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川柳的逍遥 人の世の一家言
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わが影を撫ぜれば地べたあたたかし  後藤柳允

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   菅菅しい笑顔

新首相・菅直人氏の尊敬する人が、『高杉晋作』 なのかどうかは、知らないが、

菅氏の座右の銘は、高杉晋作の名言で、

『人生 ただ一度』 だ。

高杉晋作が、数多残している名言の中に、次のようなのがある・・・

『苦しいという言葉だけは、どんなことがあっても、言わないでおこうじゃないか』

”人間、窮地におちいるのはよい。

 意外な方角に活路が、見出せるからだ。

 しかし、死地におちいれば、それで、おしまいだ。

 だから、おれは、困ったの一言は吐かない”

≪菅氏が、言いそうな言葉でもある≫

人肌のことばじんわり効いてくる  森吉瑠里恵

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 市川房枝(中央)と菅直人

「菅直人新首相は、高杉晋作化していく・・・か?」

少し、菅氏に触れてみる。

菅直人氏は、政界入りを志してから、3回の国政選挙の落選を、経験している。

女性の地位向上に尽くした市川房枝参院議員の、選挙事務長を務め、

80年に、市民運動家から衆院議員に転じた。

民主党内で見ても、鳩山首相小沢幹事長のような世襲議員でも、

岡田外相のような、官僚出身でも、

興石東参院議員会長のような、労相出身でもない。

運命を知っていたのは流れ星  杉本克子

菅氏の父は、会社員。

1994年6月、村山富市(漁師の父)以来、橋本竜太郎~鳩山由紀夫前首相まで、

16年間・8代続いた世襲議員を考えれば、よい意味で、、

「変り種」 かもしれない。

民主党で何度か代表を務めるうちに、「変わり身の早さ」 を身に着け、

「バルカン政治家」、になぞらえて「バル菅」とも、呼ばれるようにもなった。

≪「バンザイとダルマの目玉入れは、市民的ではない」

として、「拍手とVサインと胴上げ」 に替えたことや、

今も呼ばれる、「イラ菅」 というあだ名を、

早くも選挙の運動員から、つけられていることなどが、

初当選の直後の、

「市民ゲリラ国会に挑む」(読売新聞社・1980刊)という本に紹介されている≫

一日一生今日の主役はにぎり飯  板尾岳人

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「高杉晋作とは、どんな男だったか?物語」

高杉晋作の松下村塾入門は、さして思想的にどうこういうものではなかった。

むしろ、のうのうと生きている現状からの脱皮が、高杉の心をとらえた。

そういう心の動きは、

後の、高杉の変節する生き方に、表れてくる。

特定の思想なり考え方をもって、変革にかかわるのではなく、

変動する社会状況に合わせた考え方を、切り開いて幕末の舞台に上り、

いつの間にやら主役を演じている。

そのような巧みさが高杉晋作にはあった。

触れ合いの中で学んだ生きる知恵  広岡栄二

身の危険を感じれば、とにかく逃げる。

変装もする。

髷を剃り落とし、東行と名のり、武士から僧侶の姿に、変身するのも、

高杉はいとわなかった。

四国にも、田舎侍の夫婦を装って、愛人・おうのを連れ出して逃亡する。

今は、自分の出る幕ではないと判断するや、

あらゆる手段を使って、自分の命を守った。

”西へ行く 人を慕いて 東行く 我が心ぞ 神や知るらむ”

≪西行法師を慕って、頭を丸めたのだが、私の心は東に行くのだ。

 その心は、神だけがしっているだろう≫

月光の曲が流れる窓を持つ  山本早苗

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 日和山に立つ高杉晋作

高杉晋作の変節は、環境適応の巧みな生き方に、通ずる。

激動の幕末社会にあって、節を曲げず、

信念なり、思想を貫いた志士たちの、

多くは、志を遂げることも少なく、遭難しやすかった。

そんななかで、

”変節を、いわば生き方の手段とする高杉は、抜きん出て、異端ではあったが、

 賢明だった。”

