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川柳的逍遥 人の世の一家言
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噛み切ってしまえば事は終わるのに 谷垣郁郎

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イギリスが、交易に参加することによって、日本の地図が一変する。

「長州人を破ってから、我々は長州人が好きになった」 アーネスト・ホースト 
   

江戸時代、日本は鎖国体制を敷いて、外国との関係を閉ざしていた。

≪実際は、国を閉ざしていたのではなく、「海禁」という言葉で表現されるように、

 海外の渡航や交易を厳密に管理したなかで、

 限定的かつ独占的に、交易を行なうというのが、鎖国の実態だった≫

江戸時代以前の東アジアでは、倭寇や秀吉の朝鮮出兵によって、

さまざまな国が対外関係で、大きな痛手を負った。

そこで、侵略行為などを含む干渉を相互に禁じ、

海を閉ざして管理された貿易を行うというのが、

江戸時代当時の東アジアの体制だった。

≪したがって、鎖国とはいっても、管理された状態で、小さく開いていたのである≫

原色が好きです騒がしい日本  平尾正人 

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     幕末の長崎港         

日本では、”四つの窓口”が海外に対して、開いていたとされる。

一つ目は、出島で有名な「長崎」で、ここでは幕府が直接、

  オランダや中国との交易を行なっていた。

二つ目は、「対馬」で、対馬の領主・宗氏を介して朝鮮と交易をしていた。

三つ目は、「琉球」で、琉球を武力侵略して支配していた薩摩藩を通して琉球、

  そして、中国との交易がつづいていた。

四つ目が、「蝦夷地」。これは松前藩を介してアイヌや北方民族との交易があった。

≪ちなみに幕府は、東アジアの国々と基本的には、直接対峙をしない方針があった≫

老いた香車だから後ろへも進む  井上一筒

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こうした「鎖国」の状況は、

「黒船の来航」によって完全に崩壊する。

大船の建造や、外国との貿易を厳しく管理した幕府権力の、空洞化がはじまり、

各藩は、なし崩し的に「開国」していく。

西南雄藩のように、資金力のある大藩は、

横浜や長崎を通じて、生糸や石炭を売り、

海外から軍艦や武器を買い入れ、留学生を西洋に派遣するようになっていく。

着古した夢がタンスの奥にある  錦織久
 
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しかし、やはり武家社会の常識としては、

あいかわらず、商いは忌むべきものであったし、

海軍や、船そのものについての、知識がない。

なにより、高い金を出して軍艦を買っても、

これを操縦できる船乗りが、いなかった。

≪坂本龍馬が目をつけたのは、そこである≫

当時の龍馬と、その周辺の友人は、

外洋船を動かすことができる、数少ないエキスパートだった。

しかも、幕府や藩の足かせがないので

対価さえ払えば、どのようなクライアントの依頼でも、引き受けて、

海運業や商社活動を、することが出来たのである。

小心のユダは迷路は抜けられぬ  山口ろっぱ       

勝海舟の門下生となった龍馬は、

勝の尽力で、山内容堂から脱藩の罪を許されているが、

それは土佐藩がこうした龍馬と、

その仲間の能力を、喉から手が出るほど、欲していたからである。

ちなみに、龍馬らを薩摩で引き取る立役者となったのは、

西郷隆盛や小松帯刀だった。

≪この二人は、この後、公私にわたって龍馬の面倒をみており、

 龍馬も小松のことを「天下の人物」と褒め称えている≫

龍馬はこうして、かけひきと利害を計算し、大きくなっていく。

立派な角を日毎磨いて置いてある  森 廣子

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    右の島が出島

「龍馬飛躍の場所ー長崎港」

国際港として「長崎港」が有名になるのは、

戦国末期のことである。

≪種子島に南蛮渡来の火縄銃が伝来して以来、戦国武将の地図が一変した。

長篠の戦で織田信長軍は、500挺の鉄砲で武田勢を壊滅的な打撃を与えて以来、

戦国武将と異国との、付き合いが始まる≫

瘡蓋を剥がし仏の顔に会う  太田 昭

鎖国後は、オランダが日本との、唯一の交易国になるが、

それ以前は、ポルトガルとの交流が圧倒的だった。

徳川幕府成立前は、各地の大名が、自前で外国と交流をしていた。

なんといっても、外国との交易は、文化向上だけでなく、

