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川柳的逍遥 人の世の一家言
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甘党の男に期待などしない  原井典子

期待できる男・龍馬はかなりの酒豪であったようだ。

質屋・才谷屋の血をひく、ボンボンだからお金もあって、

酒ばかりでなく、

結構なグルメでもあったそうだ。

そういう意味で、長崎は龍馬にとって、ダブルに希望の町であった。

さて、7月13日の卓袱料理(P-1)につづき、

ここでは長崎・卓袱料理(P-2)をご紹介・・・の前に、ちょっと寄り道。

恋なんてご飯のたしになりますか  杉本克子

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長崎へ一歩踏み込んだ龍馬の足

「龍馬伝ー第3部の舞台は長崎へ~」

龍馬は、薩摩藩家老・小松帯刀の助けを得て、長崎で海運会社・亀山社中を始める。

当時、長崎は外国との交易で栄えていた。

一獲千金を狙うトーマス・グラバー、

茶貿易で巨万の富を手にした大浦慶、

江戸幕府の手先・長崎奉行、花街・丸山の芸妓・お元、

そして、奇兵隊を創った長州の高杉晋作など、龍馬は様々な人々と出会う。

未知数にあつい視線が注がれる  吉岡 民

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    長 崎 崇 福 寺

「国宝・崇福寺で撮影が進む中、龍馬、晋作、お元、大浦慶が、長崎の印象を語る」

福山雅治(坂本龍馬)-長崎はおいしいものも沢山ありますし、歴史を感じられる場所です。

    このお寺にもちょくちょく、お参りに来ていたのですが、

   カメラ越しに見てみると、

    こんなに画になる場所だったんだなって、改めて思いました。

伊勢谷友介(高杉晋作)”崇福寺”は、国宝のあるお寺ということで、

   そういう場所で撮らせていただけて、演技にも身が入ります。

蒼井(芸者お元)-私は父が長崎の五島列島の出身なので、

   何度か来たことがあるのですが、今回久しぶりに長崎に来ました。

   やっぱり落ち着くなと思います。

余貴美子(大浦慶)ーまだ来たばかりなのですが、

   長崎街道も歩いてみたいですし、

   これからいろいろと見学させていただきたいと思っています。

   昨夜は、卓袱料理を堪能いたしました。

   和・洋・中のミックスで、”長崎は、こんなところなんだなあ”と感じました。

   すごく楽しくて、おいしかったですね。

福山龍馬ーなんで、僕、一緒に行ってないんですか・・・? (≧∇≦)/ ハハハ・・( iдi )

消防車が着くとサンマは焼けていた  壷内半酔

いよいよ余貴美子さんが、堪能したという卓袱料理へご案内。

長崎の大金持ち・大浦慶も、日常のように食したことでしょう。

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卓袱料理はお鰭椀に始まり、梅鉢で終わる。

お鰭椀・[鯛切り身]。紅かまぼこと白餅。椎茸。柚のつぼみ。小菜・[鯨百尋]。
中鉢ソボロ。果物。小菜・[ハトシ]。梅椀・「しるこ]。煮物・[チンゲンサイと木耳のスープ]。
小菜・[黒豆]。汁物・[ヒカド]。中央の大鉢・[煮物、飛龍頭、里芋、筍、菜の花、木の芽]。
中鉢・[豚角煮]。 【写真正面から時計回りに並ぶ】

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円卓には、あらかじめ小菜が並べられ、宴席のスタートを見計らって、

熱々のお鰭椀がつけられる。

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     お 箸 袋

ひとつ箸袋に、数人分の箸が入っている。

赤白の水引は祝儀、黒白は不祝儀

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     中鉢/豚角煮

とろとろ煮込んだおなじみ料理。

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中鉢/ハトシ

すり身にした海老を、パンで包んで揚げたもの。

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 小菜/鯨百尋(ひゃくひろ)

