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川柳的逍遥 人の世の一家言
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足は長く顔は小さく写してね  武内美佐子

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「わしの大好きな町の景色を、しっかり見とうせ」

と、言わんばかりに腕組みをして、”身長3メートル”の龍馬像が、

”長崎港”の絶景を見下ろしながら、”風頭山”の展望台に立つ。

すぐ近くにあるもう一つの展望台には、

司馬遼太郎
「竜馬が行く」の文学碑があり、

「長崎は、わしのきぼうじゃー」 

と小説にある龍馬の言葉が、刻まれている。

流されて流れて僕の現住所  岸本宏章

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   風頭公園の龍馬像

≪亀山社中跡の丘陵と連なる風頭山は、長崎の絶景を見下ろす好展望台。

 龍馬像が、その展望台から、「わしの街をみておおせ」と、

 長崎の夜の町を見据えている≫

実際は、

「わしの大好きな”お元”がいる長崎の町を、しっかり見とおせ」

と言っているのかも知れないが、

その長崎で、幕末に多くの志士たちと関わってきた、

一人の写真家がいる。

その当時、"東の下岡蓮杖"、"西の上野彦馬" と並び称された、

名写真家の一人、上野彦馬である。

スケールの違いは耳朶の広さ  上野多恵子

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上野彦馬は、営業写真家の草分けで、

文久2年(1862)、故郷の長崎に戻り中島河畔で「上野撮影局」を開業。

「一等写真師」の看板をたてて、客を待ったのだが、

閑古鳥が鳴く有様で、開店休業状態が続いた。

写真があまりにも写実的で、自分の生き写しと考えられて、

「写真を撮ると命まで取られる」

との迷信が流布していたからだ。

身中の虫がどっぷり胡坐かく  森 茜

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龍馬と同じスタジオで写真に収まる後藤象二郎

長崎には、開明の青年が全国から集まっていた。

「迷信などに引きずられてなるものか」

と、度胸を据えた若者がついに、写真館の門をたたいたのである。

「わしの写真を撮ってはくれまいか」

と、言って彦馬の客になったのが、

坂本龍馬や高杉晋作、伊藤俊輔(博文)、桂小五郎らであった。

一汁一菜仏が少し分りかけ  たむらあきこ

しかし写真は、彼らにあって「遺影のつもり」であった、と伝えられている。

有名になった折には、

「後世に自分の姿を残しておきたい」 との功名心も働いた。

混乱の幕末は、志士を目指す者にとって、

いつ命を落とすか分らない、ご時世であり、

彼らには、それなりの覚悟があって、写真に収まったのである。

効いてるか試しにクスリやめてみる  中 博司

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風頭からのぞむ長崎港(古写真)         現在の同じ位置からの情景

≪港に停泊する数多くの外国船が、当時の長崎の賑わいを物語る≫

”日本初の写真機”が、出島経由で、長崎に輸入されたのは、

幕末の1843年のこと。

写真撮影に成功するのは、さらにその16年後である。

龍馬が、

『日本を洗濯するために』
長崎を訪れたのは、

1864年~67年にかけてで、ちょうど写真が普及し始める時期と重なる。

龍馬は、彦馬のスタジオで撮影した肖像写真を、

5枚~10枚ほど、焼き増しして持っていたという。

「当時、”カルテドヴィジド”といって、今でいう”写真入の名刺”を作った」 

という。

新しいもの好きで、アイデア豊富な龍馬らしいエピソードである。

もひとりの僕の視線を意識する  嶋澤喜八郎

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   ガラス原板

ガラス原板とともに、この「名刺写真」

”龍馬の実像”
を、後世に遺すことになったのである。

慶応2年(1866)頃に、撮影されたという、

龍馬の写真(立像写真)の、「オリジナル・ガラス板写真」が、

3日間限定にて、

京都博物館の『龍馬伝特別展』で見られるということで、

早速行ってまいりました。

まさに龍馬ブームである。

入り口では、約30分の行列、

目的のガラス板前では、ものの2秒ほど見るのに、

40分以上は並ばされた。

肯定も否定もしない群れにいる  勝山ちゑこ

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龍馬伝の人気 あやかりたい人もいる

暗いケースに入った、「そのもの」は、

2・3秒程の鑑賞で、ほとんど印象にも残らない。

館内もまた、人・人・人の頭が邪魔で、肝心な物はほとんど見えない。

龍馬は、地球一周分歩いたというが、

達成感のないその日の、我々のだらだら歩きは、

龍馬が実感した同じような疲労を、

たった一日で感じさせられた、おもいだけが残る。

許したが一つの棘が抜け残る  吉川哲矢

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    上野彦馬と家族 

≪彦馬の前に、母と妻、横に4人の妹、前列で行儀よい姪と、眠たげな甥≫

古写真とは、

幕末から明治にかけて、撮影された黎明期の写真で、

「初期写真」と呼ばれる。

「古写真の魅力は、そこに本物の歴史があるということ・・・

 絵画は不要なものを省きますが、

 写真は意図しないものまで全部写ってしまう。

 そこに、現実が写っているんです」

と語る古写真研究家の姫野順一さんの、言葉を思いめぐらせながら、

歩いた。

現在の進化したカメラ(デジカメ)の中に、

この数々の幕末の歴史を収めたかったが・・・、館内は撮影禁止 ((( T_T)

横顔で盗む角度で我慢する  辻 葉

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「龍馬の写真(立像写真)は、上野彦馬によって撮影されたという・・・が?」