まだ魅力あってこの世の世話になる  笹山あつ子     

「黎明に臨んで斃(たお)れる」 

とは志士が好んだ、標語であった。

いわゆる、武士の美意識にある「男の死に方」としては、格好よいのだろうが、

高杉は冷めていた。

「武士の死に方がどうこうなんぞ、そんなもん、斬って捨てちゃる。

 よく生きて社会の変革にかかわり、事を成すことこそ、大事ちゅうもんじゃ。

 今や、藩とか殿さんなんぞ頼りにならん時代になりよる。

 松陰先生もそう言うておられる」

≪直情の久坂玄瑞を代表する尊攘派の急先鋒として、知られていた長州藩だったが、

藩士のすべてがそうだったわけではない。

なかには、高杉晋作や桂小五郎のように、外国の情勢を知るにつれて、

内心、「攘夷は不可能」と悟っていたものもいた。≫

タイムカプセルあの日の吐息まだ保留  山口ろっぱ

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  奇兵隊姿の高杉晋作

松門グループの動きを眺めていると、過激なところが目立つあまり、

一面で、”命知らずの集団”であるかのように、思えてくるが、

松陰、「よく生きてことを成せ」 とばかり言っている。

「命を散らせ」、などとはひとことも言っていない。

ただ、「人生、四季を悟れ」 とは言っている。

「若くして、人生を終えることがあっても、それはすでに四季を終えているのであり、

 悲しむべきことではない」 

と四季の意味を解説。

背中の傷に縫い込んであるむかし  井上一筒

村塾のもうひとり、久坂玄瑞、『直 の志士であった。

玄瑞は、高杉より一つ年下であったが、はやくから時代の動きに目覚め、

信ずるところを、そのまま押し通す、青年らしい多感さがあった。

そのため、尊皇攘夷運動に足を取られ過ぎ、

既成の秩序を破壊しようと京に乗り込んだものの、

薩摩と組んだ幕府勢力の長州狩りにひっかかった。

そして、ついに「禁門の変」で玉砕した。

方向音痴さっぱり私が見つからぬ  岩田多佳子

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 『風の預言者・高杉晋作』

対して、高杉は、『曲』 の志士である。

『維新』 という大業をなしていくには、

「時節の変化を読み切り、自分の節を、その変化に合わせて修正し、

行動の鉾先も差し替えなければならない」

と考えていた。

相対化した立場で、自らの方向性を客観視できたのが、

「高杉晋作」であった。

そして、維新の目的を、日本の改革より、長州の発展にこだわり続けたのが、

高杉の特徴なのである。

あんなことこんなことあり そしていま  有田晴子

「同志・伊藤博文が高杉晋作を評した言葉」

「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し、衆目駭然、敢て正視する者なし。

 これ我が東行高杉君に非ずや」

おもしろき こともなき世を おもしろく  高杉晋作

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「菅氏の貢献をひとつ紹介すると」

1996年の「薬害エイズ問題」で、被害の拡大に対し、

「国の責任を明確にすべきだ」

とする菅氏に、官僚は抵抗した。

官僚が、「ない」と言っていたエイズ対策の重要資料が、

菅氏の指示で探した結果、役所のロッカーなどから、

見つかったこともある。

「世間向けのパフォーマンスが多い」 と冷ややかに見る官僚に対し、

菅氏は

「何を言われようと私は仕事をしにきている」
 と突っぱねた。

その姿勢が、厚生官僚の根深い隠蔽体質に、

風穴を空けたことは確かだろう。

≪菅氏が、今年最初に書いた言葉は、「志」である。≫

右足が右向いていてどこ悪い  合田瑠美子

『豆辞典』-「バルカン政治家」

小国家が反目し、駆け引きに明け暮れた東欧のバルカン半島の政情になぞらえ、

少数政党や小派閥を率いて政界を巧みに動き回る政治家を指す言葉。

拍手[1回]

