忍者ブログ
川柳的逍遥 人の世の一家言
[215] [216] [217] [218] [219] [220] [221] [222] [223]

恋猫の雨の滴を拭いてやる  合田瑠美子

おりょう龍馬と初めて逢ったとき、

おりょうは、龍馬の印象を次のように語っている。

『ソレはソレは、妙な男でして、丸で人さんとは、

 一風、違っていたのです』

2dfeb025.jpeg

「龍馬と結婚したおりょう(楢崎龍)が、龍馬とどこで、どのように知り合ったか?」

『諸説色々』

文久3年(1863)2月ごろ、

おりょうらの家が、類焼したとき煙にまかれた弟妹を、

龍馬が、救ったのが最初とされている。

また、生活苦から、大坂に売られそうになった妹を、取り戻そうと、

おりょうが、乱暴な仲介者と、争っているところを、

龍馬が救ったのが、きっかけとなったという説もある。

ビー玉の中で昔が伸びをする  谷垣郁郎 

6beba427.jpeg

一方、龍馬はおりょうのことを、乙女に宛てた手紙で、次のように評している。

「まことおもしろき女」

2個目の説は、

龍馬自身が、姉・乙女に宛てた手紙で語っている出来事だが、

妹を取り戻そうとするおりょうを、救ったとき、

「二人はすでに、知り合っていた」 という話しもある。

いずれにせよ、龍馬が、おりょうの存在を、土佐の家族に知らせたのは、

慶応元年(1865)9月に、乙女に宛てた手紙である。

やんわりと握る女もハンドルも  菱木 誠

その手紙で、龍馬はおりょうのことを紹介し、

その妹弟たちを、扶助していることを告白している。

大河ドラマ『龍馬伝』では、妹を助けるストーリーの後、

まもなく新選組による池田屋事件が、起こるのであるが、

ちなみに、この池田屋事件は、元治元年(1864)7月の出来事である。

≪おりょうが、晩年に語った話によれば、龍馬が、

  姉の乙女に手紙で知らせる1年前には、「すでに、内縁の関係だった」 

  と述べている≫

せまいせまい箱から出たいかくし事  柴本ばっは

0f05dda7.jpeg

おりょうは、天保12年(1841)の京都生まれで、龍馬より6歳年下。

≪生家は、京都市中京区柳場通りー三条通に小さな石碑が建っている≫

父親は、医師の楢崎将作。

将作は、勤皇思想の持ち主で活動家だったため、「安政の大獄」で逮捕され、

獄死している。

そのため、母親と長女のおりょうは、幼い4人の弟妹を抱えて、生活に困り、

おりょうは、17歳のとき、「扇岩」 という旅館へ、働きに出たという。

龍馬と出会ったのが、火事場での救助を、”きっかけ”とするなら、

おりょうが扇岩へ働きに出てから、約4年後のことになる。

まだ噛んでいる夕飯のモンゴイカ  井上一筒

その後、おりょうは扇岩を辞め、文久3年(1863)8月に、

大和(奈良)で、挙兵した尊皇攘夷派の”武装集団{天誅組}”残党の賄いとなる。

その後、天誅組が、幕府の追討を受けると、

おりょうも、その逃亡に伴って各地を放浪。

≪その放浪中に、龍馬と出会ったという説もある≫

ともかく、ふたりが出会うのは、龍馬が27歳、おりょうが22歳のころで、

「おりょうの奔放で、自由な性格が気に入った」 と伝えられている。

神様にまかすと運を省かれる  泉水冴子