長崎の婚礼や正月の祝宴に必ず使われる一皿。

お赤飯何のお祝いかと思う  井上恵津子

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余さんが演ずる、「大浦慶とは?」

長崎で亀山社中を立ち上げた龍馬は、

その後、資金を何人かのパトロンに頼った。

その代表が、長崎の小曽根家と下関の伊藤家だったが、

大浦慶という女性にも、300両(約1800万円)の金を借りたことがある。

龍馬は、油屋町にあった慶の屋敷に転がり込んで、

居候することもあったが、

この女性は、いまでも長崎に伝説の女商人として、

語り継がれているほどの”女傑”だった。

生き生きあける炊飯器のまぶた  岩田多佳子

大浦慶は、長崎の老舗に生まれ、

17歳で、親の決めた男性を婿に迎えた。

しかし、婚礼の翌日、無気力なところが気に入らないと、

100両を渡して、叩き出したという経歴を持つ。

その後、両親があいついで亡くなり、家業が傾くと、

慶は、再建を果たすため、

21歳だった嘉永元年(1848)の、ある日、

長崎からオランダ船に忍び込み、中国へ向けてひそかに旅立った。

まだペリー来航前の話で、密航は極刑の時代だったが、

あえて挑んだのは、

日本で最初の茶貿易をはじめるという、壮大な商魂を宿していたからだ。

≪というのが、現在まで長崎に伝わる大浦慶伝説≫

釜飯の底のおこげがたまらない  前田咲二

密航伝説から5年後の、嘉永六年(1853)。

出島のオランダ商人で、

その後、東インド会社の重役に出世したテキストルが、帰国する際、

慶が、肥前嬉野の茶を見本として預けたことは、確かである。

ココロザシ確っかと抱いている翼  山口ろっぱ

すると、日英和親条約が発効された安政3年(1856)。

テキストルの紹介で、イギリス商人・オルトが訪ねてきた。

そして、いきなり72万トンの日本茶を注文。

こうしてはじまった”茶貿易”で、慶は大成功を収める。

やがて、日本茶は、長崎貿易のなかで、第一位を占めるようになり、

長崎とその近郊で、茶栽培が広がると、

慶は長崎の女傑として、その名を知られるようになった。

≪龍馬を慶に紹介したのは、グラバーだといわれている≫

森を開いて割り箸の山作る  井上一筒

拍手[5回]

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土地土地に十種十味の味噌がある 河原章久

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幕末の面影を残す料亭「迎陽亭」の茶室

京都文化博物館の『特別・龍馬伝』で、

龍馬の原板や、写真を見てきたオバちゃんたちが交わしていた、龍馬の感想。

おばちゃんポツリと、

「もうちょっと、いまやってる人に似てたら、よかったのになァー」

面白い!・・・が、

「違うやろー、ソレを言うなら逆やがなァ」

しかしそう考えれば、大河ドラマに主役で登場した、数々の歴史上の人物は、

たいてい本人より男前である・・・多分・・・。

並べてみると、

近藤勇ー香取慎吾直江兼続ー妻夫木聡、山本勘助ー内野聖陽

徳川慶喜ー本木雅弘、山内一豊ー上川隆也、小松帯刀-瑛太、義経ー滝沢秀明、

伊達政宗ーハリウッドスター・渡辺謙 しかりである。

大阪のおばちゃんだったら許される  本多洋子

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   坂本家の食事風景

いよいよ、4部作の「龍馬伝」も第3部に入る。

舞台は長崎。

戦国時代に、西洋と出会い。

鎖国時代もオランダ船や唐船が、やってきた港町である。

そして、長崎といえば、龍馬も食したであろう「卓袱料理」がある。

”しっぽく”と読む料理は、なにかと、外来との調和の響きがある。

今回は、龍馬の時代の食卓として、「卓袱料理」を紹介。

伝統の味を守っている重石  石田隆彦

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代々伝わる卓袱料理の食器も和洋中折衷

海の道をやってきた南蛮船や唐船が、

異国の食文化や流儀を長崎に伝えたのは、400年以上も前のこと。

龍馬の時代の長崎人は、

西洋風料理や中国風料理を、家庭で楽しんでいた。

そんな文化的風土に育まれたのが、

幕末の料亭で出されていた”卓袱(しっぽく)料理”である。

今も、”和洋中折衷”の料理が、朱塗りの円卓に華やかに並ぶ・・。

「卓袱とは食卓のこと。

 いうなれば”ちゃぶ台”です。

 卓袱料理は、もともと食卓を囲んで食べる料理という、意味なんですよ」 

玉葱を毎日食べて血を洗う  松尾美智代

料理より、食卓で食べるという行為に、注目が集まっていた。 

「当時、日本では武士も庶民も、一人用の食膳を使っていました。

 ことに武家は、食事作法に厳しく、

 身分によって座る席も、使う食膳も決められていたのです。 

 長崎の人たちがひとつ円卓を囲んで食事をするのを見て、

 龍馬も驚いたことでしょう」 

と、長崎食文化の生き字引、歴史研究家の越中哲也さん。

串カツへシャキッとキャベツ控えおり  伊藤礎由

「卓袱料理は江戸時代から、江戸でも知られていました。

しかし、将軍家のお膝元で、普及することはありませんでした。

そんなわけで”ちゃぶ台”も、

長崎以外の土地では、明治時代になってからも、

なかなか暮らしに、取り入れられませんでした」

骨も煮えたかと山姥蓋を取る  井上一筒 

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当時のままの座敷に掲げられた「迎陽亭」の額

江戸期文化9年(1812)に創業した長崎の格式高い料亭・迎陽亭の文書によると、

慶応年間(1865~1868)に、卓袱料理が出されている。

迎陽亭は、龍馬が”いろは丸事件”の賠償交渉に赴いた玉園町”聖福寺”の、

ほぼ真向かいにある、長崎屈指の料亭である。

龍馬もここで、卓袱料理に舌鼓を打ったのでしょうか?