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ともだちをかぞえる右手さむくなる たむらあきこ

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   「近藤勇」

近藤勇が、率いる「新撰組」は、当時最強の武闘集団だった。

京に潜伏する龍馬にとって、最もおそろしい敵である。

龍馬と新撰組が、直接対峙することはなかったが、

「池田屋騒動」では、同志である望月亀弥太などが、

近藤らによって、斬られている。

「戊辰戦争」が勃発すると、新撰組は、鳥羽伏見や甲府勝沼などで、

官軍と戦うが、近代兵器の前に敗退。

そして、近藤は、下総・流山で捕らえられ斬首刑に処せられた。

さびしげな影がボスライオンにある   西山春日子

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 「土方歳三」

新選組・副長。

土方歳三は、捕らえた志士を、凄惨な拷問にかけることで知られ、

味方からも「鬼」と恐れられた。

京に潜伏していた頃の龍馬にとっては、もっとも出会いたくない男だったろう。

近藤が捕らえられ処刑されたあとも、

各地を転戦して、新政府軍に徹底抗戦。

その戦いぶりはまさに「鬼神」のごとく、局地戦においては、不敗を誇った。

「函館戦争」では、敵の大軍に突撃して、壮絶な最後を遂げている。

一度だけ主役になれる箱がある  松田俊彦

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     「永倉新八」

新撰組・二番隊組長や撃剣師範を務めるなど、中枢を成した。

芹沢鴨と同じ神道無念流の免許皆伝の持ち主。

剣術が、よっぽど好きだったようで、写真(前列中央)を見てもわかるとおり、

刀を常に、身のそばにおいている。

性格は、近藤局長の「非行五ヶ条」を、会津藩主・松平容保に訴え出たり、

「近藤を局長と認めるが、家臣ではなく、同志だ」 と主張するなど、

唯一、近藤を恐れなかった勇猛な人物。

「池田屋事件」では、近藤勇沖田総司らと共に奮戦。

沖田が倒れ、藤堂平助が負傷する中、一番の働きをみせた。

脇役の毒に食われている主役  菱木 誠

この永倉新八は、新選組結成前からの仲である、幹部13人のうち、

ただ1人生きのこり、76歳まで生きた。

その新八は、新選組に関する回想録を、数多く書き記している。

「二十人ほど残らず抜刀」

「容赦なく切り捨てる」

「沖田総司 病気にてひきとる」

「藤堂平助 深手負い」

「三度も危なきことこれあり」       永倉新八・「浪士文久報国記事」

ばらすつもりじゃ無かったのにかんにんえ 山口ろっぱ

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『新撰組として一番最初の仕事が”池田屋事件”―「真夜中の戦闘」』

新八の報告書・・・

テロを計画していた長州藩士を、中心とする過激派の藩士たちを、

新選組が斬り捨て、幕末動乱のきっかけを生んだー『池田屋事件』。

実は、池田屋にいた勤王の志士たち、二十数人に対し、

当初、邸内に突入した新選組は、総勢34名のうち、

近藤勇・沖田総司・永倉新八・藤堂平助のわずか4人だった。

”近藤勇の斬り込み時の言葉”