19ccc0af.jpeg

     方広寺の庭

翌・元治元年(1864)おりょうは、

天誅組の残党たちと、幕府の追討を避けるため、

大仏(大仏殿・方広寺)に隠れていた。

そのころ、粟田口青蓮院内金蔵寺の住職の仲人で、

龍馬とおりょうは、縁組をしたという説もある。

もし、そうであれば龍馬が、

神戸の海軍塾塾頭として、航海術などを学んでいたころのことで、

二人が出会ってから、約1年後のことである。

ペン胼胝の先にはなしが引っかかる  藤井孝作

a92969e5.jpeg

  後年のおりょう

なお、板垣退助、後藤象二郎と並んで「土佐三伯」と、呼ばれた佐々木高行は、

おりょうについて、

「大変な美人だが、賢婦といえるかどうかは疑わしい。

 ただ、悪人でないことはたしかである」 

と評している。

あひるの子親が作った罪と罰  山本輝美

P1010007.jpg

  武信稲荷神社

おりょうの父が入っていた獄舎は、京都中京区六角通り大宮にあり、

現在は、『盟新』 というセンターになり、

龍馬とおりょうは、よくそこの近くの神社(武信稲荷)まで、デートをしたという。

というのも、その神社に20mほどの「大きなヒノキ」があり、

二人は、その木に登り、父の様子を見に来たという。

そのヒノキの下の説明文を読むと・・・。

ともしびやひとりを眠る眠らせる  山本柳花

P1010012.jpg

『坂本龍馬とおりょうの縁を結んだ榎』

神社の南には、江戸時代幕府直轄の「六角獄舎」があり、

幕末勤王の志士が、多数集監されていた。

その中に、坂本龍馬の妻・おりょうの父も、勤王家の医師であったため、

捕らえられていた。

龍馬とおりょうは、ここに何度か訪れるが、

龍馬自身も安全でない身であり、面会はかなわない。

それ故、この大木の上から、様子を探ったという。

消しゴムでそっとあなたを泣きながら  北原照子

P1010013.jpg

その後、命を襲われ、追われる龍馬は、身を隠すことになる。

おりょうは、龍馬の身を案じながら、過ごしていた。

そんな折、二人で何度も訪れた「武信稲荷神社の”榎”」を、ふと思い出し、

訪れた。

するとそこには、龍馬独特の字で「龍」の字が彫ってあったという。

色あせた希望をいつも抱いている  嶋澤喜八郎

8b7ef5eb.jpeg

『自分は今も生きている。そして京都にいるのだ・・』

という龍馬からの伝言であった。

龍馬が京都にいることを知ったおりょうは、二人の共通の知人を訪ね、

二人は、再び出会えたという。

御神木の榎(えのき)は、

850年の生命力から、大慶長寿の信仰が厚く、

また、「縁の木(えんのき)」とも読まれ、

御神木の榎に宿る「弁財天」が祀られている。

御柱の「宮姫社」は縁結び、”恋愛の神”としても知られ、

龍馬とおりょうも、そんな縁結びの力をいただいた,、

二人なのである。

ふたりして上げた花火をどうしよう  森口かなえ

現在、獄舎のあった『盟新』では、

月一回・一週目の日曜日に、「川柳黎明」の「句会」が開かれる。

今回は、3句黎明の句を載せました。

神社へ寄ったついでに是非一度おこしやす。

くすり屋の階段引き出しから梅雨に  田中博造

拍手[1回]