そのへんの事はどの記録にもない。

けれど、グルメを気取り、新種の気風を愛した龍馬なら、

多分面白がって、円卓の食事を楽しんだに違いない。

≪龍馬伝でも、1人一膳格式どおり並んで食事をとっている通り、

 当時の武士にとって、ひとつの食卓を囲むということは、

 封建的身分制度をひっくり返すのと同じくらい、画期的なことだった≫

朗らかな顔が大きな輪をつくる  遠山唯教

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座敷に緋毛氈を敷き、朱塗りの円卓を置いた宴席

長崎では卓袱料理は、おかあさんがこしらえる家庭料理。

ちゃぶ台を囲む一家団欒の食事風景が、その始まりだったようだ。

長崎で270年、砂糖卸業を営む脇山壽子さんの家に伝わる献立には、

”ヒカド、ソボロ、ゴーレン”といったカタカナの料理名が並んでいる。

今も手作りされる料理の写真を見ると、

華やかな料理というより、素朴で温もりのあるおかず。

≪ヒカドは、1cm角に切った根菜を煮て、

 仕上げにサツマイモをすりおろして、とろみをつけたもの。

 寒い日に食べる、具沢山の汁物。

 ソボロは、細切り人参、たけのこ、ごぼう、こんにゃく、豚肉などを炒めて、

 濃いめに味付けするきんぴら風の一品。

 ゴーレンは、いまでいう竜田揚げ≫

梅干して母の秘伝で染める壷  池部龍一

飛龍頭(ひりゅうず)も、ポルトガル語・「フィロウス」に由来するカタカナ料理。

豆腐をすりつぶし、野菜を混ぜ、丸めて揚げたもので、

手間をかけて作る”もてなし料理”である。

南蛮渡来の料理は、

おかずになってこなれ、

お客料理になって磨かれ、

料亭の宴席を飾る料理にと、洗練されていきます。

すき焼きがにおう駅裏ぼくを呼ぶ  濱田良知

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 長崎漆の見事な鶴蒔絵椀

≪卓袱のはじまりに出される汁お椀≫

さて、料亭でいただく卓袱の宴席は、

「おひれをどうぞ」と言う、おかっちゃま女将さんの、あいさつで始まる。

卓には、小菜の皿が並んでいるが、それまではおあずけ。

お鰭(ひれ)は、本膳の流れを汲む汁椀。

かつては、「尾頭付き鯛を一尾使いました」と言う、

”もてなし”の気持ちを込めて、

お鰭(ひれ)を椀にそえたそうである。

今は、鯛の切り身が入る。

温かい汁物で一息ついたところで、宴席のごあいさつが始まる。

それからは和気あいあい。

赤のれん腹から笑うバカ話  平紀美子

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ワイングラスとプレスガラスの取り皿

「注がれたのはワインか、それとも日本酒か」

小菜の冷菜4品、大鉢の煮物、中鉢の揚げ物、煮物と、

ひとつ皿の料理を分け合い、酒を酌みかわしつつ、

打ち解けた宴が進む。

当時は、ひとつ器から食べるなど、「武士」にあるまじきことだった。

しかし幕末は、武士が自らの手で、

「武士の世を終わらせよう」 とした時代でもあり。

幕府の直轄地だった長崎に城はなく、藩主もいない。

幸せの原点だった腹いっぱい  森田美代子

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迎陽亭の庭先から、

龍馬が紀州藩との談判にやってきた聖福
の甍がみえる

自由で、したたかに生き抜く商人の町で、

龍馬は、「総合商社・亀山社中」を立ち上げ、

坂本龍馬という名の、新しい一歩を踏み出す・・・ことになる。

円卓に華やぐご馳走が、

まだ見ぬ世界へ、はばたこうとする龍馬の背中を、

そっと押してくれたかもしれません。

”木曜日に続きます”

名曲にワインの樽も酔いしれる  徳山みつこ

拍手[5回]

耳奥をポンポン船が通る夜  井上一筒

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『国の為め 君の為めに 命を捨てることは 武士の真の道』