上野彦馬の弟子に、井上俊三という土佐藩出身の人物がいた。

ふるさとの馴染みということで、土佐藩出身の人々は、

井上に、無料で写真をとってもらうことが、よくあったようだ。

龍馬の写真も、スタジオは、間違いなく上野彦馬のスタジオだが、

撮影者は、この井上だという説がある。

龍馬の立像写真の原板(湿板)は、

井上家に保存されていた事から考えて、

「撮影者は、井上俊三とするのが妥当なところではないか・・・」

と、古写真研究家。
 
もう時効なんです七味唐辛子  山口ろっぱ

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上野写真館にて、日本に友好的な外人たち(古写真)

開店休業状態だった「一等写真師」の写真技術も徐々に、

次第に高く、評価されるようになる。

ポーズをとるものも現れて、ちょっとした写真ブームが、長崎に起きた。

そのブームにあやかり、

上野写真館を訪れる人が増えてきたのだが、

心の奥底では、「もしや俺の命が・・・」と恐れる向きもあった。

そこで写真機に向かって、”にらみ”を利かせてから写れば、

自分の精神力が貫通するから、

「死なずにすむ」との、『にらみの心得』が、説かれるようになる。

≪その心得を、最初に言い出したのが、長州藩の重臣、周布政之助であったらしい≫

迷信の通りに腹が痛くなる   村上恵美子            

「さぁ写します。

 こちらを見て、私がイイと言うまでジッとして、動いてはいけない。

 よろしいか。  ヒィ、フゥ、ミィ、ヨォ、イツ ・・・」

上野写真館では、少なくとも約2分ほどは、動かずにジッとして、

ポーズを決めていなければならなかった。

そのための首押さえの道具も用意されていた。

しかし2分間と言えども、ジッとして耐えている時間は長い。

首は凝る、それに、「にらみ」も利かせなくてはならないので、

我慢も限界に達する。

≪彦馬の家族をよく見れば、その様子が写っている≫

カップ麺2分半しか待てなんだ  井上一筒        

遠路やってくる客を、そういう苦痛から逃れさすには、

写真機を改造しなくてはならなかった。

やがて彦馬の手で、5秒程度で写せる画期的な、新機種が出来上がった。

上野彦馬は、化学にも通じており、長崎でこれを学ぶ予定でいたが、

蘭学者の中で、たまたま見つけた”ポトガラヒー”という語の

意味を外国の教官に質問したのが、”写真との出会い”となった。

蘭学者に従って、機械から薬品の開発まで手がける彦馬の徹底ぶりが、

新機種の開発につながった。

もしもからついにまで抱く寒たまご  山本早苗

「わが国最初の公害問題が、彦馬写真館から発生した」

『エピソード2件』

研究心が嵩じて、

彦馬は牛骨から、アンモニアを抽出する方法を開発するのだが、

実験室からアンモニアが流れ出し、

臭気が近所に及んだために、奉行所に突き出される、

ハプニングもあった。

最後にはごみとなるものばかり買い  八木勲

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居留地の中央を流れる大浦川の河口から見たダウンタウン(古写真)

フィルムは、硝酸銀の液体に浸した原板を、乾かないうちに、

現像しなければならなかった。

ただ問題は、このフィルムを撮影に使ったときには、

光量不足になりやすく、

被写体になった志士たちを、寺の大屋根に登らせて、写したこともあった。

一見、室内写真のように見えても、

すべてよく晴れた日当たりの良い野外で、撮ったのである。

小道具を外に持ち出して、

それらしい室内写真に仕上げる、大仕事であったのだ。

≪龍馬も小五郎も、小道具に囲まれた野外スタジオで、

後世に残る一枚を撮影していたのだ≫

蛇口からやっと太平洋につく  板野美子

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   龍馬の紋服

「龍馬伝・特別展での収穫」

龍馬のサイズが、現実的に見れたことが唯一の収穫。

当時龍馬が羽織っていた紋服から、計測したサイズがこれ。

身長=173cm 体重=約80kg

以下、紋服の寸法。

着丈=149cm    肩巾=32cm    袖丈=50cm 
袖巾=33.5cm   裄丈=65cm    前巾=26cm   後巾=30.5cm

どぉうってこと月は東に日は西に  河村啓子

拍手[9回]

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もひとりの私に逢えるまで歩く  嶋澤喜八郎

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「龍馬・空白の4ヶ月」

元治元年11月頃から約4ヶ月、龍馬の所在が不明になっている。

「龍馬はその時、何をしていたのか?」 と多くの人が龍馬を探している。

例えば、武田鉄矢氏、「龍馬は外国に行っていた?」 と推測し、

テレビ特番(10CH)では、「グラバー邸に潜み、商いの勉強をしていたのでは?」 

と言う。

またこの頃、中岡慎太郎は、長州におり、役割分担で、

「龍馬は薩摩にいた」 という人もいる。

そして今回、

7月4日放送の第27話・『龍馬伝』では、「故郷土佐に帰っていた」 と解く。

実際に龍馬はどこにいたのだろうか?