PR

二進法古い頭は受けつけず  杉本克子

戦いには、常に、『二つの正義』 が相克する。

幕府を討つ側の青年たちに、一つの正義があれば、

彼らを取り締まる、「新撰組」 の側の青年たちも、

また、一つの正義を持って、行動したのである。

稜線へ放った声が戻らない  山口ろっぱ

394548ff.jpeg

その対立する二つの正義は、長州と江戸から打ち上げられて、

それぞれが、独自の放物線を描き、

京都三条河原町付近で交わって、火花を散らした瞬間が、

幕末維新に特筆される、「池田屋事件」である。

このあたりから、社会は騒然となり、

二つの大きな正義は、蒼き青年の群れに 操られていく・・・。

戦いあった”維新の群像”は、みな、このような正義を確信した行動と、

対立正義を、不正義と決め付ける、詮索だろう。

パレットに青青青を足している  前中知栄

結果的に、幕府が倒れ、維新がなったのだけれども、

一つの正義が、価値を認められて、勝利をもたらしたということではなく、

挫折を重ねながらも、

次のスプリング・ボードに移ることの出来た、歴史の幸運に巡り合ったほうが、

勝った。

たとえ、幕府軍が勝っていても、

世界史の勢いからして、日本が、鎖国を続けることは出来ず、

幕府に好意的なフランスの強い影響下で、”新生日本”が、

誕生したことだろう。

正論の四隅削ると転げ出す  津田照子

歴史に、「もしも・・ なら・・」 はタブーとされるが、

維新史が逆転していたら利根川は、東京セーヌ川と呼ばれ、

フランス料理店が、下町の食文化を定着させ、

横須賀あたりは、フランス人街として栄え、

今では、成田とパリとを結ぶ空路に、ジャンボジェットが、発着していたかも知れない。

漂白剤ひとふり前科消しました  和田洋子

ae1b8641.jpeg  c7f1b38e.jpeg

幕末から明治にかけて、最後まで、反幕府勢力と死闘を繰り広げた「新選組」。

そこに集ったのは、

近藤勇・土方歳三以下、農民や浪人など、社会の底辺に生きる若者たちだった。

国の行く末を憂えた彼らが、政治に参加する唯一の道。

それは、”剣の腕前を上げること” しかなかった。

幕府が初めて、公募した将軍の護衛役に、近藤たちは勇んで志願し、

遂に念願を果たす。

≪ 浪士隊募集の言葉―

  尽忠報国の志を元とし、公正無二、身体強健、気力荘厳のもの、

  貴賤老少にかかわらず、御召寄せに相成り候 ≫

散りばめた螺鈿も海を恋しがる  古田祐子

そこで、結成された「新撰組」は、

武士道が失われていく幕末に、一生懸命に志を掲げ、

磨いた剣の腕をもって、純粋に、そして健気に、国に尽くそうとした。

それはやがて、幕府中枢に利用される形で、

抵抗勢力との戦いの矢面に、立たされ、

「何のために戦うか」 というビジョンを持てぬまま、

悲劇のドラマを演じた、”最後のサムライたち” の姿なのである。

ワクチンは欲しがりません国のため  山田順啓     

「会津藩預かりとなった直後に、近藤勇が郷里に送った手紙」

” 天下の安危、切迫のこのとき、寸志奉公つかまつり、命捨つるべしと覚悟 ”

                     〔文久3年3月23日付・近藤勇書簡「志大略相認書」〕

≪このとき、京都守護職・会津藩主・松平容保から下されたのが、『新撰組』の名である≫

「京都の地は危険であるから、命を捨てる覚悟でおります」 と言うのだ

このように、言い切る近藤勇の率いる、新撰組は、

”腕は立つ、なお命を惜しまない”、当時、最強の”武闘派集団”であった。

ファイナルな形で風に舞ってゆく  佐藤正昭

2360a17e.jpeg


八木邸で共に殺された芹沢・平山の墓

とにかく、新撰組の隊員たちは、上から下まで強かった。

そんな中で、一番強かったのは? 

1位は、新撰組・初代・局長 芹沢鴨(せりざわかも)

