川柳的逍遥 人の世の一家言
〇△× もあったさ 人生さ 田口和代 槍を手にした次郎法師・直虎 許婚が失踪してしまい途方にくれた井伊家の姫は、 密かに出家することに決めた。 次郎法師槍持ち姿 徳政令を受け入れた直虎は、永禄11年に龍潭寺の松岳院に入った。 この一ヶ月ご徳川家康が井伊領に侵攻してくる。 「おんな城主-直虎」の予習―③ 永禄3年(1560)全盛期を迎えていた今川義元は西へ勢力を拡大するため、 2万5千という大軍を率いて尾張国へ侵攻を開始した。 この遠征には、井伊直盛も義元本隊に属し従軍。 この当時、尾張一国を統一した織田信長と、駿河、遠江、三河3ヶ国を 支配下に置いた義元では、著しく兵力差があった。 戦いは今川軍圧勝以外、考えられなかった。 ところが義元の本隊が桶狭間で休憩しているところに、 荒天をついて織田軍奇襲を仕掛けてきた。 それにより、総大将の義元は首級をあげられてしまう。 本隊に属していた直盛も討死を遂げてしまった。 今川方にとっては、信じられないような完膚なきまでの大敗北である。 くしゃみした弾みにプライドが消える 谷口 義 井伊直親と青葉の笛 身を隠してから実に10年、亀之丞は青年武将となって井伊谷に帰還。 そして取り決めの通り、井伊直盛の養子となり「直親」と名乗る。 この空白の期間に唯一、亀之丞を慰めたのが「青葉の笛」である。 義元の死は、周辺の小大名や豪族たちに、多大なる影響を与える。 なかでも今川家に臣従していた三河の松平元康(後の家康)が独立し、 信長と同盟を結び、今川家と敵対したことは、 隣接する井伊家にとって抜き差しならないことであった。 そんな状況下、さらに井伊家に不幸が襲いかかる。 永禄5年、讒言を用いて井伊直満と直義の命を奪った小野道高の子・道好 が、今川氏真に「直親が松平元康が通じている」 という讒言を吹き込んだのである。 井伊直親は申し開きをすべく、氏真の元へ向かう途中、 掛川城主の朝比奈泰朝の軍勢に襲われ、命を落としてしまったのである。 やたら目にとびこんでくる戒名 酒井かがり 直親が朝比奈泰朝に殺される前年の永禄4年、 「虎松」という井伊家にとっては待望の世継ぎが生まれている。 名を虎松と名付け 後の、徳川四天王に数えられる「井伊直政」である。 かって直満が謀反を疑われ誅殺された際、亀之丞と呼ばれていた直親も 処罰されそうになった。その直親が殺されると。 「虎松も亡きものにせよ」という命が下される。 ちかのり しかし、井伊家の縁戚で直親とも交流があった新野親矩が今川氏真らに 虎松の助命を嘆願、その必死の願いが聞き入れられ、 虎松は新野家に引き取られ養育されることとなり、命が救われたのである。 偶然が分ける幸せ不幸せ 真鍋心平太 ところが永禄6年には、井伊一族の長老で虎松の後見人の井伊直平が、 今川氏から離反した天野影貫の籠る犬居城を攻めに行く途中、川名で急死。 さらに永禄7年には、同じく今川氏に反旗を翻した曳馬城(浜松城)の飯尾氏 攻めに参陣した新野親矩までもが討死してしまった。 こうして幼い虎松は、後ろ盾をすべて失ってしまう。 もはや井伊家の命運も尽きようとしていた時、 りゅうたんじ 龍潭寺の南渓和尚が奇策に打って出たのである。 それは出家していた次郎法師を呼び戻し井伊家の当主に据えるというもの。 さらに 虎松の後見人を務めさせることだった。 次郎法師は、名を「井伊直虎」と改めた。 こうして女城主・直虎が誕生したのである。 曇天をどう生きようか思案する 柴田比呂志 主君筋にあたる今川家でも、直虎が井伊家当主になることを認めはした。 