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川柳的逍遥 人の世の一家言
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底に着いたら挑戦状を突きつける 立蔵信子

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    ”金門の変” 図

”文久から元治”へ、この時代、幕末がいちばん慌しくなったときである。                                                        

江戸から京へ、京から江戸へ、土佐からも、薩摩からも京へと、人が動いた。

そこには、幕末を象徴する出来事が起きる。

長州藩による関門海峡での外国船砲撃や「薩英戦争」。

京都では、「八月十八日の政変」 といわれる「佐幕派」のクーデターが起き、

京都を牛耳っていた「攘夷派」が、一掃され、

次への事件を誘発していくのである。

混沌の、幕末の2年の出来事を年表で追ってみる。

有為転変いろはにほへと散りぬるを  岡田陽一

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『文久三年(1863)』                                                         

  1月 1日 坂本龍馬 京に入る。
  1月 4日 武市半平太 京より土佐に向う。
  1月13日 勝海舟、下田・「宝福寺」山内容堂と会見 坂本龍馬の「脱藩罪」を解く。
  1月25日 龍馬 大久保一翁と面会、「大政奉還」 の構想を得る。
  
  2月17日 近藤勇 浪士組・組頭になる。
  2月25日 坂本龍馬「脱藩罪放免状交付」。
  
  3月 4日 「新撰組結成」。徳川家茂 入洛(将軍上洛、家光以来229年振り)
  3月 7日 徳川家茂 参内し孝明天皇に拝謁
  3月 8日 勝海舟 京都寺町通で岡田以蔵に救われる。
  3月20日 坂本龍馬 姉・乙女に勝海舟の弟子になったと手紙を書く。

金の卵になりなさい勉強なさい  山口ろっぱ

  4月13日 清河八郎、 麻布一之橋で佐々木只三郎らに暗殺される。
  4月20日 徳川家茂 参内し朝廷に攘夷期日を 「5月10日」 と約束。
  4月27日 勝海舟 幕府より「海軍操練所」の取締りと教授を許可される。

  5月16日 坂本龍馬 越前福井で松平春嶽から”操練所運用資金借用”。
                                   
(このとき横井小楠に会う)
  5月17日 坂本龍馬 姉・乙女に、海軍操練所の設立を伝える手紙を書く。

  5月24日 山内容堂 土佐藩校致道館に郷士以下を集め、「勤皇党の解散」を命じる。
  5月25日 山内容堂 「勤皇党の弾圧」を開始。

  6月 5日 仏軍艦・「セミラミス号」「タンクレード号」長州砲撃。
  6月 6日 高杉晋作 白石正一郎邸に入り奇兵隊の編成開始。
      8日ー奇兵隊発足

  6月 8日   土佐 間崎哲馬、広瀬健太、平井収二郎切腹。
  6月28日 坂本龍馬 姉・乙女に日本を洗濯すると手紙を書く。

フィクションに薄く桃色塗っておく  中川隆充

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  ”七卿の都落ち” 図
 
  7月 2日 「薩英戦争」 英国艦隊、鹿児島を砲撃。    
 
  8月ー   天誅組挙兵。
  8月18日 「八月十八日の政変」 大和行幸中止。
          朝廷より、壬生残留浪士組に「新選組」の隊名が下賜される。
  8月19日 「七卿の都落ち」。
          新選組 三条木屋町に桂小五郎の捕縛に向う。

 9月 4日 天誅組討伐の軍令出る。
 9月 9日 勝海舟 坂本龍馬、大坂に入る。
 9月21日 武市半平太 投獄される 高知城下戒厳令。
 9月27日 天誅組 大和で壊滅 吉村寅太郎死亡。

10月 3日 島津久光 京に入る。
10月22日 一橋慶喜 京に入る。
10月28日 勝海舟、坂本龍馬 江戸に向う。
12月28日 山内容堂 京に入る。

いい奴を送る煙たいのが残る  藤井孝作

解説ー「八月十八日の政変」

文久3年8月18日

「公武合体派」
中川宮朝彦親王近衛忠熙、忠房らは、

薩摩・会津とともに、長州藩が守っていた”堺町御門”の警備を解任した。

同時に、攘夷派公家の三条実美、沢宣嘉ら7人を排除した。 〔七卿落ち〕

これが、後の 「池田屋事件」「蛤御門の変」へと発展していく。
  
指切りを違え落葉が抱くドラマ  谷垣郁郎

元治元年(1864)

