使の任命を願い出た」

 

のではないかともいわれている。 

ピーマンのガランドウから呼び出され  谷垣郁郎
 

681d6d94.jpeg

[川柳瓦版 誌上競詠『咲くやこの花賞』のお知らせ]

皆様へ、「誌上競詠」へのご参加を心よりお待ちしております。

      内容は下記の通り、ハガキにて投句してください。

2月のお題 「始まる」 選者 森中惠美子

3月のお題  「食」     選者 井上一筒

4月のお題  「衣」    選者 赤松ますみ

参加料/1年間ー(24年2月~25年1月) 2000円 (切手可)

                          (同人、誌友は 1000円)
締切   毎月20日

表彰 毎年3月句会で発表。(一位に優勝杯 二位~十位に瓦版特製記念品贈呈)

投句先 (572-0844) 
        寝屋川区太秦緑が丘11-8    川柳瓦版の会宛

拍手[5回]

PR

裸一貫惜しいものは何もない  前中知栄

8705fb5c.jpeg

     平正盛の墓

平家興隆の基礎を作ったのは、あくまで清盛の曾祖父正盛である。

「平家の躍進は祖父正盛から」

平清盛は、永久6年(1118)1月18日に生まれた。

平家が日の出の勢いで、力を伸ばしていたときだ。

祖父・正盛は、白河法皇の北面の武士として、

武力で法皇に仕えるとともに、数カ国の受領(国守)を歴任し、

当時は西国の大国のひとつ、

「備前守(びぜんのかみ)」を務めていた。 

ノリシロは糊渇くまで放っておく  くんじろう

 

受領は、国内の税の徴収を行うため、

やり方によっては、
莫大な収入をあげることができる。

ということは、清盛は富裕な貴族の跡取りとして、

恵まれた環境の中で育ったといえる。

* 北面の武士=法王の身辺を守る武士。

       院御所の北側の部屋に詰めたためこのように呼ばれた。

祇園会やあなごの鱗生臭し  田中博造

平家がこれほど豊かになったのは、

実はそれほど古いことではない。

清盛が生まれる20年ほど前、

正盛は、実入りの小さな小国・隠岐の国守に過ぎなかった。

つま先は今夜 踵は明後日  井上一

 

承徳元年(1097)、

白河法皇の愛娘である六条院の菩提寺に、

伊賀国の所領を寄進したことで法皇の目にとまり、

若狭守、因幡守など、

徐々に豊かな国の受領に任じられるようになった。

 

反抗期過ぎて埴輪の象になる  中林典子

d53e7ff8.jpeg


大河ドラマ・正盛役の中村敦夫

やがて九州や山陰で謀反を働いた源義親を討伐して、

武名をあげ、京都で1、2を争う武士に成長した。

正盛こそ、

平家隆盛の礎を築いた立志伝中の人物だったわけである。 

* 源義親=源義家の嫡男、源の為義の子。

* 武士=軍事を家職とする源氏や平氏などを「軍事貴族」と呼んだ。

 

やや自信ありげに湯豆腐がぐらり  山本早苗

父・忠盛も正盛同様、白河法皇の信頼を得て、

「検非違使」「国守」を歴任した。

正盛・忠盛のような武士が、地位と収入を高める近道は、

法皇や摂関家などの上流貴族に奉仕することであった。

強盗や海賊の討伐、強訴の鎮圧など武力で、

治安維持に貢献する一方、

法皇のために、寺院の造営や所領の寄進をさかんに行い、

その見返りとして見入りの多い国守への転任や重任を得て、

さらに富を蓄え、のし上がっていったのである。 

 検非違使=京の警察や裁判などを管轄する武官。

 強訴=大寺社の衆徒や神木や神輿を押し立てて朝廷に要求すること。

 

※ 重任=任期満了後も同国の守に続けて任じられること。

新人類です原色を食べている  前田咲二

e092654d.jpeg

[川柳瓦版 誌上競詠・『咲くやこの花賞』 のお知らせ]

皆様へ、「誌上競詠」へのご参加を心よりお待ちしております。

      内容は下記の通り、ハガキにて投句してください。

2月のお題 「始まる」 選者 森中惠美子

3月のお題  「食」     選者 井上一筒

4月のお題  「衣」    選者 赤松ますみ

参加料/1年間ー(24年2月~25年1月) 2000円 (切手可)

                          (同人、誌友は 1000円)
締切   毎月20日

表彰 毎年3月句会で発表。(一位に優勝杯 二位~十位に瓦版特製記念品贈呈)