2位は、2番隊・組長 永倉新八

3位は、1番隊・組長 沖田総司

4位は、副長 土方歳三 2代目・局長 近藤勇

5位は、3番隊・組長 斎藤一  となる。

其の他大勢の中の私が省かれる  坂本晴美

理由ー 一位の芹沢は、滅茶強かったようだ。

会津藩が、方歳三・山南敬助・沖田総司・原田左之助らに、

芹沢の暗殺を密命した折。

芹沢は、酔っていた上に、寝込みを襲われながらも、4人の剣客を手こずらせた、

その凄さが窺える。

2位の永倉新八といえば、沖田総司に並ぶ、新選組大幹部の一人。

沖田は、新八に助けられた、池田屋事件でランクを逆転した。

そして、剣術の腕は「沖田さんより進んでいた」 と元隊士(阿部十郎)も証言している。

4位の二人は、沖田も同じ道場で、沖田より弱いが、互角の腕前。

5位は、腕前で、順当に決まった、3番組長の役職である。

人間を刻んだ不幸な包丁  小栗和歌子

蛇足になるが、当時、江戸三大道場といわれた、

千葉周作(北辰一刀流)の玄武館、桃井春蔵(鏡新明智流)の士学館、

そして練兵館(神道無念流)があり、

その中でも最強をほこったのが、”神道無念流”である。

芹沢鴨、永倉新八は、この神道無念流の免許皆伝者。

近藤勇土方歳三、そして天才の沖田総司は、天然理心流の免許皆伝者。

岡田以蔵、稲次春之助(新選組・隊士)は、一番古い、鏡新明智流。

坂本龍馬は、承知のとおり、北辰一刀流の免許皆伝者である。

しかし、免許皆伝といっても、当時は大安売りでお金で買えたものである。

基本的に、刀に対する理念が違う、龍馬や、以蔵には、

隆盛を誇った”無念流”や、新撰組流儀の”理心流”には、

到底、歯がたたなかった。

さっと吹く風に力を試される  佐藤正昭

354364c8.jpeg

『龍馬伝』・第22回‐「龍という女」 あらすじ

容堂(近藤正臣)の、帰国命令を拒んだ龍馬(福山雅治)ら、

勝塾の土佐藩士は、脱藩浪士の身となる。

一方、役人に追われる以蔵(佐藤健)は、なつ(臼田あさ美)のもとへ逃げ戻る。

だが、なつは、「以蔵が人斬りだ」と知り、以前のように接することができない。

それを見た以蔵は、一人去る。

「自分が追い出したのかもしれない」 

と感じたなつは、龍馬に彼を捜してほしいと懇願。

龍馬は京へ向かう。

失くしてから大事な人と思い知る  浅雛美智子 

4d5b21be.jpeg    

京では、攘夷志士が斬られる事件が、ここかしこで起こっていた。

幕府が集めた浪士組・「新選組」が、

攘夷派の残党を問答無用で斬り捨てていたのだ。

早く見つけださなければ、以蔵が危ない。

龍馬は懸命に捜し回るが、以蔵の姿はどこにも見当たらない。

やがて日も落ち、龍馬は扇岩という宿に、泊まることにする。

そして深夜、階下から宿の主人と誰かが言い争う声が、龍馬の耳に聞えてくる。

それは、ならず者に連れ去られた妹を、

一人で助けに行こうとしていたお龍の声だった。

一か八か進むしかない泥の舟  柴本ばっは

08d51445.jpeg

そのころ土佐では、容堂の勤王党弾圧が激化。

島村衛吉(山崎雄介)は、吉田東洋(田中泯)暗殺の取り調べのため、

拷問を受けていた。

その悲鳴は、獄中の半平太(大森南朋)の耳に届いて・・・。

かしこい人の頭の皮を剥がす  井上一筒

拍手[1回]