この年、龍馬は、生涯の伴侶となる”楢崎龍”と出会う。

そして、「池田屋事件」につづき「禁門の変」が勃発。

龍馬のような浪人者には、京は危険な場所になっていた。

年の暮れには、龍馬の師である勝海舟が”軍艦奉行を罷免”され、

翌年には、”軍艦操練所”も閉鎖。

龍馬の拠点は、長崎へと移っていく。

お国のために糖尿になりました  井上一筒

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長崎の街を見つめる龍馬の靴・モニュメント

 3月27日 天狗党の乱。

   5月14日 勝海舟 軍艦奉行に昇進。
 5月29日 幕府、神戸海軍操練所開設を布告。

 6月 5日  「池田屋事件」ー新選組、池田屋で会合中の宮部鼎蔵、吉田稔麿らを急襲。
 
 7月11日  佐久間象山、暗殺される。
 7月18日  「禁門(蛤御門)の変」。久坂玄瑞自刃。
 7月23日  孝明天皇 長州追討の勅命を出す。  

  8月 2日  「第一次長州征伐」。
  8月 5日  アメリカなどの四国艦隊、長州藩の下関砲台を占拠。
  8月ー    龍馬・京都で、と出会う。
          勝海舟の使者として西郷隆盛に会う。

流れ星のひとつを横で受け止める  本多洋子

  9月11日  勝海舟 西郷と会見、「列藩同盟」を説く
10月22日   幕府 勝海舟に帰還命令を出す
             英陸軍少佐・ボールドウィン、中尉バード 鎌倉八幡宮前で殺害される

11月10日  幕府 勝海舟軍艦奉行罷免。閉門蟄居。
         長州藩幕府に謝罪。
12月27日  幕府、長州領から撤兵する。

曲がりくねった道だ川だったらしい  西藤 舞

ここから、幕末のシナリオは、クライマックスへと・・・。

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武市半平太・入牢(龍馬記念館)