投句先 (572-0844) 
        寝屋川区太秦緑が丘11-8    川柳瓦版の会宛

拍手[1回]

あご撫でてじゃりじゃり今日も生きている  井丸昌紀

kiyomori-3-1.jpg

「教養人・平忠盛」

清盛が十五歳の時、

父・忠盛が武士として初めて「内昇殿」を許された。

内昇殿とは、

天皇の居所である清涼殿の殿上の間に、

上ることを許されることで、

貴族にとって、非常に名誉なことであった。

まして、武士ある忠盛がこれを許されるのは、

破格の待遇であり、

このことを本人から聞いたある貴族は、日記に

「未曾有の事なり」 と記したほどであった。 

逆風に強い男に冬はない  長尾美和
 
 kiyomori-3-8.jpg
               kiyomori-3-9.jpg

五十年以上もの長きにわたって天下を治めた白河院は、

すでに三年前に崩御しており、

白河院の孫の鳥羽上皇

「治天の君」として、天下の政治をとり行っていた。

忠盛、清盛父子は白河政権と同じように、

鳥羽院政下においても、

寺院の寄進や治安維持などをおこたりなく務めて、

重用された。

※ 治天の君=天皇家の家長。

    天皇の父または祖父として院政を主導する存在。

いい髭だ風をつかんだ奴凧  加納美津子

kiyomori-3-6.jpg

忠盛の内昇殿も、

千体の観音像をおさめた得長寿院(とくちょうじゅいん)の、

造営の功により、許されたものである。 

≪ちなみに後年、

 清盛が後白河上皇のために建てた蓮華王院(三十三間堂)は、

   この得長寿院にならったものである≫
 

 二度三度うがいをすれば春になる  嶋澤喜八郎

もっとも忠盛は、武力と財力だけをたのみとして、

この栄誉を勝ち取ったわけではなかった。

宮廷貴族として認められるには、

それにふさわしい教養を備えていなければならない。

忠盛は武家の棟梁としてのみならず、

和歌や音楽の道でも、一流であることをめざした。

※   特に和歌は「金葉和歌に入集するほどの名手であった。

※ 「金葉和歌集」=白河院の命により編纂された五番目の勅撰和歌集。

マクロレンズ花の吐息にふれたくて  美馬りゅうこ

「平家物語」にも備前から帰ってきた忠盛が、

鳥羽院に、「明石浦はどうであった」 と聞かれて、

即座に、 

" 有明の月も明石のうら風に 浪ばかりこそよるとみえしか "

 

『残月の明るい明石の浦に、風が吹かれて波ばかり寄ると見えました』

と詠んだエピソードが残されている。

明石と明かし、寄ると夜をかけた歌で、

そのできばえに鳥羽院も大いに感心したという。 

明日あさっての風に吹かれている男  立蔵信子

 kiyomori-3-2.jpg

また、この歌は、

「源氏物語」「明石巻」を意識したものともいわれる。

明るい月の夜、光源氏や明石の君、明石の入道が、

筝琴や琵琶を弾き暮らした故事を踏まえ、

今は琴の音も絶え、

月明かりの下で波だけが打ち寄せている

という意味が含まれているという。

鳥羽院の驚きは、古典文学に対する忠盛の造詣の深さにも、

向けられていたのかもしれない。

スマートフォンの中の歯ぐきを捲る  井上一筒

kiyomori-3-5.jpg

管弦では笛をよくした。

小枝(さえだ)という笛を鳥羽院から賜り、

それを子の経盛(清盛の異母弟)に譲り、

さらに孫の敦盛に伝わったことが、

同じく「平家物語」「敦盛最期」に見える。

ななかまど風通しのよい佳言かな  大西泰世

makie-3.jpg 
makie-2.jpg

舞は元永二年(1119)の「賀茂臨時祭」で舞人を務め、

見物の公卿に、 

「舞人の道に光華を施し、万事耳目を驚かす」

 

と称えられた。

生まれつき器用だったのであろうが、

朝廷における平家の地位を高めるために、

血の滲むような努力も重ねていたに違いない。 

負けてたまるか階段駆け上がる  新家完司

 

平家一門には、清盛の末弟・忠度(ただのり)の和歌や、

経盛の長男・経正の琵琶など、

和歌や管弦にすぐれた人物が多いが、

忠盛が伝えた素質であったのだろう。 

≪一方、清盛が芸術面で、

   これといった才能を見せなかった のは興味深い。

   やはり忠盛との血の繋がりがなかったからであろうか≫

 