どれが正しくて、どれが間違っているのか? 私なりに探してみた。

数式で出せぬ人情匙加減  山本半銭

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「元治元年(1864)」

7月ー「禁門の変」
 
長州が惨敗し、尊皇攘夷派の志士は、各地で窮していく。

特に、京は酷かった。浪士と分れば新撰組などに、片っ端から殺されていく。

8月ー龍馬の世話で、お龍は寺田屋の養女となる。

    ≪この頃から、お龍も龍馬のために、京都の情報を集めたりして協力している≫

そんな時期、海舟の使者として龍馬は、西郷と会い、時勢について語っている。

「幕府、長州、薩摩と三者がいがみ合っている場合ではない。 

 このままでは日本は、清国のように外国の食い物にされる」 

熱く西郷を説く。(NHK6月27日放送・”薩摩の怪物”は、この時期のこと)

このとき西郷は、「家老の小松帯刀と相談すればいい」

とアドバイスし、龍馬の薩摩行きが決定した。

≪龍馬の薩摩行きは翌・慶応元年5月のことで、龍馬の薩摩滞在説は消える≫

僕よりも歯の数多いしゃれこうべ  奥 時雄

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10月ー海舟の軍艦奉行が罷免されたため、操練所訓練生がばらばら帰国を始める。

龍馬ら脱藩組は、帰国の危険を避け、

京都や大坂に潜伏し、外国船を借り入れて航海する計画を持っていた。

11月ーしかし、外国船の借り入れがうまくいかず、

海舟の配慮で薩摩藩の大坂藩邸に、かくまってもらうことになった。(11日)

≪武田氏の渡航説もまた、ここで消える≫

余談だが、

龍馬を愛してやまない武田鉄矢氏は、龍馬をユニークに分析する。

”龍馬のブーツ”について、

曰く、

『高下駄を履く上士と草履を履く郷士の身分さを嫌って新しい履物を求めた』

という。 (^▽^笑)
 
11月小松帯刀、龍馬について、大久保一蔵(利通)宛に手紙を書く。(26日)
       
内容は、龍馬らを、「航海之手先」に使うというもの。

≪お龍の回顧録によると、元治元年(1864)に龍馬と結婚したとあるが・・・、

 すなわち、この時期龍馬は、大坂、京都、神戸にいたことになる≫

そして、岡田以蔵半平太の取調べが、日増しに厳しさが増していた。

水平線赤くあかくという名残り  東さつき

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「元治2年(1865)」

2月ー京都・薩摩藩邸で龍馬、中岡慎太郎、土方楠左衛門会見。(5日)
  
2月ー中岡慎太郎、土方楠左衛門 大坂に入り龍馬と会見。(12日)

3月ー神戸操練所閉鎖(18日)。 [高杉晋作の長州藩内クーデター]

この年12日に、操練所の閉鎖が決定し、

すでに訓練生200人のうち、ほとんどが帰国していたため、

大坂薩摩藩邸にいた龍馬は、

神戸に戻り、脱藩浪士を集め残務整理にあたっている。

≪2月~3月、龍馬は大坂か神戸に居た≫

落ち目から抜け出る今朝のパンを焼く  太田 昭

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「慶応元年(1865)」  [四月、元治から慶応に改元されている]

4月ー龍馬は、薩摩へ向かう。約20人の仲間と、大坂薩摩藩邸を出発。(25日)

小松帯刀、西郷隆盛らと、薩摩藩船の胡蝶丸に乗り込み、瀬戸内海を経て、

5月鹿児島に着いた。(1日)

鹿児島に10日ほど滞在した後、長崎に向かう。

≪龍馬が、グラバーと密接な関係を持ち出したのは、このときである≫

5月11日ー岡田以蔵・斬首刑 武市半平太・切腹。

泥を吐く順に消えていくしゃぼん玉  小西カツエ

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   長崎丸山・繁華街

このように見てくると、

元治2年末~慶応元年1月末までに2ヶ月の空白がある。

この期間に、大河ドラマ・『龍馬伝』でいう、龍馬はふるさとに居たのか・・・?