これは武市半平太(瑞山)が、切腹の直前に、親類に出した手紙の一文である。

切腹というのは、短刀の切っ先を腹にあてた瞬間に、

首を切り落とすのが従来の作法であった・・・が、

武市の場合は、腹を十文字に捌いてから、首を落とさせた。

これが、武市の純粋性の貫徹であった。

武市は、仇名で「顎」と言われ、「窮屈」と言われた。

突き出た顎と、何事にも堅苦しい理論で、話してくる半平太を、

幼友達の龍馬が、つけたあだ名だ。

この仇名が示すように、

後半生の彼の不幸な生涯は、この頑なさが、起因していたともいえる。

せせらぎに預けておこう花の首  山口ろっぱ

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   獄中の自画像ー1

「武士の忠義とは?」

武士には、忠義の精神が必要とされた。

忠義がもっとも重みを帯びるのは、”武士の名誉”において、である。

たとえ落ちぶれた藩主であっても、

お仕えして、苦難を共にするのが忠義の骨子である。

ところが、である。

主君の気まぐれとか、酔狂、思い上がりによる部下の犠牲に対しては、

武士の評価は、極めて厳しかった。

”馬鹿殿”には、お仕えするわけには、いかなかった”のである。

真白になって明日を追ってみる  谷垣郁郎

それでも、奴隷のように仕えようとする者は、

無節操なへつらいをもって、主君の”ご機嫌を伺う者”であり、

おのれの良心を曲げ、筋を通せない者として、

軽蔑され、武士の不名誉とされたのである。

したがって武士は、

「忠義という徳目を、果たすべき主君かどうか」 

を考え、その是非を自分の心に、問うて見るしかなかった。

言い訳の知恵を絞っている歩幅   藤井正雄           

忠義は日本に特殊な、直線的な徳目である。

主君に誠を尽くし、命運を同じくするのだから、

部下たる武士には、命がかかっている。

それを考えると、馬鹿殿のために、

「死ねるか?」 

と問えば、

「左様なことは出来かねる」 となったのだ。

梅田たそがれ人の流れも様変わり  廣岡志女

幕末になると、封建体制も緩んできたから、

藩の枠に縛られるよりも、

脱藩することにより、自分の筋を通していく若き浪人も増えたのである。

龍馬などは、

「朝から酔って候」 の土佐藩主・山内容堂に、サッサと見切りをつけ、

長州の久坂玄瑞には、

「藩など潰れてしもうてもかまわんではないか」

と諭されたこともあり、土佐を脱藩したのだった。

≪優柔不断で腰抜けの、最後の将軍・徳川慶喜も、

 幕末の混乱に部下たちの人心を集められず、徳川幕府を崩壊させる、

 一因になっている≫

しかし、半平太の忠義に対する考え方は、少し違った。

風向きがどう変わろうと受けた恩  吉村久仁雄

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    獄中自画像ー2

武市半平太の”土佐勤皇党の主張”の一つに、

「藩の階級制の廃止と、能力に応じた人材の登用」 

というのがある。

容堂は、徳川家には恩があり、

”タテの規律”を大事にと、考えていた人物である。

いわゆる武市が考える、

「すこし、ヨコにしませんか」という、考え方とはちがっている。

結社をつくり、規律を壊そうとする勤皇党の主張は、

容堂にとって、絶対許せないものであったのだ。

≪容堂は、酔っ払いではあるが、馬鹿殿ではない。

 むしろ飲むほどに、頭が研ぎすまされ、鋭く切り替えの早い、藩主であった≫

政治家が擦り減らしてる削除キイ  八木 勲

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   獄中自画像ー3   

本当は、「タテ社会を、ヨコ社会にする」 と考えていたのは、

脱藩をした龍馬であり、幕府側で言えば、勝海舟である。

その意味で言えば、藩を飛び出さなかった半平太は、

「藩のこと、藩士のこと」

を真摯に考えていた、今で言う愛社精神いっぱいの優秀な武士であった。

容堂は、半平太のそんな真意を汲むことができず、

半平太も、純粋なまでの一途さが、藩との誤解を生じさせてしまった。

水平思考の利かない半平太の弱点である。

ドラマ・「龍馬伝」で半平太が叫んだ言葉が、耳奥に残る。

『土佐勤王等は、ただ土佐藩の為、藩主豊範様のため、

そして大殿・山内容堂様をお支えするために、働いてきたがでございます』

水ばかり飲んで蛍を待っている  山本早苗

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獄中自画像ー4

最後にやっと容堂と面会できた、半平太は、

「大殿さまは、天下一の名君でございます」 

という。

≪頭脳明晰といわれた半平太は、一直線の馬鹿正直な人間だった・・・!≫

そしてそこで、「切腹しいや」 と容堂に言われたとき、

半平太は、その言葉に感激するのである。

「切腹が許された」・・・と。

武市が、獄中で自画像とともに、書いた言葉がある。

”花は清い香りによって愛され、人は仁義によって栄える”

武市は、最後の最後まで、自分を信じた。

即ち、大殿・容堂を信じたのだ。

武市は、真の忠義の侍だったのである。

十文字の切腹の仕方が、

半平太の”武士としての一途さ” を物語っている。

あまりにも、悲しい最期です! ( iдi )

消しゴムでそっとあなたを泣きながら  北原照子

半平太の一途さをあらわす、龍馬伝でのセリフを回顧する。

愛する妻・冨に言った言葉。

『もし来世ゆうもんがあるがやったら、

 わしはまたおまんと出会うて、夫婦になりたいがじゃき。

 そのときはずっと・・・おまんと一緒におるがじゃき』

くたびれた翼よ終電は行った  壷内半酔

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「龍馬伝で武市半平太役・大森南朋の、”半平太最期”の感想」