花を愛で花に埋もれては斜め  兵頭全郎

3224601b.jpeg

[川柳瓦版 誌上競詠・『咲くやこの花賞』のお知らせ]

皆様へ、「誌上競詠」へのご参加を心よりお待ちしております。

      内容は下記の通り、ハガキにて投句してください。

2月のお題 「始まる」 選者 森中惠美子

3月のお題  「食」     選者 井上一筒

4月のお題  「衣」    選者 赤松ますみ

参加料/1年間ー(24年2月~25年1月) 2000円 (切手可)

                          (同人、誌友は 1000円)
締切   毎月20日

表彰 毎年3月句会で発表。

          (一位に優勝杯 二位~十位に瓦版特製記念品贈呈)

投句先 (572-0844) 
        寝屋川区太秦緑が丘11-8    川柳瓦版の会宛

拍手[4回]

玉葱の皮が包んでいる虚実  たむらあきこ

nyogo.jpg            tadamori-3.jpg

                  平忠盛と祇園女御

「古川柳とともにー平忠盛編」

頭痛くらいにたいそうな御建立

平忠盛清盛の父。

忠盛は「伊勢平氏」の出身で、

平家の中でも " 田舎伊勢武者 " と蔑まれ、

出世など望むべくもなかったが、

鳥羽天皇が頭痛で苦しみ、その平癒祈願の寺を建てるとき、

たまたま現場監督をして、手腕を見せたことが、

出世の糸口になった  

≪その御頭痛の平癒が寺の号となり

   寺は国宝になっている京都の三十三間堂。

     俗称・頭痛山平癒寺という≫

  

殿上の闇に明るい太刀を抜き

忠盛は立派な寺を工期通り建てたので、

鳥羽天皇の覚えよろしくトントン拍子に出世。

妬ましく思う公家たちは、

忠盛が豊明節会の夜に参内したところを、

暗殺しようと企てた。

それを察知した忠盛は、

節会の座からスーと抜け出し、

≪暗がりで、
太刀をわざと月光に反射させ、

  いかにも切れ味を試すかのように、頬にあてた≫ 

銀箔で明かりをたてる闇の太刀

 

物陰に潜んでそれを見ていた公家たちは、

その示威行為に怖れをなし、襲うことができなかった。

そこで今度は、公家たちは天皇に、

殿中で刀を抜いたことの処分を求めた。 

≪宮中の武器庫に預けて、退出した忠盛の刀を、

    係官が調べたところ、それは” 銀箔を貼った竹光 "だった≫

 

忠盛は竹光をさす元祖也

これでは処分はできない。

天皇は忠盛のこの機転と知恵に感心したという。 

宮中に忠盛月を捨てて行き  

 

忠盛、鳥羽上皇に仕えている女官と親しくなり、

ある夜、その女官の部屋に泊まり、

翌朝、部屋に月の絵を描いた扇を忘れて帰った。

それを見つけた同僚の女官たちが、 

「お楽しみが深くお疲れ遊ばされ、おつむも朦朧としていたのね」

 

と忠盛の彼女をさんざんからうと、 忠盛のただ

" 雲井よりただもり来る月なれば おぼろげにて云うわじと思う "

 

「雲の合間から盛月が降りて来たようだけれど、

 不確かだから云わないでおきましょう。皆さんもそうしておいてくださいな」


と何とも味な歌で返した忠盛の彼女。

 

忠盛は土産をつけて拝領し

ある褒美に忠盛は鳥羽上皇から、

上皇の愛妾の祇園女御をもらい受けた。

≪女御の腹にはすでに、上皇の子が宿っていた≫

食いかけの芋を忠盛へ下さるる

芋は「妹」にかかり愛人や妻のこと。

上皇の条件がひとつあり、

「女ならワシの子、男なら君の子 

≪生まれたのが、男の子・清盛であった≫

 

忠盛は手っこに追えぬ子をもらい

衆知の通り、清盛は手に追えない乱暴ものだが、

ルーツを思えば、

大物になる条件をも合わせ持っていた。

包めども鳥羽院の落し胤

169895d3.jpeg

『平忠盛』

父・正盛の地盤を継承し、

白河・鳥羽両院政を経済力と武力の両面から支えた。

受領を歴任して、富を蓄積するとともに、

「受領や海賊追討使」の地位を利用して、

西国の武士や海賊を家人に組織した。

また「日宋貿易」にも関与し、長承元年(1132)