しかし永禄9年、今川家はひとつの陰謀を張り巡らせた。 それは井伊谷とその周辺地域を対象に「徳政令発布」を命じたのである。 徳政令とは、借金を帳消しにすること。 この頃の井伊谷は相次ぐ戦乱と不作により疲弊していた。 そこに徳政令が施行されると、借り手である領民は確かに救われるが、 貸し手の商人たちはたちまち困窮し、下手をすれば領内から商人が いなくなってしまう。 それは井伊家の経済基盤が著しく弱体化することに繋がる。 今川家の狙いは借り手の領民を守ることではなく、 こうして潰すことにあった。 今川家は力を要せず井伊谷を奪い取ろうと考えていたのである。 隙間から覗くさかさまの世界 加納美津子 歴代の井伊氏を祀る龍潭寺 しかし、直虎は徳政令の施行を、故意に遅らせたのである。 それはすなわち、主君の命に従わない、ということである。 すぐさま今川家からは徳政令施行を促す圧力がかかる。 だが直虎はなんだかんだと理由をつけては、この要求をやり過ごした。 そのおかげで商人たちは守られ、領内で混乱は起こることはなかった。 商人と同じように貸金業の役割を担っていた龍潭寺にも、 徳政令を免除する印状を出した。 井伊家の菩提寺であり、出家した自らも世話になった寺を守ったのである。 越境した落葉お隣へ返す 淡路獏眠 松岳院跡地(直虎の母が住んでいた) だが、永禄11年になると、今川家は家臣を井伊谷に直接派遣して、 本腰を入れて介入してきたのだ。 この2年の間に、商人や寺社の土地や資産が守られる手立てを つけていた直虎は遂に凍結していた徳政令を施行する。 こうして領地で起こることが予測された混乱を最小限に 抑えることに成功した。 しかし、この一連の直虎のなすことに憤慨した今川家は、 間もなく井伊谷に介入、直虎の統治権をも剥奪してしまう。 身に危険を感じた直虎は、ふたたび龍潭寺に身を寄せたのであった。 感情と理性イクサは終わらない 下谷憲子 PR
待つ人も待たせる人も夕日ににじむ 森田律子
(画像をクリックすると拡大されます) 井伊家を取り巻く人々 井伊 直平は初代の共保から数えて20代目の当主である。 21代目の直宗と22代目の直盛は、直平が亡くなるよりも早くに 討死してしまう。直宗の弟(直満・直義)ふたりは、謀反の疑いを 受け誅殺されてしまったため、井伊家は家督を継ぐことの出来る 男子が極端に減ってしまったのだ。 「おんな城主-直虎」の予習―② 井伊家の出自はさまざまな説があるが、一般的には藤原房前を祖とする 藤原北家の後裔とされている。 寛弘7年(1010)元旦、遠江国井伊谷の八幡宮神主が、お手洗の井戸の 傍らにいた赤子を保護した。 ともすけ ともやす この子が後に藤原共資の養子となり、藤原共保と名乗った。 そして井伊谷に移り住み、「井伊」と称した。 以後、井伊氏は、井伊谷を領する武家として基盤を固めていく。 鎌倉時代には地方行政次官にあたる介の役職を付け、 井伊介を名乗るほど有力な地方領主となる。 鎌倉幕府の御弓始の儀式において、 三番目の射手に選出される栄誉に預かっている。 噴火するニュースコロッケ揚げながら 山本昌乃 南北朝時代になると、当時井伊家の当主だった井伊道政は、 後醍醐天皇の息子である宗良親王を領内に迎え入れ、南朝方として参戦。 しかし北朝方が勝利した結果、井伊氏は遠江国守護に任じられた今川氏の 支配下に置かれることになってしまう。 しばし 室町時代、遠江国の守護は斯波氏に代わる。 だが、戦国乱世となると今川氏が遠江に侵攻。 これを奪い取ってしまう。 斯波氏に味方していた井伊氏は、これにより勢力が減退。 