苦くなるほど熟れていた角砂糖  井上一筒

a25eaed2.jpeg

  高知城をのぞむ半平太

「外様の大名が、幕政に関わりを持ち幕末へ」

関が原で、豊臣方に味方した外様大名は、裏切りを警戒され、

『幕政への参画』 を一切許されることがなかった。

天保8年のペリー来航以来、多少、様変わりしたものの、

なお、政治の中枢には、入り込むことができない。

そこで、薩摩や長州などの雄藩は、幕政への関わりを得るため、

次のような一手を考え出した。

①、天皇に、幕府への使者(勅使)をたててもらう。

②、外様の藩主は、その補佐と護衛の命令を、天皇に下してもらう。

③、そして勅使を通じて、自分たちの考えを幕府に実現させる。

というもの、これが、大成功。

待ちわびてわたしの仮面ずれてきた 山口ろっぱ           

成果として、

薩摩藩― 幕府に将軍後見職・政治総裁職のポストを新設させ、

       一橋慶喜と松平慶永(春嶽)を任命させたこと。

長州藩― ”安政の大獄”で罰せられた人びとをすべて、無実にさせたこと。

        などを勝ちとった。

これに出遅れたのが、土佐藩であった。

負け惜しみの強い性格の前・藩主の山内容堂は、苛立ちます。

そしてここで、待ってましたとばかりに、武市半平太の出番が来ます。

彼は、

「将軍に攘夷実行を督促する勅使の派遣」 

朝廷に工作し、実行させる事に成功し。

勅使に、正使・三条実美(さねとみ)、副使・姉小路公知(きんとも)が決定し、

武市半平太は、姉小路公知の補佐官を、命ぜられることになる。

この時、半平太、得意の絶頂の瞬間である・・・。

この歳になって自分が好きになる  嶋澤喜八郎 

c233f274.jpeg    

 手に杯を持つ、容堂公像

その後、

「土佐藩を尊皇攘夷の先駆けにしよう」 と願う武市半平太は、

参政の吉田東洋を通じ、隠然たる力を持っていた前藩主・山内容堂に、

働きかけようとした。

しかし、東洋も容堂も、万次郎を通して、西洋事情について、

接する機会があったため、

攘夷が、現実的でないものと、気付いていた。

学習した兎に亀はもう勝てぬ  永井玲子 

09530b67.jpeg             

酒好きの容堂が、愛用した鹿模様の江戸切子グラス

また、山内家は、外様とはいえ、徳川家康によって、

土佐一国の、領主にしてもらえたという、関が原の戦い以来の、

恩義がある。

容堂にとって、幕府=徳川家を度外視して、

朝廷と結びつこうとする”過激な尊攘思想”は、

とうてい受け入れがたいものだった。

東洋や容堂は、あくまでも”現実主義”に立ち、

幕府と朝廷が協調しつつ、

政局を運営するという、「公武合体路線」 を進もうと考えていたのだ。

ワープロもぼくも時代に残される  八木 勲

1ba4bb48.jpeg

半平太は、それを理解することができなかった。

自説が、容堂や藩主・山内豊範に受け入れられないのは、

「吉田東洋のせいである」 

と決め付けた半平太は、

文久2年4月8日、ついに、”東洋暗殺”するという挙にでたのである。

尊皇攘夷を達成するための、具体的な行動である東洋暗殺は、

まさに、久坂玄瑞ら、過激な尊皇派志士が、望んでいたものだった。

藩の重臣であり、主君の側近である人物を、

「暗殺する」 ということは、

主君への反逆と同じなのだが、彼らには、

「主君に取り入って、道を誤らせている悪者を、排除する」 

〔君側の姦(かん)を除く〕 という、意識が勝っていた。

じたばたと錯角を連れてどしゃぶり  北原照子

9bb1e10f.jpeg

妻・富子の前では、素直であった半平太

暗殺決行の結果、

半平太は、東洋派の藩士を、要職から追い出すことに成功し、

東洋らの”藩政改革路線”に、反感を抱いていた旧派・重臣層を、隠れ蓑として、

一時的に、”藩政の実権”を左右する立場を手に入れた。

それを契機に、

半平太は、藩主・山内豊範に随行して京都に上り、

攘夷実行を幕府に命じるよう、朝廷工作を行なう一方、

「天誅!」 と称して、反対派の暗殺を、繰り返していった。

おそるべき地図を体内から剥がす  田中博造

a33c8b73.jpeg


酔うほどに、先を見る視線が冴えた容堂

しかし、「8・18政変」 によって、長州藩が力を失うと、

京都政局においても、土佐藩内においても、

公武合体派が力を盛り返し、”土佐勤皇党” の面々は、

一転して、弾圧を受けることになる。

半平太ほか、勤王党員は、次々に捕縛され、

切腹を命じられるのである。

このとき、勤皇党の弾圧の主導したのは、

吉田東洋の甥・後藤象二郎であった。

散骨にしてくれ閉所恐怖症  播本充子            

拍手[1回]

顔にシワあり脳みそにシワがない  杉本克子

d2df1457.jpeg

  幕末の志士・全員集合

左端ー勝海舟  前列ー右から(4番目)・坂本龍馬 -(7番目)・明治天皇

後列ー左から(8番目)・岩崎弥太郎 (12‐13番目)・大久保利通・西郷隆盛

他には、小松帯刀・桂小五郎・大隈重信・伊藤博文も来ている。

場所は不明だが、

テーマ・『維新』について”幕末サミット”が開かれたようだ?( ̄个 ̄)

折り返し点はあしたと決めている  足立玲子

b62bb053.jpeg

「武士階級が揺らぎ始めた幕末期」

武士は、その身分とか生活権を、守り抜くため、

『寡黙(かもく)であれ』  とされた。

多弁を弄して、

心の奥底まで見せるような言動をとれば、

ついに感情はあらわになり、不利益なことまで述べて、失言する。

平凡な男で金も敵もない  秋田利恵

人間関係まで損ねて、上司の反感まで買うようになると、

どこの藩も、財政が逼迫しているときだから、簡単に首になってしまう。

その結果、浪人となって、生活に困窮することになる。

「何はしても寡黙であるほうが身のためだ」

と、考えられていたのである。

口あけて腸(はらわた)見する石榴かな  古川柳

幕末の武士たちは、多弁をつつしみ、保身に汲々としたのである。

それゆえ、武士は、冷淡であるとも言われた。

何か感情が高ぶっても、それを押さえようとする制御装置が、心の中で作動し、

冷ややかな笑みをたたえながら、呟かずして耐え、

人とのつながりを保持し、交誼を深めようとしたのである。

失言がなかった今日のぶら下がり  井上一筒 

5f4a4de5.jpeg 

幕末の風景(日本を遊歩する外人と日本人)