”今週は、いよいよ半平太が切腹という、最期を迎えます。

 これまでドラマでは、半平太の迷いや劣等感といった、

 人間としての弱い部分が、重点的に描かれてきました。

 でも僕は最期は、

 『この人はやっぱり侍だった』 と、示して終わりたかったんです。

 切腹を前に、半平太が牢番に告げた言葉が、実際記録に残っています。

 彼は牢番に対して、敬意を表したそうなんですが・・・、

 それを知ったとき僕はすごく感動して、

 半平太は、死を前にしながらも、

 自分の姿勢を崩さず、真に侍であり続けたのだと・・・。

土壇場の涙が情に絡みつく  浜田嘉穂          

 演出の方に「ぜひやらせてください」と、お願いして、

 牢番への言葉をセリフとして、追加してもらいました。

 罪状を後藤象二郎に読み上げられた後にも、二言くらい加えてもらって。

 凛とした様をより具体的に示すことで、

 「半平太は、最期まで侍としての意地をみせたんだ」 

 ということを、視聴者の皆さんに感じてほしいと、思ったんです。

ロスタイム如何に飾るか思案中  前田紀雄

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「山内容堂役・近藤正臣的おすすめ」

大殿様である容堂が、

わざわざ牢屋にいる武市半平太(大森南朋)のところへ出向くシーンがあります。

そこで半平太に、「腹を切りや」 と言う。

これは、すごいプレゼントなんだよね。

武士に、腹を切る名誉を与えるということは。

そのとき僕は、脚本には書いてないし、

監督からも言われていないこと、

つまりアドリブであることをやるんです。

とにかく2部の最終回、二人のヒントを楽しみにして、ともに泣きましょう。

雑談でアイデア一つ持ち帰り   哀川加枝子

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『龍馬伝』・第28話-「武市の夢」 あらすじ

龍馬(福山雅治)が土佐に現れ、

「自分が東洋殺しの下手人だ」

と認めたことを聞いた山内容堂(近藤正臣)は、

武市半平太(大森南朋)の牢を訪れる。

容堂は、尊王運動と土佐藩との板挟みになりながらも、

土佐藩に、忠義を尽くそうとした武市と、

「徳川家のやり方に納得せずとも、徳川家に忠義を尽くさなくてはならない」

容堂自身が似ていると半平太に話す。

容堂の予期せぬ優しい言葉に、武市は感激するのだった。

いいニュースを拡大できる耳である  立蔵信子

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『これは奇跡じゃ、これはおまんが起こしてくれた奇跡ぜよ』

その夜、龍馬と弥太郎(香川照之)は半平太の牢に忍び込む。

龍馬は自分が罪をかぶり、武市を助けようとしたことを話す。

しかし、武市は自ら罪を認め、切腹する決意を語り、

龍馬には日本を変え、異国から日本を守ってほしいと話す。

以蔵(佐藤健)はざん首、武市は切腹と刑が決まる。

人の世を底なし沼と言うらしい  浜田さつき

拍手[5回]

足は長く顔は小さく写してね  武内美佐子

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「わしの大好きな町の景色を、しっかり見とうせ」

と、言わんばかりに腕組みをして、”身長3メートル”の龍馬像が、

”長崎港”の絶景を見下ろしながら、”風頭山”の展望台に立つ。

すぐ近くにあるもう一つの展望台には、

司馬遼太郎
「竜馬が行く」の文学碑があり、

「長崎は、わしのきぼうじゃー」 

と小説にある龍馬の言葉が、刻まれている。

流されて流れて僕の現住所  岸本宏章

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   風頭公園の龍馬像

≪亀山社中跡の丘陵と連なる風頭山は、長崎の絶景を見下ろす好展望台。

 龍馬像が、その展望台から、「わしの街をみておおせ」と、

 長崎の夜の町を見据えている≫

実際は、

「わしの大好きな”お元”がいる長崎の町を、しっかり見とおせ」

と言っているのかも知れないが、

その長崎で、幕末に多くの志士たちと関わってきた、

一人の写真家がいる。

その当時、"東の下岡蓮杖"、"西の上野彦馬" と並び称された、

名写真家の一人、上野彦馬である。

スケールの違いは耳朶の広さ  上野多恵子

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上野彦馬は、営業写真家の草分けで、

文久2年(1862)、故郷の長崎に戻り中島河畔で「上野撮影局」を開業。

「一等写真師」の看板をたてて、客を待ったのだが、

閑古鳥が鳴く有様で、開店休業状態が続いた。

写真があまりにも写実的で、自分の生き写しと考えられて、

「写真を撮ると命まで取られる」

との迷信が流布していたからだ。

身中の虫がどっぷり胡坐かく  森 茜

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龍馬と同じスタジオで写真に収まる後藤象二郎

長崎には、開明の青年が全国から集まっていた。

「迷信などに引きずられてなるものか」

と、度胸を据えた若者がついに、写真館の門をたたいたのである。

「わしの写真を撮ってはくれまいか」

と、言って彦馬の客になったのが、

坂本龍馬や高杉晋作、伊藤俊輔(博文)、桂小五郎らであった。

一汁一菜仏が少し分りかけ  たむらあきこ

しかし写真は、彼らにあって「遺影のつもり」であった、と伝えられている。

有名になった折には、

「後世に自分の姿を残しておきたい」 との功名心も働いた。

混乱の幕末は、志士を目指す者にとって、

いつ命を落とすか分らない、ご時世であり、

彼らには、それなりの覚悟があって、写真に収まったのである。

効いてるか試しにクスリやめてみる  中 博司

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風頭からのぞむ長崎港(古写真)         現在の同じ位置からの情景

