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川柳的逍遥 人の世の一家言
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男の罪を風の罪だと思わねば  森中惠美子

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             清盛ゆかりのご神水

≪若一神社境内にある清盛ゆかりの御神水。

  開運出世の水と伝えられている≫

「清盛の名前の由来」

清盛の出生をめぐるエピソードがもう一つある。

同じく「平家物語の祇園女御」にある逸話だ。

女御忠盛に嫁ぐ際、白河忠盛に、 

「生まれてくる子が女子ならば私の子にしよう。

  男子ならば忠盛の子にして武士として育てよ」

 

といったところ、果たして生まれたのは男子であった。

忠盛はすぐこのことを白河院に報告しようと思ったが、

適当な機会がなかった。

はっとする間もなく固体になっていた  阪本きりり

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さすがに、白河院の皇子の話であり、

他人の前で、あけすけに語るわけにはいかなかったのだろう。

そのうち、白河院が熊野詣に赴くことになり、

忠盛も従った。

御幸の途中、忠盛は赤ん坊の様子を伝えようと、

白河院が休憩しているところへ参上した。

見ると道端の藪の中に、小さな山芋がたくさん生えている。

忠盛はこれを袖に入れて院の御前へまいり、

和歌に託して、 

「いもが子は はふ程にこそ なりにけれ」
 
と詠んだ。 

新任の巫女は万葉語を話す  井上一筒

 

生まれてきた皇子(清盛)をやまいもの子にかけて、 

「赤ん坊がハイハイするくらい大きくなった」

 

ということを表現したのである。

白河はすぐ気づいて、 

「たゞもりとりて やしなひにせよ」
 
『そのまま盛り採って栄養にせよ』

と告げた。 

手拍子を貼って完成させる紙  井上しのぶ

 

忠盛がそのまま引き取って、養育するよう命じたもので、

「忠盛」「ただ盛り採る」をかけてある。

駄洒落の応酬のようだが、

これで会話が成立するのだから優雅なものである。

神様遊戯ツリブネ草咲いた  くんじろう

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「清く盛ふる」

その後も、白河院はそれとはなく,

皇子のことを気にかけていたが、

あるとき皇子があまりに夜泣きが厳しいと聞いて、

次の歌を忠盛に贈った。

「夜なきすと  たゞもりたてよ  末の世に

  きよくさかふる  こともこそあれ」

『その子が夜泣きをしても大事に育ててくれ、忠盛よ。

  将来、平家を繁栄させてくれることも あるかもしれないのだから』

団子鼻ゆいしょ正しいあんたの子  富田美義

そして、この歌の下の句にある、

『きよくさかふる(清く盛ふる)』から「清盛」と名づけられたという。

もとより物語の創作であろうが、よくできた話ではある。

母に先立たれたとはいえ、

白河院や祇園女御など、時の有力者の庇護を受け、

恵まれた環境の中で、

幼年期を過ごしたのである。

沖ははるかうねりは重いものと知る  小嶋くまひこ

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破戒系そのまま蛸になるだろう  岩根彰子

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   「殿上闇討」事件

≪武装して庭に控えているのが平家貞

    殿上で太刀を抜いているのが平忠盛

    家貞は忠盛・清盛の二代に仕えた。 (平家物語絵巻第一巻)≫

「殿上闇討」

長承元年(1132)11月、

念願の殿上人となった忠盛に、

反感をもつ貴族たちが相談して、

来るべき「豊明の節会」の際に、

忠盛を” 闇討ち ” にしようと企んだ。

それを知った忠盛は、懐に忍ばせた刀を抜き、

襲撃者の度肝を抜く。

後日、貴族たちは手出しができなかった腹いせに、

忠盛が宮中に刀を持参したことを鳥羽院に告げるが、

それは、木刀に銀箔を張っただけのものだったため、

上皇は忠盛の機転を大いにほめたという。 

* 豊明(とよのあかり)の節会=新嘗祭の最終日に行われる宴会。

 