「御用改め、手向かいいたすにおいては、容赦なく斬り捨てる」

請け負った刺客はネコに化けていく  井上一筒

そんな少数のなか、沖田総司は、戦闘中に持病の喀血で、戦線から離脱。

藤堂もまた、汗で鉢金がずれたところに、太刀を浴び、

額を斬られ戦線を離脱した。

かたや、倒幕集団の土佐藩の望月亀弥太らは、

裏口から必死に脱出をはかり、

そこを守っていた新選組み浪士たちと、斬り合いになった。

3名の浪士(安藤早太郎・奥沢栄助・新田革左衛門)は、倒したものの、

望月亀弥太も深手を負う。

そして、長州藩邸付近まで逃げたものの、追っ手に追いつかれ、

望月は自刃した。

ヤッホーが向こう岸から戻らない  嶋澤喜八郎

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一方、新撰組側は、一時は近藤・永倉の2人となるが、

土方隊が応援に入り、戦局は新選組に有利に傾き、

9名討ち取り、4名捕縛の戦果を上げる。

勝利の背景には、

武士身分でないが故に、手柄を挙げて、

「武士になりたい」 

という隊士たちの悲壮な、思いがあった。

真剣になるまで研いでいる竹光  板野美子

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戦闘後に、会津・桑名藩の応援が到着した時、

土方は、手柄を横取りされぬように、

一歩たりとも、近づけさせなかった。

そして、新撰組の面々は、闇討ちを警戒し、翌日の正午になって、

壬生の屯所に帰還、沿道は、見物人であふれていた。

≪この戦闘で、数名の尊攘過激派は逃走したが、

 新撰組は、続く翌朝の市中掃討で、会津・桑名藩らと連携し、20余名を捕縛。

 市中掃討は激戦になり、会津藩5名、彦根藩4名、桑名藩2名の即死者を出した≫

出来たての殺意でふんわりしています 太田扶美代

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『龍馬伝』・第23回‐「池田屋に走れ」 あらすじ

龍馬(福山雅治)、勝(武田鉄矢)ら勝塾の面々は、

近藤長次郎(大泉洋)と、大和屋の娘・徳(酒井若菜)の婚礼を祝う。

そして、いよいよ待ちに待った「神戸海軍操練所」が完成した。

「ついにこの日が来たぜよ!」

大坂の勝塾で、学んでいた龍馬たちは、

全国の各藩から、送り出された訓練生たちとともに、

操練所での訓練をスタートする。

操練所に航海術、砲撃術、操練所は、新しいことを学ぶ意欲に、

満ちあふれていた。

血と汗と油絵具が塗ってある  牧野芳光

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しかし、そんな中、亀弥太(音尾琢真)だけは違った。

ついこの間まで、土佐勤王党の志士として、

半平太らと、行動をともにしていた亀弥太は、

かつての仲間たちが、「土佐でひどい仕打ちを受けている」 と耳にし、

思い悩んでいたのだ。

操練所に身を置くことが果たして正しいのかー。

苦悩の末、亀弥太は、ついに操練所から姿を消す。

長州の攘夷派とともに、決起するため、京に向かったという。

ライオンの昼寝に出会う現在地  菅野泰行

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今、ことを起こすのは、あまりにも無謀。

龍馬は焦るが、ほかの訓練生たちは、

海軍よりも、攘夷派を選んだ亀弥太に、冷ややかな態度だった。

「おらんでもええいう仲間らあ、ここには1人もおらん!」

そう言い残し、亀弥太を追って、京へ向かった龍馬は、

お龍(真木よう子)から、攘夷派の集会が「池田屋」という宿で行なわれると聞く。

亀弥太を死なせるわけにはいかない!

祈るような思いで、池田屋に駆けつけた龍馬を待っていたのは・・・、

想像を絶する悲惨な光景だった・・・。

指めがねあの世も細い雨が降る  梅崎流青

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「新撰組」は、この池田屋事件で名を上げるが、

逆に、幕末騒乱の火薬庫に引火させたといってもいい。

この事件から時代は、物凄い勢いで流れていく。

まずは、長州から火の手はあがった。

長州の三田尻港から、

藩兵・浪士を満載させた軍艦が続々出港して京に向かい。

薩摩藩と会津藩らによって、

京を追われた久坂玄瑞(やべきょうすけ)たちは、

帝を攘夷派の手に、奪い返そうと企んでいた。

手の届く範囲で凶器置かないで  杉山ひさゆき

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  獄中の半平太と以蔵

一方、土佐では、後藤象二郎(青木崇高)による、

武市半平太(大森南朋)への尋問は、厳しさを増していた。

そして、時代の流れから、ひとり外れた岩崎弥太郎(香川照之)は、

妻の喜勢(マイコ)との間に長女が誕生し、幸せをかみしめていた・・・。
 
人生を斜に渡ってきた男  小山紀乃

拍手[1回]

プチプチをつぶして難問はあすに  奥山晴生

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石碑が残る、「池田屋事件」があった場所

「池田屋事件」が起きるのは、

神戸操練所の開設(元治元年{1864}5月29日)が、

布告されてから、わずか、一週間後の、6月5日のことである。

京都・三条小橋の旅籠・池田屋で、”京都占領”を謀議中だったとされる、

尊攘過激派を、新撰組が襲撃した。

多数の死者や捕縛者が出た。

その中に、望月亀弥太北添佶摩という、

二人の操練所訓練生が、含まれていたこともあって、

10ヶ月後の元治2年3月に、操練所は解散の憂き目にあうことになる。

鳥になれなんだ肩甲骨削る  井上一筒

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大海への船出を夢見ていた、訓練生たちはどれだけ、悲しんだことだろうか?