莫大な富をもたらしてくれた。

山頂で両手広げている空気  太下和子  

しかしポルトガル側でも、

単に日本側に利益を与えるだけでは、つまらない。

そこで貿易には必ず、「キリスト教の布教」を条件に出したのである。

その営業交渉にあたっていたのは、宣教師だからである。

当初日本側で、積極的にポルトガルを受け入れたのは、

平戸の松浦氏であった。

しかし松浦隆信の代になって、隆信は、

「キリストの布教よりも貿易の利益重視」 という考えをもち、これが

「貿易よりも、布教重視」 の考えを持つポルトガル側と、

しばしば争いがあり、殺傷事件も起こった。

ポケットの中で火種が燃えそこね  佐藤后子

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    長崎の居留地

トラブルをきらったポルトガル側では、

「平戸にかわる日本の良港」を探しはじめ、

大村湾の横瀬浦や、長崎の福田湾などが、次々と候補として試みられた。

これに日本側でも、港を支配する大村純忠有馬晴信らが、

現在で言えば、”日本の新幹線が最高ですよ”と言うように、

「うちの港は便利ですよ」と、今で言う「誘致合戦」がはじまった。

≪当初、平戸がポルトガル船の港であったが、

 領主の切支丹嫌いから、

 あるいは、ポルトガル側の希望もあって、港は順次変わり、

 先の試みから、横瀬浦、福田浦へと変わって、

 落ち着いたのは、深江浦すなわち、現在の「長崎」となったのである。

 長崎は、古くは、”深江浦とも深津江”とも呼ばれていた≫

さ迷うて水一杯のありがた味  村田己代一

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計り売りしておりますよ今日の空気  北原照子

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高杉晋作と伊藤俊輔

「名付けの名人・高杉晋作ー登場」

『動けば雷電のごとく、発すれば風雨のごとし。

 衆目駭然として、敢えて正視するものなし。

 これ、我が東行高杉君に非ずや』
 
”一たび動けば雷電のごとく、発すれば風雨のごとし。

 周りの者は、ただただ驚き、呆然とするばかりで、敢えて正視する者すらいない。

 それこそ、我らが高杉さんのことだ”

同じ松下村塾の門下であった伊藤俊輔は、改名して伊藤博文となり、

馬関海峡(下関海峡)を通過したおり、同志として働いた高杉晋作を想い、

彼の人となりを、こう読んで、碑とした。

見つけてください私は此処にいるのです 春野ゆうこ

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    井上聞多

伊藤俊輔井上聞多(馨)らと、馬関海峡で欧米列強の艦隊を相手に、

一戦を交えてきた相手である。

時代の申し子というか、維新のために、

それぞれの才を開かせて、寄せ集めた時代が幕末であった。

高杉晋作の場合は、奇知があるというか、

出くわした曲面に対し、瞬間的に策を思いつき、

その実行が、またまた要を得て効をなすのであった。

≪奇兵隊という組織の編成がそれを表す≫

セピア色剥がすと熱を帯びてくる  谷垣郁郎

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   高杉晋作

≪高杉晋作は、小柄で本人もそれを気にしていたため、

 立って写っている写真はない。

 しかし小柄ではあったが、何故か長刀を好んで愛用していた。

 そのため歩く姿は、刀を引きずって見えたという≫

”高杉いわく”

「兵には正と奇とがあり、戦には虚と実とがある。

 正兵は正々堂々として敵に対し、実をもって実にあたればよい。

 藩の部隊がまさに、正兵であろう。

 しかるに寡兵(小兵)をもって敵の大兵の虚を衝き、神出鬼没の兵があってもよい。

 私が創設する部隊は、常に奇道をもって相手を悩まし、

 勝利を制するのが目的である。

 よって、この部隊を”奇兵隊”と名付ける」 となった。

中七に八分休符が利いている  井丸昌紀

しかし、長州藩の正兵はすでにある。

高杉は、義や徳を重んじる男でもある。

藩主にお伺いを立てなければならない。

「そうせい公」の異名をもつ、

長州藩主・毛利敬親(もうりたかちか)に、申し立てたところ、

緊急時だから、そうせい」 と、快諾がおりたのである。

高杉のこうした考えに、反感をもつ長州藩士も多かった。

追いかけられる、命を狙われるで、

地元・萩で奇兵隊を創設するわけには行かない。

ビーナスの鼻はめがねを掛けにくい  井上一筒

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奇兵隊は、農民・僧侶・下級武士・商人の寄せ集め部隊だった。  