「ところが、慶応2年(1866)秋のことである」

龍馬は、土佐の同僚・溝淵広之丞と長崎で再会し、一夜酒を共にした。

その酒の席での会話が、手紙に残っている。

「人間なら父母の国を、誰が忘れるものか、

 忍んで国の人を無視してきたのは、大願を果たすためだった」

と、龍馬の心の奥にある孤独感を、思わず吐露している。
 
≪すなわち龍馬は、古里に迷惑がかかることを避け、

  長らく土佐には帰っていないという証し≫

4ヶ月の空白ー結論は大坂、神戸に居たことになるか。

『龍馬伝』は、新しい伝説を提供をしてくれるから、”ドラマ”なのである。

独りで死んで独りで生まれ変わります  森中惠美子

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「トマス・グラバーとは?」

安政6年(1859)、スコットランドの生まれのグラバーは、

開港後1年の長崎に、グラバー商会を設立。

幕末の激動の中で、米欧の貿易商人たちと競合しながら、

西南雄藩に、艦船・武器・弾薬の類を売り込み。

1860年代半ばには、長崎における、外国商館の最大手に仕上げた。

道順を決めて迷わぬ顔になる  富田美義

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慶応3年(1867)、

岩崎弥太郎が、土佐藩の開成館長崎出張所に赴任してきた。

早速、弥太郎をグラバー邸に招き、商談に取りかかる。

坂本龍馬後藤象二郎も出入りしていた。

グラバーは、貿易にとどまらず、事業にも乗り出した。

慶応4年(1868)、

肥前藩から経営を委託された高島炭坑に、

イギリスの最新の採炭機械を導入し、本格的な採掘を開始した。

また、ほぼ同時期、グラバー邸から1キロほど南の小菅に、

薩摩藩と共同で、日本初の洋式ドックを建設した。

いわゆる、”そろばんドック”で、設備はすべてイギリスから輸入した。

きっと咲く一つ残っている蕾  森 廣子

そういうグラバーだったが、

皮肉にも、グラバーが肩入れした西南雄藩は、

怒涛の勢い討幕の兵を進め鳥羽伏見の戦いで、一気に勝敗を決してしまう。

グラバーの思惑は、はずれて大規模な内戦はなく、

グラバー商会は見越で仕入れた大量の武器や艦船を抱え込む。

おまけに、時代変革の混乱の中で、雄藩への掛売りの回収は滞り、

明治3年(1870)、

資金繰りに窮して倒産してしまう。

ラムネしゅわしゅわ朝顔の色水と  山口ろっぱ

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『龍馬伝』・第27回-「龍馬の大芝居」 あらすじ

神戸を離れた龍馬(福山雅治)たちは、

長次郎(大泉洋)妻・お徳(酒井若菜)の大坂の実家・大和屋に身を寄せていた。

そこへ1人の男がやってくる。

かつて龍馬の初の江戸行きの際、

ともに旅した溝渕広之丞(ピエール瀧)だった。

彼は、土佐藩邸に届いた弥太郎(香川照之)からの手紙を、

龍馬に届けにきたのだ。

頬骨を掠めたケータイの電波  井上一筒

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そこには、土佐で半平太(大森南朋)以蔵(佐藤健)が、

置かれている惨状が、
怒りとともに書きつづられていた。

居ても立ってもいられず、

龍馬は、広之丞に土佐へ潜り込むための手助けを頼む。

ひそかに土佐に入った龍馬は、坂本家を訪れた。

龍馬の突然の帰宅に、喜びを隠せない乙女(寺島しのぶ)たち。

だがそんな家族に、龍馬は縁を切ってほしと伝える。

半平太らを救うため、龍馬は一芝居打つことを決意。

その影響が家族にまで及ばぬようにという、龍馬の苦渋の決断だった。

残された命いろいろ夢がある  奥田みつ子

拍手[10回]

梅干しの咲きたい気持ちなら分かる 壷内半酔

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桂小五郎(通称・桂小)

「おれは ぶっ壊すのは大の得意だが、作り上げるのは大の苦手とするところだ。

 作るのは 桂しかなかろう」

そう言い放ったのは、高杉晋作である。

そこで、京都から離れ、団子屋をやっていた桂小五郎を、

亡命先の但馬出石から呼び戻して、この男に、藩政のすべてをまかせた。

”蛤御門の変”で長州がたたかれた後、

長州の残兵を探しに行った戦場の、京都から逃れ、

但馬で骨休めしていた小五郎にとっては、損な役回りである。

しかし、藩命とあればやむを得ない。

高杉の一報で、長州・萩に戻った。

青竹の節の一つになっている  西美和子

「おれは古い家を壊すのはおおいに得意とするところだ。

 しかし、新しい家となれば、大変苦手である。

 それは、大久保が適任と考えている」

そう語るのは西郷隆盛である。

高杉の言葉と、内容はまったく同じだ。

まず走れ結果あとからついてくる  有田晴子

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まさに維新は、役割分担で実現した。

西郷は維新達成後、大久保利通と対立したが、

自分の言葉通り、明治政府に出番はなかった。

高杉晋作は、維新前年に死んでしまったから、維新後にその姿はなかったが、

もし明治政府をぶっ壊す役に、回ってしまえば、

高杉のイメージも変わってしまっただろう。

≪壊し屋と言われた民主党の幹事長・小沢氏は、なぜだか、

 逆を行っている、作り屋・大久保利通を「尊敬している」と言い、

 壊し屋・高杉を「尊敬している」と言うのが作り屋・菅首相というのが可笑しい≫


あすという泥鰌のいない安木節  奥山晴生

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  京都三条・桂小五郎像

幕末維新の英傑たちは、

それぞれが、自らの能力の限界というものを、悟っていたのだろう。

また、どういう舞台で自分を表現できるか、

また、どんなところでは、損な役者になるのかを知っていた。

頑張りどころの見極めが、きちんと出来ていたと言える。

そして、予測どおり、小五郎も大久保も、新政府の建設に参加することになる。

桂小五郎は、長州藩の意向により、名前を木戸貫治と名を変え、

また後に木戸孝允と改名した。

藩の意向とはいえ、

どこか、自由になれない損な役者という、感じがしないでもない。

惰性で書いた正方形は丸くなる  森 廣子

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 京都鴨川沿いの”幾松”