≪港に停泊する数多くの外国船が、当時の長崎の賑わいを物語る≫

”日本初の写真機”が、出島経由で、長崎に輸入されたのは、

幕末の1843年のこと。

写真撮影に成功するのは、さらにその16年後である。

龍馬が、

『日本を洗濯するために』
長崎を訪れたのは、

1864年~67年にかけてで、ちょうど写真が普及し始める時期と重なる。

龍馬は、彦馬のスタジオで撮影した肖像写真を、

5枚~10枚ほど、焼き増しして持っていたという。

「当時、”カルテドヴィジド”といって、今でいう”写真入の名刺”を作った」 

という。

新しいもの好きで、アイデア豊富な龍馬らしいエピソードである。

もひとりの僕の視線を意識する  嶋澤喜八郎

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   ガラス原板

ガラス原板とともに、この「名刺写真」

”龍馬の実像”
を、後世に遺すことになったのである。

慶応2年(1866)頃に、撮影されたという、

龍馬の写真(立像写真)の、「オリジナル・ガラス板写真」が、

3日間限定にて、

京都博物館の『龍馬伝特別展』で見られるということで、

早速行ってまいりました。

まさに龍馬ブームである。

入り口では、約30分の行列、

目的のガラス板前では、ものの2秒ほど見るのに、

40分以上は並ばされた。

肯定も否定もしない群れにいる  勝山ちゑこ

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龍馬伝の人気 あやかりたい人もいる

暗いケースに入った、「そのもの」は、

2・3秒程の鑑賞で、ほとんど印象にも残らない。

館内もまた、人・人・人の頭が邪魔で、肝心な物はほとんど見えない。

龍馬は、地球一周分歩いたというが、

達成感のないその日の、我々のだらだら歩きは、

龍馬が実感した同じような疲労を、

たった一日で感じさせられた、おもいだけが残る。

許したが一つの棘が抜け残る  吉川哲矢

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    上野彦馬と家族 

≪彦馬の前に、母と妻、横に4人の妹、前列で行儀よい姪と、眠たげな甥≫

古写真とは、

幕末から明治にかけて、撮影された黎明期の写真で、

「初期写真」と呼ばれる。

「古写真の魅力は、そこに本物の歴史があるということ・・・

 絵画は不要なものを省きますが、

 写真は意図しないものまで全部写ってしまう。

 そこに、現実が写っているんです」

と語る古写真研究家の姫野順一さんの、言葉を思いめぐらせながら、

歩いた。

現在の進化したカメラ(デジカメ)の中に、

この数々の幕末の歴史を収めたかったが・・・、館内は撮影禁止 ((( T_T)

横顔で盗む角度で我慢する  辻 葉

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「龍馬の写真(立像写真)は、上野彦馬によって撮影されたという・・・が?」

上野彦馬の弟子に、井上俊三という土佐藩出身の人物がいた。

ふるさとの馴染みということで、土佐藩出身の人々は、

井上に、無料で写真をとってもらうことが、よくあったようだ。

龍馬の写真も、スタジオは、間違いなく上野彦馬のスタジオだが、

撮影者は、この井上だという説がある。

龍馬の立像写真の原板(湿板)は、

井上家に保存されていた事から考えて、

「撮影者は、井上俊三とするのが妥当なところではないか・・・」

と、古写真研究家。
 
もう時効なんです七味唐辛子  山口ろっぱ

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上野写真館にて、日本に友好的な外人たち(古写真)

開店休業状態だった「一等写真師」の写真技術も徐々に、

次第に高く、評価されるようになる。

ポーズをとるものも現れて、ちょっとした写真ブームが、長崎に起きた。

そのブームにあやかり、

上野写真館を訪れる人が増えてきたのだが、

心の奥底では、「もしや俺の命が・・・」と恐れる向きもあった。

そこで写真機に向かって、”にらみ”を利かせてから写れば、

自分の精神力が貫通するから、

「死なずにすむ」との、『にらみの心得』が、説かれるようになる。

≪その心得を、最初に言い出したのが、長州藩の重臣、周布政之助であったらしい≫

迷信の通りに腹が痛くなる   村上恵美子            

「さぁ写します。

 こちらを見て、私がイイと言うまでジッとして、動いてはいけない。

 よろしいか。  ヒィ、フゥ、ミィ、ヨォ、イツ ・・・」

上野写真館では、少なくとも約2分ほどは、動かずにジッとして、

ポーズを決めていなければならなかった。

そのための首押さえの道具も用意されていた。

しかし2分間と言えども、ジッとして耐えている時間は長い。

首は凝る、それに、「にらみ」も利かせなくてはならないので、

我慢も限界に達する。

≪彦馬の家族をよく見れば、その様子が写っている≫

カップ麺2分半しか待てなんだ  井上一筒        

遠路やってくる客を、そういう苦痛から逃れさすには、

写真機を改造しなくてはならなかった。

やがて彦馬の手で、5秒程度で写せる画期的な、新機種が出来上がった。

上野彦馬は、化学にも通じており、長崎でこれを学ぶ予定でいたが、

蘭学者の中で、たまたま見つけた”ポトガラヒー”という語の

意味を外国の教官に質問したのが、”写真との出会い”となった。

蘭学者に従って、機械から薬品の開発まで手がける彦馬の徹底ぶりが、

新機種の開発につながった。

もしもからついにまで抱く寒たまご  山本早苗

「わが国最初の公害問題が、彦馬写真館から発生した」

『エピソード2件』

研究心が嵩じて、

彦馬は牛骨から、アンモニアを抽出する方法を開発するのだが、

実験室からアンモニアが流れ出し、

臭気が近所に及んだために、奉行所に突き出される、

ハプニングもあった。

最後にはごみとなるものばかり買い  八木勲

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居留地の中央を流れる大浦川の河口から見たダウンタウン(古写真)