赤ペンのインクが洩れる雑木林  湊 圭司

「闇討ち」などというと、暗殺を想像してしまうが、

そのような物騒なものではなく、

せいぜい乱暴狼藉を働く程度のことであったのだろう。

殺人を生業とする武士の、

しかもその棟梁に暴力を振るおうというのだから、

見上げたものだが、

その程度の嫌がらせしかできないところに、

「斜陽の貴族階級」「新興勢力である武士」の、

違いを見ることができる。

さるすべり赤い爪跡ふえている  安土理恵

もっとも、肩すかしをくらわされた貴族たちは、

直後の宴席で、さらに卑劣な嫌がらせを試みる。

天皇の命により、

忠盛が得意の舞を披露していたところ、

伴奏していた貴族たちが、急に拍子を変えたかと思うと、 

「伊勢平氏はすがめなりけり」

 

とはやし立てたのである  

紫を脇に抱えているいけず  山本早苗

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忠盛銀箔の木刀

  

伊勢平氏の忠盛が " 斜視(すがめ) " であったのを、

「伊勢産の瓶子(へいし)が粗悪で、

酢を入れる酢甕(すがめ)にしか使えないこと」 

にかけて、
このようにからかったのだ。

公衆の面前で恥をかかされ、怒りに震える忠盛であったが、

宮中の酒席ではいかんともしがたく、

悔しさを押し殺しながら、早々に退出しるしかなかった。

正解硫酸銅の青の中  井上一筒

この「殿上の事件」を清盛が知っていたのかどうか?

は分からないが、何らかの形で、

耳にする機会もあったのではないだろうか。

こうした屈辱に耐えなければならなかったのは、

忠盛だけではなかった。 

≪清盛が「鼻平太」のあだ名で呼ばれたというのは、

    このころのことである。 「源平盛衰記」≫

 

爬虫類でないが近いと言うておく  井上恵津子

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鳥羽院の寵臣である藤原家成が、播磨守であったころ、

清盛は朝夕に柿色の直垂(ひたたれ)に縄緒(なわお)の

足駄(あしだ)という貧相なかっこうで、

家成邸に出入りしていたので、

京童(きょうわらわ)は「高平太」といって笑った。

清盛は恥ずかしく思ったのか、

扇で顔を隠したが、扇の骨の間から鼻が見えていたので、

京童は、「高平太殿が扇に鼻を挟んだぞ」 といって、

その後は " 鼻平太 " と呼んだという。
 
絆創膏貼って剥がすじゃないか イタイ  山口ろっぱ

外見を笑いの種にする発想は、

「伊勢平氏はすがめなりけり」

にも通じる陰湿で幼稚なものだ。

ただし、家成の播磨守任官は、清盛が十三歳のときであり、

すでに官位を得て貴族の仲間入りをしていた。

忠盛も受領を歴任して、裕福だったはずであり、

この逸話には、かなりの誇張が混じっていると思われる・・・。 

≪が、当時の京都や貴族社会には、依然として

   平家をあなどるような雰囲気があったようだ≫

 

火葬場の横に噂が積んである  和気慶一

このような屈辱を受けるたびに、清盛はいつか、

「貴族たちを見返してやりたい」

と思いを抱いたかもしれない。

だからといって、

「いつか天下をとってやろう」

とまでは、考えもしなかっただろう。 

渋い茶の底で沈んでいる我慢  百々寿子

 

清盛は現実主義者である。

いくら貴族たちのあざけりを受けても、

彼らに公然と仕返しできる力は、今の平家にはない。

屈辱に耐え忍ばなかればならない現実を、

かみしめていたのではないだろうか。

生垣の猫のこの世をこことして  筒井祥文

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帽子の下にカラスを飼っている男  奥山晴生

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        忠盛燈籠

清盛の父親、平忠盛ゆかりの燈籠は、

六波羅蜜寺からそう遠くない「八坂神社の境内」にある。

モヤモヤした伝承のベールをはぎとっていくと、

「残るは祇園女御がおそらく清盛の養母だったであろう」

との一点のみ。

その実在した女御の痕跡は、時代に翻弄されつつも、

六波羅蜜寺(京都市東山区五条通大和大路上る東)に、

いまもとどまっている。

疑問符の付かない話しませんか  清水すみれ 

「清盛出生の謎」

 