小五郎が、幾松に逢うために通った幾松の料亭。

≪変幻自在で多彩、との印象のある桂小五郎だが、

そういうイメージが先行したためか、『鞍馬天狗』のモデルだともいわれる≫

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石畳を奥へ歩くと幾松の玄関

「桂小五郎の女遍歴・・・あんまりな・・・男でもある」

維新三傑の1人、桂小五郎は、坂本龍馬をはじめ、多くの維新志士と交友したが、

女性関係も派手だった。

美形で、弁舌さわやかな小五郎は、女性受けの良い男だったのだ。

小五郎の最初の結婚は、27歳のときだが、

わずか3ヶ月で離縁している。

この妻との間に、子どもがいたものの早世。

小五郎は、江戸に上って志士活動を開始することになる。

信号は青引き返すのは難しい  森田律子

その後、江戸で斉藤弥九郎道場の塾頭を務めた小五郎は、

隣家の娘・千鳥と知り合う。

小五郎は、彼女に手を出したものの、ほどなく千鳥を放り出して、

志士活動のため上洛。

千鳥は、小五郎の出立後に妊娠が判明し、

乳飲み子を抱えたまま
京都へ向かった際に、

”蛤御門の変”の混乱に巻き込まれ、会津藩兵に斬り殺された。

≪子どもは、後に会津で養育されたと伝えられる≫

よくもまあまめにちょっかい出しなはる  藤井孝作

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一方、そんな事情を知らない小五郎は、

京都で三本木の妓・幾松に惚れ込み、大金を払って彼女を落籍する。

すでに志士として、名を知られていた小五郎は、

常に命を狙われる毎日だったが、
幾松の存在は、

彼の心を和ませた。

次のような有名な話が残っている。

新撰組が、料亭に踏み込んだ時、舞を踊り、つつすばやく小五郎を逃がしたり、

蛤御門の変以降、小五郎がお尋ね者になって窮すと、

加茂川大橋付近で潜伏する小五郎に、食料や水を運んで助けた話。

≪ときに幾松は、派手な着物をきたまま、桂の元を訪ねるなど、

騒動を起こすも、

奔放な彼女の性格を小五郎は、好きだったようだ≫

毒蛇がクレオパトラを呑みました  泉水冴子

小五郎は、幾松と知り合ってからも、多くの女性に手を出しているが、

幾松が、浮気に寛容だったことも、

二人の仲が、うまくいった理由かもしれない。

命をものともせず、小五郎に尽くした幾松の想いは、本物だった。

のちに長州に落ちのびた幾松は、

潜伏中の小五郎に、高杉晋作の”藩政クーデター”の成功を伝えるために、

単身で但馬へ向かうなど、小五郎を最大限に支えている。

冷や奴ことばを飾ることはない  西山春日子

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     松 子

一方で逃亡中の小五郎は、但馬の娘と偽装結婚したり、

城崎の宿屋の娘を妊娠させたりしていたが、幾松は意に介さなかった。

幕末当時の”献身と浮気への寛容”さから、

小五郎は、幾松に頭が上がらなくなった。

維新後に、木戸孝允と改名した彼は、

幾松を正妻に迎え、
松子と名乗らせる。

幾松は買い物と芝居が大好きで、贅沢をしたが、

木戸(小五郎)としては、文句をいえない。

”うめと桜と 一時に咲し さきし花中の その苦労”
  木戸孝允

≪それでも二人の夫婦仲は良く、

幾松は、夫の死後は尼になって、生涯を終えている≫

ショッツルにしばらく漬けてあるあなた  井上一筒      

拍手[11回]

運命はひょんな角度で曲がり出す 小林すみえ

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「岡田ジャパンのキーパーソン」

年がいもなく、今日は、”日本VSデンマーク戦”で徹夜をしてしまいました。

サッカーは、広いグランド内での格闘技みたいなものだから、

なんとなく、ドキドキ、長い90分だった。

結果は、本田が決め、遠藤が決め、岡崎が決め、3対1の勝利。

大久保もがんばって、5本のシュートを打ち込んでいたが、全部キーパーの正面。

正面を狙っていたかの感じだったね。

そのうち2本は、パス回しにすれば、点に繋がっていたかもしれないのに・・・。

大久保の反省点だな。

最後、岡崎が決めた1点は、本田のチームプレイが演出したもので、

大久保も、”コレを見ならはなければいけない” と感じた一戦であった。

とにかく、やる男”HONDA”がすばらしかった。

拍手する人人人の交差点  太田 昭

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「モンスターレフティー」、といわれる本田圭佑の左足から蹴り出されるフリーキック。

彼は、ゴール前で落ちる”曲線を描く”シュートと、

”ブレ球”といわれる、

GKのもとでゆれる”無回転”のシュートの、2種類を蹴ることが出来る。

日本では、’07年北京五輪の予選で見せた”ブレ球”から、

その左足に注目が、集まるようになった。

しかし、本田は岡田ジャパン発足時から、日本代表メンバーだったわけではない。

彼がはじめて、日本代表に入ったのは’08年6月22日であり、

定着したのは最近のことだ。

海外で得点をあげる本田が、得点力不足に悩む日本の「救世主」として、

代表に召集されるようになり、

岡田ジャパンの”キーパーソン”となって、今に至っている。

吹けばとぶ男に鍵は渡せない   吉村雅文 

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ヨーロッパのサッカーには、100年もの歴史がある。

日本は、J・リーグが生まれてまだ、20年足らずだ。

日本におけるサッカー文化が成熟するためには、いま少し時間が必要。

「長い目で見てほしい」

と本田は言った。

世界の一流プレーヤーたちと、同じピッチに立ったからこそ、

気づいたことことが本田にはある。

その上で、

「決して追いつけないわけではない」
 と、強い口調で言いきった。

未来図に君の笑顔を描き入れる  田岡 弘

そして、彼の小さい頃から変わっていない夢が、今につながる。

「W杯で優勝すること。

 なんとなく夢として思うのか、本気で狙いにいくかは、自分次第だと思うので、

 僕は本気で、目指したいと思っている」 と、言葉をしめくくった。

頼もしい金髪のサムライに、大いなる期待をしよう。

一本の線描きつづけています  岩田多佳子

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「ここからは龍馬伝へ・・・幕末の二人のキーパーソン」

元治元年(1864)11月、操練所生徒の池田屋事件がもとで、

責任者の勝海舟は、江戸に召還され、軍艦奉行の職を解任、

さらに謹慎を命じられてしまった。

責任者を失った海軍操練所は、翌・慶応元年3月、閉鎖され、

行き場を失った龍馬は、同士たちとともに、

薩摩藩の保護の下に、置かれることとなった。

≪勝が、旧知の西郷に頼んだとも、言われているし、

薩摩の側にも、自藩の海軍力を整備するために、

操練所で教えていた操艦方や、海軍にまつわるさまざまな技術を、

必要としていた、事情があったともいわれる≫

いわゆる西郷が、龍馬らを預かるのにも、様々な腹づもりが動いたようだ。

込み入った事情は知らぬそばの花  関口きよえ

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右手に犬を連れ、

左手で刀の鞘をにぎり、

無私で肝っ玉が太く、

ギョロ目で、堂々としている、

東京上野公園に立つ”西郷隆盛の像”(高村光雲作)には、

なんとなく庶民性が漂う。

が、実はその内側に、虚像の部分も、

持ち合わせていたのではないか・・・?