元治2年(1865)
 3月18日  神戸海軍操練所閉鎖

慶応元年(1865)
 4月25日   「第二次長州征伐」。 
   5月11日     武市半平太、処刑される。
           岡田以蔵、刑死。

笑い方忘れたマリが弾まない  あいざわひろみ

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言葉選ってるのねメガネ拭くふりで  森田律子

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    馬関(下関)戦争

幕府に対する攘夷実行圧力の強まるなか、

その期限となっていた5月10日、

長州藩が、下関海峡を通過したアメリカやフランス・オランダの商船を、

次々と砲撃した。

そして、約一ヶ月後の6月初旬に、報復攻撃を受け、

長州が惨敗するという事件もあった。

刀から涙思わぬ展開に  小林満寿夫

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手紙の中程に”今一度、洗濯・・・”の文字がみられる

龍馬が、「日本を洗濯いたし申し候」 の手紙を書いたのは、

長州が、外国の報復攻撃を受け、

惨敗した、約3週間後のことである。

坂本乙女宛  文久3年(1863)6月29日の日付で、冒頭に

『 この文は、極大事の事ばかりにて、 けしてべちやべちやシヤベクリには、

 ホ、ヲホ、ヲ、いややの、 けして見せられるぞえ

 六月廿日 あまりいくかゝ、きょうのひは忘れたり。

 一筆さしあげ申候。

 先日、杉の方より御書拝見仕候。    ありがたし 』

と龍馬らしく、冗談めかして、乙女に他言の禁止を求め、

自分について、

「よほど芽を出し」 

と自分がついに、檜舞台に立ったという、心境を報告している。

解らない記号で手帳埋めている  中川隆充

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その、「よほど芽を出し」 とは、

龍馬が、長州藩が、外国船に砲撃を加えた直後の5月16日、

神戸の”海軍塾創設”のため、勝海舟の使者として越前・福井藩へ向かい、

資金を援助してもらうという話を、まとめていたことを意味する。

福井藩主の松平春嶽の信頼も得て、

多くの人や大金を、動かすことが出来るようになったことを、

姉に自慢しているのだ。

とっておきの話 にんまりするワイン  泉水冴子

『 私事も、此せつは、よほどめをいだし、

 一大藩に、よくよく心中を見込て、たのみにせられ、

 今何事かでき候得ば、二三百人ばかりは、私し預候得ば、

 人数きまゝにつかい申侯、よう相成、

 金子などは少し入ようなれば、十、廿両の事は誠に、心やすくでき申候』

≪ 私も最近芽が出てきて、

  大藩(福井藩)に心中を見込まれ、頼りにされ、

  今何か事が起きれば、二、三百人くらいを預かり、自由に使える立場になり、

  金が必要な時も、十両や二十両のことなら、心配いりません≫

鰐の歯を磨く仕事で食べてます  井上一筒

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      下関英国船

そして、長州の攘夷戦争を嘆き、

これは幕府内の”姦吏(かんり)”が、夷人と内通して行なったものだと指摘。

『 然に誠になげくべきことは、ながとの国に軍初り、

 後月より六度の戦に、日本甚利すくなく、

 あきれはてたる事は、

 其長州でたゝかいたる船を、江戸でしふくいたし、又長州でたゝかい申候。

 是皆、姦吏の夷人と内通いたし侯ものにて候 』

≪ ところが、誠に嘆かわしい事は、

  長州で戦争が始まり、先月から六度の戦いに、日本は勝ち目がなく、

  あきれた事には、長州で戦った外国船を、江戸(幕府)で修理して、

  また長州で戦っています。

  これらはみな、悪い幕府の役人が、外国人と内通しているものです≫

干からびたミミズになって這っている  谷垣郁郎

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『 こうした悪役人は、よほど勢いもあり、大勢いますが、

 龍馬は二、三の大名と、固く約束し、同志を募り、

   朝廷もまず神の国を守る大方針を立て、

 江戸の同志 旗本・大名・その他 と心を合わせ、

 こういった悪役人と戦って撃ち殺し、

”この日本を今一度、洗濯しなければならないこと”  を祈願しています』

と書いている。

真っ当に生きてることが恩返し  伴 洋子

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とんでもない結論吐いているしずく  中山おさむ

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    闘う カブトムシ

”加茂川に あたら仇浪 立たせじと 思い定めて 渡る月日か”

これは、京都滞在中の山内容堂が詠った、彼の本音である。

私の幕降ろす人がいる  河村啓子

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長州藩と、これをバックとする”尊皇攘夷派”の、志士や浪士によって、

座巻されいた京都に、

文久3年(1863)1月25日,前土佐藩主・山内容堂が入った.