そんなわけで、高杉により、馬関で結成された「騎兵隊」は、

和洋折衷の軍服で、

隊士の意識と機動力とを高めるとともに、

理解しやすい隊則で組織をまとめた。

例えば、

「農道で牛や馬に出会えば、奇兵隊士は道を譲って、通り抜けるのを待て」

とか、

「農家に押し入って動物とか物品を奪ってはいけない」 

など、隊則は理解しやすい内容をもって、

組織の集中力を強化することに、成功したのである。

羞恥心なくせば一気にスターダム  ふじのひろし

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 「攻山寺」・高杉晋作銅像

雪の降りしきる頃、

馬関の「攻山寺」で農民・僧侶・下級武士・商人など多様な人材を集めて、

奇兵隊は、出陣を決行する。

馬関を通過するたびに、

伊藤博文は、こうした高杉晋作のエピソードを思い出した。

”博文”と命名したのも高杉である。

≪博文の2文字には、日本の文化をあまねく、広めてほしいとの、

  高杉が伊藤に託する熱い願いが込められていた≫

実印を男の顔で押している  多良間典男

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     毛利敬親

「蛇足」

長州藩主・毛利敬親が、土佐の山内容堂のように、

幕末期において、あまり表に名前が出てこないのは、

「そうせい侯」 と呼ばれるように、家臣の意見に対して、

いつも、「うん、そうせい」 と言い、

家臣の申し出にほとんど意義を挟まず、

家臣の好きなように、藩政をまかせたためである。

そのため、藩士からは慕われ人気があった。

やる気がなかったのかと言えば、そうかもしれないが、

家柄や年齢にこだわらずに、

下級武士の息子である吉田松陰の才を見い出し、

その門下から、高杉晋作など数々の優秀な人材を、

輩出させた影の功績もある。

字引より軽薄がよい電子辞書  八木 勲 

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『龍馬伝』・第29回-「新天地、長崎」 あらすじ

薩摩藩の西郷吉之助(高橋克実)小松帯刀(滝藤賢一)に、

身を預けた龍馬(福山雅治)たち、脱藩浪士は、

大坂から薩摩へ航行中、長崎に立ち寄る。

そして豪商・小曽根乾堂(本田博太郎)の屋敷に泊まることに。

西郷や小松は、龍馬たちに薩摩の船の、操船をさせようと考えていたが、

龍馬たちは特定の藩に頼らず、

龍馬、近藤長次郎(大泉洋)沢村惣之丞(要潤)らは、

操船技術を生かすため、蒸気船を手に入れようと計画する。

折り返し点で傘一本買う  大槻和枝

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そして龍馬らは、イギリス商人のトーマス・グラバー(ティム)を訪ねる。

惣之丞や陸奥陽之助(平岡祐太)が、英語で交渉するが、

グラバーは龍馬たちを信用せず、船は借りられなかった。
 
そこで龍馬たちは、

花街である、丸山の料亭・引田屋(ひけたや)に乗り込み、

商人相手に、船を借りようとする。

その引田屋では、

長州藩の高杉晋作(伊勢谷友介)井上聞多(加藤虎ノ介)、

伊藤俊輔(尾上寛之)が、酒を飲んでいた。

高杉は、外国から武器を購入するため、

正体を隠して長崎に潜りこんでいたのだ。

なめくじの関節だろう鳴ったのは  東おさむ

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高杉の部屋では、芸子の元(蒼井優)が踊りを披露していた。