西郷隆盛の身長は、180cm、体重は、120kg近くあったようだ。

心は繊細、かつ思考は鋭く、孫子とか韓非子に傾倒し、

その”非情の理論”について、深く研究をすすめていた。

それをもとに、戦略を練り、知的謀略は一流で、挑発と攪乱の策に、

恐るべき才能を発揮した。

オーラのある人だったペテン師になった 八田灯子

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そのような西郷は軍人でありながら、一寸学者ふうであり、

それを理由に、

「正体をよくつかめない人物の姿が隠れている」

とも言われ続けてきた。

上野の西郷像のイメージと、

実際の西郷とは、かなり異なっているのだ。

私に触れたら感電いたします  嶋澤喜八郎

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人物評論の好きな勝海舟が、西郷と初対面の龍馬を前に言った。

「西郷には、どうもわからないところがあったよ。

 大きな人間ほど、そんなものでな・・・

 小さなやつなら、どんなにつくろっても、すぐに腹の底が見えてしまうものさ。

 西郷ほどの大きなやつになると、そうではないのうー」

フェロモンのようなオーラに魅せられる  片山かずお

それに応えて、龍馬は、

「先生、なるほど西郷というやつは、わからんやつです。

 少したたけば、少し響き、大きくたたけば、大きく響くところがあります。

 もし馬鹿なら大きな馬鹿で、利口なら大きな利口者なのでしょう」

これを聞いて勝は、満足そうに微笑み、龍馬の人物鑑定眼を褒めた。

「さすが、龍馬も鑑識の高いやつだよ」 

≪人物を見る能力に、絶対の自信を持つ二人が、そう評価するのだから、

 ”西郷はやはり、虚像の部分も、かなり備えもっていた” に違いない≫

干物についてネコとカラスの討論会  松原末湖

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海軍操練所が閉鎖されたことにともない、行き場を失った龍馬に、