その世話役を、京都の土佐藩邸で留守居役の平井収二郎に命じた。

あとに思えば、これは、容堂の策略だったのだが。

その抜擢に収二郎は、興奮をかくせなかった。 そして、

「容堂公をいただいて、薩長二藩に遅れを取りがちな、土佐藩の存在意義を一挙に示そう」

と考える・・・。

収二郎の胸に野心の火が燃えたのです。

反面、この収二郎の行動は、半平太にとって、「自分への裏切り」 でもあった。

ますます広くなる頭頂のロビー  浜田さつき

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願ってもない大役に高揚する収二郎

容堂にとって、もっとも頭の痛い存在は、

攘夷ばかりにこだわる、武市半平太「土佐勤皇党」であった。

やることがすべて、容堂の考えと、反対だったためである。

収二郎は勤皇党々員。

収二郎の京都における活躍も、

尊攘派の公家や志士との交流が主なもので、

”半平太の理念”を、京都で実現化していた、勤皇党ナンバー2の存在である。

容堂の腹を読めない収二郎は、

容堂にしばしば、そういう意見を述べていた。

容堂は気にいりません。

そのたびに、容堂は激怒します。

これをきっかけに、”勤王党弾圧”の決意が、容堂の中に増殖していくのである。

遮断機を行き交うたんぽぽの綿毛  中島紀子

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『龍馬伝』・第20回‐「収二郎、無念」 あらすじ

土佐へ帰国した半平太(大森南朋)は、投獄された収二郎(宮迫博之)を助けるため、

容堂(近藤正臣)に、お目通りを願い出る。

だが、現れたのは象二郎(青木崇高)だった。

吉田東洋(田中泯)暗殺をきっかけに、

藩政から退けられていた彼は、容堂により、

再び城へ呼び寄せられたのだ。

古傷を舐め合いながら繋がれる  森 廣子

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収二郎の裁きを取りしきる象二郎に、

半平太は、

「収二郎の仕業は、藩のためを思ってのこと」 と必死で釈明。

だが、収二郎の投獄には、別の目的があった。

「東洋暗殺の真犯人は誰か」、詰問するためでもあったのだ。

その事実を聞かされた半平太の胸は、ざわめく。

収二郎を投獄へ追いやった東洋暗殺。

自分の選択は間違っていたのかー。

半平太は葛藤する。

壷へ入った賢い方のコブラ  井上一筒

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一方、龍馬(福山雅治)は、大坂の専称寺で、航海術の勉強に励んでいた。

収二郎が、投獄されたことを知った龍馬は、

彼は、幼なじみの投獄に、

居てもたってもいられず、京に滞在中の勝(武田鉄矢)のもとへ向かった。

「どうにか収二郎を助ける手だてはないか」 

と焦る龍馬に、勝は、

「東洋暗殺は、見方によって、正しくも、間違いでもある」

と諭す。

だが、大殿様のためを思って尽力してきた収二郎が、

なぜ牢獄へ入れられなければいけないのか、龍馬は納得がいかない。

地を這って厳しい現実に触れる  足立淑子

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京にいる勝のもとへ向かった龍馬と入れ違いに、

兄の権平(杉本哲太)が勝塾にやってきた。

彼は、脱藩を許された龍馬を、土佐に連れ帰ろうとしたのだ。

だが、龍馬はいまや、勝塾のリーダー的存在、

”何とか龍馬の帰国をあきらめてもらえないか” 

と考えた長次郎(大泉洋)は、

「わしらと一緒に学んでみませんか?」 と権平に提案する。

初めての体験に、おろおろするばかりの権平だったが、

徐々に、訓練生の海軍創設にかける思いを知る。

曲者ですなぁ冷や酒の口あたり   西山春日子 

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そうとは知らず、そこで勝から、

「勝塾の資金が、底をつきそうだ」 と聞いた龍馬は、

越前福井藩の前藩主・松平春嶽(夏八木勲)のもとへと向かう。

春嶽に会った龍馬は

「勝塾存続のために、千両かして欲しい」 と頼む。

そして、龍馬は、そこに居合わせた横井小楠(山崎一)と出会い、

西洋のデモクラシーについて話を聞く。

しなやかに右に左に道を持つ  勝山ちゑ子

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さらに続く、投獄された収二郎への、過酷な拷問。

それに耐え、一向に、口を割らない収二郎に、

容堂は、文久3(1863)年6月8日、とうとう切腹を命じた。

「平井収二郎・辞世」

”もゝちたひ いきかへりつゝ うらむと思ふ 心の絶えにけるかな”

踏み切り前にオトコひとりを縫いつける  山口ろっぱ

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その後、

収二郎の最後を聞いた龍馬は、                                      

「収二郎ハ 誠にむごいむごい、いもふと おかおが なげきいか斗(ばかり)か」

と、平井収二郎の死を慟哭し、

平井加尾への想いを、認(したた)めている。

(龍馬の手紙 文久三年六月二十九日、乙女宛)

 平井収二郎、文久3年6月8日に弘瀬健太、間崎哲馬と共に切腹。

介錯人には、

幼少から、同じ道場へ通った幼友達・平田亮吉が務めている。

鯨幕あの世この世の歩道橋  佐藤寿美子

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獄中での爪書きの辞世、『嗚呼悲しき哉』・・・は、藩吏により削り取られたが、