そこへ龍馬たちが入り込んでくる。

龍馬は、「自分たちを利用しないか」 と、高杉に売り込む。

するとそこへ、薩摩藩士たちが乗り込んでくる…。

 豆腐のような煙のような明日です  徳永政二

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甘党の男に期待などしない  原井典子

期待できる男・龍馬はかなりの酒豪であったようだ。

質屋・才谷屋の血をひく、ボンボンだからお金もあって、

酒ばかりでなく、

結構なグルメでもあったそうだ。

そういう意味で、長崎は龍馬にとって、ダブルに希望の町であった。

さて、7月13日の卓袱料理(P-1)につづき、

ここでは長崎・卓袱料理(P-2)をご紹介・・・の前に、ちょっと寄り道。

恋なんてご飯のたしになりますか  杉本克子

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長崎へ一歩踏み込んだ龍馬の足

「龍馬伝ー第3部の舞台は長崎へ~」

龍馬は、薩摩藩家老・小松帯刀の助けを得て、長崎で海運会社・亀山社中を始める。

当時、長崎は外国との交易で栄えていた。

一獲千金を狙うトーマス・グラバー、

茶貿易で巨万の富を手にした大浦慶、

江戸幕府の手先・長崎奉行、花街・丸山の芸妓・お元、

そして、奇兵隊を創った長州の高杉晋作など、龍馬は様々な人々と出会う。

未知数にあつい視線が注がれる  吉岡 民

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    長 崎 崇 福 寺

「国宝・崇福寺で撮影が進む中、龍馬、晋作、お元、大浦慶が、長崎の印象を語る」

福山雅治(坂本龍馬)-長崎はおいしいものも沢山ありますし、歴史を感じられる場所です。

    このお寺にもちょくちょく、お参りに来ていたのですが、

   カメラ越しに見てみると、

    こんなに画になる場所だったんだなって、改めて思いました。

伊勢谷友介(高杉晋作)”崇福寺”は、国宝のあるお寺ということで、

   そういう場所で撮らせていただけて、演技にも身が入ります。

蒼井(芸者お元)-私は父が長崎の五島列島の出身なので、

   何度か来たことがあるのですが、今回久しぶりに長崎に来ました。

   やっぱり落ち着くなと思います。

余貴美子(大浦慶)ーまだ来たばかりなのですが、

   長崎街道も歩いてみたいですし、

   これからいろいろと見学させていただきたいと思っています。

   昨夜は、卓袱料理を堪能いたしました。

   和・洋・中のミックスで、”長崎は、こんなところなんだなあ”と感じました。

   すごく楽しくて、おいしかったですね。

福山龍馬ーなんで、僕、一緒に行ってないんですか・・・? (≧∇≦)/ ハハハ・・( iдi )

消防車が着くとサンマは焼けていた  壷内半酔

いよいよ余貴美子さんが、堪能したという卓袱料理へご案内。

長崎の大金持ち・大浦慶も、日常のように食したことでしょう。

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卓袱料理はお鰭椀に始まり、梅鉢で終わる。

お鰭椀・[鯛切り身]。紅かまぼこと白餅。椎茸。柚のつぼみ。小菜・[鯨百尋]。
中鉢ソボロ。果物。小菜・[ハトシ]。梅椀・「しるこ]。煮物・[チンゲンサイと木耳のスープ]。
小菜・[黒豆]。汁物・[ヒカド]。中央の大鉢・[煮物、飛龍頭、里芋、筍、菜の花、木の芽]。
中鉢・[豚角煮]。 【写真正面から時計回りに並ぶ】

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円卓には、あらかじめ小菜が並べられ、宴席のスタートを見計らって、

熱々のお鰭椀がつけられる。

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     お 箸 袋

ひとつ箸袋に、数人分の箸が入っている。

赤白の水引は祝儀、黒白は不祝儀

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     中鉢/豚角煮

とろとろ煮込んだおなじみ料理。

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中鉢/ハトシ

すり身にした海老を、パンで包んで揚げたもの。

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 小菜/鯨百尋(ひゃくひろ)