武士で初めて、内昇殿許される。

趣味は和歌で、多くの歌会・歌合に参加している。  

内裏への昇殿を望み・・・次の歌を詠んだ。

  

” うれしとも なかなかなれば いはし水 神ぞしるらん 思ふ心は "

【嬉しいなどと申すのも中途半端なようなので、申し上げまい。

  石清水の神は、言葉に言わずとも 心の内を分かってくださるだろう】

つま先は今夜 踵は明後日  井上一筒

kawaraban-1.jpg

[川柳瓦版 誌上競詠・『咲くやこの花賞』 のお知らせ]

皆様へ、「誌上競詠」へのご参加を心よりお待ちしております。

      内容は下記の通り、ハガキにて投句してください。

2月のお題 「始まる」 選者 森中惠美子

3月のお題  「食」     選者 井上一筒

4月のお題  「衣」    選者 赤松ますみ

参加料/1年間ー(24年2月~25年1月) 2000円 (切手可)

                          (同人、誌友は 1000円)
締切   毎月20日

表彰 毎年3月句会で発表。(一位に優勝杯 二位~十位に瓦版特製記念品贈呈)

投句先 (572-0844) 
        寝屋川区太秦緑が丘11-8    川柳瓦版の会宛
 

拍手[3回]

微生物だらけ砂漠は生きていた  小林満寿夫

f0409e73.jpeg

白河上皇が眠る成菩提院陵(じょうぼだいいんのみささぎ)

     (71) 後三条天皇―(72) 白河天皇 ― (73) 堀河天皇― (74) 鳥羽天皇―

  (75) 崇徳天皇―(76) 近衛天皇―(77) 後白河天皇―(78) 二条天皇  

  ※ ≪中大兄皇子=38代・天智天皇 天智天皇7年(668-672)≫
     
「院政のしくみ」

「院政」とは、

天皇の実父(上皇)・父方の祖父(法皇)が実権を掌握し、

国を統治する政治形態をいう。

普通は8歳の息子・善仁親王(堀河天皇)に譲位した、

白河上皇が、
院庁を開設した応徳3年(1086)を、

院政のはじまりと考えられている。

ただし、院政への足がかりをつくったのは、

白河上皇の父・後三条天皇である。 

透析は中大兄皇子から  井上一筒

 

後三条天皇は、

中宮(妻)が藤原摂関家の出身ではなかったので、

藤原氏に遠慮する必要はなかった。

加えて、彼は即位したとき、すでに35歳と壮年だったため、

みずから実権をとって、政治改革を行えたのである。

その後、後三条天皇は在位4年で、息子の白河天皇へと譲位。

上皇として自由な立場で政治を行なう、

つまり、「院政を始めるつもり」 だったようだ、

が、翌年病没してしまう。 

決別のほうへいざなう鎌の月  たむらあきこ

9495e9eb.gif


  白河天皇

 

その遺言には、

次期後継者だけでなく、その次の後継者まで定めてあった。

56代・清和天皇以来、

約200年も続いた藤原摂関家の政治支配から、

実権を取り戻すことが、

後三条上皇の悲願だったのである。 

止まるとき少しあばれる脱水機  高島啓子

 

白河上皇は、堀河・鳥羽・崇徳の3天皇の間、

43年にわたり、「治天の君」 と呼ばれ政界に君臨した。

※ 「治天の君」=天下を統治する君主をいう。

例えば、上皇は、以前のルールを無視して、

勝手に人事を行なったり、

寺の落成式が雨で3度中止になったのに腹を立て、

雨水を器に入れ獄につないだりと、

かなりの横暴ぶりを見せている。 

「思い通りにならぬのは、賀茂川の水、双六のサイ、僧兵だけ」

 

と豪語した「天下三不如意」は有名である。 

言わないでおこうと思うでもしかし  山口美千代

 

蛇足=僧兵とは、

寺院が自衛のため組織した武装僧侶のことで、

そのほとんどは腕自慢の農民が頭を丸めただけの人間で、

僧侶の国家試験に合格した人物は少なく、

お経を読めるものも稀だった。

ひらがながくねり鍵穴すり抜ける  谷垣郁郎

強力な「親衛隊」を持っていた白河院政の中枢機関は、

「院庁」である。

院庁は院(上皇の御所)に設置された私的機関だが、

ここから出される命令(院宣)には、絶大な効力があり、

朝廷はこれに逆らえなかった。 

待って従ってと波のペースに追いすがる  山田ゆみ葉

b933040c.jpeg

 