勃興期の平家は、白河法皇の引き立てによって、

力を蓄えていったわけだが、

「清盛の出生」にも法皇の存在は、

大きな影を投げかけていた。

古くから、清盛は白河法皇の「落胤」だったという説がある。

渦を巻く遺伝子しどろもどろの笑み  山田ゆみ葉 

『平家物語』ー「祇園女御(ぎおんにょうご)」の巻より。

 

白河法皇が寵愛する女性に

” 祇園女御 ”
と呼ばれる女性がいた。

京都東山の祇園に住んでおり、

正式な女御ではないが、

法皇のあまりの寵愛の深さから、このように呼ばれていた。

白河法皇はしばしば、お忍びでこの女性のもとへ通っていたが、

ある五月雨の夜、女御の邸宅の近くの御堂で、

不気味な光を発する鬼のようなものに出くわした。 

≪*女御=天皇の妻のうち、中宮の下の位≫

 

アリバイが今日に限ってありません  竹内ゆみこ 

『平家物語』によるとこうである。

 

永久年間(12世紀初頭)、白河法皇が雨の夜に、

寵妃の祇園女御を訪ねるさい、前方に鬼のような姿を認めた。

驚いた法皇は、

北面の武士として護衛にあたっていた平忠盛に、

「あの鬼を成敗せよ」 と命じた。

法皇は供の忠盛に討ち取るよう命じたが、

忠盛は、正体を見定めるべく生け捕りにした。

すると、それは燈籠に明かりを灯そうとしていた社僧で、

雨よけの蓑が灯火で、銀の針のように見えていただけだった。

白河法皇は、 

「あの者を殺してしまったらどれほど後悔したであろう。

  弓矢とる身(武士)とは感心なものよ」

 

と、忠盛の沈着冷静な行動を褒めて、

寵愛の深い祇園女御を忠盛の妻に与えた。

このときの燈籠が、「忠盛燈籠」 だ。 

整骨屋左右の靴を入れ替える  合田瑠美子

 

白河法皇から忠盛に下賜された祇園女御は 

このときすでに身ごもっていた。

 

そして、やがて男児を出産する。

それが平清盛である。 『清盛皇胤説』

≪実際は祇園女御の妹が産んだ子が、清盛だったともいわれる≫

『仏舎利相承次第』の説。(近江・胡宮神社) 

貴賓席にあなたの居場所とってある  皆本 雅

 

ご落胤伝説というと。

たいていは根も葉もない噂話にすぎないことが多いが、

清盛の場合は事情が違う。

現在、多くの歴史学者が、

「清盛の落胤説を支持している」 のだ。

清盛の尋常ではない出世のスピードを見ると、

天皇家の血筋でなければ、説明がつかないというのである。

空豆のロックンロール持て余す  前中知栄

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     岩清水八幡宮

確かに「石清水・臨時祭」に参加する清盛に、

法皇の甥である源有仁が、従者を提供しているのも、

白河法皇と清盛の特別な関係を示唆している。

12歳での「兵衛佐の任官」が、異例だったことや。

さらに不自然なのは、「平治の乱」後の急速な昇進である。

武士にとって、大きな壁である「三位」を越えて、

「公卿」に昇進してから、
わずか7年で、

人臣最高の官職である「太政大臣」に登りつめたのである。

これは、当時の慣例からして、

天皇家との血縁関係なくしては、考えられないといわれている。 

≪*公卿=三位以上の位階をもち、国政の審議にも携わる高級貴族≫

 

幾何学の都市に破調を連れ回す  きゅういち

血縁関係のことだけに、断言できる証拠はないが、

少なくとも当時の貴族たちの頭に、

清盛が「皇胤である」という認識があった可能性は高い。

これが本当なら、鳥羽法皇は甥、

後白河法皇は、甥の子ということになる。

帯状疱疹 正午前の時報  井上一筒 

後年のことになるが、

 清盛が18歳で「従四位下」に叙されたとき、

清盛が法皇の落胤であることを知らない人々は、

その出世ぶりに目をみはり、

「花族のようだ」 といぶかった。

だが、事情を知っていた鳥羽院だけは、

「清盛は花族に劣らない」 と述べたといわれる。 

≪*花族=「摂関家」に次ぐ「清華家」の家柄≫

 

強力な磁場でまん丸二分され  都司 豊 

「平家物語」の逸話だが。

 

鳥羽院が清盛を重用し続けたのも、

出生の秘密と無関係ではなかったのかもしれない。

そうであるなら、 

「清盛自身も出生の秘密を知っていた」  ということになる。

それは清盛にとって、誇り であっただろうか・・・?