少なくとも、龍馬もその結果に、歯ぎしりをしたに違いない。

訓練をしているときの、充実感を垣間見る手紙がある。

事件が起きる丁度一年前。

龍馬は、操練所に抱いた夢を、姉の乙女に次のように語っている。

とびきりの夢を見たくて鏡拭く  小山紀乃

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  海連実習する訓練生

『エヘンの手紙』

坂本乙女宛  文久三年(1863)五月一七日 

『此頃ハ、天下無二の軍学者・勝麟太郎という大先生に、門人となり、

 ことの外かわいがられ候て、先、きゃくぶんのようなものになり申候。

≪訳― 最近は、天下一の軍学者・勝麟太郎という、大先生の門人となり、

   ことのほか、かわいがられて、客分のようなものになりました≫

近々大坂より十里あまりの地にて、

兵庫という所にて、おおきに海軍をおしえ候所をこしらえ、

又、四十間、五十間もある船をこしらえ、でしどもにも四五百人も、諸方よりあつまり候事、

私、初、栄太郎なども、其海軍所に稽古学問いたし、時々船乗のけいこもいたし、

けいこ船の蒸気船をもって近々のうち、土佐の方へも参り申候。

その節、御目にかかり申しべく候。』

近いうちにと言われて会ったことがない 井丸昌紀    

≪訳― 近いうちに、大坂から、十里あまりの兵庫というところで、

   大きな海軍のことを教える所をつくり、

   また四十間、五十間もある船をこしらえ、弟子たちが、四五百人も各地より集まるので、

   私はじめ、栄太郎(高松太郎=龍馬の甥)などもその海軍所で稽古学問し、

   時々、船乗りの稽古をし、練習船の蒸気船で近いうちに、土佐の方へも参ります。

   その時は、お目にかかりましょう≫

『私の存じ付は、このせつ兄上にも、おおきに御どういなされ、

 それはおもしろい、やれやれと、

 御もうしのつごうにて候あいだ、いぜんももうし候とうり、

 軍さでもはじまり候時は、それまでの命。』

感傷に耽って手帳見ています  森口美羽

≪訳― 私の考えについては、この頃、兄さん(権平)もおおいに御同意され、

   『それはおもしろい、やれやれ』  と言って下さるというようなわけで、

   以前にも言ったように、戦いでも始まればそれまでの命≫

 『ことし命あれば、私、四十歳になり候を、むかしいいし事を御引合なされたまえ。

 すこしエヘンにかおして、ひそかにおり申候。

 達人の見るまなこは、おそろしきものとや、つれづれにもこれあり。

 猶エヘンエヘン、   かしこ 』

すっぴんで家が一番落ち着くわ  樋口百合子

≪今年命あれば、私が四十歳になる時のことを、前に言ったことを思い出してください。

   すこし”エヘン顔”して、密やかにおります。

   達人(勝海舟)の見る目は、大したものだとか、徒然草にも、書かれています。

なおエヘンエヘン、   さようなら≫

 『龍馬  五月十七日   乙女姉御本

 右の事は、まずまずあいだがらへも、すこしもいうては、

 見込のちがう人あるからは、おひとりにて御聞おき。

 かしこ 』

≪龍馬   五月十七日   乙女姉みもと

   右の事は、まずまずの間柄の人でも、少しでも言うと、誤解する人があるから、

   姉さんお一人で聞いておいてね。

   さようなら≫

書き出すと言いたいことが裏返る  藤井正雄

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  浪人狩りをする新撰組

操練所閉鎖に伴い、龍馬ら脱藩浪人は、京都や大坂に身を隠して潜伏した。

ただ龍馬の夢は果てず、外国船を借り入れて航海する計画を持った、

が、外国船の借り入れがうまくいかず、

海舟の配慮で、薩摩藩の大坂藩邸に、かくまってもらう事になる。

≪閉鎖に先立つ8月中旬、海舟は、すでに身の危険を察知し、

龍馬を、京都・伏見の薩摩藩邸に向かわせた。

西郷隆盛と面会させ、万一、操練所閉鎖という事態になれば、

龍馬や脱藩浪士をかくまってもらおうと、根回しをしていたのである≫

通り雨皆どこかに居なくなる  津田照子

拍手[1回]

恋猫の雨の滴を拭いてやる  合田瑠美子

おりょう龍馬と初めて逢ったとき、

おりょうは、龍馬の印象を次のように語っている。

『ソレはソレは、妙な男でして、丸で人さんとは、

 一風、違っていたのです』

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「龍馬と結婚したおりょう(楢崎龍)が、龍馬とどこで、どのように知り合ったか?」

『諸説色々』

文久3年(1863)2月ごろ、

おりょうらの家が、類焼したとき煙にまかれた弟妹を、

龍馬が、救ったのが最初とされている。

また、生活苦から、大坂に売られそうになった妹を、取り戻そうと、

おりょうが、乱暴な仲介者と、争っているところを、

龍馬が救ったのが、きっかけとなったという説もある。

ビー玉の中で昔が伸びをする  谷垣郁郎 

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一方、龍馬はおりょうのことを、乙女に宛てた手紙で、次のように評している。