あえて、はっきり物を申し立てるよりは、

相手の心内を慮(おもんばか)って、

「その一件、手前どもには一向に判断つきもうさず」 

とか、上司に対しては、

「いかにも、さようのご所存、もっともでござりまする」

と話を合わせておくのが、

「お家とわが身とを守る処世の術」 

と心得ていた。

ほどほどという逃げ道がいとほしい  荻野美智子       

「適当に」また「曖昧に」するという習慣は、武士に独特であって、

このころから、欧米の列強の外国人には、

「何を考えているのかわからない」 との、

日本人のイメージが、出来上がってしまったようだ。

外国人から見た日本人の『原型』は、

”幕末の日本人”に、端を発していたのである。

黙っていよう明日くるまで晴れるまで  前中知栄

d5b70cf9.jpeg

幕末の、志士と呼ばれる人たちには、

この『寡黙』であることを、許せなかった。

「自分たちが、選んだ道は正しかったのかどうか?」

それは、その場で答えを得られるような、簡単な時代ではなかった。

世の中が移り変わろうとしている、

ここで立ち上がらねば、

「男」=「志士」
ではないのだと、判断したのだろう。

それゆえ、多くの草莽を翔けた志士たちは、早死にしたのである。

久坂玄瑞  24歳    沢村惣之丞  25歳   吉村寅太郎  26歳   
岡田以蔵  27歳    平井収二郎  27歳   近藤長次郎  29歳     
坂本龍馬  32歳    中岡慎太郎  30歳   武市半平太  36歳
   など。

花いちもんめカラスが連れてきた夕陽 山口ろっぱ

8054ae86.jpeg

  半平太の妻・富子

「糟糠の妻」

武市半平太は、明晰な頭脳と、高い指導力で知られ、

土佐勤皇党を結成し、尊皇攘夷を突っ走った、大物である。

その夢の実現のために、盲目的に半平太は、

岡田以蔵らの暗殺者をつかって、京都の佐幕派を次々と葬った。

そして、藩内で権勢を振るう吉田東洋の暗殺事件の、黒幕でもあった。

目的のためには、テロの実行すらも辞さず、

しかも、自分自身の手は汚さない・・・。

真っ直ぐな人間ゆえに、冷酷な行動も、必要な善としたのである。

野心家の花火十重二十重に揚がる  内山雅子

74d77ab3.jpeg 
        

武市半平太への、後世の評価は賛否両論。

他人には、冷徹な半平太も、自分の妻には優しかった。

彼は、21歳の時に、1歳年下の富子という女性を妻に迎え、

その死まで、彼女を愛し続けたのだ。

富子は、美人であり実家も裕福、

また半平太も、色白で上背のある美男子だったことから、

外見の面でも、似合いのカップルだったようである。

スマートで金持ちそんなはずはない  三好聖水

半平太が33歳で、土佐勤皇党を結成するまで、

富子は、日常生活のなかで、夫を助けた。

しかし、美男美女で相思相愛、

理想的な夫婦に見えた、武市夫妻にも、懸念があった。

富子に、子どもが授からなかったのである。

これは当時の社会通念では、大きな問題とみなされた。

賞味期限に訂正印のあるわたし  中岡千代美

そんなことから、ある時、勤皇党員の吉村寅太郎は、

富子を説き伏せて、実家に帰らせ、

半平太のもとに、若い側女を替わる替わる、送り込んだことがある。

しかし、半平太は女性たちに、一切手を出さず、

「子の無いのは天命、二度とこのようなこたはするな!」

と、吉村を叱責した、と伝えられている。

目の前の叩き割るしかない景色  筒井祥文

e8dc4272.jpeg

    獄中の半平太

一方、富子が、夫を想う気持ちも本物だった。

勤皇党が、山内容堂によって弾圧され、半平太が投獄された際、

彼女は、二年近く、獄舎に足しげく通って、

衣類や食事、書物などを差し入れている。

半平太と富子は、しばしば手紙を遣り取りして、互いを慰めあった。

慶応2年(1865)、半平太は切腹を命じられたが、

富子は、納棺の際に首を討たれた夫の、髪を結うなど、

とことん愛情を示している。

古傷に指を這わせている朧  合田瑠美子

拍手[1回]