明治維新後に、妹・加尾の手により復刻された。

爪で残したといわれる平井収二郎の辞世の句碑。

嗚呼悲哉 兮 綱常不張
洋夷陸梁 兮 辺城無防
狼臣強倔 兮 憂在蕭牆
憂世患國 兮 忠臣先傷
月諸日居 兮 奈我神皇   と記されている。

ああ哀しいかな、綱常張らず       
≪ああ、なんと悲しいことか ”三綱五常”の主張も叶わず≫

洋夷陸梁して、辺城防ぎ無し    
≪洋夷(異国人)が、好きに暴れ回っても わが国を守る手立てもない≫

狼臣跋扈して、蕭牆(しょうしょう)に憂いあり  
≪佐幕派の浪士が、思うがままに勢力を振るい 寂しく憂いこの上もない≫

世を憤り国を憂い、忠臣まず傷つく  
≪日本の将来を真剣に憂いている 私の心は傷ついたままだ≫

「三綱五常とは」―人として常に踏み行い、重んずべき道のこと。(儒教の教え)

≪「三綱」は、君臣・父子・夫婦の間のー『道徳』

 「五常」は、仁・義・礼・智・信の五つのー『道義』≫

世の中は刀で切れぬものばかり  山添黄葉

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両耳で狙って臍で撃ち落す  井上一筒

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えらいやっちゃ”を踊る民衆

江戸幕府が倒れたのは、

政治的には、長州藩・薩摩藩に代表される西南雄藩と、朝廷とが合体し、

その力に押されたことによるが、

より根本的には、

幕府が、”民衆から見離されたから”である。

なぞなぞが解けないままにやがて雨  山本昌乃

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 長州征伐の図

『幕府が民衆から見放されていった契機』

一つの契機となったのは、「長州征伐」である。

「幕長戦争」とも呼ばれ、第一次と第二次の二度にわたった、

幕末の政治史を方向付ける、大きな動きであった。

第一次征伐は、「蛤御門の変」における、

長州軍の皇居への、発砲に対する謝罪を求めて、幕府がしかけたものである。

この時は、ちょうど長州藩が、

4国艦隊(英・米・仏・和蘭)の下関砲撃に敗れたばかりであり、

藩内保守派の台頭によって、幕府へ恭順の意を表したため、

幕府軍は戦わずに、12月、撤兵令を下している。

あやまりに来るなら髭も剃って来い  柴本ばっは

こうして、第一次幕長戦争は終息をしたが、

そのシワ寄せは、重く民衆の肩にのしかかった。

例えば、出兵の最中の9月、大阪に立てられた高札には、

「将軍上洛はいらぬ事、此の後、上洛なれば一文も町人よりハ出銀せず」

とか、

「公儀に用金出す馬鹿はなし」 

などと貼り出されたという。

≪幕府軍の出兵により、「公金」が町人たちに賦課されたのである≫

何事もない日の重み増してくる  山田恵子

ところが、幕府に恭順の意を表した”長州藩内”では、

そうした藩上層部に、反発する動きも出てきた。

例えば、元治元年(1864)12月から翌・慶応元年はじめにかけては、

”奇兵隊”の力を背景として、高杉晋作らが下関で兵をあげ、

藩の実権を奪うことに成功し、

やがて、藩の意向は、倒幕へと固まっていくことになる。

もちろん、幕府はそうした長州藩の動きを、黙って見過ごすことはできず、

再征を決意し、その年の9月、勅許を得た。

ところがこの時は、朝廷内はもちろん、諸藩にも”再征反対”の空気が強く、

とりわけ薩摩藩は、ひそかに長州藩と連絡をとりつつ、

幕府からの出兵命令を、拒絶しているほどだった。

意に沿わぬ訂正印にある滲み  吉田信哉

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将軍・家茂上洛 (二条城より出場の図) 
 