「まことおもしろき女」

2個目の説は、

龍馬自身が、姉・乙女に宛てた手紙で語っている出来事だが、

妹を取り戻そうとするおりょうを、救ったとき、

「二人はすでに、知り合っていた」 という話しもある。

いずれにせよ、龍馬が、おりょうの存在を、土佐の家族に知らせたのは、

慶応元年(1865)9月に、乙女に宛てた手紙である。

やんわりと握る女もハンドルも  菱木 誠

その手紙で、龍馬はおりょうのことを紹介し、

その妹弟たちを、扶助していることを告白している。

大河ドラマ『龍馬伝』では、妹を助けるストーリーの後、

まもなく新選組による池田屋事件が、起こるのであるが、

ちなみに、この池田屋事件は、元治元年(1864)7月の出来事である。

≪おりょうが、晩年に語った話によれば、龍馬が、

  姉の乙女に手紙で知らせる1年前には、「すでに、内縁の関係だった」 

  と述べている≫

せまいせまい箱から出たいかくし事  柴本ばっは

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おりょうは、天保12年(1841)の京都生まれで、龍馬より6歳年下。

≪生家は、京都市中京区柳場通りー三条通に小さな石碑が建っている≫

父親は、医師の楢崎将作。

将作は、勤皇思想の持ち主で活動家だったため、「安政の大獄」で逮捕され、

獄死している。

そのため、母親と長女のおりょうは、幼い4人の弟妹を抱えて、生活に困り、

おりょうは、17歳のとき、「扇岩」 という旅館へ、働きに出たという。

龍馬と出会ったのが、火事場での救助を、”きっかけ”とするなら、

おりょうが扇岩へ働きに出てから、約4年後のことになる。

まだ噛んでいる夕飯のモンゴイカ  井上一筒

その後、おりょうは扇岩を辞め、文久3年(1863)8月に、

大和(奈良)で、挙兵した尊皇攘夷派の”武装集団{天誅組}”残党の賄いとなる。

その後、天誅組が、幕府の追討を受けると、

おりょうも、その逃亡に伴って各地を放浪。

≪その放浪中に、龍馬と出会ったという説もある≫

ともかく、ふたりが出会うのは、龍馬が27歳、おりょうが22歳のころで、

「おりょうの奔放で、自由な性格が気に入った」 と伝えられている。

神様にまかすと運を省かれる  泉水冴子

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     方広寺の庭

翌・元治元年(1864)おりょうは、

天誅組の残党たちと、幕府の追討を避けるため、

大仏(大仏殿・方広寺)に隠れていた。

そのころ、粟田口青蓮院内金蔵寺の住職の仲人で、

龍馬とおりょうは、縁組をしたという説もある。

もし、そうであれば龍馬が、

神戸の海軍塾塾頭として、航海術などを学んでいたころのことで、

二人が出会ってから、約1年後のことである。

ペン胼胝の先にはなしが引っかかる  藤井孝作

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  後年のおりょう

なお、板垣退助、後藤象二郎と並んで「土佐三伯」と、呼ばれた佐々木高行は、

おりょうについて、

「大変な美人だが、賢婦といえるかどうかは疑わしい。

 ただ、悪人でないことはたしかである」 

と評している。

あひるの子親が作った罪と罰  山本輝美

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  武信稲荷神社

おりょうの父が入っていた獄舎は、京都中京区六角通り大宮にあり、

現在は、『盟新』 というセンターになり、

龍馬とおりょうは、よくそこの近くの神社(武信稲荷)まで、デートをしたという。

というのも、その神社に20mほどの「大きなヒノキ」があり、

二人は、その木に登り、父の様子を見に来たという。

そのヒノキの下の説明文を読むと・・・。

ともしびやひとりを眠る眠らせる  山本柳花

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『坂本龍馬とおりょうの縁を結んだ榎』

神社の南には、江戸時代幕府直轄の「六角獄舎」があり、

幕末勤王の志士が、多数集監されていた。

その中に、坂本龍馬の妻・おりょうの父も、勤王家の医師であったため、

捕らえられていた。

龍馬とおりょうは、ここに何度か訪れるが、

龍馬自身も安全でない身であり、面会はかなわない。

それ故、この大木の上から、様子を探ったという。

消しゴムでそっとあなたを泣きながら  北原照子

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その後、命を襲われ、追われる龍馬は、身を隠すことになる。