長崎の婚礼や正月の祝宴に必ず使われる一皿。

お赤飯何のお祝いかと思う  井上恵津子

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余さんが演ずる、「大浦慶とは?」

長崎で亀山社中を立ち上げた龍馬は、

その後、資金を何人かのパトロンに頼った。

その代表が、長崎の小曽根家と下関の伊藤家だったが、

大浦慶という女性にも、300両(約1800万円)の金を借りたことがある。

龍馬は、油屋町にあった慶の屋敷に転がり込んで、

居候することもあったが、

この女性は、いまでも長崎に伝説の女商人として、

語り継がれているほどの”女傑”だった。

生き生きあける炊飯器のまぶた  岩田多佳子

大浦慶は、長崎の老舗に生まれ、

17歳で、親の決めた男性を婿に迎えた。

しかし、婚礼の翌日、無気力なところが気に入らないと、

100両を渡して、叩き出したという経歴を持つ。

その後、両親があいついで亡くなり、家業が傾くと、

慶は、再建を果たすため、

21歳だった嘉永元年(1848)の、ある日、

長崎からオランダ船に忍び込み、中国へ向けてひそかに旅立った。

まだペリー来航前の話で、密航は極刑の時代だったが、

あえて挑んだのは、

日本で最初の茶貿易をはじめるという、壮大な商魂を宿していたからだ。

≪というのが、現在まで長崎に伝わる大浦慶伝説≫

釜飯の底のおこげがたまらない  前田咲二

密航伝説から5年後の、嘉永六年(1853)。

出島のオランダ商人で、

その後、東インド会社の重役に出世したテキストルが、帰国する際、

慶が、肥前嬉野の茶を見本として預けたことは、確かである。

ココロザシ確っかと抱いている翼  山口ろっぱ

すると、日英和親条約が発効された安政3年(1856)。

テキストルの紹介で、イギリス商人・オルトが訪ねてきた。

そして、いきなり72万トンの日本茶を注文。

こうしてはじまった”茶貿易”で、慶は大成功を収める。

やがて、日本茶は、長崎貿易のなかで、第一位を占めるようになり、

長崎とその近郊で、茶栽培が広がると、

慶は長崎の女傑として、その名を知られるようになった。

≪龍馬を慶に紹介したのは、グラバーだといわれている≫

森を開いて割り箸の山作る  井上一筒

拍手[5回]

土地土地に十種十味の味噌がある 河原章久

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幕末の面影を残す料亭「迎陽亭」の茶室

京都文化博物館の『特別・龍馬伝』で、

龍馬の原板や、写真を見てきたオバちゃんたちが交わしていた、龍馬の感想。

おばちゃんポツリと、

「もうちょっと、いまやってる人に似てたら、よかったのになァー」

面白い!・・・が、

「違うやろー、ソレを言うなら逆やがなァ」

しかしそう考えれば、大河ドラマに主役で登場した、数々の歴史上の人物は、

たいてい本人より男前である・・・多分・・・。

並べてみると、

近藤勇ー香取慎吾直江兼続ー妻夫木聡、山本勘助ー内野聖陽

徳川慶喜ー本木雅弘、山内一豊ー上川隆也、小松帯刀-瑛太、義経ー滝沢秀明、

伊達政宗ーハリウッドスター・渡辺謙 しかりである。

大阪のおばちゃんだったら許される  本多洋子

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   坂本家の食事風景

いよいよ、4部作の「龍馬伝」も第3部に入る。

舞台は長崎。

戦国時代に、西洋と出会い。

鎖国時代もオランダ船や唐船が、やってきた港町である。

そして、長崎といえば、龍馬も食したであろう「卓袱料理」がある。

”しっぽく”と読む料理は、なにかと、外来との調和の響きがある。

今回は、龍馬の時代の食卓として、「卓袱料理」を紹介。

伝統の味を守っている重石  石田隆彦

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代々伝わる卓袱料理の食器も和洋中折衷

海の道をやってきた南蛮船や唐船が、

異国の食文化や流儀を長崎に伝えたのは、400年以上も前のこと。

龍馬の時代の長崎人は、

西洋風料理や中国風料理を、家庭で楽しんでいた。

そんな文化的風土に育まれたのが、

幕末の料亭で出されていた”卓袱(しっぽく)料理”である。

今も、”和洋中折衷”の料理が、朱塗りの円卓に華やかに並ぶ・・。

「卓袱とは食卓のこと。

 いうなれば”ちゃぶ台”です。

 卓袱料理は、もともと食卓を囲んで食べる料理という、意味なんですよ」 

玉葱を毎日食べて血を洗う  松尾美智代

料理より、食卓で食べるという行為に、注目が集まっていた。 

「当時、日本では武士も庶民も、一人用の食膳を使っていました。

 ことに武家は、食事作法に厳しく、

 身分によって座る席も、使う食膳も決められていたのです。 

 長崎の人たちがひとつ円卓を囲んで食事をするのを見て、

 龍馬も驚いたことでしょう」 

と、長崎食文化の生き字引、歴史研究家の越中哲也さん。

串カツへシャキッとキャベツ控えおり  伊藤礎由

「卓袱料理は江戸時代から、江戸でも知られていました。

しかし、将軍家のお膝元で、普及することはありませんでした。

そんなわけで”ちゃぶ台”も、

長崎以外の土地では、明治時代になってからも、

なかなか暮らしに、取り入れられませんでした」

骨も煮えたかと山姥蓋を取る  井上一筒 

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当時のままの座敷に掲げられた「迎陽亭」の額

江戸期文化9年(1812)に創業した長崎の格式高い料亭・迎陽亭の文書によると、

慶応年間(1865~1868)に、卓袱料理が出されている。

迎陽亭は、龍馬が”いろは丸事件”の賠償交渉に赴いた玉園町”聖福寺”の、

ほぼ真向かいにある、長崎屈指の料亭である。

龍馬もここで、卓袱料理に舌鼓を打ったのでしょうか?