海舟は、最後の世話を焼いてくれた。

薩摩藩の指導者だった西郷隆盛に、彼を紹介したのである。

「西郷隆盛なら、ヤツを上手に使うだろう」

そう目論んだからである。

龍馬が、薩摩藩亭を訪ねると、すでに龍馬の名前は知られており、

西郷にも、すぐに会えたという。

だが、初対面の二人は、お互いの相手の腹をさぐるように、

たわいのない、会話を交わしただけだった。

知能派の鯛で疑似餌に騙されぬ  有田晴子

龍馬の眼力は、2、3分のこの短い時間で、

上記の海舟との会話にあるように、

西郷が、「釣鐘のような男」 だと判定したのである。

その後も龍馬は、薩摩藩邸へ西郷を訪ねていっているが、

たいした話はせず、短い会話を交わすだけだった。

それでも、互いに、「なかなかの人物」 と認め合っう関係は築いていく。

≪実際、西郷と龍馬の面談は、海舟が予想した通り、

 両者ともに、惹きつけ合うところがあったようだ≫

百均の皿でも鯛は鯛である   山口ろっぱ

「西郷を大きく響かせることのできる男、それは、お前さんだよ」

と、海舟は言いたかったのだろう。

龍馬と西郷という二人の英雄を、出会わせたことは、

幕府にとって脅威になることも、海舟は予測していた。

だが海舟は、幕臣という立場にこだわらず、

日本の未来によかれと思う方を、選んだのだ。

かたや西郷隆盛の方は、龍馬の印象を、次のように述べている。

「天下に有志あり、余 多く之と交わる。

 然れども度量の大、龍馬に如くもの、未だかつて之を見ず。

 龍馬の度量や 到底測るべからず」 と。

最高気温知ってよけいに暑くなる  山内美代子

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『龍馬伝』・第26回-「薩摩の怪物」 あらすじ

龍馬(福山雅治)たちの、行く末を案じる勝(武田鉄矢)は、

薩摩藩の参謀・西郷吉之助(高橋克実)に会うよう龍馬に勧める。

脱藩浪士たちを、

「軍艦操縦士として、引き取ってほしい」 と西郷に頼んでいたのだ。

薩摩といえば、

先の「蛤御門の変」で、京の都に火をつけたという幕府側の雄藩。

桂小五郎(谷原章介)たち長州勢が、腹の底から憎んでいる相手だ。

勝の勧めといえども、長州の悔しさを知る龍馬は、

おいそれと、薩摩を頼る気にはなれなかった。

くちびるが腫れた土瓶むしの火傷  井上一筒

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結局は師に押され龍馬は、西郷との初対面の日を迎える。

西郷は、薩摩軍を率いる重鎮だ。

薩摩と幕府が、「再び長州に攻め入る」 と耳にしていた龍馬は、

「今、日本人同士で戦を始めたら、日本はどこかの国の属国にされるかもしれない」

と西郷に意見する。

それに対して西郷は、

「薩摩にとって、長州も土佐も徳川であっても、敵だ」 

と、反論。

2人は、真っ向から意見を対立させるのだ。

しかし西郷は、そんな龍馬たちを、

「船乗りとして雇ってもいい・・・

 すべては、坂本さんしだいでごわす」 と告げる。

龍馬は西郷に圧倒され、

柔和な外見とは裏腹に、底知れない力をもっていると直感する。

ラムネ瓶の底の呪文になっている  たむらあきこ 

9148fe88.jpeg       

そんな中、操練所閉鎖の日がやってきた。

勝は、操練所を去る訓練生たちへ、自らの思いを託す。

「日本を世界と互角に渡り合える国にしてみろ! お前達は、俺の希望だ!」

この勝の言葉を、龍馬は胸に深く刻みつつも、

寂寥感や心細さにさいなまれながら、新たな道を模索する。

だだ、これまでと違うのは、いまや龍馬は、1人ではないということだった。

そしてひとまず、長次郎(大泉洋)妻・お徳(酒井若菜)がいる

大坂へ向かうことになる。

一瞬をためらう風の横殴り  麓 義久

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同じ頃、弥太郎は、武市半平太(大森南朋)から、

「拷問に苦しむ以蔵を救ってほしい」 

と、以蔵(佐藤健)を毒殺するための”毒まんじゅう”を預かっていた。

弥太郎は以蔵の苦しみを間近で見て、毒殺すべきかどうか迷う。

悩んだ末、

弥太郎はとうとう、以蔵に毒まんじゅうを食べさせようとする。

そう悲観なさるな葉にも表うら  吉道航太郎         

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京都駅の雨 竜馬の咳払い  井上一筒

一晩眠れば、その翌日には、考え方が変わっていた後藤象二郎も、

生涯に一度だけ、命をかけた仕事がある。


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『大政奉還前日 後藤に覚悟を迫った龍馬直筆の手紙』  (6/16)

が、見つかったことで、

歴史研究家や坂本龍馬研究家の間では大騒ぎ。

見つかったのは、慶応3年(1867)10月、

江戸幕府が、朝廷に政権を返上した「大政奉還」(10/14) の2日前、

幕府が京都で諸藩の重臣を集めて、意見を聞いた日に、

”江戸幕府が朝廷に、政権を返上する、『大政奉還を実現させるよう』  

、坂本直柔(龍馬)が、

土佐藩の参政・後藤象二郎を激励した、手紙の草案である。

ももいろの肉のなる木に水をやる  小沢 史

学芸員主任・三浦夏樹さんが、、興奮をしながら語る。

「鳥肌が立っています。龍馬の手紙の中でも最高に重要な史料で、

 原本が行方不明のなか、草案が存在するとは、考えてもいなかった。

 当時の緊迫した状況がうかがえる、第1級の史料だ」 と。

それは、その通り。

どえらいプレッシャー胃潰瘍になる  笠原乃りこ

内容は、

「大政奉還に失敗した場合、後藤も生きては帰れない」 としたうえで、

『海援隊一手を以(もっ)て 大樹(将軍)参内の道路ニ 待受(まちう)ケ』 と、

”自分も(将軍襲撃のため) 海援隊を率いる覚悟である” ことを記し、

さらに、二条城での議論の目的は、

「大政奉還の一点のみ」 と明確に指摘。

『生先一身失策の為に、天下の大機会を失(しっ)せバ』 と、

”失敗すれば先生(後藤)の罪は許されず、薩長から責められる”

と緊迫した情勢をつづっている。

そして、

『地下ニ 御面会仕(つかまつり)候』

”墓の下で会いましょう”

と、自らの死の覚悟まで示して、激励する内容になっている。

ただ、その中に、「先生」「生先」 と書き間違えた箇所が一つある。

完全に倒れ完成するドミノ  平尾正人

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書き間違いをしている箇所を指差している発見された手紙

この書き間違いについて、研究主任は

「さすがの龍馬も、この緊迫時に緊張して、書き損じたんじゃないか」

と、分析している。

しかし、それには異義がある。

本当に、龍馬が緊張をして、こんな単純な間違いをするだろうか・・・?

皮肉が得意な龍馬は、意識的に間違えたのではないか? 