今川の当主が今川義元に代替わりした時、当時の井伊家当主だった直平は娘 を人質に差し出し今川に臣従、再び井伊氏の勢力を盛り返すことに成功した。 数字の8に目鼻つけたら雪だるま 大内朝子 井伊家列記 龍潭寺弟世法忍禅師が記した井伊家歴代の当主の筆跡を纏めた記録。 直虎が女性領主になったいきさつが記されている。 後に井伊家を救うことになる女性・「井伊直虎」が生まれたのは、この頃、 義元が今川を継承する天文5年(1536)頃ではないかと考えられている。 井伊家中興の祖とも呼ばれる井伊直平の孫に当たる、井伊直盛の娘として 誕生したのである。 戦国時代の女性に関する史料は少なく、直虎となる姫も幼名は判然としない。 だが、直盛には男子がいなかったため、姫は早くから従兄弟にあたる 井伊直親を婿養子に迎えることは決まっていたのである。 しかし今川氏に臣従してからの井伊家に連続して、不幸が舞い込んできた。 天文11年、今川氏に従って出陣した田原城の戦いにおいて、 直平の嫡男である直宗が討死してしまう。 さらにその2年後、直宗の弟である直満と直義が、 今川義元から謀反の疑いをかけられ、誅殺されてしまったのである。 もぬけのからへ溜まりつづけるヤマイダレ 森 茂俊 これは井伊家家臣であった小野道高が直親と直虎の婚約に反発。 今川義元に讒言したことが、原因とさてれる。 だが処罰はふたりだけで収まらなかった。 当時9歳の直満の嫡男・亀之丞(後の直親)にも命の危険が迫っていたのである。 そこで家臣の今村藤七郎は、米や炭を入れる藁の袋であるかますに 亀之丞を隠し入れ、自らが背負って井伊谷を脱出する。 そして黒田の山を経て渋川の東光院へと逃れた。 のうちゅう しかしここにも追っ手が迫ってきたため、東光院の能仲和尚の案内で 信濃国市田郷にある松源寺へと落ち延びた。 縄跳びの輪の中にいるテロリスト ふじのひろし そこで亀之丞は、この地を治める松岡貞利の庇護を受けたのである。 亀之丞の行方は極秘とされていたため、許婚であった姫(直虎)にも知らされ ていなかった。 姫は姿を消した許婚をひたすら待ち続けるしかなかった。 しかし、何年待ち続けても帰ってくる気配はなかったのであった。 姫は亀之丞の帰参を待つことにしたが、なんら知らせも届かない。 我が身の不幸に悲嘆した姫は、若い身でありながら出家を決意する。 出家してしまえば、結婚することはできなくなる。 周囲は反対したが、姫の決意は揺るがなかった。 りゅうたんじ 龍潭寺の南渓和尚のもと、出家することを決めた。 尼僧となった姫に、南渓和尚は深い思いを込め「次郎法師」と名付けた。 龍潭寺が所蔵する「井伊家列記」には「次郎法師は女にこそあれ」とある。 その意味は「次郎法師は女ではあるが、井伊家を継ぐ家に生まれたので、 後継ぎの名と僧侶の名をかね、次郎法師という」というものだ。 人情の絆も痩せて孤立する 森 廣子 井伊直親の木像 天文23年(1554)、讒言により亀之丞の父である井伊直満を死に追いやっ た小野道高が病死。 翌弘治元年(1554)になり、亀之丞はようやく井伊谷へ帰還することができた。 実に10年余りの月日が費やされていたのである。 青年武将となっていた亀之丞は、以前からの取り決めに従い井伊直盛の 養子となり、名も「直親」に改められた。 しかし直盛の娘、つまり次郎法師との婚約は、破棄されてしまう。 すでに仏門に入ってしまった女性は、人の妻になることはできない。 そこで直親は、井伊一族の奥山朝利の娘を正室に迎えたのである。 こうして次郎法師と直親は、許婚から兄弟の関係に代わったのであった。 曲がりなりにも直角の腰になる 井上一筒