あるいは、 と感じただろうか・・・? 

臍の緒よ憶い出せない川がある  古谷恭一

 

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萌え系のウツボのぼんのくぼの垢  井上一筒

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      若一神社(にゃくいち)

”歴史の記憶”

清盛の居住地といえば、まず六波羅、次に福原が浮かぶが、

もう一つ京の西八条を見落としてはならない。

清盛は都の南西部に位置するその地にも、邸をかまえ晩年を過している。

「平氏盛衰の流れ」

平氏は、源氏とともに、その武力を院に重用されて朝廷に仕えたが、

「保元・平治の乱」で源氏が衰退すると、

平氏の棟梁・平清盛は急速に勢力をのばし、

朝廷での高位高官を独占し、

1179年、後白河法皇を幽閉して、

クーデターを決行、「平氏政権」を樹立した。

平氏が朝廷内で台頭するきっかけになったのは、

清盛祖父・正盛白河上皇に領地を寄進し、

院の近臣に取り立てられたことにあった。 

青空をぎゅっとつかんで立ち上がる  竹内ゆみこ

 

やがて正盛は、「追捕使」として武名をあげ、

その子・忠盛「海賊の征討」で勇名をはせ、

白河上皇の側近として仕えた。

忠盛はその後、鳥羽上皇に寵愛され、

武士としては、異例の昇殿を認められた。 

象がやってくるうらうら昼下がり  山口ろっぱ

 

父祖の遺産を継いだ清盛、「保元・平治の乱」に勝利して、

後白河法皇のもとで「公卿」に就任、

それからわずか数年で

「従一位太政大臣」にまで駆けのぼった。

それにしても、異常な昇進スピードである。 

水を得た魚がパンを焼いている  神野節子

 

これには理由があった。

実は、清盛忠盛の子ではなく、白河上皇「御落胤」というのだ。

忠盛は、上皇から祇園女御の妹を賜るが、

そのとき彼女は、上皇の子をはらんでおり、

それを知りつつ、忠盛は彼女をもらいうけ、

生まれた子(清盛)をわが子としたという・・・?。 

街に男がいましたとさ おしまい  中野六助

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『清盛御落胤説』

元永元年(1118)、平清盛忠盛の長子として生れたとされる。

はたして、清盛は忠盛の実子なのか・・・?、

一方で白河法皇のご落胤という説がある。  

「祇園女御説」

  

『平家物語』の語り本系の諸本は、

白河天皇の寵姫・祇園女御を清盛の母親とする。 

「女御は三千の鍾愛、一人のみなりけり、ただの人にはおわせざるべし」

 

といわれるほど法皇の愛情を一身に受けていた。『今鏡』 

≪女御は、法皇の乳母二位・藤原親子の娘で、

   夫は、源仲宗の子・惟清と推定されている≫

 

女御は不妊であったらしく、

法皇とのあいだに子を儲けることはなかった。

そのため、待賢門院(崇徳・後白河天皇の母)や仁和寺の僧禅覚

清盛を猶子とした。 

湧き水できれいに洗う両目蓋  井上しのぶ

 

「祇園女御の妹説」

滋賀県好胡宮神社の「仏舎利相承系図」によれば、

女御の妹が、法皇に召されて懐妊し、

忠盛が賜って生れたのが清盛で、

女御が清盛を猶子にしたとする。 

≪またその後、「姉」・「妹」が後筆で作為があることがわかり、

    姉妹であることを簡単に肯定できなくなった≫

おもい思いの想いを混ぜて日が昏れる  黒田忠昭

彼女が母なら、清盛は3歳で母と死別したことになる。

清盛の御落胤説は、

こうした白河法皇との関わりのなかから生れた説で、

清盛が平治の乱から10年にも満たない期間に、

武家として初めて、人臣の最高官位である「従一位太政大臣」

昇りつめたことなど、

その立身出世が背景にあったと考えられる。 

出生地いまだにどこか分からない  新家完司

 