おりょうは、龍馬の身を案じながら、過ごしていた。

そんな折、二人で何度も訪れた「武信稲荷神社の”榎”」を、ふと思い出し、

訪れた。

するとそこには、龍馬独特の字で「龍」の字が彫ってあったという。

色あせた希望をいつも抱いている  嶋澤喜八郎

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『自分は今も生きている。そして京都にいるのだ・・』

という龍馬からの伝言であった。

龍馬が京都にいることを知ったおりょうは、二人の共通の知人を訪ね、

二人は、再び出会えたという。

御神木の榎(えのき)は、

850年の生命力から、大慶長寿の信仰が厚く、

また、「縁の木(えんのき)」とも読まれ、

御神木の榎に宿る「弁財天」が祀られている。

御柱の「宮姫社」は縁結び、”恋愛の神”としても知られ、

龍馬とおりょうも、そんな縁結びの力をいただいた,、

二人なのである。

ふたりして上げた花火をどうしよう  森口かなえ

現在、獄舎のあった『盟新』では、

月一回・一週目の日曜日に、「川柳黎明」の「句会」が開かれる。

今回は、3句黎明の句を載せました。

神社へ寄ったついでに是非一度おこしやす。

くすり屋の階段引き出しから梅雨に  田中博造

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二進法古い頭は受けつけず  杉本克子

戦いには、常に、『二つの正義』 が相克する。

幕府を討つ側の青年たちに、一つの正義があれば、

彼らを取り締まる、「新撰組」 の側の青年たちも、

また、一つの正義を持って、行動したのである。

稜線へ放った声が戻らない  山口ろっぱ

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その対立する二つの正義は、長州と江戸から打ち上げられて、

それぞれが、独自の放物線を描き、

京都三条河原町付近で交わって、火花を散らした瞬間が、

幕末維新に特筆される、「池田屋事件」である。

このあたりから、社会は騒然となり、

二つの大きな正義は、蒼き青年の群れに 操られていく・・・。

戦いあった”維新の群像”は、みな、このような正義を確信した行動と、

対立正義を、不正義と決め付ける、詮索だろう。

パレットに青青青を足している  前中知栄

結果的に、幕府が倒れ、維新がなったのだけれども、

一つの正義が、価値を認められて、勝利をもたらしたということではなく、

挫折を重ねながらも、

次のスプリング・ボードに移ることの出来た、歴史の幸運に巡り合ったほうが、

勝った。

たとえ、幕府軍が勝っていても、

世界史の勢いからして、日本が、鎖国を続けることは出来ず、

幕府に好意的なフランスの強い影響下で、”新生日本”が、

誕生したことだろう。

正論の四隅削ると転げ出す  津田照子

歴史に、「もしも・・ なら・・」 はタブーとされるが、

維新史が逆転していたら利根川は、東京セーヌ川と呼ばれ、

フランス料理店が、下町の食文化を定着させ、

横須賀あたりは、フランス人街として栄え、

今では、成田とパリとを結ぶ空路に、ジャンボジェットが、発着していたかも知れない。

漂白剤ひとふり前科消しました  和田洋子

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幕末から明治にかけて、最後まで、反幕府勢力と死闘を繰り広げた「新選組」。

そこに集ったのは、

近藤勇・土方歳三以下、農民や浪人など、社会の底辺に生きる若者たちだった。

国の行く末を憂えた彼らが、政治に参加する唯一の道。

それは、”剣の腕前を上げること” しかなかった。

幕府が初めて、公募した将軍の護衛役に、近藤たちは勇んで志願し、

遂に念願を果たす。

≪ 浪士隊募集の言葉―

  尽忠報国の志を元とし、公正無二、身体強健、気力荘厳のもの、

  貴賤老少にかかわらず、御召寄せに相成り候 ≫

散りばめた螺鈿も海を恋しがる  古田祐子

そこで、結成された「新撰組」は、

武士道が失われていく幕末に、一生懸命に志を掲げ、

磨いた剣の腕をもって、純粋に、そして健気に、国に尽くそうとした。

それはやがて、幕府中枢に利用される形で、

抵抗勢力との戦いの矢面に、立たされ、

「何のために戦うか」 というビジョンを持てぬまま、

悲劇のドラマを演じた、”最後のサムライたち” の姿なのである。

ワクチンは欲しがりません国のため  山田順啓     

「会津藩預かりとなった直後に、近藤勇が郷里に送った手紙」

” 天下の安危、切迫のこのとき、寸志奉公つかまつり、命捨つるべしと覚悟 ”

                     〔文久3年3月23日付・近藤勇書簡「志大略相認書」〕

≪このとき、京都守護職・会津藩主・松平容保から下されたのが、『新撰組』の名である≫

「京都の地は危険であるから、命を捨てる覚悟でおります」 と言うのだ

このように、言い切る近藤勇の率いる、新撰組は、

”腕は立つ、なお命を惜しまない”、当時、最強の”武闘派集団”であった。

ファイナルな形で風に舞ってゆく  佐藤正昭

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八木邸で共に殺された芹沢・平山の墓

とにかく、新撰組の隊員たちは、上から下まで強かった。

そんな中で、一番強かったのは? 