濡れそぼつグレーの穴でありました 徳山泰子
井伊直虎と虎松 徳川幕府で譜代大名筆頭を務めた井伊家は、幕末の大老・井伊直弼らを 排出した名門。そんな井伊家は戦国時代、当主となる男子が相次いで亡く なり、お家断絶の危機に直面した。 そんな時代、「徳川四天王」の一人となる武将・井伊直政の後見人を務め、 尼から城主となった女性がいる。数奇な運命に翻弄されながら、 一家の危機を救ったのが、次郎法師こと「井伊直虎」である。 大河ドラマ・「おんな城主-直虎」の予習―① 「おんな城主」直虎は男性か? (新聞が報じる直虎の新事実) 井伊氏は徳川幕府下の彦根藩主として有名だが、戦国期には遠江の 井伊谷の領主で、今川義元に代表される今川氏の配下にあった。 これまでは、直虎は井伊谷城主、井伊直盛の娘の次郎法師が家督名乗って 家督を継ぎ、後徳川家の重臣となる井伊直政の養母となったとされてきた。 発見された史料「守安公書記」には、今川氏真(義元の子)の配下にあった にいのさまのすけちかのり 井伊家について、井伊谷の領地が、直盛の義理の兄弟・新野左馬助親矩の 甥にあたる「井伊次郎」に与えられたとの記述があった。 直虎の存在を示す史料は永禄11年(1568)、新野左馬助の兄とされる うじつね 関口氏経との連名で「徳政令」を出した時の書状しか見つかっていない。 同館の井伊達夫館長は「次郎法師は徳政令反対はだったので、 井伊次郎が父の氏経と連名で出したと考える方が自然、 井伊次郎こそ直虎と名乗った可能性が高い」と指摘する。 はてさてどうしよう凭れかかられて 雨森茂樹 (拡大してご覧下さい) 新聞が語る井伊直虎とは誰のことだったのか 磯田道史・国際日本文化研究センター准教授は、 「次郎法師のいとこが直虎を名乗った可能性が見てとれるなど興味深い」 と評価。 「今回の史料で直虎と名乗った可能性のある人物も、その後の行方が不明。 今後の系図研究などが重要になる」と指摘する。 井伊館長は彦根藩から分藩した分家の分家の当主を2005年に継いだ。 今回見つかった古文書は、約50年前に彦根市の古道具店で購入したという。 史料は享保20年(1735)に編集され、新野左馬助の娘らに1640年、 きまたもりやす 彦根藩筆頭家老を務めた木俣守安が聞書きした記録などが、収められていた。 隙間から覗く世間が面白い 北川ヤギエ 「井伊谷は力を持った武士たちが勝手に所領の取り合いをし、 わがまま放題をして沈静化しないので(氏真が)関口越後守(氏経)の子を 井伊次郎とし井伊谷の知行をあてがった」との記述もあった。 これまで「次郎直虎」は江戸中期の史料「井伊家伝記」に登場する女性 「次郎法師」と同一人物だと考えられていた。 彦根市の彦根城博物館は「見つかった史料は全体を見ないと評価できない」 とやや困惑気味だ。 NHK公報局は、この新聞の取材に「ドラマはあくまでフィクションです。 一年間、視聴者の皆様に楽しんでいただける大河ドラマを制作して参ります」 と文書で回答している。 予習はまだまだ、続きます。 剃刀をあてると膜は震えだす くんじろう 平成二十九年 酉年元旦 「吉日は昨日になって夜は明ける」 十二支の動物に現代の代表的なペットである猫が入っていません。 なぜなのでしょう。 子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥を十二支といい、 その漢字は、3千年前の中国の時代には、すでに方角や時刻・年・ 日などを表すのに実際に使われていました。 