慶応2年、幕府が”第二次長州征伐”の軍事行動をおこしたことにより、

大坂には幕府軍が次々と集結し、大坂の人々は、

その多数の軍勢の、世話や人足負担を、強制されることになった。

軍勢の世話や人足負担は、

まだ、生活そのものを脅かすものではなかったが、

幕府や諸藩が合戦に備えて、大量の米を買い付けたことにより、

大きな混乱がもたらされた。

幕府や諸藩が米を買い付けはじめると、

米商人たちが競って米の買占めに動いた。

そのため、大坂ばかりでなく、江戸の米も、不足するようになった。

戦争が、異常な”米価高騰”を招いてしまったわけである。

≪なお、14代将軍家茂は、この第二次長州征伐で大坂に出陣し、病死する≫

どの角も欠けてはならぬ冷奴  篠原伸廣           

民衆が、幕府を見限るのと、まさに裏腹になるが、

このころから、幕府に変わる”新しい支配勢力”の出現を、民衆たちが求めるようになる。

しかも、それは、幕府によって、まさに攻められようとしている、

長州藩への期待へと結びついていった。

事実として、その年の4月から5月にかけて、播磨の長府で、

「長州に負けなよ、エライヤッチャ」 

と歌いながら踊る稲荷踊りが、大流行したと云われているし、

民衆たちが、幕府政治への期待をまったくなくし、

それに対して、幕府に変わる「何か」の出現を待ち望んでいたことがわかる。

反論する若さに期待かけている  山口ろっぱ

このとき、台所を預かる女房たちが、

まず、「米を安く売って欲しい」 と米屋にかけあった。

「米を売ってくれ」  「米を出せ」 に変わるのに、

大して時間はかからなかった。

そして、ついには手元にあるいろんな道具を持って、米屋を襲い、

力ずくで米を出させる打ちこわしに、発展していった。

目の上のこぶへ一変した態度   片岡加代

この動きは、江戸にも飛び火し、江戸市中は打ちこわしの嵐が吹荒れる状態になる。

江戸の町奉行の門外に、

「御政事売切申候」 という札が貼られたのも、この時のことで、

民衆たちは幕府をすでに、見限っていたのである

≪このころから地方都市、あるいは農村で、

 「世直し大明神」の旗をおしたてた”一揆”が蜂起する≫

窮すれば奇妙な力湧いてくる  竹田りゅうき 

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『龍馬伝』より、踊り狂う民衆

『ええじゃないか』

こうした動きが、日本中を巻き込んで一大ブームに発展していくのが、

「ええじゃないか」 である。

”ええじゃないか” には、各地の事例からみて、かなり決まったパターンがある。

つまり、”お金が降る”という現象である。

当時の人の懐古談や絵などに、空からお金が降ってきて、

それを競って拾い合う、民衆たちの姿が描かれたりしている。

≪「お札が降る」とはいっても、実際には、夜中、何者かが豪農や冨商の家に、

お札を貼っていったのが一般的だったといわれる≫

シュレッダー醜い過去を刻みます  中山おさむ       

お札が降ると、降った家では、その「お札」を祀らなければならない。

しかも、ただ祀るだけでなく、

村人を招待して祝宴をはるというのが、共通している。

そして、「ええじゃないか」 と囃したてながら、

町へ、あるいは村へ、くり出していくのである。

しかも、その踊りの衣装は、

女が男装し、男が女装し、また、老人が若者の姿になり、

逆に若者が老人の格好をするなど、

いわゆる「日常性の否定」という現象がみられる。

おそらく、上下転倒の思いが、そこにこめられていたのだろう。

まあいいかと言うには五体熱すぎる  糸岡アヤ子

なお、そのときに唄われる歌詞は、

即興的なものが多く、これといった定型はない。

例えば、岐阜県下では、

「長州のおかげで 百にお米一升する えいじゃないか えいじゃないか

 おめしちりめん一たんが弐ぶする えいじゃないか えいじゃないか

 追に諸色が安くなる えいじゃないか えいじゃないか」

と唄われている。

諸色というのは、いろいろなものという意味で、

「長州のおかげで物価が安くなった」

と長州をたたえた唄になっている。

長州藩を讃えた歌詞はかなり多く、尾道地方では、

「長州さんお登り えいじゃないか えいじゃないか 長と薩と えいじゃないか」

というのもある。