「清盛クーデター」

治承3年(1179)11月14日、

清盛は福原から、数千騎の軍兵を率いて上洛し、

クーデターを励行、平氏政権を樹立する。

関白・藤原基房を罷免、配流に処し、院近臣ら39名を解官、

後白河法皇「鳥羽殿」に幽閉、全権を掌握する。 

汗一つかかず獲物をかっさらう  三村一子

 

翌・治承4年2月、高倉天皇が譲位し、

3歳の安徳天皇が皇位を嗣ぎ、「高倉院政」が始まった。

こうして高倉院政を基軸に、安徳天皇の「外祖父」として

摂政・基道を補佐し、一族を議政官に配置し、

全国の半ば近くの国々を手中に収め、

独裁的な政権を作り上げた。 

≪このクーデターが、清盛悪人説となった理由だろう≫

 

沈黙を破って椅子の叫び声  山本芳男

「何故、清盛はクーデターを起こさなければならなかったのだろう?」

清盛は武門の出身である。

祖父・正盛、父・忠盛は院の北面として、

京都の治安維持に活躍し、

一方、「海賊追討」を通して、西国の在地武士との間に私的な

支配関係・主従関係を作り上げた。

平家は西国武士の棟梁として、

その多くを家人にして、武士団の統合を進めていた。

その西国の地盤を引き継ぎ、

「保元・平治の乱」に勝利したのが清盛であった。 

うしろ髪自分で引けば気持ちいい  湊 圭史

 

武家が公卿に列することさえ異例の時代、

清盛は、従一位太政大臣に叙任され、

娘・徳子が高倉天皇の女御として入内、

ついで、「中宮」となっている。

このような栄達は、貴族たち、とくに院近臣たちの平家に

対する反感を高める結果となった。 

≪これは、武家である平家が、古くからの「貴族政権」のなかに入り込み、

  栄達を求めたことに起因する、歴史的必然であったと考えられる≫

 

謎かけのもぐら競わす西日部屋  阪本きりり

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西大路通りに面して聳え立つ若一神社前の大樹

≪中央の楠の大樹は清盛お手植えと伝えられる神木≫

 

「盛衰」

こうして極官についた清盛は、

平氏一門をどんどん高位高官に取り立てた。

結果、公卿16人、殿上人30余人に達し、

平時忠などは、「平氏でなければ人ではない」 と豪語した。

また、平氏一門の知行国は30ヵ所を超え、

所有する荘園は、500ヵ所以上におよんだと伝えられ、 

日本の半分以上が、平氏の持領となり、盤石な経済的基盤が確立された。 

 

* 知行国=朝廷から与えられた国

 

花園を探しに行った春眼鏡  清水すみれ

くわえて、宋(中国)との貿易を積極的に行い、

莫大な富を手中におさめた。

さらに清盛は、摂関家同様、

娘の徳子高倉天皇に輿入れさせ、

念願の皇子(のちの安徳天皇)が誕生すると、すぐに皇太子とし、

1178年に帝位につけて、外戚として権力をふるった。

同時に、摂関家の反感を買わぬよう、

娘の盛子関白・基実の妻にしている。 

目の前の小鳥を掴む前祝い  筒井祥文

 

ただ、平氏は朝廷での栄進に強く執着したため、

武士としての性質が薄れて貴族化し、

地方武士とのつながりが弱まってしまった。

清盛はこの弱点を補うため、

諸国の荘園・国衙領(公領)の地頭の任免権を獲得、

畿内や西日本の武士たちを地頭に任命して、

組織化をはかったが、

鎌倉幕府のように徹底されなかったために、

「治承・寿永の乱」で源氏に敗れ去り、

わずか数年で、平氏政権は崩壊してしまった。 

くしゃくしゃとぐちゃぐちゃ車庫入れの時間  岩根彰子

 

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戒名へ人のランクがまだつづく  たむらあきこ

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      六波羅蜜寺

六波羅蜜寺は、往時、栄華をなした平家の本拠地にある。

その清盛像といい、戦火をくぐったらしき供養塔といい、

ここには、清盛の確かな存在感がうかがえる。 

「一介の武士にすぎなかった清盛が、何故短期間のうちに、

  あれほど出世できたのか。

  実はこの疑問を軸に据えると。

  清盛にまつわるいろいろな伝承の意味がみえてくる」

 