上皇の力がこのように強大になったのは、

直属の武力を有していたことが大きく関係する。

それは、「北面の武士」と称する、

武芸の達人を集めてつくった親衛隊である。 

※ 北面の武士=院の北側に置いて警備などを行なったことから。

 

当時の武士の活躍は、貴族にとって驚くべきことだった。 

かごめかごめ破壊光線発射せよ  蟹口和枝

 

当時、貴族は例外なく仏教信者であった。

だから、無理な要求をかかげて入洛してくる僧兵には、

仏罰を恐れて手出しができなかった。

ところが武士たちは、平然と僧兵を討ち殺したのである。

非情に勇ましく、頼りがいのある輩だった。

つまり、上皇に子飼の武士がいるということが、

そのまま、院庁の権威を増大させる要因になっていた。 

責任をもってわたしが壊します  竹内ゆみこ

 

院政は、白河・鳥羽・後白河上皇と、

「3代・約100年」にわたって続く。

圧倒的な権力を有する白河上皇が存命中は、

鳥羽天皇も、文句を言うことが出来なかったが、

43年にも及ぶ「白河上皇の院政」が終焉すると、

鳥羽上皇の白河上皇に対する『暗い憎悪の情念』は、

第75代・崇徳天皇に向けられることとなる。 

間近では見えぬ仮面を売りさばく  前中知栄

9ad8d75d.jpeg

 

鳥羽上皇は、まず崇徳天皇の、

母が中宮・璋子であることから、

白河上皇が厚遇した璋子と崇徳天皇を遠ざけはじめる。

すでに鳥羽上皇の気持ちは、

上皇の寵愛を完全に失っていた璋子よりも

14歳も若い得子(美福門院)へと向いていた。

そして、得子との間に出来た子を崇徳天皇に代えて、

わずか2歳の体仁親王(なりひと)を第76代・近衛天皇として、

即位させたのである。

≪しかし、近衛天皇は17歳で夭折する≫

おなじ痛みで悪を貫くこともある  前田芙巳代

その後、藤原家のごたごたと相まって、

鳥羽上皇の四男・雅仁親王(まさひとしんのう)が、

第77代・後白河天皇として即位する。

後白河天皇は、

やはり鳥羽上皇が嫌っていた璋子の子なので、

あまり後白河天皇を推薦してはいなかったが、

近衛天皇の失敗と、時の流れに押されて、

認証せざるを得なかった。 

酔っ払った骨だから誤差を始める  山口ろっぱ

 

『崇徳上皇と後白河天皇の対立』は、

自分の愛人である璋子を、

鳥羽天皇に嫁がせた「白河上皇の暴挙」にはじまり、

その対立が、藤原摂関家の

『藤原忠通と藤原頼長の対立』につながり、、

保元元年(1156)の「保元の乱」へと結びついていくのである。

三角の波にまつわる正気と狂気  小嶋くまひこ

『白河上皇への怨み』 によって、

崇徳上皇に「酷薄な対応」を取り続けた鳥羽上皇は、 

『私が死ねば乱世になるだろう』

 

と不吉な予言をしたとも言われる。

正にこの予言が的中し、「保元の乱・平治の乱」へ、  

すべては白河上皇の死(76歳)にはじまる乱世を導く。

  

≪ちなみに、78代・二条天皇、80代高倉天皇は後白河天皇の子≫

うっかりと弔辞に拍手してしまう  安井小夜

kawaraban-1.jpg

「お知らせ」

川柳瓦版では、誌上競詠・「咲くやこの花賞」を行っております。

これは毎年2月20日を〆とし、

翌年1月20日〆分までの12回を競うもので、

結社を越えて、皆様の参加をお待ちしております。

     
 
入選句(43句)は、翌々月の瓦版誌上で発表いたします。

投句方法 ハガキにて二句記載。

          (初回は投句料とともに封書でお願いします
     )(。)

 投句料  1年分2000円 (同人、誌友1000円)切手可 〔掲載誌料を含む〕


「平成24年度 第一回のお題」

    「始まる」  選者 森中惠美子 (2月20日締切)

投句先  572-0844
                 寝屋川市太秦緑ヶ丘11-8  川柳瓦版の会

    

拍手[3回]



Copyright (C) 2005-2006 SAMURAI-FACTORY ALL RIGHTS RESERVED.
忍者ブログ [PR]
カウンター



1日1回、応援のクリックをお願いします♪





プロフィール
HN:
茶助
性別:
非公開