限界に悔しいコンセントの位置  岩田多佳子

2f5d647e.jpeg

文久3年(1863)3月、勝の容堂へのはたらきにより、

龍馬の脱藩の罪は赦免され、兄・権平とも再会したが・・・。

10ヶ月後には、

今度は勝が龍馬に、2回目の脱藩を促すような事態になる。

無色にはなれそうにもないカメレオン 杉山ひさゆき

44d3888a.jpeg

龍馬たちが、蒸気船の操艦技術習得に明け暮れた頃、

攘夷の熱狂は、最高潮に達していた。

当時、武市半平太を首領とする”土佐勤皇党”は、

藩の参政・吉田東洋を暗殺し、藩の実権を握ることに成功していた。

その一方で、中央の政治情勢は様変わりしていた。

ややこしい空かきまぜて三杯酢  岩根彰子    

8月には、「八月十八日の政変」 と呼ばれる佐幕派のクーデターが起き、

京都政界を牛耳っていた、長州藩と尊王攘夷の勢力は、

京都から追放されたのだ。

その中央の情勢変化に、後押しされて、

土佐の前藩主・山内容堂は、勤皇党への弾圧を強め、

土佐以外にいる勤皇党員や危険人物にたいして、

「土佐へ戻れ」 

という命令を発した。

神戸の海軍塾にいた龍馬も例外ではなく、

「帰って来い」 

という命令が届いていた。

逃げるのは曲がりくねった道がいい  高田 桂

7c865f69.jpeg

神戸海軍操練所寮舎の古写真

≪多くの若者が寝起きしていた。(舟の入る大きなドッグもある)≫

海舟は、それを知って、土佐藩の江戸屋敷にたいし、

「現在、龍馬ら土佐藩士は、海軍術の修行の最中であり、

 ”一同の召還を許してもらえないか”」

と要請した。

また、一同が幕府の軍艦・順動丸の乗組員であることも強調。

「海軍塾の土佐人が帰国すれば、順動丸の航海に支障をきたし、

結果として幕府に混乱をもたらす」 と、

遠まわしに脅しを利かせた。

言い訳の上手な猫がいて困る  本多洋子          

しかし、江戸屋敷の役人は、

「土佐藩庁からの命令に従っているだけだ」
 と、

この要請を拒否した。

この結果、いったん藩籍を回復することができた龍馬だったが、

兄と再会の10ヶ月後の12月、藩の帰還命令にそむき、

”2度目の脱藩”をすることになる。

かけ違うボタンに重い風の橋  産田佐代子

549a12dc.jpeg

操練所のあった古地図

≪JR三宮付近にあったとされる。右側を流れるのが生田川。

 上の赤い部分が生田神社で異人館通り・(北野坂界隈)、

 中央の赤部分が勝邸。下の赤部分が操練所になる≫

「操練所解散」

その後、元治元年(1864)2月、海舟、幕府から長崎出張を命じられる。

任務は、アメリカなど4国連合艦隊に、

「長州攻撃をやめてほしい」 

と、依頼することだった。

いわゆる、「長州征伐」 という、

幕府の大義名分づくりの為の、長崎出張であった。

海舟は、龍馬らを伴い、長崎へ向かって出向。

連合艦隊は、神奈川で改めて幕府と交渉することを条件に、

攻撃の延期を了承し、海舟はひとまず任務を果たした。

5本も脚がある今日のひつじ雲  井上一筒

3f4965a3.jpeg

これにより、海舟は、軍艦奉行に昇進。

同年5月29日、”海軍操練所の開設”が布告される。

ところが、開設布告から一週間後の、6月5日、

操練所は、反幕府組織と危険視され、

突然、解散の憂き目にあう。

その6月5日、「池田屋事件」が起きたのだ。

京都三条の旅籠・池田屋で、集会中の尊攘過激派を新撰組が襲撃。

多数の死者や捕縛者が出た。

その捕縛者のなかに、

操練所の塾生(望月亀弥太・北添吉摩)がいたことにより、