                           (甲南大学田中教授)

もろともにあわれと思えあんた誰  山田ゆみ葉

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  経を読む入道姿の清盛像

「少年貴族・清盛」

大治四年(1129)三月、京都・岩清水臨時祭の当日。

舞人に選ばれた貴族の少年たちの中で、

ひときは人々の目を引いた公達がいた。

身の回りの世話をする雑色たちの、美しい装束もさることながら、

源有仁(ありひと)という、身分の高い貴族の従者が、

馬を引いていたことも人々を驚かせた。

この貴公子こそ、武士として始めて、

律令制最高の官職である太政大臣にのぼりつめ、

初の武家政権を樹立した「平清盛」その人であった。

2周半して大鹿の角となる  井上一筒

「臨時祭」における清盛の雄姿に、

人々が驚きの目を向けたのも無理はなかった。

何しろ、源有仁は、

政界の最高実力者である白河法皇「猶子」であり、

当時、内大臣という高い官職についていた。

それに対して、清盛は12歳。

この年1月に元服し、

従五位下・左兵衛佐(さひょうえのすけ)に任じられ、

貴族の仲間入りを果たしたばかりであった。 

≪猶子=形式的な養子関係≫

 

小走りが続くよ春の土の上  井上しのぶ

*「源有仁」とは?

元永元年(1118)、白河院の猶子として臣籍に下り、源姓を賜わる。

才も容姿も優れ、若くして詩歌管弦に堪能で、

「光源氏などもかかる人をこそ申さまほしく覚え給ひしか」(今鏡) 

まっすぐで切れ味のいい人だった  河村啓子

 

父・忠盛は白河法皇の近臣で、

法皇から厚い信頼をよせられていたものの、

そのころは内裏への昇殿すら許されていない

一介の地方官に過ぎなかったのである。

清盛の任官も、一般の武士に比べて、格段に優遇されていた。

武士の子供が朝廷の武官に任じられる場合、

普通は三等官である「尉」から始まることが多いが、

清盛は、二等官である「佐」からのスタートであった。 

しがらみを蹴ると小物は生きられぬ  中村牛延

 

しかも近衛佐という官職は、

上流貴族の公達が任じられるものであり、

内裏・清涼殿への昇殿が許される「殿上人」への最短コースだったのだ。

事実、この人事は貴族たちを大いに驚かせ、

ある貴族は「人耳目を驚かす」と日記に記したほどだった。

それにしても、

武士の子に過ぎない清盛が、なぜ、ここまで優遇されたのだろうか。

そこには、清盛が「生まれ育った環境」が大きく影響していた。 

獅子の血の半分はまだ白いまま  小嶋くまひこ
 
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『因みに蛇足』-「清盛スピード出世」

元永元年(1118)、平忠盛の嫡男として清盛生れる。

大治4年(1129)、清盛12歳の正月6日、従五位下叙任。

            正月24日、左兵衛佐に任官。

天承元年(1131)、清盛14歳、従五位上に叙任される。

長承元年(1132)、清盛15歳、”殿上の闇討ち事件”。

保延元年(1135)、清盛18歳、正月5日、正五位下に叙任。

                    八月、従四位下に叙任。

   2年(1136)、清盛19歳、四月、中務大輔に任官。

   3年(1137)、清盛20歳、肥後守に任官。(22歳の時、重盛誕生)

   6年(1140)、清盛23歳、従四位上に叙任。

永暦元年(1160)、清盛43歳、正三位に叙任。

応保元年(1161)、清盛44歳、中納言に昇任。

    2年(1162)、清盛45歳、従二位に叙任。

永万元年(1165)、清盛48歳、大納言に任官。

仁安2年(1167)、清盛50歳、従一位・太政大臣に叙任。 

*太政大臣=令官制の中で最高の役職。定員1名。

 

   名誉職として職掌自体はとくにはないが、最も重く扱われる。

ひらめきを武器に階段駆け登る  根岸方子

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