そのへんの事はどの記録にもない。

けれど、グルメを気取り、新種の気風を愛した龍馬なら、

多分面白がって、円卓の食事を楽しんだに違いない。

≪龍馬伝でも、1人一膳格式どおり並んで食事をとっている通り、

 当時の武士にとって、ひとつの食卓を囲むということは、

 封建的身分制度をひっくり返すのと同じくらい、画期的なことだった≫

朗らかな顔が大きな輪をつくる  遠山唯教

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座敷に緋毛氈を敷き、朱塗りの円卓を置いた宴席

長崎では卓袱料理は、おかあさんがこしらえる家庭料理。

ちゃぶ台を囲む一家団欒の食事風景が、その始まりだったようだ。

長崎で270年、砂糖卸業を営む脇山壽子さんの家に伝わる献立には、

”ヒカド、ソボロ、ゴーレン”といったカタカナの料理名が並んでいる。

今も手作りされる料理の写真を見ると、

華やかな料理というより、素朴で温もりのあるおかず。

≪ヒカドは、1cm角に切った根菜を煮て、

 仕上げにサツマイモをすりおろして、とろみをつけたもの。

 寒い日に食べる、具沢山の汁物。

 ソボロは、細切り人参、たけのこ、ごぼう、こんにゃく、豚肉などを炒めて、

 濃いめに味付けするきんぴら風の一品。

 ゴーレンは、いまでいう竜田揚げ≫

梅干して母の秘伝で染める壷  池部龍一

飛龍頭(ひりゅうず)も、ポルトガル語・「フィロウス」に由来するカタカナ料理。

豆腐をすりつぶし、野菜を混ぜ、丸めて揚げたもので、

手間をかけて作る”もてなし料理”である。

南蛮渡来の料理は、

おかずになってこなれ、

お客料理になって磨かれ、

料亭の宴席を飾る料理にと、洗練されていきます。

すき焼きがにおう駅裏ぼくを呼ぶ  濱田良知

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 長崎漆の見事な鶴蒔絵椀

≪卓袱のはじまりに出される汁お椀≫

さて、料亭でいただく卓袱の宴席は、

「おひれをどうぞ」と言う、おかっちゃま女将さんの、あいさつで始まる。

卓には、小菜の皿が並んでいるが、それまではおあずけ。

お鰭(ひれ)は、本膳の流れを汲む汁椀。

かつては、「尾頭付き鯛を一尾使いました」と言う、

”もてなし”の気持ちを込めて、

お鰭(ひれ)を椀にそえたそうである。

今は、鯛の切り身が入る。

温かい汁物で一息ついたところで、宴席のごあいさつが始まる。

それからは和気あいあい。

赤のれん腹から笑うバカ話  平紀美子

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ワイングラスとプレスガラスの取り皿

「注がれたのはワインか、それとも日本酒か」

小菜の冷菜4品、大鉢の煮物、中鉢の揚げ物、煮物と、

ひとつ皿の料理を分け合い、酒を酌みかわしつつ、

打ち解けた宴が進む。

当時は、ひとつ器から食べるなど、「武士」にあるまじきことだった。

しかし幕末は、武士が自らの手で、

「武士の世を終わらせよう」 とした時代でもあり。

幕府の直轄地だった長崎に城はなく、藩主もいない。

幸せの原点だった腹いっぱい  森田美代子

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迎陽亭の庭先から、

龍馬が紀州藩との談判にやってきた聖福
の甍がみえる

自由で、したたかに生き抜く商人の町で、

龍馬は、「総合商社・亀山社中」を立ち上げ、

坂本龍馬という名の、新しい一歩を踏み出す・・・ことになる。

円卓に華やぐご馳走が、

まだ見ぬ世界へ、はばたこうとする龍馬の背中を、

そっと押してくれたかもしれません。

”木曜日に続きます”

名曲にワインの樽も酔いしれる  徳山みつこ

拍手[5回]

耳奥をポンポン船が通る夜  井上一筒

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『国の為め 君の為めに 命を捨てることは 武士の真の道』