幕府は、操練所に疑いの目を向けたのだ。

盃の底から浮いてくる疑惑  森 廣子

dfefe127.jpeg


       蛤御門

さらに、7月19日には、「禁門の変」が起きる。

池田屋事件に触発され、

武装上洛した長州藩兵が、御所をめざして進軍、

警備の諸藩と交戦したのである。

その時にも、安岡金馬や池内蔵太という、

ふたりの塾生が長州方に加わっていた。

幕府は、事態を重く見て、

9月になると、操練所の閉鎖を前提に捜査を開始。

10月には、頭取の海舟が監督責任を問われ、江戸へ召還される。

さらに、海舟は軍艦奉行も罷免された。

ゆっくりと収める朧夜の刀  本多洋子

3d012889.jpeg

これにより、各藩から派遣されていた塾生は、

帰国せざるをえなくなった。

また、脱藩浪人である龍馬らは、身の危険を感じて各地に散った。

その後、龍馬は海舟の配慮で、

薩摩藩の大坂藩邸に、かくまってもらうことになる。

元治2年(1864)3月12日、神戸海軍操練所は閉鎖された。

躓いた足に素足が文句言い  松瀬俊雄

e9933106.jpeg

『龍馬伝』・第21回‐「故郷の友よ」 あらすじ

収二郎(宮迫博之)が切腹した。

土佐から届いた幼なじみの悲報は、

龍馬(福山雅治)に大きな衝撃を与えた。

大殿・容堂(近藤正臣)のためにと、懸命に働いてきた収二郎。

なのに、当の容堂から、切腹を命じられなければならないのか。

龍馬は、容堂から感じた底知れぬ恐怖心を、思い返しながら、

この先、さらなる悲劇が待ち受けているのではと、

不安を募らせる。

蓮の葉にひとつ滴が座禅する  北田ただよし

dd188d9e.jpeg

そのころ、朝廷では攘夷派の長州を京から追い出そうと、

薩摩藩がひそかに、反攘夷派の公家たちに近づいていた。

そして、世に言う「八月十八日の政変」・・・

孝明天皇(阿部翔平)の 

「異国との戦をのぞんではいなかった」 

という言葉をきっかけに、

長州藩と三条実美(池内万作)ら、攘夷派の7人の公家たちは、

京の御所から追放される。

これにより、尊皇攘夷派は失脚した。

枯山水夢が流れた跡がある  嶋澤喜八郎

e0f726fc.jpeg

攘夷派の衰退を、早くから予測していた容堂は、

この政変を機に、土佐勤皇党への本格的な弾圧を始める。

勤王党の本部が置かれていた武市道場は、取りつぶされ、

土佐に帰っていた武市にも、追っ手が差し向けられ、

国外にいる勤王党員へも、土佐への帰国を命令が出される。

帰国命令は、当然、勝塾の龍馬のもとにも、やってきた。

地下鉄の出口でつむじ風になる  八田灯子

b62bb053.jpeg

近藤長次郎(大泉洋)は、「土佐には戻らない」 と言うが、

龍馬は、半平太(大森南朋)以蔵(佐藤健)を助けるため、

勝塾を、しばらく休ませてほしいと、勝(武田鉄矢)に懇願する。

「わしを土佐に帰らせてつかあさい!わしらは考えは違うても、友達ですき!」

土佐に帰れば、龍馬も無事では済まされない。

勝は、龍馬ひとりでは、

「武市を助けられない」 といって、必死に龍馬を引き留める。

同じ頃、京に潜伏していた以蔵は、

土佐藩だけでなく、幕府からも追われる身となっていた・・・。

蓋閉じて海老の末期を聞いている  たむらあきこ        

拍手[0回]



Copyright (C) 2005-2006 SAMURAI-FACTORY ALL RIGHTS RESERVED.
忍者ブログ [PR]
カウンター



1日1回、応援のクリックをお願いします♪





プロフィール
HN:
茶助
性別:
非公開