しかし、当時の十二支には、まだ動物の名はあてられていません。 元々ネズミ・ウシ・トラ・といった意をはめる意識はなかったのです。 それが十二支に動物の名をあてはめようと考えたのは、無学の庶民に 十二支を浸透させるためで、中国・戦国時代(紀元前480~247年)の頃と いわれています。その動物たちは、もともと中国に馴染みの深い動物 たちを選び適当に当てはめたというのが、「十二支=十二の動物」の 真相のようで子がネズミ、午がウマ、丑がウシ、酉がトリでなくても よかったのです。 それにしても、どうして猫が選抜の中に入らなかったのでしょうか? 答えは簡単、当時、中国には、まだ猫はいなかったというだけのこと。 中国に猫が入ってくるのは、十二支の選抜から、遅れること約2百年 中東からくるのを待たねばなりません。 『日本つくり話』 むかしむかし神様が元旦、動物たちに 「私の社に1番から12番目までに来たものを1年交代で大将にする」 というお遊びを思いつきました。 それを聞いた動物たちは、我こそが一番になるんだと戦々恐々です。 明ける朝が待てず、足ののろい牛などは前日の夜中から出発します。 ちゃっかり者のネズミは、猫に競争日を2日と教え、牛の背中に隠れ、 腕力がある虎はマイペースの走り、兎は虎に食われない距離を保ち健 脚を発揮、竜と蛇は無駄足が多く、馬と羊は尻を叩かないと走りません。 猿・鳥・犬は桃太郎時代を懐かしみ、ぺちゃくちゃお喋りしながら走り、 方向音痴の猪は、アッチへ突進、こっちへ猛進しながらの走りのために、 いいスピードを持っていながら、12着ギリギリに入ってきたのでした。 結果は、前日の夜中に出発していた牛が、実は一番に到着したのですが、 ゴール直前に牛の背中に隠れていたネズミが飛び降り一着のテープを 切ったので、牛は二着になってしまいました。 それを目の当たりにした牛もさすがに「モゥー!」と腹を立てたとか。 茶助
神前へ世界の無理が溜まってる 喜柳
「平和な江戸へ」(江戸川柳を楽しむ) 「千姫」(1597~1666) 猛火落城の際、家康は「千姫を救い出した者には、千姫をとらす」と大声 で叫び、孫の救助を求めました。誰もがたじろぐなかで、紅蓮の炎の中に 飛び込んだのが坂井出羽守。彼は全身にひどい火傷を負いながらも千姫を 救出しました。しかし家康は千姫を坂崎の顔が火傷で妖怪のようになった ただとき ことから与えず、伊勢・桑名城主の本多忠政の息子の忠刻に嫁がせました。 恨んだ坂崎は忠刻を待ち伏せして、斬り付けたため切腹させられました。 恨む相手は家康と思いますが、その忠刻も間もなく病死し、千姫は江戸番 町の吉田御殿に移りました。30そこそこで未亡人になり、以後、夫を持 たなかったので、男漁りの毎日とか、賞味した男はなぶり殺しにしたかと いう噂が立ち、 振り袖で天命をしる吉田町 ―振り袖は独身の証明。天命は男たちの天命。 千姫は狂死したとされていますが、実際は忠刻の死の直後に仏門に入り、 天樹院と号し、自家の持仏堂に最初の夫の秀頼、二番目の忠刻、自分の ために死んだ坂崎の位牌を安置して、静かな弔いの日々を過ごし、三代 将軍・家光の乳母の春日局のよき相談役になり、73歳まで生きました。 男漁りやなぶり殺しは「火のない所に煙はたたない」逆例でしょう。 吉田町皆雑兵の手にかかり ―この句、千姫を詠んだとしているが、千姫が雑兵では意味が通じない。 この吉田町は江戸・本所の吉田町。夜鷹の巣窟で、彼女たちが梅毒患者 だったことから雑兵は梅毒。 憂苦界花も楽しむものにせず 佃丸 「春日局」(1579~1643) 二代将軍・秀忠夫妻は、三代将軍は次男の家光にほぼ決まっていたのに、 寵愛する三男の忠長を就かせようと画策しました。