フィルムは、硝酸銀の液体に浸した原板を、乾かないうちに、

現像しなければならなかった。

ただ問題は、このフィルムを撮影に使ったときには、

光量不足になりやすく、

被写体になった志士たちを、寺の大屋根に登らせて、写したこともあった。

一見、室内写真のように見えても、

すべてよく晴れた日当たりの良い野外で、撮ったのである。

小道具を外に持ち出して、

それらしい室内写真に仕上げる、大仕事であったのだ。

≪龍馬も小五郎も、小道具に囲まれた野外スタジオで、

後世に残る一枚を撮影していたのだ≫

蛇口からやっと太平洋につく  板野美子

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   龍馬の紋服

「龍馬伝・特別展での収穫」

龍馬のサイズが、現実的に見れたことが唯一の収穫。

当時龍馬が羽織っていた紋服から、計測したサイズがこれ。

身長=173cm 体重=約80kg

以下、紋服の寸法。

着丈=149cm    肩巾=32cm    袖丈=50cm 
袖巾=33.5cm   裄丈=65cm    前巾=26cm   後巾=30.5cm

どぉうってこと月は東に日は西に  河村啓子

拍手[9回]

もひとりの私に逢えるまで歩く  嶋澤喜八郎

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「龍馬・空白の4ヶ月」

元治元年11月頃から約4ヶ月、龍馬の所在が不明になっている。

「龍馬はその時、何をしていたのか?」 と多くの人が龍馬を探している。

例えば、武田鉄矢氏、「龍馬は外国に行っていた?」 と推測し、

テレビ特番(10CH)では、「グラバー邸に潜み、商いの勉強をしていたのでは?」 

と言う。

またこの頃、中岡慎太郎は、長州におり、役割分担で、

「龍馬は薩摩にいた」 という人もいる。

そして今回、

7月4日放送の第27話・『龍馬伝』では、「故郷土佐に帰っていた」 と解く。

実際に龍馬はどこにいたのだろうか?

どれが正しくて、どれが間違っているのか? 私なりに探してみた。

数式で出せぬ人情匙加減  山本半銭

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「元治元年(1864)」

7月ー「禁門の変」
 
長州が惨敗し、尊皇攘夷派の志士は、各地で窮していく。

特に、京は酷かった。浪士と分れば新撰組などに、片っ端から殺されていく。

8月ー龍馬の世話で、お龍は寺田屋の養女となる。

    ≪この頃から、お龍も龍馬のために、京都の情報を集めたりして協力している≫

そんな時期、海舟の使者として龍馬は、西郷と会い、時勢について語っている。

「幕府、長州、薩摩と三者がいがみ合っている場合ではない。 

 このままでは日本は、清国のように外国の食い物にされる」 

熱く西郷を説く。(NHK6月27日放送・”薩摩の怪物”は、この時期のこと)

このとき西郷は、「家老の小松帯刀と相談すればいい」

とアドバイスし、龍馬の薩摩行きが決定した。

≪龍馬の薩摩行きは翌・慶応元年5月のことで、龍馬の薩摩滞在説は消える≫

僕よりも歯の数多いしゃれこうべ  奥 時雄

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10月ー海舟の軍艦奉行が罷免されたため、操練所訓練生がばらばら帰国を始める。

龍馬ら脱藩組は、帰国の危険を避け、

京都や大坂に潜伏し、外国船を借り入れて航海する計画を持っていた。

11月ーしかし、外国船の借り入れがうまくいかず、

海舟の配慮で薩摩藩の大坂藩邸に、かくまってもらうことになった。(11日)

≪武田氏の渡航説もまた、ここで消える≫

余談だが、

龍馬を愛してやまない武田鉄矢氏は、龍馬をユニークに分析する。

”龍馬のブーツ”について、

曰く、

『高下駄を履く上士と草履を履く郷士の身分さを嫌って新しい履物を求めた』

という。 (^▽^笑)
 
11月小松帯刀、龍馬について、大久保一蔵(利通)宛に手紙を書く。(26日)
       
内容は、龍馬らを、「航海之手先」に使うというもの。

≪お龍の回顧録によると、元治元年(1864)に龍馬と結婚したとあるが・・・、

 すなわち、この時期龍馬は、大坂、京都、神戸にいたことになる≫

そして、岡田以蔵半平太の取調べが、日増しに厳しさが増していた。

水平線赤くあかくという名残り  東さつき

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「元治2年(1865)」

2月ー京都・薩摩藩邸で龍馬、中岡慎太郎、土方楠左衛門会見。(5日)
  
2月ー中岡慎太郎、土方楠左衛門 大坂に入り龍馬と会見。(12日)

3月ー神戸操練所閉鎖(18日)。 [高杉晋作の長州藩内クーデター]