鰯さく 指から潮騒聞くように  北原照子

また、各地で、

「江戸の横浜石が降る そりゃえいじゃないか 

 ここらあたりは神が降る そりゃえいじゃないか」 

などとうたわれ、

この場合は、”攘夷を唄った歌詞”となっている。

長州への期待、それに攘夷、そして「世直し」あるいは「世直り」 という言葉が、

歌詞の中に、よくみうけられる。

つまり、「えいじゃないか」は、民衆たちの「世直し」願望と結びついていた。

この「えいじゃないか」 の乱舞は、

それまで260年余りにわたり幕藩体制という、

がんじがらめの政治体制によって、

圧迫され続けた、民衆たちのエネルギーが、

一気に爆発したものみることができる。

頂点まで伸びたら空が揺れ出した  たむらあきこ

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丹頂のひと鳴き風穴があいた  森田律子


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 (吉野拓也氏撮影)

 

坂本龍馬が、長州を訪れた際に尊皇攘夷の志士・久坂玄瑞 に託され、

 

土佐へ持ち帰った武市半平太宛の手紙が、

 

土佐・山内家宝物資料館の収蔵資料から見つかり公開された。

 

矢印は正しいですか本当に  高岡宏子

 

手紙は、1862年(文久2年)1月21日付。

 

「諸大名も公卿も頼りにならず、草奔の志士を集めて立ち上がるしかない」

 

「大義のためならば、長州藩や土佐藩が滅亡しても苦しくない」

 

などの内容で、勤王党ら下級武士に決起を勧めている

 

武市半平太の使者として長州を訪ねてきた龍馬を、

 

久坂玄瑞、「坂本君」と呼び、

 

「腹を割って話し合ったので、しっかり聞き取って熟考してください」 と、

 

自分の思いを、龍馬から聞くよう頼んでいる。

 

乱世のイノシシ 枕元を奔る  加納美津子

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土佐勤王党を主宰した武市瑞山に宛てて、志士の決起を促す内容で、

 

「大義のためなら藩が滅んでもいい」 

 

という持論の部分を大きな字で、強調している。

 

龍馬も久坂の影響を受け、帰郷直後に、脱藩しており、

 

明治維新前の、緊迫した情勢を伝える文面になっている。

 

研いだ刃が突然くすくすと笑う  桑原伸吉

 

『豆辞典』ー草莽の志士とは・・・?

 

維新をめざし活動した人たちを、一般に「志士」と呼ぶ。

 

志士とは、「有志乃士」の略で、

天下を憂い、志をもって立ち上がる士分を意味している。

 

そもそも、志士なる言葉が出てきたのが、田沼意次の時代で、

 

幕藩体制がなんとなくおかしくなってきた、時代背景がそこにある。

 

しかし、時代が下がるにしたがって、

 

志士という意味合いは、もっと広く解釈されるようになり、

 

天下の時勢を考え、行動するものであれば、志士と呼ばれた。

 

つまり、「有志の徒」としての横の広がりが強まっていった。

 

『草莽の志士』というのが、

 

まさに幕末期の志士を代表する呼び方であり、

 

これを考案したのが、吉田松陰であった。

 

松陰は孟子の中にある『草莽』という語句を引き合いに出し、使うようになった。

 

草莽とはー「草むらに隠れている者」 と解釈され、

 

身を隠して志を立て行動できる者であれば、

 

だれでも草莽の志士になれたのである。

 

零一つ付けたら扱いが違う  藤井孝作

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『龍馬伝』・第19回「攘夷決行」-あらすじ

 

上洛した将軍・家茂(中村隼人)は、

 

孝明天皇に5月10日に、攘夷を決行すると約束する

 

「5月10日をもって、わが国にとどまるすべての異国人をひっ捕らえ、

 

 わが国の沿岸を航行する異国船をすべて打ち払います」

 

朝廷から攘夷決行の期日決定を迫られた将軍・家茂は、

 

しぶしぶながら決行日を宣言した。

 

稜線へ放った声が戻らない  山口ろっぱ

 

「長年の夢が叶う」と沸き立つ攘夷派。

 

だが、これらはすべて攘夷派をあざむく、幕府側の策略だった。

 