と私は思っている。

龍馬にとって、

後藤は、龍馬にとって、

半平太や以蔵や、多くの土佐の仲間を殺した”不倶戴天”の敵である。

後藤は、風見鶏とも、気分屋とか、気まぐれとも言われ、

どこか”ずるい”ところがある人間なのだ。

龍馬が、勝海舟を呼ぶのと同じように、後藤を「先生」と呼ぶはずがない。

網膜に残る想いが揺れはじめ  太田昭 

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龍馬に近づいたのは、後藤の方からだった。

藩の参政となった後藤は、

土佐藩が中央政局で、存在感を増していくためには、

「龍馬の海軍」を無視できない現実に直面していた。

そもそも土佐は、船で海を渡らなければ、

畿内や江戸といった日本の中枢に、出ることが出来ない。

なんとしてでも、海軍を入手しなければならなかったのだ。

人脈の真ン中あたりにある誤解  中井アキ    

片や龍馬のほうも、亀山社中の経営は、危機に瀕していた時でもあり。

龍馬の目指す海軍を、維持するためには、

ぜひとも、土佐藩を後ろ盾にしておきたかった。                     

また大局的な見地からみても、

薩摩と長州だけが、暴走することを抑えようとしていた龍馬にとって、

土佐が海軍力を手に入れて、発言力を増すことは、重要な意味を持っていた。

こだわりが溶けてかすかな紙魚になる  嶋澤喜八郎

慶応3年1月12日、後藤は、長崎の料亭・「清風亭」に龍馬を招待した。

その時、後藤は龍馬が贔屓にしていた芸妓・お元を呼んでいる。

後藤は抜け目なく、龍馬懐柔の下準備をしていたのだ。

そしてついに、恩讐を超えた歴史的な会談がおこなわれ、

後藤は過去にいっさい触れず、土佐藩の今と未来を語った。

利害の共通する二人は、すぐに意気投合をしたという。

後藤は龍馬の、先進的な考えや、藩の枠に囚われない、広い視野に感嘆し、

脱藩の罪を解いて、土佐藩支配下の海援隊隊長に任命したという。

≪歴史の1ページ目になる、「清風亭」の今は、残念ながら、24H駐車場になっている≫

ウイスキーはダブル大人の話する  宮田宣子

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「酢屋」-この2階の左窓のところに龍馬の部屋がある

いわゆる二人は、互いの利害を挟んだ関係で、つながっただけなのである。

龍馬が、ぶれやすい後藤を、心底から信頼したわけではない。

冒頭の龍馬が、「後藤に覚悟を迫った手紙」では、

決して、”あなたを尊敬しているわけじゃない” という、「隠し文字」が、

「先生=生先」 の中にある。

ささやかな抵抗という形で、皮肉ったのではないかと思えるのである。

また龍馬と後藤が、完全な親密でない理由が、

もうひとつある。

土佐藩は、海援隊を傘下に置いたものの、危険に及んだときは、

海援隊を藩から、切り離す気だった。

そのため海援隊は、土佐藩邸に本部を置くことなく、

土佐藩に近い京都・三条の「酢屋」を本拠としていたことである。

信用をしながら揺れる猜疑心   森廣子

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      船中八策

「豆辞典」          

≪龍馬が語る”大政奉還論”は、後藤にとって実に魅力的なアイデアであった。

 その案であれば、主君・容堂も十分納得し、

 また、幕末の政局を大きく動かせると、
大いに興奮した。

 容堂は、この案を受け入れ、

 慶応3年10月3日、後藤は土佐藩の公式案として、

 「大政奉還の建白書」として、幕府の老中筆頭・板倉勝静(かつきよ)に提出する。

 その後、徳川慶喜は、後藤ら四十藩の重臣を集めて意見を聞き、

 朝廷に政権返上を申し出たのである≫

歯車をあわせる器量持ってない  森口美羽

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「後藤象二郎の人物評」

後藤象二郎は、叔父・吉田東洋暗殺後、一時失脚するが、

のちに藩政に復帰して、「大監察」という重職につき、

土佐勤皇党の弾圧を主導し、武市半平太や岡田以蔵ら、土佐の藩士らを、

執念深く、切腹、斬殺、獄死と残忍な死に追いやった人物。

一方では、彼はのちに、互いの利害を合致させ、坂本龍馬と手を組み、

”船中八策”をもって、「大政奉還」を実現させるという一役も担った。

≪「船中八策」は、後年、明治の文筆家・坂崎紫瀾が、つけたと云われている名前≫

基本的な彼の政治姿勢は、維新後も、相変わらずで、

自由民権運動にいったん協力してから、裏切るなど、

ブレの多い人物であった。

とにかく、しぶとく生きるしたたかさだけは、筋金入りだったようだ。

もう少し刻めば男前なのに  本田智彦  

『気まぐれな後藤象二郎を支えた雪子という女』

後藤は、早婚で安政元年(1854)に、17歳で結婚している。

相手の名は、磯子

仲人となったのは、藩の重臣の吉田東洋だった。

彼女は4人の子供を産んでいる。

だが、後藤は磯子への愛を、あまり示さなかったようである。

慶応3年(1867)に、磯子が病没した際、

長崎で外国人と会談中の後藤のもとに届いたが、

彼は眉ひとつ動かさずに交渉を続けた。

会談終了後に、外国人が後藤の妻の死を知り、

あまりに平然とした彼の態度に、驚いたという。

楕円形フリーハンドで描いている  森田律子

まもなく海援隊の「蒸気船・いろは丸」の事件が発生し、

後藤は、妻の葬式にすら出ずに、仕事を進めた。

心の底で涙を流していた可能性もあるが、後藤の性格を考えると、

彼は磯子を、それほど大切に、考えていなかったのかも知れない。

ばらばらに時を刻んでいる家族   村上玄也

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 幕末の志士が多く利用した京都島原の門

磯子の死と前後して、

後藤は、京都で雪子という名の芸妓と知り合っていた。

雪子は、女性ながら豪胆な性格の持ち主。

新撰組の近藤勇後藤が、料亭の二階で会談した際には、

彼女は、階下の新撰組隊士たちが、斬り込んでこないよう、

階段の上に、バリケード代わりの火鉢を置き、万一の際は、

自分の身を盾にして、「後藤を守ろう」 と決心していたという。

後藤が近藤と意気投合したため、隊士たちは斬り込んでこなかったが、

泣く子も黙る新撰組を相手に、

一歩も引かなかった雪子の勇気は、並々ならぬものだった。

大きな声じゃ言えんが内縁の方が奇麗  島田握夢         

そして維新後、雪子は後藤と結婚。

夫婦そろって天皇の訪問を出迎えるなど、妻としての役割を果たした。

借金が多く、気ままな後藤を支えられる女性は、

豪胆な雪子をおいて、他になかったといえるのではないか。

≪蛇足―男が活躍する舞台では、妻は大いなる役目を背負っている。

 そういう意味で、豪胆な菅直人首相の奥さん伸子さん見ると、

 菅さんの今後の施政は、期待出きるのではないだろうか・・・≫

棺桶の中でも伸びる髭である     菱木誠         
 

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