これは武市半平太(瑞山)が、切腹の直前に、親類に出した手紙の一文である。

切腹というのは、短刀の切っ先を腹にあてた瞬間に、

首を切り落とすのが従来の作法であった・・・が、

武市の場合は、腹を十文字に捌いてから、首を落とさせた。

これが、武市の純粋性の貫徹であった。

武市は、仇名で「顎」と言われ、「窮屈」と言われた。

突き出た顎と、何事にも堅苦しい理論で、話してくる半平太を、

幼友達の龍馬が、つけたあだ名だ。

この仇名が示すように、

後半生の彼の不幸な生涯は、この頑なさが、起因していたともいえる。

せせらぎに預けておこう花の首  山口ろっぱ

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   獄中の自画像ー1

「武士の忠義とは?」

武士には、忠義の精神が必要とされた。

忠義がもっとも重みを帯びるのは、”武士の名誉”において、である。

たとえ落ちぶれた藩主であっても、

お仕えして、苦難を共にするのが忠義の骨子である。

ところが、である。

主君の気まぐれとか、酔狂、思い上がりによる部下の犠牲に対しては、

武士の評価は、極めて厳しかった。

”馬鹿殿”には、お仕えするわけには、いかなかった”のである。

真白になって明日を追ってみる  谷垣郁郎

それでも、奴隷のように仕えようとする者は、

無節操なへつらいをもって、主君の”ご機嫌を伺う者”であり、

おのれの良心を曲げ、筋を通せない者として、

軽蔑され、武士の不名誉とされたのである。

したがって武士は、

「忠義という徳目を、果たすべき主君かどうか」 

を考え、その是非を自分の心に、問うて見るしかなかった。

言い訳の知恵を絞っている歩幅   藤井正雄           

忠義は日本に特殊な、直線的な徳目である。

主君に誠を尽くし、命運を同じくするのだから、

部下たる武士には、命がかかっている。

それを考えると、馬鹿殿のために、

「死ねるか?」 

と問えば、

「左様なことは出来かねる」 となったのだ。

梅田たそがれ人の流れも様変わり  廣岡志女

幕末になると、封建体制も緩んできたから、

藩の枠に縛られるよりも、

脱藩することにより、自分の筋を通していく若き浪人も増えたのである。

龍馬などは、

「朝から酔って候」 の土佐藩主・山内容堂に、サッサと見切りをつけ、

長州の久坂玄瑞には、

「藩など潰れてしもうてもかまわんではないか」

と諭されたこともあり、土佐を脱藩したのだった。

≪優柔不断で腰抜けの、最後の将軍・徳川慶喜も、

 幕末の混乱に部下たちの人心を集められず、徳川幕府を崩壊させる、

 一因になっている≫

しかし、半平太の忠義に対する考え方は、少し違った。

風向きがどう変わろうと受けた恩  吉村久仁雄

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    獄中自画像ー2

武市半平太の”土佐勤皇党の主張”の一つに、

「藩の階級制の廃止と、能力に応じた人材の登用」 

というのがある。

容堂は、徳川家には恩があり、

”タテの規律”を大事にと、考えていた人物である。

いわゆる武市が考える、

「すこし、ヨコにしませんか」という、考え方とはちがっている。

結社をつくり、規律を壊そうとする勤皇党の主張は、

容堂にとって、絶対許せないものであったのだ。

≪容堂は、酔っ払いではあるが、馬鹿殿ではない。

 むしろ飲むほどに、頭が研ぎすまされ、鋭く切り替えの早い、藩主であった≫

政治家が擦り減らしてる削除キイ  八木 勲

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   獄中自画像ー3   

本当は、「タテ社会を、ヨコ社会にする」 と考えていたのは、

脱藩をした龍馬であり、幕府側で言えば、勝海舟である。

その意味で言えば、藩を飛び出さなかった半平太は、

「藩のこと、藩士のこと」

を真摯に考えていた、今で言う愛社精神いっぱいの優秀な武士であった。

容堂は、半平太のそんな真意を汲むことができず、

半平太も、純粋なまでの一途さが、藩との誤解を生じさせてしまった。

水平思考の利かない半平太の弱点である。

ドラマ・「龍馬伝」で半平太が叫んだ言葉が、耳奥に残る。

『土佐勤王等は、ただ土佐藩の為、藩主豊範様のため、

そして大殿・山内容堂様をお支えするために、働いてきたがでございます』

水ばかり飲んで蛍を待っている  山本早苗

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獄中自画像ー4

最後にやっと容堂と面会できた、半平太は、

「大殿さまは、天下一の名君でございます」 

という。

≪頭脳明晰といわれた半平太は、一直線の馬鹿正直な人間だった・・・!≫

そしてそこで、「切腹しいや」 と容堂に言われたとき、

半平太は、その言葉に感激するのである。

「切腹が許された」・・・と。

武市が、獄中で自画像とともに、書いた言葉がある。

”花は清い香りによって愛され、人は仁義によって栄える”