幕府は、朝廷には攘夷決行を約束しながら、外国と密通。

 

しかも各藩には、

 

「攘夷を決行するか否かは、幕府につくか、攘夷派の長州につくかの踏み絵だ」

 

と迫っていたのだ。

 

一方、長州にもどった久坂玄瑞(やべきょうすけ)は、

 

5月10日に、外国船の砲撃を始めるが、実際に攘夷を行ったのは、

 

長州藩のみだった。

 

万歳をしてから公約を省く  泉水冴子

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  半平太・収二郎・以蔵

 

そんな 裏のことは微塵も知らず、

 

半平太(大森南朋)は、突然の容堂(近藤正臣)の 帰国に右往左往していた。

 

「すべては大殿様のため・・・」

 

そう信 じて、攘夷を推し進めてきたにもかかわらず、

 

その旗 頭となるべき容堂が、京を去ってしまったのだ。

 

半平太 は、彼の真意をはかりかね、焦る。

 

刻々と 期日は迫るも、

容堂からは、一向に攘夷決行の命令が下されない。

 

半平太 は、まんじりともせず、沙汰を待っていた。

 

移り気な人で相手を降りまわす  栗田久子

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一方、龍馬(福山雅治)、収二郎(宮迫博之)以蔵(佐藤健)を、

 

半平太 に引き合わせる。

 

一度 は、半平太のもとを離れた二人だったが、

それは理由があってのこと。

 

龍馬は、「二人を許してほしい」 と訴えたかったのだ。

 

「収二郎も以蔵も、武市さんの駒ではなかったき」

 

だが、 龍馬の言葉は、もはや半平太には届かない。

 

そし て、ついに運命の5月10日がやってきた。

 

高のぞみした日ぎっくり腰になる  中井アキ

 

『5月10日の攘夷決行』ーうら話し

 

上洛し た将軍・家茂は、義兄の孝明天皇に、

 

「攘夷期限は文久3年(1863)5月10日といたします」

 

と答え た。

 

妹の和 宮を妻とする家茂の決断に、天皇は、

 

「公武一和これによって実現できる」 と喜んだ。

 

朝廷は 京都にいる大名を招集し、このことを示達した。

 

 シャー レの中で殖えていた薄笑い  井上一筒

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幕府のやり方に苦虫を噛みつぶす海舟 
           

 

「攘夷なんて実行できっこない」 

と考えていた大名たちは、心境ただならない。

 

攘夷を 行なえば、そのまま相手国との戦争になる。

 

日本の 軍事力では、勝てるはずがない。

 

「いま、大名の領地内にいる外国を、武力で追い出す」

 

となれ ば、戦うのは自分たちなのだ。

 

そんな ことから、この示達は、ほとんどの大名が本気では聞かなかった。

 

ところ が、この示達を、

「この日を待ちかねていたのだ!」 と大喜びした藩がある。

 

長州藩 だ。

 

長州藩 には、藩と北九州の間に、関門海峡がある。

 

日本に 出入りする外国船にとっても、重要な海の出入り口である。

 

コップから溢れた泡の泣き笑い  北原照子

 

尊皇攘 夷をはじめから唱えてきた長州藩は、この日のために、

 

砲台を 中心とした攻撃態勢を、着々と整えてきたのである。

 

この砲 撃陣に最初にひっかかったのが、

アメリカ船・ペンブローク号であった。

 

横浜港 を出て上海へ向かう途中、関門海峡で突然の砲撃をうけ、

 

ビック リしたそのアメリカ船は、緊急退避した。

 

禁猟句父の釦が落ちていた  宮本茂圭

 

「幕府の裏腹」

 

攘夷決行を5月10日とする というのは、

 

日本国 内における決定で、

幕府は、このことを外国側には伝えていない。

 

外国と 約束した条約があり、

 

「5月10日を期して、日本から出ていけ」 とは言えない。

 

しか し、長州藩の砲撃は、さらにフランス艦、オランダ艦におよぶ。

 

このた め、長州藩は、

その後、外国からすさまじい報復を受けることになる・・・。

 

下半身強化孤独な別メニュー 片岡加代


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