1位は、新撰組・初代・局長 芹沢鴨(せりざわかも)

2位は、2番隊・組長 永倉新八

3位は、1番隊・組長 沖田総司

4位は、副長 土方歳三 2代目・局長 近藤勇

5位は、3番隊・組長 斎藤一  となる。

其の他大勢の中の私が省かれる  坂本晴美

理由ー 一位の芹沢は、滅茶強かったようだ。

会津藩が、方歳三・山南敬助・沖田総司・原田左之助らに、

芹沢の暗殺を密命した折。

芹沢は、酔っていた上に、寝込みを襲われながらも、4人の剣客を手こずらせた、

その凄さが窺える。

2位の永倉新八といえば、沖田総司に並ぶ、新選組大幹部の一人。

沖田は、新八に助けられた、池田屋事件でランクを逆転した。

そして、剣術の腕は「沖田さんより進んでいた」 と元隊士(阿部十郎)も証言している。

4位の二人は、沖田も同じ道場で、沖田より弱いが、互角の腕前。

5位は、腕前で、順当に決まった、3番組長の役職である。

人間を刻んだ不幸な包丁  小栗和歌子

蛇足になるが、当時、江戸三大道場といわれた、

千葉周作(北辰一刀流)の玄武館、桃井春蔵(鏡新明智流)の士学館、

そして練兵館(神道無念流)があり、

その中でも最強をほこったのが、”神道無念流”である。

芹沢鴨、永倉新八は、この神道無念流の免許皆伝者。

近藤勇土方歳三、そして天才の沖田総司は、天然理心流の免許皆伝者。

岡田以蔵、稲次春之助(新選組・隊士)は、一番古い、鏡新明智流。

坂本龍馬は、承知のとおり、北辰一刀流の免許皆伝者である。

しかし、免許皆伝といっても、当時は大安売りでお金で買えたものである。

基本的に、刀に対する理念が違う、龍馬や、以蔵には、

隆盛を誇った”無念流”や、新撰組流儀の”理心流”には、

到底、歯がたたなかった。

さっと吹く風に力を試される  佐藤正昭

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『龍馬伝』・第22回‐「龍という女」 あらすじ

容堂(近藤正臣)の、帰国命令を拒んだ龍馬(福山雅治)ら、

勝塾の土佐藩士は、脱藩浪士の身となる。

一方、役人に追われる以蔵(佐藤健)は、なつ(臼田あさ美)のもとへ逃げ戻る。

だが、なつは、「以蔵が人斬りだ」と知り、以前のように接することができない。

それを見た以蔵は、一人去る。

「自分が追い出したのかもしれない」 

と感じたなつは、龍馬に彼を捜してほしいと懇願。

龍馬は京へ向かう。

失くしてから大事な人と思い知る  浅雛美智子 

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京では、攘夷志士が斬られる事件が、ここかしこで起こっていた。

幕府が集めた浪士組・「新選組」が、

攘夷派の残党を問答無用で斬り捨てていたのだ。

早く見つけださなければ、以蔵が危ない。

龍馬は懸命に捜し回るが、以蔵の姿はどこにも見当たらない。

やがて日も落ち、龍馬は扇岩という宿に、泊まることにする。

そして深夜、階下から宿の主人と誰かが言い争う声が、龍馬の耳に聞えてくる。

それは、ならず者に連れ去られた妹を、

一人で助けに行こうとしていたお龍の声だった。

一か八か進むしかない泥の舟  柴本ばっは

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そのころ土佐では、容堂の勤王党弾圧が激化。

島村衛吉(山崎雄介)は、吉田東洋(田中泯)暗殺の取り調べのため、

拷問を受けていた。

その悲鳴は、獄中の半平太(大森南朋)の耳に届いて・・・。

かしこい人の頭の皮を剥がす  井上一筒

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