武市は、最後の最後まで、自分を信じた。

即ち、大殿・容堂を信じたのだ。

武市は、真の忠義の侍だったのである。

十文字の切腹の仕方が、

半平太の”武士としての一途さ” を物語っている。

あまりにも、悲しい最期です! ( iдi )

消しゴムでそっとあなたを泣きながら  北原照子

半平太の一途さをあらわす、龍馬伝でのセリフを回顧する。

愛する妻・冨に言った言葉。

『もし来世ゆうもんがあるがやったら、

 わしはまたおまんと出会うて、夫婦になりたいがじゃき。

 そのときはずっと・・・おまんと一緒におるがじゃき』

くたびれた翼よ終電は行った  壷内半酔

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「龍馬伝で武市半平太役・大森南朋の、”半平太最期”の感想」

”今週は、いよいよ半平太が切腹という、最期を迎えます。

 これまでドラマでは、半平太の迷いや劣等感といった、

 人間としての弱い部分が、重点的に描かれてきました。

 でも僕は最期は、

 『この人はやっぱり侍だった』 と、示して終わりたかったんです。

 切腹を前に、半平太が牢番に告げた言葉が、実際記録に残っています。

 彼は牢番に対して、敬意を表したそうなんですが・・・、

 それを知ったとき僕はすごく感動して、

 半平太は、死を前にしながらも、

 自分の姿勢を崩さず、真に侍であり続けたのだと・・・。

土壇場の涙が情に絡みつく  浜田嘉穂          

 演出の方に「ぜひやらせてください」と、お願いして、

 牢番への言葉をセリフとして、追加してもらいました。

 罪状を後藤象二郎に読み上げられた後にも、二言くらい加えてもらって。

 凛とした様をより具体的に示すことで、

 「半平太は、最期まで侍としての意地をみせたんだ」 

 ということを、視聴者の皆さんに感じてほしいと、思ったんです。

ロスタイム如何に飾るか思案中  前田紀雄

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「山内容堂役・近藤正臣的おすすめ」

大殿様である容堂が、

わざわざ牢屋にいる武市半平太(大森南朋)のところへ出向くシーンがあります。

そこで半平太に、「腹を切りや」 と言う。

これは、すごいプレゼントなんだよね。

武士に、腹を切る名誉を与えるということは。

そのとき僕は、脚本には書いてないし、

監督からも言われていないこと、

つまりアドリブであることをやるんです。

とにかく2部の最終回、二人のヒントを楽しみにして、ともに泣きましょう。

雑談でアイデア一つ持ち帰り   哀川加枝子

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『龍馬伝』・第28話-「武市の夢」 あらすじ

龍馬(福山雅治)が土佐に現れ、

「自分が東洋殺しの下手人だ」

と認めたことを聞いた山内容堂(近藤正臣)は、

武市半平太(大森南朋)の牢を訪れる。

容堂は、尊王運動と土佐藩との板挟みになりながらも、

土佐藩に、忠義を尽くそうとした武市と、

「徳川家のやり方に納得せずとも、徳川家に忠義を尽くさなくてはならない」

容堂自身が似ていると半平太に話す。

容堂の予期せぬ優しい言葉に、武市は感激するのだった。

いいニュースを拡大できる耳である  立蔵信子

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『これは奇跡じゃ、これはおまんが起こしてくれた奇跡ぜよ』

その夜、龍馬と弥太郎(香川照之)は半平太の牢に忍び込む。

龍馬は自分が罪をかぶり、武市を助けようとしたことを話す。

しかし、武市は自ら罪を認め、切腹する決意を語り、

龍馬には日本を変え、異国から日本を守ってほしいと話す。

以蔵(佐藤健)はざん首、武市は切腹と刑が決まる。

人の世を底なし沼と言うらしい  浜田さつき

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