この年12日に、操練所の閉鎖が決定し、

すでに訓練生200人のうち、ほとんどが帰国していたため、

大坂薩摩藩邸にいた龍馬は、

神戸に戻り、脱藩浪士を集め残務整理にあたっている。

≪2月~3月、龍馬は大坂か神戸に居た≫

落ち目から抜け出る今朝のパンを焼く  太田 昭

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「慶応元年(1865)」  [四月、元治から慶応に改元されている]

4月ー龍馬は、薩摩へ向かう。約20人の仲間と、大坂薩摩藩邸を出発。(25日)

小松帯刀、西郷隆盛らと、薩摩藩船の胡蝶丸に乗り込み、瀬戸内海を経て、

5月鹿児島に着いた。(1日)

鹿児島に10日ほど滞在した後、長崎に向かう。

≪龍馬が、グラバーと密接な関係を持ち出したのは、このときである≫

5月11日ー岡田以蔵・斬首刑 武市半平太・切腹。

泥を吐く順に消えていくしゃぼん玉  小西カツエ

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   長崎丸山・繁華街

このように見てくると、

元治2年末~慶応元年1月末までに2ヶ月の空白がある。

この期間に、大河ドラマ・『龍馬伝』でいう、龍馬はふるさとに居たのか・・・?

「ところが、慶応2年(1866)秋のことである」

龍馬は、土佐の同僚・溝淵広之丞と長崎で再会し、一夜酒を共にした。

その酒の席での会話が、手紙に残っている。

「人間なら父母の国を、誰が忘れるものか、

 忍んで国の人を無視してきたのは、大願を果たすためだった」

と、龍馬の心の奥にある孤独感を、思わず吐露している。
 
≪すなわち龍馬は、古里に迷惑がかかることを避け、

  長らく土佐には帰っていないという証し≫

4ヶ月の空白ー結論は大坂、神戸に居たことになるか。

『龍馬伝』は、新しい伝説を提供をしてくれるから、”ドラマ”なのである。

独りで死んで独りで生まれ変わります  森中惠美子

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「トマス・グラバーとは?」

安政6年(1859)、スコットランドの生まれのグラバーは、

開港後1年の長崎に、グラバー商会を設立。

幕末の激動の中で、米欧の貿易商人たちと競合しながら、

西南雄藩に、艦船・武器・弾薬の類を売り込み。

1860年代半ばには、長崎における、外国商館の最大手に仕上げた。

道順を決めて迷わぬ顔になる  富田美義

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慶応3年(1867)、

岩崎弥太郎が、土佐藩の開成館長崎出張所に赴任してきた。

早速、弥太郎をグラバー邸に招き、商談に取りかかる。

坂本龍馬後藤象二郎も出入りしていた。

グラバーは、貿易にとどまらず、事業にも乗り出した。

慶応4年(1868)、

肥前藩から経営を委託された高島炭坑に、

イギリスの最新の採炭機械を導入し、本格的な採掘を開始した。

また、ほぼ同時期、グラバー邸から1キロほど南の小菅に、

薩摩藩と共同で、日本初の洋式ドックを建設した。

いわゆる、”そろばんドック”で、設備はすべてイギリスから輸入した。

きっと咲く一つ残っている蕾  森 廣子

そういうグラバーだったが、

皮肉にも、グラバーが肩入れした西南雄藩は、

怒涛の勢い討幕の兵を進め鳥羽伏見の戦いで、一気に勝敗を決してしまう。

グラバーの思惑は、はずれて大規模な内戦はなく、

グラバー商会は見越で仕入れた大量の武器や艦船を抱え込む。

おまけに、時代変革の混乱の中で、雄藩への掛売りの回収は滞り、

明治3年(1870)、

資金繰りに窮して倒産してしまう。

ラムネしゅわしゅわ朝顔の色水と  山口ろっぱ

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『龍馬伝』・第27回-「龍馬の大芝居」 あらすじ

神戸を離れた龍馬(福山雅治)たちは、

長次郎(大泉洋)妻・お徳(酒井若菜)の大坂の実家・大和屋に身を寄せていた。

そこへ1人の男がやってくる。

かつて龍馬の初の江戸行きの際、

ともに旅した溝渕広之丞(ピエール瀧)だった。

彼は、土佐藩邸に届いた弥太郎(香川照之)からの手紙を、

龍馬に届けにきたのだ。

頬骨を掠めたケータイの電波  井上一筒

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そこには、土佐で半平太(大森南朋)以蔵(佐藤健)が、

置かれている惨状が、
怒りとともに書きつづられていた。

居ても立ってもいられず、

龍馬は、広之丞に土佐へ潜り込むための手助けを頼む。

ひそかに土佐に入った龍馬は、坂本家を訪れた。

龍馬の突然の帰宅に、喜びを隠せない乙女(寺島しのぶ)たち。

だがそんな家族に、龍馬は縁を切ってほしと伝える。

半平太らを救うため、龍馬は一芝居打つことを決意。

その影響が家族にまで及ばぬようにという、龍馬の苦渋の決断だった。

残された命いろいろ夢がある  奥田みつ子

拍手[10回]



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