驚いた家光の乳母の 春日局は、 駿河まで行くは大きな抜け参り ―抜け参りは家人に告げないお参り。 伊勢参りと称し春日局は密かに駿河の家康を訪ね、将軍を家光にするよう 頼み込みました。これが奏し、家光は大御所から正式に指名を受けました。 将軍になれなかった忠長は自暴自棄に陥り、やがて発狂して自殺。将軍で ない方が気楽で良いと思いますが、どんなものでしょう。 元和2年(1616)、家康は75歳で波乱に満ちた生涯を閉じ、江戸を守る 目的で、鬼門の日光に「東照大権現」として祀られました。 御祭礼四十九で三十六里也 ―例祭は4月と9月。江戸と日光間は36里(138キロ)。 家康の功績は、戦争のない時代を切り開いたことで、 泰平の世は兵法も腹ごなし 虫も利も食うは御代の鎧也 ―鎧を質に入れても利子がかかると。 家康は鯛の天ぷらを食べて腹を壊し、死んだとされていますが、淋病菌が 脳に回ったという説もあります。 西に入る 月を誘い 法をえて 今日で火宅を 逃れけるかな 春日局 湯豆腐は波うちぎわですくい上げ 松鱸 慶安の変 「由比正雪」(1605~1651) 三代将軍・家光は参勤交代制を実施しました。大名が幕府に刃向かえない よう、その妻子を江戸に住まわせて人質とし、大名には在府一年在国一年 の勤務体制を採り、その往来で多額の路銀を使わせ財力を消耗させました。 この制度が、徳川幕府を長続きさせた最大の理由でしょう。 大名は一年おきに角をもぎ ―どの大名も国元には側室がいるから、江戸の正室は嫉妬で角が生え、 そこで一年おきの江戸勤務では機嫌をとったと。 また幕府の権威を示すため、約60の大名を取り潰しました。これにより 禄を失ったリストラ失業武士が巷に溢れ社会不安が増大。そこで由比正雪 と丸橋忠弥が共謀して、浪人武士をあおり立て、世直しクーデターを企て たのが「慶安の変」です。 家光の死去を合図に正雪は駿府城を、忠弥は江戸城を乗っ取り、別派は大 坂と京都で騒乱を起こすという大規模な計画でした。 正雪は江戸・牛込の寺子屋で、旗本の子弟に軍学を教えていたお師匠さん。 牛込のがっそう肝の太い奴 ―がっそうは軍学師のトレードマークのオールバックの頭。 正雪は駿河由比の染物屋の息子で、南朝方忠臣の楠木正成の子孫と自称し、 クーデターのために準備万端整え、旗までも用意しましたが、 菊水もよくよく見れば手前染め ―菊水は楠木氏の旗印。手前染めは家業と正成の子孫に掛けて、 自称だからいい加減なものと。 手筈が整ったところで仲間内から密告され、 ふてい奴江戸と駿河で捕らえられ 忠弥は、同士とともに江戸で捕まり処刑。正雪は由比で捕らわれる寸前に 毒をあおって自害しました。玉川上水に毒液を流し、江戸市民を皆殺しに する計画だったと伝わっていますが、玉川上水の工事開始は、この事件の 3年後のこと。川柳子は浮説を信じてしまい、 玉川の鮎もちっとで皆殺し 「慶安の変」の反省から、大名の取り潰しは極端に少なくなり、また幕府 が失業武士の再就職に乗り出すなど、政策変更が行なわれました。 この例を見るように意外と江戸時代の政治は、今の時代に比べて学習効果 が高く対応性にも、融通性にも富んでいたようです。 人間万事さまざまな馬鹿をする 和風 |
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茶助
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